花燭と過ぎたる影
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柔らかな微睡みに包まれていた。
自分と、誰かと、世界との境界が曖昧な意識。
夢と現実の違いもよく分からない。
さながら水に揺蕩う花びら。
それが今の斑鳩・椿(徒花の鮮やかさ・f21417)だった。
けれど、そんな斑鳩の銀髪を撫でる指先があった。
僅かに眉が動くが、開くことはない。
意識は柔らかすぎる眠りに落ちるばかり。
――誰の手だろう。
あの昔の夫の筈である訳がない。
美しい銀の髪を梳くように撫でる、この骨張った手は恋人である彼のもの。
愛しきひとが触れる感触に、斑鳩の意識は更に深く沈んでいく。
見たい。話したい。触れたい。
そう思いながらも感じる安息と温もりに、深い眠りへと蕩けていく。
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斑鳩が目覚めたのは暫くしてからだ。
傍にあった温もりが消え、冷たさを感じたからかもしれない。
「……あら?」
彼の眠る筈の場所へと手を這わせても、指先は何も掴めない。
共にひとつの布団で寝ていた筈。
確かに彼の残り香は漂うのに、冬の朝は温もりを奪ってしまっていた。
斑鳩はうっすらと瞼を開き、そういえば山へと行くといっていような、と思いだしていく。
「……ひとり寝ていても仕方ありませんね」
誰に云うでもなく囁き、布団から起き上がる斑鳩。
布団の周囲に散らばった浴衣を拾い上げていく。
まるで脱ぎ捨てられたような散らかり方は、斑鳩という淑女を知るものからすれば首を傾げるだろう。
だが、宵の熱情に身の内側が焼かれれば衣が邪魔となる時もあるのだ。
「あら?」
ふと気づいたように斑鳩が首を傾げる。
普段ならば絶対に気づかないような処に、跡がある。
艶やかな肌、乙女の肢体が秘める柔らかさと曲線美。
着物に隠され、覆われる筈の場所に花を啄むような唇の跡があった。
着物をずらさねば見えない肩や腕。細やかな腰と柔らかなラインを描く臀部。乙女としての実りを示す果実めいた胸にも。
肩から腕を優しく愛撫された事を思い出す。
あの骨張った手がさわりと撫で、唇が続いたのだ。
繊細な絹のような髪と肌。そして触れれば逃れることの出来ない柔らかな乙女の肉付きを、彼の指が味わう。愛の情念と欲で触れられていると、斑鳩の身体がざわついたあの瞬間の鮮やかな感覚。
紅い眸が許しを求め、斑鳩がこくりと頷けば腰へと這わされる唇と舌。そのまま臀部へと下がっていきながら、斑鳩の艶やかな肌が愛おしいと云う、あのひと。
狐の尾もまた柔らかく、あの硬く骨張った指が解きほぐすように撫でてくれた。
あのひとは斑鳩の全てを抱きしめてくれた。
外も中も、身も心も。
熱情で理性が崩れる悦び。愛というものは全てを越えて、女と男を満たしていく。
そんな愛しいと囁き合った彼の唇の跡が幾つもある。
蜜を啜ったと告げるように、消えない印を残していた。
これは自分の花なのだと。
アナタは、オレの寵姫なのだと。
「もう、あのひとは……」
すぐに隠され、誰も気づかない事となるだろう。
いいや、ふたりだけの秘めることだろうか。
ゆっくりと浴衣を纏い、美しくも楚々とした巫女の姿をとっていく。
夜の艶やかさは、熱を孕んだ眸は、甘く蕩けた声は、跡の残された肌と共に隠されていくのだった。
愛しい気持ちは、隠せる筈もないけれど。
ふと、斑鳩が首を傾げる。
あのひとが山にいくというのなら、それは狩りだろうか。
「獲物が鳥やうさぎなら良いのだけど、熊なら困ってしまうわね……胃薬を用意しましょうか」
たくさん食べて、たくさん眠る、あのひと。
もしもであっても、困らせることがないようにと斑鳩は記憶を辿り、箪笥の奥にある薬箱を取り出し、中身を漁るのだ。
斑鳩の苦い記憶の蓋も、また同時に開いてしまったけれど。
「薬なんて久しぶり……」
指先で色々な薬を探りながら、斑鳩が呟く。
「……毎日たくさんのお薬を飲まされていた以来かしら」
和紙に包まれた薬は、本来使う必要のないものが多かった。
どうしてこんなものがと問うものがいても、可笑しくないほど。
「これは飲むと何も考えられなくなる薬、眠くなる薬、孕まないようにするお薬だったかしら」
こんな危険なものをどうして斑鳩は持っているのか。
いいや、飲まされ続けていた過去とはどんなものなのか。
愛しいあのひとではなく、かつての夫の姿が浮かぶ。細身だけれど暴力が好きで、忘れ去りたい記憶となってしまったひと。
なんとも苦い。薬ではなく、毒として苦い。
悪い薬なんて、口に甘いものだというけれど、それは経験していない者が云う言葉。
罪の甘さと苦さを語れるのは、傍観者ではないのだ。
探偵に罪咎を示すことは出来ても、その内情までを語ることは許されないように。
「……あった、これで良し、と」
斑鳩はもはや帰らない夫に、微かにも思いを曇らせることのない。
薬は見つけたと小さく、適量に包み直して懐に収め、ゆっくりと畳の上を歩いて行く。
障子をあければ部屋に入り込む朝の日差し。
張れた冬の空はなんとも美しく、冷たいからこそ澄み渡っている。
「素敵な空のいろ……そうだわ」
何かを思いついたように、花が綻ぶような微笑みを浮かべていた。
軽やかな足取りで箪笥の前へと戻り、着替えを始めていく。
色づいた肌を覆う襦袢は今日の空と同じような薄青色。
地味な地味な象牙色に松は、あなたを待つという意味を持つもの。
腰へとゆっくりと巻いてゆく帯は、彼の瞳と同じ紅。
「……重い、かしら?」
首を傾げてみせるが、愛しいひとの為に身を飾るは乙女の常。
夢を見るように着飾り、美しく慕情を示す。
例え重いものであっても、優婉なる夢の姿として傍に寄りそう女の姿に、幸せを感じない男はいないだろう。
「まるで誘っているかしら?」
ふふふ、と微笑む斑鳩はその姿を以て情愛を語るのみだった。
はて、これほど愛情を知る女が、かつてとはいえ夫の事をこれほど無かったものとして扱うだろうか。
けれど、それを問うことは誰も許されないのだろう。
斑鳩が寄り添う彼、以外には。
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斑鳩は顔を浄めて鏡台の前へ。
化粧は日課て嗜み。
いいや、男へと美を捧げる花の務め。
着物のひとつに愛情を宿すなら、貌を飾ることは忘れない。
粉をはたき、塗り、小さな唇へと紅を差す。
優美なる淑女の貌がそこにはある。
だが、ふと鏡を見て口を開き、閉め、また開いていく。
「…浮腫んでいる? 歯は…悪さをしていないようだけれど」
気になったように、じっと鏡を見つめる紫の眸。
「外から見ても奥歯が折られて数本無いなんて分からないし、大丈夫よね」
そんな事、分かる筈がない。気づくことなんてない。
なんて、ある訳がない。
それほどに傍に居続ける相手なのだ。
愛しい互いを見つめ合い続けているのだ。
あの紅い眸に、美しく映り続けたい。
胸に浮かぶ何かを振り切り、斑鳩は鏡の前で笑顔を作って、銀色の髪を結っていく。
左の薬指につけられた、白金の指輪もまた磨いて付け直す。
まるで巫女が誠実なる祈りを捧げるよう、両手の甲を合わせて、目の前に掲げる。
「……今日も変わらぬ恋心を」
呟いた唇を、白金の指輪に落とした。
つぅ、と紫の眸が細まる。
みたくない過去の影が過ぎ去ったからこそ、今の幸せを見つめ直すのだと、双眸が危うげに揺れる。
「ふふ……昔、踏み折られたのが右手指で良かったわ」
僅かに、だが、確かに歪んでいる右手の薬指を見て斑鳩は微笑んだ。
はて。この部屋に関わる者に暴力の絡むものない筈だが。
少なくとも、今に生きるものには、斑鳩に暴力をはたらくものなど。
いる筈がない。いてはならない。
だから、消えた。
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「さ、軽く朝食を摂ってお掃除を始めなきゃ」
影を払ったように、銀色の長髪と尾を揺らして斑鳩が家の中を進む。
どんな過去を歩んだとしても、斑鳩の気質は穏やかでお淑やかで、照れ屋だけれど甘やかすことが大好き。
悪戯だって、ひとを喜ばせるようなものの方が好き。
「きっと彼は泥だらけで帰ってくるでしょうから夜はお風呂の準備……と、胃薬も忘れずに……」
山から獣の肉を取ってくるだろうから、ちゃんと料理しないといけないと、調味料や香辛料を確認していく斑鳩。
「……あのひとはお腹が頑丈だから必要ないかも」
箒の位置を確認して、暖かい湯を張る浴槽も綺麗に磨いて。
ああ、あそこもちゃんと整えましょうと家事の段取りを楽しそうに確認する斑鳩。
まさに愛し、愛される花嫁の姿だった。
生来を誓い合った相手へと溺愛にて尽くす女の笑みだった。
幸せとは自分が決めるもの。
なら、今の斑鳩は幸福で満たされている。
共にあること、共に生きること、少しでも尽くして甘やかし、恋慕をひとつ、ひとつと束ねていくこと。
自分で選んだことなのだ。
斑鳩と彼が、その手で掴み、そして汲み上げたのがこの幸せな和風の平屋。
優しい慈悲と救いの輪廻を巡らせる幻朧櫻が、変わらず咲き誇っている。
はらはらと、はらはらと。
どんな過去も、痛みも、洗い流して届けましょうと。
優しすぎるその色に、斑鳩はふと瞼を閉じた。
ああ、ならこんな独白も許されるかしらと、唇を微かに動かす。
――ある日、飲んだふりをして溜めていた私の薬を粉にしたわ。
飲んだふりなのだから、溜めていたのだから、粉にしたのだから。
それは計画的で作為的なもの。
狙ったやった。絶対に間違えないという意志と感情がある。
――そして、夫の食事に混ぜ込んだの。夫は寝付いて、帰らぬ人となった。
こくりと首を傾げてみせる斑鳩。
ね、と誰かに、優しい誰かに問い掛けるように。
――まあ……病死みたいなものよね?
妻に薬を飲ませるならまだ分かる。
が、身体を害するなら毒としかいえまい。
それを飲ませ続けていたというのなら、夫は明らかに可笑しい。妻に飲ませるものではない。
与えたものは、帰って行くのだ。
そのままでは斑鳩の身体に溜まっていただろう
毒が、ただ元夫へと巡り帰っただけ。
死ぬ筈はない。死ぬようなものを与えていない限り。
そして、死ぬようなものを妻に与えるものは、夫とも言えまい。
――だから、誰も悪くないように……病死みたいなもの、といっていいわよね?
窓の外で舞い散る優しい幻朧桜が、何と囁くのか。
斑鳩には分からない。
――だからわたしは強くて優しくて元気なひとがすき。
だが、過去はこれまで。
誰がどういっても、斑鳩の夫は消えたのだ。幾度、過去の話をしても仕方ない。
前を見よう。
勝手に繋がれた相手ではなく、愛しいと手を取り合った彼と、掴み取る今日と明日がある。
それだけで十分。
「ああ」
恋と愛は、これほどに乙女を美しく飾るのか。
吐息さえも艶やかに色付き、甘い香りを纏う。
「はやく、あのひとが帰ってこないかしら!」
過去に歪められた右の薬指を撫でた。
今日はこの指に触れて欲しい。愛して欲しい。
重い女だと思われても、あなたの紅い眸に私は咲き誇るように映り続けたいから。
あの骨張った指と絡めながら、身を重ねたい。
心を蕩かせて、結び付けたい。
紅い運命の糸は何処はもうふたりの間に結ばれているのだから。
成功
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