『幸せ』だけでは足りないけれど
●昨夜はお楽しみだったのか?
クリスマス、という日がある。
西洋の宗教において神の子が生まれた日とされるその日は、あるところでは家族の絆を確かめる静かな夜となり、あるところでは騒ぐ理由を何時でも求めている者たちの格好の口実となり、あるところでは恋人たちが共に過ごす日として認知されていた。
そんな日の朝、UDCアースのとある部屋の中で……。
(あややー……)
――紫・藍(変革を歌い、終焉に笑え、愚か姫・f01052)はとある女性の胸の中で固まっていた。
ベッドの中で声も出せずに固まるダンピールの青年、藍。
同じベッドの中で彼を抱きしめ寝息を立てる年上のお姉さん、末代之光・九十(何時かまた出会う物語ぺてん・f27635)。
二人の他に人影はない。プライベートな私室なのだから、居る方がおかしな話だ。
つまるところ、この状況――九十が藍を抱きしめぐっすり気持ちよさそうに寝ている形をどうにかするには、当人たちが行動する以外に道は無かった。
そしてそれは当然、九十が起きる気配を見せない以上、藍が動かなくてはいけないという意味だ。
(あやー……)
しかし藍、動かず。
当人たちの名誉に関わる事なので明言しておけば、二人はいわゆる恋人関係である。
別に一緒のベッドで寝ているくらい何の問題もない行為ではあるのだが、藍はそのように居直っているわけでもなかった。
ただ単に、予想だにしていなかった状況に彼の脳内から『あ』と『や』と『長音符ー』以外が何処かへ飛んでいっただけである。
彼だって目が覚めたのにベッドに寝ているだけでは健康的ではないと起きようとはした。
だが、目を開けば眠る九十が――寝ている内に乱れたであろう彼女の衣服から覗く肌の色が目に入る。
半吸血鬼とは違う、血色の良い肌色が脳裏に刻まれる前に藍はぎゅうと目を閉じる。
自分の顔色が、いつも鏡で見るよりずっと赤らんでいる事は気づいていない。
一旦落ち着こうと、深呼吸をしてみたりもした。
部屋に残る酒精の香りと、それよりもずっと近い、自分の物ではない匂い。
(……あややややややや~)
それが何なのか。分かり切った答えを認識する前に思考を無理やりに断ち切った結果が、今の藍のあややな脳内であった。
そういう訳で藍は目を閉じて、しかしその他の五感を意識するのもまた険しい道であるという事で思考をあややの海に沈めているのだ。
そのあややの中で思い出されるのは昨日の事。九十との逢瀬である。
イヴの夜に見た美しいイルミネーション。夜の穏やかさを包み込むような灯りに照らされる恋人の横顔。ふと目が合った時に感じた胸の高鳴り。二人きりで食べたディナーとワインの味。
今日の恋人の存在感から唯一意識を逸らしてくれる昨日の恋人との幸せな時間を思い出して、藍の思考はいくらか落ち着いてきた。
恐らく、自分は酒の飲み過ぎで沈んで・・・しまったのだろう。
そして九十は、そんな恋人が眠ってしまった後も変わらず寄り添って、笑ってくれて、離れがたいとベッドに運んだ後も一緒に居てくれた故にこのような形になったのだ。
そう思うと、藍の胸の中に恋人への愛しさが溢れてくる。
とっくに胸いっぱいだと思っていたのにまだ先があったなんてと驚きながら目を開くと、そこには変わらずに寝息を立てる九十の顔がある。
なんて幸せそうで、なんて穏やかなのだろう。
いつまでも見ていたくて起こしたくないのに、愛おしさが抑えられなくて頬にそっと手を合わせてしまう。
「――んぇ?」
九十の瞼が開いて、その黒い瞳が恋人を捉えたのはそんな時だった。
「おはよーなのでっすよー、おねーさーん」
「あ、うん、おはよう……?」
酒が残っていたなら良い体調ではないだろう。
そのような事まで考えてささやくように目覚めの挨拶をする藍と、まだ状況を把握してない九十のとぼけた返しが交換される。
九十が藍を見る。藍は笑顔を浮かべる。
ついでに自分の腕を見る。思いっきり藍を抱きしめる自分の腕。
そのまま視線を胸元に落とす。なにやら肌色が記憶より多いというか、いわゆる着衣の乱れが見て取れる。
「え。えええええいやあれあのえっ!? ままままさかついに僕ってばその大人の階段を踏み抜いて3階層まとめて倒壊
……!?」
「あやっ!」
瞬間、部屋に響くは焦りに焦った女の絶叫と、それに驚く男の声。
クリスマスイヴの夜、二人きりの男女、酒、乱れた衣服、何も起きない訳がなく……この時九十の中に駆け巡った感情に特定の名前を付けるのは難しいだろう。
それは純粋な驚愕であり、もっとキチンとした形で関係を進めたかったという落胆であり、何も覚えていないという悲しみであり……。
「ん、あれ……藍の服綺麗だね……?」
「ふふー、ありがとうございまっす。おめかししてますからね」
この辺りで九十は気づく。
記憶はある。酒で寝入ってしまった藍をベッドに運び、そのまま自分も床に着くまでの記憶がしっかりはっきりくっきりと。
何も覚えていなくない。ただ、俗物が想像するような何かは最初から無かっただけの話である。
本当に何も起きていないのか? 藍は先に起きていたのだから、自分の知らないところで起きてないか何か。
一瞬未練がましくそう考えて、即座にそれは無いと脳内で断言する。
藍は眠る恋人にそんな事をするような人では断じてない。そこがいい。でもちょっともどかしい。もどかしいって何だよ一体どうなりたいんだ自分は。
「そそうだよねそうだよねー分かってたよ良かったよ別に残念に何か思ってないよほんとほんとそんなはしたない事は別にそのはははは……はは……は」
驚いたり、ガッカリしたり、愕然としたり、首を傾げたり、落ち込んだり。
起きた途端に百面相を始める恋人に、藍は気遣うような視線を向ける。
こういう賑やかな面も彼女の魅力の一つであるけれど、やっぱり心配にだってなってしまう。
「あの、やっぱりお酒とか残って……「いえなんでもないですっ!」
そう思って藍が声を上げると……九十は跳ねた。
起きるでも退くでもない。跳ねたのだ。
身体を側面方向にくの字に曲げて、藍を吹き飛ばさないように抱いていた腕を器用に解いて。
神は、空中へと浮き上がったのだ。
ごちん。
そして床に落ちた。
「いだだだだ!? 何これ痛いめっちゃ痛いフラフラする気持ち悪いこんなの知らない嘘知ってる二日酔いだコレ!」
落ちたら今度は頭を抱えて蹲る。朝から実に慌ただしく忙しそうな九十の背中に恋人の声が降りかかる。
「あやー、やはり酔っ払っちゃってますかー」
「ちょっと……お酒残ってるっぽ、づゔゔゔゔ……こうなると分かってるのに呑み過ぎた……これが生き物のサガか……」
同じ生き物である藍はいたって元気そうな点に目を瞑りながら、九十が呻く。
さっきの、どこかしっとりした空気を感じる恋人との目覚めの余韻は消え失せた。
此処に居るのは何回飲んでも学習しない哀れな酔っぱらいと藍ちゃんくんだ。
「ここは藍ちゃんくんにお任せするのでっす!」
「おうう……えっ?」
そう、此処には藍ちゃんくんが居るのだ。
「さて、ちょっと失礼しまっすよー?」
「え、あ、はいぃ……」
しっかりとした足取りで起き上がった藍が九十を抱き上げる。
横抱きである。お姫様抱っこである。
年齢と性別相応に体格差がある二人だ、九十は一見するだけでは分からない恋人の逞しさをこれでもかと見せつけられる形になる。
「呼吸の為にお洋服……あう、緩める必要は無いようでっしてー」
「ひゃい」
ベッドに横たえた九十の様子を見やり、少し顔を赤らめて藍が視線を逸らす。
頼りになる逞しさと年下らしい可愛らしさが同居している。自分の恋人は無敵だろうか。無敵なのかもしれない。
九十はそんな事を考えながら、どうにか絞り出した声で返事をする。
「こちら、お薬とスポドリでっす! これからしじみのお味噌汁と雑炊も作りまっすから、無理せず口に入るものだけ採ってくださいでっすよー!」
「無敵だぁ」
異様に準備が良い。
テキパキと介抱の体勢を整える藍に対して、最早驚愕も通り過ぎた。
今の九十は脳と口が直結した思考駄々洩れゴッドである。
此方も、恋人にとっては可愛らしいものだ。
くすりと笑いかける藍はそのままエプロンを着けて、軽やかな包丁の音を立て始める。
「うおあおううう……藍が理想の旦那様過ぎる……」
それは、九十の口から洩れた言葉にぴたりと止まるのだが。
青年がくるりと振り返る。
「あっいやそのええと」
口を滑らせた女は顔を赤くして、しどろもどろと慌てて。
違う、とは言えない。
いい加減な関係である気持ちは全くないし、何よりも、無意識であっても否定の言葉を紡げないほどには真実の願いであって。
「――はいなのでっす。おねーさんの未来の旦那様、なのでっすよー?」
そんな女の混乱を、男はとびきりの笑顔で迎え撃ってしまうのだから。
「……えへへ」
女はもう、同じくらいの満面の笑みで毛布を被るしか無い。
特別な日に一緒に過ごせる事が途方もなく幸せで、沢山自分の事を考えて優しくしてもらう事は蕩けるように甘くて。
特別でない日常にも愛する人が溢れていて、想像もしなかった変革が疑いようもなく幸福で。
お互いがお互いに与えてくれる全てを表せられる言葉は、きっと何処にもなくて。
――幸せだ、と観念するように呟いたのが何方かなんて、問いかけるまでもない話なのだ。
成功
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