【SS】かえりみち
比良坂・彷 2023年8月25日
>彷
「闇の救済者戦争⑭〜永久とこしえの愛を」で『自分を書き換えて』花婿のフリをして
https://tw6.jp/scenario/show?scenario_id=49541
「闇の救済者戦争⑭~幸せは匣の中なりや?」で「幸せな想い出」を壊されて、完全に自分を見失う
https://tw6.jp/scenario/show?scenario_id=49560
>橘
「闇の救済者戦争⑰〜灼滅せよ」で、彷が帰ってこないイライラをデスギガスくんにぶつけ、漸く探しに行く腹が決まった
https://tw6.jp/scenario/show?scenario_id=49777
きっちゃんが彷を探しに行って、故障したのをなんとかかんとか治す話
***
†
六道橘の同居人である比良坂彷が戻らず結局4日、うち前の3日はただただ煩悶し過ごした。
年が明ける少し前からだから、そろそろこの屋敷で共に暮らし半年にさしかかる。同居と言っても2階建てのだだっ広い洋館で、それぞれ2部屋ずつが己の城。共同アパアトで、お風呂とトイレを共有で一緒に食事をとる共同生活。若い男女の間にしばしば成立する色恋など一切ない。
橘は、彷のそういったこと女に遊ばれるを制限できる仲ではないと、煮え湯を飲んで堪えている。
堪えて堪えて、
堪えきれずにデスギガスをぶった斬りにも行った、所謂八つ当たりである。
奴はなんだかとても親切だった気がする。
彷に話したらきっと「そんなに寄り添ってくれたのに、居たたまれなさひとつなく斬って捨てるなんて、きっちゃんらしいね」とでも言いそうだ。というかオチをバラすようでなんだが後々言われた。
さて、閑話休題。
「最初からこうすれば良かったんだわ」
橘は身繕いを整え閂をおろした。その傍を赫羽根の幽世蝶が羽ばたき過ぎる。
「めい冥ちゃん、わかる?」
閂から手を放し、頬を掠め留まる蝶に指を伸べる。この幽世蝶は、彷がつい先日に誕生日プレゼントとしてくれたものだ。
「元の御主人様の居場所、もしくは彷の連れているてん天ちゃんに逢いに行くってできないかしら?」
元は蒼羽根の蝶てんちゃんと揃いだったそれは、橘の呼びかけにその場でくるりと弧を描き、明らかな指向性を持って飛びはじめた。
「ありがとう。案内してくれるのね」
橘は制服スカートのひだを翻し跡に続く。
蝶は高台にある屋敷の坂道を下り帝都の街中へ。更に迷いなく進む蝶を、橘は雑貨屋の前で呼び止めた。
深紅の瞳が釘付けされているのは、煙草を咥えるキネマ女優の横顔ポスター。画面外から見えるもう1本の穂先からのもらい火、所謂シガレットキスという奴である。
睫に彩られた瞳はうっとりと火をくれる相手を見つめている。意外なのは、都会的な大人女子ではなくて桜色の頬紅が可憐な娘であるということ。
『桜の甘く柔らかな吸い口ではじめての女性にもオススメです――』
パッケージもコスメのように愛らしく桜色に小花が散っている。どうやら新商品のようだ。
橘は意を決して店内へ。しばらくして出て来た手には桜色の匣が握られていた。
「まぁ、裏側は蒼い桜なのね。殿方も吸いやすいようにかしら」
ポケットには同じデザインのマッチ箱が3つ、宣伝にもっと持っていけと言われたが断わった。
「めいちゃんお待たせ」
再びふわふわと赫い鱗粉を散らす蝶を追いつつ煙草の封を切る。銀紙を剥がしたら、馴染みある桜花の香りがふわり散った。
「……」
1本引き出そうとする指が小刻みに震えている。
煙草は一度だけ彷から吸いかけを口元にもらったことがあるけれど、煙たくって吸えなかった。
(「一緒に吸ってみたい。さっきのポスターみたいにもらい火したり……ええ、したい」)
少し細身のそれは桜の透し入りの紙巻き、フィルターは褪めるような蒼と柔らかなサーモンピンクの何れかで、橘でつまみ取ったのは後者だ。
「………………」
そっと唇に宛がった所で噎せた記憶が蘇った。桜も相変わらず香るが煙たさも浮かんでしまう。
ひとりで吸ってもつまらない、そう手を下げて改めて周囲を見たら橘もよく知る風景が目に飛び込んできた。
(「この方角は……」)
やがて想像通りの建物が見えてきた。影朧救済機関「帝都桜學府」――みなしごの橘を兵士として育んだ学び舎だ。
「……どうしてここ?」
彷は大学生として所属しているが、余り真面目に通っているようにはみえない。むしろ高等部まで毎日通った自分の方が余程縁がある場所だ。
嘗ての自分のような女学生が吐き出される門を前に、橘は怪訝そうに首を傾げた。けれど、目の前で留まっていた蝶が門を潜り学内へと移動をはじめたので慌てて再び歩を進める。
‡
――全くの自業自得とはいえ、完全に『 』を見失った。
橘が煩悶していた初日、比良坂彷はダークセイヴァーの地にいた。
気軽に自分を書き換えては壊し、零れた破片を見ては『これが自我というものなのだろうか』と確認する。これはもうこの人生の前からの性質で、今世もこのように生まれついているのだからと、本人はすっかり受け入れている。
そして今回も『自己』を壊しに行った。
別に深刻なものではなく、彼にとっては賭場に行くのと同じ気軽な遊戯だ。
まずはオブリビオンの花婿に『自分』を書き換えて、すぐに戻した。立て続けに向かった依頼、これが良くなかった。
『幸せな記憶を壊す敵』
オブリビオンは嘘の幸せなんかに引っかかる程甘くなく、当たり前だが『橘』関連の記憶を壊された。
彷にとって『橘天』とは、どのように『自分』が壊れても『彷冥』に戻れるアンカーのようなものだ。
その根底のひとつを人質に取られたので、彷は「自分には、そもそもそんな幸せな記憶はない」と己を書き換え対抗した。
対抗は、成功した。
だが、欠落が、残った。
何もわからなくなっていた。
2、3日ほど無為に費やしたのだと思われる。
何処をどう歩いてサクラミラージュに戻ったのかすらおぼつかない。
ただ、
今の彷は“隠れ里を出る前の教祖様”だから、他の世界は違和が強すぎた。消去法的に辿り着いたのが、サクラミラージュの帝都だったのだろう。
更に居場所を求めるように背中の翼をはためかせ、向かったのは齢十七近くまで過ごした『先見教』の隠れ里だ。
黄昏の空を背に外界と隔てる鳥居を眺め内側へ身を乗り出す。すると爪を立てられたような痛みが肩に首筋に走った。
“ここにいてはいけない、外にいきなさい”
……ああ、あの子■の嘔だ。この首筋の痛みはあの子■の引き留めだろうか?
“自分を他の人に好きにさせてはだめ”
……その文言はこの隠れ里で、影朧討伐に来た彼女が口ずさんだものだ。
(「――その嘔だけに縋り『僕』を見出した。せめてあの子橘と地続きの世界にいたいと、出逢いから2年かけて帝都に出た」)
そうだったと欠片が心に降りてくる。
朱色の鳥居の頭を蹴って、彷は隠れ里を見もせずに背を向けた。
(「ああ、ああ、『僕』は、おろしたての學生服に身を包み、何処へ行ったのだっけ――?」)
『■』ではなくて『橘』
――そう思い出せた。
斯様に、あの日の
橘の嘔は、彷の精神に楔のように食い込み埋まりきっている。
禄に互いのことなど知りもせず、ましてや前世でのつながりは欠片もわかっちゃいなかったのに。
無自覚ではあったが橘はあの頃から、彷が他所の誰かに“支配”されるなんて絶対に赦していなかったのだ。
‡
即座に鳥居から飛び立って帝都へとんぼ返り、目についた安宿に腰を据えた。
金のやりとりができるぐらいには人間性を取り戻せたが、未だ『己』は見失った儘だ。
汗臭い制服を脱ぎ湯浴みすれば人心地がついた。浴衣姿で帳場に行き、夜の間に衣類を洗って干してくれと金に色をつけ頼み込んだ。
自分がわからなくても愛想笑い。ペラペラと滑り出る交渉文句にも違和感がないから、自分はそういう口が上手い男だったのだろう、きっと。
部屋に戻り布団に転がったなら3も数えぬうちに寝落ちした。
翌日、夏の日差しを受けて昼前に乾いた学生服を身につけ向かったのは、影朧救済機関「帝都桜學府」である。
時間軸的に言うと、先の橘が動きだした夕暮れの数時間前である。
未だここの大學生である彷はあっさりと構内へ。真っ直ぐ向かったのは図書室だ。ほぼ自動的に猟兵を名乗り身分証イェーガーカードを見せたなら、司書は快く使用許可をくれた。
ああそうだ。あの日も――隠れ里を出て學徒兵としてこの学び舎に通い出した日の放課後も、自分は學府の図書室ここにいた。
新学期が始まった後の編入とはいえ、まだ4月中旬で交友関係は横並び。隠れ里で身につけた如才ない物言いで、すぐにクラスに馴染めた。
だが1年遅れの高等学校1年生、橘と学年はあわなかった。
けれど問題ない。
既に彼女の行動パタアンは隠れ里に居た頃から調査済みだ。
“六道橘は、放課後は図書室で読書して過ごすか、鍛錬所にいることが殆どだ”
だから初日の放課後、彷は図書室に向かった。
あの時は目を惹く翼と花は消していた。
だから現在の彷も翼と花は仕舞い席に着いた。
「…………」
何時もの彼ならば調べ物の素振りをするぐらいは訳もないのだが、今日は適当な本を広げ、手に隠すように持った小さな鏡を覗き込むぐらいしかできない。
鏡は出入り口を映し出す。たまにちらちらと揺らして周囲を確認。
――あの時もこうやって、桜の精の彼女が映りこんでくるのを今か今かと心待ちにしていた。
2年、かけた。
必死に“教祖様”のやり方を多くの弟妹に付与し、主に長兄の私利私欲に取り入り利用した。次兄と父の歓心を買い『先見教』が崩壊せぬようバランスとりにも細心の注意を払った。
そうして得た『自由』だ。
これからも『先見教』への帰属は続くとしても、あの子と同じ世界に生きられる。影ながらあの子への助力を欠かさずにいられる。
(「姿を現わすつもりは毛頭ない。そもそも一言二言交わしただけの男が接触して、なにが良いことあるものか」)
嘔を支えにしているのは自分の勝手だと、当時の彷はわかっていた。だからこのように秘めやかな手で彼女の姿をひと目見ようとしていたのだ。
そんな風に、彷の心に当時の己の『心の彩』がぶちまけられる。
「………………」
現在の彷は6年前の待ち焦がれを思い起こしながら俯き黙りこくっている。
――ここに、あの子橘は、こない。
青い箱がそう言ったから。
“橘は俺に出逢っていない”という欺瞞は解き明かされた。だから「橘は17歳にはなれず、戦場で死亡した」という事実だけが残った。
「………………」
ああ、外には希望・・なんてなかったんだ。
……6年前のあの日、陽が落ちるまでずっと図書室にいたけれど、あの桜を咲かせた娘は現れなかったんだ。
俺が橘に逢ったのは互いに14歳だった一度きり。
だから未来である今日に、23歳の橘がここに来ることはない、絶対に。
「………………」
やがて陽は傾き、茜色が窓から明け透けに入り込んでくる。
放課後になり様々な學徒が行き来するも、黒髪に桜花を咲かせた彼女は現れない。
睫を伏せてじっと鏡を凝視する彷の傍らには、何時しか蒼の幽世蝶がひらりひらりと鱗粉を零し瞬く。
――その時、セーラー服に小豆色のタイを結んだ娘が鏡に映りこんだ。
「…………え」
髪は短く肩で切りそろえられていて、制服も記憶とは違う。随分と大人びているが、剣呑に斬ったような真っ直ぐな眼差しは間違いなくあの子橘だ。大人びているのは当たり前だ、あれから6年経っている。
鏡に触れる指がガタガタと震えた、あわせてブレるあの子の像は誰かを探すように見回している。
ひたり。
鏡越しに、目が合った。
ばたり。
手にした鏡が滑り落ちた。なので彷には橘の表情はわからなかったのだけれども、実際の所は心から安堵していたのだ。
†
橘が、赫の幽世蝶に導かれ辿り着いたのは學府の図書室だ。煙草を右手に握り込んだ儘、利き腕で司書にイェーガーカードを見せ入室し彷の姿を探す。
(「ここにいるのは確かなのよね
……?」)
赫蝶はお役目は果たしたと肩に止まり羽根休め。なので自力で探すしかない。
放課後の図書室は橘に強い懐旧を呼び覚ます。
戦場に動員されていない時は、放課後はここか鍛錬所にいるのが常だった。
戦場で血に塗れ、時に秘めやかな通り魔を斬り捨てることで血を浴びて、その時に浮かぶ『前世の兄』に傾倒し追いかける――その気が外れた逸脱者である彼女が、ただの少女に戻れたのがこの場所だ。
当てるのが下手くそでも探偵小説が好きだし、恋愛のときめきは元より人々の人生の綺羅は全て文芸書で知った。
……自らがそのような人生の彩に身を置くことは諦めきっていたけれど。高等部の頃は人間関係も本当に佳くなかったからなおさらに。
ページを繰っていたらいつしか茜色に染まる、完全に読むのに苦心する程に染まったら、それが寮に帰る合図だ。
そんな思い出の場所に、何故彷がいるのか?
大人しく読書したり勉強する學生らを邪魔せぬように、橘は静かに歩き周囲を見渡す。
「……?」
インバネスコートを隣の椅子に置き身を屈める男子生徒に目を惹かれた。翼どころか花もない、だが焦げ茶の髪とややなで肩の後ろ姿には既視感が強い。
橘は足早に彼の元へ近づいていく。
あと3歩と言うところで染みついたヤニのの臭いがして、ほっと頬が緩んだ。
肩に止る蝶が飛び立ち、一足先に相方の蒼蝶の元へ飛んだ。これはもう確定でいい。
「彷」
ぴくりと釣られるように背が伸びて引き攣った。怖々と振り返る所作が引っかかったが橘は一気に距離をつめる。
「4日間も帰らないから心配したのよ」
咎めるような第一声に橘自身がマズいと焦る。だが当の彷は瞳を見開き唇を戦慄かせるだけだ。
「…………なん、で」
漸く絞り出された言葉に橘は胸が詰まった。
「ごめんなさい、押しつけがましい物言いで。いい大人だから詮索するべきじゃないわよね……」
こうなるから探すべきではなかったのだと、橘の心で弱虫がもぞもぞしだした刹那、彷は花の咲かぬ頭こうべをゆする。
「なんで、橘が……だって、いないはず……」
「? 誰がいないというのかしら?」
怪訝さに、今度は橘が瞳を丸くした。
「きつ」
「わたしが? 何故?」
「……りくどうきつ、さん、は、14で出逢った後、戦場で亡くなった
…………」
辿々しく名を呼び続けて吐いたら胸がねじ切られるように軋む。彷の掌は胸に宛がわれ眉根は苦しげに寄った。
“漸く隠れ里から外に出たあの日、この図書室で『僕』は2年前に出逢ったあの子が訪れるのを心待ちにしていた”
『幸せな記憶を壊す』
壊されたのは――……“隠れ里から外界に出て久々に橘と逢った(ただし一方的に)”記憶だ。
それは、もう、生きてきて5本指に数えられるほどに幸せな『記憶』
2年間、外界と隔てられた宗教の檻の中で、ずっとずっと焦がれ夢見ていた。
やっとの思いで隠れ里を出た。
ひとめで良いからと願って止まない姿が訪れるのを、今か今かと待ち続けた。その時間すら心が沸き立って仕方がなかった。
そして鏡に橘の姿が映った時には、感無量で心臓の鼓動が跳ね上がり壊れるかと思った。
その記憶が、壊されている。
「わたしが死んだ?」
流石に橘も彷の異変に気づく。
「彷」
身を屈め花の咲かない左耳に鼻先を寄せる。毟られたようではないのなら意図的に消しているのだろう、見た直後は非道く腹立たしかったけれど、今は理由が気に掛かる。
花ある位置を掠めるように触れ、正面にまわりこんで覗き込む。いつもなら不貞不貞しい素振りの博徒が形無しだ。
「わたしは生きてるわよ」
「……」
言い切れども彷はぎゅうと鏡を握り込み項垂れるだけだ。初めて鏡の存在に気がついて、橘は隅っこを指でつついた。
「この鏡は?」
「見ていたの」
「誰を?」
「放課後にくる六道橘さんを。でも、来なかった」
彷、さらりとストーキングしていたと自白する。通常であれば絶対にしないようなミスだ。
「わたしを見ていたのね」
例え今の想い人からであれ秘密裏な監視は気持ち悪い話だろう。しかし生憎と橘にそのようなまともな神経はない。彷からの執着はなんでも悦んで受け入れてしまう。
「放課後って、随分昔よね? そうなの……そうだったのね……」
故に頬を染め胸がキュンとなり早鐘を打つ。心の儘に「嬉しいわ」と言ったって彷は俯いた儘だ、もどかしい。
「多分、いいえ、絶対にわたしは来ていたはずよ」
それほどに日参していたと鏡を撫でて言葉を重ねても、力なく頭を振るだけだ。
埒が明かない。
橘は右手に握りこみ隠していた煙草を彷の口元に宛がった。彷は餌をもらう雛鳥のようにそれを咥えはした。以後無反応なので、橘はポケットでカラカラ揺れるマッチ箱をつまみだす。しかし着火は流石に司書の咳払いで阻まれた。
「! ……ご、ごめんなさいっ」
何処の世界の図書室が喫煙を赦すのか。当然の咎めに橘は平身低頭で謝罪する。その間も彷は煙草を咥えたままで茫洋と視線を彷徨わせるのみだ。
「彷、行きましょう。お騒がせして本当に申し訳ありませんでした」
ぐいっと手を握り立たせる。そして畳んだインバネスコートを反対の腕に下げて、橘は彷の手を引いて早足で出口へ、彷も逆らわずについてくる。
‡
「――」
ちりちりと桜の花の元で白い花飾りが揺れるのを、彷は猫の仔めいた視線で追いかける。
唇にもたらされる感触は慣れた煙草の形をしているが、この香りは初めてのものだ。
橘は真っ直ぐに棟の端まで進むと非常口をあけ放つ。そのまま吹きさらしの非常階段へ彷を連れ出した。
「ここなら吸えるわ」
ごそごそとポケットをまさぐる指をふと止めて、尖る朱で男の左耳の上を射貫く。
「ねえ、どうして花を咲かせないの?」
くるくると己の桜の元を巡る指先を見てから、男は自身の同じ場所をつかむ。何時もならここに大輪の白花が咲いているが今は消している。
「あの日は羽根も花も消していたから」
「……それはいつのこと?」
猟奇探偵からの鋭い投げかけに、彷の心の残骸が指向性を帯びてくる。
「――……16の終わり、學府に入学した日」
あの日これ煙草は吸っていなかったと、口元の白に指を沿わせる。橘は外させないとその指に触れて、二の腕から肩を撫でて左耳の上を擽った。
「ここの花、あなたはわたしに下さったのよ」
“想うはただひとり”と囁いて。
「ほら、これも……」
橘は自分の桜の下に白彼岸花の髪飾りをつけている。つい先日の誕生日に目の前の男からもらったものだ。
「赫の蝶と一緒にくれたでしょう、この間の5月7日のことよ」
ねぇ思い出してと促すように左耳の上の髪を擦る。わたしにくれた花を“わたしの寵姫”ってシルシをちゃんと咲かせなさいと。
「5月、7日……」
「次の日はあなたの産まれた日よ。わたしはこのインバネスコートを仕立ててあなたにあげたの」
橘という赤子が生じた時に身を包み一緒に育ってきた桜織布を切り縫いあわせた。やや不格好になってしまった部分は指で触れ念じて整えた。
恋人でも夫婦でもない、契約関係を交わしたわけでもない、2人の間にはなにもない。だから橘は常に不安で、自らの分身めいた桜織布を押しつけた。
なんて重たい女。
けれど、贈ったら彷は喜んでくれた。
……重たさはお互い様だと自らに言い聞かせるように、彼の花を模した飾りにちりと触れる。
「え……」
コートを広げ持つ橘を前にして、彷は双眸をぱちりと瞬いた。
確かに、もらった。
特別な物過ぎて畏れ多いと口にした、筈。
「……」
そして2色いた幽世蝶が減って……いいや、違う、16の終わりはまだ蝶は連れてなんかいなかった。だって猟兵になったのは二十歳を過ぎてからだ。
「なんで、待って……」
きおくが ふえた。
「あの日、六道橘さん、は、来なかった。既に亡くなっていて……」
「わたしは生きているの!」
怒号に竦みあがる。
彷の脳味噌がくらくらと酔ったように揺さぶられた。
「……じゃあ、俺なんかとは逢わなかったんだ、図書室には来なかった……知り合ってない」
2つに増えた記憶の辻褄を合わせる為に、彷は更に自分をペテンにかける。
そんな彷の有様に業を煮やし、橘はインバネスコートを肩にかけ羽織ると腕を伸ばした。久しぶりに身につけた産着は既に彼の煙草が染みて、ああなんて愛おしい。
「ちゃんと逢ったわ。16からさらに数年後だけれど、だってあなたが姿を現わしてくださらなかったんですもの……!」
橘が掴んだ肩は痩せて薄くなっていた。下手をすれば数日ロクな物を口にしていないと見て取れてますます焦燥が募る。
「誰が言ったの?! “六道橘”が死んだって。誰があなたを騙したって言うのよ?!」
ガクガクと揺さぶられた彷は茫洋とした口ぶりで呟きを落した
「…………青い、箱」
呆然と開いた唇は橘が理解不能な単語を吐き出した。そうして彷はぱたりと思考を止めて瞳を覆った。
「青い箱が、壊した。幸せな想い出を……ひと目逢いたい。この世で一番生きていて欲しいひとは、もういないって。いない……いない
…………」
「おれが、ころした」
青い箱に壊されできた罅割れに、前世の呪いが染み込む。
橘は、そんな彷を前にして一気に頭が煮える。
苦悩に陥る嘗ての兄を、言葉で寄り添い慰めてなんてできない。自分は上手に導けない。
――わたしは、彷兄さんを救えない。
「! 莫迦ッ……」
この科白は不甲斐ない自分に向けてだ。咥えさせた煙草を奪い取りグチャグチャに握りしめる。
生きている自分を見てくれない兄に腹が立つ。けれどそれを遙かに上回り自分を投げ出してしまいたい衝動が満ちる。
「…………莫迦ね」
そう呟いて、吹きっさらしの非常階段から後ろ向きに身を投げる。
この世界ではなかったあの日のように、自らを投げ捨てる。
「――!!!」
彷の赫い双眸が見開かれた。不定形の揺らめきはより深く熱く煮えたぎり、感情と己の有様を吹き出した。
声にならない悲鳴と共に鉄の床が激しく叩かれる。警笛めいたそれは最後にひときわ強く割れ、だが激しい羽ばたきにかき消された。
疵のない一対の大きな翼が彷の背で開き宙を叩く、何度も、何度も。
そうして必死に桜のはなびらを散らしインバネスコートを翻し堕ちていく女へ、必死に手を伸ばす。
「……彷」
女は、風に炙られ引力に引きずり落とされる中で腕をあげる。すると即座に掴みとられた。
「莫迦だ! ホント天は莫迦だ! もう橘お前は飛べないのに……天お前だってあの時飛ばなかったくせにッ」
ギリギリと食い込む指からの痛みに橘は花のように笑った。期待していなかったかと言えば嘘になる。今世の兄は絶対に自分を追いかけて救ってくれるって。
「彷冥、おかえりなさい」
そう囁いたなら、目の前の男は双眸から大粒の涙を落し唇を震わせる。
「なんでまた目の前で飛び降りるの……? 俺はもう堪えられない。非道い、非道いよ……なんで、なんで
…………」
羽ばたきを止め風を孕み膨らむ翼の元で哀しげな声が反響する。
纏わり付く大気はゆるりと上へ流れ、二人が死なぬ速度で落ちているのだと知らせてくる。
子供のような泣き顔に橘の良心がズキリと痛む。これはとても卑怯なやり方だ。現に泣かせるまでに傷つけてしまった。けれどその裏側では醜い欲望が歓びの声あげてもいる。
“わたしは彷の中で、失いたくない大切な存在なのだ”って。
柔らかに足裏が地面を踏んだ直後、彷は振り払うように腕を解くと当たり散らすように背を向けた。
珍しい。こんなにもこの男が怒りを露わにするなんて。ましてや橘に向けて。
「わたし俺は死んでいないわ、だからいま救えたのよ」
取りなすつもりが居直った生意気な物言いになってしまった。
「わかってるッ……」
返るのは拗ねて尖った声だ。橘の不器用さを呑み込んでフォローする彷にしては珍しい。
悔しいけれど、橘の取った荒療治は大正解であった。トラウマを突き刺す飛び降り・・・・なんてものを突き付けられたら、見失った『己』も飛んで戻ってこざるを得ない!
膨れ面でゴソゴソとポケットを探る。けれど、精神安定剤であり自分でも扱いきれない露わな感情を隠すに長けた煙草は入っていなかった。
何時から吸ってなかったのだっけ?
唇をなぞれば先ほど咥えさせてくれた感触が蘇る。未だ背を向けたままで、彷はぐいっと掌だけを橘側に向けた。
「煙草、持ってるんでしょ? さっきの奴、頂戴」
驚いた猫のようにまんまるに瞳を見開いた後で、橘はずっと握りしめていた拳を解いた。そこにはよれよれになった白が1本。フィルターについた薄紅が却って目立つ羽目になっている。こんなものは渡せないと懐に手をやる橘。その仕草を悟って彷は半分だけ顔を見せて拗ね声を響かせる。
「それがいい」
「でもぐしゃぐしゃよ?」
「いいのっ」
完全に振り返り顔を前に突き出す彷に白い花が咲く。そんなことをされたら、橘は言うことを聞かないわけにはいかない。
よれよれの白をつまみ乾いた口元にフィルターを近づける。
「火、あるんでしょ?」
ぱくり、と咥え取った男は、そのままの態勢で続けた。
「……どうしてそう思うの?」
「だって吸おうとした痕跡あるし」
一旦外してひっくり返し、紅のついたフィルターを見せつける。その所作に、橘はカァッと頬を赤らめた。
わかっていたくせに、今さら間接キスを強要したのだと自覚し照れたのだ。
(「わ、わ、わわわ、わたし、なんてふしだらなのかしら……ッ」)
「や、やっぱり返してっ! 火はあるわっ、あと新しい煙草もあるからっ」
「やぁだ、これがいい」
そんな乙女心を知ってか知らずか、彷は意地悪く唇の端を持ちあげて再び咥える。
――はい、間接キスもう1回。
ずふずふと音がしそうだ。恥ずかしさで焦げつく橘へ、彷は一言「火」とだけ呟きねだる。
むいっと唇をへの字にして、橘は取り出したマッチを擦って呼び込んだ炎を穂先へと差し出した。
ジジ、と啼く合図で火を受け取ったと知り、彷は吹かす。肺腑に落ちるのは初めての香りだ。
華やかで甘い桜の香り。唇から外し改めて眺めれば、桜の透しが入っている。
「これ……」
「新製品ですって。甘く軽やかな吸い口で、女性にもお勧めですって売っていたのよ」
取り繕うようなすまし顔で橘が取り出したのは蒼い方のフィルターだ。
「吸うの?」
「…………少し興味があるのよ。宣伝ポスタアがとても素敵で、そのこう……」
煙草と煙草を近づけて見せれば、彷は察したように片眉を持ち上げる。
「シガレットキスかァ。また初めて吸う人にハードルが高いことを」
好きな男の口から“キス”と言われ、橘は頬を押さえてフラフラする。刺激が強すぎるのだ。
「ほぉら、飛び降りなんてするから罰が当たったんだァ」
「うるさいわね。だったら手間かけずに帰ってきなさいよ! 後で『青い箱』のこともちゃんと聞かせてもらうんだからっ」
憎まれ口を睨みつけて、橘は蒼いフィルターを唇につけた。白い感触に戸惑い、まだ煙草の胴体から指を離せずにいるのを、喫煙者の男は視線で呼び寄せる。
「……どうすればいいのかしら?」
「もっと此方」
黄昏の赫い輝きの中では蕩ける鉄色の双眸も穂先も同じ色をしている。橘の真っ直ぐな紅の双眸も、そして想い人のそばで赤く火照る頬も上手い具合に紛れた。
彷の折れた煙草はそろそろ吸い終わり。1.5本分の長さしかない至近距離に、橘の鼓動が跳ね上がる。
「ほら、もっと近く。火が当たらないと移せないんだから」
すっかり調子を取り戻した彷は制服の肩に手を置き引き寄せた。
「!」
こつん、と、煙草同士が当たる。唇に跳ね返る僅かな刺激に橘の背が引き攣り身じろぎする。恥ずかしさで離れかけた身は、しかし肩を抱かれ叶わない。
それで、いい。くっついていたいのが本音だから。
「――」
近すぎる容で彷はすっと半分だけ瞼を伏せた。色香たち上るこの表情は、そっくりだった自分には出来ないものだ。だから橘は魅入られる。
彷の咥えた煙草の先が赫く燃えあがった。だがあわさった橘の煙草はほんの少し巻き紙を焦したに過ぎない。
戸惑い俯く娘は、煙草の火の付け方すら知らないのだ。
「煙草は吸わないと火がつかないよ」
「吸う、の?」
「そ。火が近づいたら吸うの。じゃあ次は肩を叩いてタイミングを知らせるから――」
むぃっと唇を曲げる橘に彷は首を傾げる。
「吸ったら煙たいじゃないの」
「…………」
ぷはっと、素で吹き出してしまった。勢いよく吐かれた煙を慌てて手で払いつつも、笑いは止まらない。
「くくくっ……そりゃあ煙いよ。煙草は煙たさを楽しむものなんだからさ」
そうしてひょいっと橘の口元から蒼フィルターの煙草を取り去った。
「! ちょっと、それはわたしが……ッ!」
「煙たいの嫌ならダメダメ。煙草なんて無理して憶えるもんじゃァないよ」
あっと瞳と唇をひらく娘の前で、彷は吸っていた煙草を落して地面で躙る。そしてすかさず橘が先ほどまで咥えていたのを口元へ。
すると橘の頬が黄昏で誤魔化せないぐらいに赤く熟れた。
ごくごく自然に間接キスされた。しかもたった今まで咥えていたので! 乙女心がもう限界突破で大変なことになっている。
「? 火ぃ、頂戴よ」
ぺいっとマッチを投げつけて、今度は橘が背中を向けて顔を覆う番だ。
この男、わかっててやってるんだろうか? だとしたら乙女心、散々に弄ばれている!
……わからずだったら脈なしだ。それは乙女心がとてもせつない。
(「脈なしだから無邪気なのよね、きっと……」)
せつない。
そんな橘の気も知らず、慣れた手つきでマッチを擦って煙草に火をつける。
「ねえねえ、この煙草さぁ、どこで買ったの? カートンで買いに行く。あ、まだ匣に残ってるなら頂戴よ」
燻る煙は馴染みのよい桜の香り。大気に融ければ心地よくて、橘はくんと鼻を鳴らしてからポケットの開いた箱を彷へ差し出した。
「通り道の煙草屋さんよ。帰りに寄りましょう。お気に召したのかしら?」
赫と蒼の蝶がじゃれるようにひらめき進み出したのは校門の方だ。二人もそぞろ歩き出す。
「そりゃあね、だって橘が選んだ銘柄だから」
その物言いは橘にとっては気に障る。まぁ! と眉を吊り上げ、
「自分の好みに……」
抗議の科白はそこで途絶えた。
煙草を指に引っかけた彷は真顔だ。その中には、懐くような甘えるような……縋るような綾が織り込まれている。
「帰り道にしたいの。橘が選んでくれたから」
『自分』がわからなくなった。
壊された幸いを前にして、絶望に暮れていた。
「……迎えに来てくれて、ありがとね」
けれど、この世界ではひとりぼっちじゃあないのだ。
それが彷比良坂の巫女にはどれほどに心強いことか。
「嬉しかったの、すごく」
人通りなく、だから隣を歩く手を彷は握りしめることができた。
橘は、絡めた指を握り返してやった。
「すぐに戻れなくてごめんね。でももうちゃんと香りと味を憶えたから、橘が俺を取り戻す為にくれたこれの」
唇から外し誇らしげに翳すフィルターには橘が刻んだ紅が色づいている。それが、女の心を満たす。
恋かどうかは相変わらずわからない。
けれど、この男はわたしのものだ。
大切な、わたしだけの寵姫。
「心配したんだから……いいわ、これはお守りよ。あなたに吸って欲しくてわたしが選んだの。本当は一緒に吸いたかったんだけど……」
唇を尖らせてポケットから取り出した桜色の匣を差し出した。またひとつ、二人の間をつなぐ物が増えた。
――そうやってもっともっと増やして、離れられなくなりたい!
「でも煙たいのは嫌なんでしょ?」
自分より細い橘の指先から洒落た匣を受け取り懐に収める。斬れ味を思わせる蒼も、無論桜色も、どちらも橘っぽくて彷は甚く気に召した。
「そうよ、喉がむわっとするのよ」
むずがるような物言いが妙に愛らしくて吹き出してしまったが、睨まれて笑うのを止める。
学生達の気配がする校門へとさしかかる頃にはつないだ手は解かれていた。
然れど、纏う煙が双人をつなぐ。これはそうそう切れない絲だ、切ろうにもつかみ所なんてない煙なのだから――。
〆
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