●享楽の園
闇が広がる世界の片隅。
人知れず湖底に沈んだ都市があった。
水の底に眠る地は生きるひとが絶えて久しい場所だ。其処に揺蕩い泳ぐのは魚と、水面から降り注ぐ幽かなひかりのみだった。
しかし今、水底の街は或る吸血鬼の手で、あらたな匣庭に変えられていた。
街全体が舞台そのものとして塗り替えられた其処は巨大な魔力の泡に包まれており、空気が満ちていた。そして、其処にはかつての栄華の面影がわずかに見える。
薄暗い路地や広場、仄昏い教会。
繁華街や歓楽街だったらしい廃墟郡。
されど何処にも生者はおらず、吸血鬼の力によって呼び寄せられた数多の亡霊が彷徨う場所となっていた。
この街に沈み、死した者の亡霊達は密やかに教会に集い、ひそひそと話しはじめる。
――グランギニョールがはじまるよ。
――愛に満ちた残虐劇の幕がまたあがるね。
その声に重ねるように瑠璃羽の小鳥が囀り、街中に歌を響かせた。亡霊の囁きと瑠璃鳥の聲を聞きながら、舞台劇『享楽の匣舟』の座長、ノアは薄く笑む。
昏い街の中、或る屋敷内の庭園。
其処に佇むノア。
傍には黒の人魚が寄り添っており、忘却を齎す歌を紡ぎ続けていた。
「歌え、私の歌姫《エスメラルダ》よ。今宵の演目を響かせろ、瑠璃の鳥達よ!」
彼の言葉の後、人魚の歌聲は都中に広がる。
歌は瑠璃羽の小鳥達によって伝播され、呪詛となって響き渡っていく。
「この地を私の……いや、私達の劇場として喚起させ、歓喜に満ちさせよう」
ノアは手にした黒鞭を撓らせて鳴らした。細めた双眸には果てた都の光景が映り込んでいる。其処は今、彼にとっての舞台。
愛は憎しみに、正しき行いは悪事に、信頼は疑念に。そして、生は死へ。
さあ、命を賭して殉じ、演じてみせよ。
静かに、それでいて高らかに嗤う彼の傍ら、揺蕩う黒の人魚は忘却と退廃の歌を奏で続けていた。
●瑠璃の匣舟
水没した都市は巨大な泡沫に包まれていた。
静謐で穏やかな眠りについているだけだったはずの街は今、過去から滲んだ存在である吸血鬼の支配下にある。
そう話したミカゲ・フユ(かげろう・f09424)は敵の名を語った。
「――『享楽の匣舟』ノア。それが彼の名前です」
都のあらたな支配者として多数の配下を引き連れ、館に居を構えているノア。
彼はこの都を楽園の舞台へと作り変えた。
吸血鬼が連れているという傀儡奴隷、黒の人魚。彼女が謡う忘我の歌は最も失いたくない人の存在や、忘れ去りたいこと、自分自身についての記憶に作用するという。
しかし、強大過ぎる力には綻びがあるものだ。
「今のこの街には忘却の歌が満ちていて、足を踏み入れるといろんなことを忘れてしまいます。けれど、街中にいるマメルリハ型のオブリビオンを倒せば歌の力が弱まっていくみたいなんです」
忘却自体は阻止できない。
しかし敵を倒していけば、世界の在り方を乱すヴァンパイアを討つという目的は忘れられないでいられる。
「でも、ノアを倒すまでは失われた記憶は戻りません」
それでも向かってくれますか、と確かめたミカゲは仲間達を見つめた。
吸血鬼を葬るか街を出るまでは、何を忘れたのか、何を失ったのかすら分からない状態で空虚感や焦燥を抱いたまま戦うことになるだろう。
そのうえノアは様々な欲望と願望を狂化したり、自身の分身や大切な存在、親しい者達と殺しあいを強要させる見世物劇場を作り出したりする。
「皆さんに大切なひとやものがあるほど戦い難くなる相手です。もしかしたら、忘れてしまったひと本人や自分自身の影と戦うことになってしまうかもしれません」
ミカゲは語る。
自分の場合であれば、いつも一緒にいる死霊の姉のことを忘却してしまい、何も分からぬまま彼女と戦うことになるのだろう、と。
彼の都に赴いた者はどんな形であれ、そういった戦いを強いられる。
辛い戦いであることは分かっているが、ヴァンパイアが蔓延っていると知っていて放っておくわけにもいかない。
「お願いします。皆さんの力が必要なんです」
ノアを倒すことが出来たならば、街はいずれ水底に沈んだ姿に戻る。しかし、それには少しの時間が必要だ。
更に都には不思議な教会があるという。
「水葬の街の風習として、願いを弔う儀式というものがあったそうです」
其処は多くの死や想いが満ちた場所。
良ければ沈みゆく水底の祭壇に祈りを捧げて欲しいと告げ、ミカゲはそっと願う。
――どうか、哀しき舞台に終幕を。
犬塚ひなこ
今回の世界は『ダークセイヴァー』
舞台は昏く深い水底に沈んでいた街。其処に訪れ、全てを支配しようとするオブリビオンを倒すことが目的となります。
こちらのシナリオは🌸【3月12日の朝8時30分】🌸から受付となります。
その他の期間等はマスターページに記載しておりますので、お手数とは存じますがご確認頂けると幸いです。
●第一章
集団戦『まめるりさま』
戦場は水底に沈んだ街。
オブリビオンの力によって都の中心部が泡の中に包み込まれており、普通に歩ける状態です。
至る所にマメルリハが潜んでいるので探さなくても自動的に戦闘になります。敵はちょっと喋れます。可愛い姿ですが、対応はシリアスめです。
吸血鬼の力の影響で、鳥の声を聞くとあなたの記憶から何かが失われます。
POW:最も失いたくない人や物事の存在。
SPD:忘れ去ってしまいたい人やもの。
WIZ:自分自身のことを忘却する。
上記に従って『何を忘れたか』をプレイングにお書き添えください。
全部忘れても構いません。忘れるものか! と全部に抗って戦うのもありです。(どちらであっても主語がなかったり、内容が曖昧で判断できない内容は申し訳ありませんが採用できかねます)
●第二章
ボス戦『『享楽の匣舟』ノア』
配下達を倒すと吸血鬼が黒い人魚を伴って現れます。
一章で忘れたことは二章でも忘れたまま、空虚な気持ちで戦うことになります。敵を倒すと記憶を取り戻せますが、かなりの強敵なのでご注意ください。
SPDのUCを使った場合、同行者様との戦いとなる可能性があります。
また、戦いの最中に敵は「満ちぬ胸の内に咲く花は何か」という問いを投げ掛けてきます。答えずとも判定に一切影響はありませんが、彼が望む答えを見事に告げた場合は劇的な変化が起こるかもしれません。
●第三章
日常『水葬carnaval』
敵を倒した後に街は再び水底に沈んでしまいますが、元に戻るまでは少しだけ時間があります。水が満ちる前に廃墟の探索や散策が出来ます。
湖底に沈んだ水葬の街には願いを弔う儀式があったそうです。願いを祭壇に捧げると不思議なことが起こるかもしれません。思うままに、お好きなことをどうぞ。
二章、三章ともに章開始時に序文を追加します。
それではどうぞよろしくお願い致します。
第1章 集団戦
『まめるりさま』
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POW : 癒しのさえずり
【さえずり】を聞いて共感した対象全てを治療する。
SPD : フルモッフ
全身を【超もふもふモード】に変える。あらゆる攻撃に対しほぼ無敵になるが、自身は全く動けない。
WIZ : ご機嫌斜め
【激おこモード】に変化し、超攻撃力と超耐久力を得る。ただし理性を失い、速く動く物を無差別攻撃し続ける。
👑11
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●Aquarium
不可思議な泡沫に包まれた都。
転送陣を潜った先、泡の中に足を踏み入れれば揺らぐ湖水と都の境界が見える。
水の中には魚が泳いでいる。その光景は宛ら、アクアリウムのようにも思えた。
――ルララ、ルルラ、ラララ。
――リルルリ、リルルリルルリ。
泡沫の都に満ちていくのは、誰かを呼ぶような人魚の歌。
その聲は領主の館にある黒薔薇の庭園から響いていた。魔力が籠められた歌は街中に散らばったマメルリハを介して広げられ、忘却を齎すものとなって巡る。
ヴァンパイアと傀儡奴隷の人魚。
彼らの居る庭園がある領主の屋敷に向かうこと自体は容易だ。
だが、瑠璃の鳥達を倒すまでは突入してはいけない。倒さずに進んでしまうと全てを忘れ去り、何をしに来たかも思い出せなくなるからだ。
繁華街、歓楽街、居住区。
黒衣の聖女像が見守る各所には数多のマメルリハが潜んでいる。教会がある区域には罪なき亡霊達が隠れているが、害意は持っていないので今はそっとしておくのが良い。
鳥達は囀りながら忘却の歌の力を広げ、囂しいほどに囁きあう。
『忘れちゃえ、忘れちゃえ』
『大切なことも、つらいことも、自分のことだって』
『忘れたら、キミも劇の演者になれる』
『ノアさまがひらくステキな舞台にあがれるよ!』
そう――愛によって紡がれる、残虐なるグランギニョールに。
君達は囀る声を頼りに鳥を探し出し、倒しながら進まなければならない。
しかし、都中に広がる忘歌を聞けば必ず何かを忘れてしまう。強い意志を持っていれば抗えるかもしれない。しかし、それが簡単ではないことは確かだ。
大切なものか、或いは、要らぬ記憶か。
もしくは自分自身のことなのか。
どの記憶を失ったのかは忘れ去ったまま、何かを喪失したという気持ちを抱えて君達は戦うことになる。
水底に揺らぐこの都市で君は何を忘れていくのだろうか。
そして、其処で何を思うのか。
水槽めいた水葬の街の中で、舞台の幕は厳かにひらかれてゆく。
ラビ・リンクス
慣れない場所に出向くのは知人の為でもあり
夢に見過ぎた胸焼けをかき消す為でもあり
どっちにしろ舞台には観客も必要だろ?
俺に遠い日の魔法をかけてくれ
歌の代価は今ある「俺の記憶の全て」
失われるか確かめる様に長耳を傾け自ら手放す
似て非なる今の自分ならこれで一時消えるんだろう
己で己を自分自身といいきれないのだから
何かを忘れる程知らず剣も足取りも軽くなる
紅い瞳で刃物を振り回す様は人形の様に
台本に沿う様に
―僕はなにしてるんだっけ
愛らしい小鳥を朱に染めながら表情に浮かぶものは何もなく
寿命の針を進めながらクセの様な急ぎ足でただ戦い続ける
それはその場の誰を斬ろうとも
味方と認識できる者達は皆
ドコかへ行ってしまったので
●逆廻りの時計
此処は或る日、突然に湖に沈んだ都だという。
深い、深い水の底。普通ならば出向かない、見慣れぬ黒耀の都市。
其処には美しい歌が響いていた。人魚の歌だという音色は何かを誘い、導くかのように都市中に巡っている。
真白な兎耳を立て、音を拾う。
夢に見過ぎた胸焼けがじわりと滲む。しかし今、響き続ける歌を聴いていると何もかもがどうでもよくなってくる気がした。それほどに歌の魔力は強い。
「残虐劇か。俺には何だっていい。けど、どっちにしろ舞台には観客も必要だろ?」
ラビ・リンクス(女王の■■・f20888)は独り言ち、知人と縁深き場所でもある都市を見渡してゆく。
揺れる泡沫。スラム街だったらしき水に沈んだままの場所を横目で見遣り、居住区であろう街の最中を歩いていく。そうして水底の街を往くラビが辿り着いたのは、黒蝶区と呼ばれる繁華街の区域。
何処かから響く人魚の歌声に交じり、小鳥が囀る声が聞こえた。その鳴き声の主こそが忘我の歌を媒介している瑠璃の鳥なのだろう。
「良いぜ、奪えよ」
歌に耳を澄ませる。その代価は、今ある自分の記憶の全て。
元よりラビの記憶は穴だらけ。今だって誰でも使う言葉ばかりを並べる、兎の役だったものの果てに過ぎない。
立てていた耳を傾けたラビはこれまでの記憶が薄れていくことを感じていた。奪えと鳥達に告げたが、まるで自ら手放しているかのようだ。
これでいい。
きっとこれで似て非なる今の自分が一時だけ消える。今だって己で己を自分自身といいきれないのだから問題はない。寧ろまっさらになれば戻れるのかもしれない。
さあ――俺に遠い日の魔法をかけてくれ。
いつの間にか閉じていた目をひらく。
黒蝶区の荒れ果てた路地裏に佇んでいたラビは、自分が誰であるかを忘失していた。
「――僕は、なにしてるんだっけ」
零れ落ちた言葉も口調も先程までとは違う。
確か吸血鬼を倒しに来たはずだ。囀る小鳥を屠れば目的が果たせるのだったか。それしか憶えていない。だが、彼の足取りは軽かった。
懐中時計を模した飾りが揺れる首輪が、不意に鈍い光を反射した。それが合図代わりとなり、ラビは紅の瞳に敵を映す。
「そうだ、殺せばいい」
握った刃を振りかざし、ラビは地を蹴った。建物の看板に止まっていた瑠璃の鳥に狙いを定めて跳躍する。疾く壁を伝って距離を詰め、振りあげた一閃が小鳥を斬り裂いた。
その様はまるで人形の如く。宛ら台本に沿う様に、ラビだったものは鋭い軌跡を刃で描いていった。
愛らしい小鳥が朱に染められていき、返り血がラビの頬を濡らした。
されど貌に浮かぶ感情は何もない。これこそが己に与えられた役割だと示すようにラビは刃を振るい続けた。
九つの死を齎す刃。その代償に進むのは寿命の針。
急げ、急げ。遅れてしまう。
己を忘れても、身体に染み込んだ癖は出る。急ぎ足で駆け抜けたラビは戦い続けていく。もし彼の傍に誰かが居たならば、そのひと諸共すべてを斬っていただろう。
今のラビに味方などいない。
何故なら、遠い過去に仲間だと認識できる者達は皆、ドコかへ行ってしまったから。
忘れているのに忘れられない。
憶えていないのに身体と舌には刻み込まれている。
喪失か、焦燥か。どちらとも呼べぬ感情がラビの中で静かに渦巻いていた。
そして、刃は下ろされる。
血に染まり、地に落ちた瑠璃の鳥を背にしてラビは歩き出した。
この舞台の観客として。否、そうしようと決めていたことも忘れて、演者のひとりとなるべく、人魚が紡ぐ歌の導きに従って――。
大成功
🔵🔵🔵
ロキ・バロックヒート
△
自分自身のこと
神であること、破壊神であることを忘れる
こえが聞こえる
滅びを求めるこえ
だれかが嘆くこえ
近いようで遠い
いつも聞こえている世界の悲哀
なのに役割を忘れてしまって
なぜ聞こえるのかわからない
聞こえたってなにもできず遣る瀬なくて
唯々こえの苦しさと哀しみに圧し潰されそうになって
気付かないうちに涙を零しながら歩む
あぁ、溺れてしまいそう
どうしてこんなに哀しいんだろうって
青い鳥に聞くけど
わからないよね
可愛らしく鳴く姿さえなんだか可哀想に思えてくる
なにもかも壊してしまえってこえが云う
云われるままにうた【UC】をうたう
この重い首輪も邪魔だなぁ
まるで囚人のよう
私はなにか悪いことをしたの
それすらもわからない
●深淵に沈む
――ルルリ、ララ、リルル。
透き通った聲が耳に届く。泡沫の中に閉じ込められた世界の中、響いていくのは何処か哀しげな人魚の歌声。
綺麗な歌だ、と純粋に思えた。
ローレライか、はたまたセイレーンか。数多の世界で謳われる神話や伝承に通じるものがあると感じたロキ・バロックヒート(深淵を覗く・f25190)は辺りを眺める。
「あの子が呼ばれてるのか、それとも俺様達も誘われているのか?」
そう零したロキだが、どちらだって構わない。
歌に導かれるままに進んだロキが通りかかったのは、嘗ては歓楽街であったという青蝶区と呼ばれる場所。崩れた娼館の看板の上。綺羅びやかな窓枠の縁。そういった至る所に青い鳥が見えた。
「可愛いねぇ。可愛いけど……これは流石に厄介だ」
双眸を細めたロキは瑠璃の鳥の声を聞く。その囀りは忘却の歌を紡ぐ人魚の力を伝えているのだろう。進む度に己の根幹が揺らがされ、壊されていく気がする。
否、忘れさせられているのだ。
ロキは頭を振る。
こえが、聞こえた気がした。それは滅びを求めるこえであり、だれかが嘆くこえ。
近いようで果てしなく遠い。
手を伸ばしても解けて消えていくような、それでいていつも聴こえているもの。
ああ、世界の悲哀だ。
はっとしたロキは片手で頭を押さえた。そのことだけはわかるというのに自身が何をすべきなのかわからなくなってしまっている。
――俺様は、だれ。
――私は、×××? でも、それはなに?
相反するかの如き思いが頭の中に巡った。しかしそれすらも消えていく。
自らこの舞台にあがったというのに役割を忘れてしまった。あのこえがどうして、なぜ聞こえるのかもわからない。
壊して。
崩して。滅ぼして。
滅びを願うこえが胸の裡で木霊する。そんなこえが聞こえたって何も出来ない。己を忘失したロキは疑問を抱くことしか出来ず、遣る瀬なく肩を竦める。
苦しさと哀しみに圧し潰されそうになった。
それでもどうしてか進まなければいけない気がする。此処に訪れた目的だけは果たさなければならない。
ロキは気付かぬうちに涙を零していたが、それでも歩み続ける。
街を包む泡沫が揺れた。頬を伝う雫は苦い。
――あぁ、溺れてしまいそう。
空虚さを抱くロキは頭上を振り仰ぎ、囀り続けていた小鳥達に問いかけた。
「どうしてこんなに哀しいんだろう」
『さあね、さあね』
『かなしいなら、舞台においで』
『キミも愉しく歌えるよ。さあ、さあ』
すると瑠璃の鳥達は口々にそんなことを紡ぎ、ロキを誘う。しかしそれはロキが求めていた答えではない。
青き鳥は幸せを運ぶ。いつか何処かで聞いた或る童話が思い浮かんだが、この瑠璃の鳥が導くのは幸福などではないのだろう。
「そうか、わからないよね」
鳥達が可愛らしく鳴く姿さえ何だか可哀想に思えてきた。
なにもかも壊してしまえ。
ずっと聞こえていたこえが云う。今のロキに拒絶する理由はない。可哀想なら終わらせてやれ。哀しいことは奥底に閉じ込めてしまえ。
云われるままに、ロキはうたう。
――だれが×××ころしたの? 私の爪で 私の嘴で 私がころした ×××を。
声と共に影から歪な黒い鳥が現れ、瑠璃の鳥を覆い尽くしていく。
それはたった一瞬のことだった。
落とされた小鳥達はもう囀りはせず、動きもしない。かれらを壊すことで救えたと察したロキは、自分の役目をひとつ果たせたのだと感じていた。
首から下がった鎖が音を立てて揺れる。
この重い首輪も邪魔だ。まるで囚人のようだと他人事のように思うロキは鎖に触れてみる。何でこんなものに縛られているのか。
何も思い出せない。自分自身すらもわからない。それでもただ、街を進む。
「私はなにか悪いことをしたの」
疑問にすらならない声が零れ落ち、ロキは伝い続ける涙を拭わぬまま黒耀の都市を見つめた。崩れかけた黒い聖女像もまた、水底の街を見下ろしている。
――ルララ、リリル、ララ。
すべてを忘れてしまえば良いのだと語るような人魚の歌が、都に響き続けていた。
大成功
🔵🔵🔵
空・終夜
水底の街に踏み入れば聴こえてくる囂しい囀り
これは忘却を齎すらしい
頭によく響いてくる聲
忘却
俺は失いたくない人の記憶が心の奥底にある
昔、誰かの命ずるまま
断罪という名の殺し続け
心を失いかけた俺に灯火をくれた女の子がいた
心を護ってくれた大切な人
けど
アイツは誰かに連れられ姿を消した
俺は孤独を抱え宛もなく探してる
別れ際
哀しそうに笑ったアイツに
俺は約束した
必ず迎えに行くと
その記憶を失えば俺は自分も失って
戦うだけの化け物になってしまう
戦闘
第六感を頼りに歌を辿る
半ば無意識で直感的な行動
鳥を倒さねば前に進めない
ネックレスで掌を裂き
UCで無数の杭を頭上に顕現
放つと共に
一粒…頬に雫が伝う
?なんだ…これ
なんで涙が…
●空の後悔
静謐に沈むのは栄華を極めた黒耀の都。
しかし、今は誰もいない。水底に沈められた場所に生きるものはおらず、感じられるのは過去から滲んだ存在の気配だけ。
「……寂しい、世界だ……」
空・終夜(Torturer・f22048)はふと浮かんだ思いを言葉にする。
街に踏み入れば聴こえてくる囂しい囀り。そして、遠くから響く人魚の歌。
これは忘却を齎すらしいと聞いている。透き通った声色で紡がれる歌と、煩いほどの鳴き声は頭によく響いてくる。
いつもなら零れ落ちるはずの欠伸も今は出ない。
世界は寒い。常に感じている思いが強く巡るのは、この都市が忘れ去られそうになっていたものだからだろうか。
青蝶区と呼ばれる区域を歩き、終夜は慎重に進んでいく。魔法道具の店だったらしき廃墟や、滲んで読めなくなった本が散らばっている書店が視界に入る。鳥の鳴き声は聞こえても敵の姿は未だ見えない。
だが、確かに敵は近くにいるはずだ。
何故なら、少しずつ何かを忘れていく感覚があるからだ。
「俺は……」
痛まないはずの身体が何らかの感覚を示している。きっと痛覚を感じていたならば頭痛がするのだろう。顳顬を片手で押さえた終夜は、忘れまいと過去を思い返す。
失いたくない人の記憶が心の奥底にある。
それゆえに忘我の歌に負けたくはなかった。それでも徐々に記憶は揺らぎ、歌を受け入れてしまいそうになる。
「……駄目だ……忘れちゃいけない……」
昔、終夜は誰かの命ずるままに断罪という名で命を狩っていた。死刑執行、復讐代行。それぞれに呼び名は違っても、自分は人を葬り続けていた。
まともな心がある者ならばいつまでもそんなことは続けられはしない。それゆえに終夜は心を失いかけていた。
しかし、そんな自分に灯火をくれた女の子がいた。
心を護ってくれた大切な人だ。彼女が居るから今の自分がいるといっても過言ではないはず。だからこそ忘れたくはない。痛みを忘れた身体であっても、それ以上に失いたくないものがあった。
彼女を思いながら、終夜はふるふると頭を振る。
「けど、……そうだ……」
アイツは誰かに連れられて姿を消した。それから終夜は孤独を抱え、宛もなく探し続けている。しかし今、それすらも忘失させられそうになっている。
(嫌だ、……嫌だ……)
別れ際、哀しそうに笑った表情。覚えていたいものが失われていく。
約束した。
――必ず迎えに行く、と。
きっとこの記憶を失えば自分も喪われ、戦うだけの化け物になってしまう。
それなのに。
真白な世界が広がったような感覚が廻り、大切な思いが深い底に沈んだ。
「……そこに、いたの」
いつの間にか俯いていた終夜は顔をあげ、虚ろな瞳に瑠璃の鳥を映した。
忘れたくはないと願っていたことがあった。しかし、忘れたということだけを覚えているばかりでどうして戸惑っていたのかも忘却していた。
探しものがあったはずだ。
崩れた廃墟の屋根に止まっている瑠璃の鳥は見つけたが、それは求めていたものではない。だが、終夜は無意識のうちに体を動かしていた。
自分を忘れても戦い方は理解している。
楔の名を冠する首飾りで掌を裂き、終夜は血を滴らせた。
鳥を倒さねば前に進めないということだけは分かっている。それゆえに自らの持てる力を尽くし、あの鳥達を屠らねばならない。
自分を突き動かす根幹の記憶はないがやるべきことは識っている。
無数の杭が終夜の頭上に現れたかと思うと、囀る小鳥に向けて放たれていった。
それは血の証明だ。
だが、杭が敵を貫くと同時に終夜の頬に雫が伝っていた。
「――?」
杭を打ち込む度に悔いのような気持ちが巡る。その正体が何であるかも思い出せず、終夜は掌で頬を拭った。
流れた血と涙の雫が混ざりあっていく。
「なんだ……これ、なんで涙が……。俺には、何にもないのに……」
心臓が止まるまで、戦い続ける。
そう誓って自分に首輪をつけたのはどうしてだったのか。何も残っていない空っぽの心を抱きながら、終夜は進む。
何体かの敵を倒しても、未だ方々から囀りは聞こえていた。それならば声を辿って屠り、躙り、何度でも倒していけばいい。
唯一残ったのは咎人殺しの力。
大切なものを失くした今はただ、それだけが己の寄す処だと思えた。
大成功
🔵🔵🔵
水標・悠里
水底に沈んだという享楽の匣舟
大切な友達が歌っていた場所なんですね
忘れてはいけないものは出会い絆を得た人たちの事。そしてたった一人私が命を奪った姉さんの事
私の苦しみの根源、今も縛り付けている過去がなくなれば自由になれるのでしょうか
【指定UC】で攻撃しつつ鳥の囀りに次第に耳を傾け私を真っ白に変えていく
初めて雪にふれて遊んだこと
傷ついたときに話を聞いてくれる不器用な優しさ触れ
提灯揺れる夏祭り
初夏にグリモアを得た
そしてその前は
化け物に成り果てた姉は、私以外の人を殺めた
止めるために私は姉を殺した
これを忘れれば、もう一度姉さんに会えるのなら
やり直すことが出来るかもしれない
この記憶など惜しくない
●忘却の化物
此処は水底に沈んだ街。
そして、享楽の匣舟の舞台があった場所。この黒耀の都市が大切な友達が歌っていた場所だと思うと何だか不思議な気持ちが巡った。
「この場所が今は、彼の舞台に……」
水標・悠里(魂喰らいの鬼・f18274)はノアと呼ばれる男を思う。
一度、水葬された街は静かに眠っていた。沈んだ後はひとりの人魚が游いでいるだけのちいさな世界だったはずだ。
しかし、友人が此処を離れている間にノアの手が入ったのだろう。
響き続ける黒い人魚の歌。そして鳥達の囀りが、この場所が吸血鬼の支配下にあることを示している。
悠里が足を進めたのは黒蝶区と呼ばれる区域の南側。
街のシンボルである黒い聖女像が見える場所だ。瑠璃の鳥は像の上に何羽も止まっており、歌を媒介し続けていた。
忘歌が悠里の耳に届く度、大切なことが零れ落ちる感覚が巡った。
忘れてはいけないのに忘却していく。それはこれまでに出会い、絆を得た人達のことだ。そして、たったひとり――自分が命を奪った姉のこと。
大切なことは表裏一体。
楽しく幸せな記憶と、己の苦しみの根源。今も自分を縛り付けている過去がなくなれば自由になれるのだろうか。
「私は……ううん、僕は……この記憶を、手放すわけには――」
耳を塞ぎながらも悠里は羅刹の剣豪と妖剣士を呼び寄せる。喪われゆく記憶も近くの瑠璃鳥を倒せば何とかなるかもしれない。
失くす前に倒せば良いのか。そう考えていた悠里だが、鳥の囀りに次第に耳を傾けてしまう。自分が真っ白に塗り変えられていくような気分が巡り、そして――。
(……消えていく)
初めて雪にふれて遊んだこと。
傷ついたときに話を聞いてくれる、不器用な優しさに触れたこと。
提灯が揺れる夏祭り。
初夏に得たグリモアの力。
そして、それよりも以前。凄惨な光景が脳裏に浮かんだ。
化け物に成り果てた姉。自分以外の人を殺め、血に染まった彼女の姿が頭の中に過ぎっていく。そんな姉を止めるために、悠里は彼女を殺した。
あの感触を忘れられる。
そう思った瞬間、楽しかったことすら手放してもいいと思えた。
(これを忘れれば、もう一度姉さんに会えるのなら……)
何にも縛られない自分としてやり直すことが出来るかもしれない。それならばこの記憶など惜しくない。
歌が響く。囀りが木霊する。
悠里が顔を上げたとき、もう彼の中には忌まわしい記憶もこれまでの思い出もなくなっていた。ただ吸血鬼を倒しに訪れた猟兵として、悠里は其処にいた。
「……何を忘れたのでしたっけ」
忘歌の所為なのか、どうしてかぼんやりとしてしまう。
その間にも羅刹達は次々と瑠璃の鳥を切り裂き、屠っていく。哀哭と涙に塗れた悲劇は忘れてしまったというのに、ただ愛しい少女の最期の姿だけが映し出されている。
虚ろな気持ちを抱き、悠里は都をゆく。
世界の全てだった彼女の最期を忘れた。それだけで悠里の心は穏やかに凪ぐ。
匣舟の舞台に必要なのは演者。
己を忘れた者は幕劇を飾るさぞ良い存在になるだろう。そのように求められているとも知らず、悠里は黒耀の都市を進む。
己を喪った少年の背を見送るかのように、黒の聖女像はただ静かに佇んでいた。
大成功
🔵🔵🔵
橙樹・千織
歌が響いている、それも街中に…
頭に靄がかかったような感覚に首を振り
目の前の小鳥に視線を戻す
高速詠唱でオーラ防御と破魔を宿して
…私は、誰?
気付けば自分自身のことを忘れてしまっていた
自分の身なりを見ても、持ち物を見ても、周囲を見回しても…思い出せない
……五月蠅い鳥ね
私はこの歌を歌う者の所まで行かなければならない
邪魔をするなら…華と散れ
自分が何者なのかがわからない
それでもこの先に行かなければいけない
そんな思いの方が強く
破魔を込めたなぎ払いとユベコを併用して小鳥を散らす
歌唱の呪詛でその防御を崩し、マヒを与え
花弁となった藍焔華を自分より速く動かし標的を自分から逸らすよう試みながら撃破を試みる
●千に織り成す花の彩
響き続ける音色は穏やかであり、苛烈だ。
そう思うのは歌に様々な魔力と思いが込められているからだろうか。
橙樹・千織(藍櫻を舞唄う面影草・f02428)は水底の都市に降り立ち、感じた気配を訝しむ。此処は自分達、猟兵以外には生きる者が見当たらない場所だ。
水に沈む前、嘗ては賑やかだったはずの繁華街。黒蝶区という区切りだったらしいその景色は酷く寂しい。
「何だか不思議ね。とても綺麗なのに……」
それに加えて、頭に靄がかかったような感覚が広がっていた。
花屋だったらしい店跡の前に差し掛かった千織は、気を引き締めて首を振る。外れかかった看板の上には瑠璃の鳥が止まり、囀っている。
『忘れちゃえ、ぜんぶ忘れちゃえ』
歌うように語る小鳥は千織の記憶を奪うべく、忘我の歌を広げていた。
其方に視線を向けた彼女は高速詠唱からの防御陣と破魔を巡らせ、敵を穿つべく動き出す。櫻雨の力を紡ぎ、八重桜と山吹の華を散らしていく千織。
その姿は勇猛果敢だ。
彼女は花から刃に戻った藍焔華を振り下ろして瑠璃の鳥を斬り裂いた。
そのとき、違和感が巡る。
「……私は、誰?」
気付けば千織は自分自身のことを忘れてしまっていた。地に伏した鳥から視線を自分に移し、身なりを見てみる。
黒鉄の刀身の薙刀。藍色の装飾が施された日本刀。そして、肌に咲く朱色の八重櫻。それらを見ても、周囲を見回しても何も思い出せなかった。
その間に新たな瑠璃の鳥が現れ、忘歌を伝播させながら囀っていく。
『忘れちゃった? 忘れちゃった?』
「……五月蠅い鳥ね」
千織は藍の刃を差し向け、冷たい声を落とす。どうして此処に来たのかは忘れてしまったが、自分はこの歌を歌う者の処を目指すことを目的としていたはずだ。たったそれだけしか分からないが、導かれているのならば止まることは出来ないと思えた。
「邪魔をするなら……華と散れ」
斬り伏せ、花弁を舞わせながら千織は戦い続ける。
自分が何者なのかがわからない。忘れたことだけを覚えている。それでも胸の内に残っていたのは、足を止めてはならないという思い。
誰のためか。何のためなのか。
薙ぎ払う一閃に破魔の力を込め、千織は小鳥を蹴散らしていった。
――はらりと舞うは、櫻花と面影。共に散らさん、汝が魂。
自身を忘失していても歌は憶えている。口ずさむ詩に呪詛を乗せ、ちいさな瑠璃の鳥を絡め取った。
再び花弁となった藍焔華を疾く振るい、標的を自分から逸らしていく。八重の桜がはらはらと散りながら周囲に廻っていった。
廃墟となった花屋の跡地を花が彩り、小鳥達は穿たれる。
震える瑠璃の鳥は囀り、千織の一閃に貫かれながら最期の言葉を紡いだ。
『さあ、おいで』
『忘れたらなら、キミも舞台の演者だよ』
その声はまるでこの地を支配しようとした男の意志を代弁しているかのようだった。妙に痛む頭を抑え、千織は刃を鞘に仕舞い込む。
一先ず周囲の敵は倒した。
それならば後は向かうべき場所に進んでいくだけ。目指すのは領主の館があるとされる白蝶区の奥。足取りは何だか妙に重い。それでも行かなければならないという思いに囚われ、千織は歩みを進めていく。
――私は誰。
――わたしは、なに。
裡に巡る疑問ばかりが胸に突き刺さり、仄かな痛みを宿していった。
大成功
🔵🔵🔵
蘭・七結
瑠璃の声色を耳にする度に面影が霞む
左の小指に刻んだ傷痕を爪で抉った
嗚呼、なんていたい
いっとう好む色が滴ってゆく
溢れる痛みで意識を逸らす
この記憶も想いも奪わせない
なゆの想いは、なゆだけのもの
愛を告ぐ声がきこえる
その言葉とぬくもりの意味を識った
いのちに結いだひとつきりとはたがうもの
心奥を焦がす戀ではなくて
胸から溢れる愛という想い
つめたい夜へと春を灯したひと
その名をもう一度紡ぎたいの
縁を絶つ黒鍵を呼ぶ
あいらしい姿に惑うことはない
破魔を宿して囀りごと薙ぎ払う
ひとつひとつを確実に
回数をかさねて断ち切ってゆく
だいじょうぶ
声をぬくもりを、双眸を
そのすべてをちゃんと憶えている
この想いを二度と手放したりはしない
●愛とは
囀り、謳う。
淡い瑠璃色の翼を広げ、忘却の詩を蔓衍させていく鳥達。その声色を耳にする度に、裡にある面影が霞んでいく感覚が巡る。
蘭・七結(こひくれなゐ・f00421)は今、水葬された都市の桃蝶区と名付けられていた場所に立っていた。視線の先には断頭台が据えられた広場がある。
その上には囀る瑠璃の小鳥が止まっていた。
人魚の歌は響き続ける。その聲はきっと耳を塞いでも届いてくるだろう。
七結は左の小指に刻んだ傷痕を見下ろし、自らの爪で其処を抉った。
「嗚呼、なんていたい」
滲むのはあか。いっとう好む色がひたり、ぽたりと地に滴ってゆく。溢れる痛みで意識を逸らせば、薄れかかっていた記憶が蘇る。
これまで、七結は他への願いも祈りも撥ね退けてきた。
此度もそうだ。
歌がいくら美しくとも、その声が救けを求めているように聞こえようとも。この記憶も想いも奪わせない。
「なゆの想いは、なゆだけのものだもの」
思い返す。我儘を聞いて欲しいと願った、あの日のことを。
――ひとつと言わず、幾らでも。
――愛しているよ。
煙草の香りと共に愛を告ぐ囁きが、いまもきこえる気がした。
戀ではない、それとは違う。その言葉とぬくもりの意味をつい最近、識った。
いのちに結いだひとつきりとはたがうもの。
確かに大切な絆はある。けれども心奥を焦がす戀ではなくて、胸から溢れる愛という想いが裡に満ちている。
それは、つめたい夜へと春を灯したひと。
その名をもう一度紡ぎたいと思ったからこそ、七結は忘却の歌に抗う。
小指から零れ落ちるあかはそのままに、彼女は縁を絶つ黒鍵を呼んだ。瑠璃の鳥は今もなお囀っているが、あいらしい姿に惑うことなどない。
黒鍵の刃に破魔を宿し、その聲ごと薙ぎ払う。
「あなたたちは歌をつないでいるのね。その声は、彼のため? それとも――」
この都市を支配しようとする男が連れている人魚のためだろうか。
問い掛けても答えがないことは知っている。七結は羽を広げて滑空してくる瑠璃の鳥を見つめ、ひとつひとつを確実に屠っていった。
刃を震えば翼が散る。縁ごと断ち切るが如く、縁絶の一閃が振り下ろされた。
七結は何も忘れてなどいない。
だいじょうぶ。
声を、ぬくもりを、双眸を、あのやさしい記憶を失ったりなどしない。
戀をした彼のひと。愛をくれた彼の人。そのすべてを、ちゃんと憶えている。
手に入れたものは全部、全部、自分だけが抱いていたい。それは鬼から少女に成り果てた七結の我儘であり矜持だ。
この想いを二度と手放したりはしない。
すべてはこの胸に。すべてをこの手に。滲むあかはただ静かに記憶を繋ぐ。
そして、七結は歩き出す。
戀を越えた先。其処に在るのが愛だというのならば、進もう。
愛によって紡がれる残虐なる舞台劇をこの眸で見に行こう。そうすればきっと、愛という物のひとつを見つけられるはずだから。
断頭台の広場を背にした少女は、忘歌が響く場所である白蝶区を目指していく。
座長の男と美しき黒の人魚。
彼らが織り成す愛のかたちを見つめ、自らも大切なものを識るために――。
大成功
🔵🔵🔵
榎本・英
やあ、かわいい鳥だね。
塩対応は、悲しいがね。
忘れるものか。
忘れるわけにはいかないのだよ。
私はね、私が手をかけた全てを覚えて進まなければならないのさ。
でないと、彼らの存在が消えてしまう。
だからかわいらしい鳥の子
此処で終わりにしよう。
迷路に迷い込んだ鳥を追い詰めて部位破壊。
やはり鳥は焼き鳥にしてしまおう。
嗚呼。マッチを取り出す暇もない。
きりのない数だ。
それでも忘れるわけにはいかないから
“僕”は鳥を倒して進む。
次々に襲い来る鳥を倒して、それから手掛けた君たちと
大切な君を脳裏に浮かべてまた進む。
大丈夫。
“僕”はまだ何も忘れていない。
鳥は一体なにを忘れさせたかっ――あれ
ちいさな鳥たち
“僕”はだれ。
●僕という存在
沈んだ街は今、泡沫に包まれていた。
水の景色が揺らぐ様を見遣り、嘗て都の居住区だった桃蝶区を進んでいく。
視界に入ったのは時計塔だった場所。今や時を刻むことのない塔を振り仰ぎ、榎本・英(人である・f22898)は双眸を緩く細めた。
「やあ、かわいい鳥だね」
塔の天辺には瑠璃色の小鳥が見えており、英は軽く手を振った。しかし返ってきたのは『忘れちゃえ、忘れちゃえ』という妙に冷たい囀りだ。
「塩対応は、悲しいがね。忘れるものか」
都には吸血鬼が従えるという人魚の歌が響き続けている。
その声を伝える瑠璃の鳥が近くにいる以上、英も忘却に囚われはじめていた。だが、英は気を強く持って抗おうと決めている。
「忘れるわけにはいかないのだよ」
英はただの人だ。人でなしと呼ばれようとも、それすら人である証だと識っている。
人だからこそ出来ることもあった。
愛を謳い、開かれる幕劇があると聞いて、作家たる自分も彼の吸血鬼と似た思いを抱いているのかもしれないと感じている。
「私はね、私が手をかけた全てを覚えて進まなければならないのさ」
――でないと、彼らの存在が消えてしまう。
物語を紡ぐのに忘却は必要ない。忘れ去ってから舞台にあげられるなど文豪の役目ではないだろう。だから、抗って進む。
「かわいらしい鳥の子、此処で終わりにしよう」
鳥達に呼び掛けた英は己の力を紡ぎはじめた。黒曜の街に重なるように広がっていくのは英がつくりあげた、梟が鳴く夜更けの廃町。
その景色は迷路となり、瑠璃の鳥を閉じ込めていく。
未明の世界は英の思うがまま。迷い込んだ鳥を追い詰め、糸切り鋏を振るう。
「やはり鳥は焼き鳥にしてしまおうか」
嗚呼。然しマッチを取り出す暇もない。そんな呟きを落としながら英は鋏で鳥を切り裂き、抉り、喉を潰した。
羽ばたいて襲ってくる敵はきりのない数だ。
それでも、歌を広げられて何もかもを忘れさせられるわけにはいかない。
“僕”は鳥を倒して進む。
ただそれだけのことに集中すれば意識は保てる。そうして彼は次々に襲い来る鳥を倒し、大事なものを思う。
手掛けた君たちと、そして、大切な君。
――欲するがままに、望むがままに、あげる。
いつか告げられた言の葉を思えば、いとおしい気持ちが巡る。その声と顔を脳裏に浮かべて、英はまた進む。
大丈夫。
“僕”はまだ何も忘れていない。大切な記憶が未だあることを確かめながら英は迷路を抜け、黒曜都市の最中に戻った。
「鳥は一体なにを忘れさせたかっ――あれ、」
何も忘却させられていないと安堵した英だが、不意に声をあげる。
あれだけいたちいさな鳥達は倒されて消え去っていた。
「――“僕”はだれ」
落とした呟きを聞くものは誰もいない。動きを止めた時計塔を見上げてみても、その答えはついに見つからず終いだった。
大成功
🔵🔵🔵
フラム・フロラシオン
POW
忘れ去れるなら、きっと忘れられた方も幸せなんだ
この想いも
そして、ヒメへの忠誠だけを覚えていられるなら…
きっと彼女を傷つけることもないのに
そんな事をふと考えてたせいかな
ヒメの声が、その姿が、なんだか薄ぼんやりしてくるんだ
その長い髪、輝く瞳、優しい声
遊んでくれる時の勇ましい剣さばきまで
愛しい全てが朧に霞んで
仕方ないって、分かってはいるけどけど焦燥感は募るよね
…鳥さん、君たちが原因なんだっけ
それじゃ、せめて憂さ晴らしに付き合ってよ
まめるりさまを見つけたら、UC【トリニティ・エンハンス】で剣に炎を纏わせて
攻撃力重視の【属性攻撃】で斬りかかるよ
●少女の騎士として
――忘れ去れるなら、きっと忘れられた方も幸せなんだ。
忘却を宿すという歌が満ちる水底の廃都。
フラム・フロラシオン(the locked heaven・f25875)が懐うのは自らの想い。浮かんだ思いは泡沫の揺らぎと共に水面に昇っていく気がした。
ヒメへの忠誠。
それだけを覚えていられるなら、きっと彼女を傷つけることもないのに。
恋心は独占欲を呼び起こす。
それだけではなく加害衝動が浮かぶ。そんな危険を識っているからこそ、フラムは忘れたいと願った。しかし、この想いを失ったら自分はどうなるのだろう。
フラムは深く考え込みながら水底の都市をゆく。彼女が歩いているのは居住区であった桃蝶区の最中。赤い屋根の大きな家が見えたとき、フラムは顔を上げた。
其処には屋根の色と相反する瑠璃の鳥が止まっている。あれが敵だと察したフラムは身構え、記憶を奪われる前に倒してしまおうと決めた。
だが――。
「あれ? ヒメ……?」
違和感が巡る。
ヒメの声が、その姿が、なんだか薄ぼんやりと朧気になってきている。確かに覚えていたはずだ。その長い髪、輝く瞳、優しい声も、遊んでくれる時の勇ましい剣捌きまで、しっかりと見ていたというのに。
すべてが朧に霞んでいき、消えていく。
「嫌だよ、ヒメ……」
行かないで。
どうしてかそんな思いが溢れた。手を伸ばしても空を切るだけ。やがてフラムは首を傾げ、何をそんなに焦っていたのかも分からなくなってしまう。
「……ヒメって、誰?」
そしてフラムはそれまでの彼女ならば絶対に言わないであろう言葉を落とした。
何かを失くした。
きっとそれはヒメという誰かについての記憶なのだろう。フラムはまるで自分自身を失ったかのような喪失感に襲われ、魔法剣を握り締めた。
この都に入ると忘却の力を受ける。仕方がないと分かってはいたが、焦燥感は募り続ける。ヒメという少女のことは思い出せないが、早く記憶を取り戻したいと思った。
「……鳥さん、君たちが原因なんだっけ」
妙に冷ややかな言葉が零れ落ち、フラムは自分でも少し驚く。しかし、この焦燥をぶつける相手は彼らしかいなかった。
『忘れたね。忘れたね』
『さあ、キミも舞台にあがって!』
瑠璃の鳥達は妙なことを言葉にしてフラムを誘う。されどそのまま言うことを聞くのも違う。彼らは紛れもない敵なのだ。
「それじゃ、せめて憂さ晴らしに付き合ってよ」
フラムは魔法剣に炎を纏わせながら一気に地を蹴った。瑠璃の鳥達は羽ばたき、フラムに飛び掛かってくる。それらを刃で切り裂き、炎を解き放ちながら彼女は戦う。
嘴が己の身を啄んだが痛みなど気にしない。
何故なら、誰かを忘れてしまったということの方が酷く痛かったからだ。
忘却は進み、もう名前すら思い出せない。
先程まであんなに想っていたはずのひと。名前を呼んでいたはずの、誰か。
「取り戻すよ。絶対にっ」
誰であるかは分からずとも奪われたのは大切な記憶だ。
フラムは剣を振り下ろし、瑠璃の鳥達を次々と地に落としていく。切りひらいた先にある舞台に、きっと失ったものを奪い返す道がある。
そう信じた少女は先を強く見据え、忘却の歌が聞こえる方に駆け出していった。
大成功
🔵🔵🔵
カビパン・カピパン
WIZ:自分自身のことを忘却する。
共に【貧乏性】【面倒くさがり屋な性格】【女神の加護】を消失
\何ということでしょう綺麗なカビパンに/
「…ここはどこ、私は?」
何か頭の中に霧がかかってるみたい。
うっ…頭の中で、なんか変な光がずっと付きまとってくる。
(あなたは…わたしの大事なおもちゃ…じゃなかった選ばれし者よ)byとある女神
はっきりした声も聞こえないし姿形は分からないけど、この変な光(祝福)のせいで人生を邪魔され続けたり、沢山の面倒ごとに巻き込まれて私ずっと酷い目にあってた気が。
いや、私は人々を正しい方向に導いていくのが使命のはず…
まずは目の前の脅威から。
この【聖杖】から力を感じるわ、力を貸して!
●幸運と加護
「……ここはどこ、私は?」
黒曜の都市の最中、桃蝶区と呼ばれていたらしい区域。
カビパン・カピパン(女教皇 ただし貧乏性・f24111)は辺りを見渡し、首を傾げていた。転送されるやいなや聞こえた忘却の歌声。
それを耳にしたカビパンは自分自身のことをすっかり忘れ去っていた。
\何ということでしょう綺麗なカビパンに/
もし彼女が元の性質を保持していたのならば、或いは彼女の宿す女神が見ていれば、そんな言葉を紡いだかもしれない。
しかし、貧乏性と面倒くさがり屋な性格、更には女神の加護を消失した今のカビパンには何も分からない。
ただ、此処には敵を倒しに来たということだけを覚えていた。
「何だか頭の中に霧がかかってるみたい……」
こめかみを押さえ、カビパンはふらふらと歩き出す。道行く先には青い屋根の大きな家が見えた。されどその屋根も今は崩れかかっている。廃都の景色を眺めながら、彼女は妙な感覚を振り払おうとしていた。
「うっ……頭の中で、なんか変な光がずっと付きまとってくる」
それが何なのか理解できない。
そのとき不意に頭の中に直接、何かを呼び掛けられた。
(あなたは……わたしの大事なおもちゃ……じゃなかった選ばれし者よ)
とある女神の声が聞こえた気がする。
されどその声も朧気だ。はっきりした言葉も聞こえず、姿形は分からない。
それでも幽かに思い出せることもあった。
「この変な光……」
祝福でもあるそれのせいで人生を邪魔され続けたり、たくさんの面倒ごとに巻き込まれていた気がする。
ちゃんとした記憶は喪われてしまったようだが、少しだけ分かった。
「私ずっと酷い目にあってた気が――」
本来の彼女ならこれはめんどくさいと一蹴した事態かもしれない。されど性質すら忘失したカビパンはハッとする。
「いや、私は人々を正しい方向に導いていくのが使命のはず……」
顔を上げた先には忘却の歌を広げる瑠璃色の鳥達の姿が見えた。まずは目の前の脅威から排除するべきだと感じたカビパンは聖杖を高く掲げる。
「この杖から力を感じるわ、力を貸して!」
それは女神の力が秘められている宝珠が先端に埋め込まれた杖だ。何も分からずとも光の加護があることは肌で感じていた。
そして、カビパンはその力を用いて敵を蹴散らしていく。
女神の加護と幸運。そして、女教皇としての存在。忘れ去られていても僅かに残っていた力は瞬く間に広がり、周囲の敵は一掃されていった。
大成功
🔵🔵🔵
サフィリア・ラズワルド
POWを選択
忘れたくない物事、それは私が施設から出て得たもの、一般的な知識、竜人は竜の幼体なんかじゃないって事実、仲間達は実験で無理矢理竜にされてしまったって事実、だからそれを忘れてしまったら施設にいた頃の、施設が世界の全てだった私に戻る。
施設から出た後の記憶を忘れる。
味方と一緒に敵を倒すのは正しい事だ、倒した敵を食べて片付けるのは良い事だ、敵は悪い奴なんだから躊躇しなくていい、殺して食べて殺して食べて……
正しい事をしてるはずなのになんかモヤモヤする?なんでだろう?殺す度に胸がチクチクするのはどうして?同情?敵に?敵は私の餌なんだから同情する必要なんてないのに、どうして?
アドリブ協力歓迎です。
●竜として
忘却の歌が聴こえる。
サフィリア・ラズワルド(ドラゴン擬き・f08950)は記憶を奪われていく感覚をおぼえながら、白い屋根の小さな家の横を通りかかった。
何処からか鳥の鳴き声が響いてくる。
敵が近いのだと察したサフィリアは忘れたくはないことを思い返す。
「もしかしたら、ずっと思っていれば忘れないかも」
忘却などしたくはない物事があった。
それはサフィリアがあの施設から出てから得たものだ。
一般的な知識。竜人は竜の幼体なんかじゃないという事実。そして、仲間達は実験で無理矢理に竜にされてしまったということ。
自分はこのまま恐ろしい存在にならずに生きていけるという安堵。
「大丈夫。大丈夫……」
サフィリアは自分に言い聞かせながら、水葬の街を進む。
もしそれを忘れてしまったら施設にいた頃――あの場所が世界の全てだった自分に戻ってしまうだろう。
施設から出た後の記憶を忘れたくはない。
忘れてはいけないし、絶対に失いたくなどなかった。
だが、そう思えば思うほどに忘却の歌がその記憶に作用していく。大切なものから奪い取られていくのは何と残酷なことか。
頭が割れるように痛くなり、サフィリアは額を押さえた。
しかし、次の瞬間。
「……敵がいる」
顔を上げたサフィリアは瑠璃の鳥が建物に止まっていることに気が付き、地を蹴る。相手を屠らなければならないと感じた瞬間には体が動いていた。
完全なる竜の姿に覚醒したサフィリアは鳥を追い、牙を剥き出しにする。
味方と一緒に敵を倒すのは正しいことだ。
倒した敵を食べて片付けるのは良いこと。
敵は悪い奴なのだから躊躇しなくていい。殺して食べて殺して食べて――それが施設を出たあとの記憶を失ったサフィリアの在り方だ。
障害すら喰い殺すのが竜。
正しいことをしているはず。これが褒められることだ。
それなのに、と食い殺した瑠璃の鳥を見下ろしたサフィリアは思う。
(なんかモヤモヤする? なんでだろう?)
敵が抵抗する暇すら与えなかった。悪い吸血鬼に使役されているのならば、この鳥達も悪い存在に違いなかった。
たくさんいるのなら食らってしまえばいい。けれど、殺す度に胸がチクチクするのはどうしてだろうか。
(同情? 敵に? 敵は私の餌なんだから――)
そんなことを思う必要なんてないはずだというのに、どうして。
全てを忘れ去ったサフィリアは疑問を浮かべ続ける。この感情の根源が何処から来るのか理解できぬまま、彼女は進んでいく。
無意識のまま、目指すのは歌声が聞こえる先。
其処にきっと何かがあると信じて、サフィリアは水葬の街をゆく。
大成功
🔵🔵🔵
ジェイ・バグショット
失う記憶:生きる理由に纏わる全て
天使の少女クィンティ
ダークセイヴァーで幼少を過した血の繋がらない家族
光の魔術師アズーロ
UDCアースで青年期を過した心の拠り所、理解者
苦しい生を生きている理由
それは目的と約束があるからだ
クィンティを死へ追いやった宿敵の女を殺す
憎悪と怒りが死ねない理由
そしてもう一つ
『約束して下さい。生きることを諦めないと。』
アズーロの言葉が俺を生かす
"彼女の仇を討つ"それが君の役目なのでしょう。
それは死の淵へ立つ俺を留めるための言葉
……俺は、
思い出せない
約束も、思い出も、大切だったはずなのにその想いすらも
そうして気づく。
俺は…なんの為に生きている?
拷問具による戦闘アドリブ歓迎
●失くしもの
生きる理由。それは『彼女』が居た故だ。
そして、共に過ごした『彼』の存在も一助になっている。
そのように自覚しているジェイ・バグショット(幕引き・f01070)はクィンティとアズーロのことを思っていた。
天使の少女と光の魔術師。過ごした時期や世界が違っても、ジェイにとってどちらもかけがえのない人であり、大切な存在だ。
血の繋がらない家族と、心の拠り所であり理解者。
苦しく辛い、終わりの見えない生を甘受している理由はふたりが居てくれたから。
己の力になっているのは復讐心。
クィンティを死へ追いやったあの女――義母を殺す。
その憎悪と鎮まらぬ怒りこそがジェイが未だに死ねない理由。そして、もうひとつは約束を交わしたからだ。
『約束して下さい。生きることを諦めないと』
いつか聞いた、アズーロの言葉がジェイをこれまで生かし続けていた。
彼女の仇を討つ。
それが君の役目なのでしょう、と諭した彼は実に自分をよく分かってくれていた。ただ生きろと言うだけでは聞かないと知って、死の淵へ立つジェイを留めるための言葉を的確に選んでくれていた。
しかし、そのことをジェイは忘れ去っている。
少女との記憶も、青年と過ごした日々も、すべて忘却の歌によって奪われていた。
「……俺は、」
ジェイは自分が何を言いかけたのか分からず、頭を振る。
彼は黒曜の都市内、桃蝶区と呼ばれる箇所の井戸のある黒い森に佇んでいた。此処に訪れた理由だけはわかっていた。人魚を従える吸血鬼を倒すためだ。
しかし、自分についての何もかもが思い出せない。
約束も、思い出も、大切だったはずなのに、その想いすらも手を擦り抜けていった。
そうして気付く。
「俺は……なんの為に生きている?」
ぽつりと落とした言葉が森の中に響く。この都市に巡っていく忘歌の力はますます強くなっているようだ。
それはきっと、木々の上で囀っている瑠璃の鳥達の所為なのだろう。
荊棘王の名を持つ拷問具を構えたジェイは敵を見据える。衝動が巡り、かれらを斃せと胸の裡の何かが命じた気がした。
そして――棘の鉄輪は瑠璃の鳥達に解き放たれていく。
「喰わせろ」
冷ややかな声で告げたジェイは飛び散る血を瞳に映し、地に落ちた鳥を掴み取る。鮮血が掌を濡らし、熱さを感じた。
忘れ去ってしまったことは最早、どうでもいいとすら思える。
今はただ喰らい、蹴散らせばいいと感じたジェイは拷問具を振るい続けた。失ったものはかれらを屠った先にある。
そうに違いないと感じたジェイは、喪失感から目を逸らしながら戦い続けた。
大成功
🔵🔵🔵
雲烟・叶
忘れさせる、ねぇ……
何をどう忘れさせるのか、果たして忘れさせることに意味はあるのか
……自分なら、何を忘れるんでしょう、ね
忘却は直ぐにやって来た
ぐらりと視界が回る、先程まで考えていた事も押し流される
……ぁ、
“俺”、今何して……?
取り繕う為に身に付けた敬語も、“自分”の一人称も忘れて
己が呪物である事を知らなかった頃に戻って
きょとんと幼い表情を見せた
敷いていた煙の境界が消え去った
じわり、他者の正気を蝕む呪詛をただ垂れ流す頃の、それ
ちょ、っと待て何が起きて、
俺、何でこんな所に
猟兵としての戦いも知らぬ呪物は立ち尽くす
けれど、遮るものを失って無差別に溢れる呪詛が恐れを、誘惑を伴って敵に相対する
さあ、呪え
●蝕
黒曜の都に美しい歌声が響いている。
此処は嘗て、歓楽街だった場所――青蝶区。
香水店だったらしい看板を目にしてから、遥か頭上に揺らぐ水の境界を軽く見遣る。雲烟・叶(呪物・f07442)は紫煙を吐き出し、泡沫に包まれた街をゆく。
煙管を手にしている彼は耳に届く囀りと忘却の歌を意識しながら、口許を緩めた。
「忘れさせる、ねぇ……」
何をどう忘れさせるのか。果たして忘れさせることに意味はあるのか。
浮かぶ思いは様々だが、もうひとつ思うことがある。
「……自分なら、何を忘れるんでしょう、ね」
もう一度、煙を吸って吐く。
そうすれば人魚の歌も深く沁み渡るようで、忘却は直ぐに訪れた。頭が割れるような感覚とぐらりと回る視界。
そして、先程まで考えていたことも記憶の彼方に押し流されていく。
歌がより一層強くなった。
それはきっと叶の近くに瑠璃の鳥が近付いてきたからでもあるだろう。
「……ぁ、」
思わず力のない声が零れ落ちた。
煙管を取り落としてしまった叶は乾いた音を聞く。それすらも遠い世界の出来事のようで、意識までもが遠退きそうになる。
「“俺”、今何して……?」
落とした煙管を拾い上げながら、叶は首を振った。其処にはもう取り繕う為に身に付けた敬語も、自分という一人称もない。
失ったのは己としての記憶。
自身が呪物であることを知らなかった頃に戻った彼の表情は幼い。普段、人に見せている飄々とした雰囲気も薄い笑みも張り付いていない。
きょとんとした叶の周囲から、敷いていた煙の境界が消え去っていく。
染み出すのは呪い。
じわりと他者の正気を蝕む呪詛をただ垂れ流す頃の、それとして在る叶。
「ちょ、っと待て、何が起きて、俺、何でこんな所に」
辺りに集っていた瑠璃の鳥が次々と苦しみはじめ、止まっていた看板や屋根から落ちていく。猟兵として戦いも知らぬ、ただの呪物は立ち尽くす。
違う。
殺したいわけじゃない。
争わせたいわけでもない。
それだというのに周囲の鳥は騒ぎ争い、力を失っていった。遮るものを失って無差別に溢れる呪詛は恐れを振り撒き、誘惑を伴って敵に齎される。
――さあ、呪え。
何処かからそんな声が聞こえたような気もした。
されど今の彼は何も出来ない。刻々と呪いを刻む力を前にして、何も分からぬまま慄くことしか叶わなかった。
「……俺は、」
一体、何なのだろう。どうしてこんな存在なのだろうか。
呪いしか齎さぬ己と蝕む力。
そして、じわじわと満ちていく呪詛はゆっくりと黒曜の街に滲み続けていく。
大成功
🔵🔵🔵
芦屋・晴久
【恋人】で連携
POWを選択
忘れる事柄は恋人であるリーヴァルディとの誓い
「君と陽だまりの道を歩む事」
恋人となる切っ掛けの誓いなので、恋人である事も忘却しています
リーヴァルディ君……私を忘れている……?診療所で会った事さえもですか
不味い、今この状況で連携が取れない事を敵に知られるのは面白くありませんね
リーヴァルディ君、私は貴女の敵ではありません、名前を存じ上げているのは猟兵としての貴女が高名である故
疑念を持つのは分かりますが今はどうか共にこの場を乗り切りましょう
戦闘
UC使用、回復行動を少しでも減らす為、攻撃してきた相手の体勢を崩しさえずりを使わせる余裕を無くし、カウンターで一体一体確実に仕留める
リーヴァルディ・カーライル
【恋人】
忘れる事柄は「芦屋晴久」
…ん。こんな依頼に付き合わせてごめんなさい、晴久。
でも貴方と一緒なら心強い。今回もよろしくね?
…お前は誰?どうして私の隣にいる?
すぐ傍にいた男を警戒し色彩のUC発動
芦屋の感情を見切り敵意が無い事を確認する
…嘘はついてない。芦屋…ね。私の邪魔はしないで。
人類に今一度の繁栄を。そして、この世界に救済を…。
私は私の誓いを果たす。それだけよ…。
UCを収奪に変え生命力を吸収する呪詛の先制攻撃で敵をなぎ払う
…多分、あの男が私の“忘れたい記憶”。
名前を呼ばれるだけで不快な気持ちになるもの。
まるで胸が締め付けられるような…。
…まぁ、どうでも良いけど。でも妙に喉が渇くのは…何故?
●恋人達の亀裂
水葬の都市に降り立ってすぐ、二人を忘却の歌が包み込んだ。
芦屋・晴久(謎に包まれた怪しき医師・f00321)が忘れてしまった事柄は恋人である彼女との誓い。
――君と陽だまりの道を歩む事。
それは恋人となる切っ掛けの誓いであり、恋人である事実も忘却している。
そして、リーヴァルディ・カーライル(ダンピールの黒騎士・f01841)が忘れたのは芦屋・晴久という存在そのものだ。
「……お前は誰? どうして私の隣にいる?」
「リーヴァルディ君……私を忘れている……?」
強い警戒が宿った声を聞き、晴久は驚く。診療所で会ったことさえも忘れている様子の彼女は魔眼の力を発動させていた。
拙い。そう感じた晴久は首を振り、敵ではないことを示す。
今この状況、連携が取れないことを敵に悟られるのは面白くはない。尤も、敵である吸血鬼は猟兵がすべてを忘れ去ることを元から知っているので大きな問題はないはずだが、リーヴァルディが晴久までも警戒しているのはよくない。
だが、彼女は晴久の感情を読み取り、本当に敵意が無いことを確認する。
「リーヴァルディ君、私は貴女の敵ではありません」
「どうして私の名を知っている?」
「名前を存じ上げているのは猟兵としての貴女が高名である故、疑念を持つのは分かりますが今はどうか共にこの場を乗り切りましょう」
晴久は自分を忘れているリーヴァルディに名を伝え、落ち着いた声で告げる。
「……嘘はついてない。芦屋……ね」
私の邪魔はしないで。
冷たく言い切ったリーヴァルディは晴久を置いて先に進もうとした。
されど晴久は離れることは更に拙いと告げて彼女の後を追う。するとその先に忘却の歌を広げる役割を持つ瑠璃の鳥達が現れた。
来た、と身構えたリーヴァルディはあれこそが敵だと察する。
即座に生命力を吸収して魔力を溜める収奪の力を魔眼に宿した彼女は瑠璃の鳥達を睨みつけた。続いた晴久は逆撃の護符の護符を構え、突撃して来る敵を見据える。
「人類に今一度の繁栄を。そして、この世界に救済を……」
「手伝いますよ、リーヴァルディ君」
「邪魔をしないでと言ったでしょう。私は私の誓いを果たす。それだけよ……」
晴久が敵を追撃してくれているが、リーヴァルディの態度は冷たいまま。しかし彼女達にとってあのような鳥は敵ではなかった。
一体ずつ確実に仕留めた晴久達は周囲の敵を一掃していく。
「次に行きましょうか」
晴久はリーヴァルディに呼び掛け、忘却の歌を辿りながら、首魁が居るであろう方角を目指した。目的が同じであるならば別れるわけにもいかない。不服ながらも彼の後に付いていったリーヴァルディは歩き出す。
(……多分、あの男が私の“忘れたい記憶”ね)
「リーヴァルディ君?」
振り向いた晴久が自分の名を口にする度に心がざわつく。何も答えず、早く先に行って、という旨の意思を視線で示すリーヴァルディは深く息を吐いた。
(名前を呼ばれるだけで不快な気持ちになるもの)
――まるで胸が締め付けられるような。
しかしすぐにそんなことはどうでもいいと胸中で一蹴する。けれど、妙に喉が渇くのは何故だろう。晴久の背を見つめるリーヴァルディは肩を竦めた。
忘れてしまった今の自分の裡には答えなどない。
今はただ敵を屠るためにこの男と進むだけだとして、彼女は進んでいく。
苛立ちめいた焦燥。
もしくは哀しい喪失感。
言い表せない思いがふたりの胸に宿り、それぞれの心を鋭く刺していた。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
アウレリア・ウィスタリア
ボクは、私は……忘れたくない
ようやく思い出した本当の家族
やっとで会えた私の半身
双子の……
ボクは何を求めていたんだろう?
私は何を探していたんだろう?
私って……誰?
ボクは何故生きているんだろう
そうだ、ボクはボクに危害を加えるものを倒さないといけない
怖いものは消さないといけない
敵を滅ぼさないといけない
ボクは復讐者なのだから
歌が聞こえる
でもこの歌はイヤだ
この歌は怖い
ボクがボクじゃなくなってしまう
だから【今は届かぬ希望の光】で貫こう
ボクが求める歌はそれじゃない
ボクが求める歌は私が知ってる
……でも私って誰のこと?
大切なことを忘れてしまった気がする
◎アドリブ歓迎
●忘失と水底
水底に沈んだ街に降り立つ。
都中に響き渡る歌はとても美しかった。その声は透き通っていて、ずっと聴いていたくなるような魅力を孕んでいる。だが、その聲は忘却を齎すものだ。
「ボクは、私は……忘れたくない」
アウレリア・ウィスタリア(憂愛ラピス・ラズリ・f00068)は震えそうになる身体を押さえた。歌声が美しいからこそ怖かった。
歌が何もかも綺麗に消し去ってくれるとすら感じるからだ。
アウレリアが失いたくないものは、ようやく思い出した本当の家族のこと。
「やっと出会えた私の半身なのに。双子の……」
彼の名を呼ぼうとして唇をひらく。しかし言葉は続かなかった。
歌の力が忘却を与えたのだ。
それも双子のきょうだいだけを忘れたのではない。アウレリアは嘗てのように自分自身を失ってしまっていた。
――ボクは何を求めていたんだろう?
――私は何を探していたんだろう?
口調すら曖昧になるほどの忘却がアウレリアを包み込む。何もわからない。ただ此処に吸血鬼を倒しに来たことだけしか覚えていない。
猟兵であること、戦い続けてきたことは理解している。それであるというのに自分の根幹が揺らいでしまっていた。
「私って……?」
疑問が浮かんでは沈んでいく。アウレリアは胸に手を当てながらちいさく呟く。
「ボクは何故生きているんだろう」
しかしそのとき、アウレリアの耳に小鳥の囀りが届いた。すぐ近くに敵がいるのだと察した彼女は身構える。耳を澄ませば気配が感じ取れた。小さな教会の屋根に瑠璃の鳥が止まっている姿が見える。
「そうだ、ボクはボクに危害を加えるものを倒さないといけない」
きっとあの鳥が忘却の歌を伝播したのだろう。
怖いものは消さないといけない。つまり敵を滅ぼさないといけない。思いを強く抱いたアウレリアは地を蹴り、鞭剣を振り上げた。
――ボクは復讐者なのだから。
殆どのことを忘れた彼女に残っていたのはそんな感情だった。
歌が聞こえた。刃を振るう間にも人魚が紡いでいるであろう音が響き続ける。歌は好きだった。けれどこの歌はイヤだ、怖い。
ボクがボクじゃなくなってしまうから。もう聞きたくない。
剣の柄を握ったアウレリアは力を振るっていく。今は届かぬ希望の光であっても、ひたすらに敵を貫き続けよう。
ボクが求める歌はそれじゃない。
ボクが求める歌は私が知ってる。ああ、でも――。
「……私って誰のこと?」
瑠璃の鳥が地に伏していく中、アウレリアは更なる疑問に囚われた。
大切なことを忘れてしまった。そのような喪失感だけが、彼女を支配していた。
そして、吸血鬼が仕組んだ舞台の幕は開いてゆく。
大成功
🔵🔵🔵
レザリア・アドニス
はわ…ダークセイヴァ―にも、こんなところがあるんですね…
街にふらふら歩いて、景色を満喫しつつまめるりさまを探す
…うわあ、ほんとうにまぁるくて、かわいいです…
けど、敵だとちゃんと分かっていて、油断も手加減もしない
見つけたり見つかられたら炎の矢で焼き鳥の串にしようとする
超もふもふモードになったら動けないのを好機に、そっともふもふする
さえずりもそれはそれで楽しみつつ回復してもらう
激おこモードになったら炎の矢で注意を引きつけ、自分はできるだけじーっとする
『自分の過去』を失っても
体に刻み込んだ知識と経験は奪われない
目が段々虚ろになっても本能のまま戦う
過去が奪われることに伴い、髪の福寿草も少しずつ散ってく
●たとえ失おうとも
「はわ……ダークセイヴァ―にも、こんなところがあるんですね……」
知らぬ街の景色を見渡し、レザリア・アドニス(死者の花・f00096)はふらふらと歩いていく。水底にある都市に見惚れているのか、彼女の足取りはゆったりとしていた。
桃蝶区と呼ばれる区域。
レザリアはその景色を満喫している。
赤い屋根、青い屋根、白い屋根と並ぶ大小様々な家々があるこの場所はどうやら居住区だったようだ。森を抜け、黒薔薇の咲く館に差し掛かったレザリアは、この都市に響き続ける歌と囀りを頼りにしてまめるりさまを探していた。
そのとき、鳴き声が聞こえる。
「……うわあ、ほんとうにまぁるくて、かわいいです」
『キミも忘れちゃえ』
『忘れてしまえばらくだよ!』
人魚が歌う忘却の歌を広げている瑠璃の鳥はそんなことを告げてきた。可愛らしいが容赦の出来る相手ではないと知り、レザリアは身構える。
油断も手加減もしない。
そのように誓ったレザリアは既に記憶を失っていた。忘れたのは自分の過去だ。
しかし、記憶がなくとも身体は覚えている。自身に刻み込んだ知識と経験だけは奪われないと信じていたレザリアは敵の出方を窺った。
そして、瑠璃の鳥は超もふもふモードになっていく。それが逆に好機だと感じたレザリアはそっともふもふした。
「ふわふわ……」
『……!?』
驚いた瑠璃の鳥がぴよっと鳴いて力を解除する。少ししか触れなかったと肩を落としたレザリアだったが、すぐに魔法の火矢を紡いで攻撃に入る。
幾つも生み出された炎の矢は鳥達を穿っていった。その間にも人魚の忘歌がレザリアの耳に届き、更なる記憶を奪っていく。
その瞳が段々と虚ろになっていったが、レザリアは本能のままに戦う。
何を忘れたのか。
それすらも分からない。思い返すこともなかった記憶は消え去り、喪失感だけが裡に巡っていった。
過去が奪われることに伴い、髪の福寿草も少しずつ散っていく。
それでもレザリアは戦い続けた。これが自分の使命だということだけはしっかりと把握し、鳥達を地に落とす。
「もう少し、もふもふしたかった……」
ぽつりと落とした言葉すらも今は虚ろな雰囲気だ。
そうして、辺りの敵を蹴散らしたレザリアは余った魔力を散らせた。この先に巡る戦いに勝てば失くした記憶も戻るはずだ。
ただそれだけを信じて、自分の名すら忘れた少女は進んでいく。
大成功
🔵🔵🔵
フリル・インレアン
ふわぁ、水の中でも息ができるなんて素敵です・・・ね?
ふぇ?私は今誰に話しかけようとしていたのでしょうか?
私はチームを組まず一人でここに来たはずですのに不思議ですよね。
あれ?やっぱり変です。
なんで、私は誰かに話しかけるように喋っているんでしょうね。
とりあえず、あのまめるりさま達を倒しましょう。
私があのまめるりさまをサイコキネシスで押さえておきますから
そこのガジェットさんは追撃をお願いします。
そう、私が忘れてしまったものは『アヒルさんとの出会いの思い出』。
アヒルさんが特別な存在からただのアイテムの一つになってしまったのです。
●忘却のアヒルさん
「ふわぁ、水の中でも息ができるなんて素敵です……ね?」
フリル・インレアン(大きな帽子の物語はまだ終わらない・f19557)は物珍しそうに、泡沫の中に包まれた都市を眺める。
「ふぇ?」
しかし不意にはっとした。自分以外に周りには誰も居ないというのに、フリルは独り言ではない言葉を発していたのだ。
「私は今誰に話しかけようとしていたのでしょうか?」
確かチームなどは組まずにひとりで此処に訪れたはずだ。他にも転送された猟兵はいるが、特に誰かと一緒になった記憶はない。
「ふえぇ、不思議ですよね」
急に不安な気持ちが襲ってきた。この都市には美しい聲が響いており、人魚の忘歌は記憶や感覚に作用して様々なことを喪わせていくらしい。
「あれ? やっぱり変です」
フリルはきょろきょろと辺りを見渡し、黒曜の都市を調べていく。
どうして自分は誰かに話しかけるように喋ってしまうのだろう。大きな独り言をいう癖はなかっただろうし、誰かがいる体で話すのもおかしい。
首を傾げたフリルだったが、気を取り直す。
進む先にあった枯れた木々に止まっている瑠璃の鳥を見つけたからだ。
「とりあえず、あのまめるりさま達を倒しましょう」
敵の名前だけはしっかりと覚えていたフリルはサイキックの力を使おうと決めた。そして、傍に控えていたガジェットに願う。
「私があのまめるりさまをサイコキネシスで押さえておきますから、そこのガジェットさんは追撃をお願いします」
そのガジェットこそがフリルといつも一緒のアヒルさんだ。
しかし今の彼女は何も覚えていない。そう、フリルが忘れてしまったものは『アヒルさんとの出会いの思い出』だったのだ。
「いきます……!」
フリルは至極真面目に、アヒルさんに振り回されることなくサイキックエナジーを解き放っていった。アヒルさんがいないフリルなどいつものフリルではない。
アヒルさんが特別な存在からアイテムになってしまった。たったひとつきりだった関係が、ただのひとつになってしまった。
そのことはフリルという存在を覆すほどの衝撃なのだが、当の本人が忘れているので誰も何も言うことはない。
そうして、フリルはアヒルさんを忘れたまま進んでいく。
奇妙な喪失感が胸を貫いていたが、それにすら気付けぬまま――。
大成功
🔵🔵🔵
五条・巴
綺麗な囀、鳥を撃ったと同時
不意に分からなくなったのは、自分のこと
あれ、急に身体が重たく感じる
自分は、なんだ
僕、俺、私
自分の呼び方も忘れた
無意識に、天を仰ぎ見る
何を探しているか分からないけど、何も見つからない。
水の中、広いはずなのに、どこまでも続くはずなのに
狭く、寒いと感じる
優雅に頭上を飛び交う鳥は、愛くるしい。
美しいものを見れば美しいと、
楽しいものを見れば楽しいと、
そう思えるけれど
なんだろう
何か、突然走るのを辞めたような
胸に手を当てる
息切れしてもいないし、心臓は正しく脈打っている
何故ここにいるかも分からない
理由が見つからない
?
……そういえば、今日は祈りを捧げなくてよかったんだっけ。
●月は遠く
泡沫の外の水が泡を孕み、大きく揺らいだ。
その理由は都市と水の境界近くで銃弾が撃たれたからだ。
美しく綺麗な囀りだと思った。そして、その声を止ませたくて瑠璃の鳥を撃った五条・巴(見果てぬ夜の夢・f02927)はふと首を傾げた。
スラム街であった紅蝶区の半分は今、泡沫の外にある。その近くに転送された巴は荒れた墓場にいた瑠璃の鳥を穿った。
しかし、不意に自分のことが分からなくなってしまったのだ。
「……あれ」
急に身体が重たく感じる。それまで軽く引き金を引いていたはずの指先すら動かすのが億劫だった。そして、浮かんでいくのは様々な疑問。
自分は、なんだ。
僕なのか、俺だったのか、それとも私だったのだろうか。自分の呼び方も忘れてしまった巴は無意識に天を仰ぎ見る。
水底から見えるのは水面だけ。巨大な魔力の泡が揺らいでいるので空は見えない。
こうしてはみたが何を探しているのだろう。
それも分からないが遠い空には何も見つからない。昏く揺らめく水の景色だけが周囲に広がっている。
水の中は広く、どこまでも続くはずなのに――狭くて寒い。
震えを覚えた巴は自分で自分を抱くように両手を腕に回し、首を振った。
「でも、綺麗だな」
優雅に頭上を飛び交う瑠璃の鳥は愛くるしい。水の境界の向こう側を泳いでいく魚もきらきらと鱗が反射していて綺麗だった。
美しいものを見れば美しい。
楽しいものを見れば楽しい。
そのように感じる心は変わっていない。けれども、どうしてだろう。
巴の裡に更なる疑問が巡る。
「……何か、突然走るのを辞めたような、不思議な感じだ」
胸に手を当ててみる。
ちいさな鼓動が掌に伝わってきた。息切れしてもいないし、心臓は正しく脈打っているので物理的に駆けてきたわけでもないようだ。
それに何故、ここにいるかも分からなくなっていた。理由が見つからず、あの鳥達を撃った前の記憶が何もかも無くなっている。
「――?」
僕は、俺は、私は、何。
自問してみても自らが答えを出せることはないのだと知った。仕舞い込んでいた銃を片手でそっと撫でてみても硬質な感覚が伝わってきただけだ。何も分からず、何をしていいかも思い浮かばなかった。
「……そういえば、今日は祈りを捧げなくてよかったんだっけ」
そんなとき、ふと零れた言葉。
それは遠い世界でしていたことのように思えた。しかし、それが何処だったのか。誰と一緒に祈っていたのだろう。それとも、ひとりきりで祈っていたのか。
分からない。判らない。解らない。
巴という名だった青年は昏くて遠い空を振り仰ぎ続けた。
光の届かない水の底。
月は視えない。あの光を求めていることも今の彼は知らないまま。静寂な街の空気の中に人魚がうたう忘我の歌が流れ続けていた。
大成功
🔵🔵🔵
兎乃・零時
アドリブ歓迎
維持できるかもお任せ
確か記憶が消えるんだよな…なんか怖いな…
鳥の声を聴いて
消える記憶は「最強を夢見る切っ掛けになった本を初めて見た日」
つまり
彼自身の抱く「夢の忘却」に他ならない
事前に知ってたから【覚悟】もしてた
それでも忘れそうな己が夢
待て待て待て待て!
夢を!
ゆめを!
これを…忘れるのは駄目だ駄目だ絶対駄目だ!
手放しそうな記憶を【気合い】で保つ
保ってみせる!
諦めねぇ…!(UC)
抗いながら鳥に光【属性攻撃・全力魔法】の魔力放射で倒し続ける!
これ(夢)は!俺の!ものだ!
誰にも奪われるものじゃねぇ!
これは、俺自身の人生であり目標なんだ…!!
決して…決して!
忘れていいもんじゃ、ねぇんだ……!!
●少年の夢
――ルララ、ルルラ、ラララ。
歌声が聞こえ、記憶が揺らがされていく。美しい聲だというのに怖いと感じるのは自分が自分でなくなる感覚が強いからだろう。
兎乃・零時(そして少年は断崖を駆けあがる・f00283)は震えそうになり、通りかかった孤児院らしき建物の庭を見遣った。其処には母子像があったが、母と子の部分に罅が入っており、像自体が割れてしまっている。
「……なんか、悲しいな」
ぽつりと呟いた零時は帽子を被り直し、頭を押さえた。
人魚が歌っているという忘却の歌に混じり、鳥の囀りが聞こえる。そして、孤児院の建物の上に潜んでいたらしき瑠璃の鳥の鳴き声が零時の記憶に作用した。
消えていく――。
そう感じた記憶は、最強を夢見る切っ掛けになった本を初めて見た日。
何故に分かったかというと、絶対に消えて欲しくはないと願っていたものだからだ。その記憶が無くなるということは即ち、彼自身の抱く『夢の忘却』に他ならない。
歌と鳴き声を聞けば何かを忘れると聞いていた。
ゆえに覚悟はしていたのだ。それでも、忘れそうになってしまう己の夢――だが、はっとした零時は声を張り上げた。
「待て待て待て待て!」
その声はかなり大きく、瑠璃の鳥がびくっと体を震わせる。それによって鳴き声が収まり、消えかけていた記憶が蘇った。
「夢を! ゆめを! これを……忘れるのは駄目だ駄目だ、絶対駄目だ!!」
零時は首をぶんぶんと横に振る。
彼なりに抵抗しているのだろう。気合いを入れるように足元を踏み締め、涙目になりながらも零時は耐えた。
気を抜けば今にも記憶を手放しそうになる。けれども保ってみせると自分に言い聞かせた。鳥の鳴き声はともかく、街中に広がっている人魚の歌の力は強い。
「諦めねぇ……!」
そうだ、此の世に不可能など決して無い。
全世界最強の魔術師になると誓った思いはこんなものだったのか。いいか零時、負けるな零時、強いぞ零時。自分を鼓舞した零時は拳を握り締める。
抗いながらも身構えた零時は瑠璃の鳥へと光の魔力を解き放った。鋭い一閃の放射が鳥を貫き、翼を散らしていく。
敵の数は多いが、魔力を紡ぎ続けることは止めない。
「これは……この夢は! 俺の! ものだ!」
この街を支配しようとしている吸血鬼は自分達の記憶を消し、舞台の演者に仕立てようとしているのだろう。だが、そんなことはお断りだ。
「記憶も意志も、夢も……誰にも奪われるものじゃねぇ! これは、俺自身の人生であり目標なんだ……! 」
鳥を撃ち落とし、記憶の忘却に抗い続ける零時は叫ぶ。
「だから、決して……決して! 忘れていいもんじゃ、ねぇんだ――!!」
刹那、激しい爆発が起こった。
その力によって周囲の瑠璃の鳥が全滅し、囀りが止む。息を切らせた零時は辺りが静かになったことを確かめ、更に拳を握った。
まだ人魚による歌は続いている。少しでも気を緩めれば夢が奪われてしまうはずだ。されど零時は負けはしないと誓った。
此処まで記憶を保てているのだ。それならば最後までこのままで居続けよう。
「行くぜ
……!!」
抗い続けることは苦しくて辛い。
それでも、夢を捨てるくらいならどんな苦しみにだって耐えてみせる。歌の聞こえる方を目指して進む少年はただ前だけを見据えていた。
大成功
🔵🔵🔵
樹神・桜雪
【WIZ】
忘れるのは自分の事。
ボクは過去がないと思っていたけれど、ここまで歩いてきた新しい思い出も含めてすべてをまた忘れてしまうのなら、今度はどうなってしまうのだろう。
忘れたくない、すごく怖い。抵抗するけど声を聞いたら思い出がポロポロと落ちていく。
そして最後にはまた全部忘れちゃったボクがいる。
戦わなくちゃとだけ覚えている。
覚えていなくても体が戦い方を覚えている。
マメルリ様の動きを冷静に見定めてからUCを撃つ。
暴れまわるなら捨て身のカウンターを狙いでUCを2回攻撃で撃つよ。
仲間がいるなら積極的に庇いにいくね。
何も覚えてないのにすごく胸が痛いのは何故だろう。
大切なモノがあったような気がするんだ。
●幾度目の喪失を
水葬の都をひとり、歩く。
聞こえ続けている声は美しくも儚い。不思議な印象を与える歌声だ。
それでいて鮮烈に耳に残るのは、歌に忘却の魔力が込められているからだろう。
「あれ、おかしいな」
樹神・桜雪(己を探すモノ・f01328)は歌を聞くたび、自分の記憶が少しずつ薄れていくことを感じていた。歌の効力であることは分かっていたが、何かが抜け落ちていく感覚は不安でしかたがない。
桜雪には元から過去の記憶がなかった。
しかし現在、今の自分が消えていくかのような心地が巡っている。
「ボク、このまま忘れちゃうの……?」
頭を押さえた桜雪は周囲を見渡した。黒蝶区と呼ばれる繁華街、その中の空き地にふらふらと歩を進めた。
自分には過去がないと思っていた。けれど今、ここまで歩いてきた新しい思い出も含めてすべてをまた忘れさせられてしまう。
もしそうなったなら今度はどうなってしまうのだろう。
「忘れたくない、すごく怖いよ」
抗おうと心を強く持つ。しかし、瑠璃の鳥が広げていく歌の力は桜雪の思い出を奪い取っていく。確かに過去はなかった。されど今は歩いてきた道程が新たな過去となって現在の桜雪を形作るものになっている。
(また、ふりだしに戻っちゃうんだ……)
きっと最後にはまた全部を忘れてしまった自分になる。零から始めたものがやっと一になったというのに、すべてが失われていく。
繁華街の最中にぽっかりと開いた空き地。賑やかだったはずの場所に不釣り合いな空白。それはまるで今の桜雪を表しているようにも思えた。
そして――。
「あれ? ボク……ううん、俺……?」
ふと顔をあげた桜雪は自分の一人称すら忘れてしまっていた。首を横に振り、辺りをもう一度見渡した彼はぼんやりと先を見遣る。
少し先に見えた店看板の上には囀る瑠璃の鳥がいた。
『忘れちゃったね』
『忘れたままでいいよ』
そんな言葉を紡ぐかれらは敵意を持っている。桜雪は自分のことを思い出せぬままでありながら、鳥達に透空の札を差し向けた。
「そうだ、戦わなくちゃ」
唯一覚えていたのはどうすれば力が使えるかということ。
投げ放った札が氷の花に代わり、マメルリハ達を次々と穿つ。記憶が喪われても身体に刻まれた経験が戦い方を教えてくれた。
舞う氷の花。鋭く巡る一閃。
戦いの終わりは呆気ないもので、地に落ちた鳥は消えていく。
僅かに忘我の歌の力が薄らいだ気がしたが、奪われたものは未だ取り戻せない。
「ねえ――」
桜雪は誰かに呼びかけようとして、はたとする。肩や頭に止まっているはずの何かが居ない。それが何だったのかも桜雪には分からなかった。
自分は小動物でも連れていたのだろうか。妙な切なさが胸を衝く。
「どうしてこんなに胸が痛いんだろう」
何も覚えていない。忘れたということだけを知っていることが辛かった。
大切なモノがあったような気がするのに、何故。
桜雪は華桜の薙刀を握り、とにかく前に進もうと決めた。都中に広がる歌が導く先にきっと記憶を取り戻せる何かがある。
虚ろな気持ちを抱きながら、桜雪はただそれだけを信じて進んでいく。
大成功
🔵🔵🔵
メアリー・ベスレム
SPD:忘れるもの
人狼病患者として隔離されていた過去
オウガに獲物として扱われていた過去
ふぅん、忘れてしまうの?
ええ、いいわ
だって、メアリにはもう必要ないもの
閉じ込められて、嘲われて
追いかけられて、玩ばれて
そんな、みじめなアリスの記憶なんて
手触りはとてもいいけれど
食い殺すには邪魔な羽根ね
最初のうちは【鎧砕き】で無理やり裂いて
何羽か試せばコツも掴めるでしょう?
そうなれば、あとは切って毟って屠殺して
おいしい鳥肉にしてあげる
……どうしてかしら?
忘れ去ってしまいたい過去を捨てて、身軽になった筈なのに
振るう刃がいつもより重い気がするのは
剥いた牙がいつもより鈍い気がするのは
●水底の国のアリス
境界の外で泡沫が浮かび、魚が水底の街を眺めるように泳いでいく。
不思議な泡に包まれた都に降り立ったメアリー・ベスレム(Rabid Rabbit・f24749)は桃蝶区と呼ばれている居住区内にある、ちいさな公園に居た。
何処かから歌声が響いている。
その声に混じって小鳥の囀りが聞こえる最中、メアリーは記憶が薄らいでいく感覚をおぼえていた。
「ふぅん、忘れてしまうの?」
話には聞いていたが、この感覚は実に奇妙なものだ。
メアリーが忘れていくのは人狼病患者として隔離されていた過去。そして、オウガに獲物として扱われていた過去だ。
脳裏に揺らいだ記憶の欠片が瞬く間に消えていく。しかしメアリーは動じない。
「ええ、いいわ」
だって、メアリにはもう必要ないから。
そう呟いた彼女は小鳥の声を辿り、忘歌の力を広げるかれらを倒すべく動く。
メアリーの中に残ったのは戦う意志。
何かを失ったという感覚は残っていたが今はそんなものになど構わなくていい。ただ敵である瑠璃の鳥を穿つだけだ。
自分に向かって飛んできた鳥を捉え、メアリーは赤い瞳を幾度か瞬かせる。
「手触りはとてもよさそうだけど、食い殺すには邪魔な羽根ね」
構えた刃の切っ先を敵に差し向けたメアリーは一気に腕を振るった。瑠璃の鳥の翼を無理矢理に引き裂いた彼女は勢いをつけ、更にもう一閃。
「なぁんだ、弱いじゃない」
吸血鬼の手先だと聞いていたが、一撃で沈むような弱いものたちだ。
これならば苦労はしないと感じて薄く笑んだメアリーは頬についた血飛沫を拭わぬまま、刃を振るっていった。
「あとは切って毟って屠殺して、おいしい鳥肉にしてあげる」
笑みを深めた彼女が行うのは食い殺すことだけ。
そうして暫し後、公園内にいた小鳥達はすべて屠られた。メアリーは刃を仕舞い込み、次の場所に向かう。
記憶を失っても彼女には何の感慨もなかった。
失くしたものはメアリーにとっては忌々しいもの。今の彼女にはもう何も思い出すことは出来ないが、記憶はきっと良いものなどではなかった。
閉じ込められて、嘲われて。
追いかけられて、玩ばれて。
そんな、みじめなアリスの記憶なんて忘れてしまった方が良いと此処に来る前は思っていたのだが、不意にメアリーの裡に疑問が浮かんだ。
「……どうしてかしら?」
忘れ去ってしまいたい過去を捨てて、身軽になった筈なのに。振るう刃がいつもより重かった。剥いた牙がいつもより鈍かった。
街中に巡っている忘歌は大切なものを奪い取るのだという。それならば――。
「忘れてしまった記憶は、メアリにとって大事なものだったの?」
ちいさく呟いた少女は首を傾げた。
しかし、その記憶はもう思い出せない。疑問に答えてくれる誰かもいない。それでも進まなければいけないのだと感じたメアリーは歩を進めていった。
その道筋を誘うかのように、人魚の歌が響いていく。
大成功
🔵🔵🔵
リオネル・エコーズ
いつもなら水底の街を楽しむけど、その余裕が無い
一緒に過ごした『人形』のみんなの事が薄れてる
嫌だよ
俺は忘れたくない
俺は、忘れちゃいけないんだ
帰りたいと泣いた人には怖くないよと恐怖を流す歌を
反旗を翻そうとしていた人には怒りが鎮まる歌を
そうやって俺の歌でみんなを生かし続けた
だって、生きてもらわないと困る
でなきゃ街の人達を…俺の家族を、守れない
だから『彼女』とみんなと、自分の為に歌い続けて
けど俺は世界を超えて、自由になってしまった
酷い事をした
忘れたいと何度も思った
でも、駄目なんだ
その筈なのに薄れていく
あの人達は…俺の、何だっけ?
黒薔薇のみんなを喚ぼう
小鳥を倒して進んでいったら…忘れ物、見つかるかな
●反響する歌
深海の彩をした髪が水底で揺らぐ。
転送され、降り立った先は黒薔薇の咲く館の近くだった。
双眸に水葬の街の景色を映したリオネル・エコーズ(燦歌・f04185)は辺りを見渡し、此処が何処であるのかを確かめていく。
吸血鬼と黒の人魚は薔薇が咲く庭園に居ると聞いていた。しかし此処は中心街から少し外れた桃蝶区という名の居住区らしい。黒薔薇違いかな、と察したリオネルは其処から歩を進め、街中に響く人魚の歌に耳を澄ませる。
「これはなかなか、すごい歌だね」
普段ならば水底の街を楽しむのだが、今はその余裕が無かった。
まだ到着したばかりだと言うのに一緒に過ごした『人形』のみんなのことが記憶から薄れていっていたからだ。
周囲からは歌だけではなく、小鳥の囀りも聞こえはじめた。
「……嫌だよ」
零れ落ちたのは消えていく記憶に対しての言葉。
だが、小鳥の鳴き声が忘却の歌の力を強めているらしい。抗おうとして掌を強く握ったリオネルは頭を横に振る。
「俺は忘れたくない。俺は、忘れちゃいけないんだ」
忘却などしないと決め、リオネルは大切なことを思い返していった。
嘗て自分は吸血鬼の所有物だった。
帰りたいと泣いた人には怖くないよと恐怖を流す歌を。反旗を翻そうとしていた人には怒りが鎮まる歌を。そうやって、これまで歌でみんなを生かし続けた。
だって、生きてもらわないと困る。
そうでなければ街の人達や俺の家族を、守れない。
だから『彼女』とみんなと、自分の為に歌い続けてきた。それなのに自分は世界を超えて、自由になってしまった。
人形として自分だけが解放されたのだ。
酷い事をしたと今でも思っている。あんな過去など忘れたいと何度も思った。
「忘れられるなら忘れたいよ。でも、駄目なんだ」
苦しいからこそ、失ってはいけないもの。辛くとも、あの過去は今の自分を形作るものである、或る意味で大切なものなのだ。
そう誓っていたはずなのに、忘却の歌によって思いが薄れていく。
握っていた掌の力が抜けた。
「あの人達は……俺の、何だっけ?」
そのときにはもうリオネルの裡からすべてが抜け落ちていた。何かを忘れたことだけを覚えているという不思議な形で記憶は奪われる。
はたとしたリオネルは行く先に瑠璃の鳥が居ることに気が付いた。
鳥達を戦わなければいけないと感じたリオネルは黒薔薇騎士団を召喚する。周囲に黒の甲冑を纏った騎士が現れ、リオネルが示した先へ向かった。
「――黒き薔薇よ、炎と共に咲け」
頼むよ、と告げた彼の声に応じる形で騎士達は次々と瑠璃の鳥を屠っていく。
歌を媒介していた小鳥達は一撃で倒れ、地に落とされていった。忘却の歌が響き続ける都の最中、リオネルは虚空を見つめる。
空虚な気持ちが胸を支配していた。きっとこれを喪失感と呼ぶのだろう。
「このまま進んでいったら……忘れ物、見つかるかな」
ぽつりと落とした言葉すら、今は虚しいものに感じられる。彼の髪に咲いたネモフィラが揺れる中、水と街を隔てる境界の向こうで泡沫がふわりと浮かんだ。
そして、リオネルは領主の館を目指して進む。
大成功
🔵🔵🔵
ルーチェ・ムート
アドリブ◎
聞こえる音
これが例の、
忘れるのは“彼と彼にまつわる物事全て”
すぽん、と何かが抜け落ちた感覚
あれ?
胸の辺りがすうすうする
おかしいな
わからないけど、戦わなきゃ
ボクは猟兵なんだから
真紅鎖を四方八方から創造して
念動力で自由自在に操り串刺しに
鎖
なんでボクはこれを創造したんだろう?
もっと扱いやすいものにすればいいのに
なんで?
揺れる頭部の装飾が邪魔
どうしてこんなもの
わからない
まるで花嫁のような
――まさか
ボクにそんな相手は居ない
戦うのは猟兵だから
たった、それだけ?
危険を犯してまで?
猟兵だからって義務で?
こんな空っぽのまま
命を賭して戦っている自分が信じられない
違う、きっと仲間の為
何故か薄っぺらく感じた
●疑念の茨と綻ぶ鎖
泡沫が巡る底に葬られた都。
広がる景色は退廃的であり、何処か美しさを感じさせる。
その理由はこの街に人魚の紡ぐ忘歌が響き続けているからだろうか。
黒曜の都市の最中、ルーチェ・ムート(无色透鳴のラフォリア・f10134)は心を奪われてしまいそうになる歌声を聴いていた。
「これが例の、」
かの人魚の聲なのだと察したルーチェは歩みを進めていく。
誘われるように辿り着いたのは桃蝶区と呼ばれる区域にある黒い茨の森。
はっとしたルーチェは胸元を掌で押さえる。導かれた先が都市の中にある不思議な森だったことにも少し驚いていたが、何かが抜け落ちた感覚が強く巡っていた。
「あれ?」
忘れてしまった。でも、何を――?
胸に穴が空いてしまったような、自分の中にあった根幹が揺らがされたような、妙な心地がしてならない。まるで心の裡が冷たい氷に閉ざされたみたいだ。
「おかしいな、どうしてだろう」
大切なものがあったはず。大事に仕舞っておいた想いもあったはずだ。
ルーチェは思い出せない何かを懐う。されど忘却の歌によって奪われてしまった記憶は見つからない。そんな中、ルーチェの耳に小鳥の囀りが届いた。
『大切なものは捨てちゃえ』
『忘れて、消して、しあわせになろう』
「……しあわせ?」
瑠璃の鳥達が語った言葉を聞いたルーチェは首を傾げる。何が幸せなのだろう。こんなに寂しくて、心に隙間が空いてしまったようだというのに。
分からない。解らない。
もしかすれば忘れてしまった方が良いことだったのかもしれない。それすら思い出せなかったが、ルーチェは身構える。
「とにかく戦わなきゃ。だってボクは猟兵なんだから」
今はそれだけが確かなことだ。
ざわめく黒茨の枝に止まっている瑠璃の鳥達。其処に指先を向けたルーチェは真紅の鎖を解き放った。鋭く迸った鎖が鳥を絡め取り、羽を散らしていく。
真紅の軌跡は標的を串刺しにしていき、次々と敵を地に落としていった。
だが、不意に疑問が浮かぶ。
「なんでボクはこれを創造したんだろう?」
もっと扱いやすいものにすればいいのにどうして。その思いは疑念に代わり、鎖の力が徐々に弱まっていく。更には自分が身に纏う衣装も不思議に思えてきた。
まるで花嫁のような飾りと服。何故、邪魔でしかないこんなものを付けているのか。
「――まさか。ボクにそんな相手は居ない、よね……?」
戦うのは猟兵だから。
けれど、たったそれだけ? 危険を冒してまで、ただ猟兵だという義務だけで命を賭けるなんて。自分自身までも信じられなくなりそうな感情が広がっていく。
周囲に居た瑠璃の鳥はすべて鎖が貫いた。
しかし勝った気になどなれない。胸が空っぽのままで戦っている自分が信じられずに、ふらふらと歩き出したルーチェは茨の森を彷徨った。
「違う、きっと仲間の為に……ううん、違う。ボクは……」
言い訳のように紡いだ言葉は何故か薄っぺらく感じた。歩く度に黒い茨が衣服を破り、肌にもちいさな切り傷をつくる。
痛い。身体もだけれど、心の方がもっと痛い。
ルーチェは焦燥と喪失感を抱きながらも歩みを止めなかった。膝をつくことは簡単だが、それではこの気持ちの意味がいつまで経っても知れないだろう。
「探さなきゃ」
覚悟の証拠と守りたいえにしすら忘れてしまった少女は、ただ前を見据えてゆく。
失ってしまったものを。そして、大切な心を取り戻すために――。
大成功
🔵🔵🔵
緋翠・華乃音
自称妹こと朝日奈・祈里(f21545)と共に
記憶の忘却が前提なら幾つか策は立てられる。
どの記憶が消えるのかは分からないが、それは何とかしてみせるさ。
彼女の言葉に頷いて短く応答。
拳銃、抜銃。
ダガーナイフ、抜刃。
構えぬ構えは無形の位。
目を瞑っていても反響定位で地形や位置が分かる。
やがて劇の幕が上がる。
鳥が囀ずるたび、囁くたび、歌うたび、不思議と心が澄んでいく。
忘却に蝕まれている筈なのに。
予定調和。
何を忘れたのかは分からない。
けれど。
敵を殺せという自分への命令は効力を失しないから。
だから、そう。何も問題は無い。
問われた言葉。
瑠璃の瞳が納得と寂寥を映す。
忘却したのは自分自身。
ああ――これは、悪くない。
朝日奈・祈里
お兄ちゃん(f03169)と参加
POW&WIZ
家族ごっこを始めてどれくらい?
実は共闘したことなかったよな
攻撃は任せた。敵の足止めは任せろよな
失いたくないというほど執着しているものはないし
忘れたいものはもう忘れた
忘れたくないものも忘れてるしな
己のことを忘れなければ大丈夫だろう
手に名前でも書いておく?なんて
来たぜお兄ちゃん
援護は任せろ!
囀りが聞こえる
うたが聞こえる
抜け落ちる記憶
ぼくは誰だ
ぼく?
わたしは、じぶんは?
縋るように傍らを見上げる
つめたく整った貌
きみは、だれ?
掌には見慣れぬ名前
こんな記号、無意味だ
自分を見失ったからか、精霊が消えていく
●青と白の狭間
湖底に沈んだ黒曜の都。
此処は今、吸血鬼の力によって泡沫に包まれている。
水底に眠っていた街を見渡すと黒い聖女像が視界に入った。きっとこの都の象徴なのだろう。朝日奈・祈里(天才魔法使い・f21545)は双眸を軽く細め、緋翠・華乃音(終ノ蝶・f03169)と共に街を往く。
二人が進んでいくのは、以前は歓楽街だったという青蝶区の最中。
「お兄ちゃん、あれって……」
「見世物小屋の跡地か」
祈里が指差した箇所を見遣った華乃音はさほど興味がなさそうに頷いた。嘗ての黒曜の都市が栄えていたことは、そこかしこから見受けられる。
だが、今は人魚の歌が響くだけの心淋しい場所へと成り果てていた。
聞こえる聲は忘却を齎す魔力を孕んでいる。されど華乃音も祈里も、そのことを折り込み済みでこの場に訪れていた。
それに前提が分かっているならば幾つか策は立てられる。
どの記憶が消えるのかは分からないが、それは何とかしてみせよう。華乃音が周囲の気配を探って進む後に続き、祈里はふと問いかける。
「お兄ちゃん。家族ごっこを始めてどれくらいだったっけ?」
「さあ、忘れたな」
「それは忘却の歌のせい?」
短く答える華乃音に対し、祈里は冗談めかして更に質問を投げかけた。違う、と首を振った華乃音は青蝶区の先を目指して進んでいった。
祈里は掌を軽く広げ、何処からか聞こえてくる小鳥の囀りに意識を向ける。
人魚の歌に加え、瑠璃の鳥の聲は忘却を促すのだという。しかし失いたくないというほど執着しているものはないし、忘れたいものはもう既に忘れた。
「忘れたくないものも忘れてるしな。取られるとしたら自分?」
「そうかもしれないな」
「じゃあ、手に名前でも書いておく?」
祈里が提案すると、華乃音はそれも策のひとつだろうと答えて頷く。祈里はさっそく掌に自分の名前を記し、ついでに彼の名も横に書いていった。
漢字は幼さを感じさせる形で歪んでいるが、上手く書けている。
そんな中、華乃音が拳銃を抜いた。
祈里は彼の視線が向いた方向に目を遣り、敵が姿を現したのだと察する。
「来たぜお兄ちゃん。援護は任せろ!」
「ああ」
家族ごっこはそれなりに長いが共闘はこれが初めてだ。攻撃は任せた、と告げた祈里は自分は敵の足止めを担うことを伝えた。
ダガーナイフも一緒に抜き放った華乃音は構えない。だが、それは無形の位。目を瞑っていても反響定位で地形や位置が分かる。それが彼の戦法だ。
そして――彼らが演ずる劇の幕が上がる。
『キミたちはきょうだい?』
『じゃあそのことも忘れちゃえ!』
人語を喋る瑠璃の鳥は無邪気に語り、華乃音達に囀る声を向ける。対する祈里は光の精霊レムを召喚していった。
白のメッシュが浮かび、目映い光が敵の目を眩ませていく。
「今だ、お兄ちゃん」
「……」
祈里の呼び掛けには無言のまま、行動で応えた華乃音は地を蹴った。撃ち放った弾丸で一羽目を貫き、一気に距離を詰めたもう一羽は刃で切り裂く。
瞬く間に二体の敵を屠った華乃音は身を翻し、更なる攻勢に出るべく動いた。
しかし、小鳥達も囀り続ける。
囁き、歌う。そのたびに不思議と心が澄んでいく感覚をおぼえたのは華乃音。その反面、祈里には喪失感が齎されていった。
抜け落ちる記憶。それは何故か妙に慣れた感覚だった。
――ぼくは誰だ。
――ぼく? わたしは、じぶんは?
祈里は精霊を見上げてから、視線の先にいる華乃音に目を向けた。
振り向いた彼は冷たい眼差しを向け返す。整った貌に見覚えはなかった。否、忘れさせられたのだと気付いた祈里は問う。
「きみは、だれ?」
「さあ、忘れてしまったな」
先程に交わした言葉と似た声が落とされた。されど、違うのは本当に彼が自身を忘れ去ってしまったということ。
だが、忘却に蝕まれている筈なのに華乃音の心に不安は浮かばない。
予定調和だと感じていたからだ。
それでも敵を殺せという自分への命令は効力を失わない。だから何も問題は無いのだと己に告げ、華乃音は再び得物を振るう。
彼が残る鳥を倒していく最中、祈里は自分の掌を見下ろしていた。
「……いのり、かのん」
感情の籠もっていない声で、記されていた文字を読む。どちらがどちらの名前なのかはわからない。自分を見失ったからか、いつのまにか精霊は消えていた。
こんなものは記号であり無意味だ。
そう断じようとした祈里だったが、ふと華乃音の名の下に付け加えられた文字を読む。
「おにいちゃん?」
「ああ」
その声に華乃音が振り返り、ちいさく頷いた。
問われた言葉にはどうしてか聞き覚えがある。彼の瑠璃の瞳は納得と寂寥を映し、静かに伏せられる。
完全に自分自身を忘却したのだと察した彼は胸中で独り言ちた。
(――これは、悪くない)
そんな華乃音を祈里は何処か不安げに見上げ、服の裾を掴む。よくわからないが彼は兄という存在らしいと判断した祈里は先を示す。
「行こう、お兄ちゃん」
「そうだな、進むしかないか」
人魚の忘歌は二人の記憶を奪い去ってしまった。それでも自分達がやるべきことだけは頭の中に残っている。
視線を交わした青年と幼女は歩き出した。
青蝶区の先。その向こうにあるという、白蝶区を目指して――。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
泉宮・瑠碧
僕の中から、消えていく
過去の、僅かな、温かい記憶達
その時に知った、嬉しいや幸せも…
生きる楔も…
?
私…僕って何だろう…
こんにちは、鳥さん達…マメルリハさん?
私はルリだから、少しお仲間かな
その名前も、朧気だけれど…
覚えている事があるの
鳥さん達が、ゆっくり眠れる様に…子守唄を届ける事
子守唄で永遠揺篭
誰かの開く舞台ではなく、貴方達が楽しく仲良く囀る舞台
…穏やかな夢を見て、おやすみなさい
彼らを介して何を忘れても、私は良いの
それより
どうか、この子達が穏やかに眠れますように…
ずっと
私という意識は要らない
そう説かれても、散る命を見掛けては悲しくて
隠れて泣いていたから…
…?
何故、要らない私に、名前があるのかな…
●硝子の心
透き通った歌声が響き渡る。
廃都となった水底の街に似合う、とても美しく綺麗な聲だと思えた。
「どうしてこんなに……」
心が揺さぶられるのだろうかと呟いた泉宮・瑠碧(月白・f04280)は自分の胸元を押さえる。美し過ぎるからか、ぞっとした。綺麗過ぎるからこそ遠ざけたいと感じる。
そのような思いを抱かせる歌声が瑠碧の耳に届き続けた。
それは忘却を宿す歌だ。瑠碧は思わず眼を閉じ、齎される感覚に抗おうとする。
(――消えていく)
しかし、頭の中から何かが零れ落ちていった。
それは過去の記憶。僅かでも、確かにあたたかいと感じた思い出の数々だ。
閉ざされていた世界に射した光。
言葉にするならばそんな記憶。そのときに知った嬉しい気持ちや幸せな心地。そして、生きる楔も何もかもが失われていく。
「……?」
瑠碧は閉じていた瞼をひらいた。
忘れたくないと思っていたことがあったはずなのに、何であるかが思い出せない。
「私……僕って何だろう……」
不安気な言葉を落とした瑠碧は周囲の景色を見遣った。その場所は黒蝶区と呼ばれていたらしい繁華街の最中だ。
宿と観劇ホールのような建物が見える。此処も嘗ては栄えていたのだろう。自分を失ってしまった瑠碧の意識はぼんやりとしている。
暫し過去にあった都の姿に思いを馳せていると、其処に青い鳥が飛んできた。
「こんにちは、鳥さん達。マメルリハさん?」
『ぼくたちはね、りるるり!』
『座長と人魚さまが呼び名をくれたんだ!』
『ぼくたちが息子みたいだからなんだって!』
瑠碧が問いかけると、瑠璃色の鳥達はそれぞれに好きなことを語りはじめる。瑠碧は不思議な感覚をおぼえながらそっと前に歩み出た。
「私はルリだから、少しお仲間かな。その名前も、もう朧気だけれど……」
覚えていることがあるの。
そう告げた瑠碧は花唇をひらく。それはね、と語られた言葉は――。
「鳥さん達が、ゆっくり眠れるように……子守唄を届けること」
倒すのではない。吸血鬼の手駒として使われているかれらに眠りを齎すだけだ。子守唄めいた永遠揺篭の詩を紡いだ瑠碧は優しい声を響かせてゆく。
「誰かの開く舞台ではなく、貴方達が楽しく仲良く囀る舞台へ。……どうか穏やかな夢を見て、おやすみなさい」
その言葉と共に、姿無き眠りの精霊が力を巡らせていった。
対する瑠璃鳥たちも囀りを返し、瑠碧の記憶を更に奪い取る。しかし今の瑠碧は彼らを介して何を忘れたっていいと感じていた。
それよりも、この子達が穏やかに眠れますように、と願い続ける。
遠い過去、誰かが言っていた気がする。
――貴女という意識は要らない。
そう説かれても散る命を見掛けては悲しくて、隠れては泣いていた。けれどそれはいつのことだっただろう。次第に何も分からなくなってくる。
眠りの揺篭はオブリビオン達を包み込み、静かな終わりを与えていった。
囀りは鎮まり、幽かな静寂が満ちる。そのときにはもう、瑠碧は自分の名前を思い出せなくなっていた。
「そうだ、名前……。どうして私に、名前があったのかな……」
忘れたなら要らないものなんだ。
自分という存在に意志は不要なのかもしれない。忘れ去った中で唯一残っていた意識が胸の奥に重く滲む。
そうして、虚ろな心を抱いた彼女は歩いていく。
紡がれ続ける人魚の歌に導かれるように、黒曜の都市の中心へと――。
大成功
🔵🔵🔵
ユヴェン・ポシェット
何だか不思議な所だな。
例え忘れようとも、失おうとも…取り戻す、必ず。だから進む
最も失いたくない存在
それは…
『ミヌレ、ロワ、タイヴァス、テュット』
彼等で俺は成り立っていると言っても過言ではない、
なら彼等を俺から無くしたら俺は一体…。
…ユヴェン?誰だそれは。
俺の名はユ…ド…………
否、そんな事はどうでもいい。
俺は、ただやるべき事をするだけだ。
だが今までどう戦ってきたのかがわからない。とても大切な槍…そんな気がするのに
何故、動かない?
UC「halu」
この力は…いつから俺が使える様になったのか判らないが…似た力を持つ聖獣が嘗ていた。
これならば…
片腕を蔓へと変え鞭の様に振るい戦う。所々に混ざる石は刃となる
●失くしても尚
水中都市に満ちる歌声。
美しく響き、魅了されてしまいそうな人魚の聲を聞きながら、ユヴェン・ポシェット(Boulder・f01669)は黒曜の都を歩いていく。
「何だか不思議な所だな」
世界から切り離されたような街からは歌しか聞こえない。
嘗てはあったはずの賑わいも、人々の気配も消え去っている。街中に響き渡っている忘歌によって全てが忘却の彼方に沈んでしまったかのだろうか。
「俺も例外ではないのだろうな……」
蠱惑の歌に抗うことは難しいだろう。しかし、たとえ忘れようとも、失おうとも取り戻す。だから進むのだと決め、ユヴェンは先を目指す。
黒蝶区という場所の洋品店だったらしき建物の前を通りつつ、ふと思う。
ユヴェンにとって最も失いたくない存在。
それは――ミヌレ、ロワ、タイヴァス、テュット。
相棒の槍竜と金獅子、巨鷲と外套。自分は彼等の助けによって成り立っていると言っても過言ではないはずだ。
それならば彼等を失くしたとしたら?
「俺は一体……」
妙な頭痛がした。響き続ける歌はあれほどに綺麗だと言うのに、心が蝕まれていくようだ。頭に掌を添え、壁に寄りかかったユヴェンは不意に疑問を浮かべた。
「……ユヴェン?」
自分の呼び名だったはずの言葉が遠くなる。誰だそれは、とまで思ってしまう。
違う、と呟いた彼はふらふらと歩んでいく。
「俺の名はユ……ド
…………」
否、そんなことすらどうでもいいと感じられた。記憶が消されていく中でも戦いへの意志は残っている。
自身と己を取り巻くものが消し去られていく。
喪失感が胸を衝くが、それでも歩みを止めはしない。
「――俺は、ただやるべき事をするだけだ」
青年は傍らに携えていた槍を強く握り締めた。しかし、今までどう戦ってきたのかがわからない。これもとても大切な槍だった気がするのに今はただの武器だ。
「何故、動かない?」
何かに呼びかけようとした彼だが、言葉が続かない。
一体、何に救けを求めようとしたのだろうか。己を失った青年は何とか今使える力を発動させてゆく。
見据えた先には瑠璃の鳥が囀っていた。
あれを倒さなければ、と考える彼は僅かな記憶の中から似た力を持つ聖獣がいたことを思い出す。いつから自分が使えるようになったのか判らないが、この一手ならばオブリビオンを貫くことができるはずだ。
「これならば……」
すまないと、口にした彼は忘歌を媒介して広げていく瑠璃の鳥を穿った。
蔓へと変えた片腕を鞭の如く振るい、オブリビオンと戦う青年。所々に混ざる石は刃となり、そして――。
「この歌の、元へ……行かなければ」
敵を地に落とした彼は誘われるように再び進みはじめる。
失おうとも必ず取り戻す。何を失くしたのかは分からずとも、その心だけは未だ胸の裡に宿り続けていた。
大成功
🔵🔵🔵
御園・ゆず
水族館みたい
…もっとも、展示物はわたし達のようですが
聞こえる。声が。
そうですね、全てを忘れられたらどんなに楽でしょう
しかしそれでは空の器
わたしではない操り人形
この水底でわたしは流れていく
失いつづけながらも流れていく
わたしは役者
なんにでもなれる
この舞台の主役にだって
スクールバッグからスコーピオンを出し、弾を吐き出す
たたたん、たたん
弾丸と共に何かが失われて行く
たたたん、たたん
嗚呼、嫌だな
おぼろげにしか思い出せなくなったあの人の顔
たたたん、たたん
あの人の声
たたたん、たたん
猟兵になったばかりのわたしに居場所をくれたあの人
たたたん、たたん
救いたいと、思った
たたたん、たたん
戦う理由をくれた
ああ、誰だっけ
●誰かの声
泡沫の中に閉じ込められた街。
その中から水面を見上げた御園・ゆず(群像劇・f19168)はふと感じた。
水族館みたいだ、と。
水の境界の向こう側には魚が泳いでいる。この黒曜の都市に吸血鬼が戻ってくる前はあの魚達もこの街の中にいたのかもしれない。
「……もっとも、展示物はわたし達のようですが」
吸血鬼は自分達を、舞台の演者として募っているような気がする。水族館の展示物もまた演者と同じようなものなのだろう。
ゆずは軽く首を振り、青蝶の名を持つ区域に進んでいく。
その間も聞こえるのは街中に広げられている人魚の歌。大切なものを忘却させるらしい歌声は否応なく耳に届いてくる。
――ルララ、ルルラ、ララル。
――リルルリ、リルルリルルリ。
その声は語っている。何もかもを忘れて、消し去ってしまえばいい。
「そうですね、全てを忘れられたらどんなに楽でしょう」
ゆずは歌に答えるように呟き、黒い聖女像の前に差し掛かる。瑠璃の鳥の囀りも近くに聞こえはじめ、敵が近いのだと察した。
忘却への誘いはやさしい。
しかし、何もかもを失った自分は空の器になってしまう。
わたしではない、ただの操り人形だ。そんな風に感じたゆずは目を閉じた。
流れる水の音が幽かに聞こえる。
(――この水底でわたしは流れていく。失いつづけながらも流れていく)
歌声によって記憶が奪われていった。
されど、それはこの舞台に立つための資格を得ることでもあるはずだ。だから、とゆずは自分に言い聞かせていく。
「わたしは、役者」
なんにでもなれる。そう、この舞台の主役にだって。
瞼をひらいたゆずはスクールバッグから蒸気ガトリングガンを取り出す。スコーピオンという名を冠する銃を構え、聖女像の上に止まっている瑠璃の鳥に銃口を向けた。
『忘れちゃえ。忘れちゃえ』
『忘れた? 忘れた?』
まるでくすくすと笑うように言葉を囀る鳥達は翼を広げる。その声に答えぬままゆずは敵を捉えた。刹那、スコーピオンから弾が吐き出されていく。
たたたん、たたん。
軽快にも聞こえる音が響き、弾丸が共に何かが失われて行く感覚が巡った。
たたたん、たたん。
「嗚呼、嫌だな」
零れ落ちた声は無意識のものだった。ゆずが忘れていくのは誰かの顔。もうおぼろげにしか思い出せなくなっていたのに、あの人の顔を更に忘れていく。
たたたん、たたん。
声が遠くなる。掛けてくれた言葉も忘れてしまう。
たたたん、たたん。
銃声だけが聞こえる。街に響く歌声はもう聞こえていて当たり前のものになっているゆえに意識すらすることはなくなった。
誰だったかな。猟兵になったばかりのわたしに居場所をくれたあの人は。
救いたいと、思った。戦う理由をくれたはずなのに。
――ルラル、ルルリ、リリル。
――リルルリ、リルル、ルララ。
人魚の歌はすべてを忘れさせていった。失くした方が良いのだと誘うように静かに美しく響き続けていく。記憶に霧が掛かったかの如き感覚に沈みながら、ゆずは思う。
ああ、誰だっけ。
本当に、忘れてしまった方が良いのかもしれない。
「……舞台に、」
上がらなきゃ。何故だかそんな思いが強く巡り、ゆずはスコーピオンを下ろす。
いつのまにか瑠璃の鳥は全て地に落ちていた。
鳴かなくなったそれらを見下ろしたゆずは再び瞼を閉じ、次はすぐにひらく。進む先は吸血鬼と人魚がいるという領主の館。
其処に向かうことが今の自分のやるべきことだと感じて、少女は進む。
大成功
🔵🔵🔵
セフィリカ・ランブレイ
おー、みてシェル姉。不思議な場所!隅々まで見て回りたくなっちゃう
《はいはい後にして。アンタは昔から集中力がないのよ》
もう。お小言が多いんだよシェル姉は
相棒の意志ある魔剣シェルファと会話しつつ探索
敵はあちこちにいる。片っ端からいくよ!
カワイイけど手加減無し!
【WIZ】【蒼剣姫】を発動
魔剣を強化し、空間を蹴って機動力を加速させながら町をめぐり、マメルリハの数を減らしていく
……私は誰だっけ?
今迄何をしてきた?
目的はこの街を救うこと。それは覚えてる
この剣、何で喋るんだろう?
ああそれにしても、体がよく動く
やりたいと思ったことが、何でもできる
ああ、楽しい
いつの間にか、口元に浮かぶのは残酷に吊り上がった笑み
●蒼剣の血姫
「おー、静かな雰囲気の街だね」
水底の都市に降り立ち、セフィリカ・ランブレイ(蒼剣姫・f00633)は辺りを興味深そうに見回していた。
セフィリカが立っているのは嘗ては繁華街だった場所、黒蝶区。周囲には洋品店に宝飾店、パン屋だったような看板が掛けられている廃墟が見える。
「みてシェル姉。不思議な場所!」
セフィリカが呼び掛けたのは彼女が持つ相棒、意志ある魔剣シェルファだ。
「隅々まで見て回りたくなっちゃうね」
『はいはい後にして。アンタは昔から集中力がないのよ』
「もう。お小言が多いんだよシェル姉は」
そんな会話をしつつ、セフィリカは探索を開始した。
街に響く人魚の歌声は忘却を齎す。そして、歌に混じって聞こえてくる瑠璃の鳥の鳴き声はそれを更に増幅するのだという。
此処が中心部に近いからか、鳴き声はそこかしこから聞こえてきている。
「敵はあちこちにいるみたいだね。片っ端からいくよ!」
『油断はしないようにね』
「わかってるよ。カワイイけど手加減無し!」
シェルファの言葉に頷きながら、セフィリカは己の力を発動する。
蒼剣姫――ソードプリンセス。
巻き起こった蒼きオーラが彼女の身を包み、魔剣シェルファの力が増幅していった。魔力壁を展開したセフィリカは空間を蹴りあげる。機動力を加速させながら黒蝶区を巡り、囀るマメルリハを減らしていく。
だが、その度に何かが零れ落ちていく感覚に陥った。
否応なしに耳に入ってくる忘却の歌がセフィリカ自身を削ぎ取っていくかのようだ。
あれ、と首を傾げた彼女は不意に立ち止まる。
「……私は誰だっけ?」
いつのまにか自分のことがわからなくなっていた。
不思議な力が己に巡っており、その使い方はよくわかる。目的はこの街を救うことだとも覚えていた。
「今迄何をしてきたんだっけ?」
しかし、それ以前のことが曖昧になっている。その間にも剣が何事かを喋っていたが、どうしてか頭に入ってこなかった。
思い出して。アンタには忘れちゃいけないことがある。
そのようなことを剣がしきりに言っているが、何故か聞く気にはなれない。
「この剣、何で喋るんだろう? ……まぁ、いっか」
再び魔力壁を蹴り上げたセフィリカはひといきに駆け出す。まだ敵がたくさんいるのだから全て蹴散らさなければならないと感じていた。それに身体が先程よりもよく動く。やりたいと思ったことが、何でもできる。
――ああ、楽しい。
鳥達を切り裂き、夥しい血を散らしていくセフィリカ。
その口元に浮かんでいたのは残酷に吊り上がった深い笑みだった。
大成功
🔵🔵🔵
華折・黒羽
忘れたくないと抗った
屠を振るい
黒帝を呼び
響き続ける歌を斬り、喰らって
けれど
削れていく
留めようと思い出を胸に宿す度に
絡みつく様に真実が囁く
あの子は死んだ
受け入れようとしている
前を向こうとしている、けど
そんなに簡単にできるわけ、ない
喪失を止められない
仲間が、消える
戦っているこの人達は誰
思い出が、消える
笑いかけてくれるあの人達は誰
自分が、消える
「華折黒羽」というのは──誰
抗ったところで何が変わるというのだ
もうあの子はいないのに───、…あの子って?
抗う力を削ぐ様に哀しみがこの身を覆って
喪失を喪失で塗り潰す
「──弱いお前等、要らないよ」
喪失に沈んだ記憶の残骸から聴こえた聲
その聲を、知っている
父さま
●聲
水底の都市、黒蝶区の西。
スラム街だった区域に繋がる道を背にして進む。
脳裏を揺らがすほどの感覚が華折・黒羽(掬折・f10471)を襲っていた。それはこの都に現れた吸血鬼が連れている黒き人魚の歌声が齎す感覚だ。
片手を頭に添え、黒羽は抗う。
忘れたくはない。
強く思う度に頭が割れるように痛くなる。それは人魚の歌を広げている瑠璃の鳥の囀りの所為でもあるのだろう。
行く先に青い羽を見咎めた黒羽は屠を手にして一気に攻勢に出る。
漆黒の獅子、黒帝を呼んだ彼はその背に騎乗した。響き続ける歌を斬り、喰らっていくかの如く瑠璃の鳥を蹴散らす。
しかし、人魚の歌は止まない。鳥を屠ることで確かに忘歌の力が弱まっているというのに削れていく。
それは記憶なのか、それとも己自身か。
「……いかないで」
気付けば黒羽は何かに縋る言葉を落としていた。記憶が零れ落ちていく感覚は置いていかれているような気持ちを呼び起こしている。
留めようとして思い出を胸に宿す度に、絡みつくように真実が囁く。
――あの子は死んだ。
違う。
――もういない。
そうだ、違わない。間違いない。
その事実を知り、認めて受け入れようとしていた。必死に前を向こうとしているが、思考と心は相反していた。
これまでずっと否定してきたことがそんなに簡単に納得できるわけがない。
失ったという真実を忘れてしまう。
喪失を止められず、黒羽は屠を振るいながら一筋の涙を零していた。泣き虫、という言葉は誰が言っていたのだっただろう。何も分からなくなっていた。
過去の記憶が消え、仲間が消える。思い出が、消えてゆく。笑いかけてくれるあの人達は誰だったのか。そうして、ついに自分を形作るものが消えた。
華折黒羽。
その名を与えられたのは一体――誰?
黒羽だった者はふと疑問を抱く。抗ったところで何が変わるというのだ。
「もうあの子はいないのに――、……あの子って?」
一番大切だったものすら忘れ去り、獣人紛いの青年は俯く。自分を乗せてくれている黒帝のことは辛うじて分かった。戦い方も忘れてはいない。
それゆえに彼は進む。
囀り続ける青い鳥を散らし、斬り裂き、黒蝶区を抜ける。
抗う力を削ぐ様に哀しみが身を覆う。喪失を喪失で塗り潰すようにただ戦う。そのとき、胸の奥で誰かの声が響いた。
『――弱いお前等、要らないよ』
喪失に沈んだ記憶の残骸から聴こえた聲は酷く冷たい。
その聲を、知っている。そう感じた彼は無意識に声の主の呼び名を口にした。
「……父さま」
応えてくれる人はいない。胸裏の奥深く、沈んだ記憶の中から僅かに思い出した厳しく強い表情が何だか恐ろしく思えた。
俺は、自分は、何?
疑問を抱いても自分の中に答えはない。
そして、彼は更に進み続ける。残虐劇の舞台となったこの街の演者として、導かれるように人魚の歌を辿って――。
大成功
🔵🔵🔵
宵鍔・千鶴
【POW:亡き母と幼馴染】
水底に響く鳥の囀り
霞がかって沈んでいくものは
嘗て愛してくれた母の優しい眼差し
嘗て柔らかな声音で名を呼んで導いてくれた幼馴染のきみ
二度と世界中の何処を探しても懇願しても
逢うことは叶わないから
唯一の優しい欠片の記憶を繋ぎ止め
常人の振りを保っていた哀れな道化
薄れていく温かなものに手を伸ばし必死で藻掻いて
嫌だ、いやだ、置いていかないで
いっそ凡て忘れたいと願う日も在ったけど
失くす痛みと恐怖は其れを凌駕したから
――プツリ、と糸が千切れる音がした
残ったものは大嫌いな自分と狂気のみ
昏い海に侵され、歪んだ嗤い声が響く
引き抜いた耀夜の刃を唄う鳥へ突き付け
――噫、幕は上がった、愉しい殺戮だ
●かくりよに沈む
深い水底に閉じ込められた舞台の世界。
今のこの都市を言葉にするならばきっと、そんな表現が相応しい。
水の境界の向こう側で泡が弾けた。吸血鬼と人魚の力によって泡沫に包まれたこの場所は、その泡のように危うい世界であるとも感じられる。
「綺麗な歌だな……」
宵鍔・千鶴(nyx・f00683)は都に響く歌声に耳を澄ませた。
この歌は己の記憶を奪っていくものだ。しかし、耳を塞いで心を閉じたとしても簡単に抗えるものではない。
スラム街の最中、紅蝶区と呼ばれる場所。
今にも崩れそうな家の前で千鶴は立ち止まった。その理由は裡にあるものが薄れていく感覚をおぼえたからだ。
水底に響く鳥の囀りと共に、霞がかって沈んでいく記憶。
それは嘗て愛してくれた母の優しい眼差し。そして、嘗て柔らかな声音で名を呼んで導いてくれた幼馴染のきみの言葉。
「消されていくのが、この思いだなんて――」
朧気になっていく思い出を繋ぎ止めようとふたりのことを考える。だが、胸裏に浮かべれば浮かべるほどに奪われていくようだ。
二度と逢えないひと。
世界中の何処を探しても、懇願しても出会うことは叶わないものたち。
唯一の優しい欠片の記憶を繋ぎ止め、常人の振りを保っていた哀れな道化の思い。それらが零れ落ち、自分の中から失われていった。
薄れていくのは温かなもの。必死で藻掻こうとしても駄目だった。水中に生まれた泡のように浮かんでは弾けて、消える。
――嫌だ、いやだ、置いていかないで。
掴めないものに手を伸ばした千鶴は胸を衝くような痛みを感じていた。
いっそ凡て忘れたい。そう願う日も在ったけれど、失くす痛みと恐怖は其れを凌駕したから、憶えていたい。
それなのに忘歌は容赦なく千鶴の記憶を滲ませていく。
零れ落ちた雫が地面を濡らした。大切だったものがそうではなくなる瞬間――プツリ、と糸が千切れるような音がした。
がくん、と項垂れる千鶴。俯いた彼の表情は暫し見えなかった。喪失感に苛まれているのだろうか。
しかし次に顔をあげたとき、千鶴の口許は歪められていた。
先程から聞こえていた鳥の囀りを辿った彼は耀夜の刃を引き抜く。やさしい記憶を失った千鶴の裡に残ったものは、大嫌いな自分と狂気のみ。
「……はは、あははは!」
昏い海に侵され、歪んだ嗤い声が響く。
地を蹴った千鶴は刃を振り上げ、唄う鳥へ切っ先を突き付けた。月が冴ゆるが如き耀きが見えたかと思った刹那、斬撃が桜花へと変わる。
血染めの桜が餞となるかのように瑠璃の鳥を包み込み、力を奪い取った。
次は誰だ。
そう語るように差し向けた千鶴の眸に宿るのは、冷たくも熱い狂乱。
そして、彼は哂う。
――噫、幕は上がった。此処から始まるのは、愉しい殺戮の舞台だ。
大成功
🔵🔵🔵
東雲・咲夜
【舞夜】
うちの渉る神域のひとつも水底やから
雰囲気は違うとるのに何処か、懐かしい
愛くるしい見目に攻撃が緩んでまう
舞ちゃんも…
お姉さんのうちがしゃんとせな
和ましい囀りと同時に迎える喪失感
此処で怯む訳にはいかへん
虚空に指を滑らせ出づる水渦
清き烈しい流れで一ヵ所へ集約し
水神様の結界を、――…
――想い出せへん
彼の御方の御名が、御姿が、
此の血と魂に刻まれた畏敬、仰望、敬天、思慕、
まるで指間から零れ墜ちる様に
嗚呼、いや…!
即時に応変し霊力の膜に潤む瑞眸
痛みも苦しみも
総てをあたたかな春眠に委ねて
おやすみやす
舞ちゃん、何ともあらへん?
波打つ櫻彩の乱れを正し
﨟闌けたる微笑みにて寄り添う
ひずんだ心を、そっと潜めて…
櫻・舞
【舞夜】
ほわぁ、とても可愛らしいです。
いえ、いけませんね。
可愛くて敵様です、倒さなければ皆様がお困りになりますね。
咲夜様、お姉様みたいで心強いです。
鳥様の囀りが聞こえる
両手に抱えた日本刀
大切な刀、あの人の刀、あの方…
薄れいく記憶、あの人は誰だったでしょうか?
刀な泣いた気がした日本刀を強く抱き締める
いえ、私はあの方を忘れたくはありません!
力不足ですが力になりたい
桜様櫻様、どうか力をお貸しください。
櫻鎖舞で鳥様達の動きを止めます
咲夜様は大丈夫でしょうか?
微笑みにほっとしつつ何処か不安を感じて
●歪みの水底
何処か懐かしい。
そう思うのは水底の景色に親しみを持っているからだろうか。
「雰囲気は違うとるのに……」
東雲・咲夜(詠沫の桜巫女・f00865)は自分の渉る神域のひとつを思い出し、櫻・舞(桃桜遊戯・f02752)と共に黒曜の都市を往く。
青蝶区という場所に辿り着いたふたりはサーカスの跡地めいた場所を通りかかった。其処には何羽もの瑠璃の鳥が止まっている。
「ほわぁ、とても可愛らしいです」
「愛くるしい子たちやね」
舞が思わず笑みを浮かべ、咲夜もほわりと微笑む。しかしはっとした彼女達はあの鳥達がオブリビオンであることを思い出した。
「いえ、いけませんね。可愛くても敵様です、倒さなければ皆様がお困りになりますね」
「そうやね、和んでる場合やない。お姉さんのうちがしゃんとせな」
首をふるふると横に振った舞の隣、咲夜は気を引き締める。凛としたその表情を見つめた舞は頼もしさを覚えた。
「咲夜様、お姉様みたいで心強いです」
「ふふ、任せといてや」
笑みを交わしながら身構えた彼女達は倒すべき敵を見据える。
囀る小鳥達はこの街に響く人魚の歌を媒介して忘却を齎していた。和ましくも感じる囀りと同時に感じたのは妙な喪失感。
「あ……」
頭を押さえた舞は自分の中から何かが零れ落ちていく感覚をおぼえていた。
両手に抱えた日本刀。
それは大切な刀で、あの人のものだ。あの方――と考えた舞はそれが誰であるのかも忘れそうになっているようだ。
「舞ちゃん……! あかんね、此処で怯む訳にはいかへん」
咲夜は彼女を庇う形で立ち回り、虚空に指を滑らせる。其処から出づるのは水渦。清き烈しい流れで一ヵ所へ力を集約させた咲夜は水神の結界を張り巡らせようとした。
しかし、その力は其処で止まってしまう。
「――想い出せへん」
彼の御方の御名が、御姿が。
此の血と魂に刻まれた畏敬、仰望、敬天、思慕。そういったものがまるで指の間から零れ墜ちるように消えてしまっている。
「嗚呼、いや……!」
「咲夜様、わたくし達は何かを消されて……」
ふたりを包み込むのは人魚の忘歌と瑠璃の鳥の囀り。抗いたくとも抗えない。耳を塞いでも歌声は脳裏の記憶を奪い取っていくだろう。
薄れゆく想い。
あの人は誰だったのだろう。刀が泣いた気がして、舞は日本刀を強く抱き締める。
「いえ、私はあの方を忘れたくはありません!」
「うちだって、忘れるわけにはいかへん」
力の膜に潤む瑞眸。
咲夜はとにかく目の前の敵をどうにかするだけだと決め、魂を眠りへ誘う光華を解き放っていく。
舞も頷き、自分も力になりたいと願う。
「桜様櫻様、どうか力をお貸しください。貴方様の手、脚、御心をお貸しください」
櫻鎖舞の力を顕現させ、鳥達の動きを止めた舞。彼女が作ってくれた隙を狙い、咲夜はひといきに光を満ちさせた。
痛みも苦しみも、総てをあたたかな春眠に委ねて――。
「おやすみやす」
咲夜の声が落とされた刹那、その言葉の通りに瑠璃の鳥達が眠りに落ちた。それによって囀りが消え、オブリビオン達は静かに消滅していく。
「咲夜様、大丈夫でしょうか?」
「舞ちゃんも何ともあらへん?」
「はい、わたくしの身体は何とも……」
舞が問いかけると、咲夜は波打つ櫻彩の乱れを正し、﨟闌けたる微笑みを浮かべて寄り添った。彼女が笑みを返してくれたことにひとまずはほっとしながらも、舞は何処か不安を感じている。
何かを忘れてしまった気がする。
けれど、何を?
齎された忘却はふたりの心をひずませた。しかし、互いに必要以上の不安は見せたくなかった。咲夜はそっと気持ちを潜め、自分達が進むべき道の先を見つめる。舞もこの向こうに更なる戦いがあると感じ、咲夜と共に歩き出した。
そして――喪失感の中に交じる焦燥が、彼女達の心に滲んでいく。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
ノイ・フォルミード
【『彼女』が病み動かなくなって以降の記憶】
ううう
泡が守ってくれるとは言え、水の中だなんてドキドキしてしまうな
水が漏れてきたりしないよね?濡れたら錆びてしまうよ
ああ、ルー
君の事は必ず守るから安心しておくれ
君達がまめるりさまか
見目も、声も可愛らしい――
――???
どうして私は人形なんて持っているのだろう
戦場には不要なもの
……その、筈なのに
何故だろう、手放す事が出来ない
恐らく彼女に似ている為だね
連れ帰って見せたら、きっと喜ぶぞ
さて、その為には君達を倒さねばならないね
使用承認完了――【アルブム】
周りを巻き込み攻撃を与える
建物が崩れる音が囀りに混ざれば
音色からなる共感も妨げられようか
ああ早く、君に会いたい
●君に会うために
水はこの躰には大敵だ。
ううう、という声を零したノイ・フォルミード(恋煩いのスケアクロウ・f21803)は自分が進んでいく道の先を見つめる。
「泡が守ってくれるとは言え、水の中だなんてドキドキしてしまうな」
水の境界の向こう側は湖底。
この地を支配するべく現れた吸血鬼が倒れぬ限り街はこのままであると分かっているが、やはりノイとしては気になってしまう。
「水が漏れてきたりしないよね? 濡れたら錆び……わあ!」
ノイが驚いてしまったのは足元に水溜りが出来ていたからだ。足を突っ込みそうになったことで飛び退いたノイは傍らに抱えた『彼女』を抱きしめた。
「大丈夫だよ、ルー。君の事は必ず守るから安心しておくれ」
行く先には泉が見える。
きっとこの桃蝶区という区域に元々あった泉なのだろう。見れば其処で瑠璃色の鳥達が水浴びをしていた。おそらく水溜りが出来たのはあの鳥達の所為だ。
ノイはルーと呼ぶ人形の子を大切に抱きながら、反対側に向かってゆく。すると彼が水場から離れていく様に気付いた鳥達が追いかけてきた。
『まてまてー!』
『キミもはやく忘れちゃえ!』
人語を操るちいさな鳥達は囀りを響かせる。
きっとその声が、これまでずっと街に響き続けていた忘却の歌を伝播させる力を持っているのだろう。
「やあ、君達がまめるりさまか。見目も、声も可愛らし……――???」
身構えたノイは突然、不思議な疑問を覚えた。
ふと見遣ったのは抱えている人形。先程までのノイがルーと呼んでいたものだ。
どうして人形なんて持っているのだろう。こんなものは戦場には不要なものだ。その筈なのに何故か手放すことが出来ない。
「ああ、そうか」
ノイは己の裡に浮かんだ思いに納得する。
自分がこれを持っているのは『彼女』に似ているからだ。何処で見つけたのかは思い出せないが、連れ帰って見せたらきっと喜んでくれるだろう。
「さて、その為には君達を倒さねばならないね」
双眼で敵を捉え、身構え直したノイは既に忘れ去っている。
『彼女』が病み、動かなくなって以降の記憶すべてを。即ち、ノイは彼女がまだ生きているという前提で行動しはじめたのだ。
待っていて、と彼女に伝えるように呟いたノイは己の力を発動させた。
使用承認完了――アルブム。
彼の目が光ったかと思うと其処から伸びたレーザーポインターが瑠璃の鳥を捉えた。その瞬間、レーザー砲が発射される。
周りをも巻き込みながら迸った一閃が瑠璃の鳥達を次々と穿った。
焼け焦げ、地に落ちた鳥は物言わぬものに成り果てる。建物が崩れる音が囀りに混ざれば未だ歌われている人魚の音色から逃れられるだろうか。
そう考えたが、遠く響く歌はノイに作用し続ける。しかし、ノイには何を忘れさせられたのか見当もつかなかった。
忘れたということは分かるが、それが何であるのか分からない。
もしかすれば忘れてしまった方が良いことか、忘れ去っても構わないことだったのかもしれない。きっと、このココロに宿った喪失感は『彼女』がこいしい所為だ。
「ああ早く、君に会いたいよ」
今の戦いが終わったら、この人形を届けてあげよう。
君に似ていてとても可愛いんだ。はやく見せたいから、急がなきゃ。
ノイは抱いた思いが空虚なものだと気付くことなく、全てが終われば彼女に会えるのだという思いを疑うことなく、進んでいく。
喜ぶ少女の微笑みを想像しながら、水底の街の奥へ、奥へと――。
大成功
🔵🔵🔵
蘭・八重
あらあら、可愛らしい子。
でも悪戯はダメよ。
可愛い子の囀り
忘れる?何を忘れるのかしら?
大切な人それとも…自分自身
あら?私は誰だったかしら?
嗚呼、記憶が薄れていく
白き薔薇、でも黒く染まった私
何故…なぜ漆黒に染まったの?
それは貴女…もう一人の私?
誰…もう一人のわたくしは…
繫ぎ止める私の中にいるわたくしが
記憶は二つ、二つの記憶を消せるかしら?
あらあらふふっ、悪戯な子達にはお仕置きを
可愛いうち子、薔薇達がお相手するわ
噤む黒キ薔薇で可愛い鳥達を絡めて切り刻む
私ともう一人のわたしく
どっちがホンモノ?どちらが本当の私?
一私はだぁれ?
●二つの記憶
囀りが聞こえた。
その声は水底の黒曜都市に響き渡る人魚の歌を広げ続けている。
『さあ、キミも忘れて!』
『ノアさまの舞台にあがれるように!』
『よけいなことは忘れたほうがいいんだよ』
瑠璃の小鳥達は蘭・八重(緋毒薔薇ノ魔女・f02896)の姿を捉え、翼を広げた。まあるいフォルムの鳥達は見ていて和む。
だが、かれらは此方の記憶や思いを消そうとしている。それが自分達の仕える主のためだと謳う鳥達は忘歌の力を増幅させていった。
「あらあら、可愛らしい子。でも悪戯はダメよ」
八重は双眸を細めて笑み、瑠璃の鳥をその瞳に映してゆく。
歌が耳に届く度に不可思議な心地が裡に巡っていった。可愛い鳥の囀りと人魚の歌声は八重の心に作用し、何かを奪い取ってゆく。
――忘れる。忘れてしまう。
けれど何を失うのかしら、と八重は思う。
大切な人か、大事な物か、それとも自分自身なのだろうか。そう考えたとき、八重の中から己としての意思が消えた。
「……あら?」
微笑みは消さぬまま、八重はそっと首を傾げる。
黒曜の都市に降り立ってからの記憶は保っていたが、それ以前がとても曖昧だ。思わず口にしたのは普段では言葉にすることのないものだった。
「私は誰だったかしら?」
嗚呼、記憶が薄れていく。されど裡に残っているものもあった。
白き薔薇。黒く染まった自分。
確かに純白だったはずなのに、漆黒の彩が色濃く出ている。どうしてなのか分からず、八重の中に深い疑問が浮かんだ。
「何故……なぜ、漆黒に染まったの? それは貴女……もう一人の私?」
止め処なく言葉が溢れてくるが誰も答えてはくれない。自問しても自答できない。何故なら歌の力が自分を忘れさせてしまっているからだ。
「誰……もう一人のわたくしは……」
繫ぎ止める『私』の中にいる『わたくし』が見える。即ち記憶は二つ。ならば人魚の歌は二つの記憶を消せるだろうか。
どうしてか頭が痛い。しかし気付けば八重は更に笑みを深めていた。見遣った先には瑠璃の鳥達がいる。
「あらあら。ふふっ、悪戯な子達にはお仕置きを」
きっとあの鳥達を屠れば頭痛も少しはおさまるだろう。鞭めいた鋭い棘の茨の黒薔薇を振るった八重は囀る瑠璃の鳥を穿ち、声を沈めてゆく。
「薔薇達がお相手するわ」
鳥達を絡めて切り刻む彼女は、地に落ちていくかれらを見つめる。
記憶が揺らぐ。白と黒が交差する。滲んだ色が混ざりあっていく。裡に浮かんでは消えるのは私と、もう一人のわたくし。
どっちがホンモノ? どちらが本当の私?
「――ねえ、私はだぁれ?」
八重が落とした問い掛けに答えられるものは、今は何処にもいない。
囀ることのできなくなった鳥達が消えていく様子を見下ろし、八重は口許を緩める。その微笑みは花の如く。しかし、何処か虚ろな雰囲気が交じる笑みだった。
大成功
🔵🔵🔵
朧・ユェー
水の中、とても綺麗な場所だねぇ
囀りが聞こえる、水の鳥?
とても可愛い姿…でも何故だが聴き覚えのある歌
何を忘れたい?
薄れゆく記憶、忘れたい?自分自身を?それとも大切な人達
大切な?
全く興味が無かった俺に
護りたいモノが増えていった
壁を作ったはずなのに別の感情が壁を越えていく
嗚呼これでは最後の目的を果たせない
躊躇い足が止まってしまう
誓いを溺愛を寵愛を友をそして家族を
忘れれば元の俺に戻れるだろうか?
何も興味も無い冷酷な悪魔に
ねぇ、君はどう思う?
屍鬼
紅い血の雫を垂らし暴食グールが悪鬼とかし喰らい尽くす
美味しくお喰べ
アイツを俺自身を殺せるまで
●黒曜の最中に
水の中の景色はとても綺麗だ。
黒蝶区という名の繁華街。泡沫の内部に閉じ込められた街を見渡し、朧・ユェー(零月ノ鬼・f06712)は黒曜の都市に満ちる音を聞く。
見遣った先にはクロイバラと読める看板がぶら下がっていた。
嘗ては人々が出入りしていたカフェか何かだったのだろう。水底に沈んでいたことで荒れた店の残骸を眺めながら、ユェーは首を傾げた。
「囀りが聞こえる、水の鳥? 瑠璃の鳥?」
声の主が可愛らしい鳥だと知ったユェーは双眸を細める。
とても丸い姿の相手は囀り続けている。そして、街中に響く人魚の歌は何故だが聴き覚えのある歌だった。ただの気のせいかもしれないが、そう思える。
耳に届く歌は語っている。
忘れてしまおう。何もかも手放してしまおう、と。
――何を忘れたい?
ユェーは歌に問い掛けられたような感覚に陥り、自分の額に掌を当てた。
歌声と囀りが記憶を薄れさせていく。
(忘れたい? 自分自身を? それとも大切な人達……大切な?)
考えていく度に頭痛が酷くなっていった。それは記憶が奪われていく証なのかもしれないと感じたユェーは歯を食いしばる。
忘れてはいけない。失ってはいけないはずだ。
何に対しても全く興味が無かった自分に護りたいモノが増えていった。壁を作ったはずなのに別の感情が壁を越えていく。
「嗚呼、これでは……最後の目的を果たせ、ない……」
戸惑いと躊躇いが胸を衝き、歩んでいた足が止まってしまった。
誓いを、溺愛を、寵愛を。友を、そして家族を――すべてを忘れれば元の自分に戻れるだろうか。
何にも興味すら覚えなかった、嘗ての冷酷な悪魔だった自分に。
いつの間にか俯いていた顔をあげたユェーは口をひらき、問いかける。
「ねぇ、君はどう思う?」
自傷した傷から滴る紅血の雫を代償に呼び出したのは屍鬼。暴食のグールが悪鬼と化し、行く先で囀っていた敵を喰らい尽くす。
屍鬼は何も答えてはくれなかった。ユェーはいつしか今の自分をすべて忘れ、黒き鬼へと薄い笑みを向け、語りかける。
「美味しくお喰べ」
――アイツを。俺自身を、殺せるまで。
黒鬼の攻撃に巻き込まれた瑠璃の鳥達は食らい尽くされていく。血が散り、断末魔が響き続ける。しかし瑠璃の鳥達にとってはこれで良いのだろう。
何故なら此処は既に舞台の上。
血と悲鳴、愛と渇望で彩られる残虐劇の一幕なのだから。
そうしてユェーは何を忘れたのかすら分からぬまま、先へと進んでいった。囀りは止んだが人魚の歌は止まっていない。
その声の先に何かがあるのだと感じて、ゆっくりと――彼は舞台に向かっていく。
大成功
🔵🔵🔵
杜鬼・クロウ
△
忘却:俺
其処は見たコトも来たコトもねェ都なのに
前に白珠の人魚に聞いた過去の光景と当て嵌る
あァ此処が
歌がこんなにも人の心を動かすと
力になると
俺に初めて教えた親愛なる人魚姫
其の歌に今も尚聴き惚れ魅了され
何度も助けられて
だから今度は
お前が悔い無きよう
阻むモノ総て
摘み取るぜ
比べる迄も無く
満ちる歌は違う
冷たくて昏い
煩わしい歌に眉顰め
忘れたい記憶や人など俺には何一つねェ
辛い苦しい悲しい怒りすら
それら全部
歩んだ軌跡が容となりて
俺が何者だと解らなくなろうと
きっと変わらねェ
刻まれし意志と絲は繋がれて
必ず俺を取り戻す
暫く預けておいてヤるわ
道を開けろよ
邪魔だ(剣に魔風宿し一掃
最期の晴れ舞台
一演者として
魅せようか
●忘れえぬもの
彼が忘却したのは自分自身だった。
杜鬼・クロウ(風雲児・f04599)は痛む頭を押さえ、軽く息を吐く。
水底の中、泡沫に包まれた街。此処は見たことも来たこともない都だというのに、過去に聞いたことのある光景と当て嵌る。
白珠の人魚を思い返したクロウは納得した。
「あァ、此処がそうか」
この黒曜の都市に降り立ったときから人魚の歌はクロウの記憶を蝕んだ。それでも忘れたのは自身だけで、知り合いのことは憶えている。
歌がこんなにも人の心を動かし、力になると自分に初めて教えた親愛なる人魚姫。これまでも、そして今も尚その歌に聴き惚れて魅了され、何度も助けられてきた。
「だから今度は、お前が悔い無きよう。阻むモノ総て摘み取るぜ」
決意めいた思いを抱いたクロウは歩んでいく。
比べる迄も無く、満ちる歌は違う。冷たくて昏いと感じたのは何故だろうか。
「煩わしい歌だな」
眉を顰めたクロウは行く先を見据える。
既に自分の名前すら忘れていたが、己がやるべきことは分かっていた。繁華街であったらしき黒蝶区の建物の上、其処に止まっている瑠璃の鳥を屠ることだ。
『キミも忘れてしまった?』
『それなら、おいで』
『すばらしい舞台がまっているよ!』
囀りながら誘う鳥達を睨みつけたクロウは黒魔剣を構えた。忘れてしまえと語る瑠璃の小鳥に刃の切っ先を向けた彼は頭を振り、言い放つ。
「忘れたい記憶や人なんて俺には何一つねェ!」
辛い、苦しい、悲しい。そして怒りだって自分のものだ。それらが全部、歩んだ軌跡が容となっているのだから手放したくなどなかった。
それゆえにクロウは自身を忘却したのだろう。もしくは、記憶に形作られた自分がいちばん大切なものだったのかもしれない。
「俺が何者だと解らなくなろうと、きっと変わらねェ」
刻まれし意志と絲は繋がれている。
何も分からなくなってきていても、それだけは確かなことだと信じられた。
そして、必ず俺を取り戻す。
そう誓ったクロウは傍から見れば何も失っていないかのように見えた。
「暫く預けておいてヤるわ。道を開けろよ」
『いやだね!』
『もっと忘れたほうがいいよ』
『それがこの舞台にぴったりなんだ!』
クロウの言葉に対し、瑠璃の鳥達は口々に反論する。しかしクロウは聞く耳を持たず、剣に魔風を宿しながら吐き捨てた。
「邪魔だ」
血すら散らせぬ、一瞬のことだった。風撃によって何羽もの瑠璃の鳥達が一掃され、地に落ちる。一閃を何とか避け、倒れるには至らなかった小鳥達は震えた。
『いけない! いけない!』
『このままじゃつまらなくなっちゃう!』
『ノアさまにつたえに……』
数羽の鳥が逃げようとしたがクロウは更に力を振るった。其処から魔除けの菫の力が巡り、瑠璃の鳥達の動きを止める。続けて振り下ろされた刃が羽を散らし、小鳥達は更に屠られていった。
しかしその中の一羽が刃から逃れ、血塗れになりながら飛んでいく。おそらく言葉通りに主に事の次第を伝えに行くのだろう。
「まァ良いか」
クロウはあの後を追えばいいだけだと感じて歩き出した。
きっとこれは最期の晴れ舞台だ。鳥達は何かを言っていたが、自分も一人の演者として魅せようか。そんなことを考えたクロウは進む。
忘却していても何も忘れていないように見えるという形のまま、前へ――。
大成功
🔵🔵🔵
向日水・厄介
水底の街はどこか懐かしいような、悲しいような
どうしてかしら、胸が痛むの
――わたし、
……わたし?
その鳥の声を聴いた瞬間、何もかもが零れ落ちていくような気がして
――わたし、こわいの?
小さく震える指先に知らんぷりしたまま、祈るわ
自分を失ってなお、雨の呼び方だけは知っているみたいなの
翼を射抜くなら、水底よりもつめたい氷の雨を
一歩、一歩
奥に進むたびにわたしがわたしでなくなっていく
迷子になったような、不思議な気持ち
でも、どうしてかしら
怖いはずなのに、どこか安心しているわたしもいるの
この安堵になれてしまう前に、はやく取り戻さなくちゃ
まだ祈ることはできるの
これだけは手放せないから、その前に
●まよいのみちしるべ
歌が響き、囀りが木霊する水底の街。
人魚達の歌以外には何も聞こえない黒曜の都市。聴こえる音はあっても、ずっと静寂の最中にあるような場所だ。此処に居るとどこか懐かしいような、悲しいような、不思議な心地が巡っていく。
「どうしてかしら、胸が痛むわ」
そう口にした向日水・厄介(雨降り・f20862)は立ち止まった。
それまで厄介が歩いてきていたのは青蝶区と呼ばれていた歓楽街の一角だ。此処も嘗ては賑やかだったのだろう。
しかし、誰もいない今は何だかひどく寂しい。黒い手が迫ってきているような感覚をおぼえ、再び歩き出した厄介は先を目指して進んでいく。
「――わたし、」
そして、彼女は何かを言葉にしようとした。
言い切る前に胸の裡に妙な気持ちが巡ってしまい、声は続かない。その代わりに紡がれたのは自身への疑問の声。
「……わたし?」
人魚の歌に続いて小鳥の囀りが聞こえたからだろうか。
厄介は自分自身という存在が失われていっていると感じた。何もかもが零れ落ちていくような気がして、掌を握り締める。
「――わたし、こわいの?」
ちいさく震える指先。思わず零れ落ちた言葉に答えは出さぬまま、裡に湧き上がる思いにも知らんぷりしたまま、祈る。
そうしたのは行く手に現れた瑠璃の鳥へと対抗するため。
『忘れちゃえ』
『キミはきっと、いい演者になれる』
『座長がまっているよ!』
小鳥達は囀りながら厄介を街の奥に誘おうとしていた。されど厄介はその言葉を素直に聞く気にはなれない。
それに自分を失ってなお、雨の呼び方だけは知っていた。
――祝祭を。
あの瑠璃の翼を射抜くなら、水底よりもつめたい氷の雨を降らせれば良い。痛みに苦しむような鳴き声が耳に届いたが厄介は歩みを止めない。
『きいて。きいて』
『座長はね、この街のあたらしい住人をもとめているんだ』
『キミはきっと歓迎されるよ!』
あらたに現れた瑠璃の鳥達は厄介に語りかける。しかし彼女はきょとりと首を傾げただけで何の実感も持てないままだった。
「……そうなの?」
一歩。更にまた、一歩。
自らの意思で奥に進むたびに、自分が喪われていく。わたしがわたしでなくなっていくのだと自覚しながら、まるで迷子になったような不思議な気持ちを抱いた。
厄介は更に水底に浮かぶ街に冷たい雨を降らせてゆく。
「でも、どうしてかしら」
怖いはずなのに、どこか安心している自分がいた。けれど忘れてはいけないものを失ってしまった気もする。だから、と厄介は歩を進め続けた。
――この安堵になれてしまう前に、はやく取り戻さなくちゃ。
まだ祈ることはできる。
両手を重ねているのは大切なものをすべて奪われたくはないから。掌の中にわずかに残った、これだけは手放せない。名前のわからない感情が未だ此処にあるはず。
さあ、舞台に向かおう。
幕劇を演じた後にはきっと、本当の自分に戻れるはずだから――。
大成功
🔵🔵🔵
逢海・夾
忘却:友の存在、関連する記憶の全て
記憶を失う、か。心地の良いもんじゃねぇが仕方ねぇか
ま、何を忘れても戦えるからな。どうにかなるさ
オレはそういうもんだ。だから、どうにでもなる
しかし鳥を焼くのは気が進まねぇな、煙にしとくか
…なぜ、ここにいる
生きて家から離れられたのは、なぜ
飼い殺しではない、逃げ出せた、のか
なぜ左が寒い。元々なにもない、はず
忘れたのはひとか、誰だ、どうしてこんなに
違う、今はどうでもいい
敵を壊す、言われた通りに
速く、敵全てを、的確に壊す
人間を守るために、壊れるまで壊す
それしかできない、知らない
それだけでいい、はずなのに
早く行かなければ
全部消えたら、戦えない
●友という存在
美しく透き通った歌声が響き続けている。
黒曜の都市に満ちる音はすべてを忘却させてしまう魔力を孕んでいた。
「記憶を失う、か」
それはきっと心地の良いものではないだろうが、仕方無いだろう。肩を竦めた逢海・夾(反照・f10226)は、手にしていた煙管を吹かした。立ち昇っていく紫煙が泡沫の境界に吸い込まれていく様を見上げ、夾は軽く息を吐く。
「ま、何を忘れても戦えはするからな。どうにかなるさ」
自分はそういうものだと自覚している。だから、どうにでもなるのだと独り言ちた彼は先へと進んでいった。
嘗ては歓楽街だった青蝶区に辿り着いた夾は辺りを見渡す。
見れば近くの建物に絵画らしきものが飾られていた。滲んだ絵はもうどんな色彩だったかは分からないが、その建物はギャラリーだったらしい。
色褪せた絵画の彩は、この都市の今を表しているかのようだ。
看板の上には青い鳥が止まっていた。
彼らは囀り、この都に響き続けている忘却の歌を広げているらしい。夾は自分の記憶が曖昧になっていくことを感じながら看板と瑠璃の鳥を見上げる。
『おいで、おいで』
『舞台はこの向こうだよ』
小鳥達は夾を誘い、街の奥に進んでいくように告げた。対する夾は頭を振り、あの鳥達の声が自分の意識を揺らがせているのだと察する。
「しかし鳥を焼くのは気が進まねぇな、煙にしとくか」
煙管を構え、幻煙奇譚の力を紡いだ彼は梅香の煙を周囲に広げてゆく。
鳥達が煙に巻かれ、幻の力に包まれていった。だが、その間にも夾の中にある友の存在と、それに関連する記憶の全てが失われていく。
不意に胸を衝く喪失感。
幻の力をどう扱うかは忘れていないし自分が何であるかも分かる。だが、焦燥めいた思いが夾の中に巡っていった。
「……なぜ、オレはここにいるんだ」
『忘れたんだね。もっと忘れちゃえ』
思わず零れ落ちた疑問の声に瑠璃の鳥がくすくすと笑うように囀る。その声を聞く余裕はなく、夾は浮かんでは消える疑問に意識を向けた。
おかしい。
生きて家から離れられたのは、なぜ。
飼い殺しではない。どうして逃げ出せたのか、今の自分にはわからない。
(なぜ、左が寒い……?)
言葉には出さず、自分の傍らを見遣る夾。元々なにもないはずだというのに、其処になにかがあった気がした。
忘れたのはひとか、誰かだ。喪失したことだけ理解できた。
分かっているはずなのに、どうしてこれほどまでに不安な気持ちが宿っているのだろう。冷たい水底の街にいるからか、いつからか訪れた震えが止まらない。
夾は唇を噛み締める。
「……違う、今はどうでも、いい」
戦い方までは忘れてはいない。ならば今は言われた通りに敵を壊すだけだ。
速く、疾く、早く。全てを的確に壊して、屠って、やるべきことを成す。人間を守るために壊れるまで壊す。
それしかできず、知らないから。
それだけでいい、はずなのに。
夾は自分の心の中に穴が空いてしまったような心地に陥っていた。代わりに其処に満ちていくのは冷たい水の感覚。
黒曜の都市の静けさと、人魚の歌はそんな思いを齎してくる。
「早く、行かなければ……」
何処か虚ろな言葉を落とした夾は周囲の瑠璃の鳥を見下ろした。地に落ちたかれらは力を失い、消えてゆく。
駄目だ。全部消えたら戦えなくなってしまう。
そう感じた夾は棚引く紫煙を纏い、都市の奥を見据えた。その先にある吸血鬼が待つという舞台を目指し、彼はふたたび歩みはじめる。
喪ってはいけなかったはずの、大切な何かを取り戻すために――。
大成功
🔵🔵🔵
飛白・刻
己を忘れる
静謐の檻そのものの様な匣庭を進む
その間中ずっと聴こえ続く歌を耳に
歌という存在にすら縁が無かった己には
混じり気もなく其の歌だけが脳を支配する
耳を傾けるほどに意識が曖昧になる
それはこの水底のように
深く奥底にあった願望だったのかもしれない
一度は自らを絶とうとした延長だったかもしれない
映したくない合わせ鏡の向こうだったかもしれない
羨望ばかりを向ける愚かな己が
道具として。見世物として。人形として。
そう扱われることしか無かった己自身が
水底に溶けていくように
空虚の瞳が映す囀る瑠璃鳥たちはひどく煩わしく
刀で毒牙でその存在をひとつひとつと地に堕としながら
進むこの足は誰物かすら
●手繰る絲すら今は無く
静謐の檻。
そのように評するに相応しい匣庭を進み、遥か頭上の水面を振り仰ぐ。
己を忘れる。忘れていく。
飛白・刻(if・f06028)の胸裏に広がっていくのは沈むような感覚。水底の都に降り立ってすぐに耳に届いた人魚の歌が、自分の記憶に作用しているのだろう。
奇妙な感覚を確かめるように胸に手を当てた刻は、響く歌によって何かが失われていくことを感じて取っていた。
されど、耳を塞ぐことはしない。たとえそうしたとしても防げるようなものではないと本能で理解していた。
聴こえ続く歌を耳にしながら、刻は黒蝶区のメインストリートを歩いていく。
歌という存在にすら縁が無かった刻にとってその声は魅惑のものだった。混じり気もなく、歌だけが脳を支配するような心地が巡る。
そして、耳を傾ければ傾けるほどに意識が曖昧になっていった。
黒い聖女像の横を通り抜け、血塗れの路地裏に差し掛かる。未だ真新しい血が散っているということは、仲間の誰かが此処で瑠璃の鳥を屠ったのだろう。
すると、其処に新たな鳥の声が聞こえた。
『きれいな血のいろだね!』
「……仲間の血でも?」
その声の主を探した刻は建物の屋根を見遣る。視線の先に路地を覗き込むかたちで此方を見下ろしている瑠璃の鳥達が見えた。
自分の仲間が死んで悲しくないのかという旨の思いを刻は向ける。しかし、対する鳥達は誇らしげに語った。
『そうさ、ぼくらは序幕をかざるんだ』
『血の惨劇からはじまる舞台はうつくしい!』
『ノアさまがそういってたんだよ。だから、ぼくたちはしんでもいいんだ!』
その雰囲気から察するに、瑠璃の鳥達は自分達の囀りと死が残虐劇の舞台を飾るものなのだと思っているらしい。歌を広げることは勿論、死すら光栄ということだ。
見上げた忠誠だと感じた刻は頭を振る。
何か言葉を掛けてやりかたったが、それよりも今は自分の中に生まれた喪失感をどうにかすることが先決だと思えた。
何を失くしたのか。
それはこの水底のように、深く奥底にあった願望だったのかもしれない。
一度は自らを絶とうとした延長だったかもしれない。或いは映したくない合わせ鏡の向こうだったかもしれない。
裡に僅かに残った思いが自分を責め立てる。
羨望ばかりを向ける愚かな己が忘れてしまったのは一体、何なのだろう。
道具として。見世物として。人形として。
そう扱われることしか無かった己の過去すらも忘れて、刻は自分が水底に溶けていくかのような感覚に陥っていた。
空白。この気持ちを表すならば、その二文字が当て嵌まる。
いつしか俯いてしまっていた顔をあげた刻の双眸には空虚さが宿っていた。
先程まで多少は言葉を交わす余裕もあったというのに、瞳に映った瑠璃鳥達がひどく煩わしく思えてしまう。
死で舞台を彩ることをよしとするなら、その望み通りに。
地を蹴った刻は短刀を抜き放つ。刀と毒牙で以て、その存在をひとつひとつと地に堕としながら彼は進む。
この足が誰の物か、そんなことすら今は曖昧だ。
それでも刻はただひとつだけ確かなことを目指してゆく。
きっと此処で失った記憶は取り返すことが出来る。たとえそれが何であるか分からずとも、この血路の先に求めるものがあるはずだ。
そのように考えるしかなく、彼は黒曜の都市の奥深くへ向かっていく。
大成功
🔵🔵🔵
ルーシー・ブルーベル
わあ、ふしぎな所ね
きれいで、どこかさみしい
まめるりさま……かわいい
青い小鳥はしあわせのしるしって聞いた事があるけれど
忘れてしまうのは、しあわせな事なの?
反射的に思い浮かべた事は「ルーシーに成った時のこと」
あ
いや
わすれてはだめ!
……何を?
大切な事だったはず
わすれてはいけない事だったのに
たのまれたのに。だれから?
どうして心の中に二つの名前があるの
失ってしまった事がくやしくて
腹立たしくてたまらない
ああどうせなら
忘れた事すら忘れさせてくれたら良かったのに!
花を舞わせて小鳥たちを散らす
その様に心が痛むけれど
足早に先へ、先へ
取り戻さなくちゃ
あなたへの約束は覚えているから
まだ歩みを止めるわけにはいかないもの
●誰かの代わり
とても不思議で深い世界の彩が見えた。
水中と街を隔てる泡沫の境界は揺らぎ、幻想的な光景を映し出している。
わあ、と思わず声を零したルーシー・ブルーベル(ミオソティス・f11656)は水の向こう側で泳ぐ魚を見つけた。
あの魚も、吸血鬼が水底の街をこんな風にするまでは街中を泳いでいたのだろう。
「……きれいで、どこかさみしい」
ふと紡いだ言葉はルーシーの裡から自然と零れ落ちたものだった。
辺りには人魚が奏でているという歌声が響いている。
少女は退廃的な雰囲気に満ちた街を行き、繁華街だったらしい区域に入った。黒蝶区という呼び名の其処には様々な建物が見える。
ルーシーが何となく覗き込んだ場所は衛兵の詰所。嘗て領主と街を守る役目を任されていた者がいたような形跡が感じられる。何も居なくなってしまった街の中、妙な感覚に陥ったルーシーは暫し建物を見つめていた。
『キミも忘れて、こっちにおいで!』
ちいさな声が聞こえ、はっとしたルーシーは振り返る。少し先の黒い聖女像の上に瑠璃色の鳥達が止まっている姿が見えた。
おそらく今の言葉もかれらが紡いだものなのだろう。かわいい、と感じたルーシーはそっと身構えながらも鳥達を見上げ、聖女像の近くへと向かう。
「あなたたちが、まめるりさま……?」
『ぼくたちは、りるるり!』
『ノアさまがね、あの子のかわりに呼び名をつけてくれたんだ!』
ルーシーが問いかけると鳥達はそんなことを告げた。吸血鬼が誰かの代わりとしてかれらをそう呼んでいるのだろう。
どうしても他人事とは思えず、ルーシーは更に問いかける。
「あの子? 誰かの代わりなの?」
『そう!』
『ぼくらはあの子のかわりだけど、べつにいいんだ』
『だってそれが役目だから!』
ノアさまの為なら死ぬことだって怖くはない。自分から進んで死んでもいいとかれらは言っていた。ルーシーとは立場も考えも違うが、鳥達に妙な親近感を感じてしまう。
「……」
『さあ、ノアさまのためにキミも忘れて!』
少女が黙ってしまっていると瑠璃の鳥達は忘却の歌を広げはじめた。急に何かが心から零れ落ちていくような気持ちが巡り、ルーシーはぎゅっと掌を握る。
青い小鳥はしあわせのしるし。
そう聞いたことがあるけれど、大きな疑問が浮かんだ。
「忘れてしまうのは、しあわせなことなの?」
死ぬことなんて受け入れたくない。忘れたくなんかない。そう思いながら反射的に思い浮かべたのは、自分が『ルーシー』に成ったときの記憶。
代わりとして挿げ替えられた過去。
ルーシーだった者の代わりに、何でもなかった少女がルーシーに成り代わったこと。
「あ、いや……」
――いけない。わすれてはだめ!
大切なことが忘却させられてしまうのだと思い出したときにはもう遅かった。心の中で叫んだ少女は何かが消えていく感覚に支配された。
「……何を?」
忘れてはいけないと強く思っていたはずだったのにそれが何だかわからない。
大切なことだったはずだ。失くしてはならないものだったことだけは理解できるのだが、肝心のそのこと自体がすっぽりと抜け落ちてしまっている。
たのまれたのに。
だれから?
どうして心の中にふたつの名前があるの。
思いが浮かんでは消え、少女の胸の奥に焦燥が生まれていく。失ってしまったことが悔しい。腹立たしくて堪らなくて苦しい。
ああ、どうせなら――忘れた事すら忘れさせてくれたら良かったのに!
眼帯に掌を当てた少女は胸裏で巡る思いを押し込め、顔をあげた。あの鳥達の聲が記憶と約束の主を奪ってしまったのなら取り返さなくてはいけない。
今の彼女の心にあるのは、ただそれだけ。
「ここが舞台だっていうなら、いっしょにおどってあげる」
釣鐘水仙の花を舞わせて小鳥達を散らす。地に落ちて力を失っていく様には心が痛んだが、少女は思いを鎮めた。
敵が倒れたならば足早に先へ、先へ。
「取り戻さなくちゃ」
あなたへの約束は覚えているから、きっと大丈夫。
ルーシーがルーシーとして在るならば――未だ、歩みを止めるわけにはいかない。
大成功
🔵🔵🔵
フレズローゼ・クォレクロニカ
pow
ここが、リルくんの故郷なんだ?
ここにリルくんを奴隷にしてた奴がいるんだ
冷たい張り詰めた……あの歌が、もしかして
怖いけど
ボクだって、見届けるんだ!
いた!鳥だ!
さぁ、絶望を塗り替え――?
あれ?
振りかざした筆をみて首を傾げる
これは何に使うの?
なにもかけない
何も浮かばない
希望を描けない
絵をかけない画家なんて
絶望が心を潰す
これじゃあママ達に逢えない!
うるさい!
笑うな!
思い切り大鎌を振りかざして全力魔法で鳥を爆砕してく!
描けない
絵が
ボクは、絵を描くという行為を忘れた
それは生きるに等しいことだったのに
空虚さに苛立ちが募り
がむしゃらに鎌を振るう
全部なくなれ!
「女王陛下は赤がすき」
ボクは取り返す
ボクの命を
●黒と白と赤の薔薇
水底に満ちるのは冷たく張り詰めた空気。
そう感じてしまうのは街中に響いている歌の所為だろうか。美しくて綺麗で透き通った歌声だというのにひどく寂しい。
誰かを呼んでいる。どうしてか『たすけて』と告げるような聲。
フレズローゼ・クォレクロニカ(夜明けの国のクォレジーナ・f01174)はこの街のことを知っている。
此処が友人の故郷であり、現れた吸血鬼が彼を奴隷として使っていたということを。それでも、その関係の全てを理解しているわけではないことも分かっている。
「ここが、リルくんの故郷?」
不思議な気持ちを抱きながらフレズローゼは進んでいく。
紅蝶区、桃蝶区、青蝶区から黒蝶区へ。嘗て彼が居た街を見て回るように歩いていったフレズローゼはどんどん歌が近くなっていることを感じた。
「……あの歌が、もしかして」
怖いと感じたが、フレズローゼは覚悟を抱いて此処に訪れている。
大好きな櫻宵とリルはもっと重い気持ちや強い思いを持ってこの街に来たはず。それならば自分も力になりたい。
「ボクだって、見届けるんだ!」
気合いを入れたフレズローゼは虹薔薇の絵筆を握り締めた。
もうすぐ白蝶区に入る。気が付かぬうちに自分が一番最初に領主の館に近付いてしまっていると察したフレズローゼは少しばかり戸惑った。
忘却の歌がはっきりと聴こえる。だが、館前の衛兵詰所の屋根に瑠璃の鳥が止まっている姿を見て駆け出す。
「いた! 鳥だ! あの子達を倒せば、この歌だって広がらないはず!」
あの人魚の歌で大事な友人達の記憶が失われてしまうかもしれない思うと、いてもたってもいられなかった。
筆に魔力を込めたフレズローゼは己の力を振るおうと決める。
「さぁ、絶望を塗り替え――……あれ?」
振りかざした筆を見た少女は首を傾げた。これまで友人達のことばかり考えていたので気付けなかったが、自分の記憶の一部がない。
手にしているこれが何に使うのものなのか分からなかった。
すぐに筆だと感じてはっとするが、なにもかけない。なにも浮かばない。
――希望が、描けない。
絵をかけない画家なんて意味がない。描き方を忘れたということだけを覚えている今、絶望が心を塗り潰していく。
「これじゃあママ達に逢えないよ……」
フレズローゼの腕が力なく下がり、絵筆が取り落とされた。乾いた音が響き、月色の絵筆が地面に転がっていく。
『忘れたね! 忘れたね!』
『ママのことも忘れた方が楽になるよ』
屋根上の瑠璃の鳥達が囀り、無邪気に笑ったように思えた。フレズローゼは落ちた筆を拾いあげながら小鳥を睨みつけた。
「うるさい! 笑うな!」
筆が使えなくても他の武器がある。涙目で首を振ったフレズローゼは金翼と薔薇の飾りが施された大鎌を振りかざし、刃に魔力を乗せた。
ごめんね、と告げながらも鳥を爆砕するフレズローゼは泣いていた。
描けない。何も描けない。そう思うだけで大粒の涙が頬を伝っていく。
「絵を描くことを忘れるなんて……こんなの、駄目だよ……」
それは生きるに等しいことだったのに。これまで何も考えずに描けたものが今は忘却の彼方。鎌は振るえても、筆を振るえなければ何の意味もない。
「逢いたいよ、ママ……。――ママ?」
それって誰?
一瞬だけ浮かんだ思考にぞっとする。響き続ける人魚の歌と小鳥の聲が、本当に大切なものまで奪い取っていきそうだった。
「ママ達のことだけは絶対に忘れるもんか!」
空虚さと苛立ち、更に恐怖が募り、フレズローゼはがむしゃらに鎌を振るう。
全部なくなれ。自分の記憶が消えてなくなる前に全部、全部。
振るった刃から赤薔薇と白薔薇が解き放たれ、黒曜の舞台都市に色彩を宿していく。気付けば鳥達は花に包まれて消えていた。
黒薔薇が咲く領主の館までもう少しだ。ふらふらと歩き出したフレズローゼは、大切なものを奪った者に会いに行くために先を目指す。
少女は無意識に薔薇十字架のロザリオをそっと握り締めた。
大丈夫、まだリルと櫻宵のことも、ママのことも忘れてはいない。だから――。
「ボクは、取り返すよ」
自分の命にも等しいものを。そして、何よりも大切な色彩を。
大成功
🔵🔵🔵
リル・ルリ
🐟櫻沫
wiz
見知った光景に身体が震え
握る櫻の熱に微笑む
かあさんの歌が聴こえる
呼んでる
待ってて
ノア様とかあさんの最初で最後の舞台
君と共に上る
僕らの舞台をみせよう
僕は一度ノア様を忘れた
笑顔
共に過した一時
頬を撫でる熱を
忘れぬ想いもあると証明する
とける自身の存在と記憶に抗い続け歌う
忘れない
手帳抱締め前を見る
全部届ける
かあさんと約束した
ノア様に伝える
僕の想い全部歌う
忘れるものか
僕が得た
僕自身を
絶対に
見失っても櫻宵が僕を教える
欠けた己を愛で埋め僕らを戀で繋げる
リルルリ
歌が導く
鳥達に歌う『望春の歌』
届けて
かあさんがくれた聲
君の本当の春の歌
秘められた本当の想いを響かせ
鳥達と共鳴させ何処までも
ノア様
聴こえる?
誘名・櫻宵
🌸櫻沫
wiz
水葬の街
リルの母上の歌
大丈夫
震える人魚の手握り寄り添う
見せてあげるの
リルの想い全て歌にして
聴かせてあげなさい
リルの歌を
座長にあなたが生きて紡いできた舞台をみせるの
私達の舞台を
退いて
ノアの元に人魚が往く
私の人魚が歌を届けにいくの
衝撃波走らせて
斬撃に破魔のせなぎ払い
「穢華」放ち鳥刈る
私自身の存在を蝕む歌に抗う
私は誘七櫻宵
暁が胸奥で燃える
貪婪の桜龍
もう無くさない
渡さない
忘れてもリルが覚えていてくれる
人魚の歌で桜を咲かし
神との約束忘れぬよう小指噛み痛みで繋ぐ
人魚の欠けた記憶を私の愛で補い
空虚さを戀の熱と愛で埋める
煉獄ね
リルの歌う春に浮かぶ彼の惑う心は
噫
こんなにも
忘却されぬ愛を教えてあげる
●遥けきカナン・ルー
教会とグランギニョル。
黒イバラの生えた墓地と静謐な庭園。
割れたステンドグラスのある廊下。崩れた礼拝堂に、首のない聖女像。
荒れ果てた控え室。藻に覆われたグランドピアノの奥には壊れた檻、そして――玻璃の水槽のある舞台が見える。
「座長……。ノア様が帰ってきてたんだね」
少し前までは水底に沈んでいた場所をそうっと見渡し、リル・ルリ(想愛アクアリウム・f10762)はふわりと宙を泳ぐ。
此処は禁忌の歌によって水に沈んだ街。
しかし今は泡沫の魔力に包まれ、空気が戻ってきている。ノアによって呼び寄せられた亡霊達が集まっている教会も普段とは違う雰囲気だ。
「本当に、いつの間に戻ってきたのかしらね」
傍らには誘名・櫻宵(屠櫻・f02768)がそっと付き添っている。うん、と頷いたリルはきっと彼のショコラトリーに通うようになってからだろうと考えた。
沈んでからも游いでいたこの場所はよく知っている。しかし現在、座長であるノアは舞台にも控え室にもいない。
櫻宵とリルは今、彼の不在を確かめにこの場所に訪れていた。
きっと座長は領主の館にいる。古びた黒い手記を腕に抱いたリルは思う。
手記の持ち主であった者――ノア・カナン・ルーは黒曜の聖女とされる者などよりも自分がこの都市を治めるべきだと考えていた節があったようだ。
舞台の再興と街の統治。
それらを叶えに来たのだと感じたリルは、櫻宵と共に街中に出ることにした。
水葬の街。
目の前に広がる光景に身体が震えてしまう。
その理由はこの都中にエスメラルダの歌が響き続けているからだ。
――ルララ、ルルラ、ラララ。
――リルルリ、リルルリルルリ。
「かあさんの歌が、聴こえる」
呼んでいる。
リルには解る。忘歌でありながらも、かれをたすけて、と伝えている歌だ。
「……リル、リル」
耳に届く蠱惑の歌がリルの母の歌だと知っている櫻宵は、大丈夫よ、と告げる。その声を聴いたリルはちいさく頷いた。
「待ってて、かあさん。……ノア様」
これから始まるのは彼と彼女の最初で最後の舞台だ。けれど少しこわい。
櫻宵は震えている人魚の手をやさしく握って寄り添う。繋いだ手から彼の熱を感じたリルは微笑みを返した。
「君と共に上る、僕らの舞台をみせよう」
「ええ、見せてあげるの。リルの想いを全て歌にして、聴かせてあげなさい」
リルの歌を。
座長にあなたが生きて紡いできた舞台をみせましょう。それが私達の舞台なのだと語った櫻宵は花のような笑みを咲かせる。
リルは変わった。
ひとりきり、沈めた罪を秘めて湖底で游いでいたときのリルではない。
今は櫻宵が隣にいてくれる。見たいと願った櫻の花をすぐ近くで見つめていられる。それにヨルだって懸命についてきてくれていた。
「ヨルは教会で待っていてね」
「必ず戻ってくるわ。ヨルは帰りを待つ大事な役なのよ」
「きゅ!」
ヨルとの心強い遣り取りを交わした後、櫻宵とリルは白蝶区へと向かってゆく。
●きみにうたう
カナン・ルーに満ちるのは忘却の歌と鳥の囀り。
気を抜けば何もかもを忘れさせられてしまう歌であるというのに、ずっと聴いていたいほどに心地良い。聞く人が違えば印象も違うのだろうが、リルにとっては母の歌だ。
「……忘れないよ」
リルは一度、ノアのことを忘れてしまっていた。
笑顔を、共に過した一時を、そして頬を撫でる熱を。だから忘れぬ想いもあると証明する為に忘歌に抗うことを決めていた。
手帳を抱き締めたまま前を見るのは、全部を届けると誓ったから。
まぼろしであっても、かあさんと約束した。ノア様にあの歌を伝える。強い決意を抱くリルを先導するように櫻宵は進んでいく。
「リル、見て。あそこに影がいくつも潜んでいるみたい」
気をつけて、と櫻宵が告げた刹那、彼らの前に瑠璃の鳥達が現れた。
その囀りは歌を広げる。櫻宵は自分の中から何かが零れ落ちていくような感覚に耐えながらも、リルを庇う形で立った。
「退いて。ノアの元にリルが往くのよ。私の人魚が歌を届けにいくの」
鞘から抜き放った屠桜の切っ先を鳥達に向ける。衝撃波を放とうとしたとき、瑠璃の鳥達がリルに視線を向けてぴちぱちと喋り出した。
『やあ、ぼくたちはりるるり!』
『キミがリル・ルリだね。人魚さまが呼んでるよ!』
「りる?」
「るり?」
突然マメルリハ達がリルに似た名前を名乗ったので困惑するふたり。聞けばその呼び名はノアと人魚が付けた呼び名だという。居なくなった舞台の人魚の代わりに歌を囀り、序幕を飾るために集められたのが瑠璃の鳥達らしい。
『さあ、座長の人魚さん!』
『ほんもののリル・ルリをお迎えしなきゃ』
『ぼくらの役目もこれでおわり! 残虐劇の歌をうたってよ!』
鳥達はリルをぐいぐいと引っ張って連れて行こうとする。しかしすぐに櫻宵が鳥達を押し退け、首を横に振る。
言葉にはしないが、私の人魚よ、という視線が瑠璃の鳥達に突き刺さった。
「あら、駄目よ」
「かあさんとノア様のところには、自分でいくよ」
リルも櫻宵を置いて自分だけが連れて行かれはしないという意思を示す。対する鳥達は瞳を瞬き、翼をぱたぱたと動かした。
『どうして?』
『ノアさまはこの街を治めて、舞台をまたはじめるんだよ』
『けれどだれもいないから、まず住人と演者をあつめるの』
『そこにリル・ルリがいなきゃはじまらないよ!』
ぼくたち、りるるりでは本当の代わりにはなれない。だからキミが欲しいのだといった瑠璃の鳥達は騒いでいた。ノアも住人として亡霊を呼び寄せたらしいが、それでは足りないらしい。かれらの話によってノアの企みは分かったが、知ったからといって素直に従うことは出来なかった。
それに彼はもう過去の残滓であり、いずれは世界を破滅に導くものだ。
「ごめんね、僕は……」
『そうか、その桜の龍がいるからいけないんだね!』
『それじゃあどっちも忘れさせてあげる!』
リルが返答する前にりるるり達は櫻宵を睨みつけた。刹那、忘却の歌の力を増幅させる囀りがふたりを包み込む。
「話し合いはできないみたいね。リルと同じ名前の子は斬り難いけれど……」
それでもリルを護るためならば容赦はしない。櫻宵は刃を斬りあげ、暁の破魔を込めた衝撃波を走らせた。
無数の斬撃が鳥達を刈り取る中、忘却の力は櫻宵の精神に作用していく。
「櫻……!」
彼を呼んだリルは自分にも襲いかかる忘歌の力に抗う。根源がエスメラルダの歌である以上、逆らうことは容易ではない。
手帳を強く抱いたリルは忘れるものかと足掻く。
僕が得た僕自身を、絶対に失わない。たとえ見失っても櫻宵が自分を教えてくれる。
欠けた己を愛で埋めれば、ふたりは戀で繋がるはず。
――リルルリ、リルラルリリル。
歌が導く。それは鳥達へと捧ぐ望春の歌。
(届けて、かあさんがくれた聲。君たちが歌を伝えられるなら……)
きっと届け返すことだって出来るはず。春の歌は秘められた本当の想いを響かせ、鳥達の聲と共鳴しあうことで街中に広がっていった。
「ノア様。聴こえる?」
僕はここにいるよ。自分で游いで君のもとへ辿り着くよ。そう伝えるべく謳った歌はカナン・ルーいっぱいに響いた。
そして黒と白の人魚の歌が交じりあい、淡くとけてゆく。
「噫、リル」
櫻宵は歌声を聞き、母と子の共演の時が訪れたのだと感じていた。
自分自身の存在を蝕む歌に対抗する彼もまた、懸命に抗っている。
(――私は誘七櫻宵)
名を偽り、逃げていただけの駄龍ではない。瑠璃の鳥を斬り伏せる度に暁が胸の奥で燃えていく気がした。
己は貪婪の桜龍。もう無くさない。渡さない。
忘れてもリルが覚えていてくれる。失っても埋めてくれると信じていた。
泡と桜の花吹雪と、角から散り咲く宵の櫻花が戦場に舞っていく。櫻宵は神との約束を忘れぬよう小指を噛み、痛みで意識を繋いでいた。
記憶が薄れていく。されど人魚の欠けた記憶は己の愛で補ってみせる。空虚さが訪れても、戀の熱と愛の痛みで想いを蘇らせよう。
「煉獄ね」
「君となら天国でも地獄でも、どこだっていくよ」
リルの歌う春に対して櫻宵は呟いた。するとリルは淡く笑む。
忘却されぬ愛は此処にある。
守りあい、互いを想うことで喪失に抗ったふたりは記憶を奪われなかった。
だが、其処でふと気付く。どうやら倒しきれなかった瑠璃鳥の何羽かが逃げ去ろうとしているようだ。
『座長のところにもどろう!』
『しらせなきゃ! しらせなきゃ!』
『ノアさま! ぼくらの歌をみとめてくれたノアさまに!』
リルと櫻宵は座長の名を呼んで飛んでいく鳥達を無理に追うことはしない。瑠璃の鳥達にも譲れぬ忠誠と絆があると知った現状、無慈悲に屠ることは憚られた。
今は忘却の囀りを阻めたのだからそれでいい。決着は座長の元で付けられるだろう。
「行きましょう、リル」
「そばにいてね、櫻」
リルは櫻宵に寄り添い、鳥達が飛び去った方に向かっていった。暫し進めば領主館の門が見えてくる。いよいよその奥で彼らと対面することが出来るはずだ。
ノアとエスメラルダ。
そして、リルと櫻宵。
座長が人魚を連れているなら、自分は櫻と一緒に舞台に上がろう。ふたたび誓ったリルは櫻宵の手を取った。そして、強く希う。
ねえ、上手に歌わせて。ちゃんと歌うよ。
この水底の街すべてを舞台にして、残虐劇を運命劇へと変えてみせるから。
●渦中の劇作家
白蝶区、領主の館にて。
黒薔薇の庭園の中央。其処には舞台のような壇上が用意されていた。その上で黒い人魚が揺蕩い游ぎ、忘却の歌を紡ぎ続けている。
舞台の控えには男が佇んでいた。その掌の上には血塗れの瑠璃鳥がいる。
「……そうか。ご苦労だった」
猟兵が訪れた街の様子を告げた鳥はノアの声を聞き、満足そうにちいさく鳴く。猟兵の攻撃から命からがら逃げてきた瑠璃の鳥はそのまま息絶えた。
やがて瑠璃の鳥は彼の手によって咲き誇る黒薔薇の傍に葬られる。かの鳥の報告から猟兵が近付いていることを知ったノアは忌々しげに呟いた。
「記憶を失っても、奴らは戦いに訪れるのか」
厄介な存在だと口にしたノアだが、少しも慌ててなどいない。寧ろ中途半端に記憶を失くしているのならば利用の仕方はいくらでもあるだろう。
それに――。
「アレも此処に帰ってきたのなら、都合が良い」
双眸を薄く細めたノアは街中に響いていた白の人魚の歌声を察知していた。
続けて何羽もの瑠璃鳥が庭園に帰還し、『リル・ルリがきたよ!』『へんな桜の龍もいるよ!』と囀りはじめる。
その声を聞いて確信したノアは待ちわびていた人魚の名を口にした。
「……リル」
――リルルリ、リルルリルルリ。
そのとき、歌を紡いでいた黒の人魚が彼の声に歌聲を重ねる。顔を上げたノアは人魚を見遣り、緩く首を振ってみせた。
「エスメラルダ、歌を止めろ。もういい」
後は奴らが訪れてから歌えばいいと告げたノアは背の紅翼を幾度か羽撃かせた。
そして――ずっと水底の街に響いていた歌が、静かに已んだ。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
第2章 ボス戦
『『享楽の匣舟』ノア』
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POW : 歌え!私の歌姫《エスメラルダ》よ!
【記憶に干渉し消去・破壊する洗脳の呪詛】を籠めた【鞭】【傀儡奴隷:漆黒の人魚が歌う「忘歌」】による一撃で、肉体を傷つけずに対象の【最も失いたくない存在、想い、技能の記憶】のみを攻撃する。
SPD : Grand Guignol!
戦闘用の、自身と同じ強さの【対象自身の分身や大切な存在、親しい者達】と【殺しあいを強要させる『見世物劇場』】を召喚する。ただし自身は戦えず、自身が傷を受けると解除。
WIZ : 今宵の演目は……
対象への質問と共に、【自制心を破壊し、欲望と願望を狂化する喝采】から【欲望や願望を実現する「幸福な楽園」の舞台】を召喚する。満足な答えを得るまで、欲望や願望を実現する「幸福な楽園」の舞台は対象を【幸福の破壊で軽減される、自我と肉体の崩壊】で攻撃する。
👑11
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴🔴🔴🔴
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●Grand Guignol!
黒衣の聖女像を祀り、黒薔薇の領主が治めた都――カナン・ルー。
黒曜の街の中、白蝶区と呼ばれる場所。其処に『享楽の匣舟』の座長、ノアが人魚と共に居る領主の館がある。屋敷の敷地内には黒薔薇が咲き乱れる庭園があり、其処には嘗ては無かった舞台が作り出されていた。
それぞれに記憶を失い、或いは抗いながら庭園に辿り着いた猟兵達。
彼らを迎えたのは街から帰還した十数羽のマメルリハ達。そして、黒の人魚エスメラルダを伴う吸血鬼ノア。
「――ようこそ、カナン・ルーへ」
舞台の前口上めいた芝居がかった口調で告げたノアは恭しく礼をしてみせた。その口許は緩められている。だが、瞳は全く笑ってはいなかった。
顔をあげた彼は語ってゆく。
「諸君はもうこの舞台の演者だ。……ときに、愛とは何か識っているか?」
演技がかった物言いで問い掛けた彼は、此方の答えを待たずに話し続けた。
慈しみだけが愛ではない。
たとえば身分違いで結ばれぬ者が居たならば、永遠に結ばれる為に共に死を選ぶ。
子を成せぬ夫婦が居たならば、絆の証として攫ってきた子を育てる。想い人が自分以外の者を好いているならば、相手を殺して奪い取る。
愛しさを刻みつける為に傷を与え、その血の色を愛の証明とする。
其れも愛。此れも愛。
綺麗事などでは語り尽くせぬものこそが愛の物語。それは時には毒薬の如く、悲鳴や嘆きすら物語を飾るものとなる。
お解り頂けたか、と口にしたノアは傍で揺蕩う黒の人魚を見遣った。
感情が読めない表情を浮かべた人魚、エスメラルダは歌うことを止めている。しかし座長の言葉ひとつで再び忘却を齎す歌をうたうだろう。
猟兵達は理解する。
このまま何もしなければ忘却の歌にすべての記憶を奪われて廃人になる。そうして何もかも忘れて、ノアの支配下に置かれてしまう。
この街のあらたな住人となるのか、それとも残虐な舞台を飾る演者とされるのか。
どちらにしても猟兵達はそうなることを避けなければならない。
舞台に立つ座長と人魚。
その周囲の薔薇の木に止まっているマメルリハ達。
彼らと戦うには猟兵達も舞台に立つしかない。相手も戦いが始まることを理解しているらしく、さあ、と舞台に猟兵達を誘う。
「演者達よ、問おう。――満ちぬ胸の内に咲く花は何か」
不意に紡がれたのはノアが抱く疑問。
それに答えるのも答えないでいるのも自由だ。しかしどうしてか、問い掛けられた言葉には妙な雰囲気が感じ取れた。
やがてノアは鞭を撓らせたかと思うと鋭い音を響かせる。前口上が終わったならば次は開幕の合図だ。そして、その言葉が落とされた。
―― Grand Guignol !
開演時間だ。阿鼻叫喚の喝采を!
●今宵の演目
君達は吸血鬼が持つそれぞれの力に対抗しなければならない。
傀儡奴隷である漆黒の人魚が歌う忘歌は、更なる記憶を奪い取る。
下手をすれば何もかも忘れてしまう。
歌が向けられた者は戦場に残っているマメルリハを撃破することで、この効果を薄めて消すことが出来る。容赦は要らない。鳥達も主の為に決死の覚悟で襲いかかってくるので正面から戦うだけだ。
見世物劇場の召喚に巻き込まれた者は同行者か、或いは自分の影と戦わされる。
抗うことは不可能だ。
どんな場合でも洗脳され、必ず傷付け合うことになる。
この場合、ノアへの直接攻撃は届かない。しかし同行者への攻撃を並々ならぬ精神力で止めるか、己の影を打ち破れば、結果的に敵の力を削ぐことになるはずだ。
ノアからの問いを受けたものは幸福な楽園の舞台に引き摺り込まれる。
其処では自分が望む世界が映し出されているだろう。だが、その世界の向こう側に待っているのは自我と肉体の崩壊だ。
君は自ら、望む幸せを破壊してその舞台から脱出しなければならない。
しかし、もしノアの問いに対して満足の行く答えを出し、告げられたならば――?
何が起こるかは未知数だ。
だが、君達はこの残虐劇の舞台を変える力を持っている。
一時の演者として、猟兵として。そして他の誰でもない、君自身として。
さあ――全てを魅せて、謳おう。
ラビ・リンクス
急な問に耳を揺らせば
忘れた筈の感情が喝采を受け渦を巻く
鍵が壊れたら溢れてしまう
せっかく時を止めたのに
在りし国
皆首揃え
君が居る
君が笑って生きている
体など胸が痛いよりずっといい
僕の君
僕は
君が泣くから生きている
君の兎で死ねるなら―
けれど時間は戻らない
首輪飾りがカチリと進む
甘いパイ
白い薔薇
そして君も
偽物
叶えたいのは幸せじゃない
君に誓った赤い約束
遠い日の魔法が今に始まる
紙になり果てた女王の兵が舞台に現れ動きだす
そうして赤く染まる度
僕だけ白紙に戻される
心の穴を埋めるまで
君を何度も手にかけて.fin
永遠に咲く魔法をかけた
赤い薔薇だ
誰も僕から奪えない
散ってなお咲く赤い想い
さァ報酬を貰おうか
白い刃じゃ終われない
●Da capo
――満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
その問い掛けは様々な意味が込められているように感じられた。
満ちぬもの、胸の内。そして、其処に咲く花。
花という言葉ひとつをとっても数多の解釈が出来る。花の名前そのものであるのか、それとも花になぞらえた何かなのか。
何にせよ享楽の匣舟の主は、答えを求めていながらも応えさせようとしていない。
「さて、今宵の演目は……」
舞台にあがった以上、ノアは座長として振舞う。振るった鞭で鋭い音を響かせた彼は、演者として訪れた者達に鋭い眼差しを向けた。
問う言葉がラビの耳に届いた刹那、周囲の景色が一変する。
目眩のような感覚がラビの意識を揺らがせたとき、心の裡にも変化が起きた。忘れた筈の感情が喝采を受けて渦を巻きはじめたのだ。
――鍵が壊れたら溢れてしまう。
せっかく時を止めたのに、と無意識に浮かんだ思いにはたと気付く。
己を忘失していてもラビにとっての幸福な楽園は巡っていった。彼の為にひらかれた舞台に広がる景色は懐かしくも感じる世界だ。
其処は在りし国。
ドコかへ行ってしまったものたち、つまりは皆が首を揃えている場所。
そして、君が居る。
ラビは目の前にある舞台の中央に佇む影を瞳に映す。目映いほどの景色。そう感じてしまうのはこれが欲と願望の入り混じった舞台だからだ。
「ああ、君が――」
笑って生きている。何処にも消えたりはしない、幸福な国。
そのかたちを顕現させた代償なのか、身体が軋むように痛かった。されど胸が痛いよりはずっといいと思えた。
「僕の君、」
ラビは舞台に立つ君に歩み寄り、手を伸ばした。
呼び掛けた声はほんの少しだけ揺らいでいる。数歩、たったそれだけ近付けば触れられる。触れていたいのか、それとも傍に居たいだけなのか。もしくは。
自身を失ったまま、上手く纏まらぬ考えを抱いたラビは己の幸福な国を見つめる。
「僕は、……君が泣くから生きている」
君の兎で死ねるなら――。
自然に言葉と思いがあふれていった。それと同時に自我が崩れていく。身体が酷く痛み、己が壊れていくのだと分かった。
ああ、とちいさな声を落としたラビは伸ばそうとしていた腕を下ろす。
自分は識っている。
時間は戻らない。お茶のカップを逆さまにしたら紅茶は地面に零れるだけ。何をしたって元通りにはならない。
すべては不可逆。求めてはならぬ世界がこの舞台にある。
不意に、首輪の時計飾りがカチリと進んだ。その音を合図にしてラビは動き出す。
甘いパイ。白い薔薇。
そして君も、全部が虚飾の偽物。
叶えたいものは幸せではないのだと、はっきり分かる。皆と君がいる世界は確かに幸福かもしれないが、これでは果たせないこともあった。
帰れない。此処は帰ってはいけない場所だ。
名前のない国に、幸福という勝手な名を付けてはならない。
視界を区切る首輪越しに舞台を見据える。赤い瞳に歪な幸福を映したラビが想うのは、君に誓った赤い約束。
遠い日の魔法が今に始まる。歪なトランプになり果てた女王の兵達が舞台に現れ、幸せなはずの世界を壊してゆく。
舞台上に集った皆が兵の刃や槍によって貫かれた。
幸福な世界は瞬く間に、座長が望む愛の残虐劇へ変わっていく。そうして周囲が赤く染まる度、ラビだけが白紙に戻されるかのような感覚が突き刺さった。
振り下ろされる剣が、鋭い刃が、赤を散らす痛みが偽物を貫く。
空いた心の穴を埋めるまで。何度も、何度も、君を手にかけて――。
彼の舞台は其処で終幕。
最後に残ったのは、永遠に咲く魔法をかけた赤い薔薇。胸に手を当てたラビは、散ってなお咲く赤い想いを己の中に反芻する。
ノアが求めるものは解らない。しかし、この薔薇こそがラビの内に咲く花だ。
「これだけは誰も、僕から奪えない。……さァ報酬を貰おうか」
白い刃じゃ終われない。
忘れても覚えていることがあった。自分は白兎。それに与えられた役目は物語の始まりを報せること。即ち、兎とは主人公を導く役割を担っているもの。
ならば己は駆けて行こう。
幾度、幸福な舞台が齎されようとも撥ね退けていけるはずだ。
問いに答えるのは自分ではない。そう知っているからこそ出来ることもある。この先に広がる舞台に相応しい終焉を導く一助となるために、ただこの力を揮うだけ。
そうして、戯曲のはじまりは白き兎によって奏でられていく。
大成功
🔵🔵🔵
ルーチェ・ムート
思い出さなきゃ
何を?
愛…愛は?
じゃら、鎖の音
目の前に彼の姿
冷たい指先
駒鳥?かみ?
それはボクの名前じゃない
あなたは誰
わからないのに心地良い
ルーチェ
色々な声
繋ぐ手は優しい
キミ達はボクの仲間
それはわかるのに
キミ達は誰
笑顔に囲まれ繋がれて
何も、いらない
何も、わからなくていい
だってこんなに蕩ける心地
本当に?
違う
幸せなのに虚しい
胸元に空洞があるよう
満ちぬ胸に咲く花は
そっか
滴る赫を拭う
生の色
ボクは生きている
目の前の彼と仲間の姿を認め
求るものが違えば花も違う
ボクは、白百合
葬いとあいの花
えにしの象徴
水の竜巻を起こす
わするるなかれ
魂に刻まれているあたたかなもの
御する力はとうにある
返してよ
ボクの、たからもの!
●Risoluto
忘れたはずの記憶が胸を衝く。
思い出さなきゃ。でも、何を? だけど、どうして?
言葉にすらなってくれない疑問がルーチェの中に巡り、泡沫のように浮かんでは消えていった。そんな中でルーチェは吸血鬼が語った愛について考える。
「愛……愛は?」
何もわからないと呟いたルーチェが目を閉じたとき、舞台の様相が変わっていく。
耳に届いたのは鎖の音。
瞼をひらくと、目の前には彼の姿があった。
檻の中、首と手足に嵌められた枷。其処から繋がる鎖が彼の手によって手繰り寄せられた。いつの間にか座り込んでいたルーチェは彼を見上げる。
鎖を引き寄せた彼の指先が頬に触れた。その指がとても冷たいと感じる間もなく、彼がルーチェを見つめて囁いた。
『――僕の駒鳥』
かみ。
確かにそう呼ばれた。しかし記憶を失ったルーチェには何のことかわからない。
「違うよ、それはボクの名前じゃない」
『迎えに来たよ』
「……あなたは、誰?」
頭を振ったルーチェだが、彼は何も気にすることなく語りかけてきた。問い掛けても明確な答えは返ってこない。それでも、どうしてか心地よく思えた。
檻と鎖と彼と自分。何もないのに全てが此処に存在しているような気がした。そうして不意に彼が、謳って欲しいと願う。
するとルーチェはそうすることが当たり前であるかのように、望まれた歌を紡ぎはじめた。憶えていなくても身体が覚えているかのようだ。
彼が傍にいてくれる。
ルーチェにとっての幸福な舞台は此処だ。ささやかでも、喝采は彼から貰える。
敵の力によって構成された楽園の世界は間違いなくこの場所にあった。
その間にも幸福な世界が次々と舞台にあらわれ、ルーチェを取り巻く景色や光景移り変わっていく。そんなとき、誰かの声が耳に届いた。
――ルーチェ。
特定の誰かではない、色々な声。
繋ぐ手は優しくて、彼らが自分の仲間だということは感じられた。それはわかるというのに、キミ達は誰、としか言葉にできない。
笑顔に囲まれて繋がれている場所。次第にルーチェはこの心地に身を委ねたくなってきた。こんなにも蕩ける心地なのだから、何もいらない。
何も、わからなくていい。
自我が融けていく。齎される肉体の痛みすら今に相応しいものなのだと思えた。
だが、ふとしたとき。
「……本当に?」
疑問が浮かぶ。違う、違う、という心の声が聞こえた。
幸せなのに虚しい。胸元に空洞があるようで何も満たされることはない。
満ちぬ胸に咲く花は――。
この舞台を呼び寄せた座長はそんなことを問い掛けてきたのだったか。それを思い出したルーチェは何かに気付き、顔をあげる。
「そっか……」
はたとしたルーチェは滴る赫を拭った。
記憶は失われて曖昧だが、これだけは生の色だとはっきり分かる。
「ボクは生きている」
凛とした口調で宣言したルーチェは目の前の彼と仲間の姿を認めた。
求めるものが違えば花も違う。吸血鬼が紡いだ問いの真意は未だ知れないが、ルーチェ自身の中にある答えはちゃんと分かっている。
「ボクの胸にある花は、白百合」
それは葬いとあいの花。そして、えにしの象徴。
檻の中の世界も仲間達と共にある世界も確かに幸福だ。けれども忘れたままでは永遠に満たされず、自分自身の心が崩壊するだけ。
わするるなかれ。
思い出せなくとも、魂に刻まれているあたたかなものがあった。御する力はとうにこの手の中にある。在るべき世界に帰るために、この喝采の舞台を壊すと決めた。
「返してよ」
ルーチェはそう告げると同時に水の竜巻を起こす。澄んだ水の奔流が幸福に満ちた世界を巻き込み、幻の景色を洗い流していった。
華は蝶と舞い、風は月と踊る。その景色の向こうに本当に求めたものがあると信じて、ルーチェは抗い続けた。
答えた花の名。それがノアの満足するものではなくても戦い続けると決意する。
彼が認めずとも、ルーチェにとっては白百合こそが正解だ。
「絶対に思い出すんだ。ボクの、たからもの! 今のボクの大切なものを――!」
少女の思いは決然と。
そうして、舞台は粛々と巡ってゆく。
大成功
🔵🔵🔵
五条・巴
胸の内に
花、
ふと思い出したのは
蓮の花
中身泥臭いのにそんなのお首にも出さずに綺麗な顔で笑ってる
そんなことを言っていたのはだれだったっけ
次に浮かぶは梔子
言葉は要らない
お前自身で勝負しろ
そんなことを言っていたのは、だれだったっけ
どれも誰かの言葉
聞かれたら、自分の口で、応えねば
どうしてかそう思ったから、手に持つ銃の、装甲を見る
エーデルワイス
上も下も、良く見える場で
気高くあれ と
まだ理想に至らぬ僕が
そう、五条巴が込めた思いだ。
天に一発
僕はここだよ
何でも無い、五条巴という存在がいる
僕のいるここが、舞台だ
上がってこいよ
僕を見て
君が見てくれたらきっと僕は満たされる
逃がさないよ
牝鹿と共に明けぬダンスを踊ろう
●Crescendo
目的も失くし、己すら喪った先。
辿り着いた先にあった黒薔薇の庭園で問われたのは不思議な言葉だった。
胸の内に咲く花は。
それを聞いてふと思い出したのは、蓮の花。
中身は泥臭いのに、そんなことはおくびにも出さずに綺麗な顔で笑っている。
――そんなことを言っていたのはだれだったっけ。
しかしその花のいろを浮かべる前に、巴の目の前に幻想の舞台が作り出される。
其処は誰も彼もが自分を見つめて認め、喝采を送る世界だった。目映いスポットライトめいた光が巴を照らす。
「ああ、ここが」
幸福な舞台だと感じるのに時間は要らなかった。
送られ続ける喝采と拍手を耳にし、自分の瞳に映しながら巴は思う。
次に思い浮かんだのは梔子の花。
言葉は要らない。お前自身で勝負しろ。
――そんなことを言っていたのは、だれだったっけ。
考える間にも幸福な舞台は色を変え、巴自身の自制心を破壊し、欲望と願望を狂化してゆく。じわり、じわりと自分が壊れていくような感覚に陥りながら巴は考える。
ああ、どれも誰かの言葉だ。
この舞台を演出している座長に答えるにはどれも違う。
(聞かれたら、自分の口で、応えねば……)
己が誰かも分からず、思い出せぬままで巴はそんなことを感じていた。どうしてそう思ったのかも今はわからない。
しかしふと、手に持つ銃の装甲が目に入った。
その花はエーデルワイス。
憶えていなくとも常に傍にあった。その花はきっとこう語っている。
上も下も、良く見える場で気高くあれ、と――。
「そうだ、まだ理想に至らぬ僕が……」
気付けば己でも知らぬうちに、忘れたはずの自分の呼び方を掴み取っていた。
俺でも私でもない、僕。
そう、自分だ。五条巴という男が込めた思いだ。
続けて巴は銃口を天に向ける。
一発、上空に向けて放たれた銃声が鋭く響き渡った。
「僕はここだよ」
それは他の何でも無い、五条巴という存在がいることを示した音だ。巴は自分が自ら破壊すべき舞台に向けて語る。
「僕のいるここが、舞台だ」
半ば無理矢理に与えられた場所などには留まらない。それは他の誰かに用意されるものではなく、自分で勝ち取る場所だ。
上がってこいよ、と告げるように巴は偽りの幸福が満ちる世界を見据えた。
「僕を見て」
君が見てくれたらきっと僕は満たされるから、と巴は静かに微笑む。
何も逃がさない。何も失ったままにはしない。明けぬダンスを踊ろう、と呼び掛けた巴は己の力を発動させていく。
胸の内に咲く花は。
もう一度、問い掛けられた言の葉を思い返した巴は自分の口でしかと答えた。
「僕の胸に咲くのは、この花だ」
銃を強く握る。
揺るぎない思いが裡に宿り、巴はこの舞台に仇し続けることを心に決めた。
段々と強く、深く巡るものがある。
大丈夫、必ず勝てると巴は信じていた。何故なら、享楽の匣舟から脱するための感情と願いがこの胸に残っている。
そして――自身を自身たらしめる思いと音だって、確かに此処にあるのだから。
成功
🔵🔵🔴
ヴォルフガング・エアレーザー
奪われたのは『最愛の妻』の記憶
この世の何より大切な彼女。流れ者の傭兵だった俺が『世界を守る』決意をした。人を愛する心を教えてくれた。
忘れるものか。彼女のことは決して…『彼女』とは誰だ?
この心に巣食う虚無感は、暗澹たる思いは何だ何だ何だ……!
一瞬でも気を抜けば狂気に冒されそうな焦燥感とは裏腹に、いや増すのは元凶たる敵への怒り。
かけがえのない『心の拠り所』を奪った貴様を、俺は許さない。絶対に!!
【獄狼の軍団】よ。牙を剥け、爪を立てろ、燃え上がれ!!
俺たちを嘲笑う憎き敵を焼き尽くせ!!
憤怒のままに鉄塊剣をなぎ払い、このふざけた茶番劇を終わらせてくれよう
俺を凶暴な獣に還らせたことを後悔するがいい……!
●Allargando
この水底の都市に訪れて奪われたもの。
ヴォルフガング・エアレーザー(蒼き狼騎士・f05120)が失くしたのは最愛の妻の記憶そのものだった。
失うまでは彼女こそがこの世の何より大切なものだった。
彼女は流れ者の傭兵だったヴォルフガングが世界を守るという決意をした切欠となった。人を愛する心を教えてくれた、何よりも大事な存在だったはずだ。
「忘れるものか。彼女のことは決して――」
黒曜の街の中にいたときはまだ辛うじて覚えていたのだが、庭園に訪れた今のヴォルフガングには記憶がない。無意識に呟いた言葉にも疑問が浮かんでしまう。
「……『彼女』とは誰だ?」
ぞっとするような感覚がヴォルフガングの胸に巡った。
何なのだろう。この心に巣食う虚無感は。どうしてか何もかもを捨ててしまってもいいとすら感じる、暗澹たる思いは――。
「何だ、何だ何だ……!」
焦燥が胸の奥を締め付ける。この感情の意味が解らない。
ただ、忘れたということだけがヴォルフガングの中に残っており、何が大切であったのかを喪失してしまっている。
『忘れたね!』
『もっと忘れちゃえ!』
黒薔薇の庭園に残っていたマメルリハ達が囀っている。
ヴォルフガングは一瞬でも気を抜けば狂気に冒されそうな焦燥感を抱えながら、この状況を作り出した元凶を睨みつけた。
思いとは裏腹に増していく感情は敵への怒り。
記憶を失ってもなお、ヴォルフガングの中にはかけがえのない心の拠り所が奪われたのだという感情が残っている。
「貴様を、俺は許さない。絶対に!!」
取り戻すにはあの吸血鬼を倒さなければならないだろう。そう感じたヴォルフガングは胸元に手を当て、フェオの徴に触れる。
それは我が身を無辜の祈りに応え、民を守る礎となると誓った証だ。
この根源はきっと自分が口にした『彼女』にも起因するはず。彼女が何者だったのかを思い出すことは出来ないが、力を揮うことは出来る。
マメルリハ達を蹴散らすことが先決だと察したヴォルフガングは獄狼の軍団を己の周りに顕現させていく。
「――忌まわしき魍魎共よ、己があるべき場所へと還れ! 何者も地獄の番犬の顎門から逃れる術は無いと知れ!」
牙を剥け、爪を立てろ、燃え上がれ。
ヴォルフガングの号令と共に駆けた獄狼は鳥達を穿っていった。そして、彼自身も剣を構えて駆け出す。
「俺たちを嘲笑う憎き敵を焼き尽くせ!!」
彼は憤怒のままに鉄塊剣で敵を薙ぎ払い、囀る鳥を葬っていった。鳥達はまだまだ数が多いが、こうして戦っていけばいつかは全てを屠れるはずだ。
「このふざけた茶番劇を終わらせてくれよう」
ヴォルフガングはこの舞台を理解しようとは思わなかった。ただ自分から大切なものを奪った相手を倒すことしか頭にない。彼女の記憶を失ったという事実はそれほどまでに強く、彼を焦らすものだった。
姫を守る聖騎士だったはずの彼は今、孤独な狼に逆戻りしている。
「俺を凶暴な獣に還らせたことを後悔するがいい……!」
強く宣言したヴォルフガングは獄狼と共にマメルリハ達を更に攻撃していく。荒々しく猛る彼の目的はただひとつ。
未だ思い出せないままである『彼女』の記憶を取り戻すということだけ。
そうして、ヴォルフガングは果敢に戦い続けてゆく。
成功
🔵🔵🔴
ヘルガ・リープフラウ
最愛の夫、ヴォルフ(f05210)の後を追ってきてみれば、只ならぬ様子の彼の姿を目に止め
良からぬ事態を悟った瞬間、囚われた幸福の楽園
争いの無い平和な世界
戦いを捨て、幸福そうに笑うヴォルフ
でも違うの。猛り荒ぶる狼の魂も、確かに彼自身だから
わたくしは、ありのままの彼を受け入れる
まやかしに囚われるぐらいなら、己の足で茨の道を往き進む
満ちぬ胸の内に咲く花
ふわりと鈴蘭の花が風に舞い
純粋な愛、再び訪れる幸福の証
されどその幸福を踏みにじる者には、我が身に宿す毒を以て抗う
ただのか弱き小娘と侮りまするな
ノア、愛する夫を傷つけた貴方を
数多の愛を愚弄し冒涜した貴方を
わたくしは決して許さない
必ず貴方を「殺します」
●Allegretto
水底の街に辿りつき、黒薔薇の庭園に足を踏み入れる。
ヘルガ・リープフラウ(雪割草の聖歌姫・f03378)は別々に行動していた、最愛の夫であるヴォルフガングを追ってきていた。只ならぬ様子の彼の姿を目に止めたヘルガは良からぬ事態を悟った。
その瞬間、記憶が奪われると同時に囚われた幸福の楽園が広がる。
其処に見えたのは、争いの無い平和な世界。
「あれは……?」
戦いを捨て、幸福そうに笑うヴォルフガングの姿がヘルガの瞳に映る。
しかしヘルガにはそれが誰かわからない。
この街に響く歌を聞けば、大切なものが記憶から失われてしまう。それゆえにヘルガ自身も気付かぬ内に夫の記憶をなくしていた。
「どなたでしょうか? ですが、見ているととても安らぐ気がします……」
記憶はなくともヘルガは彼を知っている気がした。喪失していても大切な誰かだということはわかる。
「違うの……違うのです」
ヘルガは気付けば首を横に振っていた。
彼の名前を忘れても、彼がどんな関係の相手であるかを忘れても、猛り荒ぶる狼の魂も確かに彼自身だと分かった。
「わたくしは、ありのままの彼を受け入れます」
まやかしに囚われるぐらいなら己の足で茨の道を往き進むのだと心が語っている。
満ちぬ胸の内に咲く花は。
舞台を作り上げた吸血鬼の声が聞こえ、ヘルガは顔をあげた。
ふわりと鈴蘭の花が風に舞う。
それは純粋な愛、再び訪れる幸福の証。されどその幸福を踏みにじる者には、我が身に宿す毒を以て抗おうと思えた。
ヘルガは幸福な楽園の力によって自我が崩壊していくことを感じている。それでも必死に立ち向かい、この舞台から抜け出そうとした。
「ただのか弱き小娘と侮りまするな」
しかしヘルガは鈴蘭の花を舞わせただけで、問いには答えていなかった。
そのうえ、今の状態はただ攻撃を行うだけで対抗策にはなっていない。このままでは永遠に舞台に閉じ込められたままになる。いけない、とヘルガが気付いた時には全てが遅かった。記憶が失われていることもあり、抗おうにも抗えていない状況だ。
そして、目の前で穏やかに笑う男がやさしい瞳を向けてくる。
偽物の彼はヘルガを誘う。
――この世界にずっと居よう、と。
こんな世界があってもいいのではないだろうか。そんなことを思ってしまう。
自我が壊れる。今までの自分が崩れ去り、この楽園に絆されていく。
それに、とヘルガは思う。
ノアという吸血鬼は悪逆非道だと思っていた。しかし吸血鬼自身は大切な彼を傷付けてはいない。また、相手は数多の愛を愚弄し冒涜していたのだと感じていた。だが、本当にそうなのだろうか。
思考する力すらも幸福の舞台が奪い去っていく。
「わたくしは――」
続く言葉はなかった。かわりにヘルガは笑顔を浮かべ、名も思い出せないが愛おしく感じられる彼の元へ駆けていった。
そうして彼女は嘗ての己すら忘れ、楽園に囚われる。
幸福な世界。その後に待っているのは自我と肉体の崩壊。
この歪んだ舞台は吸血鬼が倒されるまで、或いは彼女が死に至るまで続いていく。
失敗
🔴🔴🔴
樹神・桜雪
望む世界はどこか分からない大きな図書館
何故かは分からないけれどとても落ち着く場所
肩に白い小鳥を止まらせた優しげな少年がこちらにおいでと手招きしている
そこは暖かくて幸せになれると足は自然にそちらに向きかける
でも、でも
『満ちぬ胸の内に咲く花は何か』ボクにとってのソレは何度踏まれてもなお咲き誇る不屈の意思だ
忘れてもなお忘れていないものがある
大切なものを探せと心は叫ぶ
ならば何度でも何度だって立ち上がって歩いてみせる
満ちる事がないなら満ちるまで花を咲かせてみせよう
あなたがこの答えで満足するかは分からないけれど
ごめんね、ボクそっちには行けないや
UCと薙刀で全てを切り裂いて反撃に転じるよ
●Accelerando
大切なモノがあったという感覚だけが胸を支配する。
不安定なまま進んでいった黒薔薇の庭園の中、桜雪は座長であるノアの舞台に立たされることとなった。それは自身の欲と願望を狂化する世界だ。
桜雪が望む世界は大きな図書館。
何処であるかすら分からないが、この場所こそが求めていたものだと思えた。
「何だか、落ち着くな……」
ぼんやりとした表情を浮かべた桜雪は用意された幻影の舞台の上をゆく。何故かは分からないが此処こそがあるべき世界な気がした。
それもこの舞台が望みを実現する『幸福な楽園』であるからだ。
図書館の先には優しげな少年がいた。肩に白い小鳥を止まらせた彼は、こちらにおいでと手招きしている。
其処はきっと、暖かくて幸せになれる場所のはず。
心が安寧を求めていた。自然に足が向きかけるが、齎される痛みにはっとする。
「でも、でも……」
桜雪は踏み止まり、本当に少年の元に向かって良いのか悩んだ。そのとき、吸血鬼が語っていた言葉が頭に浮かんでくる。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
あれはどういう意味だったのだろうか。様々な解釈が取れる問い掛けは不思議だった。今の桜雪には自分にとっての花を思うことしか出来ない。
「ボクにとってのソレは……」
深く考える。
満ちぬもの。咲き誇るもの。それはきっと花の名自体ではなくて――。
「何度踏まれてもなお、咲き誇る不屈の意思だ」
忘れても、失っていないものがある。それがこの胸に響き続ける自身の声だ。この舞台の楽園にあがっている限り、心と身体がじわじわと侵食されていく。
だが、それでも心は大切なものを探せと叫ぶ。
「ここにいるのは、痛いな。でも……だけど、ね。――相棒」
無意識にその名を呼んだ。
今の桜雪には相棒という存在が何であったのかはわからないまま。だが、舞台に現れた少年の肩に止まっている鳥を見て浮かんだのだ。
「ボクは、ボクだ。記憶をなくしていたってずっとボクだった」
これまでだって何もないまま歩いてきた。それならば今だって同じだ。何度でも、何度だって立ち上がって進んで見せる。
満ちることがないなら満ちるまで、花を咲かせてみせよう。
「あなたがこの答えで満足するかは分からないけれど」
「成程、花そのものではないと言うのか」
ノアに呼び掛けた桜雪は胸を押さえた。相手の反応はただそれだけであり、彼の真意は読み取れない。その間にも自我と肉体の崩壊はゆっくりと桜雪を蝕んでいた。だが、この痛みも図書館の世界を壊せば逃れられる。
ならば理想も願望も今は捨てよう。此処に求めるものはないと解っているから。
歩み寄れなかった少年の方を見つめ、桜雪は首を横に振る。
「ごめんね、ボクはそっちには行けないや」
――雪よ風よ、今一度。
華桜の刃を振りあげた刹那、桜雪にとっての楽園の舞台に鋭い風が疾走る。
少年も、白い鳥も全て。
何もかもを切り裂いて反撃に転じた彼は戦い続けた。失ったものを取り返して、今まで積み上げてきた自分に戻るために。
与えられた楽園など偽りだ。そう断じた彼の舞台は自らの手で壊されていく。
成功
🔵🔵🔴
カビパン・カピパン
WIZ
個性を忘却した姿は清廉潔白なる聖女そのもの、究極の聖人君主。負の側面がない彼女は【人間らしさ】も消失しつつあった。
「あなたにヘンルーダを、そして少し私にも」
ノアの問いに悲劇の舞台女優のように台詞で答える。
ヘンルーダ――後悔や悔恨を象徴する花。
相手がこの答えに満足するかは分からない。【聖杖】を構えた。
そして本来の自分が望むはずの世界が見える。
なぜだろう、突然の涙が止まらなかった。
消えてしまった、掛け替えの無いモノ。
失ってしまった、大切なモノ。
嫌だった、特別な地位も猟兵も望んでいたわけではない。
故郷で平穏にのんびりと暮らしたかった。
だから変な光を憎んでいたのに。
今は…ただあの光が心淋しい!
●Maestoso
失われたのは光。
それは即ち、カビパンがカビパンだったことの証。
個性を忘却した彼女の姿は清廉潔白なる聖女そのものであり、究極の聖人君主。
そうであるならば理想的な人間になれたと表せるのかもしれない。だが、負の側面――つまりはだらしなさや面倒くさがりな部分、更には貧乏性な性格や女神ハリセンを好んで使うことのない彼女は、人間らしさも消失しつつあった。
舞台にあがったカビパンは答える。
それはノアから問い掛けられた言葉についての返答だ。
「あなたにヘンルーダを、そして少し私にも」
悲劇の舞台女優のように、淡々とした台詞を伝えたカビパンはそっと微笑む。その表情にそれまでの彼女の様相は見て取れなかった。
ただ其処に在るだけのモノ。
者ですらない、物だと示した方が相応しい雰囲気がある。それが人間らしさを忘却した不自然な形の彼女だ。
そして、カビパンが答えたヘンルーダとは後悔や悔恨を象徴する花。
相手がこの答えに満足するかは分からない。それすらも気に留めぬまま、カビパンは聖杖を構えた。するとその視線の先に何かが見えた。
「…………」
無言のまま、カビパンは瞬きをする。
視えたのは本来の自分が望むはずの世界。何も特別なことや、変わったことのない平穏な世界が作られた光景だった。
頬を伝う雫が熱い。涙が流れているのだと気付いたのはその熱を感じた後だ。
止まらない。どうしてか零れ落ちる涙。
それはもう消えてしまった、掛け替えの無いモノ。失ってしまった、大切なモノ。
嫌だったのだ。
そうだ、自分はあの声も、特別な地位も望んでいなかった。
猟兵であることを願ったわけではない。この舞台につくられた場所――故郷でのんびりと暮らしたかっただけだ。
だから変な光を憎んでいたのに。
憎む先があれば心を保っていられたというのに。
忘れたことで気付く真実は皮肉であり、楽園の舞台に訪れて知った事実は苦しい。
――光を。
あの光は何処に。
今はただ、あの光が心淋しい。しかし今のカビパンにはどうすることも出来なかった。ただ楽園に身を任せ、平穏を満喫することに心が傾ぐ。
「光がない世界も良いのかも」
気が付けばカビパンは故郷を映した舞台の中央に歩み寄っていた。
猟兵ではない。崇め奉られる教皇位にもついていない。凛々しい立ち振る舞いなどしなくても構わない、そんな世界。
此処でなら自分でいられる。そう感じたとき、カビパンは舞台に囚われた。
後に待っているのは自我と肉体の崩壊。
それでも構わないと思ってしまったカビパンは故郷の風景を穏やかに見つめる。
「あぁ……めんどくさいものから解放された……」
「――堕ちたか」
幸せそうに微笑むカビパン。
欲望と願望の果て。狂化された光景を、吸血鬼が静かに見つめていた。
苦戦
🔵🔴🔴
アウレリア・ウィスタリア
ボクの胸の内にあるもの?
ボクが求めるもの、望むもの
それは何だったのだろう?
幸福な世界
地下牢に閉じ込めらることもなく
両親と幸せに過ごす世界
怖いもののない世界
……ちがう
この世界は崩壊することをボクは知ってる
ボクは忌み嫌われたからこそ今も生きてるのだから
そうだ
ボクは過去に幸せを求めるのはやめたんだ
ボクは未来へ歩むことに決めたんだ
記憶にないけれど魂が覚えている
【空想音盤:追憶】
この歌、ボクはこの歌の正体を思い出したはず
それを求めて前に、未来へ進むと決めたはずです
ボクは、私は忘れてしまったことを
大切なものを取り戻すために戦っているのだから
幻も敵も全て
この魂に刻まれた歌と花で吹き飛ばしてみせる
アドリブ歓迎
●Adagio
問われたのは真意の図れぬ言葉。
吸血鬼からの問い掛けを受け、アウレリアは考える。
「ボクの胸の内にあるもの? ボクが求めるもの、望むもの……」
それは何だったのだろう。
深く思いを巡らせる間もなく、アウレリアは幸福な楽園の舞台に取り込まれてゆく。
眩い光が見える。
その先に現れたのは言葉通りの幸福な場所だった。
普通とは違う翼だからといって、地下牢に閉じ込められることもなかった世界線。両親と幸せに過ごす日々が続く舞台だ。
何も怖いものがない。
石を投げられることも、罵声を浴びせられることもありえない。
そんな世界だったら良かった。そう思ったこと全てが叶えられる場所なのだとひと目で解った。此処ならば愛される。愛して貰える。
そして、きっと誰かを素直に愛することも出来るはず。
アウレリアの心は舞台に囚われかけていた。願望がそのまま認められ、受け入れられる愛の舞台は心地良い。
だが、アウレリアは同時に拭い去れない違和を覚えていた。
「……ちがう」
両親と過ごせる平和な世界に進みそうになりながらも立ち止まる。
これは用意された舞台だ。
そして今、少しずつ心が狂化されていることを感じていた。いずれ自身の崩壊を持ってして世界が失くなることをアウレリアは知っている。
「ボクは忌み嫌われたからこそ、今も生きてるのだから……」
アウレリアは無意識に呟いた言葉にはっとした。
そうだ、と俯いていた顔をあげた彼女は今の自分を少しだけ思い出す。
「ボクは過去に幸せを求めるのはやめたんだ。未来へ歩むことに決めたんだ……それなのに、こんな夢を望むなんて」
記憶にはないけれど、自身の在り方は魂が覚えているようだ。
アウレリアは道の先に立っている両親を見つめる。その後ろには優しい眼差しを向けてくれる人々もいた。
けれど、これは自分の手で壊さなければならない世界なのだ。
幻影であろうとも己で彼らを殺す。そうすれば自分の崩壊は免れられる。なんて皮肉で苦しい舞台なのだろうと感じた。
されどこれこそがあの吸血鬼、ノアが仕組んだ幕劇なのだ。
――空想音盤:追憶。
覚悟を決めたアウレリアが発動したのは遠い世界の絆の証であり、愛するもの全て護る勇気の象徴。
「この歌、ボクはこの歌の正体を思い出したはず」
それを求めて前に、未来へ進むと決めたはずなのだと思い出した。元より自分に記憶は無かった。それでも此処まで歩いてきた。
「大丈夫。ボクは――私は、忘れてしまったことを、大切なものを取り戻すために戦っているのだから」
自分に言い聞かせながらアウレリアは追憶の花を舞台に散らしていく。
幻も敵も全て、この魂に刻まれた歌と花で吹き飛ばしてみせる。抗うことこそが己の道を切り拓く一手なのだとして、彼女は心の痛みと胸を衝く思いに耐えた。
舞台に咲くネモフィラの花。
愛するという語源から成る名を持つ花こそが、アウレリアなりの答えだった。
そして、インシグニスブルーの花は凛と咲き誇り続ける。
成功
🔵🔵🔴
榎本・英
目の前の男はたいせつな君の瞳に映っていた男
きっと春を届けた人
そいつはまず小指を抉って――この光景は覚えている
君が受けた哀
心が悲鳴をあげる。
痛い、痛い
記憶の中の君をなぞらえて、男を抱きしめた
名前は確か――スグルさん
スグルさん、もう終わりにしよう
あの子を哀さなくてもいいんだよ
僕の記憶のあの子の目には
君がちゃんと映っているから
だから今度は君が、僕のたいせつな子にたくさん愛を与えようね
君はもう独りじゃないよ、大丈夫
君がしたように男の細い首に噛みついて
ああ、これは涙の味だ
記憶の君はどう感じたのかな
ノア
これは哀の舞台だ
君に欠けている、満ちぬ内に咲く花は真実の愛
この舞台を真実の愛で上書きしよう
蘭・七結
ひどく痛む頭でつめたい“鬼”に問う
『この衝動の名は?』
人に溢れる感情をしりたい
いのちを蒐集したいと心が騒ぐ
名をしらないあかい慾に溺れてゆく
いとを結いで縫い付けて
針を穿ちあかに染まる
そうすれば解は得られるの?
心踊るままに切っ先を向けよう
小指のさきがいたい
あなたとの約束が浮かぶ
その存在を失わないよう抗ったの
白のひとひらを握った
いきを招いて深呼吸する
なゆは“ナユ”を抱きしめて生きたい
かつて戀と解いた問
溢れる想いをしった
咲く花は、愛
愛の名は、春
あいしてる
そのぬくもりを愛した
にせものでも傷付いても
すべて愛して受け止めたい
ひとであるわたしの解答
拍手喝采はいらない
眸に残してちょうだい
あなたたちの愛は、なに?
●Concerto
「お前たちからは愛を感じる。ならば――魅せてみよ、その証を」
享楽の匣舟の座長ノアが指を鳴らす。
その音と同時に顕現したのは残虐なる殺し合いを強要する見世物劇場の舞台。
黒薔薇の庭園の最中、七結と英は共に同じ舞台に立っていながらもグランギニョールの力に引き入れられていく。
そして、彼らの前に其々の影が現れた。
●Lento
七結の前には“鬼”が立っていた。
どうしてかひどく痛む頭を押さえ、七結はつめたい鬼に問いかける。
「この衝動の名は?」
いのちを蒐集したいと心が騒ぐ。
胸の内に巡り続けるこの思いが今はとても重い。けれど心に生まれたもの、人に溢れる感情をしりたいと願った。
それゆえに七結は忘れてはいない。何も失ってなどいなかった。
名をしらない、あかい慾。
その感情と想いに溺れてゆくような感覚が七結の中にあった。やがてつむいだ言の葉は赫い絲となり、己の影を――鬼を縫い付ける一閃となる。
このいとで結いで、縫って、針を穿って。
自分をあかに染めあげて、ころしあう。対する鬼もまた、七結をあかに沈ませようと動き出す。鋭い一閃が見世物劇場の舞台に廻り、真紅の血を散らせた。
――そうすれば解は得られるの?
何も語らぬ自分の影は答えてくれない。それならば心踊るままに切っ先を向けようと決め、七結は絲を振るい続けた。
嗚呼、小指のさきがいたい。そう感じたのはすぐ近くで英が戦っているからだ。
あなたとの約束が浮かぶ。
あの言葉があったからこそ、存在を失わないよう抗った。きっと彼だって七結を忘れるようなことはしていないはず。
そして、白のひとひらを握る。それは常夜を明かす春の熱。
いきを招いて深呼吸をひとつ。
もう七結はなゆであって、かつてのナユではない。だから、と七結は瞼を閉じた。
「なゆはね、“ナユ”を抱きしめて生きたいの」
その言葉通り、七結は対峙する自分の影に手を伸ばした。絲を絡めて引き寄せる。傾いだ鬼の身体を抱きとめた七結は瞳をひらく。
かつて戀と解いた問。其処から、溢れる想いをしった。
咲く花は、愛。
愛の名は、春。
あいしてる。
そのぬくもりを愛した。いとおしいと想えた。
それがにせものでも、傷付いても、すべて愛して受け止めたいと希っている。
鬼ではない。
「これがひとである、わたしの解答」
この答えに拍手や喝采はいらないと首を振り、七結は抱き締めていた自分の影を見つめる。そうと微笑んで、首に絡めた糸を引く。
鬼の首が落ちたと思った瞬間、その影は跡形もなく消えていった。
眸に残してちょうだい、と囁いた七結は舞台を取り仕切る座長に視線を向ける。自分なりの答えは返し、グランギニョールにも応えてみせた。
それならば次は此方が問を投げ掛ける番だ。
ねえ、とノアに呼び掛けた七結は黒の人魚と吸血鬼を瞳に映す。
「あなたたちの愛は、なに?」
●Lamentabile
己を失ったまま、英は舞台に立っていた。
ノアが鳴らした指の音と共に目の前に現れたのは男。そうだ、たいせつな君の瞳に映っていた男だ、と英は思う。
たいせつなひと。きっと、其処に春を届けた人。
そいつはまず小指を抉って――この光景は覚えている。忘れてはいない。
英は糸切り鋏を持つ男を見つめる。これが自分だという感覚はない。同じ武器を持って襲ってくる彼に対抗するために自分も鋏を取り出す。
ふたつの刃物が衝突して甲高い音を響かせた。グランギニョールの舞台に立つのはひとであり、ひとでなしのふたり。
君が受けた哀。
それを思うと心が悲鳴をあげる。痛い、痛いと哭く心が軋む。
そして英は記憶の中の君をなぞらえて、目の前の男を抱きしめた。相手が持っていた鋏が腹に突き刺さったが、そんなことなど構わない。
「君の名前は確か――スグルさん」
彼女が呼んだ名前であるから思い出せた。
腹部を抉る刃の痛みはあったが、英は男を抱き続ける。離しはしないと告げるように強く、力いっぱいに彼を止めた。そうしてそっと呼びかける。
「スグルさん、もう終わりにしよう」
もう、あの子を哀さなくてもいいんだよ。
僕の記憶のあの子の目には君がちゃんと映っているから、と男の耳元で囁いた英は自身の肌に熱を帯びたあかが伝っていくことを感じていた。
痛みは徐々に無視できなくなっていく。それでも英は“彼”に語っていった。
「今度は君が、僕のたいせつな子にたくさん愛を与えようね」
――君はもう独りじゃないよ、大丈夫。
それから英はいつかの君がしたように男の細い首に噛みついた。これが今の自分にできることだとして、あの日をなぞる。
(ああ、これは涙の味だ)
記憶の君はどう感じたのだろうかと思う最中、英の影は消えていった。
後に残されたのは深く抉られた腹の傷。そして、足元を染めるあかい血溜まり。
その頃には七結も己の鬼を殺し、同じ舞台に佇んでいた。君か、と静かに頷いた英はその隣に並び立つ。
痛みは引かないが、だからといって此処で自分が引くわけにもいかない。
あなたたちの愛は、なに。
七結が問い掛けた言の葉に続き、英は己の思いを口に出していく。
「ノア、これは哀の舞台だ」
「わたしたちの愛と哀はみせたわ」
吸血鬼に呼び掛けた英に合わせ、七結も双眸を細めて言葉を次ぐ。対するノアは影を打ち破った彼らに軽く拍手を送った。
「見事だ。しかし互いに殺し合えば更に良い舞台になったのだが」
愛はなに、と問われたことに彼は答えない。その義務はないというようにノアは口許を引き結び、片目を薄く閉じた。
答えるつもりがないのだと感じた七結は緩く首を振る。それならば、と英は相手からの問に答えてゆく。
「君に欠けている、満ちぬ内に咲く花は真実の愛」
劇作家と文豪。
似通った性質を持つ二人の視線が交差した。ノアは成否を語らぬまま、後ろに控える黒い人魚を一度だけ見遣る。それから彼は英達に眼差しを向け直した。
「どのような根拠でそれを語る?」
「勘だよ。それでも、当たらずとも遠からずだろうさ」
「なゆたちも、あいを探していたの。しりたいと思っているの。だから、ね」
ノアと英、七結の言葉と思いが重ねられていった。
そうして、英は宣言する。
「この舞台を真実の愛で上書きしよう」
「戯言を」
ふたたびノアが指を鳴らした。すると瞬く間に舞台上に英と七結の影が現れる。そのつもりならばこのグランギニョールに抗い続けてみせよ。そう告げているかのようなノアの視線を受け止め、彼らは各々に身構え直した。
巡る、廻る。舞台はめぐる。
緩やかに、哀しみすら巻き込んで――戦いの戯曲は未だ響き続ける。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
華折・黒羽
「華折黒羽」が抜け落ちた器
自分自身を忘れた?
─いいや
“オレ”は覚えているよ
喪失の残骸から見つけ出したオレ自身
生温い幸福に蓋をされていた“本当の自分”
ああ、そうだね父さま
弱いオレでは
あなたは振り向いてくれない
喰い殺さなきゃ
全部、全部
…其処をどいてくれないか、黒帝
何故拒むんだ
お前はオレの使い獣─…ああ、そうか違ったね
お前はオレの、楔
オレを閉じ込め俺を守る
「邪魔者」だ
…殺してしまおうか
──、
ああ、ああ
歌が聴こえる
あたたかな春を望む、歌
己の聴覚を今だけは恨むよ
…覚えておいで、オレはずっと俺と共に在る事を
屠を太腿に突き刺す
大丈夫、黒帝、お前を覚えているよ
お前は俺の大事な相棒
─往こう、黒帝
道を切り拓くんだ
●Diminuendo
今の彼は、華折黒羽という自意識が抜け落ちた唯の器だ。
それは自分を忘れたということなのか。彼の中にある答えは、否だ。
「――いいや」
頭を振った彼は、“オレ”は覚えているよ、とちいさく呟いた。それは喪失の残骸から見つけ出した己自身。
生温い幸福に蓋をされていた“本当の自分”が此処にある。
「ああ、そうだね父さま」
心の裡に宿って離れぬ存在に向け、彼は話しかける。自分の中で感情と思いを整理していると言っても良い状況だろう。
そんな彼の目の前には同じ姿をした影が現れている。
分身と殺しあいを強要させる見世物劇場の力が発動しているのだ。彼は漆黒の獅子を伴い、影に対峙する。
「弱いオレではあなたは振り向いてくれない」
だから、喰い殺さなきゃ。
全部、全部。
焦点の定まっていない眼で敵を映す。しかし黒帝は両者の間に佇み、動こうとはしなかった。訝しげな顔をした彼は獅子に向かって手を伸ばす。
「……其処をどいてくれないか、黒帝」
されど獅子は反応しない。
今にも分身が黒帝ごと自分を穿とうとしてくるだろう。そんな最中でも獅子は拒む。何故かと言いかけたとき、彼は気付く。
「お前はオレの使い獣――……ああ、そうか。違ったね」
黒帝は唯、己が従えているだけのものではないことに思い至る。彼は双眸を鋭く細め、それなら、と屠を構えた。
「お前はオレの、楔。オレを閉じ込め、俺を守る……『邪魔者』だ」
殺してしまおうか。
黒い感情が渦巻き、屠を握る手に力が籠もった。しかし先に動いたのは分身の方であり、彼を切り裂く刃が迫る。
黒帝を殺す隙は与えられない。そして、協力も得られない。
その状況の中で彼は影と相対し、刃を振るっていった。そして、或るとき。
歌が聴こえた。
「――、ああ、ああ」
彼は一瞬だけ戦いの手を止める。
それはあたたかな春を望む歌。澄んだ聲はどす黒い感情をとかしていく。今だけは己の聴覚を恨みたくなった。されどその歌は彼を正気に戻させる一助となる。
黒帝ごと影を殺そうとしていた気持ちはいつしか消え去っていた。
(……覚えておいで、オレはずっと俺と共に在る事を)
黒羽は無意識にそんな思いを浮かべる。
そうして、手にしていた屠を太腿に突き刺した。痛みが更なる感情を沸き起こし、己というものが戻ってきた気がする。
「黒帝、お前を覚えているよ。お前は俺の大事な相棒で――」
先程までの憎悪めいた何かが消えていった。
大丈夫、と頷いた黒羽は獅子に向けて双眸を細めてみせる。其処で漸く黒帝が彼に従い、動き出した。
「――往こう、黒帝。道を切り拓
……、……っ!」
しかしそのとき、黒羽の影が駆けてきた。
意識を黒帝と自分に向けていた彼には大きな隙が出来ている。敵はその好機を逃さなかった。此方を屠らんとして振り下ろされた刃が迫る。次の瞬間、黒羽は分身が持つ偽の屠によって貫かれた。
「あ、……ああ、そう、か――」
これが自分の弱さなのだと黒羽は自覚する。
黒羽自身が刻んだ足の傷が響き、咄嗟には避けられなかったのだ。胸を刺し、腹を引き裂かれる勢いで振るわれた分身の刃が黒羽に致命傷を与える。
耐えきれず地に伏す黒羽。
分身は返す刃で黒帝も切り刻み、倒れた黒羽の前に佇んだ。そして、抵抗できぬ黒羽の翼に刃を突き刺した。何度も、何度も、無表情のままで容赦なく。
其処から血が広がり、舞台を赤に染める。
やがて漆黒の獅子は消え、黒羽の意識も徐々に深い闇に沈んでいく。その最中に遠くからノアの声が聞こえた。
「己を取り戻した矢先に影の己に屠られるとは。なんと滑稽なことだ」
だが、それでこそ見世物。
吸血鬼は静かに嘲笑う。これぞ舞台の醍醐味なのだと語るように――。
血溜まりに没む、沒む。
黒羽の心も身体も意識も、総てが漆黒に沈んでいく。
失敗
🔴🔴🔴
リオネル・エコーズ
俺の街に現れた彼女を葬りたいと思っていた
でも黒い感情を彼女伝いで家族に…母に知られたくなくて隠し続けた
…今は、館には俺と彼女だけ
俺は自分の手で彼女を殺して、帰る
ずっと言いたかった、ただいま
聞きたかった、お帰りなさい
ああ
これでみんな一緒だ
…みんな?
何か欠けてる気がする
幸せな筈なのにどうしてもそれに抗えない
ごめん、ごめんね母さん
こんな事したくない
でも駄目だって声がする
どこかに戻らないといけない気がする
痛みは想いとオーラ防御で凌ぐ
歌うように喚んだ流星は求め続けた幸せと座長へ
…黒い人魚には、当てたくない
人形になった日からずっと胸の内に咲くのは、愛と哀
帰れた時に満たされるのか
今の俺には、それもわからない
●Pesante
喝采が聞こえた。
それによって、リオネルの中にあった自制心が音を立てて崩れる。
はっとした彼が立っていたのは嘗ての街が再現された舞台の上。とはいってもあの頃にリオネルが居た街そのものにしか見えない。
「そうだ、ずっと……」
やりたいことがあった、と呟いたリオネルは進む。それに合わせて舞台の情景は館の中に移り変わる。
街に現れた彼女を葬りたいと思っていた。
しかし黒い感情を彼女伝いで家族に、母に知られたくなくて隠し続けた。だが、今の館には自分と彼女だけ。実行にさえ移してしまえば至極簡単だった。
リオネルは己の手で彼女を――殺した。
呆気ない終わりだ。なあんだ、と笑ったリオネルの表情には静かな狂気が宿っていた。彼自身は気付いていないが、これこそが吸血鬼ノアによって齎されたものだ。
そうして彼は家族の元に帰る。
ずっと言いたかった言葉が言える。開放感と喜びの方が勝っており、彼女を殺したことなどすぐ忘れてしまった。
リオネルは家の扉をひらき、期待に満ちた瞳を向けて告げた。
「ただいま」
『おかえりなさい』
聞きたかった声が、言葉が戻ってくる。嬉しくて嬉しくて涙が出そうになった。望んだままの世界が其処にあるのだと思えた。
もう一度、おかえりなさいという言葉を噛みしめる。
ああ、これでみんな一緒だ。歓喜にも似た思いが裡に巡った。だが――。
「……みんな?」
不意に疑問が浮かんだ。
確かにみんながいる。何の憂いもない顔で幸せそうに其処にいた。
それなのに何か欠けている気がする。
幸せなはずなのに、どうしてもそれに受け入れられない。こんなに望んだことだというのに、これほどに欲しかった幸福だというのに――抗え、と心が叫ぶ。
どうしたの、と母が問い掛けてくる。すべてを許してくれるような優しい笑顔だ。
リオネルの視界が滲む。
これを捨てなければならないのだと思うと胸が軋むように痛かった。
「ごめん、ごめんね母さん」
こんなことはしたくない。けれども駄目だという声がする。その声はずっと自分の頭の中に響いて、耐え難い痛みを与えてきた。
それにどこかに戻らないといけない気がして焦燥感が募る。
此処は幸福な楽園だ。
でも、だからこそ自らの手で壊さなければいけない。
「……ごめん」
再び謝罪の言葉を紡ぎ、歌うように喚んだ流星は極光の星となる。
胸を衝く痛みは思いを強く持つことで凌いだ。リオネルは求め続けた幸せを七彩の星で塗り潰すように散らし、自分が描いた理想やあたたかな人々を破壊していく。
「本当に残酷な劇だね、座長さん」
「ああ、それでなければヒトの心は動かせない。平凡な愛など陳腐でしかない」
戦いながら呼び掛けてきたリオネルに対してノアは答えた。リオネルが謳い描いた星は座長と黒い人魚にも向かっていく。
その瞬間、ノアがエスメラルダと呼ばれていた人魚をさりげなく庇うような動きをした。元からリオネルは人魚には攻撃を当てなくないと考えていたのだが、座長が自らそのように行動したのだ。
(ノアはもしかして、あの黒い人魚を……)
ふとリオネルの中に予感が浮かんだ。しかし自分がそれを口にするのは野暮であると考え、代わりにノアからの問いに答えることにした。
「俺が人形になった日から、ずっと胸の内に咲くのは――愛と哀」
「……そうか」
リオネルの答えに対し、ノアは僅かな言葉を返しただけだった。そしてリオネルの周囲に再び楽園の舞台が広がっていく。
ノアは何かを考えていたようだが未だ満足には至っていないらしい。つまりはまた幸せの舞台を壊さなければならないのか。そう察したリオネルは身構え直した。
心は歪み、身体にも痛みが齎されはじめている。
満たされぬ胸の内。
それはあの街に帰れた時に満たされるのか。今の自分には、それもわからない。
されど戦い続けるしかない。
リオネルは決意する。その髪に咲くネモフィラの花が哀しげに揺れていた。彼の花には語源となったひとつの言葉がある。
それは――愛。
自ら示した言の葉を証明するかのように、リオネルは舞台に抗ってゆく。
大成功
🔵🔵🔵
緋翠・華乃音
たった二人の世界の終わり(f21545)
導かれた劇場。
ふっと緩く瞼を閉ざす。
暗闇の世界に幻視するのは過去の自分。
少年はまだ気付かない。
置き去りにされる痛みも、置き去りにする悲しみも。
ゆっくりと歩む、その足跡に積み上がる無数の屍。
今日は誰を、
明日は何処を、
――何も後悔はしていない。
だから、
「容易い筈なんだ、君を殺すのは」
自分を構成するもの。
いったい幾つまでなら捨てられるだろう。
何をどこまで捨てたら自分でなくなるのだろう。
少なくとも、
「記憶が消えたくらいでは、忘れていないみたいだ」
妹だという君の真名。
夜風のように穏やかな声がそっとその名を編む。
星空を両手で優しく掬うように。
いつか羽搏く未来の為に。
朝日奈・祈里
兄らしい、知らない人と(f03169)
きみは誰だ
自分は誰だ
記憶が無い
ただわかるのは、戦わなくてはいけないという事
きみが敵なの?
怖くて怖くて
泣きながら長杖を構える
何故か体は覚えている
いつも精霊を喚んで、戦って
来て、来て!
ぼろぼろ泣きながら呼ぼうとするけど、契約をした自分が居ないから来てくれない
めちゃくちゃに自分に強化魔法を流して、杖を振るう
いやだ、しにたくない
不意に耳朶を打つ掌に書かれたどちらでも無い名前の響き
冷たい貌から聞こえる優しい声
何故だかそれが自分だと思った
…きっと、きみは敵じゃないんだ
胸に咲く花
今はない、いつか咲いていた花
そうだ
どんなみちだろうと、寄り添うと
箒星はそうあると、決めたんだ
●Duester
導かれた劇場。
其処は殺しあいを強要させる、見世物劇場――グランギニョール。
華乃音は吸血鬼の力に自分達が巻き込まれたのだと察し、ふっと緩く瞼を閉ざす。敵の能力ではなく、暗闇の世界に幻視するのは過去の自分。
彼の少年はまだ気付かない。
置き去りにされる痛みも、置き去りにする悲しみも。ゆっくりと歩む、その足跡に積み上がる無数の屍が何を意味するのかを。
今日は誰を、明日は何処を。そのことについて、何も後悔はしていない。
そして、華乃音は瞼をひらく。
其処には劇場の最中で困惑する祈里の姿が見えた。
祈里もまた、華乃音を見て唇を震わせる。
きみは誰だ。
それ以上に思うのは、自分は誰だ、という戸惑い。彼女は祈里という名前すら忘れ兄と呼ぶ相手のことも分からないでいる。
記憶は奪われていた。
何も無い。ただわかるのは、戦わなくてはいけないということ。
「きみが敵なの?」
「……そうなのかもしれないな」
問い掛けた祈里に対し、華乃音は淡々とした声で答える。共に歩んできた街の中でも紡いだ言葉だが、彼もそうとしか答えられない。
二人には見世物劇場の魔力が掛けられていた。共に舞台に立つのならば殺しあわなくてはならない。そんな感情が彼らの胸を支配している。
華乃音はダガーナイフを握った。
これまでにそうしてきたように目の前の幼女など簡単に屠ることができるだろう。
「容易い筈なんだ、君を殺すのは」
「……っ!」
華乃音が落とした言葉に祈里が反応する。静かな殺意めいた感情が見て取れた。それゆえに怖くなってしまう。
――怖い。やさしいはずなのに、怖くて堪らない。
ぽろぽろと涙を零した祈里は長杖を構え、何とかこの相手に対抗しようと叫ぶ。
「来て、来て!」
自分を忘れても何故か体はちゃんと覚えていた。いつも精霊を喚んで戦っていたことは分かる。しかし、何も訪れない。
「イフリート! クロノス! レム! セルシウス!」
思いつく限りの名を呼ぶ。
対応する色のメッシュがふわりと浮きかけては落ちた。それでも泣きながら、祈里は精霊を呼び続ける。
「誰でもいい、何でもいいから……シルフ、デメテル……ハルモニア……」
来ない。何も応じない。
普段の彼女なら何でもいいとなどは言わないだろう。しかし天才とは天賦の才の上に積み重ねた経験があってこそ。経験と記憶を失った祈里はただの子供だ。
大粒の涙を零す祈里を華乃音はじっと見つめていた。
あのような子供など難なく殺せる。ゆえに華乃音は未だ動かない。いつでも刃を突き立てられると感じると同時に、華乃音の裡に彼女の名が浮かんだ。
劇場の魔力はあの子と殺しあえと命令している。しかし華乃音は心を鎮め、己について考えていた。
自分を構成するもの。いったい幾つまでなら捨てられるだろう。
何をどこまで捨てたら自分でなくなるのだろう。そんなことばかりが胸の内に巡っているようだ。
対する祈里は精霊が呼べないと悟り、我武者羅に自分に強化魔法を流していく。地を蹴り、彼に向けて鋭い殴打で立ち向かう。そうやって杖を振るうのは華乃音から発せられる静かな殺気が徐々に強くなっているからだ。
「いやだ、しにたくない」
「…………」
振るわれる杖を避け、時には刃で受け止めながら華乃音は緩く首を振る。自分を忘れていても華乃音は彼女との記憶を喪ってはいなかった。少なくとも、と口にした彼は一気に祈里に肉薄する。
「記憶が消えたくらいでは、忘れていないみたいだ」
――●●●●・●●。
不意に耳朶を打つ彼の声。
「……?」
掌に書かれたどちらでも無い名前の響きが祈里の心をとかした。そして、冷たい貌から紡がれた何処か優しい声。
聞き覚えがないのに、何故だかそれが自分だと思った。
「きっと、きみは敵じゃないんだ」
祈里は長杖を下ろすと同時に戦意を捨てる。
華乃音が囁いたのは妹だという彼女の真名。夜風のように穏やかな声で編んだ名は戦いを止める切欠になる。
名を呼ぶことで華乃音は今を見つめ直し、祈里は名を呼ばれることで我に返った。
二人の思いは見世物劇場の魔力を打ち破ったのだ。
結局は二人共が惑わされていた。自分も殺気を満ちさせていたことを思い返し、華乃音は肩を竦めてみせる。すまないだとかごめんだとかの謝罪は伝えない。
ただ、星空を両手で優しく掬うように祈里を見つめた。
そう――いつか羽搏く未来の為に。
「……お兄ちゃん」
祈里は彼からの視線を受け、その隣に並び立った。吸血鬼が望むグランギニョールの舞台は演じられない。兄と戦うくらいなら演者になどなりたくはなかった。
そのとき、祈里の脳裏に吸血鬼から問い掛けられた言葉が浮かぶ。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
ノアの問いに返事をしなければ、と思えた。祈里は少しだけ強がるように胸を張り、自分達の戦いを眺めていた吸血に語りかける。
「答えてやるよ。それは今はない、いつか咲いていた花だ」
そうだ、と告げて祈里は頷いてみせた。
どんなみちだろうと、寄り添う。箒星はそうあると決めたのだから――。
吸血鬼は争うことを止めた祈里と華乃音を見つめ、それも佳い、と呟いた。未だ二人の記憶は戻っていないが、彼らは真に戦うべき相手を捉えて見据える。
もう惑わされはしない。
そうして、二人のグランギニョールには終止符が打たれた。
後に待っているのは吸血鬼との戦い。ただそれだけだ。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
リオン・エストレア
抜け落ちた何かの記憶
自分が大切にしていた筈の者
人という事だけは覚えている
俺はまた失った、また落とした
広がるのは唯の空虚
大切なものの為に理想を貫こうとした俺は
もう何処にも居ない
されど非情は貫ききれず
目の前に映し出される幸福
それは誰も死なずに済む理想
誰も殺さずに済む夢想
親しき人に手を掛けずに済む幻想
けれど俺は知っている
そんな幻想が現になるのなら
俺はこの手を血に染めなかった
そんな幻想は存在しない
佇む偽りの俺自身の首を撥ね、その身を焼き尽くす
満ちぬ胸の中に咲く花の名前は分からない
答えたところで奴は満足はしない
それこそ空虚な答えだろうからな
何も考えるな
俺の役目は、私の役目は
同じ吸血鬼を殺すことなのだから
●Cantabile
黒薔薇の庭園に踏み入り、痛む頭を押さえた。
何かが抜け落ちている。
そのように感じた時にはリオン・エストレア(永遠に昏き”蒼”の残響・f19256)の記憶は失われていた。
誰かを忘れた。それは自分が大切にしていたはずの者だということは分かる。そして、人だということだけを覚えている。
「俺はまた失った、また落としたのか……?」
こめかみに当てた指先は冷たい。心に広がっていくのは唯の空虚。
大切なものの為に理想を貫こうとしたリオンはもう何処にも居なかった。
リオンの耳に忘歌が届く。
それは更なる記憶を奪い去ってしまう、黒い人魚の歌だ。はっとしたリオンは舞台を見上げた。其処には吸血鬼の力を受け、楽園の舞台に導かれた者達の姿が見える。
在りし日の国を視た兎。
閉じ込められたままの幸福を求めた娘。
月に照らされた舞台に、争いのない世界。そして、平穏な図書館の舞台や故郷で幸せに暮らすという光景を望んだ様々な者達がいた。
「……ああ」
きっと自分があの力を受けたならば幸福な舞台を視るのだろう。
それは誰も死なずに済む理想であり、誰も殺さずに済む夢想。そして、親しき人に手を掛けずに済む幻想だ。
「俺は……」
言葉を紡ぎかけ、止めたリオンは知っている。
そんな幻想が現実になるのならば自分はこの手を血に染めなかったことを。そんな幻想は存在しないのだと舞台にあがる前から解っていた。
そして、殺し合いの舞台に立ったとしても偽りの自分自身の首を撥ね、その身を焼き尽くすに違いない。
そんなことを考えながらリオンは俯く。
身体は蝕まれ、忘歌によって己が奪われていくのがよく分かる。夢想は自分のもとには訪れない。ならば、この歌の力をどうにかしなければならない。
地を蹴ったリオンは周囲で囀る青い鳥達を見据えた。
『忘れてしまえば楽だよ』
『そうすればキミも舞台にあがれるよ!』
マメルリハ達は口々にそんなことを告げていく。しかし、リオンは意に介さずにアルケイドの墓碑を振りあげた。
大剣の一撃が鳥を穿ち、蒼き焔の斬撃が翼を散らしていく。
吸血鬼から問われた、満ちぬ胸の中に咲く花の名前は分からない。きっと答えたところで相手は満足はしない。
「演者に花か。それこそ空虚な答えだろうからな」
静かに呟いたリオンは自分というものが失われていく感覚をおぼえながら、更に黒剣を振るっていく。
何も考えるな。今は何も感じなくても良い。
「――俺の役目は、」
否。私の役目は、同じ吸血鬼を殺すことなのだから。
樋に自らの名前が刻まれた刃で敵を薙ぎ、彼は戦い続けた。忘歌に抗い、囀る小鳥達を蹴散らし、吸血鬼に刃を届かせる。
ただそれだけのために振るわれる刃は鈍く――されど、確かな煌きを宿していた。
成功
🔵🔵🔴
フリル・インレアン
え、これが私の望む幸福な楽園ですか?
普通の生活、普通な家庭に、普通に学校に通い、
これは夢を見すぎじゃないですか、イケメンな彼氏って
でも、幸福な楽園ならありなんでしょうね。
ラブロマンスには早すぎるかもしれませんけど、こういう生活はいいですね。
これが私の恋?物語
あれ?今、余計なものが付いていたような
それにこの武装したアヒルの群れはなんですか?
ふえぇ、私の恋物語はいつ始まるんですかー。
●Capriccioso
その舞台は幸せを映す。
ただしそれは在りもしない、幻想の世界であることが多い。フリルが導かれた幸福な楽園。それは――。
「え、これが私の望む幸福な楽園ですか?」
フリルが立っていたのは極々普通の、何の変哲もない世界だった。
穏やかな街の景色。何も変わらない通学路。
おかしなところのない学校と其処で過ごす日々。家に帰れば家族が迎えてくれて、休日には友人と遊んだりできる。
本当に平穏な場所だ。普通の生活と家庭。それから、もうひとつ。
(これは夢を見すぎじゃないですか?)
そう感じたのはフリルの隣に最高に格好良くて優しくて気遣いも上手で細かな変化にも気付いてくれて更には成績や頭の回転も良く対人関係や家庭環境の問題が何ひとつない素晴らしく一途でイケメンなスーパー彼氏がいたからだ。
『フリル、今度デートにいこう』
「ふえぇ……」
『恥ずかしがってて可愛いね、フリルは』
「ふえええぇ」
(こんなにイケメンな彼氏って絶対に夢を見すぎでは?)
キラキラスマイルを受け止めきれず、フリルは焦ってしまう。しかしこれが楽園なのだろう。幸せしか満ちていない世界が此処だ。
そう思うと次第にこの場所も悪くはないのだと思えてきた。
(でも、幸福な楽園ならありなんでしょうね)
自分はラブロマンスには早すぎるかもしれないがこういう生活は良い。フリルは次第に舞台に身を任せ、何も疑問を感じなくなっていた。
「これが私の、恋?物語……あれ? 今、余計なものが付いていたような」
『どうしたんだい、フリル』
イケメン彼氏が問いかける中、フリルがハッとする。いつの間にかユーベルコードが発動したのか、武装したアヒルの群れが周囲に現れたのだ。
その力は素敵だという好意を感じた相手を追跡し、攻撃する技だ。
『フリル! うわあああフリル! 助けてくれ!』
イケメン彼氏がアヒルに突かれる。
しかし記憶を失ったままのフリルはその光景に戸惑うことしか出来なかった。
「あのアヒルの群れはなんですか? ふえぇ、私の恋物語はいつ始まるんですかー」
悲痛な叫びが舞台に木霊する。
しかし、明確な対抗策を用意できなかったフリルは楽園に囚われる。じわじわと己を蝕む崩壊の音に気付かぬまま、フリルは偽りの世界で慌て続けるのだった。
苦戦
🔵🔴🔴
サフィリア・ラズワルド
WIZを選択
施設にいた仲間が私に笑いかけている、死んでしまった人も理性を失くしてしまった人も皆がいる。
これが私の望む世界?そんなことはない、これは私の望む世界なんかじゃない、だって仲間が誰一人竜になってない、私達は竜の幼体、大きくなったら皆竜になる、例え理性を失っても人でいた記憶を失っても、それが私達竜人の生態だ、だからこんなあり得ない世界なんて存在しないし望んでない。
ペンダントを竜騎士の槍に変えて突撃します。
私は竜だ、私は竜なんだ、立派な竜にいずれ成る。
『貴方の言ってることよくわからないけど少し考えてみたわ、その花は理想、それが私の答えよ』
アドリブ協力歓迎です。
●Tempo Primo
欲望と願望が狂化した光景。
其処はかつて過ごした実験施設の中。その景色こそが吸血鬼の齎す力であり、施設を出てからの記憶を失くしたサフィリアが立つ舞台だ。
仲間が笑いかけている。
死んでしまった人も、理性を失くしてしまった人も、皆が普通に生きている。
実験があったなんてことは感じさせない平穏な空気。
仲間だった人達がサフィリアをあたたかく迎えてくれている優しい世界だ。この舞台はきっと、竜人が過ごす穏やかな幕として綴られるのだろう。
理想を映す舞台の中央。
サフィリアは辺りを見渡し、微笑んでいる人々を瞳に映す。
「これが私の望む世界?」
疑問が浮かび、少しだけ不安になった。それはこの景色が優しさだけを齎すものではないと心で感じていたからだろう。
こうして舞台となって現れるということは、サフィリアにとって心の奥底で望んでいた世界なのかもしれない。
しかし、サフィリアは首を横に振った。
「そんなことはない、これは私の望む世界なんかじゃないはず」
何故なら、仲間が誰一人として竜になっていない。
自分達は竜の幼体だ。大きくなったら皆、竜になる。例え理性を失っても人でいた記憶を失っても、それが自分達――竜人の生態だ。
記憶を失っているサフィリアにとっては今しがた思い浮かべたことが真実だ。
それが間違っているのだと気付いた後の記憶はない。それゆえにこんなあり得ない世界なんて存在せず、望んでいないと断じてしまう。
本当の理を知った後のサフィリアが望む世界と、何も知らないままだったサフィリアが欲する世界は全く違う。
それゆえに相反した思いが巡り、こんな舞台など不要だと思えた。
「私はいつか竜になる、だから……」
こんなもの壊してやる。
ラピスラズリのペンダントを握り締めたサフィリアは目の前の光景を見据える。淡い光と共に宝石はドラゴンランスとなり、幻想を壊すための武器に変わった。
竜騎士の槍を構えたサフィリアは突撃していく。
「私は竜だ、私は竜なんだ、立派な竜にいずれ成るから――!」
勢いよく振るわれた槍が幻影の施設を貫き、崩壊させていった。それと同時に其処にいた人々も瓦礫の下敷きになって倒れる。
こうしなければ幻を打ち砕くことはできないと知っていた。そして、誰も竜にはならない。それが今のサフィリアにとっては不自然だ。
咆哮を響かせ、舞台を破壊し尽くしたサフィリアは吸血鬼の方に向き直る。
ノアはその様子を見ていた。
されど何も云わず、サフィリアの行動を眺めているだけだ。そうして彼はもう一度あの問いを投げかけた。
「――満ちぬ胸の内に咲く花は何か」
呼吸を整えたサフィリアはノアに対し、敵意を消さぬまま答えていく。
「貴方の言ってることよくわからないけど少し考えてみたわ」
「お前の答えは――?」
ノアは静かに佇み、サフィリアの返答を待つ。正解か不正解かは分からないが言わないよりはきっとマシだ。そのように感じた彼女は凛とした口調で告げた。
「その花は理想、それが私の答えよ」
「……興味深いな」
彼はそれだけを答えると、再び周囲に舞台を顕現させる。きっとまだ満足には至っていないのだろう。そう察したサフィリアは身構え直す。
「いいわ、また壊すだけ」
何度でも、幾度だって破壊すればいい。
幸せな世界を否定するために、サフィリアは竜騎士の槍を強く握り締めた。
成功
🔵🔵🔴
セフィリカ・ランブレイ
【SPD】
自らが何者かわからぬまま、影と戦う
天賦の剣才同士の永遠の演舞
届かぬ声をあげ、魔剣は追想する
幼い頃の使い手を
武と魔の才、王家の家格。
既に英雄を退いた父王の力も超えた娘は傲慢を極めた
…が、父王は諦めずに努力を重ねてある日遂に一太刀を浴びせ
「お前は強い。だからこそ、自分以外の誰かを想え」
そう言われたろう!と魔剣は叫び
「……うん!」
少女は自分を手繰り寄せた
「シェル姉!アレで行くよ!」
相棒の名前を呼ぶその口元は、楽しげ
そう、自分だけのためじゃないから
「満ちぬ心に咲く花なんて言うけどさ…!まず誰かを自分の心に住ませなきゃ、花どころじゃないでしょうに!」
次元を切り裂き、自らが作り上げた力を呼び出す
●Animato
セフィリカの元に召喚されたのは見世物劇場。
自分が何者かもわからないまま、現れた自身の影と戦うことになった彼女は剣を構えていた。相手も同じ構えを取り、セフィリカと影は同時に地を蹴った。
其処は殺しあいを強要させる舞台だ。
何も分からずとも戦わなければならないことはだけは理解できた。
己を忘れていても刻まれた経験は失われてはいない。舞台上で響き渡るのは鋭い剣戟の音。そして、天賦の剣才を持つ者同士の永遠の演舞が繰り広げられていた。
セフィリカは戦う。
影もそれに応じるように剣を振るう。
両者の間に言葉はなく、刃の閃きだけが戦場に舞っていた。その最中、届かぬ声をあげながら魔剣シェルファは追想する。
幼い頃の使い手を。そして、彼女が歩んできた経緯を。
――武と魔の才、王家の家格。
既に英雄を退いた父王の力も超えた娘はいつしか傲慢を極めた。
だが。父王は諦めずに努力を重ねた。そうしてある日、ついに娘に一太刀を浴びせることに成功したのだ。
『お前は強い。だからこそ、自分以外の誰かを想え――そう言われたろう!』
魔剣は叫ぶ。
するとそれまで戦い続けていた少女がはっとして大きく頷いた。
「……うん!」
それでこそ認めた己が主だ。少女が自分を手繰り寄せたと察した魔剣はこれで良いと感じ、力を彼女に明け渡す。
「シェル姉! アレで行くよ!」
相棒たる少女が名前を呼ぶその口元は楽しげだった。もう、ただ剣を振るうだけの空虚な少女ではない。剣捌きから伝わる感情と呼び掛けがそれを示している。
セフィリカは自分の影を圧倒していた。
それもそのはずだ。映し出された幻影はただ戦うだけの人形めいたもの。対して、今のセフィリカには相手を上回るほどの力と意思がある。
――そう、自分だけのためじゃないから。
次元を切り裂き、自らが作り上げた力を呼び出したセフィリカは周囲すべてを薙ぎ払う勢いで七虹を最大火力で解き放った。
そして、自分の偽者を屠った彼女は吸血鬼に向き直る。
「満ちぬ心に咲く花なんて言うけどさ……! まず誰かを自分の心に住ませなきゃ、花どころじゃないでしょうに!」
強く言い放つセフィリカに対し、ノアは冷たい眼差しを向けた。
「私にそういった者がいないとでも?」
「それは……いるのかもしれない、けど。それでも!」
こんなことをしていい理由にはならないはずだとセフィリカは断じる。両者の視線が交差し、相容れない意思が重なりあった。
そしてノアは無言のままで今一度、見世物劇場を展開させた。再びセフィリカの影が現れたことで魔剣シェルファが呼びかける。
『また来るよ。気を付けな!』
「うん、シェル姉! 何度だって倒してみせるよ」
刃の切っ先を影に差し向けたセフィリカは更なる戦いを覚悟した。
舞台に立っているのならば最高の演舞を見せ続けよう。それこそが自分以外の誰かを想って戦うということだ。
魔剣と少女。
ふたつでひとつの力が今、此処から更に巡っていく。
成功
🔵🔵🔴
レザリア・アドニス
問いを受けられると
暴走事故がなかった未来が見える
過去を奪われた故にすんなり受け入れ、幸せの微笑を綻ばせるけと
こんなんじゃない、と
体内に騒ぐ死霊による魂の痛みで騎士と蛇竜を放出し
暴れて楽園を壊すのを、立ち尽くすまま見る
覚えていないけど、なぜか彼らがいると安心な感覚がする
そして、記憶の消えた空っぽの胸を抑えて
手の中に、抑え込んだ一房の髪に、「本来」に咲くべきの、白い花が咲いてる
それを摘んで掌に乗せ、吸血鬼に差し出す
静かに咲いてる待雪草、その花言葉は――
(この胸に咲く花は、
「希望」なのか、「あなたの死を望む」なのか)
花を差し出した手に再び白い花が溢れ
満天の鈴蘭の嵐に変わって、吸血鬼も人魚も包み込む
●Spiritoso
問いが投げ掛けられ、レザリアの耳に声が届く。
その言葉の真意は何なのか。それを考える暇も与えられず、レザリアの目の前に幸福な楽園が用意されていった。其処は欲望や願望を実現する舞台だ。
「これは――?」
以前に何度も思い返し、幻で見てきた過去。
あの忌まわしき暴走事故がなかった未来がレザリアの瞳に映っている。
この舞台の上ではレザリアの翼は白のまま。不吉でもなく、汚らわしさを感じさせる灰色の翼は何処にもない。
これが理想の世界なのだということは何となく理解した。
今のレザリアには過去の記憶がない。つまりはこの翼が意味することも忘れている。
それでも、翼が白いということは喜びなのだと思えた。それゆえにレザリアは幸福の舞台をすんなり受け入れ、幸せに満ちた表情で口許を綻ばせる。
だが、すぐに違和を覚えて首を横に振った。
――こんなんじゃない、と。
記憶を失っても死霊が消えたわけではない。体内で騒ぐ死霊による魂の痛みがレザリアに抗えと告げているようだ。
其処から騎士と蛇竜を呼び出したレザリアは舞台の楽園を見つめる。
死霊は暴れ、楽園を壊していく。その光景を立ち尽くしたまま、ただ眺めた。
「何も覚えていないけど、どうしてこんなに……」
なぜか死霊の彼らがいると安心する。これでいいのだという感覚があった。幸せだと感じる舞台は破壊し尽くされていくが、反対にレザリアの裡にある痛みは徐々に収まっていく気がしている。
そして、レザリアは記憶の消えた空っぽの胸を押さえた。
その手の中――押さえ込んだ一房の髪に、本来に咲くべき白い花が咲いている。
「あなたへの答えは、これ」
レザリアはそれを摘んで掌に乗せ、吸血鬼に差し出した。
受け取られることはないだろう。それでもレザリアはノアに腕を伸ばすことで返答とした。静かに咲いている待雪草、その花言葉は――。
(この胸に咲く花は、『希望』なのか、『あなたの死を望む』なのか)
どのような意味に取られるかは相手次第だ。
レザリアは死霊達によって壊されていく楽園を再び見渡す。完全なる破壊にはまだ時間が掛かるだろう。いつしかこの花も黄色い福寿草に戻るはずだ。
花を差し出した手に再び白い花が溢れる。
しかし死霊が動いている間はそれ以上動くことが出来ない。ゆえに花は吸血鬼にも人魚にも届かなかった。されど構わない。
やがて花は満天の星のように、数多の花弁となって手の中で散った。
「与えられた舞台には上がれません。ごめんなさい」
レザリアが宣言した言葉は静かだったが、強い意思が感じ取れる。
この舞台を壊すことで自分の意志を示すのだとして、レザリアは死霊達の力を信じることにした。今は唯一、これだけが己に残ったものなのだから――。
成功
🔵🔵🔴
ジェイ・バグショット
…歌が聴こえる。
遠い記憶の中の歌声は、優しく響いて俺を深い眠りへと誘う。
それは子守唄だった。
身体の不調に苦しむ夜は、俺が眠れるまで決まって子守唄を歌ってくれた。
優しい歌声が俺の苦しみを和らげる。
それは癒しの力を持つ聖者の歌声だった。
……、誰…だっけ。
子守唄を歌ってくれたのは誰だっけ。
胸の真ん中にぽっかりと穴が空いたような焦燥感
全て倒せばこの胸の内は埋まるのだろうか
…俺の知ってる歌は…、もっと優しい…。
思い出せなくても、それだけは分かる。
忘却の歌をかき消すように、黒剣『絶叫のザラド』を殺戮捕食形態へ
異形の捕食剣は劈くような絶叫を響かせ【衝撃波】を放つ
荊棘王ワポゼを複数召喚し自動追尾で【範囲攻撃】
●Qual
血を浴び、喰らい、進んできた先。
黒薔薇の庭園から響いていた歌は一度止んだ。しかし吸血鬼の声が聞こえたかと思うと再び黒い人魚が花唇をひらいた。
「歌え! 私の歌姫《エスメラルダ》よ!」
その声のあとに続くのは鞭の音。傀儡奴隷たる人魚がヴェールめいた尾鰭を揺らせばオーロラの燐光を思わせる鱗が鈍くひかる。
其処から紡がれる声に耳を澄ませたジェイは、己の記憶が再び剥がれ落ちていくことを感じ取っていた。
「……歌が聴こえる」
しかし、彼から零れ落ちた言葉は人魚の歌に対するものではなかった。
聴こえたのは違う歌。
耳に届くものではなく遠い記憶の中の歌声だ。その声は何もかも忘れ去ったはずの胸の内で優しく木霊して、ジェイを深い眠りへと誘うかのように響く。
ああ、子守唄だ。
あの子が歌ってくれたものだ。それが誰であったのか、今のジェイには分からないが心の奥に刻まれた感覚が僅かな記憶を呼び起こす。
どうしてだろうか。人魚の歌は忘歌であり、街中で響いていたときは生きる意味を削ぎ落としていったというのに。今はその歌が記憶を取り戻す切欠になっている。
思い返す子守唄は懐かしい。
身体の不調に苦しむ夜は眠れるまで決まって歌ってくれた。
彼女の優しい歌声は苦しみを和らげてくれた。きっとあれは癒しの力を持つ聖者の歌声だったのだろう。
「……、誰……だっけ」
あの唄を歌ってくれたのは誰だっけ。思わず呟いた言葉の後、胸中で反芻して考える。大切だったはずだ。それだけは理解できた。
胸の真ん中にぽっかりと穴が空いて、冷たい風が吹き抜けているような焦燥感。
収まってくれない衝動が其処に居座り続けている。
『リルルリ!』
『リルルリッ!』
はたとしたジェイは鋭く鳴いた鳥達が迫ってきていることを察した。咄嗟に荊棘王ワポゼを展開させた彼は、誰かを呼ぶように突撃して来る鳥達を見据える。
きっとかれらは主の為に動いているのだろう。その動きは鬼気迫る勢いだ。対するジェイは無感情な瞳にかれらを映す。
全て倒せばこの胸の内は埋まるのだろうか。
そう感じたときには幾つもの鉄輪が解き放たれていた。鋭い棘が鳥達を捉え、回転しながら纏わりつくことでマメルリハ達を穿つ。
街の中でそうしてきたように、敵の翼を散らしてゆく。その間にも黒い人魚の歌は庭園に響き渡っていった。
――たすけて。かれをたすけて。
そんな風に語っているかのようにも聞こえたが、ジェイは首を振る。
「……俺の知ってる歌は……、もっと優しい……」
思い出せなくてもそれだけは分かった。何故か人魚と、名を思い出せぬ彼女の歌が重なった気がした。それでもあれは忘却の歌だ。吸血鬼の意思と人魚の意志がせめぎあっているようにも思える。
その力を掻き消すが如く、ジェイは黒剣の封印を問いた。絶叫のザラドという名を冠する刃が殺戮を導く捕食形態へと変化し、禍々しい空気を周囲に満ちさせた。
異形の捕食剣は劈くような絶叫を響かせる。
刹那、其処から生まれた衝撃波が更に瑠璃の鳥達を貫いていった。
「俺は……あの歌を取り戻す……」
生きる意味を。
そのために鳥達も吸血鬼も屠ってみせよう。彼らにも譲れないものがあるのだろうが、これは未来を勝ち取るための戦いだ。
絶叫と荊棘の王。それぞれの力を振るうジェイは戦場を鋭く見据えた。
そして、血と叫びに満ちた攻防が巡っていく。
大成功
🔵🔵🔵
杜鬼・クロウ
瑠璃鳥の血を辿り舞台へ
胸糞悪ィ歌だぜ(黒薔薇踏み躙り
クソ…頭痛ェ
想いが
記憶が
薄れ
嫌だ
止めろ
未だ俺の正道を
為すべきコトを果たさぬ儘
あ、れ
何故俺は此処にいる
俺が生きる意味は何
俺が力を揮う意味は何
俺の大事な人達は誰
満ちぬ心に咲く花は三つ
過去の紫苑(初恋の主の娘
未来の…平行線のアイビー(弟
現在の常春桜…芽吹く春の心
渇きが潤う
俺を無くすとは
俺が叶える筈の願いや誓いを失うと同等
停滞こそ死
…ッ
忘れたらダメだ
抗う
最後まで
きっと俺ならそうする
両耳傷つけ【蜜約の血桜】使用
マメルリハ一掃
歌う人魚睨む
お前が歌いたい歌は
本当は違うンだろ
人のモン奪っても
解らねェよ
テメェも座長も
永遠に
傀儡人魚の喉を玄夜叉の焔で灼く
道拓く
●Decrescendo
瑠璃鳥の血を辿り、クロウは舞台へ訪れる。
一度は止まった人魚の歌は座長の言葉によって再び紡がれはじめていた。その声を聞いたクロウは忌々しげに呟く。
「胸糞悪ィ歌だぜ」
その際にクロウは庭園に咲き誇る黒薔薇を踏み躙った。彼の様子を見ていたマメルリハ達が驚いて騒ぎはじめる。
『何するの!?』
『そこにはぼくたちの仲間がねむっているのに!』
やめて、やめて、おねがいだから、と鳥達はうるさいほどに鳴いた。
「クソ……頭痛ェ」
鳥達の囀りが更なる痛みを運んでくる。庭園に響き渡る人魚の歌と鳥の声はこれまでもそうだったように、聞く者の記憶を深く沈ませていくものであるからだ。
想いが、記憶が薄れていく。
「嫌だ、止めろ。未だ俺の正道を、為すべきコトを果たさぬ儘……あ、れ」
無意識に呟いていた言葉が途中で止まる。その代わりに浮かんできたのは空虚な疑問の数々だった。
――何故、俺は此処にいる。
――俺が生きる意味は何。俺が力を揮う意味は何。俺の大事な人達は誰。
クロウは酷く痛む頭を押さえた。
満ちぬ心、其処に咲く花は三つ。
過去の紫苑、それは初恋の主の娘。未来の、平行線のアイビー。それは弟。現在の常春桜。それは芽吹く春の心。渇きが潤うもの。
だが、はっきりとは思い出せない。それすら忘れているからだ。
己を失くすとは、叶える筈の願いや誓いを失うと同等だ。即ち、停滞こそ死。そう感じたクロウは痛いほどに唇を噛み締め、自分を保とうと抗う。
「……ッ! 忘れたらダメだ」
屈しはしない。最後まで。きっと『俺』ならそうするだろうと思えた。そしてクロウは両耳を自ら傷つけ、蜜約の血桜を発動させる。
血を代償に、滲む常夜桜の残香から現出する桜花弁が周囲に舞った。
それによって周囲のマメルリハが一掃されていく。クロウは忘歌を紡ぐ人魚を睨み、攻撃の矛先をそちらにも向けた。
「お前が歌いたい歌は本当は違うンだろ」
『…………』
人魚は何も答えない。ただ座長の示すままに歌い続けるだけだ。しかし、代わりに血塗れのマメルリハ達が答える。
『決めつけるな!』
『人魚さまのうたは、リル・ルリにもむけられてるんだ!』
『ぼくたちも、人魚さまも、座長のことを……ギャッ』
鳥達の言葉はクロウの放った斬撃によって遮られた。クロウは断末魔をあげながら地に落ちた鳥を見遣る。
「人のモン奪っても解らねェよ。テメェらも座長も、永遠に」
これでクロウの行く手を阻むものは居なくなった。クロウは地を蹴り、傀儡人魚の喉を玄夜叉の焔で灼こうと迫る。
その瞬間、ノアがその前に立ち塞がった。焼かれることも厭わず、炎を自らの腕で防いだ彼は表情ひとつ変えずに冷ややかな言葉を落とす。
「黙って見ていれば、随分と好き勝手なことをほざくものだ」
鞭が鋭い音を立てたかと思うとクロウの黒魔剣に絡まり、刃を振れなくした。巨大な剣と黒鞭の一撃が拮抗する。鞭の呪縛から逃れようと力を込めるクロウに対し、ノアは鋭い視線を向けた。
「何故、庭園の花をわざと踏み荒らした?」
それは戦いや舞台に必要なことだったのか、とノアの瞳は語っている。美しく咲いていただけの花を散らすことはなかったはずだ。そのうえでクロウは舞台の要である歌姫の喉を灼こうと動いた。
後者は戦術的には有り得る行為だ。だが、それらは舞台を演出する座長の逆鱗に触れる行為であり、誰であっても絶対にしてはいけないことだった。
されど、焼け焦げた腕の煤を払ったノアは怒りを顕にはしない。答えを待つことなく、座長はクロウから視線を外した。
「貴様はこの舞台にも街にも相応しくない。私達が手を下すことすら時間の無駄だ」
演者にも観客にもなれない者は舞台には不要だ。
ノアは静かに告げた。
そして指が鳴らされる。刹那、戦場に残っていた蒼鳥が一気に突撃していき――クロウは瞬く間に庭園の外に放り出された。
「何だってンだ……?」
『マナーがなってないやつめ!』
『つまり出禁ってことだよ! でいりきんし!』
鳥達はそれだけを言い捨てると黒薔薇の庭園に戻っていく。閉ざされた門は開かない。残されたクロウは剣を下ろし、遠い舞台を見つめることしか出来なかった。
苦戦
🔵🔴🔴
フラム・フロラシオン
WIZ
目の前に現れたのは、わたしにどこか似た少女
…あなたはだれ?
手をのべてくれる、優しい笑顔
わからないけれど、どこか恋しい
ずっとひとりだった私に
これまで優しくしてくれる人なんていなかった
あなたがはじめてだったの
だからきっと、『それ』は最初から始まっていたんだ
そして、何より
信じてる、信じてるんだ
あなたなら、わたしを止めてくれる
わたしの信じたの『あなた』なら、
わたしに、わたしの呪いなんかに殺されたりはしないって!
だから―
ここで斃れるなら、それはそこまでのあなただってこと!
UCを使って逃げ道を閉ざすよ
さあ、わたしだけを見て
わたしだけと遊んで!
わたしごと、舞台ごと、全部焼き尽くしてあげる!
●Vivace
幸福な楽園の舞台。
それは人の数だけ存在し、思いの数だけ広がり続けるもの。
幸せに対する欲と願望。それはフラムの中にもひそかに宿っていた。そして、耳に届いた喝采と共にフラムのための舞台がひらかれていく。
「……あなたはだれ?」
フラムの目の前に現れたのは、何処か自分に似た少女だった。
問い掛けてみても答えは返ってこない。そのかわりに手を差し伸べてくれた。其処に宿っているのは優しい笑顔。
(だれなの? わからないけれど、どこか恋しくて……)
胸があたたかくなる。
そう感じたフラムは、伸ばされていた少女の手に自分の掌を重ねた。ぬくもりが感じられたことで安堵する。
彼女はフラムにずっと微笑みかけてくれていた。
「……そうだ」
フラムはふと何かを思い出す。はっきりとは浮かばないが、心の奥底で眠らされていた感情と思いが溢れ出てくるような感覚だ。
ずっとひとりだった自分にこれまで優しくしてくれる人なんていなかった。
けれども彼女は違う。こうやって手を繋いで、すべてを許してくれる。
「あなたがはじめてだったの」
『…………』
フラムが少女に語りかけると、無言のままではあるが変わらぬ笑みが向けられた。ずっとこのままこの舞台に居たい。けれども胸の奥が痛い。
心が軋むような僅かな違和を覚えながらもフラムはそっと言葉を紡いでいく。
「だからきっと、『それ』は最初から始まっていたんだ」
そして、何よりも。
信じてる、信じてるんだ、と語ったフラムは己の過去に沈む思いをすくいあげる。
「あなたなら、わたしを止めてくれる。わたしの信じた『あなた』なら、」
『…………』
少女はただ微笑み続けているだけだ。それでもフラムには分かる。言葉にされなくとも理解できる思いがあった。
「わたしに、わたしの呪いなんかに殺されたりはしないって! だから――」
フラムは少女から手を離す。
その掌の温度を忘れはしないと決めたフラムはこの舞台に抗う。それは目の前の少女を自らの手で殺すことだ。
これこそが幸福な楽園の舞台から脱する、ただひとつの方法。
しかしフラムは揺るがない。
「ここで斃れるなら、それはそこまでのあなただってこと!」
熱のない黒い炎を巻き起こしたフラムは周囲を自分の戦場として作り変えていく。与えられた舞台ではなく、己の意思で立つために。
そして、フラムは凛と宣言する。
「さあ、わたしだけを見て。わたしだけと遊んで!」
わたしごと、舞台ごと、全部焼き尽くしてあげるから。
剣を構えたフラムはその切っ先を幻の少女に向けた。何も迷わない。失ってもなお、この胸に残る気持ちと意志。
それこそが自分自身をかたちづくる根源なのだから――。
成功
🔵🔵🔴
メアリー・ベスレム
ふぅん。メアリを殺したいのね?
影のあなた、獣のあなた
あなたはメアリで、メアリはあなた
ええ、だけれど本当にそうかしら?
あなたはとても楽しそうだけれど
メアリはちっとも楽しくないの
あなたはメアリ、ただのメアリ
ただ殺すだけ、ただ楽しいだけ
あなたはアリスじゃない
たぶん、オウガと同じね
ええ、忘れていたわ
メアリはアリスで、アリスはメアリよ
あわれでみじめなアリスの記憶
忘れてしまいたいのは本当だけれど
忘れられない、忘れちゃいけない
怒り? 憎しみ? 飾る言葉はなんだっていいけれど
牙を、刃を研ぐには必要なんだから
メアリ/アリスの花は
赤くてあまい復讐の花
誰かを嘲って、玩んで
そういう相手を殺すから
だからきれいに咲く花よ
●Fortissimo
そっとのぼった舞台の上。
メアリーが巻き込まれていくのは見世物劇場の舞台。
殺しあいを強いられるという場所で、目の前に現れたのは自分とそっくりな影。
分身と呼ぶに相応しい姿をした彼女は楽しそうに笑っていた。そして、一欠片も隠しはしない殺意を向けてきている。
「ふぅん。メアリを殺したいのね?」
相手がそうしたように、メアリー自身も身構えた。赤い瞳にそれぞれ同じ姿をした少女の影が映り込む。
分身に語りかけても相手は喋ろうとしない。しかしそんなことは気にせぬまま、メアリーは舞台の床を蹴り上げた。
同時に狂月の徴が満月めいた煌きを映し、メアリーの身に変化をもたらしていく。一時的に症状が進んだ状態になり、彼女は半獣半人の姿となった。
だが、変化したのは影も同じ。
「影のあなた、獣のあなた。あなたはメアリで、メアリはあなた」
『…………』
「ええ、だけれど本当にそうかしら?」
メアリーが鋭い爪を振り上げれば相手は振り下ろす。殺しあうことしか赦されないグランギニョールの中でふたりの少女は互いを傷付けあっていく。
その最中、影の少女は口許を緩めた。
「あなたはとても楽しそうだけれど、メアリはちっとも楽しくないの」
対するメアリーはつまらなさそうに唇を尖らせる。
身を翻して爪を避け、かわりに全力の殴打で以て影を穿った。それでも相手は怯まずに同じような攻撃をメアリーに振るってくる。
「あなたはメアリ、ただのメアリ」
『あなたはアリス、ただのアリス』
「ただ殺すだけ、ただ楽しいだけ」
『それがいいの、それがすてきなの』
或る時を切欠にして影が唐突にメアリー自身に語りかけてきた。鏡写しのようなふたりの間で正反対の言葉が交わされる。
何だか妙な気分を覚えながら、メアリーはふるふると首を横に振った。
「あなたはアリスじゃない。たぶん、オウガと同じね」
ええ、忘れていたわ。
そんな風に呟いたメアリーは鋭い爪で影を斬り裂きながら思いを反芻する。
メアリはアリスで、アリスはメアリ。
この胸に沈んでいるのは、あわれでみじめなアリスの記憶。忘れてしまいたいのは本当だけれど、忘れられない。忘れちゃいけない。
怒りか、それとも憎しみか。
その感情を飾る言葉はなんだっていい。けれど、牙を、刃を研ぐには必要なもの。
そう思ったとき、メアリーは影を打ち倒していた。喉を引き裂かれ、血を流して倒れ伏した影はくぐもった呻き声をあげながら死んでいく。その姿を見下ろした後、メアリーは吸血鬼ノアの方に視線を向ける。
確か先程、彼は問いを投げかけてきたのだったか。
答えは自然に裡に浮かんでいた。だから答えようと考え、メアリーは宣言する。
「メアリ――アリスの花は、赤くてあまい復讐の花よ」
誰かを嘲って、玩んで。
そういう相手を殺すから、だからきれいに咲く花なの。
それもきっと愛じゃないかしら。そういって薄く笑った少女の瞳が赫く輝いた。
成功
🔵🔵🔴
ノイ・フォルミード
鞭を受け止め
嘴を薙ぎ払い
人形を機体を以て庇う
徐々に私のメモリーがエラーで埋め尽くされていく
けれど
どれだけ何度
記録を奪われても
人形を見る度に想いが芽吹く
このコだけは守るんだ
停止なんかしてられない
遂に君の名にモザイクがかかる
だめだ
それならいっそ
ぼくから手放そう
【フルウゥス】
蒸気よ彼らの喉を焼け
電流よ瑠璃の翼を堕とせ
君の為に調べた■■■も
食べて欲しくて育てた■■■■も
幾つもノ花の名を失ってなお
ぼクの回路ガ0と1ヲ叫ぶのでス
10000010 10100000 10000010 10100010 10000010 10111101 10000010 10100010
あいたい
アイタイ、■■
キミが
「恋しイ」
●Sforzato
撓った鞭の鋭い音が鳴り響き、人魚の忘歌が再び紡がれた。
それに合わせて瑠璃の鳥達が襲い来る。その音と嘴を受け止めながら、ノイは腕に抱いた人形を抱き締めた。
「このコはだめなんだ。彼女に届ける大切なものだから」
必ず帰って君にみせると決めている。
彼女に似た人形だからこそ、絶対に傷付けたくはなかった。
自らの機体で人形を庇ったノイはマメルリハ達を薙ぎ、追い払っていく。
しかし、その間にも人魚の歌が彼のメモリーを侵食していった。徐々に軋む機体の奥にエラーで埋め尽くされていく感覚が満ちる。
放っておけば起動コードすら消去されることになり、動けなくなるだろう。
けれども、とノイは地を踏み締めた。
何度、どれほど記録を奪われても、抱いた人形を見る度に想いが芽吹いていく。
「このコだけは守るんだ」
言葉にすることで更に強くなる感情。
停止なんかしていられないのだと思えば力が湧いてきた。それでも人魚の歌の効力は容赦がなく、遂には彼女――君の名にモザイクがかかってくる。
だめだ、忘れてしまう。
機体の機能よりも大切な君が、記憶領域から消えていく。無くなっていく。会えると思っていたのに。自分があの場所に戻りさえすれば、彼女に。
曖昧になっていく記録。
こんなにも想っている君とは。彼女とは。この人形は?
――案山子さん。
君の声がとても遠い。ああ、■■。
失わないように彼女の名を反芻する。しかし、浮かんでは沈む言葉と思いすら消し去られていくのだと感じた。ノイはマメルリハ達からの攻撃を受け止め、人形を強く抱きながら思う。それなら、いっそ。
「この記録を、ぼくから手放そうか」
奪われるよりはいい。そのように感じたノイはフルウゥスの力を発動させた。
己のメモリー内にある花の名前を代償に、自動操縦へと切り替える。
蒸気よ、彼らの喉を焼け。
電流よ瑠璃の翼を堕とせ。
無差別にも思えるほどに激しい高温の蒸気と電撃が敵に迸っていく。されどマメルリハ達がノアと人魚を庇っていった。
それすら気にも止めない今のノイには攻撃の是非を判断する力もなかった。
君の為に調べた■■■も。
食べて欲しくて育てた■■■■も。
全部、全てを自分で手放していく。
「あ、あア。幾つもノ花の名を失ってなお、ぼクの回路ガ0と1ヲ叫ぶのでス」
言葉すら覚束なくなったノイは言葉通りに叫ぶ。
10000010 10100000 10000010 10100010 10000010 10111101 10000010 10100010。
あいたい。
アイタイ、■■。キミが――。
「恋しイ」
半ば暴走状態となってもなお、ノイは人形を抱いて守っていた。
瑠璃の鳥が彼によって散らされていく。
そんなノイと戦うマメルリハ達は懸命だった。その姿を見つめる吸血鬼ノアは、かれらの行動も舞台を彩るひとつとして認めているようだ。
現に今、大切なものを失った機械が自らを捨てながら全てを破壊するという行為は残虐劇として見事に成り立っている。
「ふふ……ヒトに恋をする機械の物語か。実に佳い舞台となりそうだ」
さあ、エスメラルダ。
傀儡奴隷に語りかけたノアはノイの記録をもっと奪い取れと命じた。
人魚の歌が響く。
機人の叫びが木霊する。
忘歌とフルウゥスの力によって生み出され、織り成されていくのは最高の劇だ。座長にそのように評されているのだとも知らず、気付けぬまま、ノイは戦い続ける。
――悲劇の幕は未だ、閉じられない。
成功
🔵🔵🔴
桜屋敷・いろは
失ったのは、大切な人のこと
愛するマスターのこと
投げられた質問
答える間もなく、真っ白な研究室へ
見た事の無い、男の人
染まりきらない白髪を綺麗に整えた、野暮ったい丸眼鏡のおじいさん
知らない人なのに、心から溢れるこの温かな気持ちはなに?
……知っている
これは、愛だ
嗚呼、胸のコアがあたたかい
こみあげる気持ちを歌に乗せ、目の前の彼に伝える
叶わなかった望み
伝える事が出来る幸せ
愛とは、与え、伝えるもの
わたしは見返りを望まない
わたしは満ちることはない
わたしの満ちぬ胸の中に咲く花は
さくら
彼とわたしを繋ぐ、唯一のもの
歌う、唄う、謡う
わたしに出来る唯一のこと
舞台を彩る楽器になろう
どうかみなさんが、貴方が
救われますように
●Con anima
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
享楽の匣舟の座長、ノアから問われた言葉が耳に届いた。
桜屋敷・いろは(葬送唄・f17616)は、はたとしてその言の葉の意味を考える。
しかし今、彼女の記憶からは多くのものが零れ落ちていた。黒曜の街を進み、黒薔薇の庭園に近付く度に何かが失われていったからだ。
思い出せないのは大切な人のこと。愛する――誰かのこと。
忘れたということだけがいろはの裡に残っている。
それが記憶から抜け落ちた現状、いろはには何もかも分からなくなってしまった。そして、吸血鬼からの質問に答える間もなく、彼女は舞台にいざなわれる。
いろはが立っていたのは真っ白な研究室の中。この場所こそが彼女の望みを実現させた幸福な楽園だ。
研究室にはひとりの男性が穏やかな表情をたたえて佇んでいた。
(見た事の無い、男の人……)
染まりきらない白髪を綺麗に整えた、野暮ったい丸眼鏡のおじいさん。彼のことも自分との関係も忘れてしまったいろはにはそれが誰であるか理解できなかった。
それなのに、といろはは彼に近付く。
(知らない人なのに、心から溢れるこの温かな気持ちはなに?)
戸惑いの中に幸福な感情が生まれていった。
おいで、と優しい声で自分を呼んでくれるおじいさん。彼が目の前に居てくれることがとても嬉しくて、すごく懐かしい。
「……はい」
いろはは彼に返事をしてから傍に歩み寄る。
知っている。彼に抱く感情の名前が分かった。これは――愛だ。
嗚呼、胸のコアがあたたかい。何もしていないというのに、傍らに居られるだけで安らぎの気持ちが巡っていく。
彼は、歌ってくれといろはに願った。
断る理由などなかった。名前も記憶も思い出せはしないが、この身に刻まれているのは彼が教えてくれた歌だ。彼が歌って欲しいと望んだ歌に違いない。
頷いたいろはは花唇をひらく。
こみあげる気持ちと想いを歌に乗せ、目の前の彼に伝えようと思った。
これは叶わなかった望み。
この歌と感情を伝えることの出来る幸せが、此処にある。
愛とは、与え、伝えるものだ。
――わたしは見返りを望まない、わたしは満ちることはない。
いろはは謳う。そして、唱う。
祈りにも似た歌声は浄化の炎となって周囲に巡った。歌いながらも楽園の舞台を炎で包み込んでいくのは、これがありえない世界だと心が叫んでいるからだ。
彼はもう自分に笑いかけてはくれない。
自分が彼の前で歌えることなどない。
記憶よりも深い場所に刻まれてしまった事実こそが真実だと識っているから、この舞台には立っていられない。だから燃やす。壊す。崩す。
やがて、いろはの楽園は彼女自身の手によって崩壊した。瓦礫が満ちる場所となった研究所、その下敷きになった彼――マスターの姿。
幻だったそれらを見下ろし、消えていく様を見送ったいろはは顔をあげる。
そうして、先程の吸血鬼の問いに答えた。
「わたしの満ちぬ胸の中に咲く花は、さくら。彼とわたしを繋ぐ、唯一のものです」
己の名前の中にもある花の名。それを言の葉に載せたいろははノアを見つめる。その声を聞いた吸血鬼は大きな反応は見せなかったが、一度だけちいさく呟いた。
「美しい薄紅をした、あの花か……」
「はい、とても綺麗で大切な花です」
それだけをそっと答えたいろはは、再び詩を紡ぎはじめる。
歌う、唄う、謡う。
これが、わたしに出来る唯一のこと。そう信じた。
きっと彼の舞台はこれで最後。それならばノアの邪魔をするのではなく、この黒薔薇と黒曜の舞台を彩る楽器になろうと決めた。
「どうかここに集ったみなさんが、その想いが、そして貴方が、」
――救われますように。
宛ら、桜が宿す薄紅の彩を色付かせていくかのように。淡い花の願いが込められた歌声が黒の庭園に響き渡っていく。
大成功
🔵🔵🔵
朧・ユェー
君達は誰?
それよりも敵を
いつも通りに冷酷に非道に仕事をこなすだけ
一月鬼一
俺は月の餓鬼
満たさればそれだけで
手に強く握った月銀の短剣で敵の胸へと攻撃する
おや?この武器は俺のだっただろうか?
短剣に映る耳飾りが揺れ銀月を紅く染め照らす
胸に手を添える温もり感じる布栞の御守り
何故だか懐かしく暖かい
ふと甘い馨した
懐に忍んだ甘い菓子
紅、蒼、黄色、何て鮮やかな
飢えた餓鬼は鮮やか彩を口にする
何て罪深くアイが溢れた味だろ?
瞳に映るは笑顔の子達
嗚呼、そうだった僕は護りたいモノが沢山いる
ありがとうねぇ
護るよ誓いと守護と約束を果たす
それが僕が今生きる全てだから
ねぇ?君はアイするモノを護りたいと思わないのかい?
●Gaudioso
「君達は誰?」
黒薔薇の庭園の最中、ユェーは首を傾げて問い掛けた。今の彼は何も覚えていない、まっさらな状態だ。
問うてみても吸血鬼も人魚も、瑠璃の鳥達も答えない。
舞台にあがる演者の本当の名など今は知らなくていいと語っているかのようだ。
「そうだ、それよりも敵を」
倒さなきゃ、と呟いたユェーは月銀の短剣を強く握った。
思い出せないことが多くとも、自分はいつも通りに仕事をこなすだけ。
――月鬼。
己の力を解放したユェーは煌めく金色の糸と紅く染まりし双眼の月に覚醒することで、月影の麗しい暴食の吸血鬼に変身する。
刃を振り上げた彼は突撃してきた瑠璃の鳥の胸を狙って刃を下ろす。
ぴっ、という悲鳴めいた鳴き声があがり、一体のマメルリハが地に落ちる。
「俺は月の餓鬼。満たされれば、それだけで――」
薄く笑んだユェーは落ちた鳥を見下ろすことなく、次の敵に狙いを定めた。その際にふと、自分が先程から握っている短剣が気に掛かった。
「おや?」
この武器は俺の物だっただろうか、という疑問が浮かぶ。
まじまじと刃を見ると、耳飾りが揺れる様が映っていた。それは満ちては欠ける紅い弦月。銀月を紅く染め、照らすような煌めきは何かを思い起こさせる。
そして、ユェーは胸に手を添えた。
其処には温もりを感じる布栞の御守りがある。黒染の絹に守護を意味する金糸銀糸の籠目模様が刻まれたものだ。
何故だか懐かしくてあたたかい。
そんな中で不意に甘い馨りがした。それは懐に忍ばせた甘い菓子から漂っているようだ。紅と蒼と黄色。それは罪のあか、星のあお、華のきいろを示すものだ。
何て好い彩りだ、とユェーは唇をひらく。
飢えた餓鬼たる彼は鮮やかな彩を口にした。ユェーが急に菓子を食べた様子に気付いたマメルリハ達はきょとんとしている。
『あのお菓子、なに?』
『おいしいのかな?』
そんなことを囁きあう瑠璃の鳥達を余所に、ユェーは彩を味わった。
「何て罪深く、アイが溢れた味だろ?」
感想を落としたユェーは気付く。嗚呼、そうだった。顔を上げて敵を見つめた彼は、自分には護りたいモノがたくさんあるのだと思い出した。
「ありがとうねぇ」
品々の送り主達にそっと礼を告げたユェーは身構え直す。もう空虚に敵を屠り続けるだけの彼ではない。
「護るよ。誓いと守護と、約束を果たす。それが僕が今生きる全てだから」
ユェーはマメルリハ達に刃を向け、かれらを倒し続けようと決めた。夜闇でこそ耀く魔除の短剣が閃き、相手を次々と切り伏せていく。
そうしてユェーはもう一度問う。
「ねぇ? 君達はアイするモノを護りたいと思わないのかい?」
『ぼくたちはもう守っているよ』
『愛って、とても好きってことだよね』
『でも、愛は好きのお返しをもとめないって意味なんだ!』
『だからぼくたちはこれでいい。大好きな座長と人魚さまを守るんだ!!』
マメルリハ達はそれぞれに思う言葉を投げ返してくる。かれらの語る愛というものは普通とは少しずれているのかもしれない。
だが、ノアも鳥達も互いを尊重しているようだ。
最高の舞台を作りあげるという意志。そのために命を賭すという覚悟。
残虐に歪んでいても、それだけは変わらない。
「……そっか」
曖昧に頷いたユェーは短剣の切っ先を鳥達に差し向けた。相手がどうであれ自分の仕事は冷酷に、非道に刃を振るうだけ。
確かな誓いと思いがユェーの胸の裡にもあった。
そして、彼は戦場を駆けていき――舞台上の戦いは更に続いていく。
成功
🔵🔵🔴
ルーシー・ブルーベル
子のために必死で形振り構わなかった
親の愛ならしっているわ
この演目は座長さんのお好みかしら
ルーシーの花は――
……さみ、しい
ママとパパがわたしを見ていなくても
二人を愛する事をやめられないから
でもこれはルーシーの花
あなたは自分のお花が何か解らないの?
二つ目のわたし
あなたには眼帯の奥が居ない、成ってない
同じで、全くちがう
確かに「今」のわたしの影なのね
繰るヌイグルミ達を縫って
首に手がのばされる
それ程の力がわたしにあった?
舞台のせい?役って、親切ね
そうか
思い出せてはいないけど
初めてではない感覚に解ってしまった
教えてあげる
成り方を
わたしとあなたの約束の数の差を
お出で
食べて
【ブルーベル】
そしてルーシーも
いつか
●Refrain
残虐なる愛の舞台。
ノアが語った様々な幕の話を聞き、ルーシーは思い返す。失った記憶もあるが未だ覚えている記憶もたくさんある。そうね、と零したルーシーはそっと語った。
「子のために必死で、形振り構わなかった親の愛ならしっているわ」
この演目は座長さんのお好みかしら。
そうノアに告げたルーシーは目の前を見据えた。
広がっていくのは見世物劇場の舞台。
その上で鏡写しの如く向かいあう少女はルーシーの分身だ。このグランギニョールでは自分同士の戦いを強要される。
ルーシーの裡に、相手をころさなければ、という焦燥が浮かんでいった。
自分で自分を屠る。それが見世物として舞台になるなんて、とルーシーは感じている。しかしこの暗闇が広がる世界ではこんな劇などまだ易しい方だ。
身構えたルーシーは分身を片眼に映す。
此処からどう出ようかと僅かに戸惑ったそのとき、分身の方がぬいぐるみを取り出して襲いかかってきた。
オオカミ、ライオン、コモドドラゴン。本物のルーシーが操るかれらを用いて偽物が本物を倒そうとしてくる。はっとしたルーシーは身を翻し、襲い来るものを避けた。同時に彼女自身もぬいぐるみを操って対抗していく。
巡る攻防。
その中で考えていたのは満ちぬ胸に咲く花のこと。
「ルーシーの花は――……さみ、しい」
不意にぽつりと零れた言葉と共に思い出したのは、両親のこと。
ママとパパ。彼らはルーシーを見ていて、わたしを見ていない。
それでも二人を愛することをやめられない。だから寂しさはルーシーの花。其処に咲き続けるしかない、孤独の彩だ。
「あなたは自分のお花が何か解らないの?」
この答えと言葉がノアに届かなくとも構わない。きっと座長である彼はこの舞台を見ているだろうから、聞いてくれてさえいれば良かった。
そして、ルーシーはぬいぐるみを避けながら自分の分身に目を向ける。
「ねえ、二つ目のわたし」
そう呼び掛けたルーシーは相手の顔を見つめた。確かに同じ見た目をして、同じ格好をしている相手だ。しかし、自分ではない。『ルーシー』ではないと想った。
「あなたには眼帯の奥が居ない、成ってないわ」
同じであって全くちがう。
そう、確かに『今』の自分の影なのだと感じた。ルーシーに成ったことを忘れている少女だが、それだけは感覚で理解できる。
操るぬいぐるみ達を縫って近付いた相手が手を伸ばしてきた。
首に細い指先が絡みつく。影はそのまま自分を殺そうとしているのだと気付いたが、ルーシーは慌てたりなどしなかった。
ただじっと影を見つめるだけ。
「それ程の力がわたしにあった? 舞台のせい?」
役って、親切ね。
嘲笑うように吐き捨てた少女には一瞬だけ冷酷さが見えた。それはこの舞台がそうさせるのか、ルーシーとしての意識がそうさせたのか。真実は彼女しか識らない。
そして、少女は影の手を振り払う。
思い出せてはいないけれど、初めてではない感覚で解ってしまった。
「教えてあげる」
ルーシーとしての、成り方を。
そして――わたしとあなたの約束の数の差を。
そう語った少女は自らの身体に魔力を注ぐ。見る間に妖精花の花紋がその身を変えていき、偽物を喰らわんとして蠢いた。
「お出で。食べて」
少女の言葉と同時に影の力が吸い取られていく。自分と同じ姿をしたものが死を迎え、果てていく様を見送ったルーシーは見世物劇場の上で虚しい勝利を得た。
倒れ伏し、消えていく影を見下ろした少女は思う。
(ルーシーも、いつか……)
だが、思いが紡がれ終わる前にふたたびグランギニョールが動き出した。おそらくはノアが新たな力を振るい、更なるルーシーの分身を呼び寄せたのだ。
自分を殺せ。
屠って、喰らって、殺し尽くせ。
命じられるような焦燥がもう一度襲ってきた。されどルーシーは新しい影を見つめ、静かに頷いてみせる。
「いいわ。今のわたしの影なんて、何度だって殺してあげる」
その言葉には覚悟が宿っていた。
少女の舞台は繰り返す。吸血鬼が齎す享楽の刻が終わるまで、ずっと、ずっと――。
成功
🔵🔵🔴
芦屋・晴久
【恋人】で連携
リーヴァルディ、なぜ私は私の首を狙う少女の名前を知っている?
襲い掛かってくる少女に術符で対抗し
ふと気づけば先程の戦闘の跡等どこにも見当たらない街並み。
横を通り過ぎる少年を見て漸く気づく。母親らしき人と手を繋いでいる自分の姿を。笑顔で、楽しそうに
もしも有り得た私の一族が生き残っていた光景
幸せと言えたかもしれない未来
首筋が熱い……体内の血が脈を打つ
激しい動悸に襲われその場で首をおさえる
限定解放、血の誓約
リーヴァルディとの契約、吸血痕が私を正気へと戻す
「リーヴァ
……!!」
幾ら傷を負ったとしても、私は君を離しはしない
咲く花、ローワン……私は彼女が彼女らしく生きる道を守る為に生きている
リーヴァルディ・カーライル
【恋人】で連携。見世物劇場に
…ん。お前に名前を呼ばれると不快な感覚がしたけど。
当然よね芦屋晴久。お前は私の…討つべき敵だもの。
敵が魔力を溜める前に残像が生じる早業で切り込みUCを発動
限界突破した右腕の怪力任せに呪詛を纏う大鎌を乱れ撃ち、
反撃ごと敵をなぎ払う闇属性攻撃を放つ
…お前を殺す。私から大切な人を奪ったお前だけはこの手で…!
彼の【血の誓約】と首筋の“吸血痕”が自身が与えた物と知り動揺
“魂の呪痕”が反応して彼への吸血衝動=愛情を正しく認識し、
UCを強制停止した反動を激痛耐性と気合いで耐える
…っ!?その姿は晴久の!…え、はるひさ?
…お前は、敵。違う、彼は、私の大切な…!
共に生きると誓った…人。
●Tragic
吸血鬼が佇む黒薔薇の庭。
其処に広がっていったのはリーヴァルディと晴久の為の舞台。
片や、殺しあいを強要させる見世物劇場。片や、欲望や願望を実現する幸福な楽園が映し出された舞台だ。
「……ん。お前に名前を呼ばれると不快な感覚がしたけど。当然よね」
――芦屋晴久。
目の前の少女に呼ばれ、晴久はその名を呼び返す。
「リーヴァルディ
……。……? なぜ私は私の首を狙う少女の名前を知っている?」
疑問を浮かべるのも束の間。
舞台を蹴り上げたリーヴァルディが黒い大鎌を振り上げて襲いかかってきた。
「お前は私の……討つべき敵だもの」
このグランギニョールがリーヴァルディにそう思わせている。殺しあうのが当たり前だと錯覚させられているゆえに彼女は容赦ない早業で刃を振るった。
晴久は少女に対抗する為に術符を展開し、刃を何とか受け止めていく。その頃には彼の周囲が楽園の舞台に塗り替えられていた。
ふと気付けば先程の戦闘の跡など見当たらない街並みの中にいた。
「何?」
「ここは……?」
晴久が望んだ幻想に巻き込まれたリーヴァルディは首を傾げる。晴久自身も不思議そうに辺りを見渡したが、横を通り過ぎる少年を見て漸く気付く。
母親らしき人と手を繋いでいる自分の姿だ。
それも笑顔で楽しそうにしている。これはもしもの世界。有り得たかもしれない、晴久の一族が生き残っていた光景なのだろう。それが自分の理想とする舞台だと理解した晴久だが、傍にはリーヴァルディがいる。
「いいわ、その子供ごと殺してあげる」
幻想の世界の中にいる子供も晴久自身ならば、討つべき敵だ。
見世物劇場の力は歪んだ認識をリーヴァルディに与えている。晴久は戸惑いながらも母と自分の幻影を庇い、幸せと言えたかもしれない未来を守ろうとした。
(首筋が熱い……体内の血が脈を打って……)
激しい動悸に襲われた晴久はその場で首を押さえて膝を折る。
その隙を逃さなかったリーヴァルディは彼が魔力を溜める前に、残像が生じるほどの動きで切り込み、血の閃刃を発動させた。
限界突破した右腕に怪力を込め、力任せに呪詛を纏う大鎌を振るう。乱れ撃たれた斬撃は反撃すら許さぬほどの速さで闇の力を晴久に与えていった。
「――!」
「……お前を殺す。私から大切な人を奪ったお前だけはこの手で……!」
晴久は痛みに苦しむ。
そして、リーヴァルディは彼の首を刈り取らんとして一気に肉薄した。だが、晴久も同様に力を解放していた。
血の誓約。
途端に彼の首筋にある吸血痕から、浸食する吸血鬼化の呪詛が溢れ出た。はっとしたリーヴァルディは、それが自身が与えた物だと知って動揺する。
魂の呪痕が反応する。
だが、振り下ろした刃は止まってはくれなかった。
「リーヴァ
……!!」
彼の叫び声が響いた刹那、超高速連続攻撃がその身体を細切れに引き裂く。
彼への吸血衝動――つまり、愛情を正しく認識したというのに刃は彼を傷付けた。途中で必死に止めようとしたが、このユーベルコードは強制停止などできない制約で成り立っているものだ。
「……その姿は晴久……え、はるひさ?」
攻撃が終わった後、リーヴァルディは思わず大鎌を取り落してしまう。
彼は血塗れで倒れており、呼吸も荒い。しかし晴久は一足先に正気を取り戻しており、彼女の名前をそっと呼んだ。
「リーヴァ……」
「……お前は、敵。違う、あなたは、私の大切な……!」
戸惑うリーヴァルディは倒れた彼に駆け寄り、腕を伸ばす。すると力を振り絞った晴久も手を伸ばし返した。
「幾ら、傷を負ったとしても……、私は、君を――」
離しはしない、と告げた晴久の腕が背に触れる。リーヴァルディは彼を抱き締め返し、漸く真実を思い出した。
「……あなたは……共に生きると誓った……人。……晴久」
リーヴァルディが震える声で自分を呼んだ声を聞き、晴久は穏やかに微笑む。そして晴久は遠くなる意識の中で或る花を思い浮かべていた。
咲く花。それはローワン。
(……私は彼女が彼女らしく生きる道を守る為に生きている)
そう思いながら晴久はゆっくりと目を閉じた。
「晴久……! 晴久――!」
彼を強く抱きながらリーヴァルディは力の限り叫ぶ。自分が深い傷を刻んだ所為でもあるが、周囲に広がっている彼の楽園の光景が晴久を蝕んだのだ。
このままでは彼の自我と肉体は崩壊していく。
だが、リーヴァルディではこの舞台の力を掻き消すことが出来ない。壊すことの出来る晴久はリーヴァルディ自身が傷を与えてしまった。
「起きて、晴久……!」
呼び掛けても彼は返事すら出来ない状態だ。
晴久が吸血鬼の問いに対して満足する返答が出来ていたならば状況も違っただろう。しかし、その答えはローワンではなかった。
「お願い、置いていかないで……はる、ひさ……」
血塗れの晴久を抱いたまま、リーヴァルディは必死に名を呼び続けた。二人の間に感情が戻ったが、匣舟が齎す力に抗いきれなかったのだ。
その光景を見つめていた吸血鬼ノアはこれも愛の悲劇だと哂った。
そうして、楽園劇は続く。
舞台は晴久が死を迎えるか、或いは享楽の幕が下りるまで彼の魂を削っていく。
苦戦
🔵🔵🔴🔴🔴🔴
櫻・舞
【舞夜】
あぁ、あの人は誰だったのでしょうか?
ぼんやりと姿が…わからない。
怖い…
咲夜様の手が強く握られる
わたくしには今とても頼もしい方が傍にいらっしゃる
こんなに心強く暖かな気持ちはない
咲夜様のお力は何て尊く気高いのでしょうか
とても美しい天女様を見ているよう
カタリと両手に持つ日本刀が鳴く
何故だか使って欲しいといっている気がした
私は日本刀の鞘を抜き彼へと刺す
櫻刺舞
刃が枝なり複数の鳥達を刺すそし桜の華が咲く
あぁ、何故忘れていたのでしょう。
こんなにも大切でこんなにも…
わたくしは貴方様の答えがわかりません
ただ想うのは、大切な人と寄り添える事
例えその姿がなくとも
東雲・咲夜
【舞夜】
空虚な心奥の穴
何もかもが当たり前で在ったのに
細氷の如くさらさらと霞んでゆく
いいえ、臆したらあきまへん
片翼の天使の不安を融かすよう
柔く小さな手を握って
大丈夫…うちに任せて
此歌が紡がれ続ける限り
彼の御方の存在を近う感じ取れへん
そんなら…
しなやかに、透徹に、春色の音が舞台を彩る
忘れたくない
刻みつけていたい
此迄の様に、此からもずっと――
優しくも儚き花嵐が瑠璃鳥たちを抱き占める
水底は美しいけれど
ずぅと此処に居ては寒いやろ
春の陽だまりに抱かれ…おやすみやす
黒き人魚の歌が胸を揺さぶる
嗚呼…あんさんは『歌』なのね
あまりに哀しい忘却の旋律
せやけどきっと、倖せなんやろな
うちもそう
吟うことが、うちの命やから
●Tempo Rubato
記憶の一部を失ったまま、ふたりで辿り着いた黒薔薇の庭。
――怖い。
忘れたことだけを覚えているという状況は恐怖を呼び込んでくる。舞は浮かんだ思いに身体を震わせ、吸血鬼と人魚を見つめる。
しかし、その間にも頭の隅に過っていくのはあの人のこと。
(あぁ、あの人は誰だったのでしょうか?)
記憶の彼方、ぼんやりと姿が見えるような気がしたがやはりわからない。
咲夜も敵を前にしながら空虚な心奥の穴を感じていた。
何もかもが当たり前で在ったのに細氷の如くさらさらと霞んでゆく感覚。それはとても心細くて寂しいものだ。
しかし、咲夜は隣を見遣る。舞は未だかすかに震えているようだ。
(いいえ、臆したらあきまへん)
片翼の天使の不安を融かすように、咲夜は彼女の柔く小さな手に掌を伸ばした。
「大丈夫、うちに任せて」
「咲夜様……?」
舞はいつの間にか俯いてしまっていた顔をゆるりとあげ、強く握られた手をそっと握り返した。其処から伝わった熱が勇気をくれた気がする。
自分には今、とても頼もしい方が傍にいる。こんなに心強く暖かな気持ちはないと感じた舞は静かに微笑んでみせた。
「咲夜様のお力は何て尊く気高いのでしょうか」
とても美しい天女様を見ているようだと舞が感じるのと同じくして、咲夜も言葉通りの天使のような舞のことを守りたいと強く思っていた。
そして、ふたりは此方に迫ってくる瑠璃の鳥を見つめる。
街を歩んできたときと同じ敵だが、今度は響く人魚の歌が直接耳に届いている。その声は更なる忘却を齎すものだ。
これ以上は忘れたくはない。それに隣にいる咲夜のことだけは忘れるはずがない。舞は思いを強く持った。
刹那、両手に持つ日本刀がカタリと鳴いた。
何故だか使って欲しいと伝えてくれているようで、舞は鞘から日本刀を抜く。
「参ります」
「此歌が紡がれ続ける限り、彼の御方の存在を近う感じ取れへん」
「鳥様の事はお任せください」
舞の宣言に咲夜が頷き、そんなら、と唇をひらいた。そして、大切な存在と伴に在りたいと想う願いと共に謳う。
しなやかに、透徹に、春色の音が舞台を彩っていく。
忘れたくない。刻みつけていたい。此迄の様に、此からもずっと――。
歌う咲夜を背にして守る舞は飛んできた瑠璃の鳥に刃を振るった。白き日本刀の刃先は桜咲く枝に変わって花の彩を散らす。
枝になった切っ先は複数の鳥達を刺し、其処に色彩が咲いていった。
そして、舞は思い出す。
「あぁ、何故忘れていたのでしょう。こんなにも大切でこんなにも……」
舞と咲夜の力が重なり、瑠璃鳥達を次々と地に落としていった。しかし、彼女達はただ敵を屠るだけではない。
舞も咲夜も、吸血鬼のために懸命に戦う鳥に敬意を払っていた。
優しくも儚き花嵐が瑠璃鳥たちを抱き留め、死と同時に安らぎを齎していく。
「水底は美しいけれど、ずぅと此処に居ては寒いやろ。春の陽だまりに抱かれて――おやすみやす」
別れの言葉を紡いだ咲夜は鳥達の眠りと冥福を祈る。
そして、周囲の鳥を散らした舞はノアと人魚の方に向き直った。
「わたくしは貴方様の答えがわかりません。ただ想うのは、大切な人と寄り添える事……例えその姿がなくとも、わたくしはそれが花だと信じています」
「そうやね、うちも花たるものは人やと想う」
咲夜は舞の言葉に頷きを返し、黒き花のような人魚を瞳に映す。
人魚の歌は心を揺さぶる。
「嗚呼……あんさんは『歌』なのね」
「歌そのものの人魚様……」
咲夜と舞は敢えて歌に耳を澄ませた。聴こえてくるのはあまりに哀しい忘却の旋律。
「せやけどきっと、倖せなんやろな」
「どうなのでしょう。あの歌は何かを訴えているように思えてなりません……」
「でも、分かる気がするんよ。うちもそう。吟うことが、うちの命やから」
忘歌にはきっと、何かの思いが込められている。
咲夜と舞は確りと吸血鬼達を見据え、それぞれに身構え直した。自分達がやるべきことはやった。それならば後はこの舞台の終幕を見守るだけだ。
あの歌が報われる時が訪れる。
ただそれだけを信じて、舞と咲夜はそっと手を握りあった。もう何も怖いものなんてないと思える。それはきっと、大切な人と寄り添えることを思い出したからだ。
成功
🔵🔵🔵🔵🔴🔴
空・終夜
舞台上
現るは己の影
片手に夜明色の細剣を携えて
その色に覚えがある気がした
多くの旅を重ね
彷徨った
でも
いくら歩けど
先に待つは空虚のみ
なぁ
世界は何故
こんなに絶望で満ちている?
昏く寒く
僅かな夜明けを探すのも困難
何も救われない
思い出さない方が幸福だ
終わらない夜の中で
死すべきが
怪物の幸福…
俺は約束を決して守れない
護れない
だって世界はもう既に
アイツを――
…そうか
涙の理由を探して進んでも
俺は空ろなのか…
でも
影が求めた
幻想の夜明け
それは
大切な象徴のような…
俺は
夜明色に己の罪を感じた
血よ
全てを暴いて
存在の罪を
血の刃は影を貫く
夜明の刃は俺を刺す
残るは
夜明色の待雪草
誰かの好きな花
理解はした
絶望が待てども
此処では終れない
●Finir
水底の都市から見上げた空の色は終わらない夜のよう。
そんなことを感じながら上った戦場は、殺伐としたグランギニョールの舞台。
終夜の前に現れたのは己の影だ。
戦いの舞台に立った終夜の瞳からはもう涙は零れていない。目許には半ば乱暴に拭った痕が微かにあるが、この殺しあいの舞台の上で泣く気などなかった。
影は片手に夜明色の細剣を携えており、終夜を見据えている。
「……わかった、殺しあおう」
頷いた終夜も拷問具を手にして応じた。
自分同士で傷付けあう。これがこの舞台で己が演じるべき事柄だ。
剣の色に覚えがある気がしたが、終夜は何も語らずにいた。ただ覚えている過去を胸の裡で思い返すだけ。
地を蹴り、得物を振るいあげる。
下ろされた影の剣が重なって鋭く甲高い音を立てた。そして、其処から幾度も自分の影と刃を重ねながら終夜は想う。
これまでに多くの旅を重ねて彷徨ってきた。
されど、いくら歩けども先に待つは空虚のみ。何も見つかることはなかった。今だって心に穴が空いたようで空しい。
『なぁ』
「……?」
不意に分身である影が口をひらき、呼び掛けてきた。昏い底から絞り出されたような声を聞き、終夜は思わず身構える。
『世界は何故、こんなに深い絶望で満ちている?』
「それは……」
影は終夜が思い浮かべていたことを代わりに問い掛けてきた。言い淀んだ終夜は振るわれた一閃を受け止め損ね、片腕に深い傷を受ける。
舞台に血が滴った。冷たい肌に熱を持った雫が伝っていく。
昏く寒く、僅かな夜明けを探すのも困難な世界。
何も救われない。誰も救ってくれない。助けを求めても踏み躙られる。そんな世界ばかりを見てきた終夜に答えは導き出せなかった。
思い出さない方が幸福だ。
そう思ってしまった彼は戦いの中で、再び空を見上げた。
終わらない夜の中だと感じるのは相変わらずで、何にも光など視えない。
「死すべきが、怪物の幸福……」
気付けば終夜は暗澹たる思いを口にしていた。目の前にいる自分の影がそうであることをよく見せてくれている。
影はまさに鏡写し――否、鏡よりも確かに自身を映し出していると思えた。
「俺は約束を決して守れない。護れない。だって世界はもう既に……」
アイツを、と口にしかけた終夜は気が付く。
不意に忘れていたものを思い出した。心の奥底に眠らせていた真実を、記憶と共に呼び起こしてしまったのだ。
その間にも戦いは巡り、終夜と影の攻防は拮抗する。
涙の理由を探して進んでも自分は空ろのままだ。でも、と終夜は影を見つめる。
「……そうか」
求めた幻想の夜明け。それは大切な象徴のような気がした。
夜明色に己の罪を感じた。自分が明けない夜を示す名を冠しているからだろうか。同じ文字であっても、夜が終わるという意味には未だ到底思えない。
終夜は片腕から滴り続ける血を媒介にして、争いを終息させようと決めた。
――血よ、全てを暴いて。
存在の罪を。生きることの罰を。消えない過ちを。
そうして迸る血の刃は影を貫いた。しかし、代わりに振るわれた夜明の刃が終夜の胸を貫き返し、深い傷と痛みを与える。
「……、まだ、俺は……こんなところで倒れられないから……」
荒くなる呼吸を整え、痛みに耐えながら終夜は地を踏み締めた。伏した影が消えていく様を見送りながら終夜はノアを瞳に映す。
どうしてか吸血鬼からの問いに答えなければならないと思った。
「俺に残るのは――」
夜明色の待雪草。それは誰かの好きな花だ。
忘れてしまっていても理解はした。僅かに憶えていることを支えにして、この戦いが終幕するまで立っていようと誓う。
この世は哀しく苦しいことの方が多いのだと終夜は識っている。愛と呼ばれるものですら悲劇を引き起こすのだと、座長の舞台を通じて解ってしまった。
だが、絶望が待てども此処で諦められない。
この意志が、この命が、そして――明けぬ夜の先を自分で認めない限りは。
舞台も旅路も未だ終わらない。
成功
🔵🔵🔴
宵鍔・千鶴
霞み空虚なモノはただ其処に喝采だけが鳴り響く
囚われた楽園は
薄紅色が心を攫い揺さぶる
たった一本の桜の木
幾重にも還りたいと願った気がする
――、うたが、きこえる
旋律は繰り返し繰り返し
きっと、己が眠るまで終わらない
甘美で優しい子守唄
知らない、視えない、理解が出来ない
けれど旋律は自身の唇さえも動かして、必死に探して
黒いペンキで塗りつぶされただけの滑稽なモノは
桜へと手を伸ばす
その手は赫く赫く染まって 噫、そうか
ティルナノーグ、嘲笑わせてくれる
子守唄などでは、もう眠ることは出来ない
さよなら、愛しき花よ
此れは紛れもない愛が咲くうた
――ねえ、見知らぬいとしいひと、
もう一度だけ、俺の名前を呼んで欲しかった
●Andante
裡に残ったモノは厭う自分。
これまで積み上げてきたものは霞んでしまって空虚に成り果てた。奇妙な感覚に心を貫かれたまま、千鶴は黒薔薇の庭園に訪れる。
喝采が聞こえた。
理性の糸が既に切れている千鶴にとって、自制心を破壊するその力は更なる崩壊を齎すものとなっていく。
鳴り響く音に意識を奪われた千鶴。彼が囚われた楽園は――。
「……ここは?」
瞼をひらいた千鶴の視界に先ず飛び込んできたのは薄紅色。その彩が心を攫い、気持ちが妙に揺さぶられた。
傍にあったのはたった一本の桜の木。
幾重にも、何度も還りたいと願った気がする場所だ。はらはらと桜の花が散っていく様子を千鶴は暫し見つめていた。
落ち着く。ずっと此処に居たいと思えた。そんなときふと何かが耳に届く。
「――、うたが、きこえる」
耳を澄ませる。届いた旋律は繰り返し繰り返し、同じ音を奏でていた。穏やかで静かで、心を落ち着かせてくれる歌。
それはきっと眠るまで終わらない、甘美で優しい子守唄。
だが、それが誰の声であるのかが分からなかった。聞き覚えがあるはずだというのに何も思い出せぬことに焦燥が募る。
知らない、視えない、理解が出来ない。
解らないことが怖いとすら感じてしまう。けれど旋律は千鶴の心を誘う。自身の唇が自然に動き、必死に歌の根源を探してゆく。
記憶は失われたまま。例えるならば、今の千鶴は黒いペンキで乱雑に塗りつぶされただけの滑稽なモノ。
無意識に桜へと手を伸ばす。しかしその手は赫く赫く染まって――。
「噫、そうか」
千鶴は空虚に哂った。
ティルナノーグ、嘲笑わせてくれる。そんな風に呟いてから千鶴は頭を振る。
子守唄などでは眠ることは出来ないのだと思い出した。だってもうこんなにも手は汚れて、純粋な気持ちなどとうに捨て去ってしまったのだから。
千鶴はゆっくりと桜の樹から離れた。
確かにこの舞台は楽園を映している。だが、この場所は今の自分が居るべき場所ではないのだと痛いほどに分かってしまった。
それゆえに壊す。身を軋ませる痛みも心を侵す忘却も要らない。
「さよなら、愛しき花よ」
此れは紛れもない愛が咲くうた。
欲望と願望によって生み出された舞台に別れの言葉を告げた千鶴は、桜の樹の向こうに懐かしく感じられる人影を見つけた。
しかし何もかもが遅い。桜の餞で幻想の世界を覆い、舞台を破壊していく千鶴はその影にそっと呼び掛けた。
「――ねえ、見知らぬいとしいひと、」
もう一度だけ、名前を呼んで欲しかった。もう一度、笑いかけて欲しかった。
けれども願いは叶わない。
この幸福な舞台に立つ者は自分以外すべて幻と識っているから。
自らの手で懐かしい人の存在すら消し去った千鶴は口許に湛えた笑みを深めていく。狂化された心を抱えながら、千鶴は虚ろな思いを胸の奥に沈めた。
されど喝采は止まない。
「虚しく滑稽な歌劇を繰り返すのもまた一興」
ノアの声が響く。どうやら吸血鬼は千鶴を更なる舞台に巻き込んだようだ。
またあの歌を聞き、楽園を己で壊すことになるのだろう。それならば何度でもさよならを告げ続けようと決め、千鶴は耀夜の刃を振るう。
その刃の軌跡は何処か哀しげに、続く舞台の上で静かに煌めいていた。
成功
🔵🔵🔴
泉宮・瑠碧
…愛が様々とは分かりましたが
愛なら全てが許される事は無く
己の愚かさの言い訳にしてはいけない
…そうも、思います
満ちぬ、咲く花…
花が比喩なら、虚しさや寂しさ…喪失?
私はただ在って
贈られる恩恵を周りに流すだけの道具
その私の、望む世界は…何も無い、暗闇
私が失われる事を、誰より、自分がそう願ってた
…でも
りるるりさん達を思うと涙が零れる
…替えのない一羽一羽なのに
森で命を失う子達が重なり…悲しい
…ここから出れば、伝えられる…?
代わりではない、綺麗な歌だと
己を失うのは終えてからでも良い
他の歌声の邪魔をしない様…浄癒交響
私は歌う
生きてと謳う
自然の摂理を否定はしない
喪う時は必ず来る
それでも…命達が精一杯生きる様に
●Symphony
愛には様々な形があると吸血鬼は説いた。
確かにそれは理解できた。人の数だけ愛があり、愛の数だけ理がある。しかし納得はできないといって瑠碧は首を振った。
「愛なら全てが許される事は無く、己の愚かさの言い訳にしてはいけない……。私はそうも、思います」
ノアに向けて語った瑠碧の瞳は少し虚ろだ。
それは彼女が己を失ってしまっているからであり、ノアから向けられた狂化を齎す喝采が心を捉えてしまったからだ。
其処から広がっていくのは願望を形にするという幸福な楽園の舞台。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
舞台の様相が変わっていく最中にノアからの問い掛けが響いた。落ちていくかのような感覚に包まれながら、瑠碧は浮かんだ思いに意識を向ける。
(満ちぬ、咲く花……花が比喩なら、虚しさや寂しさ……)
「――喪失?」
そして瑠碧がぽつりと答えを落としたとき、その視界は闇に閉ざされた。
嘗ての瑠碧は、ただ其処に在るだけのものだった。
精霊から贈られる恩恵を周りに流すだけの存在であり、それ以外には何も求められない道具。名も与えられず、個を持つことも許されない。
それゆえに瑠碧が望んだのは何もない場所――暗闇だった。
自分が失われる世界。それを誰よりも瑠碧自身が願っていた。これまでの記憶や幸せを忘却した彼女が欲するのはただそれだけ。
このまま闇に身を委ねれば、少し苦しいだろうけれど死が訪れる。
暗黒の舞台で静かに息を引き取る劇だって悪くはないはず。満ちぬ胸の中には花は咲いていない。少なくとも、今の瑠碧にとってはそうだ。
(……でも)
闇の最中、瑠碧は先程のことを思い出す。
りるるりと名乗った青い鳥達は懸命だった。かれらを思うと涙が零れた。
そんな感情は要らないと教えられていたのに。恩恵だけを振りまいていればいいという存在であったのに、哀しみが溢れる。
替えのない一羽一羽なのに。瑠璃の鳥達の姿が森で命を失う子達のものと重なり、悲しみが渦巻いていく。
「……ここから出れば、伝えられる……?」
瑠碧は闇の中で閉じていた瞼を静かにひらいた。
たった一言、伝えたい。
代わりではない、綺麗な歌だと。己を失うのはそのことを伝え終えてからでも良いはずだ。そう思った瞬間、瑠碧の周囲にあった闇のヴェールが晴れていく。
理想の世界は暗闇などではない。
彼女自身が思いを塗り替えたゆえに舞台の景色は穏やかな森の光景に変わっていく。
夜が明けたかのような目映い光景。
その中で瑠碧は両掌を重ね、黒薔薇の庭園で戦うマメルリハ達に意識を向ける。
己の記憶は取り戻せていないままだ。
けれども、失ってから出会った尊いもの達の為にこの力を揮うことは出来る。
――私は歌う。
生きて、と謳う。それがいつか潰えるものであっても、どうか。
瑠碧は浄化と癒しの交響を歌にして響かせていく。人魚や鳥達の歌声の邪魔をしないよう努めるささやかな音色ではあるが、歌声は確かに広がっていった。
自然の摂理を否定はしない。喪う時は必ず来る。けれど、それまでは懸命に命を繋いで生の軌跡を描いて欲しい。
「……命が精一杯、生きられますように」
願いと共に歌は広がり、戦場全体に癒やしと安らぎの恩恵を与えていく。
己と戦う舞台で傷ついた者も、想いあう者同士で殺しあった者にも。
幸福の舞台に抗い、心を揺らがされてしまった者。そして、楽園に囚われて肉体の崩壊を待つのみだった者にも。
歌はこの戦場にいる者達、全ての傷と痛みを癒した。
瑠碧は謳いあげる。
誰にも無為な死を迎えさせず、命の輝きを繋ぎ続ける為に。
「これは……愛? いや、慈愛というものか」
歌い続ける瑠碧を見つめていたノアは僅かに目を見開く。しかしすぐに、つまらぬ、と呟いて瑠碧から視線を外した。その言葉と行動の真意はノア自身しか知らないが、何らかの思いがあったことは確かだ。
それでも瑠碧は歌を止めなかった。
この舞台に訪れた皆の力となり、その背をそっと支える。それが今の自分に出来ることだと分かっていたからだ。
そうして、やさしい交響は舞台を彩っていく。
大成功
🔵🔵🔵
ユヴェン・ポシェット
いつも俺と共にあったもの。
引っかかっていながらも、思い出せずにいる。
植物の力を振るい…思い出していた…あの生き物は一体…。
次第に何もかも分からなくなりながらもただ只管に戦うだけ。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か、だと。
わからない。だが…俺の手にある槍が答えな様な気もした。
…見覚えのある槍。俺のものではない筈。
赤髪の、アイツの…。
「名前、長ったらしくて苛々するな。もうお前ユヴェン・ポシェットで良いだろ」
「構わない」
「おい…言ったのは私だが即答かよ」
ふと、アイツとの会話を思い出した
そうだ、俺はユヴェン。
満ちぬ胸の内に咲く花…それは唯一の救いであり希望、大切な者との記憶ではないか
少なくとも俺にとっては…。
●Moderato
いつも自分と共に在るもの。
そうであったはずの竜槍を手にしているユヴェンは今、何もかもが遠い存在のように思えていた。外套が揺れ、何処かから羽撃きの音が聞こえた気がする。
何かを呼んで戦っていた感覚があったが、それが何であったのか思い出せない。
全てが引っかかっていながらも記憶が辿れない。
「……来たか」
しかし戦いは既に始まっていた。
舞台を邪魔する者を排除せんとして、マメルリハ達がユヴェンに攻撃を仕掛けてきている。かれらも主である吸血鬼のために殉じようとしているらしい。
それならば加減は逆に失礼だと感じた。
ユヴェンは自らの一部を植物に変え、竜槍と片腕に蔦を絡める。己から離れず一体となった槍で瑠璃の鳥達に反撃したユヴェンはふと思う。
(俺の記憶の奥底で見えた……あの生き物は一体何だ……?)
遥か過去の思い出も、戦場に響く人魚の歌によって忘れさせられていった。そして、ユヴェンの記憶は次々と溢れ落ちていく。
次第に何も分からなくなりながらも、彼はただひたすらに戦っていった。
そのとき、不意に吸血鬼ノアの声が聞こえた。
――満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
それは自分ではない誰かに向けられたものだった。しかし妙に気に掛かってしまい、ユヴェンは問い掛けについて考えてみる。
「わからないな。だが……」
無意識に強く握っている槍に視線を落としたユヴェン。何故だかこの槍こそが答えであるような感覚をおぼえる。
見覚えのある槍だが、元は自分のものではないはずだ。
「赤髪の、アイツの……」
気付けばユヴェンは未だ憶えている記憶を思い返していた。
『お前の名前、長ったらしくて苛々するな』
『そうか?』
『もうお前はユヴェン・ポシェットで良いだろ』
『構わない』
『おい……良いのか? 言ったのは私だが、即答かよ』
あのときの会話が浮かんだ。
彼女は自分で言っておいて少しだけ戸惑った。無論、その戸惑いもすぐに普段の調子に戻ったのだが、なかなかに思い出深いやりとりだった。
思わず、ふ、と薄く笑ったユヴェンは少しだけ己を取り戻す。
「そうだ、俺はユヴェン」
これだけは忘れてはいけないと感じた。
この槍は彼女に託されたものだ。名は思い出せないがそれだけは分かる。それゆえにこんな場所で己を失ってなどいられない。
そして、ユヴェンはノアへと視線を向けた。マメルリハ達が防いでいるので彼に攻撃は届かないが、言葉を届けることくらいは出来るはずだ。
「答えてやろう。満ちぬ胸の内に咲く花……それは唯一の救いであり希望。大切な者との記憶ではないか」
少なくとも、自分にとってはそうだ。
自分なりの返答を告げたユヴェンは地を蹴る。耳には癒しの歌声が届いていた。それは人魚のものではなく、仲間の猟兵が響かせているものだ。
その歌を背にして果敢に戦うユヴェンは、手の中にある竜槍に呼び掛けた。
「――行くぞ!」
名は呼べない。しかし、これこそが自分達の形だ。
どうしてかそう感じながら、ユヴェンは巡る戦いに全力を賭していく。
成功
🔵🔵🔴
逢海・夾
見覚えのない、静かな場所だ
日が差し、鳥の声がある野原
…遠くに人の声。そのくらいか
これが、望んだ世界なら
奪われたものと関係がある、きっと
壊したいとは思わない
ここはあたたかい、平和で静かで、いつかの夢に似て
手を離せばもう届かない、そんな気がする
それでも、壊さなければいけない
敵を壊す、この世界を壊す
そのためにここにいる
オレは壊すことしかできない、そのためのものだから
ここで立ち止まれたなら、きっとここに来ることもなかった
…本当に、こんな所で生きられたならよかったのに
燃え広がる所を見たくはない
早くこの世界を壊して、出る
愛は心を埋め尽くすもの、と聞いた
なら、違うんだろう
恋だ、なんて簡単な答えなら良かったが
●Scherzo
楽園の舞台はひらかれ、周囲の景色が歪む。
そこは見覚えのない静かな場所だった。演者として吸血鬼に招かれた舞台の上、夾はゆっくりと辺りを見渡していく。
やわらかな陽が差し、穏やかな鳥の声が響く野原。
遠くから聞こえてくるのは人の声。何の変哲もない平和な世界だと感じた夾は周囲を軽く歩いてみる。
「平穏だな。そのくらいか」
記憶は未だ戻っておらず、夾の胸には何の感慨も湧かない。かつての思い出や経験を失った現状では、この場所の何が理想であるのか分からなかった。
「これが、望んだ世界なら……」
きっと奪われたものと関係があるのだろうと夾は思う。
しかし本当に穏やかな世界だ。これが舞台上であるとは思えないほどの――即ち、ずっとこの場に居たいと感じられる楽園めいた雰囲気がある。
壊したいとは思わない。
ここはあたたかくて静かで、いつかの夢に似ている。
(……いつか?)
ふと浮かんだ思いに夾は疑問を浮かべた。いつの間にか、夢の記憶すら曖昧になってきているようだ。
それゆえにだろうか。手を離せばもう届かない、そんな気もした。
「でも……そうなんだよな」
夾は溜息めいた呼吸を落とし、聞こえてくる人々の声に意識を向ける。
そちらへ向かっていけば全てから逃れられると感じた。何もかもを忘れて、しがらみなども捨て去ってしまえるのだと思えた。
それでも、と夾は掌を痛いほどに強く握り締める。
「オレは壊さなければいけないんだ」
確かめるように呟く。
敵を壊す。この世界を壊す。
それゆえにここにいるのだという思いは揺らがなかった。壊すことしかできない、そのためのものだから。
ここで立ち止まれたなら、きっとここに来ることもなかったのだろう。
「……本当に、こんな所で生きられたならよかったのに」
夾は自分の周囲に狐火を浮かばせながら幽かに呟いた。その言葉は誰にも聞かれることなく、舞台の最中に消えていく。
そして、炎が野原に広がっていった。
その光景を瞳に映すことなく夾は背を向ける。燃え広がる所を見たくはなかった。
早くこの世界を壊して、出る。
それだけを思った夾は炎を激しく燃え盛らせながら、瞼を閉じた。
楽園は崩壊し、幻想の舞台ごと願望は潰される。自らの手によって平穏と幸福を燃やし尽くした夾は目をひらき、享楽を作り出す吸血鬼を見据えた。
「愛は心を埋め尽くすもの、と聞いた」
それならば彼の吸血鬼が問い掛けた言葉の解は愛ではないのかもしれない。おそらくは違うんだろうと首を横に振った夾は凛とした眼差しを座長に向けた。
「……恋だ」
なんて、簡単な答えなら良かったのだが。
そんな風に肩を竦めて見せた夾の姿を、ノアはただじっと見つめていた。
楽園の舞台は消え去っている。その事実が示すのは、きっと――。
大成功
🔵🔵🔵
雲烟・叶
頭がいたい
ぼぅっとして、くらくらりと視界が揺れる
俺は、……おれ、は……?
じわりと周囲を穢す呪詛をそのままに立ち尽くす
おれは、どうして、こんなところにいるの……?
途方に暮れた幼子の声
己を忘れた幼子の心には、戦いも、猟兵の記憶も遠い
おじいさまもおばあさまもいない
ここがどこかもわからない
けれど、黒い男に問われた
花
……花?
ふと記憶の底から辛うじて掬い上げたのは、睡蓮
水入り水晶で出来た睡蓮の、きらりきらきら揺らめく輝き
あのこが染まらないよう、穢されないよう、そう、……そう願って
光のような、あの娘の、
染めては、いけない
呪詛が明確に動き始める
意志を、意思を、
忘れてもなお、変わらぬもの
…………おいで、お前たち
●Flebile
頭が軋むような感覚が巡る。
黒で埋め尽くされた庭園の最中、叶を襲うのは目眩と痛み。いつも傍にあったはずの煙が周囲にないというのに、視界が眩んで揺れる。
ぼぅっとして、自分が何であるかも思い出せなくて頭を押さえた。
「俺は、……おれ、は……?」
じわりと周囲を穢す呪詛を止めることもできず立ち尽くす叶。その耳に喝采が届き、更に視界が歪んでいった。
その音は欲望と願望を狂化して幸福な楽園を作り上げる力の先触れ。叶はそれに抗うこともかなわず、舞台の上に巻き込まれてゆく。
「おれは、どうして、こんなところにいるの……?」
途方に暮れた声が響く。
何もかも失った叶の心は幼子に戻っていた。
移り変わった世界。其処は嘗て自分を育ててくれた義祖父母と暮らしていた場所だった。しかしすぐに舞台は暗転した。一瞬だけ見えた安らぎの世界は瞬く間に消える。
次に映ったのは深くて昏い常闇の最中。
「まっくらで……こわい……」
彼の中ではもう戦いも猟兵の記憶も遠いものとなっている。
「おじいさま、おばあさま。だれもいない。ねえ、ここはどこ……?」
呼んでみても誰も答えてはくれない。しかし、たった独りでいるということは安心することでもあった。何故なら彼は己の身に宿る呪いの存在だけは確りと自覚していた。独りで暗いところに沈んでいるだけなら、誰にも呪詛を振り撒かないでいられる。
これは叶が無意識のうちに望んだ楽園。
孤独に震えながらも、孤独であることを願う舞台だ。
しかし、不意に叶の頭に黒い男から問われた言葉が浮かんだ。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
「花。……花?」
そのことについて考えた瞬間、叶の心の奥底で何かが光ったように思えた。淡く幽かなものではあったが、記憶の底から辛うじて掬い上げられた花があった。
それは睡蓮。
水入り水晶で出来た睡蓮の揺らめく輝き。きらり、きらきらと輝くあの光は強い願いが込められたものだ。
――あのこが染まらないよう、穢されないように。
「そう、……そう願って、光のような、あの娘の」
はっとした叶は裡から溢れてくる言葉を口に出していた。ぽつり、ぽつりと。しかし確かな言の葉として。
染めては、いけない。
はっきりとした思いが巡ったとき、呪詛が明確に動き始めた。
意志を、意思を。
忘れてもなお、変わらぬものが叶の中に蘇る。彼の心はもう幼子のままではない。己を失っても亡くし得ぬものが宿っている。
「…………おいで、お前たち」
叶は暗闇の中で管狐を呼んだ。満ちさせた煙から顕現した管狐が周囲の舞台を瞬く間に壊していく。爪と牙で、そして巻き付く呪炎で闇を照らしていった。
呪いの化身たる自分には幸福など程遠いのだろう。
この場所にいれば冷たい安らぎを手に入れることができる。しかし、己にとっての楽園は此処ではない。
叶は煙を纏い、壊されていく舞台を見つめた。
きっと、そう――今の自分が居るべき世界は闇の向こうにあるはずだ。
成功
🔵🔵🔴
飛白・刻
眼前に居るのは誰か
靡く銀糸はただ長く伸ばされた、とでもいうように
藍眼は何も映さぬかのよう虚ろのまま
云うなれば、人形に近い、もの
ねえ?わすれたの?あの悍ましい日々
女(ひと)の代替品として使われた年月
綺麗な着物の中は失敗の度に付けられた生々しい傷
見世物として成功した日だけ与えられる残飯を見苦しく食らう姿
ぜんぶ?
ずるい
わすれてにげるなんて
ねえ、この場所「あしろ」と代わってよ?
少女(ひと)を真似て嘲笑う
何の事だ、そんなもの何も知らない
なのにどうしてお前は同じ貌をしている
そこを退け
俺は進まねば
上手く手が動かせず
うるさい
しらない
しっている
幾度も掻き乱される頭で
僅かにあった感覚だけで
毒を放ち
お前は、
過去の、
●Pianissimo
眼前に居るのは誰か。
殺しあいで彩られる見世物劇場の上、刻は向かいあって立つ影を見つめた。
靡く銀糸に藍眼。
髪はただ長く伸ばされただけ。瞳は何も映さぬかのよう虚ろのままであり、云うなれば――そう、人形に近いもの。
刻はそれが己の分身なのだと思えないでいた。
何故ならば自分を失ってしまっているからだ。ただ、このグランギニョールの中では相手と殺しあわなければならないということだけを理解していた。
短刀を構えようとした刻は相手の瞳が僅かに細められたことを察する。そして、その影は不意に或ることを問い掛けてきた。
『ねえ? わすれたの?』
あの悍ましい日々を、と影は語る。
「……何を」
刻が頭を振ると、刻の姿をしたものは更に言葉を並べていく。
ひとの代替品として使われた年月。
女物の綺麗な着物と装飾で着飾られ、見目だけは麗しく彩られていた。しかし、着物の中は失敗の度に付けられた生々しい傷が刻まれていたことを。
見世物として成功した日だけ与えられる食事。取り繕うだけの着物を脱がされ、残飯を見苦しく食らう姿を。
『わすれたの。ぜんぶ?』
影は問う。対する刻は何度も首を横に振った。
わからない。覚えていない。思い出そうとしても何も浮かんでこない。
すると影は刻が持つ物と同じ短刀を握り、舞台を蹴った。瞬時に肉薄する動きは人形めいた姿からは想像できぬ程に疾く、刻の眼前まで相手が迫る。
『ずるい。わすれてにげるなんて』
「……!」
耳元で囁かれた言葉が、どうしてか深く胸を衝く。同時に振るわれた刃が刻の身体を斬り裂こうとしたが、自分も刃を振り上げることで受け止めた。
鋭い衝突音が響く。
其処に続いて影が再び囁いた。
『ねえ、この場所「あしろ」と代わってよ?』
少女を――ひとを真似て嘲笑う影の瞳には妖しい光が宿っている。されど刻はあしろという存在をよく思い出せないままだ。この戦場に響く人魚の歌が更なる記憶を奪い取っていったからだろう。
「何の事だ、そんなもの何も知らない」
『ほんとうにわすれたの?』
「なのに、どうしてお前は同じ貌をしている」
やっと絞り出した声と共に刻は刃を振り下ろす。影は一閃を受け止めはしたが、刻からの問い掛けには何も答えなかった。
「そこを退け」
『……嫌』
鋭く振るわれる刃の軌跡が舞台上で煌めき、幾重もの閃が疾走る。
俺は進まねばならない。ただ、そんな衝動が巡ったが上手く手が動かせない。影は刻を追い詰めるように刃を振るい続け、あの頃のように肌に傷を作った。
「うるさい、しらない」
――でも、しっている。
傷の痛みを。あの屈辱を。そして、あのひとを。
幾度も掻き乱される思考と感情。そして、刻は僅かにあった感覚だけで己の中に宿る毒を解き放った。
その瞬間、刻の影だったものが毒に貫かれて膝を折る。
『おもいだしたら、きっと――』
倒れ伏す直前、影は意味深なことを告げた。そうしてグランギニョールでの勝利を収めた刻は刃を仕舞い込む。
しかし裡に渦巻く感情は穏やかではなかった。
忘れていたことが徐々に蘇ってくる。忘歌ですら届かない部分にあった痛みが刻の中に巡り、震える声が落とされた。
「お前は、過去の、」
それ以上、刻は何も言うことが出来なかった。
消えていく分身の影を見送り、刻はたったひとりで舞台に立ち尽くしていた。
成功
🔵🔵🔴
蘭・八重
『わたし』が『わたくし』へ
あの子が全て持っていってくれたのね
あら?貴方が王子様なのかしら?
ねぇ、王子様
狂わしい舞台を魅せて
薔薇のムチで絡める
わたくしも得意なのよ
薔薇の棘のお味はどう?
貴方とわたくし似てるかしら?
水槽という鳥籠に閉じ込めた愛おしい子
逃げたら哀しいわ、苦しいわ
まるで愛の呪い
でもどんな子もいつか飛び立つわ
その姿はきっと美しい
見護ることも愛の一部
そっと紅薔薇のキスを
ごめんなさいねぇ
私は王子様に目覚めのキスする姫じゃないわ
わたくしは魔女、毒を呪いを与える魔女
ふふっ、貴方がもし答えを見つけたらお話してくれるかしら?
地獄の底でお茶でもしながら
さぁ王子様、貴方の呪いを解かすのは人魚姫だけよ
●Lentando
白き薔薇は漆黒に。
――『わたし』が『わたくし』へ。
あの子が全て持っていってくれたのね。そういって淡く微笑んだ八重は、黒薔薇の庭園で歌う人魚を瞳に映す。
そして、その黒い人魚の前に佇む男にも目を向けた。
「あら? 貴方が王子様なのかしら?」
ノアが人魚姫を守る存在のように感じられ、八重は問いかける。されど座長たる彼は何も答えずに周囲に広がった舞台に目を向けているだけだった。
彼の力によって様々な幸福な舞台やグランギニョールがひらかれている。
舞台の渦に巻き込まれぬよう距離を取りながら、八重はノアに問い掛けた。
「ねぇ、王子様。狂わしい舞台を魅せて」
「……お前からは何も感じられない」
ただ闇しか視えないと語ったノアは八重から視線を外す。同じ鞭を持つ者同士、八重は自分の薔薇の鞭で彼を絡め取ろうと狙った。
しかし、声は届いても両者の距離は遠いまま。これ以上近付けば、八重は彼女が望む楽園の舞台に囚われてノアと会話することができなくなるだろう。
「鞭はわたくしも得意なのよ。薔薇の棘を味わって頂けないのは残念だけど……」
その間にも黒の人魚は歌う。
ノアは彼女が響かせる歌が、最高の舞台である庭園に満ちる様を歓びとして受け取っているようだ。どうしてだか八重にはそう思えた。
「貴方とわたくしは似ているかしら?」
八重は語る。
水槽という鳥籠に閉じ込めた愛おしい子。その子が逃げたら哀しくて、苦しい。きっと取り戻したいと思うだろう。嘗ての栄華が胸に残り続けるならば特に。
まるでそれは愛の呪い。
愛を語った座長の言葉を思い返した八重は、緩やかに首を振る。
「でも、どんな子もいつか飛び立つわ」
その姿はきっと美しい。見護ることも愛の一部だと八重は心の底から想っている。
八重は微笑み、自分の掌に口付けを落とす。
そして、そっと紅薔薇のキスを彼に投げ掛けた。無論、それが受け取られることも意識されることもない。
尤もね、と口にした八重は双眸を細めた。
「ごめんなさいねぇ、私は王子様に目覚めのキスする姫じゃないわ」
――わたくしは魔女、毒を呪いを与える魔女。
ふふ、と笑む八重は願う。貴方がもし答えを見つけたらお話してくれるかしら、と。
対するノアは相変わらず何も答えなかった。
代わりに自ら八重に近付き、慾と願望を実現する幸福な楽園の舞台を魅せてゆく。
「煩い演者だ。お前も楽園に堕ちるといい」
そして、囚われて果てれば佳い。
そのように告げた座長と八重の視線が一瞬だけ交差する。それもいいわ、と微笑んだ八重は楽園に取り込まれていった。対抗策を用意していなかった彼女はきっと、そのまま楽園に囚われ続けてしまうだろう。
逃れられぬ舞台に沈む彼女は最後に一言、甘やかな言の葉を落とす。
「――さぁ王子様、貴方の呪いを解かすのは人魚姫だけよ」
苦戦
🔵🔴🔴
御園・ゆず
ローファーで踏み締め、舞台へ上がる
上がれば否応無く始まるのが劇
上がるからには演じるのが役者
台本から大事な記述が抜け落ちたままだけれど
ここに居るからには演じなくちゃ
小道具は、プッシュダガーひとつ
右手に握って開演です
飛んで、跳ねて、踊りましょう
グランギニョルですもの
失神したお客様が居ればご褒美です
死ぬ気で来るなら、こちらも相応に
血に濡れても、むしろこの方がしっくり来るな
戦う理由を忘れて
演じる理由も忘れてきたな
身体が動く限り演ずるだけだけど
胸に咲く花
それは未だ開かぬ蕾
どんな花かはまだ分かりません
幕間にお付き合い頂きありがとうございました
まもなく最終章です
どうぞお楽しみに
セーラー服の裾を摘んで一礼
●Lacher
少女は誘われた舞台に上がる。
ローファーで床を踏み締めれば、決意なんてものは予想よりも簡単に巡った。そうして、演者として己を魅せて戦うためにゆずは踏み出す。
上がれば否応無く始まるのが劇であり、上がるからには演じるのが役者。
それならば、存分に謳おう。
この声は詩を紡ぐことは出来ないけれど、違う音を響かせることは出来る。
自分という台本からは大事な記述が抜け落ちて、曖昧なままだけれど。
「ここに居るからには演じなくちゃ」
『そう、それだよ!』
『キミはこの舞台にふさわしい!』
ゆずが呟いた言葉を聞いた瑠璃の鳥達が嬉しそうに囀る。ぼくたちの仲間になってくれてもいいのだと語る鳥の声を聞き、ゆずは首を横に振った。
「ごめんなさい、それは出来ないみたいです」
何故なら、かれらはオブリビオン。
どれほどに主に忠誠を誓っていても、どんなに懸命な意志を持っていたとしても、いずれは世界を滅ぼす存在となるもの。
ずっとそのように教えられてきた。心の奥に眠る記憶がそう語っている。
ゆずが手にする小道具はプッシュダガーひとつ。
右手に握った刃の名。
それは――楽園へと至る道標。この一振りで最後まで演じきってみせると決め、マメルリハ達を静かに見つめた。
「さあ、開演です」
『それならぼくたちも!』
『キミとの舞台でおどって、うたうよ!』
戦うことこそがこの幕の見せ場。ゆずも鳥達もそのことを理解していた。
それゆえに両者とも容赦はしない。
飛んで、跳ねて。啄んで、囀って。躍る、踊る。
くるくると舞うように演じる残虐なる戦劇はまさにグランギニョル。
失神したお客様が居ればご褒美で、死ぬ気で来るなら此方も相応に迎え討つだけ。
振るったダガーが青い鳥の羽を切り裂く。幸せを散らしているようだとも感じたが、飛び散った鮮血がゆずの頬を濡らした。
むしろ、この方がしっくり来ると思えてしまう。
しかしその背後に響き渡る黒い人魚の歌は、ゆずがゆずである証左を少しずつ奪い取っていった。先程までは明確だった意志が削り取られているようだ。
先ず、戦う理由を忘れた。
演じる理由も思い出せなくなってきた。
何のために戦うのか。誰のためにこの舞台に上ったのだったか。何もわからない。本当に何も、己の手の中には残っていないのかもしれない。
それでも、身体が動く限り演ずるのみ。
ゆずは戦場を駆け、囀る青い鳥達も対抗していく。
『ぼくたちは負けない!』
『このまちに舞台をつくるんだ!』
『ノアさまがのぞむ、幸福な楽園を!』
るりり、りるるり、とマメルリハ達は歌っていった。その志を聞き、ゆずは一瞬だけ表情を崩した。切なさと痛みが入り交じったような顔をした少女は気を取り直す。手にした刃を握り直し、謳う鳥達を切り裂いていく。
ノアも鳥達も己の理想を追い求めているのだろう。
しかしゆず達とは相容れぬ道を進もうとしている。それゆえにお互いに力を振るうことで未来を勝ち取ろうとしているだけだ。
ノアは問い掛けていた。胸に咲く花は何か、と。
ゆずは彼の舞台を壊すかわりに、その問いに答えようと思った。
「それは――未だ開かぬ蕾です」
どんな花かはまだ分からない。記憶を取り戻したとしてもすぐには見つからないかもしれないと自分でも思っている。
されど今はこの言葉こそが、ゆずとしての答えだ。
やがて少女の手や制服、ローファーが血に染まりきった。赤い雫が舞台を濡らしている様を見下ろしながら、ゆずはダガーを仕舞い込む。
ゆずの周囲にいたマメルリハ達はすべて、その手によって葬られたのだ。
「幕間にお付き合い頂きありがとうございました」
答えは示し、倒すべきものと真正面から戦って勝利した。これでゆずの舞台は終わりであるはずだから、次はこう告げればいい。
「まもなく最終章です」
――どうぞ、お楽しみに。
血で汚れたセーラー服の裾を摘んで一礼したゆずは人魚達に目を向けた。
これは彼らの舞台だ。
後は終幕に続いていく劇を観るだけ。ひとりの猟兵として、観客として――。
大成功
🔵🔵🔵
水標・悠里
喝采と共に視界に飛び込んできたのは薄紅の花弁
墨染めの髪に桜の瞳
鏡写しの顔
貴方は誰、僕の知っている人なのですか
僕の知らない仇を見るような目でそこに居る
それが正しい
笑いかける事も優しく撫でてくれる事も
本当は必要なかった
これは唯の鬼退治
桜と藤の花を継いだ人に青瞳の鬼が討たれる物語
筋書き通りの運命に従えばいい
目を閉じて時を待つ
さあどうぞ、できればひと思いに斬ってください
知らなければ唯の他人としていられる
これで誰も死なずに済む
僕一人が違えた道を元通りにして壊れ逝く
桜を咲かす為水底に沈んでいく
ごめんなさい
ここで殺されたかった僕の我が儘のために切り捨てた誰かへ
願わくば誰かの望みと喜びを
成就できますよう
●Mancando
吸血鬼と人魚。そして青い鳥達。
人魚の歌声は舞台を彩り、演目は座長が取り仕切り、鳥達は幸福の色を示す。
この黒薔薇の庭園こそが享楽の舞台そのものだと感じていた悠里にも、願望と慾を呼び起こす喝采が届いた。
「この音は……この感覚は……?」
忘れたことで凪いだ心の叫びが一瞬だけ戻ってきた気がする。
揺らがされる心。歪んだ視界の先。其処へ不意に飛び込んできたのは薄紅の花弁。
そして、悠里は彼女の姿をその目に捉えた。
墨染めの髪に桜の瞳。
自分によく似た、寧ろ鏡写しとすら言える相貌をしたひと。
「貴方は誰、僕の知っている人なのですか」
普段の悠里なら彼女が誰であるかなどすぐに分かっただろう。胸を貫かれるような痛みと共に何らかの感情を覚えたに違いない。
しかし、今の悠里は忘却している。どうして彼女が仇を見るような目で自分を見つめているのかも分からない。
だが、そこに居る彼女の姿こそが正しいのだと感じていた。
笑いかけることも、優しく撫でてくれることも本当は必要なかったのだ。どうしてか理由は見つからないが、悠里はそのことを心で理解していた。
ならばやることは決まっている。
この舞台は唯の鬼退治に過ぎないものだ。鬼を――即ち悠里自身が屠られれば全てが終わり、楽園に導かれる。
これは桜と藤の花を継いだ人に、青瞳の鬼が討たれる物語。
それこそが悠里の望んだ世界だ。筋書き通りの運命に従えばいいだけのこと。
悠里は瞼を伏せる。
そして、その時を待つ。閉じた暗闇の向こうで彼女が動く気配がした。
「さあどうぞ、できればひと思いに斬ってください」
知らなければ唯の他人としていられる。彼女には思いも願いも重ねず、己が孤独に死を迎えるだけで終わる。
ああ、これで誰も死なずに済む。
自分一人が違えた道を元通りにして壊れて逝く。
桜を咲かせる為に水底に沈んでいく。これでいい。こんな運命がいい。狂化された願いが叶えられるこの舞台こそが幸福な楽園。
一瞬後。彼女は悠里の望み通りにその身体を深く斬り裂き、貫いた。
「ごめんなさい……」
血を吐き、その場に伏した悠里は気付けば謝罪の言葉を紡いでいた。
言葉を向けたのは、ここで殺されたかった自分の我が儘のために切り捨てた誰かへ。己だけが楽になってしまうことを詫びた悠里は微かに瞼をひらく。
其処には返り血を浴びながら、冷たい眼差しを向ける彼女の姿があった。
その瞳を見て悠里は再び安堵する。
そうして、意識が途切れる最後の最後に彼は願った。
――願わくは誰かの望みと喜びを、成就できますよう。
楽園の舞台上に倒れた少年の周囲には死霊の黒蝶が舞っていた。
暫し後。蝶達が一羽、また一羽と消えていき――やがて、全てが散った。
これが愛に殉じた者の結末だ。
座長は満足そうに笑み、静謐に閉じていく舞台を見守っていた。
苦戦
🔵🔴🔴
橙樹・千織
結局
わたしがなんなのか
どうして此処に来たのか
わからぬまま
周囲にはまだ残っている記憶の中で笑う人達の姿
彼らが私にとってどんな存在だったのか
笑う彼らの傍でどんな表情をしていたのか
何を想っていたのかもわからない
…けど
私の傍で彼らが笑っていた
きっと
それが此処に来た理由
そこを
退け
邪魔はさせない
櫻人を
白珠の人魚を
あの男と黒珠の人魚の元へ
もう
破魔も戦場の知識もわからない
まだ
舞うことができる
唄うこともできる
ならばわたしは舞い、唄う
舞えば刃がなぎ払い
響く歌は小鳥を縛る
少しずつ溶け落ち
失われていく私の記憶
されどわたしは舞い、唄う
人魚達には遠く及ばずとも
この歌が
誰かの為になるのなら
糸桜の帳の奥
一輪の虞美人草が揺れた
●Bereits
黒薔薇の庭園に辿り着いても千織の心は晴れない。
結局は自分が何であるのか。どうして此処に来たのかがわからない。そんな状態のまま、千織はノアが演出する舞台の上に立たされていた。
まだ僅かに残っている記憶の中、脳裏には其処で笑う人達の姿が過ぎる。
しかし今の千織には彼らが自分にとってどんな存在だったのかも分からない。微笑んでいる彼らの傍で、自分はどんな表情をしていたのだろう。
何を想っていたのかもわからず、千織は戸惑いを隠せずにいた。
するとマメルリハ達が囀りはじめる。
『忘れたままでいいよ』
『そうしたら、あたらしいキミになれる』
「違う……」
千織は鳥達に対し、そんなことは求めていないと首を振った。傍で笑ってくれている彼らを思い返すと心が安らぐ気がする。
それならばおそらく彼らは千織にとっての大切な存在なのだろう。
きっと、それが此処に来た理由。
確証は持てずともそう思えた。だから今はこの心に従うだけ。
「そこを退け」
マメルリハ達に強く言い放った千織は藍焔華を振り上げた。忘却を齎す歌にも、襲い来る鳥達にも負けはしない。
邪魔はさせない、と口にした千織は剣舞を重ねる。
――内なるものを刺し留めるは柘榴の荊。汝を縛りて断ち切らん。
其処から解き放たれた目に見えぬ飛電は内部で荊を伸ばし、阻み、あらゆる行動を阻む枷となっていった。
櫻人を、白珠の人魚を。
あの男と黒珠の人魚の元へ。
もう破魔も戦場の知識もわからないが、強い思いだけが千織を動かしている。
「……まだ」
舞うことができる。
唄うこともできる。
千織は自分を確かめる。それならば――わたしは舞い、唄うだけ。
彼女が舞えば刃によって小鳥が薙ぎ払われ、響く歌はかれらを鋭く縛る。
歌われ続ける黒い人魚の歌は千織の裡に作用していく。
少しずつ溶け落ち、記憶が失われていっても千織は止まらなかった。ただひたすらに舞い、唄う。同じことを繰り返し強く念じ、千織は戦い続ける。
己の力が人魚達には遠く及ばずとも構わない。
――この歌が、誰かの為になるのなら。
そう願い、祈るように力を奮い続ける千織の胸裏には美しく咲き誇る花があった。
糸桜の帳の奥。その中で、一輪の虞美人草が揺れた。
成功
🔵🔵🔴
鶴澤・白雪
ノア、貴方と会うのはこれで2度目
満ちぬ胸の内に咲く花
答えてあげる、あたしの花は焔華
少し前なら妹と同じ名の菖蒲と答えた
でもそれは過去の花だ
あたしを庇った妹の愛は確かにあたしを追い詰めた
自らを殺して世界を壊したいと憎むほどに
幸福な楽園が
あたしのいない妹が生きる世界になっているのがその証拠
でも思い出したの
自由に生きるあたしが好きだと微笑んだあの子を
あたしは贖罪ではなく未来のために生きたい
例え徒花に焔を纏う事でしか咲けなくても自分のために咲く
今はこんな形でしか咲けない
心から望めない
けどいつか未来に続く花を見つけるわ
徒花から転じたあたしの焔華
舞台を緋色で染め壊せ
あたしらしく生きるためにこの世界を否定する
●Licenza
「ノア、貴方と会うのはこれで二度目ね」
思い返すのは以前に立った、愛を砕くグランギニョールの舞台のこと。
鶴澤・白雪(棘晶インフェルノ・f09233)はそういってノアに呼び掛けてみたが、相手から明確な反応は返ってこなかった。
その理由は彼が或る意味で、以前とは別の存在であるからだ。
骸の海から過去として染み出したオブリビオンである以上、砕愛の舞台を催した彼そのものではない。だが、ノアが裡に抱える本質は同じであると白雪は悟っていた。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
以前にも彼から同じ問い掛けを聞き、答えたからだ。
そして、白雪の身は座長が招いた楽園の舞台に巻き込まれていく。
「答えてあげる、あたしの花は焔華」
白雪は周囲の景色が塗り替えられていく最中にノアへの問いに答えた。
少し前なら妹と同じ名――菖蒲だと告げただろう。しかし、今の白雪はそれが過去の花でしかないと理解している。
自分を庇った妹の愛は確かに白雪を追い詰めていた。
自らを殺し、世界を壊したいと憎むほどに心を蝕んでいった。愛とは時に呪いになるものだ。優しさは苦しみに転じ、逃れられないものになる。
そのことを白雪は識った。
何故なら――。
この幸福な楽園が、白雪のいない妹が生きる世界になっているのがその証拠だ。
なんて幸せな光景なのだろう。
菖蒲が微笑み、何の憂いもない生活を送る場所。妹が自分のことを忘れてしまえばいいと思っていた。寧ろ元からなかったものとして白雪が存在しなければいい、と。
楽園の光景を見つめた白雪は首を振った。
「思い出したの」
いつか話してくれた言葉を。それはね、と口にした白雪は双眸を細める。
「あの子が……自由に生きるあたしが好きだと微笑んだことを」
贖罪ではなく未来のために生きたいと感じた。
たとえ徒花に焔を纏うことでしか咲けなくても、自分のために咲く。
自由とは即ちそういうことだ。命を賭してまで守ってくれた妹のために生きるのならば、悩まずに自分らしく進むだけでいい。
だが、人魚の忘歌によって白雪から記憶が零れ落ちていく。
「……あの子?」
それは誰だっただろう。この楽園で笑っている少女だろうか。
名前が思い出せない。どんな関係だったのかも曖昧になる。答えを出した直後、急速に記憶が失われていったのは何とも皮肉だ。
この街に来て人魚の歌を聞けば、大事なものが失われると知っていたのに――。
大切だったはずだ。
忘れてしまったという事実だけが胸を衝く。
「構わないわ。あの子を思い出せなくたって思いは残っているもの」
奪われたのならば取り返せばいい。
それにどうあっても今はこんな形でしか咲けない。心から望めない。
けれど、いつか未来に続く花を見つける。
だからこそ今はこの歪んだ世界を映す舞台を壊してしまおう。楽園で微笑むあの子は偽りで、本当の世界はこの先に広がっているはずだ。
銃剣を構えた白雪は深紅の華を散らし、穏やかな光景を破壊の彩で覆っていく。
「これは徒花から転じたあたしの焔華よ」
舞台を緋色で染め壊せ。
鋭く響いた声と共に赤く輝く刃が更なる花となって楽園を包み込んだ。誇り高く咲くアマリリスは、白雪が裡に抱く色を広げていく。
徒花でも毒花でも咲いたならば誇れば佳いと感じながら、白雪は凛と宣言する。
「あたしは、あたしらしく生きるためにこの世界を否定するわ」
楽園は要らない。
そして――彼女のためであり、自分のためではなかった舞台は崩れ去った。
成功
🔵🔵🔴
フレズローゼ・クォレクロニカ
💎🐰
黒い人魚……どこと無く、リルくんに似てる
もしかして、家族なのかな
なら尚更
その歌でリルくんを傷つけるなんてダメなんだ
リルくんはボクの大事な友だち
リルくんは大好きな人と幸せになるんだから!
絵を描くことを忘れてしまったから何もかけない…でも
兎乃くんの言葉に勇気を貰って奮い立つ
できることがある!
かけなくても
希望は絶対捨てないよ!
ボクは忘れない
パパとママのこと絶対に!
だって大好きだもん!
元々覚えてなくったって
好きって気持ちはなくならない
ママ達のところに帰るんだ
大好きって気持ちさ!
いつだって胸の中に咲いている花
これがボクの答え!
「ハートの断罪」
大鎌振りかざし鳥を狩り、爆発の全力魔法と共に切り裂くよ
兎乃・零時
💎🐰
フレズローゼとは偶然遭遇
あれが忘歌を歌う人魚か…なんか似てる気も…する?
絵を…俺様の夢を奪う様に
他の奴らからも…!
…あぁ、希望を捨てず進みつづけりゃ
想いは必ず叶うんだ!
俺様のも友達のも全部!
これ以上奪わせねぇし忘れない!
問の解は
満ちぬ胸の内だろうと
『願い』は消えずに絶えず咲き続ける!
それが『俺様』の答えだ!
やろうフレズローゼ
この場の絶望を
俺たちの手で
塗り潰す!!
「極光の古文書」を魔法陣に使い
可能な限り光魔術【多重詠唱】
閃光【目潰し】
光の屈折で敵に【残像】見せ
光魔力使い味方や自分に【オーラ防御】
攻撃
敵を【串刺し】様に
極大光線を【限界突破・魔力溜め・全力魔法】で敵へ、可能なら座長にも放つ!
●Marcato
桃に紅、青と黒。そして、白蝶区。
これまで街の区域に名付けられた色の名前を辿ってきた。街の様相を見て絵にしようと思って、たくさんの場所を巡ったのに色を忘れてしまった。
絵を描くことを、失った。
「……本当に取り返せるのかな」
領主の館の前、フレズローゼは不安を覚えていた。いざ庭園に乗り込もうとして足が止まってしまう。彩を失った自分では何の役に立たないかもしれない。
きゅう、と胸が痛む。
ママに逢うための力が自分に無いと思うと、どうしても踏み出せなかった。本当は一番乗りで友達を助けたかったのに、と少女は目を伏せる。
黒の人魚がいる庭園に入れば、また忘歌を聞いてしまう。そうしたら今度は絵の描き方だけではなくて、大切なひと達のことも忘れてしまって――。
そんな想像が巡り、フレズローゼは身体を震わせた。しかし、そのとき。
「フレズローゼ!」
「兎乃くん?」
背後から零時の声が聞こえ、フレズローゼは驚いて軽く飛び上がった。どうしたんだ、と問い掛けてくれた彼に対して、少女は筆を執れなくなったのだと話した。
「それでこんな隅っこに隠れてたのか……!」
「ボク、怖いんだ。リルくんや兎乃くん、櫻宵達を忘れちゃったらって思うと……」
それから、ママ達のことも。
恐怖を胸に抱いたフレズローゼは俯く。すると零時は首を横に振った。
「それなら余計に行かないといけないだろ! このままじゃ友達も助けられなくて、描くことだって思い出せないままだ!」
「そう、だね……」
「怖いなら俺様が一緒にいて支える! なんと俺様は何も忘れてねぇ! だから一緒に行こうぜ、フレズローゼ!」
「兎乃くん……! うん!」
頼もしい零時の言葉に対し、苺月の瞳を見開いたフレズローゼは大きく頷く。
ひとりじゃない。たとえ忘れたって彼が覚えていてくれる。そう思うと勇気が湧いてきた。これまで不安がっていた自分が嘘のようだ。
「行くぜ!」
「行こう!」
そして、少年と少女は駆け出した。目指すのは舞台が巡る庭園の最中。
其処に何が待っていようとも、必ず自分達が勝つのだと信じて――。
忘歌が響く庭園の舞台。
フレズローゼと零時は座長の指示で再び歌いはじめた人魚を見つめた。
「黒い人魚……どことなく、リルくんに似てる」
「あれが忘歌を歌う人魚か。なんか似てる気も……する?」
「もしかして、家族なのかな。あの人がリルくんのママ……?」
もしそうならば尚更、止めなくてはならないと感じた。あの歌でリルを傷つけたり、記憶を奪うなんてことはさせてはいけない。
フレズローゼが意気込む隣で零時も拳を握った。
「絵や俺様の夢を奪うように他の奴らからも記憶を……許せねぇ!」
「リルくんはボクの大事な友だち。リルくんは大好きな人と幸せになるんだから!」
ふたりが強い眼差しを向けた直後、その様子に気付いたマメルリハ達が周りを取り囲んだ。囀る鳥達はフレズローゼ達をじっと見つめる。
『人魚さまのじゃまをするの?』
『座長の舞台をこわすの?』
それならゆるさないよ、と告げた瑠璃の鳥達はフレズローゼと零時に飛び掛かってきた。彼らはただ舞台を止めさせたくないだけのようだ。
だが、かれらは此方が友達を助けたい思いと相反する行動理念を持っている。
来るぜ、と告げた零時。その声に頷いたフレズローゼは薔薇の大鎌を構えた。そして、零時は極光の古文書を広げ、魔法陣を展開していく。
「いいか、希望を捨てず進みつづけりゃ想いは必ず叶うんだ!!」
「絵が描けなくたって、できることがある!」
彼が描いた陣から光の魔力が溢れ、近付いてきたマメルリハが穿たれた。フレズローゼはその言葉に勇気を貰えた気がして、思いきり駆ける。
記憶を失わせる人魚の歌は響き続けていた。
しかし、抵抗することは可能なはずだ。一緒に戦っている零時がその事実をしっかりと示してくれている。
フレズローゼは時すらも断つ一閃で鳥を斬り裂いた。
相手は真剣だからこそ自分達も手加減などしない。そうすることこそが青い鳥に応じる礼儀であると思えた。
「希望は捨てないよ! ボクは忘れない。みんなも、パパとママのことも絶対に!」
「ああ! 俺様のも友達のも全部! これ以上奪わせねぇし忘れない!」
「だって大好きだもん!」
覚えていなくても、好きという気持ちはなくならないはず。
全て爆砕して取り戻すとフレズローゼは誓った。リルと櫻宵を助けて、ママ達のところに帰るのだと強く、強く思う。
そして、鋭い閃光を瞬かせた零時は次々とマメルリハを地に落とした。フレズローゼも刃を振るい続けることで戦っていく。
周囲の鳥達が少なくなってきた頃、ふたりはノアの姿を見据えた。
「座長! お前からの問の解を示してやる!」
「……何だ?」
力強く言い放った零時。その声に振り向いたノアはふたりを見遣った。薄く口許を緩めた彼は言ってみると佳いと示す。
「満ちぬ胸の内だろうと、『願い』は消えずに絶えず咲き続ける!」
「いつだって胸に咲いている花は、忘れても消えない『大好き』って気持ちさ!」
零時の声に続き、フレズローゼも凛と伝える。
次の瞬間、ふたりは声を揃えて告げた。
「それが俺様の答えだ!」
「これがボクの答え!」
全身全霊で自分なりの答えを告げた少年と少女を見遣り、ノアは緩く頷く。そうして数度、軽い拍手を送った。
「そうか。実に若々しい。しかし、それゆえの苦さも孕んでいる」
その拍手は称賛としての意味だけではないのだと何となく分かってしまう。しかし子供だからと侮られているわけでもないだろう。
少女達が自分の答えを出した先で、ノアは彼なりの評価を下したのだ。そしてノアは人魚の傍にいたマメルリハ達を呼び、戦うことを命じた。
「子供達の相手をしてやれ」
『わかったよ、座長!』
『これがぼくたちの最期のやくめだ』
『座長がみとめたこどもたちと歌って、舞台をかざろう!』
嬉々とした様子でマメルリハ達は羽撃き、フレズローゼ達に突撃してくる。かれらはきっと座長の命に従うことが何よりも嬉しいのだ。
たとえ戦って死すことになっても、それこそが本望だと本気で思っている。健気な姿勢に胸が痛くなったが、フレズローゼはぎゅっと金翼の大鎌を握って耐えた。
「あの子達も真剣なんだね」
「やろう、フレズローゼ!」
零時の呼び掛けた言葉の続きを悟り、フレズローゼは明るく笑む。
「さぁボク達の!」
「俺たちの手で!」
この場の絶望と哀しみと、悲劇が巡る舞台を。
「「塗り潰す!!」」
ふたりの声が重なり、光の魔力と薔薇の一閃が戦場に疾走る。断罪の爆発と多重詠唱による幾重もの光の軌跡が舞い、舞台を彩った。
そして、少女と少年は強い願いと希望を胸に抱き、忘却に抗う。
――全世界最強の魔術師になって、皆を救えるように!
――今日も明日も明後日も、沢山の愛を絵描けますように!
そうして、ふたりの友情に満ちた鮮烈なる舞台は次の幕へと繋がっていく。
成功
🔵🔵🔵🔵🔴🔴
ロキ・バロックヒート
笑っちゃうぐらい絵に描いたような楽園
小さな子供達が口々に
ねぇ世界は救われたんだって
哀しみはなくなったんだって
じゃあ×さまにならなくていいんだ
世界を壊さなくていいんだ
苦しみも哀しみもない
そんな世界だったらどれほど―
龍に殺される約束をした小指がつきりと痛む
ほらこえが聞こえる
悲哀はこの楽園にも響く
私はいつの間にかひとりだけ
終わりも楽園も私がつくる
こえに命じられるまでもない
世界を黒槍が壊す
問いには―
ふふ、答えてあげない
きっと私にはもうないものだから
ねぇ、この舞台にも神の祝福は要るよね
苦しみと哀しみに満ちた世界だけれど
君たちと人魚の再会を
あの子たちのこれからを祈るぐらいは
何者でもない今の私ならゆるされる
●Mottegiando
――ねぇ、世界は救われたんだって。
歓喜に満ちたこえが聞こえ、ロキは閉じていた瞼をひらいた。
首輪が重い。
そんなことを考えながら、自分がこの場所にいる理由を思い返す。
光が満ちて、平穏な空気が流れる此処は楽園のような場所。そうだ、確か喝采を聞いて、舞台の上に立たされているのだ。
遠くから響いた忘歌はそんな経緯まで忘れさせてきたのか。自然に口許が緩み、自嘲めいた笑みが浮かんだ。
ロキが立つ舞台は、こうして笑ってしまうくらいに絵に描いたような楽園だ。
最初に聞こえたこえは子供のものだった。
小さな子供達は口々に言う。
――哀しみはなくなったんだって。
――じゃあ、×さまにならなくていいんだ。
「……世界を壊さなくていいんだ」
最後の言葉はロキ自身がいつの間にか呟いていた言葉だった。
この幸福の楽園には本来ならばあるべきものがない。苦しみや哀しみ、憎悪や嫉妬の負の感情はおろか憐憫すらもなかった。
だからこそ不自然に感じてしまい、ありえない世界だと笑ってしまうのだろう。
「そんな世界だったらどれほど――」
これは今のロキの願望であり、慾の果てを顕現した舞台だ。望んだものが此処にあるのだと思うと、このまま身を委ねてしまっていいかとも思えた。
この楽園は自我と肉体の崩壊させる。
けれども、幸福の中で壊れていくのも悪くはない。神としての記憶を失った、ただのひとであるロキは肩の力を抜いた。
子供達の声が聞こえる。もう哀しくないよ。もう辛くはないよ、と。
「これでいい。この場所こそ
……、……っ」
しかしこの楽園を認めようとしたとき、小指がつきりと痛んだ。龍に殺される約束をした証がロキの意識を引き戻したのだ。
その途端、こえが聞こえはじめる。穏やかな子供のものではない、それは――。
滅びを求めるこえ。だれかが嘆くこえだ。
壊せ、滅ぼせ、と悲哀と絶望に満ちたこえが囁き、叫ぶ。
そのこえは楽園にも響く。いつしか子供達もいなくなり、ロキはたったひとりで舞台の上に立ち尽くしていた。
「――そうだ」
ぽつりと落としたロキの言葉には先程までの穏やかさは宿っていなかった。
終わりも楽園も、己がつくるものだと思い出す。
聞こえるこえに命じられるまでもなく自分が行うことだ。気付いたときにはもう、ロキは破壊の意志を楽園に向けていた。
影から顕現した歪な黒槍が平穏な世界を貫く。
幾重にも広がる影の槍は一片の容赦もなく、理想の楽園を突き崩していった。瞬く間に崩壊した景色を見つめたロキは、舞台を見ていたノアの気配に気付く。
満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
座長である彼はその問の答えを求めているのだったか。
「……花、ね」
少しばかり考えを巡らせたロキはノアを見つめた。静かな眼差しが交錯する。
そうして、ロキは口許に人差し指を当てながら悪戯っぽく哂った。
「ふふ、答えてあげない」
きっと私にはもうないものだから。
続く思いは胸に秘めたまま、ロキは楽園の舞台から下りる。
「……そうか」
座長はそれならばいいというようにロキから視線を外す。同じくして興味も失ったらしく、再び舞台が展開されることもなかった。
その最中、ほんの少しではあるが自分という存在を形作るものが見えてきた。
戦う者達を見遣ったロキは誰にともなく呼びかける。
「ねぇ、この舞台にも神の祝福は要るよね」
垣間見た楽園には程遠い、苦しみと哀しみに満ちた世界だけれど。希う思いがないわけではなくて、希望だって少しは存在していると識っているから。
願うのは、君たちと人魚の再会。
あの子たちのこれからを祈るぐらいは、きっとゆるされるはず。何者でもない今の私だからこそ言えることだってあるのだと思えた。
そして、小指の約束のお陰で自分を取り戻しつつあるロキは舞台に視線を向ける。
「さぁ、見守ろうか。この劇が終幕に到るまで――」
まさにそれは神の視点。
終わりゆく戦いを見つめるロキの瞳には櫻の彩と人魚の影が映っていた。
成功
🔵🔵🔴
誘名・櫻宵
🌸櫻沫
喝采に湧く慾
人魚を喰らう幸福を―暁華
暁が慾を桜に変え燃やす
愛の舞台を演じ惑う貴方
最高の愛の舞台を魅せる
黒の人魚を奴隷にしてるのは
愛捕える術を知らぬ故
リルの事も大切な癖に
愛を試して確かめ貴方が知りたかった事
当に気付いてる癖に
忘れぬ想い消えぬ愛があり
守る為の戀がある
歌って
私の歌姫!
貴方の胸の内に咲いた花
それは
愛(こい
あいして、あいしているわ―
情熱的な愛の唄
手を伸ばせば
すぐそこにあったのに
受け入れるのが怖いの?
息子さんは私が頂くわ
お義父上
リルへの攻撃は全て私が防ぐ
桜花弁なぎ払い
道を創る
リル!
行きなさい
常夜に黎明を
花を咲かせ
歌を届けに!
愛をあなたへ
あなたの全て
愛しいひとに届けて
残酷劇を運命劇に
●Liebeslied
「さあ、今宵の演目は……歌え、エスメラルダよ!」
座長の声と共に残虐な舞台に導く喝采。
其処から湧く慾と望みは櫻宵とリルをも巻き込み、享楽の世界へと誘っていく。
櫻宵の目の前に広がっていたのは何度も想像した世界。
「ええ、そうね。確かに楽園だわ」
櫻宵は冷静にその光景を受け止め、間違いはないと認めた。
それは暁の鬼を喰らったように白の人魚を喰らい、すべてを己のものとする幸福だ。されど櫻宵はこの舞台に立ち続ける気はなかった。
破魔の暁を纏った櫻宵の枝角が水晶めいたものへと変わっていく。
この楽園にいれば人魚を餐える。
しかし、その幻想は暁の華によって散らされて消されていった。暁は慾を桜に変え、周囲の景色ごと世界を燃やし尽くす。
与えられた舞台から脱した櫻宵がリルの元へと向かおうとした、そのとき。
『桜の龍め!!』
『おまえ、リル・ルリをなにをしようとしたの!!』
たった二羽だけ生き残っていたまめるりが櫻宵に突撃してきた。おそらくは櫻宵が見た楽園の舞台の内容から、リルの危険を感じ取ったのだろう。
櫻宵の中にある暁の力など、かれらは知らない。それゆえにりるるり達はリルから櫻宵を遠ざけるべきだと判断したらしい。
全力で向かってきた瑠璃の鳥は全力で櫻宵にぶつかり、その身を弾き飛ばす。
それによって櫻宵とリルの戦場が分かたれてしまった。
「リル……!」
急いで彼の元に駆け戻ろうとした櫻宵だが、瑠璃の鳥達が行く手を阻む。
『おまえがいるから!』
『リル・ルリはノアさまのところにもどってこないんだ!』
「そうかもしれないわね。でも、リルの意志も忘れないであげて」
まめるり達の声を聞き、櫻宵は頷く。リルはひとりでも立ち向かえる強さを持っていると判断した櫻宵は、最後に残ったかれらとの決着をつけようと決めた。
かれらも愛の舞台を演じるもの。
きっと座長もりるるりを見守っている。ならば、かれらと戦いの演舞を踊ることで最高の愛の舞台を魅せよう。
そう決意したとき、遠く離れたリルの元から泡沫の守りが齎された。
聴こえるのは人魚の歌声だけ。
しかし、この守護の力が離れていても傍にいると伝えてくれている。屠桜を構えた櫻宵は人魚の護りに身を委ね、瑠璃の鳥を瞳に捉えた。
「あなた達にも譲れないものがあるのね」
『ぼくたちは、ううん……ノアさまはリル・ルリをもとめてるんだ』
『それなのに、それなのに! どうして!』
小鳥達は泣きそうな声で叫んだ。リルさえいれば享楽の匣舟は完全に完成する。ノアはリルが好きだと話した舞台を用意して待っていた、とかれらは語った。
りるるりは櫻宵に襲いかかる。
しかし、リルの為だというのならば櫻宵とて加減はしていられなかった。鳥達もまた、愛に殉じる舞台の演者なのだろう。
いとおしいものの為に戦うなら、此方も一切の容赦なく斬るだけ。
「噫、そうね。私もリルを求めているわ」
だからこれは奪いあい。
けれども、櫻宵が出来るのは傍に寄り添うことだけ。リルの意志を尊重することが大前提だ。倒すことを謝りはしない。そう告げて刃を振るった櫻宵は、りるるり達を一刀のもとに斬り伏せた。
『ああ、あ……ノアさま……』
『ぼくたち、りるるりは……』
――あなたの舞台をちゃんと飾れていたかな。
そんな言葉を遺して、最後のマメルリハ達は倒れていった。おやすみなさい、と告げた櫻宵の背と角から桜の花が散っていく。
『このお花は……? そうだ、ノアさまが言っていた、さくら……』
『わあ……きれい、だな……』
やがて、りるるりという名を与えられたもの達は消滅していった。最期にこの花を見せることが出来て良かったのかもしれない。
櫻宵は龍瞳を向け、かれらを瞳に映すことで己の桜として受け入れた。
そうして思う。
未だこの舞台での自分の役割は終わっていないのだ、と――。
これは暁と櫻の龍が齎した、青い鳥達の舞台の終幕。
もうひとつの運命劇はいま此処から、本当の終演に向かって巡っていく。
大成功
🔵🔵🔵
●Interlude
舞台の上で白と黒の人魚は歌い続けていた。
重なりあった声は黒薔薇の庭園に響き渡り、戦う者達の耳に届いている。
戦場には様々な物語があった。
舞台に囚われた者。崩壊の楽園に抗い続ける者。
矜持を持って鳥達と戦う者もいれば、演者としてではなく観客として見守ることを決めた者もいた。
そして、或るときから舞台の様子が変わっていた。
――満ちぬ胸の内に咲く花は何か。
演者達がそれぞれに答えた言葉の中にノアを揺らがせたものがあった。彼はその言葉を聞いた時に何の反応も見せなかったが、確かに変化したことがある。
何度も繰り返されていた楽園の舞台が再生されなくなった。
それによって、楽園に囚われていた者達は次々と解放されることとなる。
ノアは押し隠しているようだが、答えは既に見つかってしまっている。それゆえに舞台は機能しなくなりはじめたのだ。
ラビは兎耳を立て、白の人魚の声に耳を澄ませる。
物語を導く役目は終わった。それならばこの刃を収めるときだと思った。
ルーチェは終わりを迎えた自分の舞台に別れを告げた。もうすぐ、たからものが取り返せるのだと感じると同時に歌う人魚に思いを馳せる。
巴はもう一度、天に向けて銃弾を撃ち放った。その音が手向けとなり、続く舞台の景気付けにもなると思ったから。
ヴォルフガングは近くで倒れていたヘルガの元に駆け寄って抱き上げる。覚えておらずとも、彼女が大切な人であることは一目で分かった。
桜雪は図書館の世界から脱し、行く末を見守ろうと決める。失ったものはきっとすぐに戻ってくると信じていた。
カビパンは幽かな声を聞いて顔をあげた。
それが女神の声であると感じたのは、白の人魚が忘却の力を和らげたからだ。
アウレリアは思い出した歌を大切に自分の胸の裡に仕舞い込んだ。決して忘れぬよう、胸に咲く花に誓う。
英と七結は己の影に何度も打ち克っていた。
隣同士、並び立ったふたりは人魚と櫻の織り成す舞台を見守る。そうすることが自分達の役目だと識っていた。
倒れた黒羽は聞こえた癒しの歌によって意識を取り戻していた。
分身の影はいつの間にか消えていた。敗北という傷を負っても、未だ生きていることを確かめた彼は深く息を吸う。
リオネルは自分の舞台が消えたことを察し、吸血鬼を見つめていた。
ノアが返した言葉が気にかかっていた。もしかすれば、あの答えの半分が正解だったのかもしれないと思えるほどに彼の声が揺れていたからだ。
華乃音と祈里もまた、ノア達の姿を瞳に映していた。
自分達の舞台は終わりを迎え、すべきことは終えたと感じられる。だから次の戦いは舞台に立ち続けている者に託すべきだ。そう思えた。
リオンは剣を下ろし、続く舞台の行く末を見守ることに決める。
そして、フリルはいつの間にか消えていた理想の世界を名残惜しく思った。しかし傍にはアヒルさんがいて、何故だか安心してしまう。
サフィリアはドラゴンランスを握り、大きく首を振った。本当に自分は竜になるのだろうか。膨らんだ疑問の中で、少しずつ真実を思い出しはじめている。
セフィリカは魔剣シェルファと共に舞台を見据えていた。今、誰かのための力は振るい終えた。ならば後は見届けるだけだ。
レザリアもまた、死霊達と共に舞台から降りていた。後はゆっくりと思い出していくだけなのだと感じながら。
ジェイは拷問具を仕舞い込み、人魚の歌を聞いていた。忘歌の力は弱まっており、白い人魚の歌がすべてを思い出させてくれるような気がしている。
門の外のクロウもまた、歌に耳を澄ませていた。
フラムとメアリーはじっと、未だ続いている人魚達の舞台を見上げている。あの結末はどのように転ぶのか。それが今の自分が見つめるべきことだと思えたからだ。
ノイはメモリーの修復をしていた。
壊れかけても、壊れることは出来ない。忘れかけていた記録が徐々に取り戻されていくことを感じたノイは人形を抱き締める。
いろはもそっと、ひとつの楽器として歌を紡ぎ続けていた。
ささやかでもいい。
誰かの支えとなっていきますように――。
そう思うのは瑠碧も同じであり、ひとときも休まずに浄化の歌をうたっていた。
ユェーはアイするモノを懐い、護りたいと願った心を思い返す。
ルーシーは自分の中に咲く花を認め、自分としての在り方を胸の中に沈めた。享楽の刻が終わるときも近いのだと悟りながら。
横たわる晴久を抱いたリーヴァルディは、彼の身体に徐々に熱が戻ってきたことを確かめる。舞台は消え、死は免れたのだと知った彼女は更に強く彼を抱き締めた。
舞と咲夜は変わらず手を握りあっている。
交わす視線は真剣だ。ふたりで歩いてきた道もきっと無駄ではないのだと感じながら、咲夜達は舞台を見つめ続ける。
終夜は俯き、それでもしっかりと舞台で奏でられる歌を聞いていた。
夜明色の待雪草が己の胸にかすかに咲いている。それだけは間違いないのだと思い、そっと胸元に手を当てた。
千鶴は、自分に割り当てられていた舞台が消えたことで瞳を伏せる。
うたが、きこえた。
それが子守唄ではなかったことに一度は肩を落としたが、やさしい歌の響きを聞いていると何かを思い出せそうな気がした。
ユヴェンは竜槍を握る。其処から声が聞こえてきたように思い、はっとする。大切なものはすぐ傍にある。それが今、分かった。
夾は自分の言葉と共に舞台が静まったことに気が付いていた。
きっと、答えは――。
分かってはいたが、夾自身は敢えて何も言わないままノアに目を向ける。
叶は暗闇の舞台から抜け出し、煙管から吐いた煙を身に纏った。その行為が示すのは、呪を抑える術を取り戻したということだ。
刻は垣間見えた過去の残滓を思っていた。しかし、舞台が終わりに近付いてと気付いて顔をあげる。いま観るべきはきっと、過去より未来だ。
八重も囚われた楽園から逃れ、ノアと人魚を見つめているようだ。
ゆずは観客として行儀よくその時を待っている。拭った血もまた、この舞台を彩ったひとつになったのだろうか、と考えて――。
倒れた悠里の傍にいるのは千織だ。自ら斬られることを選んだ彼の身体は酷く傷ついていたが、死なせはしないと千織が懸命に介抱している。
白雪も悠里達の傍に立ち、何があってもいいように身構えていた。
零時は強く願う。誰もこれ以上の記憶を失わないように。そして、最善の未来を手繰り寄せられるように、と。
フレズローゼは大切な人達を想った。
全てを取り戻したら絵を描こう。愛の舞台で感じた今日という日の出来事を筆に乗せて描きたいと、心から思った。
ロキは見守り続ける。それが今の自分の役目だと、もう分かっているからだ。
そして――。
リルと櫻宵は今も舞台に立ち続けていた。
歌と桜花が戦場に満ち、残虐な劇の幕をふたりの彩に塗り替えていく。
巡り、廻る、聲と想い。
麗しく響き渡る歌が導く結末。それは、彼らの運命の向こう側にある。
リル・ルリ
🐟櫻沫
幸福な楽園
僕の好きな演目
桜の下
櫻が笑って
かあさんと歌って
ノア様が微笑んで
どうしてこうならないの?
座長ではなくノア様を僕の舞台に招待する
助けに来たよ
かあさんと僕の歌
櫻と重ねた愛と想い込め
「水想の歌」
リルルリ、リルルリルルリ―
かあさんの気持ち
ノア様の胸の内に咲く花は『戀』あい
愛の花だ
僕が外で得たもの
その想いをしった
胸の内にノア様と同じ花が咲いてる
愛してもいいんだ
櫻の聲に泳ぐ
水中じゃないのに目の前が揺らぐ
もっと沢山話したいことがあった
外の事
僕の事
大好きな人の事
―ノア様の事
零れるそれと一緒に
揺桜を突刺す
ノア様
わるいこでごめんなさい
育ててくれてありがとう
たくさんのうたをありがとう
だいすき
とうさん
●Dépendre
――幸福な楽園。
それはいつだったか、自分の好きな演目だとノアに告げた舞台だ。
『願いがあるのはいいことだとおもうんだ。ぼくは、どんな楽園がみえるのかな』
欲と願いを狂化する喝采の最中。
リルはこの舞台に集った皆のために歌いながら、過去の自分が話した事を思い出していた。あのときのノアは確か、「お前は何も見ずともよい」と言っていたはずだ。
それが今、座長はこの舞台の中にリルをいざなっている。いつしか櫻宵も別の楽園に導かれてしまい、ふたりは一時的に離れ離れになってしまった。
その際にノアが告げる。
「安心するといい、リル。お前の舞台は特別だ」
囚われても自我と肉体の崩壊は訪れないという意味だろう。ノアの声が聞こえたと思ったときにはもう、リルは楽園の中に取り込まれていた。
其処は美しく咲く桜の樹の下。
櫻宵がやさしく微笑んでいる。その隣には穏やかな表情を湛えたノアがいて、リルはエスメラルダと一緒に彼らのために歌っていた。
『リル、素敵だったわ』
『エスメラルダの歌も素晴らしいな』
『でもこんなに美しいのは……ねえ、お義父上?』
『ああ。黒と白の歌が重なったからだ』
櫻宵とノアがそれぞれに笑いかけてくれる。そうして、人魚達は淡く微笑む。大切な人に向けて歌を紡げることを嬉しく感じながら、母と息子は視線を交わしていく。
幸せが満ちていた。
大好きな人達がみんないて、穏やかに暮らせる日々が続くこと。これがリルの望む世界であると同時に、決して手に入れられないものでもあった。
これは慾の魅せるまやかし。
嘗てノアがそのように語った滑稽な舞台であり、叶わぬ夢物語だ。
「どうしてこうならないの?」
気付けばリルは泣きそうな声で呟いていた。その光景を見ていたノアは楽園とリル自身を交互に見遣り、鞭を強く握る。
「お前は……何という世界を夢見ているんだ……」
それ以上は言葉にならないらしく、ノアは振るいかけた鞭を下ろした。
そうして彼はリルを強く見つめる。
「……ノア様――座長?」
もう此処は舞台の上。名を呼び直したリルは彼が何かを言おうとしていることに気付いた。其処から紡がれたのは純粋な問い掛けだった。
「何故、あの禁忌の歌を口にした?」
彼が聞いたのは、この黒曜の都市を沈めることになった歌について。ノアを見つめ返したリルはすべてを正直に話そうと決めた。
「桜を、みてみたかったんだ」
花を見せてやるといって君が見せてくれた桜枝。
薄紅色をした、美しく正しくそうあるよう咲くことを強要された花。
あの花がずっと頭から離れず心に残り続けた。ただ一度だけでいいから水槽から出て、みてみたかった。
そのためだけにリルは禁忌を歌い、皆を水にとかした。
ノアは黙ってリルの話を聞いていたが、途中から微かに掌を震わせる。
「つまりは私が原因だったのか。私があの日、お前に花を見せたから――」
心に咲く薄紅を風に委ねて散らせた。
黒に染まった街で麗らかな春を夢見た。その心をリルにも教えてやりたかっただけだった。しかし、あの行動が人魚に禁忌を歌わせることになったのだとノアは知った。
そして、ノアは自らの力でリルの楽園の舞台を消し去る。桜の樹の光景は薄れ、其処で笑っていた家族の幻想は跡形もなく消滅していった。
「お前は何も見ずともよい」
あの日と同じ言葉を落としたノアは深く息を吐いた。何も言えぬままのリルに向かって、何処か哀しげな瞳を向ける。
「あの頃のお前の、満ちぬ胸の内に咲く花。それは……桜だったのか」
ノアはひとつの答えを得た。
彼が投げ掛けていた質問には様々な意味が込められている。ノアは誰の胸に咲く花であるかは明確にしていなかった。
即ち、知りたかった花の名のひとつはリルが想っていたものだった。
●Sirena bel canto
そして、リルとノアは何もなくなった舞台の上で対峙する。
どちらも攻撃を行ったりなどはしない。それが無意味だと知っているからだ。
「ノア様、きいて」
演目が閉じたことでリルは呼び名を戻す。そうして自分が彼に告げたいと願っていた思いを伝えていった。
僕は忘れさせられていたことを思い出したよ。
外の世界を見て、游いで、とても大切な人ができたよ。
傷付いて、それでも頑張って、たくさんの世界を渡った。
まぼろしだけれど、かあさんにも会って――。
歌を教わったんだ。
そう語ったリルはノアの傍で揺蕩っているエスメラルダに視線を向ける。ノアはこの都市に嘗て住んでいた者達の亡霊を呼び寄せた。
その理由は、傍に黒の人魚を呼ぶためだったのかもしれない。きっとエスメラルダひとりだけを呼ぶのでは面目が立たないと思ったのだろう。
それゆえに彼はたくさんの亡霊を呼んで、エスメラルダもそのひとりに過ぎないという体で少しだけ誤魔化した。もちろん新たに再建した都市の住人として亡霊を呼び寄せたこともあるだろうが、どうしてかそんな風に思えた。
そんな中でノアが口をひらく。
「外の世界で、お前はあの男に出逢ったのか」
「そうだよ、あのひとは櫻宵。櫻っていうんだ」
「お前は……奴に歌をうたったのか」
「うん、いつも――」
リルが答えようとしたそのとき、ノアがその言葉を遮った。
「私が教えたデパンドルも、シレーナ・ベルカントも! ヴィクトワールも! あの男のためだけに……?」
彼の語気が強くなる。認めたくはないというようにノアが首を横に振った。
そのとき。
瑠璃の鳥達を相手取っていた櫻宵がリルの元に戻ってくる。
「リル!」
「櫻!」
はっとしたリルが櫻宵に目を向けると、ノアが見定めるような視線を彼に向ける。先程まで見えた憤りは沈められており、冷静な座長に戻っていた。
「お前が妙な櫻の龍とやらか」
「ええ、誘七櫻宵と申します」
佇まいを直した櫻宵はリルの横に立ち、真っ直ぐにノアを見つめて答える。リルが櫻宵の傍にいるように、ノアの傍にはエスメラルダがいた。
彼らと語るならば今しかない。そう感じた櫻宵は臆しはせず、ノアに告げてゆく。
「ねえ、黒の人魚を奴隷にしてるのは愛を捕える術を知らぬ故かしら」
リルのことも大切な癖に。
愛を試して、確かめて、貴方が知りたかったことを問う。
その答えにはとうに気付いてるだろうに、問い掛け続ける。既に答えは出ているのにノアが頑なに認めようとしないのだと櫻宵は気付いていた。
「……戯言だな」
「私もそうだった。戀はしていないと自分に言い聞かせていたもの」
ノアと櫻宵の視線が重なる。
全てが解るとは言えないが、櫻宵はノアと自分が似ていると感じていた。
忘れぬ想い、消えぬ愛があり、守る為の戀がある。そうでしょう、と告げたそのとき、ノアは鞭で舞台の床を叩いた。
鋭い音が走る。
それが無言の宣戦布告なのだと察した櫻宵は、受けて立つことを決めた。
「リル、戦っていいかしら?」
「大丈夫。僕はずっと、その覚悟をしてきたから」
櫻宵が問うと、リルは身構えた。
ノアは自分の元にエスメラルダを呼び寄せ、櫻宵を睨み付ける。
櫻宵も彼を見据え返す。そうして、ふたりはほぼ同時に声をあげた。
「歌え! 私の歌姫よ!」
「歌って! 私の歌姫!」
重なる声はそれぞれ別の人魚に呼びかけていた。
座長は黒の人魚へ。
櫻龍は白の人魚へ。
白と黒。表と裏。光と闇。それぞれに異なりながらも似た雰囲気を宿すふたつの歌声が奏でられてゆく。
――あいして、あいしているわ。
情熱的な愛の唄が響く。その声はすぐ隣で響いているというのに。手を伸ばせば、すぐそこにあったのに。
櫻宵はエスメラルダとノアの関係を思いながら、刃を手にして舞台を駆ける。
対するノアも鞭を振るうことで櫻宵を穿とうと狙った。
「愛を受け入れるのが怖いの?」
「どうだか。私には何のことだか分からないな」
「そう。自分のことになると臆病なのね。それなら息子さんは私が頂くわ」
お義父上。
櫻宵は彼をはっきりとそう呼んだ。するとノアは鞭の柄を更に強く握り締め、敢えて感情を殺した声を紡いでいった。
「どうやら私を怒らせたいようだな、櫻の龍。――いや、誘七櫻宵!」
「何度だって言うわ、お義父上!」
既の所で互いの攻撃を躱す。鞭が撓り、刃が振り下ろされる。その攻防は座長自らが演じる戦劇の如く巡った。
そして、リルは櫻宵の背を見つめながら歌に力を込めていく。
舞台の上で鞭を振るう彼は座長として動いている。
しかし、座長としてではなくノア本人を自分の舞台に招待しようと決めていた。
「僕達はね、ノア様を助けに来たんだよ」
言葉は発しないがエスメラルダは歌っていた。ノアに気付かれぬように息子にだけ分かる歌の言語で、ずっと。
――かれをたすけて、と。
だから、とリルは母と自分の歌をうたう。
櫻と重ねた愛と想いを込めて、水想の歌を紡いでいく。
lilululililululilululi.
揺蕩う水葬、忘却の都。
月抱き彷徨う黒燿を。導く果てはあいの漄。指先綴るうたに聲を重ね、
リルルリ、リルルリルルリ――あいしてる。
重なる声。繋がる想い。
血の繋がった人魚同士でしか分かり得ぬ意味と想いを一緒に籠めた歌が、響く。
これが、僕の思い。
これが、かあさんの気持ち。
ノアと櫻宵が戦う中で、リルは全身全霊を込めて歌いあげた。それは人魚達の美しい協奏歌だ。舞う桜と共に奏でられる音を聞き、ノアが一瞬だけ歌に耳を澄ませる。
その瞬間、リルと櫻宵は視線を交わしあった。
今こそノアが抱えているものに本当のこたえを告げるときだ。
頷きあったふたりは声を合わせ、あの問いに解を示す。
「ノア様の胸の内に咲く花は――『戀』」
「貴方の胸の内に咲いた花は――『愛』」
あいと、こい。
愛の花。それ以外の明確な名が付けられない花であるからこそ見つけ難いものだ。
それはリルが得たものでもある。その想いをしったから、リルには分かる。
「僕の胸の内にノア様と同じ花が咲いてるよ」
「そのような劇中にしか存在しないものが……まさか、そんな……」
リルと櫻宵の答えを聞き、ノアは後退る。彼の背を支えるようにエスメラルダがそっとささやかに寄り添った。
櫻宵は黒い人魚にもお義母様、と呼びかける。
「戀を認めると強くなれるわ。愛おしい気持ちは、舞台も心も彩るの」
「ねえ、ノア様」
――愛してもいいんだ。
だって座長はずっと愛の舞台をつくりあげてきたから、とリルが告げた。それは残虐さが入り交じるものだったけれど、ノアもきっと純粋な愛を識っているはず。
「……そうか。そう、だったのか」
桜の花が舞い、彼が自ら課していた呪縛は解かれた。
確かめるように呟いたノアの傍らにエスメラルダが下りてくる。向かいあったふたりは視線を交わした。
そして、手を伸ばした黒の人魚はノアの頬に触れる。
「ああ……すまない、エスメラルダ。私は、また――」
ノアは言葉にならぬ思いを声にした。
エスメラルダはその頬を撫でる。ふたりを見守っていたリルと櫻宵も彼らのようにそうっと寄り添った。
自然に微笑みが零れる。もうこれ以上は言葉にしなくても大丈夫だと思えた。
触れあうだけで伝わることもあるとリル達は知っていた。
だが――。
●Victoire
「……ッ、く、ぅ……!」
「ノア様!?」
突然、ノアが苦しみ出した。
櫻宵と斬り結んだ傷の痛みもあるだろうが、どうやらそれだけではないらしい。
彼はこれまで数多の舞台を展開してきた。そして猟兵達は舞台を壊して破ってきた。その度にノアの力は削がれていったのだ。
更には彼の存在自体が、淡く綻んだ心を蝕んでいた。
吸血鬼である彼はオブリビオンだ。彼らは世界を滅亡に導く――即ち、世界を過去で埋め尽くすように動くもの。
満ちぬ花の名を知り、心が満たされたとしても存在の宿命は避けられない。
彼を生かしておけば数多の人々が過去に沈められてしまう。
「リル……。私は、もう……」
胸を押さえて苦しむノアはリルを呼ぶ。
「そんな、ノア様……」
「ようやく解った。私はエスメラルダの傍にいきたかったのだな……」
せっかく愛を認められたのに、とリルは尾鰭を震わせる。しかしノアはエスメラルダを見遣り、首を横に振った。
「このままでは彼女の魂も、この昏い世界に閉じ込めてしまうだろう……」
私を殺してくれ。
向けられた瞳は語っていた。――終わらせて欲しい、と。
「いやだよ。かあさんとノア様がここにいるのに」
「我儘を言うな……無理だということは知っているはずだ」
「せっかく僕も櫻も一緒なのに!」
「櫻宵、だったか。認めたくはないが、この際だ……息子を、頼んだ……」
「お義父上……」
「ノア様?」
本当は頷くのが正解だ。
だが、リルは先程に視た楽園の光景を思い出してしまった。ああして一緒に穏やかな時間を過ごしてみたかった。
それが今、ほんの少しだけ手に入りそうだったのに。
ノアの願いを聞き届けたい。しかし、そんなことはしたくない。相反する気持ちがリルの中に渦巻いていく。
その感情を解いたのは、ノアからリルを託された櫻宵の一声だった。
「リル! 行きなさい!」
「……櫻?」
「常夜に黎明を、花を咲かせに。――歌を届けに!」
櫻宵はリルを見守り、その背を押した。彼にとって辛いことを強いると知っていたが、こうすることがリルの為になると解っているから告げた。
どうか、愛をあなたへ。
あなたの全てを、愛しいひとに届けて。
櫻宵は自分の思いを全て伝えていく。
「だって、あなたは言ったでしょう? 残酷劇を運命劇に変えるって!」
「うん。……うん!」
リルは櫻宵の言葉に頷き、その聲を背にして泳ぎはじめた。目指すのはエスメラルダに支えられるノアの元だ。
水中ではないのに目の前が揺らぐ。
雫が頬を伝って、あぶくのように落ちていった。それでも、泳ぎ進む。
もっと沢山話したいことがあった。まだまだ足りない。
外のこと、僕のこと、大好きな人のこと。
それから、ノア様のこと。
想いと一緒に人魚の涙が溢れる。そして、リルは鞘から柔い桜色の沸を帯びた短刀を抜いた。それはリルが唯一持っている鋭利な刃だ。
そして――零れる思いと一緒に、人魚は揺桜を吸血鬼の胸に突き刺した。
「リル……」
「ノア様」
名前を呼んだノアの口許から血が溢れる。刺した刀が心臓を貫いていることが柄を握る手の感触から伝わってきた。ノアは痛みを押し込め、リルに手を伸ばす。
「よく、やってくれた……」
「わるいこでごめんなさい」
「……いや、良い子だ」
力の入っていない掌がリルの頬を撫でる。それはエスメラルダが彼にしていた仕草とよく似ており、とても懐かしい心地がした。
「ノア様。育ててくれてありがとう、たくさんのうたをありがとう」
「ふ、ふふ……私も、そんなことを言われる立場に、なれたか……」
吸血鬼であるノアはこれまでに数多の人が劇中で死を迎える筋書きを書いてきた。それだけを見れば悪逆非道を行ってきた者であり、赦されることではない。
だが、彼は吸血鬼であると同時にひとりの男だった。
人魚を愛し、その息子を育て、彼なりに慈しんだ。寵愛を受けたリルにとって、彼はかけがえのない存在だった。
彼は自ら育てあげた人魚に討たれ、この世界から消えることになる。
きっとこれが相応しい結末なのだろう。
「ああ……お前達が演じた舞台は、どれも興味深いものだった……」
倒れ伏し、消えていくことを待つだけのノアに寄り添うのはふたりの人魚。リルはエスメラルダと共に彼の傍につき、最後の言葉を贈る。
「だいすき」
――とうさん。
その声を聞いたノアは瞼を閉じ、リル達に或ることを告げた。
それは以前に願いなどないのだと語った彼が口にした、最初で最期の望みだった。
「どうか、私の為に歌ってくれ。愛しい歌姫《エスメラルダ》達よ……」
●Finale
舞台の演目はこれで全て終わった。
ノア・カナン・ルーは最期の最後に『享楽の匣舟』の座長として振る舞った。
それが彼の譲れぬ矜持だったであろうことは、最後の舞台を見守っていた誰もが感じていた。そして猟兵達はこの戦いに勝利したのだ。
この地で殉じ、死した者達を悼むような黒薔薇が咲き誇る庭園。
其処に作りあげられた舞台の上で白と黒の人魚は歌い続けた。願いを弔うように、黒曜の都市に沈んだすべての魂を導くように――。
こうして、運命劇の幕は閉じられた。
大成功
🔵🔵🔵
第3章 日常
『水葬carnaval』
|
POW : 湖底の廃墟を探索する
SPD : 願いが変じた亡霊たちのあとを追う
WIZ : 祭壇に願いを捧げ弔う
|
●Carnaval
水葬の街で興された舞台劇は歌によって幕が下ろされた。
忘歌によって失われた記憶はすべて取り戻されている。
泡沫に包まれた黒曜の都市もいずれ、元の姿――水底に沈む街に戻っていく。しかし、そうなるまでには少し時間の猶予がある。
君は此処で何をしても構わない。
教会で死者に祈りを捧げ願ったり、忘れた記憶の大切さを想うのも良い。
水の中に沈んでしまう街をこの機に探索することも出来るし、街に揺蕩っている亡霊の後を追い、カナン・ルーを案内して貰うのも悪くはない。
廃教会、グランギニョルの跡地。
領主の館がある白蝶区。繁華街の名残がある黒蝶区に、歓楽街の青蝶区。
居住区としてあった桃蝶区や、スラム街だったという紅蝶区。
生きる人はおらずとも黒曜の都には巡れる場所が多い。退廃的ではあるが危険も消え去ったこの街を知り、歩いて眺めてみるのも良いだろう。
また、この水葬の街には或る風習があったという。
それは願いを弔う儀式。喝采と祈りを教会の祭壇に捧げるというものだ。
そうすれば、楽園の廃墟に願いが変じた亡霊が游ぎはじめる。彼、或いは彼女達はこの街で命を落とした者達であったり、祈った者の心の奥底から映し出された大切なひとであったりと様々だ。
もしかすれば、君が願う誰かの亡霊が訪れることもあるかもしれない。
無論、誰かを呼ぶことなく純粋に、過ぎた願いに思いを馳せるだけでもいい。
君が失くした、或いは失くしかけた記憶は、どんな形であっても『大切なもの』であり、失いたくなかったもののはずだ。
それを思い出した今、君の胸には何の花が咲き、どんな想いが浮かんでいるのか。
漣に紛れる聲は誰の聲?
水面に揺れるのは誰の姿?
捧ぐのはあなたの心。――さぁ、カルニバルをはじめよう。
榎本・英
【花解】
桃蝶区、時を刻まぬ時計塔の元へ
朦朧とした意識の中、いとも簡単に包まれた
此処で存在を消したが、君は榎本英を覚えていた
染み込む言葉も熱も胸に溜まって朧な私が浮かび上がる
漸く、私が榎本英なのだと理解した
与える事は出来ても受け取る方法が分からない
けれども君で満たされ
右の眸から一筋、零れ落ちて行く
君が触れたいと思うならこの傷に触れても良い
君の背や首に刻まれた物よりもずっと軽いのだから
……初めて出会った秋の日に
無邪気なのに無邪気に笑わない君に心を与えたいと思ったのだよ
真似事ではなく、君が君らしく有れたらと
どうやら私の願いが一つ叶ったようだ
なゆ
時が進む
胸の裡に春が降る
言葉の代わりにめざめのくちづけを
蘭・七結
【花解】
停滞した時のなかで眸を映した
逸らしたなら解けてしまいそうで
ゆびさきと、あなたを手繰る
微かにふれてあかが滲んだ
熱を分け与えてゆく
何時だってそうしてくれたように
あなたの温度はなゆのなかに
あなたのことは左のゆびさきに
背に首に――わたしというひとりに宿っている
榎本英を、なゆが憶えている
花曇りに陰るなら、あなたを晴らす嵐となるわ
花冷えてしまうなら、なゆが熱を注ぎましょう
あかいいとは見えないけれど
あなたをゆわいで留める
触れたなみだはあつかった
ずうと見てくれていたのね
あなたの姿が滲んで、想いが溢れる
あいしたひと
さくらのような愛しいひと
この夜から目覚めましょう
あけの彩と共に春が降る
“おはよう”、英さん
●めざめ
桃蝶区、時計塔の前。
かの時計は此処が水に沈んだ時から止まったまま。
英は自分がこの街に訪れたばかりの時分にも見た塔の様相を振り仰ぎ、眼鏡の奥の双眸を静かに細めた。
其処には青い鳥はいない。もう何処にも、囀りや忘歌は響いていなかった。
都市に静謐が満ちていることで、すべてが終わったのだと解る。
そして、黒曜の街の刻は再び沈みゆく。
停滞した時のなか、七結は彼と塔の姿を眸に映した。何も忘れぬと抗った英は此処で己を喪失した。いとも簡単に包まれた、と彼自身は評するが、ひとである自分よりも大切なものを抱いたまま戦場を往けたことは間違いではない。
「僕は――、」
英がゆっくりと言葉を紡ぐ。
その声を聴きながら、七結は彼から決して視線を外さなかった。逸らしたなら解けてしまいそうで、そうっと指先を伸ばす。
絲を手繰るように近付けた掌と指。微かにふれたことであかが滲み、熱を分け与えてゆく。何時だってそうしてくれたように。今度は、七結からつなぐ。
「此処で存在を消したが、君は榎本英を覚えていた」
先程の声から続いた彼の言葉に首肯し、七結は確かめるように言の葉を返す。
「榎本英を、なゆが憶えている」
英は時を刻まぬ時計盤を見上げたまま、未だ朦朧としていた意識の中から自分というものを掴み取っていく。
染み込む言葉も、熱も胸に溜まって朧な己が浮かび上がった。そうして漸く、英は自分こそが榎本英なのだと理解する。
君が触れたいと思うなら、この傷に触れても良い。
君の背や首に刻まれたものよりもずっと軽いのだと思い、英は瞳を閉じた。
七結は緩く繋いだ指先にかすかな力を込める。
――あなたの温度はなゆのなかに。
――あなたのことは左のゆびさきに。
背に首に、わたしというひとりに宿っている。
彼にだけ伝わる想いを籠め、七結は英に眸を向け続けた。暫し後、瞼をひらき、時計から視線を下ろした英が傍らの七結を見つめる。
確かなぬくもりと心。
与えることは出来ても、受け取る方法が分からないまま。
けれども、と英は指先を絡め返す。共に絲を紡ぐように。切れぬように、と。
君で満たされれば、右の眸から一筋だけ雫が零れ落ちていく。
七結は彼を見ていたが、そのことについては何も語らなかった。ただ静かに、裡に宿る想いを言葉に変えていく。
「花曇りに陰るなら、あなたを晴らす嵐となるわ」
「嗚呼」
「花冷えてしまうなら、なゆが熱を注ぎましょう」
「……」
七結の聲に英は頷き、何も答えずともやさしい視線で以て応えていく。
あかいいとは目には見えない。けれども、あなたをゆわいで留める。触れたなみだはあつくて、こころをとかすかのよう。
英は並び立ってくれる彼女を懐い、何時かの時を思い返す。
「初めて出会った秋の日を憶えているかい」
「ええ、あの時ね」
「あの日、無邪気なのに無邪気に笑わない君に心を与えたいと思ったのだよ」
真似事ではなく、君が君らしく有れたら。
そう語った英は、どうやら己の願いがひとつ叶ったようだと言って口許を薄く緩めた。
「ずうと見てくれていたのね」
七結はあの日から続く英との日々を思い、花蕾が綻ぶような笑みを浮かべる。
そうすればあなたの姿が滲んで、想いが溢れていく。
あいしたひと。
さくらのような愛しいひと。
この夜から目覚めましょう。
目の前に聳え立つ時計の針は止まったままでも、ふたりの時は進む。
胸の裡に、あけの彩と共に春が降る。
「なゆ」
「“おはよう”、英さん」
交わす眼差しと、互いに呼びあう名前。それは、ひとつきりになった想い。
そして――言葉の代わりに、めざめのくちづけを。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
樹神・桜雪
街を歩く前に相棒を呼んでおくね。
やっぱり、また忘れちゃうのって怖いね。
思い出せて良かったよ。
ね、相棒。少し付き合って貰えるかな。この街には不思議な風習があるんだって。せっかくだしやって行こうよ。
静かに祭壇に祈りを捧げる。親友はこの街で消えた訳ではないから会えるか分からないし会えなくても構わない。
一度は掴んで、また無くしかけた思いと願いに祈るだけ。
あのね、あの舞台で君と相棒を見た時にすぐに分かったよ。君達が大切なものなんだって。
なくしても、なくしてなかったよ。それが少し嬉しかった。
いつか君に辿り着くまで諦めない。待ってて、──。
無意識に親友の名前を呼ぶけど、何と呼んだのかボクにも分からない。
●祈りの底に眠るもの
間もなくすれば再び沈む水底の街。
黒曜の街を巡りながら、桜雪は様々な景色を瞳に映していた。
その最中、頭の上から肩へと、ちいさな白が移動する。
何だかこの感覚が久しぶりな気がするのは一時的に大切な相棒やこれまでの記憶を忘れてしまっていたからだろうか。しかし戦いを終えて自分を取り戻した桜雪には、この感覚に快い懐かしさを感じていた。
「ね、相棒」
曖昧なままではなく、ちゃんとそう呼べる。
口をついて出た声ではなく自分の意思で紡いだ言葉。そのことに安堵を覚えながら、桜雪はシマエナガに呼びかけた。
「やっぱり、また忘れちゃうのって怖いね」
一度、失くしたもの。
それがもう一度消えていく。あの経験は思い返すと恐ろしくもあった。
されど此処に集った者達はそれすら覚悟をして、そして必ず記憶を取り戻せると信じて戦った。桜雪とて気持ちは同じであり、果敢に抗った。
夢見た偽りの希望の中で絶望しなかったのは、桜雪の中に宿っていた決意と身体に刻み込まれた内なる記憶が強かったからこそ。
「思い出せて良かったよ」
双眸を細めた桜雪は指先を相棒に向ける。
すると相棒はその指にぴょこんと飛び乗って、ちゅぴぴ、と囀った。
うん、とその声に頷きを反した桜雪は少し先にある教会を示す。
「少し付き合って貰えるかな。この街には不思議な風習があるんだって。せっかくだしやって行こうよ」
相棒に呼び掛けた彼はそちらに向かい、願いを弔うという儀式を思う。
そして、辿り着いた教会の中。
桜雪は両手を重ね、静かに祭壇に祈りを捧げていく。
楽園の舞台で見えた親友。いつかの夕暮れに見たまぼろしの親友。彼はこの街で消えたわけではないから、会えなくても構わない。
「あのね、あの舞台で君と相棒を見た時にすぐに分かったよ」
桜雪は遠い彼に向けて語る。
あの舞台で感じた思いは今もはっきりと覚えていた。失くして、取り戻したという感慨がこの胸の中にある。
一度は掴んで、また失いかけた思いと願い。
其処に祈るだけでも、自分の中に宿る感情が満ちていくように思えた。
「君達が大切なものなんだって、憶えていたよ」
なくしても、なくしていなかった。それが嬉しくて、少しだけでも自分を誇っていいのかもしれないと感じられた。
「いつか君に辿り着くまで諦めない。だから、待ってて」
『――』
「……あれ? 今、ボク……」
そのとき、桜雪は無意識に親友の名前を呼んだ。
けれども何と呼んだのか分からずに首を傾げる。それでも、先程に告げた言葉と感じた思いが嘘ではないのだと証明できた気がした。
忘れていても、忘れてはいない。
大丈夫。本当に大切なものは確かに、この胸の中に眠っている。いつかきっと記憶の花が綻び、咲き誇るときだって訪れるのだろう。
雪がとけた後に咲く、桜のように――。
大成功
🔵🔵🔵
カビパン・カピパン
自由を得た。ずっと求めていた筈なのに。
満たされたと思えない自分が居る事に気がついたのはすぐであった。
普段は飄々としている彼女も、静かに教会の祭壇に祈りヘンルーダを捧げる。
「あなたにヘンルーダを、そして少し私にも。ただ違った意味でヘンルーダを」
水盤を覗き込むと水面に朧気な光が女性の姿のように浮かび上がる。漣に紛れながら光は儚げに誰かの名を呟いた。
「――カビパン――」
水の底にある白い光が沈んでくるのが見える。それに必死に手を伸ばし水の中から、光を掴み出す。
ただ懐かしく、慕わしい。
「おかえりなさい。我が半身よ」
誰にも分からないであろうがその刹那、女教皇と女神はまるで仲睦まじい実の姉妹の様であった。
●女神のひかり
これまでの自分を忘れていた。
教皇位も、女神の加護も幸運も、何もかも知らないままの自分があの舞台に居た。
そして、その代わりに自由を得た。
しかしずっと求めていた筈なのに、満たされたと思えないでいた。
思い描いた楽園に堕ちても尚、彼女にはこれが幸福だと感じられないままだった。違う、と抗う自分が居ることに気がついたのはすぐであった。
囚われたことで識ったのは今までとは少し違う感慨。
だからこそ、こうして此処に元あった自分として戻って来れた。今の彼女は喪失したこと自体もすべて思い出し、認めようとしている。
記憶を取り戻した彼女は現在、教会の中に佇んでいた。
「あの声が……」
大切だったのかと問われると複雑だ。きっと普段の飄々としている彼女ならば難なく自分なりの答えを出しただろう。
しかし、今の彼女は静かに祈るだけ。
この街に伝わるという風習に従って祭壇に向けて両手を重ねた。
「あなたにヘンルーダを」
そして、祈りと言葉と共にヘンルーダの花を捧げる。
彼女はこれをこの街で死を迎えた者達への手向けとした。それだけではなく自分自身へ贈るものとして花を見つめる。
「そして少し私にも。ただ違った意味でヘンルーダを」
水盤を覗き込む。
するとその中で何かが揺らめいた。その青い瞳に淡い兆しが映る。
次第に水面には朧気な光が女性の姿の如く浮かび上がってきた。光は漣に紛れながら、儚げに誰かの名を呟く。
「――カビパン――」
水の底にある白い光が沈んで、近付いてくるような光景が見える。彼女は――そう、カビパンはそれに必死に手を伸ばした。
水の中から、光を掴む。
深い底に封じられていた感情が溢れてくる。
ただ懐かしく、慕わしい。
光はカビパンにだけ感じられており、未だ他の誰にも見えず分からないだろう。けれどもカビパンは確かに光の向こう側にいるものを感じ取っていた。
それは聖なる加護。
そして、今の自分の裡に常に共にあったもの。
忘れていても傍に在った。声が聞こえなくなっても呼び掛けてくれていた。その言葉がどんなものだったのかも今のカビパンにはよく分かる。
「おかえりなさい。我が半身よ」
言葉が紡がれた刹那、淡く揺らめいていたそれが確かな光となって巡った。
再び齎された幸運と共に、今の自分を改めて授かったかのような心地がする。きっとまた、此処からめんどくさいと感じる日々が続いていくのだろう。
されど、それこそが今を生きるカビパンの日常だ。
言葉にしなくても解ることがある。それゆえに敢えて言の葉には乗せない。
女教皇と女神。
寄り添うふたつの光。それはまるで、仲睦まじい実の姉妹のようであった。
大成功
🔵🔵🔵
芦屋・晴久
【恋人】
意識を取り戻してみればそこには普段見せない様相のリーヴァルディ、涙を零し必死で此方に治癒を施している
随分と醜態を晒した様ですね
泣き腫らした顔、彼女の頬に未だ痺れが残る手を当てて微笑むだろう
リーヴァ……怪我は、無いですか?
暖かな癒しの力に意識は微睡みながらも彼女の無事を願う
泣かないで欲しい
嘆かないで欲しい
決して君のせいでは無いと私は知っているから
取り戻した記憶
そうだ、私は笑顔の君が一番好きなんだ
その様な悲しい顔をさせるのは私の本意では無い
覚束無い腕で彼女を抱き寄せ口付けをしよう
大丈夫だから
私は──俺は君を置いてはいかない
だから、泣かないでおくれ
強く在らねばならない
この少女を護る為に──
リーヴァルディ・カーライル
【恋人】
…ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん、なさい…
貴方の業を一緒に背負うって言ったのに…
共に歩くって、約束した…はずなのに…
私は、全部忘れて、貴方を傷付けて、こんな目に…
…貴方を死なせはしない。絶対に…
たとえこの身がどうなろうと…必ず、救ってみせる
…貴方がいなくなるなんて耐えられない…
だからお願い。目を開けて…また名前を呼んで……晴久
傷だらけの彼に泣きながらすがり付き、自身の限界を突破してUCを連続発動
祈るように自身の生命力を吸収した血を注ぎ治癒を試み、
彼が目覚めたら涙を流して抱きしめ謝罪の言葉を連ねる
ごめんなさい、ごめんなさい晴久…
謝って済む問題じゃないけれど…貴方が無事で…本当に…
●献身と誓い
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめん、なさい……」
静謐な水底の街に掠れた声が沈む。
リーヴァルディは未だ目を閉じたままの晴久を抱き、介抱を続けていた。仲間が紡いだ癒しの歌によって彼が僅かに回復していることも感じ取れた。
だが――。
「貴方の業を一緒に背負うって言ったのに……」
横たわる晴久の手を握ったリーヴァルディ。その瞳には憂いと哀しみ、深い後悔が映ったままだった。
「共に歩くって、約束した……はずなのに……」
斃すべき敵だと認識してしまった。
何もかも忘れて刃を向けてしまった。たとえそれが忘歌によって失わされ、操られることで心を乱された結果だとしてもリーヴァルディは悔いてしまう。
「私は、全部忘れて、貴方を傷付けて、こんな目に……」
貴方を死なせはしない。絶対に。
たとえこの身がどうなろうと必ず、救ってみせる。
だから、とリーヴァルディは己の力を尽くすことを誓った。自らの手で壊してしまったものならば治すのも己の手で。
それが今の自分が出来ることであり、しなければいけないことだと思えた。
――限定解放・血の聖杯。
リーヴァルディの身に変化が起こり、生命力を凝縮した血液が紡がれる。彼女の命の雫でもある力が晴久に注がれ、満ちていく。
されどまだ足りない。
この力を、想いを。そして贖罪を。
「……貴方がいなくなるなんて耐えられない……」
全てを重ねて、自分の限界すら突破しても癒やすことを止めない。強く思いながらリーヴァルディは力を振り絞る。
そして、己の全てを彼に捧げていった。
「だからお願い。目を開けて……また名前を呼んで……」
晴久。ねえ、晴久。
傷だらけの彼に泣きながら縋り付き、リーヴァルディは祈るように生命力を分け与えていった。血を注ぐ彼女の声は悲痛だ。
何度も名前を呼び、気を失いそうになりながらも意識を保った。自分の存在と命ごと明け渡しても構わないと思えるほどに彼女は懸命に力を紡ぎ続ける。
そして、そのとき――晴久の瞼が微かに動いた。
「リーヴァ……?」
「晴久……!」
ゆっくりと目を開いた彼の様子に気付き、リーヴァルディはその手を強く握った。
晴久はその手の冷たさを感じながら、彼女の力がかなり消耗していることを悟る。そうして彼は状況を整理する。
目の前には普段見せない様相のリーヴァルディがいて、涙を零しながら必死で呼び掛けてくれていた。その声は確かに自分に届いていた。
なるほど、と呟いた晴久は痛む身体を押さえながら上半身を起こす。
まだ少し軋むような感覚はするが、リーヴァルディの治療によって殆どが癒やされている。後は身体を慣らすだけで普段通りに戻れるだろう。
「随分と醜態を晒した様ですね」
「……そんなこと、ない。晴久は……、違う、私が……」
晴久はリーヴァルディの泣き腫らした顔を見て首を横に振る。かなり疲弊しており、言葉を紡ぐのもやっとらしい彼女の頬に手を伸ばす。未だ痺れが残っている手をそっと当てて微笑む。
「怪我は、無いですか?」
「……何ともない」
あたたかな癒しの力が晴久を包み込む。晴久の意識は微睡み、このまま彼女の傍で穏やかな休息を取りたくもあった。しかし、疲労を隠しているであろうリーヴァルディを思うとただ眠ってもいられない。
「それよりも……ごめんなさい、ごめんなさい晴久……」
リーヴァルディは零れる涙を拭うことも忘れて、謝罪の言葉を重ねていった。
痛々しいほどの声を聞きながらその頬を撫でた晴久はそっと願う。
泣かないで欲しい。
嘆かないで欲しい。
「謝らないでください。決して君のせいでは無いと私は知っています」
記憶は取り戻した。
忘れていたということも理解している。晴久は自分に縋って泣くリーヴァルディの背に腕を回して撫でた。
そうしてもうひとつ、思い出したことがある。
(そうだ、私は笑顔の君が一番好きなんだ)
このような悲しい顔をさせるのは自分の本意ではない。晴久は未だ覚束無い腕で彼女を抱き寄せ、口付けを落とす。
「はるひさ……?」
「大丈夫だから。私は──俺は君を置いてはいかない」
「……っ、晴久……」
自分の名を呼ぶことで返答としてくれた彼女にやさしい微笑みを向け直し、晴久は心からの思いを願う。
「だから、泣かないでおくれ」
晴久に抱きついたリーヴァルディは彼が赦しを与えてくれたのだと感じた。
決して二人が弱かったのではない。寧ろ強い力を持っており、悪しきものに対抗する揺るがぬ意思を持ち得ていたからこそ巡った舞台だった。
晴久を見つめたリーヴァルディの瞼がゆっくりと落とされていく。おそらく代償を無視して血を注ぎ続けたことで意識が遠くなっているのだろう。
「……貴方が無事で……本当に……」
「リーヴァ……」
良かった、という言葉を告げた彼女が腕の中で気を失った。晴久はその身体を抱き締める。これほどまでに身を削り、案じてくれた彼女を誰が責められようか。
身を預けてくれたリーヴァルディ。静かな呼吸が繰り返されていることを確かめ、その姿を見つめ続ける晴久は或る決意を抱いた。
自分はこれまで以上に、強く在らねばならない。
この少女を護る為に。
抱いた身体に少しずつ熱が宿っていく。失ったことで大切なことを改めて識る。
きっとあの舞台はそのためにあったものだ。
何故なら――あれは愛を示すことを望まれた、二人の運命劇だったのだから。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
ヘルガ・リープフラウ
・ヴォルフ(f05120)と
ノアに記憶を奪われたあなたを見た時、わたくしは自分たちの想いを踏みにじられた気がしたのです。
積み重ねた日々と悲しみ、愛があったのは彼らだけじゃない。今ここにいる皆も同じ
それをいじくられ、捻じ曲げられ、穢された
身を切られるより辛い、魂の凌辱
わたくしは何もできなかった。オブリビオンの悪意に屈し、信じた全てを壊された
こんな無力なわたくしに、聖者を名乗り愛を語る資格など…!
ヴォルフ…こんなわたくしでも愛してくださるのですか?
もし赦されるなら、あなたと共に生きてゆきたい
今ならば言える。わたくしたちの胸の内に咲く花
春の訪れを信じ、厳寒の雪の下で耐える、このミスミソウのように…
ヴォルフガング・エアレーザー
・ヘルガ(f03378)と
記憶は戻ったが、ヘルガの心は壊れたままだ
彼女をここまで追い詰めた責任の一端は俺にある
詫びねばならんのは俺の方だ
泣き崩れるヘルガの手を取り、胸の「フェオの徴」に当てる
「これ」だけは、奴は奪えなかった
お前のくれた優しさは、ずっと胸の奥にあった
だから俺はギリギリのところで踏みとどまれた
完全な獣に堕ちることなく、人でいられた
泣くな
これ以上自分を責めなくていい
お前と共に過ごした日々は、誓いは、こんなことで壊れはしない
たとえ世界がお前に牙を剥いても、俺はお前を守り抜く
二度とお前にこんな思いはさせない
歌ってくれ
お前と俺が愛した、想いを紡ぎ慈しむ歌を
抱きしめた温もり
心に刻み込むように
●その花の名は
いずれ水底に沈む街の片隅。
ヴォルフガングとヘルガはこれまでのことを思い返していた。
記憶を奪われる忘歌が響いていた街。其処へそれぞれに訪れていた彼らは、大切なものを一時的に失ったことで心が引き裂かれるような思いを抱いていた。
「あなたを見た時、わたくしは自分たちの想いを踏みにじられた気がしたのです」
「ヘルガ……」
ヴォルフガングを見上げたヘルガは首を横に振る。彼女の瞳からは哀しみと苦しみが感じられた。
「わたくしは何もできませんでした……」
俯くヘルガの瞳から大粒の涙が零れ落ちていく。
オブリビオンに屈してしまい、信じた全てを壊されたのだと感じた。そして今、ヘルガの心は深く沈んでいる。
「こんな無力なわたくしに、聖者を名乗り愛を語る資格など……」
「詫びねばならんのは俺の方だ」
両者の記憶は戻ったが未だ心は癒えぬまま。ヴォルフガングは、ヘルガをここまで追い詰めた責任の一端は自分にあるのだと告げた。この街に来なければ彼女の心が壊れずに済んだのだろうかと考え、ただ悔やむことも出来ただろう。
だが、ヴォルフガングの心は後悔だけでとどまりはしなかった。
「聞いてくれ、ヘルガ」
泣き崩れるヘルガの手を取ったヴォルフガングは胸のフェオの徴に彼女の掌を当てた。
「ヴォルフ……?」
「『これ』だけは、奴は奪えなかった」
触れた掌の先にある徴。それが彼の鼓動を伝えてくれているように思える。
確かな熱が其処にあった。
「お前のくれた優しさは、ずっと胸の奥にあった。だから俺はギリギリのところで踏みとどまれた。完全な獣に堕ちることなく、人でいられた」
ヴォルフガングの静かな声を聞き、ヘルガはじっとその顔を見つめた。
頬にはまだ涙が伝っている。
泣くな、と指先で雫を拭ってやったヴォルフガングは優しく告げていく。
「これ以上自分を責めなくていい」
ヴォルフガングは戦いの中で垣間見えた彼女の舞台を思う。その楽園はヴォルフガングが穏やかに暮らす光景だった。
此度の敵の力で見せられたのは望む儘の平和な世界だ。
記憶を失ったことで、あの力に抗えなかったとしても――幸せな光景を望んだヘルガの何処に悪い所があるだろうか。
かの楽園の舞台はとても優しい愛に溢れたものだった。
きっと彼女の聖なる心を映したものだ。
ヘルガはどんな彼も受け入れると決めていた。平和ではなく戦いを選び取るヴォルフガングもまた、彼女にとって大切なものだ。
忘歌によって記憶を失くしても、ヴォルフガングの名前すら思い出せなくなっても尚、ヘルガは彼と共に在りたいと願った。
「お前と共に過ごした日々は、誓いは、こんなことで壊れはしない」
たとえ世界がヘルガに牙を剥いても、ヴォルフガングは彼女を守り抜くと誓った。
資格など語らずとも傍にいて良い。そのように示してみせた彼の瞳は真っ直ぐだ。ヘルガは掌と言葉から伝わってくる彼の思いを感じながら、自分でもそっと涙を拭いた。そうして、おずおずと問う。
「ヴォルフ……こんなわたくしでも愛してくださるのですか?」
「ああ、二度とお前にこんな思いはさせない」
「……もし赦されるなら、あなたと共に生きてゆきたい」
確かな体温を重ね合ったふたりは互いの思いを再確認していく。ヴォルフガングもまた、どのようなヘルガであっても受け入れると心に決めていた。
もちろんだ、と耳元で囁いたヴォルフガングはヘルガを抱き締め、そっと願う。
「歌ってくれ」
「歌ですか……?」
「お前と俺が愛した、想いを紡ぎ慈しむ歌を」
「……はい」
紡がれた声に頷きと視線を返し、ヘルガは花唇をひらいた。
抱いた温もりと、響きはじめる歌。その心地を大切に想い、音色に深く聴き入りながらヴォルフガングは瞼を閉じる。
ヘルガは彼のためだけに歌い、そして想う。
(今ならば言える。わたくしたちの胸の内に咲く花……)
春の訪れを信じ、厳寒の雪の下で耐えるもの。
それは――ミスミソウ。
どのような困難に遭っても耐え忍ぶ雪割りの花。
互いを信じ、頼ることを謳う花の名が、ふたりの胸に刻まれてゆく。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
フリル・インレアン
ふえぇ、まだ頭がボーッとしています。
どうして、私は助かったのでしょうか?
完全にもうダメだと思いました。
でも、こうして無事だということはアヒルさんが助けてくれたんですよね。
ありがとうございます。
それにしても、楽園の世界は名残惜しく思ってしまいますね。
戦いのない平和な世界で『素敵』だと思ってしまいました。
でも、私は戦いがあるけど、アヒルさんと過ごせる現実が一番です。
●大きな帽子とアヒルさん
この後、静かに沈みゆく黒曜の都市。
普通にこの街を歩けなくなる前に最後に色々見て回ろうと決めたフリルは、何となく黒蝶区のメインストリートまで訪れていた。
「ふえぇ、まだ頭がボーッとしています」
散歩することを選んだのはまだ意識が何処か遠くにあるような気がしたからだ。
すぐ傍にはガジェットのアヒルさんがいる。
どうしてアヒルさんを忘れていたのかと思い返してみると、これまで流れていた忘歌のせいだったと分かった。
フリルにとって、アヒルさんがただのガジェットになってしまった一連の流れ。
上手く戦えなかったあの出来事を思うと、やはりアヒルさんの力が大切なのだと感じられた。振り回される日々であってもフリルの傍には不可欠な存在だ。
「それにしても……どうして、私は助かったのでしょうか?」
ねえアヒルさん、と呼びかける。
完全にもうダメだと思っていたのだが、あの舞台の上で果敢にアヒルさんが戦ってくれていた。忘れていても力が紡げたということはガジェットとの間に確かな絆があったということだ。
「こうして無事だということはアヒルさんが助けてくれたんですよね」
ありがとうございます、と告げたフリルはこくこくと頷く。
そうして、アヒルさんを忘れていたときのことを改めて思い出してみる。見えた楽園の世界はとても幸せだった。
抗う必要がないと思えるほどに、『普通』というものが自分にとって魅力的だったのだろう。それにあの完璧なイケメン彼氏も――。
「素敵でした。楽園の世界は名残惜しく思ってしまいますね」
戦いのない平和な場所。
それを素敵だと思ってしまった。だが、そのお陰でアヒルさんが応じてくれた。元の世界に戻れと告げるように舞台を壊してくれた。
切欠は他の仲間が出した吸血鬼の問いへの答えがあったからだが、ずっとアヒルさんはフリルのために動いていたのだ。
「でも、そうですね」
素敵な世界にも憧れるけれど、フリルの一番は別にある。
憧憬を捨てるのではない。普通の生活に思いを馳せることはある。しかし何が大切なのかと考えると、やっぱりそれは――。
「戦いはあるけど、私にとってはアヒルさんと過ごせる現実が一番です」
フリルは嘘偽りのない思いを言葉にする。
アヒルさんは変わらず彼女の傍についているだけだが、まんざらでもない顔をしていたとかしていなかったとか。
ひとりと一体はそのまま街を散策していく。
どうやらこれからもまだまだ、フリルとアヒルさんの物語は続いていくようだ。
大成功
🔵🔵🔵
レザリア・アドニス
記憶を取り戻しても、なぜか、胸が満たされないまま
死霊を肩に乗せたまま、
この街の過ぎ去りた日々を想像しながら、街をふらふらする
誰がどんな生活を送ったのですか
出会ったのか、別れたのか
与えたのか、奪ったのか
喜んでいたか、悲しんでいたか
幸せだったか、不幸だったか
だんだんと、目の前の景色が記憶の中の景色に変わる気がする
運命を変えられたその場所に連れ込まれた前に、日々に見た景色
時が止まったら、やり直せるなら…どんなに…
っ…いたっ
胸の中の痛みがその存在を誇示してる
これこそが、私を満たすものですか
そうですか…もう振り返ったままではいけないんですね…
残った一輪の待雪草を水に放り込んで
沈んで見えなくなるまで見守る
●虚ろな希望
静寂が黒曜の街に満ちていた。
記憶を取り戻したことで全ての出来事がひとつなぎになった。それだというのにレザリアの胸は何故か満たされないまま。
その肩には死霊が乗っており、時折ふわりと揺らいでいた。
レザリアがそっと進んでいくのは最初に来たときと同じ居住区。桃蝶区と呼ばれる場所の最中だ。来たばかりの時分は通り過ぎただけの場所も、今こうして眺めていると不思議な光景に思える。
断頭台のある広場が見えた。
此処がダークセイヴァーである以上、そういったことも行われていたのだろう。
美しい黒曜の都市には確かな闇があった。そしてきっと、幽かな光もあったはずだ。街の過ぎ去りし日々を想像しながら、レザリアは街を巡ってゆく。
街の中には、かつて此処に住んでいたらしい亡霊たちが彷徨っていた。
誰がどんな生活を送っていたのか。
何処で誰が出会ったのか、どの場所で誰と誰が別れたのか。
何を与えたのか、何を奪ったのか。
どんなことに喜んでいたか、どのように悲しんでいたか。
そして――幸せだったのか、不幸だったのか。
言葉にしない思いを浮かべれば、亡霊たちはレザリアの周囲で揺らいだ。死霊術士であるからだろうか、レザリアには彼らの思いが聞こえる気がした。
「……そう」
念として聞こえたのは様々な感情から成る言葉。
或る亡霊はとある処刑現場を見たことの愉悦を語った。また或る亡霊は哀しき悲恋を経験したことを語った。少年だったらしき亡霊は父と母が大好きだったことを話し、少女の亡霊は志半ばで死んだことを告げる。
それだけではない、たくさんのことをレザリアは聞いた。
その中でレザリアはだんだんと目の前の景色が記憶の中の景色に変わっていくような感覚をおぼえていた。
運命を変えられた、あの場所。其処に連れ込まれる前の日々に見た景色。
「時が止まったら、やり直せるなら……どんなに……」
過去を思ったレザリアは無意識にそんなことを口にしていた。しかし、不意にその思考が唐突な痛みによって掻き消された。
「っ……いたっ」
胸の中にある痛みが、その存在を誇示しているようだ。
いつしか街に居た亡霊は静かに消えていった。あの亡霊たちを生き返らせることが無理なように、レザリアが経験した過去も変えることは出来ない。
分かっていると呟いたレザリアは肩にいた死霊に目を向ける。そうして未だ少し痛む胸を片手で押さえた。
「これこそが、私を満たすものですか」
そうですか、と自分なりに納得したレザリアはあの幸福な楽園を一度だけ思い、それを振り払うように首を横に振る。
「もう振り返ったままではいけないんですね……」
レザリアは残った一輪の待雪草を手に取った。
そっと、その花を水に放り込む様はまるで過去との決別のようで――。
その全てが沈んで見えなくなるまで、レザリアは花を見守り続けた。
大成功
🔵🔵🔵
アウレリア・ウィスタリア
思い出しました
……けれど、ボクはまだこれだけしか思い出していなかった
私はまだこれだけしか見つけていなかった
廃墟を歩きながら歌を奏でよう
私の、本当の母が歌っていた歌
ダークセイヴァーの両親とは別に
私にはちゃんと愛を注いでくれた両親がいたこと
その証拠に双子の……兄なのか弟なのか私は覚えていないけれど
私の半身を見つけた
うっすらとしか思い出せない両親の背中
ここで二人に出会うことはないでしょう
だって私は、二人を見つけるために
今もこうして生きてるのだから
だからここでは願わない
願いを弔うこともしない
この願いが今の私の全てだから
この願いがボクを支える全てだから
さあ、また前に進もう
アドリブ歓迎
●愛の空想音盤
黒曜の廃都に残ったのは静寂だけ。
忘れていたことを思い出し、また忘却させられる。
そして今、記憶は蘇った。しかしアウレリアは僅かに残念な思いを抱いていた。
失っていたこと自体は覚えていた。その中で記憶を取り戻すことを願っていたが、思い出してみればどうやら様々なものが足りていないようだ。
「思い出しました……けれど、」
ボクはまだこれだけしか思い出していなかった。
私はまだこれだけしか見つけていなかった。
言うなれば、ばらばらになったパズルのピースが集めきれていない。されど確かなかたちは見えはじめている。
それゆえにまだ此処からなのだと思える。
これが今の自分だと知り、理解したアウレリアは廃墟の最中をゆく。
黒の都市はいずれまた水底に沈むという。見納めにもなるであろう街を歩いていくアウレリアは歌を奏でていった。
(――私の、本当の母が歌っていた歌)
静かに響いていく歌声。
それは生きとし生けるものへ捧ぐ清らかなる歌。
其処に思いを込めたアウレリアは思い返す。ダークセイヴァーの両親とは別に、自分にはちゃんと愛を注いでくれた両親がいた。そのことを証明してくれるのは双子の――兄なのか弟なのか、まだわからない半身。
覚えていないけれど、揺るぎないものを見つけた。
まだうっすらとしか思い出せない両親の背中は遠い。そのためこの場で二人に出会うことはないだろうが、思いを馳せることは出来る。
それに、とアウレリアは水面の天上を振り仰いでみた。
(だって私は……)
二人を見つけるために、今もこうして生きているのだから。
歌いながら思いを紡ぐ。
アウレリアは遠く果てなき空の向こうに届くように、歌い続ける。この声がいつかふたりに届くように。幽かな記憶を辿って目指す場所に辿り着けるように。
だから、ここでは願わない。
己の抱く願いを弔うこともしない。
そうすれば終わってしまう気がする。立ち止まってはいられないと、はっきりと理解しているからだ。
この願いが今の私の全てだから。
この願いがボクを支える全てだから。
アウレリアの歌は黒曜の廃都に響き渡っていく。
この歌は過去に沈むためのものではなく、未来を紡ぐためのもの。きっと母が歌ってくれたときにも自分達の明るい未来を願ってくれていたはず。
奏でる歌声に想いを宿し、見つめる先にはちいさくとも確かな希望を映して。
――さあ、また前に進もう。
大成功
🔵🔵🔵
飛白・刻
切なくも暖かい舞台の幕は下りた
中に組み込まれた戯曲も全てが終わったのだと
ゆっくりと教会へと足を進めながら
理解っていた
過去に囚われるあまりに
花という存在すらも映せなかった事も
知っていた
あの日々の先に今の己が立つ事も
あしろ、は
確かに足掻いたのだ
自らあの檻を壊したのだ
そうでなければ壊れたまま朽ちていた
俺は此処に居なかった
ときを経て、刻へと
だから、お前は
俺が連れて行かねば
消える事のないこの傷痕と共に
全ての劇中には欲しかったものも憧れたものも
見えていたかもしれない、明確な形とならずとも
満ちぬ胸の内に咲いたは
今、現在、
それが答えかは分からないけれど
靜かに佇む祭壇の前にて
沈折ままの扇子を一振り
餞の鈴の音を
●花の音
黒薔薇の咲く庭園で巡った舞台。
苦しくて切なくも、あたたかさも感じられた劇の幕は下りた。
あれは彼らだけのものではない。すべての演目が必要不可欠であり、あの終焉のためにあったといっても過言ではないはずだ。
刻もまた、その中に組み込まれた戯曲のひとつとなった。それも全てが終わったのだと感じながら、刻はゆっくりと教会へ足を進めていく。
見せられたものは己の影。
様々な意味合いでの影であると刻自身にも理解っていた。
過去に囚われるあまりに花という存在すらも映せなかったことも知っていた。
あの日々の先に、今の己が立つことも。
忘れさせられた上で感じた気持ちこそが己の本質なのだろうか。それとも、と考えを巡らせていく刻は、あのときに掛けられた言葉を思い返す。
「……あしろ、は」
確かに足掻いたのだ、と感じる。
自らあの檻を壊したのだ。そうでなければ壊れたまま朽ちていた。
その場所を譲れと語られた言の葉を忘れてはいない。寧ろ今は忘れていたときのことすら覚えており、取り戻した記憶ごと確かめられる。
「俺は此処に居なかった」
ときを経て、刻へと――。
教会の祭壇の前に佇む彼は瞼を閉じた。
いま、この胸の裡に宿っている思いは忘れることなどない。それだから、と改めて生まれている気持ちもあった。
「お前は、俺が連れて行かねば」
消える事のないこの傷痕と共に、と口にした刻は掌を強く握り締める。傷痕の痛みすらも忘れ果てていたが、これが己の抱えているものだ。
戦いの最中に垣間見えていた、全ての劇中。
欲しかったもの、憧れたもの。手を伸ばしても決して届かないもの。数多の景色があり、見えていたかもしれない世界もあっただろう。
それが明確な形とならずとも、今の刻には幽かに掴めているものがあった。
――満ちぬ胸の内に咲いたのは。
今、現在。
それが答えかは分からず花となって咲くのかも未知数だ。それでもこれは過去を失いながらも嘗てを見た結果、手に入れたひとつの解。
花が花である理由。それは咲くまでに様々な過程を経てきたからこそ。
葉を付けて蕾となっていく。そして、その先で咲き誇る。そのいつかを想うこともまた、大切なことであるはずだ。
やがて刻は閉じていた瞼を緩くひらいた。
靜かに佇む祭壇の前。沈折ままの扇子を一振りする。
其処に響くのは鈴花と鎖の重ね音。餞としての鈴の音が生と死の境界に響き渡り、弔いとなって巡っていった。
きっとこれが刻にとっての舞台の終わりを飾る音。
されど、この水底での幕が閉じようとも――彼が刻んでいく時は未だ進み続ける。
大成功
🔵🔵🔵
ルーチェ・ムート
【蒼紅】
宝物が返ってくる
背中に腕を回してそうっと撫でた
思い出してくれてありがとう
大丈夫
ボクは此処に、ずっとキミの傍に居る
聞いてくれる?
ボクの過去
ずっと吸血鬼に飼われてて
その人がボクに歌を教えてくれた
言葉もよくわからなかったけど
ボクが歌うとその人が喜んでくれて
冷たい指で撫でてくれたんだ
歌しか知らなかった
ボクの存在は歌で
過去で成り立ってた
だから過去を忘れて、みんなを忘れた
いっとう落ち着く腕の中
今は彼の為だけじゃなく大切な縁全ての為に歌いたいと思う
ボクは何もしてないよ
蒼も含めてリオン
キミの強さだ
腕に力を込める
あいのうたを聴いていて
約定のみにやきもち
最後に残るものにボクも入れて?
だいすき、“リオン”
リオン・エストレア
【蒼紅】
舞台の終わりを見届け
失った物は帰ってきた
途端に何故か目頭が熱くなる
…ルーチェ
思い出せて、良かった…!
俺の失っていた記憶の正体
縋るように抱き締める
涙は押し止めて
彼女の話をただ静かに聞く
聞かせてくれてありがとうと優しく囁く
俺は殺す事だけが存在価値だと信じていた
同じ吸血鬼を殺す事だけが
最後に残るは約定のみだった
記憶を取り戻しても
俺が俺のままで居られるのは
お前が居たから
お前のお陰で変われたんだ
空虚な人形は願いを知れた
願い、即ちそれはお前の事だ
だから改めて言わせてくれ
これからも君の傍で
君の歌を聞かせて欲しい
それが私の願いだよ
それが俺の捧ぐ願い
蒼く煌めく瞳を細めて
”リオン”の柔い笑みでそう伝えた
●蒼と紅、歌と響
舞台の終わりを見届けた。
そして、失っていたものは心の中に戻ってきた。
忘歌によって奪われたと思っていたものは、きっと奥深くに沈んでいただけだ。
深い水底から光を拾いあげたような感覚が満ち、ルーチェは微笑む。リオンもまた、大切だと思い出したひとを目にして双眸を細めた。
途端に、どうしてか目頭が熱くなる。
それでも涙は押し込めたリオンは彼女の名前を、存在を確かめるが如く呼んだ。
「……ルーチェ」
「うん……」
宝物がこの手に返ってきた。そう感じたルーチェは彼に頷きを返し、背中に腕を回した。思い出してくれてありがとう、と囁いたルーチェは更に笑みを深める。
「ああ、良かった……!」
リオンも失っていた記憶の正体に縋るように抱き締めた。ルーチェは彼の背をそうっと撫でながらしっかりと告げる。
「大丈夫。ボクは此処に、ずっとキミの傍に居る」
そして、リオンの腕の中で一度目を閉じたルーチェは思いを巡らせた。
伝えたいことがある。
忘れてしまっていたことをもう一度、この胸に満ちさせるために。大切な宝物だと思えるひとに知って欲しい思いと記憶があった。
「ねえ、聞いてくれる?」
ルーチェからの問いに、リオンは頷いてみせる。
彼はすべてを受け止めて聞いてくれると感じたルーチェはそっと語っていった。
それは彼女の過去。
ずっと鎖に繋がれた籠の鳥であった頃の話だ。
或る吸血鬼に飼われていたこと。そして、その人が歌を教えてくれたこと。
言葉も何も知らず、外の世界など想像したこともなかった。
彼は駒鳥(かみ)とルーチェを呼んでいた。何もかもよくわからなかったけれど、彼は自分が歌えば喜んでくれた。
冷たい指先で撫でてくれたことを思い出した。何もない代わりに苦しみもなかった。
そして――しあわせだった。
歌しか知らなかった。
自分の存在は歌で、過去で成り立っていた。
「ボクは、それを忘れて……それからみんなのことも忘れてしまっていて……」
「聞かせてくれてありがとう」
僅かに俯いたルーチェに首を振り、リオンは悔やむことはないと伝える。
優しく囁く声には赦しを感じられた。あの忘歌は大切なことを封じ込めてしまうものだった。それはつまり、それほどに過去や繋がりを大事に想っているということだ。
それゆえに忘れたことこそが絆の証でもある。
駄目だと感じたことも許容してくれる、いっとう落ち着く腕の中。
ルーチェは想う。
今は『彼』の為だけではなく、大切な縁すべての為に歌いたい、と――。
そして、リオンも己について語る。
「俺は……殺す事だけが存在価値だと信じていた」
「うん、聞かせて」
ルーチェが耳を傾けてくれることに安堵めいた思いを抱き、リオンは話していく。
同じ吸血鬼を殺すこと。
それだけがそもそもの記憶を失った自分に最後に残った、約定だった。
「記憶を取り戻しても俺が俺のままで居られるのは、お前が居たから。お前のお陰で変われたんだ」
空虚な人形は願いを知れた。
願い。即ち、それはお前のことなのだとリオンは告げる。しかしルーチェはゆっくりと首を横に振ってみせた。
「ボクは何もしてないよ。蒼も含めてリオン、キミの強さだ」
そうしてルーチェは腕に力を込める。
リオンも抱く彼女の身を優しく抱き寄せ、心からの思いを伝えていく。
「だから改めて言わせてくれ」
――これからも君の傍で、君の歌を聞かせて欲しい。
それが私の願い。
リオンからの思いを受け取り、ルーチェは嬉しそうに瞳を緩ませた。
約定のみ、という言葉に少しのやきもちを抱いてしまったけれど、素直に伝えることで彼も受け入れてくれると思えた。
「最後に残るものにボクも入れて? ――だいすき、“リオン”」
この歌を聴いていて。
そう告げたルーチェに視線を返したリオンは真っ直ぐに彼女を見つめる。
捧ぐ願いを聞いてくれたから、存分に聴こう。
蒼く煌めく瞳を細め、柔い笑みを浮かべる彼はまさしく“リオン”として在る。
そして、ルーチェはうたいはじめた。
響き始めるのは、誰かひとりのためだけに紡がれるものではない。大好きの気持ち、大切な想い。過ぎていった時を弔い、慈しむ聲。
それは――みんなのための、あいのうた。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
リオネル・エコーズ
全てが水底へ沈む前に見ておきたくて、教会へ
中全体が臨める場所があればそこに腰を落ち着ける
想うのは忘却の歌と舞台劇の事
歌で人形のみんなへの後悔を忘れて
家へ帰る夢と“彼女”への願望が顕れて
ほんのいっときだけど幸せを感じてたのが、少し怖い
でも
そう感じていた事も含めて、俺なんだ
今は後悔も夢も願望も、痛みと一緒に俺の中にある
これからは欠片だって零さない
全部
全部俺のもの
抱えるものが増えたのに、自然に笑顔が浮かぶ
しっかり抱えていくよと自分自身に約束して
…そうだ
まだ時間、あるかな
教会を出て向かう先はカナン・ルーの空
色々あったけど、これが最後だから
街の姿
運命劇
忘れない、忘れないよ
じゃあね
ありがとう
●運命のみちゆき
全てが水底へ沈む前に、あの場所へ。
リオネルが見ておきたかったのは亡霊たちが揺らぐ静謐な教会。
ステンドグラスから差し込むわずかな光は、まるで境界を作り出しているかのようだ。その景色を臨むことが出来る会衆席に腰を落ち着け、リオネルは思う。
忘却の歌のこと。
そして、舞台劇のこと。
自分は歌で人形のみんなへの後悔を忘れた。ひとつだけ最後に残っていたのは家へ帰る夢と、“彼女”への願望。
ステンドグラスから揺らぐ光。その光景を見つめるリオネルは暫しの間、教会の祭壇を瞳に映していた。
顕れた感情は幸福を呼び起こした。あれが最上であると信じてやまなかった。
ほんのいっときだけど幸せを感じていたことが、少し怖かった。
でも、と俯きかけていた顔を上げたリオネルは改めて思う。
「そう感じていた事も含めて、俺なんだ」
リオネルは己を認めた。
舞台の上に立ったことは決して無駄ではなかったはずだ。誰もが様々な夢を見て、理想を演じて己を識った。
今は後悔も夢も願望も、痛みと一緒に自分の中にある。
これからは欠片だって零さないと決めていた。
「全部、全部が俺のものだ」
そう語りながら、リオネルは掌を握り締める。
抱えるものが増えたというのに、自然に笑顔が浮かんでいた。あの舞台は歪められていたものではない。憂いを消し去り、ただひとつだけを選んだ自分が望んだもの。
だから、とリオネルは胸に手を当てた。
「しっかり抱えていくよ」
約束を紡いだ先は他でもない、自分自身。
そうしてこの街に儀式に則って願いを弔ったリオネルは立ち上がる。教会での用事は終えたが、まだ少しだけやりたいことがあった。
「……そうだ。まだ時間、あるかな」
外へ出て辺りを見渡してみれば、この街が沈むにはまだ少し掛かると分かった。
そうして教会を出た彼が向かう先。
それは、カナン・ルーの空。
水底から見上げる天上の色は静かな彩を宿している。此処では色々あったが、きっとこれが最後に見る景色になるだろう。
リオネルは街の姿をしっかりと瞳に焼き付けるように見つめる。
此処で巡ったのは残虐劇――否、運命劇。
人の数だけ舞台があった。見事な結末を迎えた物語があった。
「忘れない、忘れないよ」
そのひとつずつを思い返してからリオネルは踵を返す。じゃあね、という別れの言葉と共に落とすのは心からの言葉。
――ありがとう。
紡いだのはひとりの演者として、観客として。そして、自分としての感情。
舞台を下りても己の物語は続いていく。
それこそがこれからの自分が進む道筋だとして、リオネルは歩き出した。
大成功
🔵🔵🔵
鶴澤・白雪
また沈むのね
亡霊たちと共に
ここには祭壇があるって言ってたわね
そこに向かうわ
別に会いたい人がいるわけじゃない
会ったところでどうしようもない
だからこの沈む街に
そこに残る亡霊たちに願いを送るわ
あなたたちの胸の内にも優しい花が咲くように
幸いが訪れるように
鎮魂歌にも満たない幸せを願う子護唄
歌うのは苦手
でもここには誰もいない
亡霊たちしかいない
あなたたちは巡るのかしら?
それとも一緒に眠り続けるのかしら?
どちらにしても次に目を開けた時に
願いが降り注いで幸せだと思える景色が目の前にありますように
それから眠った座長も穏やかでありますように
ま、あたしの子護唄なんてお呼びじゃないだろうけど
自己満足だから放っておいて
●巡りと眠り
「――また沈むのね」
水底の都市の最中、白雪は水面の天上を振り仰いだ。
亡霊たちと共に元あった姿に戻る街を思い、白雪は歩き出す。その目的地は願いを弔うためにあるという祭壇。
街の中に彷徨いはじめた亡霊はかつてこの街に生きていた者達だったのだろう。
彼らを軽く見遣るも声などは掛けないまま、白雪は進む。
別に会いたい人がいるわけではない。
それにもし会ったところでどうしようもないことを知っている。
だから、と決めた思いはひとつ。
この沈む街に。それから、そこに残る亡霊たちに願いを送るだけ。白雪は祭壇の前に辿り着き、自分の手を重ねる。
これが風習であるならば倣うだけだとして、そっと祈った。
「あなたたちの胸の内にも優しい花が咲くように」
そして、幸いが訪れるように。
白雪は思いを言葉に変え、ゆっくりと口をひらく。
希わくは涙ではなく優しい華を。
希わくは此の謳を耳に留めて。
掛け替えの無い貴き生命に途絶えぬ願いよ、降り注げ。
彼女が紡いでいくのは鎮魂歌にも満たない、けれども幸せを願う子護唄。
普段は歌うのは苦手だと語る白雪。しかし今の祭壇の前には白雪以外は誰もいない。いるのは亡霊だけであり、この歌は彼らに贈るためのものだからそれでいい。
そのとき、ふわりと白雪の傍に亡霊が通り過ぎた。
歌を近くで聴きにきたのか、それとも白雪自身に興味があったのだろうか。
顔を上げた白雪はふと問いかける。
「あなたたちは巡るのかしら? それとも一緒に眠り続けるのかしら?」
――?
すると少女の亡霊が首を傾げた。
どうやら彼女は自分の状況が分かっておらず、死んだとすら理解していない亡霊のようだ。しかし白雪は敢えて何かを告げるつもりはなかった。
少女が歌を聴いてくれており、気に入っている。ただそれだけで十分だと思えた。
どちらにしても白雪が願うのはひとつだけ。
次に目を開けた時に、願いが降り注いで――幸せだと思える景色が目の前にありますように、と祈りに願いを込めるのみ。
それから、眠った座長も穏やかでありますように。
「ま、あたしの子護唄なんてお呼びじゃないだろうけど」
言葉にはしなかった思いは押し込め、白雪は祭壇から離れた。
きっとこの後、また誰かが願いを弔いに来るのだろう。いつまでも独占はしておけないと感じた白雪は再び街の中に戻った。
その際に、先程の少女の亡霊が白雪の後についてきていた。
そこに居なさい、と軽く手を振った白雪だが、亡霊は後をふわふわと追ってくる。
「自己満足だから放っておいて」
――?
するとまた少女の亡霊が首を傾げた。
きっと彼女は街と共に沈むまで白雪の傍にいるつもりなのだろう。まあいいわ、と呟いた白雪は歩き出す。これがひとつの弔いになるのならば――。
それもまた、悪くはない。
大成功
🔵🔵🔵
ラビ・リンクス
記憶が戻され上書きされる
何故来たのかを思い出し
夢見た舞台は朧げに
名前のない憧憬が消え去る前に
白紙に巻き戻る前に急ぎ足で教会へ
捧げるのは俺の心
願うのは都合の良い物語ではなく
何だっけな
エート、赤い花だ
唯一亡くしたと解るもの
薔薇の良く似合う女の子
死んでもいいから彼女に会いたい
心がいつも叫んでいる
顔も名前もわからない俺の、
「僕の■■■」女王
視界を駆け抜けた一人の少女
思わず口にした別の台詞は耳に入らず
おいてかないで
振り向いて
戻ってきて
話したい、顔が見たい
名前を呼びたい
まだ君に会う為のピースが足りない
きっとそのうち見失うけど
こんなに願う事がある
白いはずの心に驚きながら
一時の幸せを追いかけて水の底を駆け廻る
●君の花
失くしたもの。記憶が戻され、上書きされていく。
何故、此処に来たのか。何故に戦ったのか。そして自分がどうやって舞台まで進んできたのかを思い出したラビは顳顬を押さえた。
夢見た舞台は朧げ。
名前のない憧憬が消え去ってしまいそうだ。また全てが白紙に巻き戻る前に、とラビは急ぎ足で教会へと向かっていく。
祭壇が見える。
それはこの都市の人々が願いを弔い、思いを昇華させるためのものだったという。
ラビが捧げるもの。それは、自身の裡にある心。
そうして願うのは、都合の良い物語ではなく――。
「何だっけな」
祈りを捧げようとしたが、何かが頭の隅に引っかかった。思い出せ、思い出せ、と記憶の奥底から引っ張り出してきたものは花。
「エート、赤い花だ」
今でも唯一、亡くしたと解るもの。
薔薇のよく似合う女の子で、そうであると思い出せるひとつきりものだ。
死んでもいいから彼女に会いたい。
心がいつも叫んでいる。今だって、叶うなら、と願ってしまっている。
「顔も名前もわからないけれど、俺の、」
――僕の■■■。
女王、という言葉と音が脳裏に巡った刹那、視界の端で何かが動いた。誰か、と言った方が正しいと気付いたのは少女の影が駆けていったと感じたからだ。
思わず口にした台詞は耳に入らず、ラビはその少女を追って駆け出した。
おいてかないで。
声が届かない。それゆえに彼女は止まってくれない。
振り向いて。
追いつけない。どうしてか彼女は遠くなっていくだけ。
戻ってきて。
止まってくれない。やがて彼女は廃墟の影に紛れてしまう。
話したい、顔が見たい。
それから――名前を、呼びたいのに。
伸ばした手は空を掴む。それでも駆ける足は止めない。あの曲がり角で待っていてくれるかもしれない。あの建物に隠れているかもしれない。
希望が捨てられない。ひとめでいいから逢いたいと願う気持ちが収まらない。
それでもラビには分かっている。
まだ君に会う為のピースが足りない。
気配はしているけれど、きっとそのうち完全に見失ってしまう。
ああ、こんなに願う事がある。
真っ白だったはずの自分の心に色が宿っていることに驚きながら、ラビは駆け続けた。
あの花が、唯一の彩。
願うことで一時だけ訪れた幸せの欠片。それを追いかけるラビは水の底を駆け廻る。止められない。止まってくれない。
導いた舞台には終わりが訪れたが、己の物語に幕を引くには未だ早い。
たとえ彼女の影を見つけられずとも、兎の役目は続いていく。
大成功
🔵🔵🔵
水標・悠里
生死の分水嶺は予定されていた未来から僕を弾き飛ばした
僕が辿るはずだった道を彼女が奪っていった
今でもそれが何より許せない
返してと叫んだところでもう戻ることはできなかった
彼女は死んだ
僕が喰われるはずだったものに飲み込まれて化け物へと変貌した
心を喰われた成れの果て
僕達が正しいと思っていた事は相手にとっての間違いだった
「幸せになって」
幸せって何ですか
向けられた僅かな温もりすらも痛くて仕方が無い
いっそ痛みで心が砕けてしまえばいいのに
そう思うほど周囲の反応が怖い
誰かを傷つけるのが恐ろしい
なんて我が儘で身勝手な都合のいい願いなんだろう
これ以上誰かを傷つける前に
元のように笑ってみせるから
気づかないで欲しい
●最愛の罪
静けさが満ちた黒曜の街。
悠里はあの舞台で巡ったことを思い、未だ少し響く身体の痛みに意識を向ける。
生死の分水嶺は予定されていた未来から悠里を弾き飛ばした。
(僕が辿るはずだった道を――)
彼女が奪っていった。
それが今という時間軸であり、元には戻せないものだ。
今でもそれが何より許せないと思える。どれほど、返して、と叫んだところでもう戻ることはできないのだとあの舞台で知った。
望むままの世界を受け入れても、戻されたのは非情な現実。
自分は生きている。そして、彼女は死んだ。
舞台とは真逆の立場が続いているのがこの世界線だ。
悠里が喰われるはずだったものに飲み込まれて、彼女は化け物へと変貌した。
あれが心を喰われた成れの果て。
「僕達が正しいと思っていたことは……」
相手にとっての間違いだった、と呟いた悠里は掌を痛いほどに握り締めた。そして、いつか聞いたあの言葉を思い返す。
『幸せになって』
しかし、今の悠里にはその言葉を素直に受け取ることが出来ない。
「幸せって何ですか」
悠里は思わず疑問を言葉にする。
概念としての幸福という存在は理解できる。だが、自分にとっての幸せというものが考えるほどに分からなくなっていく。
されど今は向けられた僅かな温もりすらも痛くて痛くて、仕方が無い。
身体の痛みは収まっても胸の奥の痛みは酷くなっていくばかりだ。いっそ痛みで心が砕けてしまえばいいのにとすら思えてしまう。
そう思うほどに周囲の反応が怖くて、言葉にできなくなる。
誰かを傷つけるのが恐ろしい。
それはなんて我が儘で身勝手な都合のいい願いなのだろう。しかし、こんな思いもこの街の願いを弔う儀式で沈められるのかもしれない。
ふとそんな思いが浮かんだが、悠里は首を横に振った。未だ弔うことはできない。きっと形だけのものになってしまうと感じたから、敢えて行うことはしない。
だから、と悠里は水面を見上げた。
これ以上、誰かを傷つけてしまう前に。化け物であることも隠して潜めて、元のように笑ってみせるから――。
どうか、誰も気付かない欲しい。
いずれ沈みゆく都市の最中、少年が抱く罪と思いもまた胸の奥深くに沒んでいく。
大成功
🔵🔵🔵
ジェイ・バグショット
取り戻したその名を呼ぶ
…アズーロ。
その一言で『ユエント』が光の魔術師を召喚する
『綺麗な場所ですね。君が居るには、少しばかり意外な場所かな。』
穏やかに笑う青年は生きていた頃と何一つ変わらない
訪れたのは水底の廃教会
祈り願うのはクィンティの安らかな眠りだけ
信仰心の欠片も無いのに自分でも都合がイイと思う
『思い出しているんですか?彼女のことを。』
…俺が水の底へ葬ったんだ。
静かに眠って欲しくて…、
もしアイツが眠る場所がこんな綺麗な場所だったら…。
こんなことを素直に言えるのは相手がアズーロだから
『…えぇ、きっと素敵な楽園ですよ。君が彼女の為にそう願っているならば。』
俺を見る柔和な青い瞳がそこにあった
●青の水底へ
忘れてしまっていたもの。
そして、確かに己の中に取り戻したその名を呼ぶ。
「……アズーロ」
ジェイが呼んだその言葉によって親愛なる幻影が傍に現れた。光の魔術師がジェイの隣に立ち、黒曜の街を見渡す。
『綺麗な場所ですね。君が居るには、少しばかり意外な場所かな』
アズーロはジェイと都市を見比べながら語った。ジェイは答えの代わりに肩を竦めてみせながら彼が見遣った先を同じように見つめる。
穏やかに笑う青年。その姿は生きていた頃と何一つ変わらないままだ。
本当に生前のアズーロと共にこの街に訪れたようだと感じるのは、ジェイが記憶を取り戻したばかりだからか。己の奥底に眠っており、封じられていただけで彼の存在は常に傍にあった。それだというのに妙に懐かしくも思える。
たった一時、心が離れていただけだというのに不思議だ。
『では、行きましょうか』
「……ああ」
アズーロはジェイが何を行いたいかを理解しており、或る一点を示した。
そうして、彼らが訪れたのは水底の廃教会。
この街にいるのならば、願いを弔うという儀式に則ればいい。静謐さが満ちる教会の中、倣って手を重ねたジェイは祈る。
願うのはただひとつ。クィンティの安らかな眠りだけ。
信仰心の欠片も無いというのにこんなときだけ縋るように祈るのは、流石に自分でも都合がいいと思う。
ジェイが胸中で独り言ちていると、傍らに立っていたアズーロが口をひらいた。
『思い出しているんですか? 彼女のことを』
「俺が水の底へ葬ったんだ」
それだから当たり前だとジェイは彼の声に答える。そして、教会のステンドグラスから差し込んでいる幽かな光を見上げた。
「静かに眠って欲しくて……もしアイツが眠る場所がこんな綺麗な場所だったら」
そのように思うのだと語ったジェイ。
こんなことを素直に言えるのは相手が他ならぬアズーロだからだ。
青年はジェイの思いを否定することなく、静かに耳を傾けていた。そして、ジェイを見つめるアズーロは穏やかに微笑む。
『えぇ、きっと素敵な楽園ですよ』
「そうだろうか。そうだと、良い……」
『君が彼女の為にそう願っているならば』
アズーロからの言葉に頭を振りそうになったが、ジェイは頷き返す。
願いは本心からのものだ。願うことで再び弔うことが出来るならば、彼女も――とジェイは考えを巡らせた。
ふと傍らを見れば、アズーロが自分を見つめていた。
取り戻した存在と共に祈り、願う。そして、柔和な青い瞳が其処にある。
思い出したのは、どのような形であっても生き続ける理由があったということ。それこそがジェイをジェイたらしめるものだ。
贖罪と後悔。過去と現在と未来。彼の物語は未だ、終わらない。
大成功
🔵🔵🔵
サフィリア・ラズワルド
POWを選択
街を一望出来る高い所でぼーっとしています。
昔に戻った自分、正直に言うと戦うのがとても楽だった、余計な事を考えない、自分が正しいと信じた道だけを進む、偽りの真実で教え込まれたものだったけれど戦う者として生きていくには都合が良かった、施設を出て、正しい事を知ったけど、変わらず私は戦う者だ。
私は昔のままの方が良かったのかな……あれ、貴方は?
突然現れた竜人の男性に驚きつつ思ったことを話します。男性は一言も喋らないけどずっと私の話を聞いてくれている、話終えて気づいたら消えていたけれどとっても良い人だったなぁ、でも
『あんな人、猟兵の中にはいなかったような……』
アドリブ歓迎です。
●ふたりの竜人
廃都内、建物の屋根の上。
此処が街を一望出来る場所だと感じたサフィリアは、ぼんやりと街並みを見ていた。
眺めるのは生きる人の居ない街。
時折、透き通った亡霊の影が所々に見えた。その姿を目で追いながら、サフィリアはちいさく息を吐く。
思い返したのは昔に戻った自分。
竜であると信じていた、何も知らなかったままのサフィリアだ。
「正直に言うと……」
そっと零れた言葉の続きは胸中で紡がれた。
あの状態の方が力を振るえた。そう、戦うのがとても楽だったのだ。
余計なことを考えないでいい。自分が正しいと信じて進む道筋はただひたすらに真っ直ぐだった。寄り道もしなくてよければ、道を阻むものも曲道もない。
あれは偽りの真実で教え込まれたものだった。けれど今思えば、戦う者として生きていくには都合が良かった。
施設を出て正しいことを知ったサフィリアだが、今も戦う者であることは変わりない。
腰掛けた屋根の上で足をぱたぱたと揺らす。
翼がそれに合わせて軽く揺れ、尻尾が自然にゆらゆらと横に振られた。
サフィリアは過去と現在を比べながら、ぼーっとしている。
「私は昔のままの方が良かったのかな……」
ふと零れた言の葉は無意識のもの。もう元には戻れないと分かっているのだが、戦いのことだけを考えるならば効率的だと思えた。
しかしそのとき、サフィリアの隣に誰かが現れる。
「あれ、貴方は?」
それは竜人の男性。驚きはしたが、彼もまたこの景色を見に来たのだろう。
何せこの屋根の上は街がよく見える。
いずれ水底に沈んでしまう場所を見納めるには絶好の場所だ。サフィリアは同志だと感じた彼に思ったことを伝えていく。
同じドラゴニアンであるならば境遇も理解してくれるかもしれない。
自分が竜の幼体だと思わされていたこと。
数多の同胞がいなくなっていったこと。そして、今の自分のこと。
『…………』
男性は何も答えはしなかったが、サフィリアの言葉に耳を傾けてくれていた。
サフィリアは聞き上手な仲間だと思って次々と思いを零す。これほどに話しやすいのは何故だろうか。
ふと不思議に思って顔をあげると彼はいつの間にか消えていた。
「とっても良い人だったなぁ、でも……」
話は終えていたから良かったのだが、サフィリアは首を傾げてしまう。当初は仲間のひとりだと思っていたが見覚えがない。
「あんな人、猟兵の中にはいなかったような……?」
疑問が解けることはなかった。
それでもどうしてかサフィリアの心は落ち着いている。きっとあの竜人のお陰だと感じながら、サフィリアはもう暫し黒曜の街を眺めていようと決めた。
大成功
🔵🔵🔵
メアリー・ベスレム
めでたしめでたし、ね
あのヴァンパイアは誰かをただ嘲ったり、玩んだり
それだけの存在じゃなかった
誰かに恋して、誰かを愛して
それで最期は、人間みたいに死んだのね
他の猟兵の元をそっと離れて
独りで水葬の街をそぞろ歩く
……つまらないわ
オブリビオンなんてみんな、人を食い物にするだけの存在だって
そう思っていたのに
そもそもメアリ/アリスは
きれいな戀なんて知らない
アリスが知っているそれは、誰かを汚したいという欲望だもの
すてきな愛なんて要らない
メアリが知っているそれは、誰かを殺したいという意思だもの
腹立ちまぎれに目障りな亡霊を切り裂いて
一体それが誰だったかなんて考えようともしないまま
不貞腐れてそっと立ち去る
ふん、だ
●愛と戀と死と
「めでたしめでたし、ね」
黒曜の街で巡った舞台と結末を思い、メアリーはそんな言葉を落とす。
錆びた断頭台が飾られている広場の片隅。まだ崩れ落ちていなかったベンチに腰掛けた少女は軽く頬を膨らませた。それは今の言葉を彼女が納得して語ったのではないことを示している。
メアリーは足を揺らしながら思う。
あのヴァンパイアは誰かをただ嘲ったり、玩んだり、それだけの存在ではなかった。
罪なき人を死に導いた過去があり、倒すべき相手だったことは間違いない。
それでも、とメアリーは息を吐く。
「誰かに恋して、誰かを愛して……それで最期は、人間みたいに死んだのね」
彼の最期を確かめるように呟く。
そうしてメアリーは立ち上がり、もう少しすれば水の底に沈んでしまうという街の中を漫ろ歩いていった。
祈りを捧げるのは気が乗らなかった。
それゆえに教会を見るだけに留め、其処からそっと離れる。独りで水葬の街を見てまわる少女はぽつりと零す。
「……つまらないわ」
オブリビオンなんてみんな、人を食い物にするだけの存在だ。
そう思っていたのに、あの結末はあまりにもやさしいものだった。ひとつの舞台がめでたしで終わったことをメアリーは上手く受け止められないでいる。
だが、それもまた感想であり観想だ。
「そもそもメアリ/アリスは――」
少女は独り言ちる。
きれいな戀なんて知らない。
あれが美しいというのかもよく分からないし、きっと裏には様々なことがあったはず。
(アリスが知っているそれは、誰かを汚したいという欲望だもの)
すてきな愛なんて要らない。
自分にそのようなものを識る機会が訪れるとも思えない。今はまだ理解できない。
(メアリが知っているそれは、誰かを殺したいという意思だもの)
言葉には出来ない思いを胸に沈め、メアリーは俯く。
そのとき、彼女の目の前に亡霊が現れた。首が千切れかけている哀れな霊だ。おそらく先程、通り過ぎた断頭台で処刑された者なのだろう。
『たすけて、くれ……』
「……なあに?」
『殺して、ころし、て……くれ』
「――そう」
死を受け入れられずに苦しんでいる様子の亡霊を見遣ったメアリーは頷いた。腹立ちまぎれであはったが、望み通りに亡霊を切り裂く。
一体それが誰だったかなんて考えようともしないまま、彼の存在を散らせた。
そうして少女は不貞腐れ、その場から立ち去る。
「ふん、だ」
たった一言、落とした音。其処には未だ整理できない少女の思いが絡まっていた。
彼女なりの舞台への感想もまた大切なものだ。
そうして、時は進んでいく。
大成功
🔵🔵🔵
東雲・咲夜
【舞夜】
舞ちゃんの無邪気にはしゃぐ姿はかいらしくて
昏い水間にも陽が射すよう
弾む問い掛けには…勿論、伴に
うちの縁結ぶ神様とはちごてはるけど
尊ぶべき存在へ捧ぐ祈りはきっとおんなじ
此地に眠る総ての魂が
どうか安らかでありますように
うちの大切なひと…?
ああ、忘れてしもた御方の事やね
『人』ではあらへんのやけども
うちが幼い頃に
"初めて"嫁いだ『神様』よ
普段は龍の態をしてはるけど
…今でも忘れへん
透き通った黛青の御髪
端整な貌立ちに硝子珠の明眸
白磁の肌膚に謹厳なる佇まい
天上人に在りて相応しき殿方
守姫としての重苦に苛まれた日々を
優渥に包んでくれはった
大切な、大切な御方
うちにも、舞ちゃんの大切なひと
教えてくれはる…?
櫻・舞
【舞夜】
ほわぁ、とても綺麗な街
この素敵な街がすっぽりと水の中に沈んでいたなんて
人の目に触れる事を許されてない楽園の様
あっ、咲夜お姉様。教会があります。
御祈りをしてもよろしいですか?
膝をつきそっと祈る
皆様の無事と大切な思い出が戻って来れたお礼とそして戦った方の安らぎを想って
あの…聴いてもよろしいですか?
お姉様の大切な人ってどんな方なのでしょうか?
初めての神様…お姉様の温かいお言葉で本当に大切な方なのだとわかります。
わたくしですか?
わたくしも『人』ではありません。
この日本刀です、囚われた時から傍らにわたくしを護って下さった
後ろ姿ですが一度だけ人としての姿を見ました
とても暖かく優しい方でした。
●花咲く祈り
泡沫に包まれた水底の街。
落ち着いて景色を眺めて見れば、まるで逆から見るアクアリウムのよう。
「ほわぁ、とても綺麗な街」
この街がすっぽりと水の中に沈んでいたなんて、と微笑む舞は思う。この場所は人の目に触れる事を許されていない楽園のようだ、と。
咲夜は舞が無邪気にはしゃぐ姿を隣で見つめ、そうやね、と穏やかに頷く。
「昏い水間にも陽が射してるんやね」
淡い光が水底にも届いている。黒の街であるからこそ光が目立ち、尊く思えた。
ふたりで暫し歩いた先、舞はぱっと表情を輝かせる。
「あっ、咲夜お姉様。教会があります。御祈りをしてもよろしいですか?」
「もちろん、ええよ」
伴に、と答えた咲夜は舞と共に教会に向かう。
中に祭壇が見え、舞は双眸を静かに細めた。そしてその前に膝をつく。
そっと祈るのは切なる思い。
皆の無事と大切な思い出が戻って来た礼。更には戦った方の安らぎを想って――。
(うちの縁結ぶ神様とはちごてはるけど、尊ぶべき存在へ捧ぐ祈りはきっとおんなじ)
だから、と同じく咲夜も願いを弔う。
此地に眠る総ての魂が、どうか安らかでありますように――。
祈りを終えるまで共に傍に居た咲夜は立ち上がった舞に手を差し伸べる。ありがとうございます、と告げて手を握った舞はそっと笑む。
そうして、舞達はこの街で忘却した物事について考えを巡らせた。
今は全ての記憶が戻っているが、喪失したということだけを覚えていた時分は妙に不安だった気がする。
「あの……咲夜お姉様、聴いてもよろしいですか?」
「舞ちゃん、どうしたん?」
不意に舞が問いかけてきたことで咲夜は首を傾げた。何でも言ってみると良いという旨を告げれば、舞はほっとした様子で更に問う。
「お姉様の大切な人ってどんな方なのでしょうか?」
「うちの大切なひと……? ああ、忘れてしもた御方の事やね」
その御方は『人』ではあらへんのやけども、と咲夜は語っていく。
幼い頃に“初めて”嫁いだ『神様』。
普段は龍の態をしてはるけど、という風に話した彼女は少しだけ遠い目をする。
「……今でも忘れへん」
透き通った黛青の御髪。
端整な貌立ちに硝子珠の明眸。白磁の肌膚に謹厳なる佇まい。
天上人に在りて相応しき殿方なのだと咲夜は語る。
あの御方は守姫としての重苦に苛まれた咲夜の日々を優渥に包んでくれた。慈しむように過去を話す咲夜は双眸を緩く細め、舞に笑いかける。
「大切な、大切な御方やったんよ」
「初めての神様……お姉様の温かいお言葉で、本当に大切な方なのだとわかります」
彼女の話に耳を傾けていた舞もつられて微笑んだ。
すると咲夜は逆に問いかける。
「うちにも、舞ちゃんの大切なひと教えてくれはる……?」
「わたくしですか?」
勿論だと答えた舞も自分が思い出した大事な存在について語り返していく。
聞かせて、と待つ咲夜に向けて舞はゆっくりと話す。
「わたくしも『人』ではありません」
この日本刀です、と示したのは戦いの最中にも見えた刃。
自分が囚われた時から傍らにあり、舞を護ってくれた。いつかに一度だけ、後ろ姿だけではあるが人としての姿を見たことがある。
「とても暖かく優しい方でした」
「そうやったんやね……聞かせてくれてありがとう」
「いいえ、咲夜お姉様こそ」
其々の大切なひとを語ったふたりは淡い視線を重ね、互いに礼を告げあった。
取り戻したものはかけがえのない想い。
そして、こうして共に在れることを喜びあったふたりは更に言葉を交わしていく。
――ねえ、咲夜お姉様。
――なあに、舞ちゃん。
囁きあう彼女達がそれから何を語ったのか。
それはこのふたりだけが知っている、ちいさな秘密のおはなし。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
ルーシー・ブルーベル
【月光】
ゆぇパパの元へかけていく
あなたのえがおを見て
覚えてくれていると
思い出してくれていると安心するの
『お帰りなさい』
『ただいま』
ルーシーの一番新しい約束
こんなにも
あたたかい約束も有る
とてもきれいなのに
もうすぐここは沈んでしまうのね
ええ、パパ
覚えておきましょう
この街の事を
あなたに手を伸ばすの
ルーシーが思い出したのは
パパとさよならした時の最期の記おくよ
ブルーベルのパパからの大切なお願い
ああ
想えばまたあの花が咲く
けれど
この手の温もりが違うつぼみをつける
このひとの事を、知りたいと
ねえパパは?
どんな事を思い出したの?
まあ
お役に立てたのなら良かった
……大切な
ふふ、うん
つないだままの手をひとつ、大きく振る
朧・ユェー
【月光】
約束の場所
笑顔で掛けてくる君を微笑みで返して
そっと抱き締める
戦いの前に約束した君に伝える言葉
『お帰りなさい』そして『ただいま』
君を覚えている
ルーシーちゃん、僕の小さな天使
水底の街
一瞬見える幻の街は美しい
えぇ覚えておきましょうねぇ
せっかくだから探索しようか
小さな手をそっと握り歩く
ルーシーちゃん、何を想い出し何を想ったのかな?
君のパパの想い出それはきっと切ないモノだったのだろう
僕かい?
そうだね、大切な人達
ルーシーちゃんや皆の想い出
でもねぇ、暖かな贈り物で目が覚めた
君達を思い出したよ、ありがとうねぇ
気遣うこの小さな身体にきっと大きな重荷があるのだろう
少しでも軽く和らぐ事を僕が出来ればと微笑む
●その胸に咲いた花は
約束の場所。
見知った人影を見つけ、少女は駆けていく。
ルーシーが向かったのはユェーの元。おいで、と腕を広げたユェーの傍に辿り着いた少女は笑顔を浮かべる。
それはユェーが優しい微笑みを向けてくれているから。
「お帰りなさい」
「ただいま」
言葉を交わして、あなたのえがおを見つめる。もう忘れてはいない。ちゃんと互いを思い出して、覚えてくれていると知れば安堵の気持ちが巡った。
これがルーシーの一番新しい約束。
こんなにもあたたかい約束も有るのだと教えてくれるひと。
ユェーは少女をそっと抱き締める。告げあった言葉こそが約束であり、君を覚えているという証でもあった。
「ルーシーちゃん、僕の小さな天使」
呼び掛けられた言葉に、ええ、と頷いたルーシーは黒曜の街をそっと見渡した。
気になったのは揺らぐ泡沫の向こう側。今も水の中にあるこの都市はまもなくすれば本当の姿――即ち、水底に眠る静寂の街に戻ってしまう。
「とてもきれいなのに、もうすぐここは沈んでしまうのね」
「せっかくだから探索しようか」
水底の街と称されたこの場所は、正しく水の底へ。それが運命なのだと知っているふたりは辺りを見つめる。
「ええ、パパ。覚えておきましょう」
「えぇ覚えておきましょうねぇ」
この街のことを、と告げたルーシーは言葉を返してくれたユェーに手を伸ばす。
小さな手をそっと握ったユェーは歩き出した。そうして彼らは黒曜の街を巡り、それぞれの話を語っていく。
「ルーシーちゃんは、何を想い出して何を想ったのかな?」
「思い出したのは……パパとさよならした時の最期の記おくよ」
それはブルーベルの方のパパ。彼からの大切なお願いを忘れてしまい、そうしてまた思い出した。それはルーシーの胸の内に咲く花を表すものでもある。
ああ、と静かに口にした少女は空いた片手で胸を押さえた。
想えばまた、あの花が咲く。
花の名前を繰り返すことはしない。誰かに告げることも、今はしない。
けれど、とルーシーは繋いだ手をそっと握り直す。
この手の温もりが違うつぼみをつけてくれる。このひとのことを知りたい、と――。
「そうか……君のパパの想い出。それはきっと切ないモノだったのだろうねぇ」
ユェーは静かに頷きを返し、ルーシーの手を更に包み込む。対するルーシーはこくりと首肯して彼を見上げた。
「ねえパパは? どんな事を思い出したの?」
「僕かい? そうだね、大切な人達だよ」
代わりにユェーも語り返していく。ルーシーをはじめとした皆の想い出。一度は忘れてしまったけれど、今は確かに思い出している。
「暖かな贈り物で目が覚めたんだ。君達を思い出したよ、ありがとうねぇ」
「まあ、お役に立てたのなら良かったわ」
笑みを交わしたふたりは街を歩いていく。様々な建物が見え、いつかの過去に誰かが暮らしていた跡が見えた。
その景色を眺め、ひとつずつを瞳に映しながらふたりはゆく。
そして、ルーシーは片目を緩く細めた。
(……大切なもの)
「どうしたの、ルーシーちゃん?」
「ふふ、うん。少し……うれしいと思ったの」
新たに咲きはじめた花を想い、ルーシーはつないだままの手をひとつ、大きく振る。
気遣うこの小さな身体にきっと大きな重荷があるのだろう。少しでもその荷物を軽く、和らげること自分が出来れば――。
そう感じたユェーは少女をやさしく見下ろし、ふたたび微笑んだ。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
蘭・八重
ちゃぷんぴちゃんと水辺を歩く
あのまま堕ちたままだったどうなってたかしら?
それはそれで楽しそうね
水面に揺れる姿
妖艶な微笑みが優しげな微笑みと変わる
わたし?いや、わたくし、ね
貴女はまた邪魔をする
あの子を想う気持ちは同じなのに
わたし、殺してでも独り占めしたい
わたくし、ダメよ、あの子はもう一人では無いの
記憶を分けた事で混ざりあっていた魂が剥がれ始めている
嗚呼、わたくしが支配しようとしている
いえ、元に戻るだけよ…わたし
どうして?どうしてなの?
あの子とわたしは同じなのに
どうしてあの子だけ愛するの
一一お姉様
揺れる水面、優しい微笑みから妖艶な微笑み
愛してるわ
あの子を害するものは許さない
例えそれが私であろうとも
●白と黒
都市の片隅に水が溜まっている。
きっとこれはこの街が徐々に沈みゆく印なのだろう。
ちゃぷん、ぴちゃんと水辺を歩く。足に感じる冷たい水の感触を確かめながら、八重は己が囚われた舞台を思い返していた。
「あのまま堕ちたままだったら、どうなってたかしら?」
それはそれで楽しそうね、と八重は笑む。
口許に微笑みを湛えたまま、彼女は水面に揺れる自分の姿を見下ろした。忘れてしまった記憶は戻ってきている。
妖艶な微笑みは次第に優しげな微笑みに変わっていった。
「わたし? いや、わたくし、ね」
独り言ちた八重は爪先で水を軽く蹴る。揺らいだ水面に波紋が生まれた。しかしそれも次第に収まり、再び水は鏡となっていく。
――貴女はまた邪魔をする。
浮かんだ思いは八重の胸の裡に秘められた。それでも、と彼女は思う。ふたつの自分がいるかのように八重は胸中で自問自答していく。
『あの子を想う気持ちは同じなのに』
『わたし、殺してでも独り占めしたい』
『わたくし、ダメよ、あの子はもう一人では無いの』
『奪われたのに』
『違うの、そうでは無いのよ』
どの言葉がどちらであるのかも曖昧な会話が広がる。記憶を分けたことで混ざりあっていた魂が剥がれ始めているようだ。
やがて、曖昧だった会話ははっきりとふたつに分かれていく。
『嗚呼、わたくしが支配しようとしている』
『いえ、元に戻るだけよ……わたし』
『どうして? どうしてなの?』
『あの子とわたしは同じなのに』
『どうしてあの子だけ愛するの』
――お姉様。
ふたたび水面が揺れる。
新たな波紋が生まれ、消える度に優しい笑みから妖艶な微笑みに変わる。
そして、八重はそっと呟いた。
「愛してるわ」
裡に宿っているのは八重としての想い。
やがて彼女は水溜りから踏み出して歩き出した。もう水面には何も映っていない。
「あの子を害するものは許さない」
八重の気持ちは決まった。
たとえそれが、自分自身であろうとも――。
大成功
🔵🔵🔵
セフィリカ・ランブレイ
舞台の上の愛と恋を見届けた
心在り様、因果は人それぞれ
私にとっての愛と恋は?
愛情は、一杯もらった
可愛げのない子供を精一杯育ててくれた両親
ずっと傍にあったこの魔剣
貰うばかりで中々返せない
恋。ピンと来ない単語
夢中になれる誰かと出会っていないだけか
性分が薄情なのか…
なんとなく、記憶がない時の自分は思い出せる
全能感と愉悦
…でも、楽しかったかといわれると……
「一人遊びが上手なだけじゃ、何事も楽しくはないってね」
《どーしたよ、おセンチぶって》
相棒の魔剣と軽口を叩く
中々来れない場所だ、風景の一つでも覚えていこう。楽しもう
「シェル姉はさ、理想の恋とかそういうの、あるの?」
《理想なんてあっても意味ないと思うけど》
●感情の意味
水底に沈む黒曜の都市。
ひとときだけ蘇った街の舞台の上、愛と恋を見届けた。終わってみればあっけなく、観終わった後には普段通りの時間が流れてていくだけ。
それでも想うことはある。
最後に街を見回ってみようと感じたセフィリカは今、思いを巡らせていた。
通り掛かった街並み。
其処にはもう誰もおらず、ときおり亡霊が揺らいでいるだけだ。
心の在り様。因果は人それぞれにある。
あの亡霊達にも、この街に集った猟兵達にも。その数だけ過去があり、思い出があり、記憶が存在していた。そして、各自にとっての大切なものがあった。
そして、セフィリカは歩を進めながら考えていく。
(私にとっての愛と恋は?)
思えば、愛情は一杯もらってきたように思えた。
可愛げのない子供だった自分を精一杯、育ててくれた両親の顔が浮かぶ。ひとつずつの記憶を思い返すときりがないが、それだけ思い出があるということだ。
そして、ずっと傍にあったこの魔剣――シェルファ。
記憶を失くして戦いに挑んでいたときも必死に呼び掛けてくれていた。そのおかげで自ら呪縛を解けたのだ。
貰うばかりでなかなか返せていない、とセフィリカは首を緩く横に振る。
そして、恋。
それはまだピンと来ない単語だ。
「……恋、か」
思わず口にしてしまう。憧れているかと問われればよく分からない。夢中になれる誰かと出会っていないだけか、それとも自分の本来の性分が薄情なのか。
黒曜の街をゆっくりと歩いていくセフィリカは軽く溜息をつく。
或る建物の傍を通った時、奥に割れた鏡が見えた。其処は何かの店だったのか、嘗ての面影は見えないが鏡の欠片に映った自分を見る。
なんとなく、記憶がない時の自分は思い出せた。シェルファの声を聞こうともしなかった自分は全能感と愉悦を覚えていた。
何でも出来る。何だって切り捨ててやれると感じていた。
「……でも、楽しかったかといわれると――」
セフィリカはもう一度、息を吐いて肩を竦める。そうして、ひび割れた鏡から視線をそらし、再び歩きはじめる。
自分から目を背けたかったわけではないが、いつまでも鏡を見ていられなかった。
「一人遊びが上手なだけじゃ、何事も楽しくはないってね」
『どーしたよ、おセンチぶって』
そのとき、相棒が話しかけてきた。魔剣シェルファを見下ろしたセフィリカはいつものように軽口を叩きあう。
「別に、それほどセンチメンタルになってるわけじゃないよ」
それでやっと自分がちゃんと戻ってきた気がした。
セフィリカは街の風景を見渡しながら、ひとつでもこの景色を覚えておこうと思う。楽しもう、と口にして剣の柄をそっと握った。
そして、ふと問いかける。
「シェル姉はさ、理想の恋とかそういうの、あるの?」
『理想なんてあっても意味ないと思うけど』
「確かに恋は落ちたら一瞬、なんて聞くけれど……」
『気付いたら知ってるかもね』
「そんなものなのかな?」
そんな遣り取りを交わしながらひとりと一刀は街をゆく。
愛と恋。
誰もが一度は悩み、答えを見つけることの難しいものについて考えながら――。
大成功
🔵🔵🔵
桜屋敷・いろは
さくらをおもい、さくらをうたう。
一度亡くしたマスター
忘却でもう一度なくしてしまった、マスター
もう、喪いたくない
マスターから頂いたこのからだで
声で、うたで。
ずっと貴方を想っています。
さくらの花は儚くて
咲いたと思えば僅かな風にすぐ攫われてしまいます
でも、その儚さが愛おしい
そして、何年も何十年も、何百年だって
いつでも咲いて、皆さんを楽しませる
そんな素敵な花を、マスターと共に戴けて
『嬉しい』という感情があります
庭園の薔薇を愛でながら、マスターに想いを込めて
うたえ、とどけ、わたしのうた。
わたしの、あいしたあなたへ。
●はなのいろは
黒い花しか咲かないという黒曜の街。
漆黒の薔薇が咲く庭園の片隅。いろははその最中で瞼を閉じた。
そして、さくらをおもい、さくらをうたう。
自分の胸に咲いた花であり、あの舞台の中心で懸命に泳いでいた人魚――在りし日の少年の中にもそっと咲いていたもの。
黒の世界に淡い花の彩をとかすように、いろははうたいつづける。
想うのは変わらず、いとしいひとのこと。
一度は亡くしたマスター。
そして忘却の歌によってもう一度なくしてしまった、マスター。
あの人魚の歌は本当に大事なものを心の奥に沈めるというもの。つまり、失ったのは彼が何よりも大切なものだったから。
忘れたものこそがそれぞれの者にとって宝物に等しいものだったという証でもある。けれど、といろはは自分の両手をそっと重ねた。
もう、喪いたくない。
それだから、うたう。うたいつづけることで想いを示していく。
マスターから頂いたこのからだで。
この声で、このうたで。
――ずっと貴方を想っています。ずっと貴方だけに紡ぎ続けます。
そんな思いを切に願い、祈り、うたに宿していく。
さくらの花は儚くて、命は短い。
咲いたと思えば僅かな風にもすぐ攫われて、花を散らしてしまう。
でも、その儚さが愛おしい。
季節が巡れば何度も咲き誇る。散っても良いのだと、それこそが廻りであるのだと、そっと教えてくれる。そして、何年も何十年も、何百年だって。
いつでも咲いて、皆を楽しませる。
桜屋敷という名を改めて思い、いろはは静かに微笑む。さくらの花は今も自分の裡に咲いている。儚い想いであろうとも貰った名前と共に色付いている。
素敵な花をマスターと共に戴けたこと。
そこには『嬉しい』という感情が宿っている。
哀しみもあった。苦しい思いもこれまでに知ってきた。それでも、己の根源となるのはマスターへの想いと感謝と、愛しいという気持ち。
そっと庭園の薔薇に手を伸ばしたいろはは花を愛でる。
この水葬の都市が沈むということは花も一緒に眠ってしまうのだろう。この花達とも別れが来るのだと感じながら、いろははふたたび花唇をひらく。
ずっと、ずっと歌い続けよう。
マスターに、大切なひとに、大事な記憶に。
咲きゆくさくらの花のように、たくさんの想いを込めて――。
うたえ、とどけ、わたしのうた。
わたしの、あいしたあなたへ。
大成功
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ユヴェン・ポシェット
ミヌレ…悪かったな。
忘れてしまったから怒っているのか…?否、そうでは、ないのか。
なんだ、お前も忘れていたのか。お前自身の事を。だから動かなかったんだな。
…もう、忘れないよ。
お前達の事。お前達がいなかったら、俺は俺で居られない。
うん?やけに甘えてくるじゃないか。…そうかミヌレも、怖かったんだな。
ロワの事もタイヴァスの事もテュットの事も。もう二度と忘れたりしないと誓おう。
俺の元へ帰ってきてくれてありがとう。そして、ただいま。
さて、少しの時間、この地を見てまわろうか。今度はお前達と、皆で一緒に。桃蝶区や紅蝶区が気になるところだが、さて何処から巡ろうか。
●親愛の証
すべての記憶は戻り、大切なものの名前を思い出した。
その存在を、これまで過ごしてきた日々を、そして――共に戦ってきた軌跡を。
「ミヌレ……悪かったな」
「きゅう!」
ユヴェンは竜の姿に戻ったミヌレを抱き上げ、申し訳無さそうに告げる。するとミヌレは語気を強くしながら、尻尾をぶんぶんと振った。
「忘れてしまったから怒っているのか……?」
「きゅ! きゅうう!」
「そうでは、ないのか。なんだ、お前も忘れていたのか」
「きゅっ!」
ユヴェンが問うと、ミヌレは首を横に振ったり縦に振ったりと忙しなく動く。どうやらミヌレも自分が槍竜として在ることを忘却していたようだ。
「だから動かなかったんだな」
「きゅ……」
ミヌレもまた、ユヴェンのように申し訳ないといった様子だった。そして、それ以上に寂しかったという雰囲気が伝わってくる。
「……もう、忘れないよ。ミヌレもタイヴァスも、テュットも、ロワも」
ユヴェンがそう告げると、頭上から鷲の羽撃きが響いてきた。やっと思い出したのかと言うようにタイヴァスが近くを飛んでいる。
静かに頷き、ああ、と答えたユヴェンは外套をそっと撫でた。
「お前達のことはもう絶対に忘れるものか。お前達がいなかったら、俺は俺で居られない。それが分かったんだ」
忘却を乗り越えた先にあったのは大切なものを再確認する時。
大事であればあるほどに失われる。あの歌が教えてくれたのは、共に戦うもの達がユヴェンにとってどれだけ失くしてはいけないものかということだ。
きゅ、と鳴いたミヌレがユヴェンにすり寄る。
「うん? やけに甘えてくるじゃないか。……そうか」
怖かったんだな、とやさしく告げるとミヌレはそのまま目を閉じた。主の存在を確かめるように寄り添ってくれる槍竜がとても愛おしく思える。
気付けばユヴェンの傍にはロワやタイヴァスもいた。テュット達の心もそっと伝わってくるかのようで、ユヴェンは双眸を細めた。
「今の言葉をしっかりと誓おう。それから……」
忘れないと告げた思いを胸に抱き、彼はかけがえのない仲間達を見渡していく。
伝えたい思いがあった。
それは自然と胸の裡から溢れてきた感謝と親愛だ。
「俺の元へ帰ってきてくれてありがとう。そして――ただいま、皆」
ユヴェンの言葉は心からのもの。
ミヌレが元気よく鳴き、テュットが揺らめく。ロワは穏やかに寄り添い、翼を広げたタイヴァスは頭上を翔ける。
これですべてを取り戻すことが出来た。
「さて、まだ少しの時間もある。この地を見てまわろうか」
今度はお前達と。皆で一緒に。
桃蝶区や紅蝶区、黒蝶区に白蝶区。時間の許す限り巡っていこうと決め、ユヴェンは大切な仲間と共に歩き出した。
そして、いつものお決まりとなったあの言葉を相棒竜に向ける。
「さて何処から巡ろうか。――行くぞ、ミヌレ」
大成功
🔵🔵🔵
泉宮・瑠碧
教会、というのは私…
僕、には馴染みが無いが
揺蕩う亡霊達は苦しい訳では無い、のか
それなら良いが…
祈りを捧げよう
自分の姉は、此処には居ないから
此の地で亡くなった人々へ
…游ぐ亡霊達が苦しく無いように
水底へ沈んでも、穏やかな気配が満ちます様に
…りるるり達も
いつか普通の鳥として、遊ぶ事が出来たら…良いな
…ねえ、姉様
どうして、生きてと願ったの…?
生きる事は、苦しくて…悲しくて
独り遺されて、何も無い、私に…
…きっと、この心に花は咲かないのでしょう
種は失くして
幸せも、笑顔も、すり抜けて行く
…それでも
実を結ばなくても
芽が出なくても
無意味でも
残った心だけは、曲げない
それが、私が生きているという事だと、思うから
●私という存在
静謐と深閑さが満ちた教会。
私は、と言いかけた瑠碧は緩く首を振り、僕という一人称に言い変える。
「こういったところは僕には馴染みがないけれど……」
そうして瑠碧は辺りを見渡してみる。彷徨い揺蕩う亡霊達はただ其処にいるだけ。
中には死を認めていないものもいたようだが、その多くは特に苦しんでいるわけでもなさそうだ。それなら良いが、とひとまずの安堵を抱いた。
そして、瑠碧は祈りを捧げる。
この街の住人だった者や、此処に訪れた人々が抱いた願いを弔うために。
自分の姉は此処には居ない。だから逢えなくとも良いし、逢うことも望んでいない。その代わりに此の地で亡くなった人々へ、と願う瑠碧はやさしい気持ちを向けていく。
(……游ぐ亡霊達が苦しくないように)
どうか、水底へ沈んでも穏やかな気配が満ちますように。
祈りを紡いでいく瑠碧が次に思うのは、懸命に戦っていのちを散らした鳥達のこと。やはり今になってもかれらは悪いものには思えなかった。
きっとただ立場が違い、信じるものが別だったというだけ。
「りるるり達も、いつか普通の鳥として、遊ぶ事が出来たら……良いな」
瑠碧はいつかを願う。
オブリビオンであったものが輪廻の輪に巡るものとなるのかは分からないが、祈るだけならばきっと許されるはずだ。
祈りを終えた瑠碧はそっと両手を下ろす。
「……ねえ、姉様」
届かないと分かっているが、問いかけずにはいられなかった。
瑠碧の心に戻った記憶はあまりにも残酷だった。あのまま思い出さなければよかったと感じるものもある。
「どうして、生きてと願ったの……?」
生きること。
それは苦しくて悲しくて、果てしないものだ。
独りきり、遺されてしまった何もない自分が進んでいくには険しい道ばかり。
すべてに絶望するには未だ少し遠い。しかし、希望というものも未だ見えない遙か先に隠れているように思えた。
「……きっと、この心に花は咲かないのでしょう」
種は失くして、幸せも、笑顔も、すり抜けて消えてしまっていくような感覚がある。
瑠碧は胸を押さえた。少しだけこの奥が痛む。しかし、それでも、と感じられる思いがあることも確かだ。
実を結ばなくてもいい。
芽が出なくても、無意味であっても――残った心だけは、曲げない。
姉様、と独り言ちた瑠碧は大切なものを想う。約束と願いはこの心を縛り付けているけれど、まだ歩いていける。
「それが、私が生きているという事だと、思うから」
苦しさは消えない。哀しみも癒えてはいない。自分もいつか、と沈む思いもある。
けれども希望を諦めたりはしない。
それこそが望まれた自分。大切だと想って貰えた存在なのだから――。
大成功
🔵🔵🔵
御園・ゆず
散らしたしあわせをひとひら、拾う
本に挟んで持って帰ろう
しあわせの青い鳥はすぐ側に居る
忘れてしまった大切な人も側に居る
でもそのしあわせはいつ消えてもおかしく無いんですよね
ちかくて、とおい。
もう忘れたくないな。
なにも持たないわたしを受け入れてくれたあなたを
亡霊さんのあとを追って、街を目に焼き付けよう
この景色を、空気を、今の気持ちを
忘れない
かたわらのしあわせを、大切にしよう
多く望みすぎてはいけない
今を、だいじに。
スクールバッグに付けた、ちいさな銀色の薔薇のお守りにそっと触れる
……永遠、か。
わたしの演技はいつまで続くのだろうか
誰かの舞台を彩る花に、なれたかな?
●永遠という時間
カナン・ルーという街の名を思いながら都市の最中を歩く。
昏い路地の向こう側。処刑台があった広場の先。様々なところを歩いて、いずれは水底に沈む街の景色を眺めていく。
ふとしたとき、青い鳥の羽が落ちていることに気付いた。
翼の欠片は黒曜の都の中ではよく目立っていて、すぐにかれらのものだと分かった。
きっとこれは自らが散らした、しあわせのひとひら。
ゆずは瑠璃色の羽を慎重に拾いあげ、手にしていた本に挟んだ。栞がわりにした羽が歪んでしまわぬようにそっと頁を閉じ、鞄に仕舞い込む。
いつかに読んだ物語を思い出す。
あれは、しあわせを求めた兄妹の話だ。幸福を呼ぶという鳥を見つけに様々な国に出かけた彼らは最後に知ることになる。
しあわせの青い鳥はすぐ側に居る、ということを。
物語の結末を頭に浮かべたゆずは、地面に点々と落ちている青い羽を辿っていく。
そうして、思い出す。
きっと青い鳥のように、忘れてしまった大切な人も側に居る。失くしてしまったと思った記憶は、心の奥深くに沈んでいただけだった。
「でも、そのしあわせはいつ消えてもおかしく無いんですよね」
呟いた言葉は路地の奥に沒んでいく。
ちかくて、とおい。
思い出したことを改めて懐いながら、そんなことを感じた。
「もう忘れたくないな」
なにも持たないわたしを受け入れてくれたあなたを。もう、二度と――。
ゆずは少しだけ俯く。
大切だと感じていたからこそ忘れたのだろう。だからこそもう失いたくはない。
そして、ゆずは行く先に亡霊の姿を見た。
その後を追った彼女は導かれるように街を巡り、ひとつひとつの光景を目に焼き付けながら進んでいく。
この景色を、空気を、今の気持ちを。
忘れない。
喪いたくはない。かたわらのしあわせを、大切にしよう。
多くを望みすぎてはいけないと知っている。希うほどに何もかも失くしてしまいそうになるのだと、ゆずは分かっている。
「今を、だいじに」
そうですよね、と誰にともなく口にしたゆずはそっと目を閉じた。
瞼をひらいたゆずはスクールバッグを抱え直す。其処に付けられた、ちいさな銀色の薔薇のお守りにそっと触れてからもう一度だけ呟く。
「……永遠、か」
――beieinand' für alle Zeit und Ewigkeit.
その言葉と思いは誰にも聞かれず、知られることなく静寂の中に消えていった。
わたしの演技はいつまで続くのか。
誰かの舞台を彩る花になれただろうか。
この銀の薔薇に込められた思いのように。いつか――。
浮かんだ思いは途中で途切れる。そして、ゆずは水底の天上を振り仰いだ。
大成功
🔵🔵🔵
ノイ・フォルミード
黒薔薇を見に行こう
水の街に咲く黒薔薇だなんて
とても興味あるよ
もし手入れが必要ならばやっておこうか
戦いで折れたものがあれば添え木をして
ほら、もう大丈夫だ
間もなく沈んで会えなくなるとしても、綺麗にしておいて損はないだろう
ああそうだ
マメルリハ君たちのお墓をつくろう
修復したメモリーに写る彼らの数だけにはなるが
個々に、けれど寂しくないように、近くに
生き物はお墓を作って土の中で眠るのが習わしなんだろう?
何時かまた目覚める為に
無心に鍬を振るう、
中身が無くとも
小さな山を幾つも作る
掘って、掘って……
……すまない、ルー
君を、君じゃないと思ってしまうなんて
けれど君を守りたい気持ちは、変わらないよ
これからもずっとだ
●大切な君
黒薔薇を見に行こう。
戦いの最中に認識してはいたが、ゆっくりとは見ることが出来なかった。それゆえにノイは水の街に咲く薔薇を眺めに庭園へと向かう。
園芸作業を担っていた身として、興味を示したノイは歩を進めていく。そうして訪れた庭園には静けさが満ちていた。
「手入れが必要そうだね。やっておこうか」
いずれ此処は水底に沈んでしまう。それでも世話をすることは無駄ではないはずだと思考したノイはそっと作業をはじめていく。
戦いで折れたものがあれば添え木をして、荒れた花壇も整える。そうすれば徐々に庭園は静かながらも美しい姿に戻っていった。
「ほら、もう大丈夫だ」
間もなく沈んで会えなくなるとしても、綺麗にすることで花もきっと弔える。
そして、ノイは辺りを見渡す。
その際にふと浮かんだのは戦いで散っていったもの達のことだ。
「ああそうだ」
マメルリハ君たちのお墓をつくろう。
そのように思い立ったノイは青い鳥達のことを思い返す。
修復したメモリー。其処に写るかれらの数だけになってしまうが、それでも出来る限りのことをしたかった。
個々に、けれど寂しくないように、近くに。
直接埋めることは出来ずとも標は作れる。生き物は墓を作って土の中で眠る。地域などでの違いはあるが、これが習わしであるとノイは知っていた。
「――何時かまた目覚める為に、だったかな」
そして、これは現し世に遺された者が祈るためのもの。
そうであるならばかたちを残さなければならない。たとえ水に沈むだけの街であっても、心まで沈んで消えたりはしない。
無心に鍬を振るう。
中身が無くとも、小さな山を幾つも作っていく。
忘れてしまっていたことを掘り起こし、自らの中に取り込んでいくかのように。
掘って、掘って――祈り、願い、弔う。
それから幾つもの墓を作り終えたノイはその手を止めた。掘りながら思っていたのは他でもない、彼女のこと。
「……すまない、ルー。君を、君じゃないと思ってしまうなんて」
自分にとって大切であるからこそ記録は失われた。
絶対に失いたくはないと思っていたから、忘れてしまった。それはこの記憶が何よりも大事なものだという証だ。
それでも、ノイのメモリーには後悔めいた思いが宿っている。
「けれど君を守りたい気持ちは、変わらないよ」
ノイは戦いの中でもずっと人形を抱き締めていた。忘れてはいても心の何処かで傷つけたくはないと強く願っていたからだ。
失っていても気持ちは変わらなかった。だから、とノイは彼女に誓う。
「これからもずっとだ」
そして、ノイは黒薔薇の庭園を見つめる。
美しく咲き誇る花の景色。それもまた、覚えておくべき光景なのだと思えた。
大成功
🔵🔵🔵
逢海・夾
行き先もないが、街の中を歩く
立ち止まっていたら、どうにかなりそうな気がした
…忘れていて、よかったんだろうな
覚えていたら、壊せなかった
アイツが幸せに過ごす世界があれば、それでいいんだ
近寄れなくてもいい、壊してしまいそうで
離れていれば、恐れることもない
戦う理由を忘れても、オレは戦える
その末に、守りたかったものをこの手で壊しても
きっとそれでも、オレが壊れるまで止まらない
戦い方しか知らなかった、今もそう変わらない
そんなものでも、役に立ちたかった
だから、ここにいる
愛、ではないと思う
ただ、守りたかった。オレが、失いたくないんだ
温かくて、優しい、オレにとっての光で、希望で、ありえないもの、だったから
●希望と光
行く宛も行く先もない。
それでも夾は気が向くままに街の中を歩いていく。
その理由は少し複雑だ。立ち止まっていたら、どうにかなりそうな気がした。
時計塔に断頭台のある広場、井戸がある黒い森。
通り過ぎていく黒曜の街並み。その最中で夾はちいさく呟いた。
「……忘れていて、よかったんだろうな」
取り戻した記憶。あのときにそれを覚えていたとしたら、何も壊せなかった。忘却したことで上手く戦いが巡ったのはなんとも皮肉だと感じられる。
それでも夾はすべてを思い出した。思い出さなかったならば、こんな気持ちを覚えることもないのだとして夾は肩を竦める。
「アイツが幸せに過ごす世界があれば、それでいいんだ」
近寄れなくてもいい。
壊してしまいそうで、畏れめいた感情が裡に浮かぶ。
しかしきっと、離れていれば恐れることもないのだろう。
夾は黒曜の都市の中を進んでいく。森を抜ければ前方に黒薔薇の咲く館が見えた。先程まで立っていたあの舞台も、黒い薔薇の中で起こったことだと思い返す。
そうだな、とそっと呟いた夾は拳を握り締めた。
「戦う理由を忘れても、オレは戦える」
そのことを識ったのが此度の戦いだったのだろう。
その末に、守りたかったものをこの手で壊してたとしても――。
きっとそれでも、自分が壊れるまで止まらない。止まることが出来ない。戦い方しか知らなかった過去を懐うが、今だってそう変わらないと思えた。
そんなものでも役に立ちたかった。
だから、ここにいる。
再確認できたのは、己の中にあるそんな思いだった。
夾は再び歩みはじめる。水没していく都市を自由に回れる最後の機会をこの目で確かめていくために、ゆっくりと。
小さな教会が見えた。その先には墓地があり、公園があり、様々な建物があった。
何気ない景色であり、自分とは縁遠い場所でもある。しかし景色を見ていくことで自分というものを認識できていく気がした。
それから夾は暫し街を揺蕩うように歩いた。そして、考えを巡らせる。
愛、ではないと思う。
「ただ、守りたかった。オレが、失いたくないんだ」
思いを言葉に変えた夾は天上を見上げた。
温かくて、優しい。
それが自分にとっての光で、希望で、ありえないもの、だったから――。
大成功
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橙樹・千織
記憶が戻れば大切な人達の無事を確認して安堵の息をつく
記憶が戻ってきた
自身のことも彼らに抱いた感情も思い出も一緒に
此処に来るまでに持っていた記憶は欠けること無く
“全て”
忘れてはいけないと…
そういうことなのでしょうね
苦笑と共に落ちた言の葉は泡のように弾けて
ノア…貴方がしてきたことは許せないけれど
彼を育ててくれたこと
それには御礼を
貴方のおかげで私は彼との縁を結べたのですから
一呼吸おいて落ち着いたなら
穏やかな眠りを祈り、舞いましょう
祈り舞えば揺らぐ亡霊の姿
銀髪に一筋の紅を携えた人狼の形を紡ぎかけ
無意識に伸ばした手が触れる前に消えてゆく
密かに弔う願いは
あの子との暖かな日々
紡ぎ直すことのできぬ
前の世の願い
●祈舞
舞台と戦いは終わりを迎えた。
千織の記憶は戻り、大切な人達の存在も彼女にとって確かなものになる。
皆の無事を確認した千織は安堵の息をつき、辺りを見渡した。もうこの街には何も残っていない。そう表すと寂しくも思えるが元の形に戻るだけだ。
一度、沈んだ街の在るべき姿。
それを思いながら、千織は胸に巡る思いをひとつずつ噛み締めていく。
自身のことも彼らに抱いた感情も思い出も一緒に蘇っている。そして、此処に来るまでに持っていた記憶も欠けることなく揃っていた。
――“全て”。
そう思えば、何もかもが尊く思える。
同時に一抹の寂しさめいた感情も浮かんだが、そっと蓋をして仕舞い込む。
「忘れてはいけないと……そういうことなのでしょうね」
千織は苦笑する。
それと共に落ちた言の葉は泡のように弾けて、誰にも聞かれぬまま消えていく。
そして千織は敵であった者について考えを巡らせていった。
「ノア……貴方がしてきたことは許せないけれど」
でも、と千織は友人を想う。
千織にとっては彼は最後まで敵でしかなかったのだろう。だが、それ以上に感じることもあった。
彼を育ててくれたこと。それには御礼をしなければならないと感じている。
「貴方のおかげで私は彼との縁を結べたのですから」
一呼吸おいて落ち着きを取り戻した千織はそっと瞼を閉じた。そして、すべてのものへの穏やかな眠りを祈って舞っていく。
――闇夜を照らす優しき光。癒しを与えし奇蹟とならん。
しっかりと瞼をひらき、舞唄と共に願いを弔ってゆく千織。
そうして彼女は祈る。
もう忘れてしまっていた時分の己ではない。全部を理解した上で舞おうと決めていた。
そうすれば次第に揺らいでいく亡霊の姿。透き通った影は銀髪に一筋の紅を携えた人狼の形を紡ぎかけるが、不意に揺らぐ。
無意識に伸ばした手が触れる前に影は消えてゆく。
無理に追うようなことはしなかった。それならばそれで構わないという思いもあり、千織は亡霊を見送る。
けれども、密かに己の思いを弔う。
あの子との暖かな日々。
それは紡ぎ直すことのできぬ、前の世の願い。
己の中に宿る感慨に思いを向けて千織は祈りを重ねる。これこそが今、この場で自分が出来る最良のことだと信じて、穏やかに舞い続けた。
大成功
🔵🔵🔵
宵鍔・千鶴
揺蕩い朧げな歌は
やがて鮮明に記憶と共に繋がって
ああ、そうか
自分を象るのは貴女がいたから
くるしくて手離したくても
俺が俺でいられるように
包んでくれたひとだから
穢れたって、憎悪に塗れたって
忘れてしまうのは嫌だ 嫌なんだよ
此れが愛だと識るには
遅すぎたけれど
ねえ、かあさん
俺にも伝えることができるかな
崩れた教会に落ちたロザリオを
拾い上げて、瞳を閉じる
今は懺悔ばかりを心に遺してしまうけど
いつか、きっと、いつか
凡てを終わらせて沈むときまで、
貴女のうたを歌わせて
あの楽園でみた
さくらはひらひらと
今も確かに咲いている
いつの間にか頬を伝う雫は
水底に置いてゆこう
久しい感情はひた隠して
俺がいくまで
もう少し待っていて
●うつしよに浮かぶ
揺蕩い朧げな歌。やさしい子守唄。
それはやがて鮮明になり、これまでの記憶と共に繋がっていく。
「ああ、そうか」
千鶴は顔をあげ、失っていたものの正体を掴み取る。亡き母と幼馴染の存在。それは忘れてはいけないものだった。
されど、此度に忘却した事柄は何よりも大切なものである証だ。
自分を象るのは貴女がいたから。
くるしくて、手離したくても、留まることができた理由は彼女にあった。
「俺が俺でいられるように包んでくれたひとだから」
千鶴はそのことを忘れていた時のことを思い返していく。もう歌は聞こえていないが、記憶の中には確かに耳に届く音があった。
穢れたって、憎悪に塗れたって、失ってしまいたくはなかった。
「忘れてしまうのは嫌だ、嫌なんだよ」
だから、と千鶴は歩み出す。黒曜の都市を巡り、忘失していたひとときを辿るように歩を進めていった。
そうすれば自然に心も落ち着いていく気がする。
きっと此れが愛だと識るには遅すぎた。けれど、改めて思うこともある。
「ねえ、かあさん」
――俺にも伝えることができるかな。
呼び掛けた思いを胸に秘め、進む千鶴は教会へと向かう。
崩れた教会に落ちたロザリオ。それをそっと拾いあげた千鶴は瞳を閉じる。
瞼の裏に訪れる闇。
その向こう側に何かがぼんやりと見えた気がしたが、瞼はまだひらかない。今は懺悔ばかりを心に遺してしまうけれど、それでも。
いつか、きっと、いつか。
凡てを終わらせて沈むときまで、どうか。
「貴女のうたを歌わせて」
願い、祈るように弔うのは己の思い。それから、あの歌への想い。
かの楽園でみた、さくらはひらひらと舞っていた。今も確かに咲いている。
不意に雫がひとしずく、零れ落ちた。
いつの間にか頬を伝っていたものと感慨は、この水底に置いてゆこう。久しい感情はひた隠しにして、穏やかな表情を湛えた千鶴はロザリオを握りしめた。
そして、千鶴はひかりが差し込むステンドグラスを見上げる。
俺がいくまで、
もう少し待っていて――。
今は未だ、幽世よりも現世にいるべきだと感じたから。
裡に宿った思いと共に、千鶴はこれからもこの先へと歩いていく。
大成功
🔵🔵🔵
華折・黒羽
黒蝶区
最初に降り立った場所
大切な記憶を、零してしまった場所
傍らに黒帝を伴いながら
屠を突き刺した箇所の脚に触れる
もう傷はない
癒しの力で綺麗に消された傷
強くなる為には己の身を傷付けるしかないのだと思っていた
己の血を捧げるしか無いのだと
この身に纏わりつく影がそれを望むから
けど
負けた
それは紛う事無い
弱さの証明だ
幸福の聲が弱くなった時
根底に根付く怯えの聲が聴こえた
幸福に縋って
植え付けられた力に頼って
だから、脆い
─そうじゃないだろう
求めた強さは
そんな脆い盾じゃない
守りたい人達を守れる
俺自身の強さを
崩されぬ盾を
強くなりたいじゃない
強くなる
握った拳
眸は最後に水葬の街を見据え
背を向ける
帰ろう
やるべき事をやる為に
●弱さと強さ
すべてを終えた後、黒羽が訪れたのは黒蝶区の最中。
それは彼が最初に降り立った区画であり、大切な記憶を零してしまった場所だ。
街は静まり返っている。
戦いがあったということすら感じさせぬ静寂が満ちていた。
ふと、遠くから誰かが奏でる歌声が聞こえてくる。すべての音は聞き取れないが、それがとても優しい響きだということは分かった。
きっと願いを弔う儀式の為に仲間のひとりが歌っているのだろう。
忘歌に抗っていた時分。あのときは眺められなかった景色を改めて見遣り、黒羽は傍らに伴う黒帝に視線を向ける。
双方の静かな視線が重なり、黒羽はそっと頷く。
そして、黒羽は屠を突き刺した箇所に触れた。もう其処には痛みも傷もない。仲間が施してくれた癒しの力で綺麗に消された。
強くなる為には己の身を傷付けるしかないのだと思っていた。己の血を捧げるしか無いのだと、強く感じていた。
この身に纏わりつく影がそれを望むから。
けれど、と黒羽は首を振る。
敗北を喫したこと。それは紛う事無い、弱さの証明だと彼自身は思う。
たったひとりでは勝てないであろう敵と同じ力を持つ影の相手に、負傷した状態で対抗出来るはずがなかった。
されど、黒羽が自分を取り戻すためにしたことは決して間違ってはいない。
幸福の聲が弱くなった時、根底に根付く怯えの聲が聴こえた。そして幸福に縋り、植え付けられた力に頼って――。
だから、脆い。
そう感じた黒羽だが、すぐに別の思いが脳裏に過ぎった。
――そうじゃないだろう。
求めた強さはそんな脆い盾ではない。
守りたい人達を守れること。自分自身の強さを、崩されぬ盾を持つこと。
「強くなりたい、じゃない……。強く、なる」
握った拳。
其処には揺るぎない意志が宿っていた。黒羽はこれまで歩いてきた道を振り返ることなく、進む先を見つめる。
その眸は暫し、最後に見えた水葬の街の姿を映していた。
そして、背を向ける。
彼の傍には黒帝がしかとついていた。傍にいてくれる存在にふたたび目を向け、黒羽は然と呼びかける。
「帰ろう」
やるべき事をやる為に。
その足取りは真っ直ぐに。自分達が帰るべき場所へと向けられていた。
大成功
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ロキ・バロックヒート
なんとなく亡霊に付いて行きながら
ここで聞いたうたを鼻歌混じりにふらふら歩く
全部戻れば祈りも失せて
手向ける花もないけれど
さっき見た楽園を思い返す
あれが私の願望ならほんとに笑っちゃう
でも仕方ないよね
元より世界をあいするようにできてるんだから
壊さなくて済むならそれが一番いい
かつて破壊神を止めたのは
世界の悲哀をなくす、なんて馬鹿げた約束なんだから
でもその約束は果たされなかった
果たされるわけがなかった
ひとの世はそんなに単純にできてないから
可笑しくてただ笑う
でも
このカラの胸も今は少しだけ温かい
吸血鬼と人魚たちと龍の舞台
あのうつくしい想いが世界に満ちればいいのに
ああ、こんな世界
はやく壊(あい)せたらいいのに
●壊愛
街に揺蕩い、揺らぐ亡霊達。
意志の見えないもの。穏やかに笑っているもの。哀しみを示しているもの。
様々な様子を見せる彼らの後になんとなくついていく。ロキからすれば、それらがどのような表情をしていようと構わなかった。
浮かべる感情や思いが亡霊達がそれぞれに強く抱えているものなのだろう。そう感じたからこそ、何もしないままがいいと判断した。
ロキは歩きながら歌を口遊ぶ。
それはこの街で聴いた歌の一節。緩く適当に、適度に音を合わせながら気の向くままにふらふらと街を巡っていく。
あの忘歌で失ってしまっていたことを取り戻した今、ロキはどこ吹く風の様子。
全てが戻れば祈りも失せて、手向ける花もなくなった。
そうして、ふと目に入ったのは黒薔薇の庭。ついていった亡霊達が辿り着いたのはちいさな館の傍だった。
舞台が巡った領主の館にも似ているが、また別の場所らしい
花が好きなのかと戯れに亡霊に呼び掛けたロキだが、相手から返事はない。元より返答を期待してはいなかったこともあり、とくに気に留めなかった。
そして、ロキは先程に見た楽園を思い返す。
平和になった世界。
紛うことなき平穏しか映っていなかった楽園の舞台は今思えば歪だ。
「あれが私の願望なら、ほんとに笑っちゃう。でも、」
仕方ないよね、と呟く。
自分は元より世界をあいするようにできている。それだから、壊さなくて済むならそれが一番いいはずだ。
かつて破壊神を止めたのは――。
「世界の悲哀をなくす、なんて馬鹿げた約束なんだから」
独り言ちたロキは頭の上で両腕を組む。
神であることを忘失して、ひとに戻った自分が思うこと。ひとであったことを記憶していて、神であることを思い出した己が感じる事柄。
その違いはきっと、と考えそうになったロキは頭を振った。振り払った思いの代わりに浮かべたのは、先程に口にした約束のこと。
約束は果たされなかった。
そもそも、果たされるわけがなかったのだ。
ひとの世はそんなに単純にできていないと識っているロキは妙な可笑しさを感じながら、からからと笑った。
でも、今はこのカラの胸にも少しだけあたたかいものが宿っている気がする。
吸血鬼と人魚たちと龍の舞台。
あのうつくしい想いが世界に満ちればいいのに、と懐う。
そしてロキは黒薔薇の庭を見つめ、蜜彩の瞳に退廃と享楽のいろを映した。
ああ、こんな世界。
はやく壊(あい)せたらいいのに――。
大成功
🔵🔵🔵
空・終夜
アドリブ歓迎
空がよく見える場所で寝転がってる
水底の空を眺めていた
戦いが終わると
いつもの睡魔が体を満たそうとするのを感じる
…このまま眠って沈むのも悪くないな
なんて思ったら
帰りを待つ家の奴らに怒られるな
揺蕩う亡霊たちを時折見つめ
今一度、記憶に思いを馳せる
俺は…まだ彼女が何処かにいるのでは、と
淡く希望を抱いてる
罪深い兵器が持つ唯一の願い
面影でも
過去の残影でもいい
滑稽だと嗤われても
消えたアンタを探したい
なぁ
俺は約束を追いかけていいか?
空に問う
『――まってるわ』
優しい聲が聞こえた気がした
楔の首輪を握りしめ目を閉じ
改めて誓う
俺の為にいなくなった人
アンタを見つけて
俺は必ず××から
彼女の好きな花の言葉に従って
●雪の雫がとける頃に
遠い、遠い空の向こうに泡沫が昇っていく。
水底から見える天上を見つめる終夜。その瞼が幾度か瞬かれる。
此処は或る建物の屋根の上。
周囲の家屋が程よく崩れていて足場になっていた。
其処に通り掛かった終夜はこの場所ならば空がよく見えるだろうと思い、建物を伝って上っていった。そして、平たい屋根の上に寝転がった。
それから暫し、水底の空を眺めている。
いつも、戦いが終わると深い睡魔が身体を満たそうとする。今回だってそうだ。あれほど戦ったのだから、瞼が重くなってきた。
(このまま、眠って沈むのも悪くないな……)
思考も一緒に眠気で途切れがちになりながらも、終夜は目を擦る。
この街はいずれ水底に沈んでいた元の姿に戻る。黒曜の都市を包み込んでいる大きな泡の魔力がなくなれば、終夜は湖の底に本当の意味で眠ることになるだろう。
「なんて、帰りを待つ……家の奴らに、怒られるな……」
だから眠るのは少しだけ我慢。
終夜は寝転がったまま、周囲に揺らいでいる亡霊達に目を向ける。彼らにも嘗て生きた軌跡があったのだろう。
亡霊達が揺蕩う様は、まるで魚が湖を游いでいくかのようだ。
その姿を見つめながら終夜は思いを馳せる。今一度、あの記憶へと――。
胸の奥に宿るのは淡い希望。
信じれば救われる、なんて言葉も世にはあるくらいだ。
きっと自分はまだ彼女が何処かにいるのではないかという思いを捨てきれていない。罪深い兵器が持つ、唯一の願いがこれなのだと感じている。
それでも今は、どうしてか心が揺らいでいた。
ずっと泡沫の空を見上げているからだろうか。あの泡の粒のように思いが浮かび上がっては割れて、また生まれる。
面影でも、過去の残影でもいい。
たとえ滑稽だと嗤われても、消えたアンタを探したい。
終夜は腕を天に伸ばす。
「……なぁ、俺は約束を追いかけていいか?」
そして、空に問いかけた。
何もない。誰もいない。亡霊すらも何処かに消えてしまった空虚な天だった。そう思っていたのに、何かがふわりと揺れる。
『――まってるわ』
そのとき、優しい聲が聞こえた気がした。
ああ、きっとこれは。あの答えは。其処まで思考を巡らせた終夜は、敢えて何も言葉を返さなかった。そのかわりに楔の首輪を握りしめ、目を閉じる。
改めて、誓う、
「俺の為にいなくなった人。アンタを見つけて、俺は……」
必ず××から――。
彼女の好きな花が宿す言葉に従って、たとえ逆境であっても希望をこの胸に。
あの花は春を告げるものとも言われるのだから、きっと。そうして、ゆっくりと瞼をひらいた終夜はふたたび空を振り仰いだ。
大成功
🔵🔵🔵
兎乃・零時
💎🐰
描けるようになったんだな!良かったぜ…!(嬉しそうに
俺様はこの街まわろうかなって
折角なら、この街をちゃんと見てみたいっつうのが有ってな
…そうだ、俺様もついていっても大丈夫か?
(どんな絵か気になったらしい
水没してると描けなさそうだもんなー
一緒にてくてく街ぐるり
色んな場所を興味深そうに見渡し
描かれる絵もキラキラ見てる
最後の舞台の最期の一幕…あの部分か
此れがリルと家族たちの…
その絵を見て思わず見入ってしまう
とても綺麗で
なんだか穏やかで
凄く素敵なものだと俺は思わず想ったのだ
夢を聞けば
そっか…うん、俺様も応援するし、フレズローゼのその夢、手伝える所は手伝うさ!
絶対、叶えようぜ!
笑顔でそう言うのだ
フレズローゼ・クォレクロニカ
💎🐰
描ける!描けるよ兎乃くん!
創作意欲もバリバリ
ボク、街の絵を描きにいくよ
普段は水没してるからね
描けないのさ!
聖女の像に朽ちた店
リルくんが歌ってた教会
色んな場所を描く
どうしても描きたいものがあるんだ
最後の舞台の最期の一幕
桜吹雪舞う、黒薔薇の庭園の光景さ
リルくんと
黒い人魚に支えられてリルくんの頬を撫でる穏やかな表情をした座長
あと、櫻宵
ほらね
できた!
リルくんと家族の一幕さ
パパとママ(あと櫻宵)と一緒の世界
たくさんの愛を描く!
ボクもパパとママの所にいつか帰る!
兎乃くんと同じく
しかと抱いた夢
そして最後は、皆の胸の内に咲く花を
想像力で描いて具現化して街に降らせるのさ
大好きな人達が笑っていられるように
●舞台を描くために
世界に色彩が戻ってきた。
忘れてしまっていた大切なことを思い出した時、目の前が明るくなった気がした。
「描ける! 描けるよ兎乃くん!」
いの一番に絵筆を手に取ったフレズローゼの瞳は輝いている。
あの舞台を見て止まらない涙もあった。それでも、皆が描いた軌跡を見たことで限りない創作意欲が生まれている。
「描けるようになったんだな! 良かったぜ……!」
零時は彼女の声を聞き、とても嬉しそうな笑顔を浮かべた。
後はこの街が沈むまで自由に過ごすことが出来る。どうする、と問いかけた零時はすっかり元の明るさを取り戻したフレズローゼに視線を向けた。
「俺様はこの街をまわろうかなって」
折角だから黒曜の都市をちゃんと見てみたい。彼がそう語ると、フレズローゼは握りしめていた絵筆を掲げた。
「ボク、街の絵を描きにいくよ!」
「俺様もついていっても大丈夫か?」
水没する前に、と意気込むフレズローゼに頷きを返した零時。勿論だと彼女から返答があったことで二人は一緒に街を巡ることとなった。
同行を申し出たのは、フレズローゼがどんな絵を描くか気になったからだ。
フレズローゼは戦いの前に巡った街々を思い返す。
まずはどの場所に行ってどのアングルから景色を描こうか。それを考えていくこともまた楽しくて、心が弾んでいく。
零時も彼女と一緒に、てくてくと歩いて街をぐるりと回っていった。
歩が進めば筆も進む。
黒い聖女の像に、見世物小屋の跡地。黒薔薇の咲く館。
孤児院の庭には母子像があって、朽ちた店の中には魔法道具の残骸が見えた。井戸のある黒い森を抜けて、時計塔の横を駆け抜けて、断頭台のある広場へと。
そして、リルが歌ってた教会にも足を運ぶ。
色んな場所と様々な時を刻んだ描いていく。フレズローゼの傍らで零時もたくさんの場所を興味深そうに見渡し、描かれていく絵をしっかりと見つめていた。
そして、フレズローゼは最後に向かいたい場所があると告げる。
「どうしても描きたいものがあるんだ」
それは最後の舞台。其処で見た最期の一幕を思い出して描きたい。
「……あの部分か」
「そうだよ。桜吹雪舞う、黒薔薇の庭園の光景さ!」
フレズローゼは想う。
リルとエスメラルダに支えられ、息子の頬を撫でる穏やかな表情をした座長(あと櫻宵)が紡ぎ、織り成した舞台は美しかった。
あの光景は皆の瞳や心の中に刻まれているが、絵に残すことも今の自分なら出来る。
「行こうぜ!」
「うん!」
笑みを交わした少女と少年は、あの舞台が巡った庭園へと駆けていく。
●胸の内に咲く花
「――ほらね。できた!」
渾身の想いと全力を込めた絵を描き終わったフレズローゼはキャンバスを掲げた。黒薔薇と桜の花が舞う舞台の景色が四角く切り取られた絵は実に見事だ。
「此れがリルと家族たちの……」
零時はその絵に思わず見入ってしまう。
とても綺麗で穏やかで、凄く素敵なものだと思えた。其処にはきっとフレズローゼ自身の感情が込められているからでもあり、零時は深い歓心を抱く。
フレズローゼは笑みを深め、自分の絵を改めて見つめた。
「リルくんと家族の一幕さ。パパとママと、(あと櫻宵)と一緒の世界だよ!」
それは愛のかたち。
少し歪で素直には巡らなかったのかもしれないけれど、最後には美しいものとなって舞台を飾った。零時はこくこくと頷いて彼女の思いを肯定する。
「すごいな、フレズローゼ」
「ボクはこれからも、たくさんの愛を描くよ!」
命を賭したあの舞台を見たんだから、と語ったフレズローゼは想う。
そうして自分もパパとママの所にいつか帰る。
そのためにはもう立ち止まっていられない。絵を描いて記して、過ぎていく時間を画の中に刻んで残していこうと決めた。
「兎乃くんと一緒で、これがボクの抱いた夢なんだ」
「そっか……うん」
フレズローゼが明るく笑ったことで零時もつられて満面の笑みを浮かべた。そして、零時はいつも以上に強く拳を握る。
「俺様も応援するぜ。フレズローゼのその夢、手伝える所は手伝うさ!」
「ボクだって兎乃くんを応援してるよ」
「絶対、叶えようぜ!」
零時とフレズローゼは大きく頷きを交わす。それは普段通りのふたりの姿であり、眩しいほどの笑顔の花が咲いた。
その中でフレズローゼはもうひとつ描きたいものがあることに気が付く。虹薔薇の絵筆を掲げ、双眸と口許を淡く綻ばせた少女は宙に線を描いていく。
「そうだ!」
「どうしたんだ?」
「ちょっとね。見てて、ほら!」
不思議そうに首を傾げた零時に向け、フレズローゼは花の絵を顕現させていった。
それは皆の胸の内に咲く花を記したもの。少女の中に宿る想像力で描かれ、具現化された花は黒曜の街にいっぱいに広がり、降りそそいでいく。
描かれた花は様々だ。
赤く塗られた白い薔薇。弔いとあいを示す白百合。月の如く咲くエーデルワイス。
可憐な鈴蘭と三角草。咲き誇る不屈の意思を示す桜の花。後悔や悔恨を象徴する花でもあるヘンルーダ。愛と哀、真実の心をあらわす春花。
いつか咲いていた名前のない花。赤くてあまい復讐の花。未だ開かぬ蕾の花。虚しさや喪失、さびしいと想う幽かな花。名すらわからない花だって良い。理想を示す心もまた花であり、剣で描く軌跡もまた花になる。
淡く咲いた、夜明色の待雪草。ただひとつのさくら。
きらきら煌めく睡蓮の花。一輪の虞美人草。菖蒲から転じた焔華。言葉にはされなかったが、胸に宿る花。
大好きという気持ち。願いという、目に見えないけれど確かな花。
そして、戀と愛。
かたちのある花も、かたちのない花も、すべてが彩を宿して水底の街に満ちる。
想像力は無限大。たくさんの花を描いた少女は願いを弔うのではなく降らせた。
そうして、祈りにも似た想いを紡ぐ。
――大好きな人達が、咲き誇る花のように笑っていられますように!
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
リル・ルリ
🐟櫻沫
庭園で黒薔薇を3輪摘み
櫻の手を握り教会へ
ヨルにただいまする
2人共
今度は一緒に居られるといい
解放されて
やっと戀が叶い
愛で通じた
ゆっくり2人で過ごして欲しいけど
あいにきてくれるかな?
決めたんだ
僕は
しあわせな愛をうたい舞台をつくる
座長になるんだ
ノア様…とうさんみたいに
優しいあいと歌に溢れた舞台を
とうさんとかあさんにもらった聲と歌で奏で紡ぐ
かあさんの故郷もみつける
櫻も手伝って
本当?
黒薔薇は
だいすきに捧ぐ花
とうさん達に捧げ歌う
リルルリ、リルルリルルリ
ありがとう
だいすき
僕といういのちを歌い終わったら
かあさんととうさんの所に游いでく
どうか
ずっと見守っていて
春が
歌が
愛がふる
とうさん
かあさん
僕
しあわせだ
誘名・櫻宵
🌸櫻沫
最高の舞台だったわ
座長…お義父上にとっても
願いが叶った「幸福な楽園」だった
慰めるよう優しく撫で
ヨルの待つ教会へ
リルはお義父上達に来て欲しいと願わないの?
やっと結ばれたのだもの
これからは二人の時間を過ごしてほしいわ
でも
あなたが心配で見送りたくて
来てくれる気がしてる
リルが、座長に?
劇団の跡を継ぐの?
噫
驚いた
リルならできるわ!
幸福な愛の舞台が歌える
お義母上の故郷をみつけるのだって
本当
よい息子をもったわね
勿論
私も一緒
リルの事も食べたりしないわ
薔薇はお義父上とお義母上とりるるり達へ
今もほら一緒よ
あいして、あいしているわ
歌が響く度に桜が舞い
愛が満ちる
微笑む家族の
幸福な春が咲く
まるで幸福な楽園のよう
●黒と白の歌
教会の片隅で一羽の式神が眠っていた。
待っていて、と言われて、大好きな主と約束をした。それからずっと一羽で懸命に待ち続けていたことでいつしか眠りに落ちたのだろう。主が集めたコレクションの傍で、ぷーぷーという可愛い寝息が響いている。
――あなたに、おぼえていてほしいのです。
或るとき、ペンギンはやさしい聲を聴いて目を覚ます。主が帰ってきたのかと思って身体を起こすと、目の前には黒い薔薇が一輪だけ置いてあった。
「きゅ?」
桜飾りに寄り添わせるように、薔薇を片手に持ったペンギンは頭上を見る。
其処に見えたのは漆黒の尾鰭。ふわりと靡いた美しい鰭を揺らした人魚は、彼にだけ聴こえる歌を紡いでいった。
――リルルリ、リルルリルルリ。
うたわれた泡沫の記憶。それは愛の歌だった。
ヨルに伝わったのは、或る人魚と吸血鬼と、白い鳥が織り成した過去の物語。
「きゅ……」
ペンギンは黒薔薇を抱き締めた。耳を澄まして記憶の歌に聴き入る。
おぼえているよ。わすれないよ。
そう語るかのように式神は人魚の聲を聞き続ける。そうして歌は終わりを迎え、艶めく黒の尾鰭がふたたび揺らいだ。
黒い人魚が消えていく。そう思ったとき、彼の名を呼ぶ聞き慣れた声が響いた。
「――ただいま、ヨル」
●水想の歌
庭園で黒薔薇を三輪摘み、リルと櫻宵は教会に戻ってきていた。
ただいま、と告げたことでヨルがものすごい勢いで飛び込んでくる。わ、と声をあげて驚いてしまったが、リルはすぐに両手を広げてヨルを抱きとめた。
「ヨル?」
「きっと寂しかったのね」
リルの腕の中で擦り寄る式神を覗き込んだ櫻宵は、待っていてくれてありがとう、と告げる。そのとき、リルはヨルが花を持っていることに気が付いた。
「その黒薔薇、どうしたの?」
「きゅ!」
するとヨルは誇らしげに鳴く。どうやら大切なものだと語っているらしい。黒薔薇を抱き締めたヨルの愛らしさに微笑み、リルと櫻宵は視線を交わしあった。
そして、二人は水槽がある舞台に向かう。
祭壇に崇められるように鎮座する、割れて砕けた玻璃の水槽の前。其処で彼らはこれまでに巡った舞台を思い返す。
「最高の舞台だったわ。座長……お義父上にとっても、きっとね」
願いが叶った『幸福な楽園』だったはず。
語る櫻宵に寄り添ったリルは、うん、と静かに頷いた。彼の涙は止まっていたが、慰めるよう優しく撫でた櫻宵は最期の刻を懐う。
母と息子、二人で歌を謳った後。
エスメラルダがノアを抱き締めた。ノアもそっと腕を回し――そうして、彼女達の姿はゆっくりと薄れていった。
「二人共、一緒に消えちゃったね」
「ええ、とても綺麗な最期だったわね」
「かあさんととうさんは、ずっと傍にはいられなかったみたいなんだ。だから今度は一緒に居られるといいね。解放されて、やっと戀が叶って愛で通じたんだから」
「そうね、私も幸福で居て欲しいと思うわ」
吸血鬼の貴族と人魚の奴隷。嘗てのままの関係であるならば、ノアの矜持や立場などもあって素直に叶う戀ではなかったはずだ。
しかし、すべてから解放された今は何も阻むものはない。
それがたとえ骸の海という過去の水底であっても、共に在れるのならば――。
黒曜の都市には今、数多の亡霊が彷徨っている。ふたたびこの場所が水に沈めば、彼らも消え去ってしまうのだろう。
櫻宵はふとリルに問う。
「リルはお義父上達に来て欲しいと願わないの?」
「ゆっくり二人で過ごして欲しいけど……」
どうなのかな、とリルは軽く首を傾げた。櫻宵もやっと結ばれた二人を思い、これからは二人の時間を過ごして欲しいと考える。
「でも、あなたが心配で見送りたくて来てくれる気がするわ」
「あいにきてくれるかな?」
櫻宵がそっと告げた言葉に対してリルは淡く微笑む。
そして、櫻宵にくっついて甘えていたリルは膝の上から身体を起こす。佇まいを直し、真っ直ぐに櫻宵を見つめるリルの瞳は真剣だ。
「決めたんだ」
リルが決意を抱いていると気付いた櫻宵は続く言葉を待つ。庭園で摘んだ三輪の薔薇を両手に抱いたリルは、ゆっくりと口をひらいた。
「僕は、しあわせな愛をうたう舞台をつくる座長になるんだ」
ノア様――とうさんみたいに。
優しいあいと歌に溢れた舞台を。とうさんとかあさんにもらった聲と歌で奏で紡ぐ。
はっきりと宣言したリルに向け、櫻宵は瞼を幾度も瞬かせた。
「リルが、座長に?」
「うん、本気だよ」
「劇団の跡を継ぐの?」
「そうだよ、とうさんの夢は享楽の匣舟をもう一回、はじめることでもあったから」
「噫、驚いた」
予想していなかったリルの思いを聞き、櫻宵は胸元を押さえる。心の奥がじんとしていた。そして、その夢を応援したいと感じた。
「……むつかしい、かな?」
「いいえ、リルならできるわ! あなたなら幸福な愛の舞台が歌えるはずよ」
少しだけ瞼を伏せたリルに首を振り、櫻宵は自分が保証すると告げる。リルが語る通り、舞台はあのグランギニョールのような残酷な舞台にはならないだろう。しかし、どんな形であってもノアの跡を継ぐことは出来る。
「それからね、かあさんの故郷もみつけるんだ。櫻も手伝ってくれる?」
「勿論よ。お義母上の故郷をみつけるのだって、舞台だって私に任せて!」
「本当?」
「きゅっきゅ!」
するとヨルも一緒になって羽をぱたぱたした。本当に良い息子をもったわね、と櫻宵が呟いたのは自分にも息子がいるからだ。
「何処へ行くのだって、私も一緒よ。リルの事も食べたりしないわ」
「齧られるくらいなら、僕はゆるすよ」
「……思わず揺らぎそうなことを言わないで、リルったら」
少しの冗談が交えられ、二人の間に笑みが咲く。
櫻の為に歌っていた白の人魚にはこれまで夢と呼べるものがなかった。これからを生きる上で目指すことが出来たのはきっと良い導きだ。
「でも、劇団の名前はどうしよう」
「享楽の匣舟のままだといけないかしら」
「きゅー」
まだ始まったばかりの夢について二人と一羽はあれやこれやと話し合う。そうして、様々な思いを巡らせていく最中でリルは手にしていた黒薔薇を掲げた。
名前を決めたり、何をするかはゆっくりと考えていけばいい。
今は、この黒薔薇を捧ごう。
この花は、カナン・ルーでは『だいすき』に捧ぐ花ともされている。
だから、とリルはとうさん達に捧げて歌おうと決めていた。櫻宵も薔薇をお義父上とお義母上と、りるるり達へ捧げていく。
「今もほら一緒よ」
「……うん」
そうして二人はそっと、声を合わせてあいのうたを奏でていった。
――リルルリ、リルルリルルリ。
――あいして、あいしているわ。
――lilululililululilululi.
ありがとう、だいすき。
たくさんの想いを込めてうたった歌が泡沫を揺らし、教会中に響く。
歌が響く度に桜が舞い、愛が満ちる。いつしかエスメラルダの聲が重なり、ヨルも覚えたての歌をきゅっきゅとうたっていく。
微笑む家族の幸福な春が咲いてゆく中で、割れた窓の隙間から街の様子が見えた。
様々な色彩が降りそそぎ、黒曜の街に想いの色が満ちていた。どうやら誰かが水葬の街に弔いと願いの花を降らせていったようだ。
まるで幸福な楽園のよう。
櫻宵は双眸を細め、リルも笑みを深めながら歌い紡いでゆく。
僕といういのちを歌い終わったら、かあさんととうさんの所に游いでいくから。
どうか、ずっと見守っていて。
リルは歌に願いを込めて弔っていく。そのとき、不意に静かな声が響いた。
『――劇団の名は、『櫻沫の匣舟』だ』
「……とうさん?」
「噫、お義父上の声ね」
声が聞こえた方を振り仰ぐとエスメラルダを傍に伴ったノアの姿が一瞬だけ見えた。それ以上の声が聴こえることはなかったが、二人にはすぐに解った。
櫻の花と泡沫。
櫻宵とリルらしさをあわせた意味合いを持つ、新たな劇団の名。それこそ父が息子に最期に遺した贈り物だ。
きっと彼のことだ、堂々と出ていくことはしたくなかったのだろう。
エスメラルダもそれを理解していて敢えて姿を現さずにいる。もし彼女の歌声が聴こえたならば、しかたのないひとでしょう、とおかしそうに語ったはずだ。
「素敵ね、櫻沫の匣舟」
「僕の……僕たちの劇団の、なまえ」
櫻宵は嫋やかに笑み、リルは父から贈られた道標を想う。きっと、劇団の名前にはめいっぱいの思いが込められているはず。
春を謳う桜のように、観る人々にあたたかさを。
水の中を揺蕩う泡沫のように、やさしく浮かぶ歌を。
そして、匣舟は春と歌を乗せてゆく。
春が、歌が、愛がふる。漕ぎ出した舟で何処へ向かうかは自分達次第。
リルの掌は少しだけ震えていた。自身で決めたことではあるが、貰った名前と期待に応えられるかと思うと、ほんの僅かだが心が揺れる。
しかし、櫻宵はそんなリルの機微にも気付くことが出来る。
何も語らないまま、腕を伸ばした櫻宵の掌がリルの手をやさしく包み込んだ。ヨルも黒薔薇をリルに差し出し、だいすきの気持ちを示してくれている。
「櫻、ヨル……」
リルはステンドグラスから射し込む柔く細い糸のような光に目を向けた。
もうすぐこの街はふたたび水葬される。亡霊達も少しずつ消えており、ノアとエスメラルダが去っていく時も間もなく訪れるのだろう。
姿は見えずとも、確かに自分達を見守り、見送ってくれる二人。その気配を感じ取りながら、リルは心からあふれた言の葉を紡ぐ。
「とうさん、かあさん――僕、しあわせだ」
●水葬
そして、カナン・ルーは水底に沈みゆく。
亡霊も、猟兵も、そして白の人魚も。ひとときだけ誰もいなくなった黒曜の都市。
其処に幽かな歌が響いていた。それは最後の最後に残った、想いの欠片によって紡がれたもの。この街と共に沈み、眠った命の為に捧げられていく黒い人魚の歌だ。
みちびきましょう、あまたのいのちを。
ねむりましょう、はるかなみずのそこで。
ふかい、ふかい、ゆめのなかに。もう、わすれなくてよいから。
わたくしたちのたましいは、よくぶかきうみのかなたへ。
あなたとともに、かえりましょう。
そうして、うたいましょう。ふたりのこいを。あなたたちへの、あいを。
リルルリ、リルルリルルリ。
あいして、あいしているわ。
やがて終わりの歌はゆるやかに消え、水葬の街は静謐な泡沫と水に満たされる。
此処で紡がれた舞台はすべて余すことなく終幕した。
享楽から櫻沫へ。
受け継がれ、遥かな海へと進みはじめたばかりの匣舟がゆく先は――。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵
最終結果:成功
完成日:2020年04月04日
宿敵
『『享楽の匣舟』ノア』
を撃破!
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