剣の裡に在りしは、己ならばこそ
剣を抜く前にして、勝敗とは定まるもの。
その言葉を呼吸に乗せて、身体の隅々へと染み渡らせていく。
剣の道を征くが故に、言葉の深き意味を知る未だ半ばなれど、夜刀神・鏡介(道を探す者・f28122)は瞑想にも似た心境にて吐息を重ねていく。
全ては礼に始まり、礼に終わる。
精神に重点を置く剣道はただ華法の剣に非ず。
意味は必ずあるのだ。
全てを知るには、遙か遠くとも。
「だから、これもまた歩みのひとつ」
そう呟く夜刀神が、道場でゆっくりと身を動かす。
細胞のひとつひとつに酸素を届け、筋肉を揺らし、靱帯のしなやかさを確かめる。
自らの身体の柔らかさと強靱さを知るのは一種のストレッチ。
が、その動きのひとつひとつに意味がある。指先の動きのひとつとっても、剣を握る強さを憶える為のもの。
いうならば、身の奥底、血の一滴にまで剣を振るう術を届けていく。
何も剣を振るう瞬間のみではない。
どのような時とて、自らの剣を振るえるように。
教えをなぞるように、瞼を開いた夜刀神は少しずつ腕や身体に負荷をかけていく。
心というものは一番、磨きにくいものだからこそ最初から。
続けて筋肉トレーニングと移るのは体という土台を軽んじてはいないから。
なら終わればすぐに技へと移るかといえばそうではない。道場の周囲を走り込み始めた夜刀神は、戦場では常に己が限界との鬩ぎ合いとなると知っている。
まずは己に打ち克つことも肝心。
が、剣を振るう呼吸、体力、気力。それらは精神で支えるには限界があるのだ。斬り結ぶ最中に相手は待ってくれず、吸い込む息のひとつさえ隙となるのだから、呼吸を顰めて刃金を鳴り散らすのみ。
このようなランニング程度で息を切らす身体ならば、実践では足りなさすぎる。
心技体、揃って初めて武芸という。
実践で幾つもの難敵、強敵、そして世界の敵と斬り合った夜刀神だからこそ、それが嘘や騙しではないと解るのだ。
「そう。誰も彼も」
夜刀神は一種の求道者であり、空にある星を追い求める者に近しいだろう。
結果として辿る困難を厭わない。
身に、心に走る痛みなど、夜刀神が剣を手放す理由にはならないのだ。
「――自らに打ち克ってこその、剣」
汗を拭い、冷たい水で喉を潤し、再度道場へと入る夜刀神。
此処までは、いわば心と体であった。
故に、これより初めて技の鍛錬に入るのだと一礼をして、ゆっくりと呼吸を吐き出す。
まずは体幹こそが基礎とばかりに、素振り用の重い木刀を握る。
「――――」
深く、深くと呼吸をひとつ。
構えるは正眼。あらゆる動きに対応する為の構え。
するりと摺り足が続いたかと思えば、果断なる踏み込み。間髪を挟まずに真っ直ぐに峻烈なる一閃。
受ければ鉄であれ無傷では済まぬという威がそこにある。
が、驕ることも澱むこともなく残心。流れるような所作で正眼の構えへと戻る。
基礎中の基礎だからこそ、身体の全てを駆使させる動き。
そして基礎の技であれども、生半可な武芸者では防げぬ剣であった。
ひとつでは止まらず、ふたつ、みっつと同じ動きを重ねる夜刀神と木刀。
が、その異様さに常人が気付くのはそれらが十を超えたころか。
繰り返される剣筋に体捌き。それらが、僅かでも逸れることはないのだ。
一ミリとて狂わず同じ軌道を描く切っ先。
体軸から腕、そして爪先までも最初の一太刀目から全て等しく、まるで同じ映像を繰り返しているかのよう。
此処までしても、夜刀神の黒い双眸は静けさを湛えるばかり。
剣を振るう腕だけではなく、肩に胸、脇腹に太もも。何処に力を込め、或いは緩めればよいのか。
剛と柔。どちらが善いのではなく、鋼の強さと柳のしなやかさを合わせ持つことを理想としている。
更には爪先で間合いを計り、詰める繊細さ。
が、剣を構えて凛と佇む軸は決して崩れぬ大地の如く。
基礎の技でありながら、妥協などありはしない。斯くもかという鍛錬の積み重ねと、複雑に絡み合う肉体の脈動。
此処に在るのは理想を求めて一切の無駄を排する刃の如き士の姿であった。
「……善し」
そうして幾十が繰り返されたか。
満足はしてない。
だが、実感を憶えられたのだ。
そう、剣の頂きへと辿り着くまで、満足などは出来ずとも。
「今は善し。昨日より、前へと進んでいる」
夜刀神が囁くように呟けば、だんっと床を踏み鳴らして流麗なる剣弧を描く。
基礎より型の稽古へと移行した夜刀神は、まさしく剣の道へと己を捧ぐ者であった。
携えるは本当に木刀なのか。
そう疑う程に風切る音は澄み渡り、瞬くような太刀筋は美しい。
添え渡る刃金の輝きこそ得ぬものの、そこに宿る剣技の美が見るものを魅了するのだ。
まるで武神たる鹿島の宮に奉じるかのような。
それでいて、雄々しき気は激戦の熱を帯びるかのような。
これが今も戦う道に在りし者と剣が流れ、瞬き、また閃く。
が、これは型稽古。元より一連の流れというものがある。
実戦を想定してこう攻められれば、こう応じて返す。或いは、敵手の刀身弾いて紡いだ間隙に刃を届ける。
――剣を抜く前にして、勝敗とは定まるもの。
その概念は撃剣を編んだ一刀流の思想だ。
切落。つまりは相手の斬撃を弾きながら、そのまま一刀にて勝つという理念。
故に刀身が交える瞬間、より確かに軸を捉えたものが勝つ。
ならばと構えた際に、より体軸と姿を完成させた者が勝つ。
鞘より刃を抜く瞬間に、地の利と心を奪ったものこそが勝つ。
極論に至れば、そも日々の稽古でどれほどに技と強さを積み重ねたかが、勝敗を別つ。
その為に在る剣の型稽古は、もはや影の残らぬ先達たちが積み重ねたものなのだ。
こうして勝った。生き残った。
或いは負けたからこそ、こうしてはならない。
数多の命と努力と、才能の結晶がこうして型として残り、夜刀神の剣をより高みへと導く。
「だから――感謝を」
そう呟くのは、剣に対して集中しきれていないと言われるだろうか。
ああ、師ならばそう言っただろう。
が、同時にこうも笑う筈だと夜刀神は確信している。
「――考えて続けろ」
故に過去が紡いだ型を、ただ型としてなぞるには留まれない。
夜刀神の黒い眸が見据えるのは虚空なれど、そこに在るのは未来への道。或いは、更なる敵の影。
そう、型は型でしかない。
同じく一刀流を始祖とする撃剣では太刀筋をこう云われる。
剣は水を満たした盆。
盆とは型であり、水とは己が力である、と。
剣運びに澱みや揺れがあれば、そこにどれだけの力と技を注いでも、震えた盆より水から零れ落ちるように喪われるばかり。
それではどれほどの怪力が、迅速さが、繊細なる技があろうと無為。
覆水盆に返らずとは言われるようにだ。
故に型という剣筋を理解し、澱むことも震わすこともなく、ただ澄み渡る一閃を繰り出し続ける。
そうして盆に並々と注いだ水を一滴なりとも零すことなく。
力を、剣気を、巡らせて廻せて、刃を振るい続ける。
ああ、それは理想だ。憧れるような剣。微かな衰えも見せず、幾重にも美麗なる剣閃を描き続ける。剣士の理想であり、無駄の一切がない刃の研ぎ澄まされた美しさを見せるだろう。
が、一方でと夜刀神は胸の奥で思う。
剣の型とは、技の形とは。
そう、器ではあるのだが――では、自らの力は果たして水なのだろうか。
「考え続けろ」
流水が如く淀みなく、動き続ける切っ先。
ああ、それは素晴らしいと思うものの、それは所詮は水というもの。
月影を映す程に静まりかえった湖面、或いは盆水は美しかろう。
が、美しさが為に剣を執るのではない。強さが為に剣を握るのだ。過程の裡で綺麗と憶える刃の流れは紡げても、それは求める結果ではない。
熾烈なる炎はどうか。
全てを燃やし尽くし、猛る炎。侵略すること火の如し。果断に進む刃は烈火と賞せよう。
それでも水がよいというのか。火ではなく。
――いいや、違う。
強さには種類があり、それぞれの性質が違うだけだと夜刀神は戦の裡で心得る。
例えば迅雷が如き剣。
雲耀の剣と賞されるは刀の理想でもある。
何よりも速く、相手より刹那でも速くと斬り捨てる。
先の先を突き詰めた一閃は何よりも恐ろしい。
が、それに揺らぐことのない巌はどうだろうか。
雲耀の剣には後の後の先を取れと印した書は幾つもある。そのように、一刀の怜悧さを突き詰めた鋼刃はどうなのか。
――どれを、強さと呼ぶべきなのか。
そう考えながら剣を振るう夜刀神の眉が顰められる。
夜刀神の剣技、そしてユーベルコードが示す通り、どのような性質が最善とは彼は辿り着いていない。
いいや、或いは一刀流の奥伝に秘された陰陽五行の応じた五つの剣を全て操ることこそがと思っているのだろう。
水のように流れ続けて。
火のように猛る威を込め。
迅雷と化した剣を振るい。
揺らがぬ巌として剣峰を構えて待ち。
刃金と共に在り、後の先と翻るのか。
夜刀神はそれぞれの強さに優劣はないと心得ている。
いわば使い分け。長所と短所はあり、明確な応えがあるのならば、誰も彼も剣の道に迷うことはない。
――どの、強さを込めるべきなのか。
故に、夜刀神が見定めようとするのは今に振るう剣の型に、どのような力を込めるべきか。
烈火か流水か、それとも迅雷か。
いいや、柳の如くとてある筈で、霞のように掴ませぬともある。
何かを定めようと思考を狭めるのはヒトが誰しも抱く悪癖であり、ならばと広げれば霧の中に惑うがヒトの常。
「それでも」
夜刀神の剣はもう既に、誰かに教わり、習うという範疇を遙かに超えている。
「俺の剣は、どうあるべきなのか」
この型に込める力の性質は如何なるべきものなのか、ではなく。
如何なるものを込めて、振るうのか。
そして、その際の無駄を斬り捨て、磨き上げて新たなる技と型とするのか。
守破離は芸において必ず付きまとう命題である。
加えて、夜刀神の剣は、いいや、肉体は呼吸のひとつまでもが、彼だけのもの。
誰かに教わり、それに倣い、従っても同じ高みにさえ辿り着けない。
だからこそ、夜刀神の黒い眸は鋭く、そして静けさに満ちていた。
肺の奥底から零れる吐息さえ、刃の擦れ違う音色に似ていた。
「……考え続けろ」
それが今、夜刀神が信じられる唯一の、そして最期の教え。
剣は水盆であるという。
が、夜刀神の身体は水ではないし、剣は盆ではないのだ。
だからこそ、求めて振るい続ける。
これが正しいのか、間違いなのかと悩みが過ぎらないといえば嘘になる。
だが、それでも――剣の道を追い求めて、高鳴る鼓動は真実だから。
これだけは誰かに課せられたのでも、選ばれたからでもない。
ただ純粋な夜刀神の願いとして、彼の心をより深く、より鮮明にと浮かび上がらせる。
明鏡止水、無想無念。
そこに至るには、今は遠くとも……故に見えるものがあるのだから。
己とは、何なのか。
己の力とは、一体何なのか。
それをもって振るう剣とは如何なる色と性質を帯びるのかと、幾重にも舞うように続く夜刀神の剣。
応えるものはいない。ならば、自らの虚像と心へとその切っ先を向けるかのように。
繰り出す剣は花流して月浮かばせる水のように淀みなく。
翻せば、唸る音さえ灼熱を帯びるかのような熾烈なる剣閃。
留まるも揺れるも知らず、ただ真っ向より打ち込む巌の剛剣。
かと思えば先の先より、或いは、後の先より越えるのだと雲耀の差を詠う切っ先が走る。
踊る。舞う。夜刀神の身体が、剣が、足先が止まることを、此処で留まることを拒み、動き続ける。
己の剣とは――何なのか。
それを知るが為に、考え続ける心は何処までも研ぎ澄まされていく。
或いは。
そうした迷妄を振り払うことこそ、強さを得ることなのかもしれない。
ただ夜刀神はひとつだけ解っている。悟りの如く、その心魂で捉えている。
――剣を抜く前にして、勝敗とは定まるもの。
ならばこそ、今の儘では惑った儘に道を進んだ未来の己には勝てぬ。
互角、相打つではなく、先なる場にある己に打ち克つ為に。
更なる未来を、強さを得る為に。
それこそ今に在りし天を破り、新たな宙へと至るが為、夜刀神の孤剣は奔る。
夜刀神ただ独りでしかこの道は越えられぬのだから。
惑いて道の果てへと辿り着けぬ己へと、切っ先を向ける。
成功
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