雪月綺譚~白き花嫁の指先~
●雪の綺譚は囁く ~ ある村の、冬の夜 ~
――雪が降り白い月の浮かぶ寒い夜に、外を歩いてはいけないよ。
――白い獣の花嫁の、紅い瞳に魅入られて、連れて行かれてしまうから。
とさり。
静まりかえった冬の夜に、小さな音が響く。
降り積もった枝より雪が零れ落ちたのだろう。
まるで囁き声に似た秘やかな物音。
だが静まりかえった夜の裡では何処までも遠くまで響くていく。
静寂ばかりを湛える空気。
時さえ凍て付いたかのような冷たさ。
その奥にはただ何もない。物静かな夜闇ばかりが広がっていく。
その中で聞こえた雪が落ちる音に、男はゆっくりと瞼を開けた。
目を覚ましたが、周囲にあるのは静けさと暗闇ばかり。そっと布団を抜け出し、明かりを灯す。
なんとも……。
まるで夜へと誘われるような、小さな囁きのようだと雪が落ちる音に物思いを馳せながら、ふるりと身を震わせた。
時刻は丑三つ時ほどか。
もう一度、眠りにつくにはなんとも冴えた心地。
寒さのせいか。それとも妙な覚醒を得てしまったのか。
或いは夢より追い出されてしまったのか――やはり、雪の音に誘われてしまったのか。
男がもう一度ふるりと身を震わせたのは、骨まで染み渡る寒さのせいだけではない。
言葉に言い表せぬ惑いめいた感情を覚えて、男はからりと戸をあける。
夜空を仰ぎ見れば。
しんっ。
と、空気さえも凍て付かせるような、凍り付いた月が浮かんでいる。
真円を描く満月。白くも艶やかに、夜空に独り浮かぶ姿。
雪は降り続ける儘であり、夜天を覆う雲は月の周囲ばかりが裂かれている。
雪と、月と。
なんとも幻想的な、白い雪の情景が広がっている。
白と黒。目眩さえ憶えるような強烈な綾めいた色彩の対比。
「ああ」
男の零す感嘆の吐息。
美しい。なんとも麗しいものか。
か、触れれば冷たい。命というぬくもりを奪う、冬の色なのだと男は知って、なお足を踏み出した。
さくりと、新雪に足跡が刻まれる。
そうしてふらりと歩き出せば、胸の奥に浮かぶのは子供の頃から伝えられてきた噺だった。
――雪が降り白い月の浮かぶ寒い夜に、外を歩いてはいけないよ。
……今となっては笑い飛ばすだけの、子供への噺だ。
教訓としてのお話であり、躾けの一種。今更そのようなものに縛られるものではないと、一笑に付す。
男は幼き頃から教訓めいて言い聞かされ、語られた化け物の噺を知りながらも、しかしもはや真に受けていない何処にでもいる一人の大人だった。
おおよそ何かの見間違い。よくて、何かしらの事件がこうして形を変えたのだろう。そう予測する程度には賢しさがあった。
いいやそれこそが大人というものであり、夢というものを忘れていくものだ。
美しいものであれ、恐ろしいものであれ、温もりを失うように、色褪せるようにと綺譚より心は離れる。
ならば、噺は噺でしかないのか。冬の夜に出歩ければ風邪をひく。そんな教訓でしかないのかと、男はさくりさくりと外へと歩き出した。
居る筈も、在る筈もないモノに何を恐れる。それこそ馬鹿馬鹿しく、本当に在るかどうか男自らが確かめてみてくれよう。神秘とは曝かれれば意味を成さないが、曝くその最中に密やかな熱と憶えるものならばなおのこと。
噺を確かめてみようとはする程には子供じみた好奇心が残っていたのか。それとも、愚かしさが浮かんだのかは判断がつかない。
が、確かにもしもこの噺をするならばよい酒の肴とはなるだろうと、明かりを手に雪夜の路へと歩き続ける。
さくり、さくりと足跡が刻まれる。
もう戻さないというかのように、降り続ける雪が痕跡を覆い隠して、消していく。
月ばかりがすべてを眺めていた。
そうして、どれほどを歩いただろうか。
村の家々の並ぶ場を抜けて路を歩くも、話に聞いた白い姿なんどとんと見える事は無い。あるのはしんと静まりかえった夜空の月と、はらはらと降りしきる雪の白さのみ。
確かに白と黒の混じり合い、綾描く夜の景色は美しい。
が、身を刺すような寒さに男は眉を顰めた。どれほどに美しくとも、男は常人。家の中でのぬくもりを求めて踵を返すも当然だった。
所詮、噺は噺。
夢は夢でしかなく、笑いの種にもなりはしないと思った途端。
「もし……」
雪が囁くような、秘やかな声が聞こえた。
びくりとして男が振り返れば、少し離れた場所にと白無垢姿の女がいる。
「……もし、そこのお方」
綿帽子で顔は隠れて、よく解らない。
が余りにも小柄なことと、細やかさばかりはよく伝わる。
身を包む白無垢をもってしても、その矮躯は隠せぬというほど。
が、おやと男は首を傾げた。
男が今まで見ていた方向に、果たしてこのような姿はあっただろうか。
雪に紛れるような白さは、確かに夜の裡で見失うものかもしれぬ。何処か儚さに似た雰囲気も、存在感というものがとても薄い。
夢や幻想に現実感など憶えぬように。
夜空に浮かぶ白き月にそのようなものを抱くことなどないように。
いいや、それよりその姿はと、言葉を紡げず、呼吸も忘れて身を強ばらせる男。そこへと、白い女は物静かに語らう。
「これより先は、何処に続くので御座いましょうか」
「…………」
聞けば白い女は祝言に向かう最中、道に迷ってしまったのだという。
こうも雪が降り続けば何を頼りにしていいか解らぬ。足跡とて雪が隠す。方向を確かめる術もない。
明かりの油もとうに尽き、こうして夜は寒さを増すばかり。
今は雲より抜け出た月がしらじらと明かりを零すが、それも半刻も持つまい。
「そうして、見知らぬ地で土地勘もなく、途方に暮れておりました所に、貴方の明かりが見えましたので」
「…………」
「ふらり、ふらりと。驚かせしまったのならば、申し訳御座いません……」
いや、そのような事で驚くのは子供ばかりだ。
と、見栄の如く言い切った男に、僅かに首を傾げて女は問いを重ねる。
こりより道はどのように続くのでしょうかと。
どれほどに首を傾げても、口元までしか見えぬ白無垢と綿帽子の姿。
聞けば女の向かう先は今居る場所より僅かに歩いた、男の住む地にほど近い村落であるという。
成る程、ならば真っ直ぐに歩けばいい。
が、雪の降り注ぐ夜に、真っ直ぐに歩くというのも無理な話。近場であっても土地勘も明かりも泣ければ、歩く事も儘ならぬだろう。
そも、何処まで行けば辿り着くのかも解らぬと不安に駆られるのは当然のことであり。
「叶うならば道案内をお願いしたく思います……」
なんとも所在なさげに、女は声を零した。
不安は当然であり、明かりもなく女が独り夜道を歩くだけでも怖かろう。寒さと雪が満ちるならばなおのこと。
が、故にと男はいぶかしんだ。
祝言をあげる女が一人で?
このような時間に?
家族や連れもなく出歩くは不自然。むしろ、嫌な婿との婚儀から逃げてきた、という方が納得のいくというもの。
なんとも腑に落ちぬ点が幾つもある。
が、白い女の声は人の声と何ら変わらず、寧ろどこか親しげで、噺に聞くような恐ろしさなど感じることはない。
ああ、いや。婚儀より逃れてきたというのならば納得がいく。ならば逃げる女を、確かに導くのも男というもの。ましてや、あの獣の花嫁の噺など笑い飛ばすものでしかないのだ。
真偽を確かめようと出て恐れたなど誰にも言えぬ。いいや、変わりに女と出くわし、道案内をしたなどあった方が知り合いにも語れる噺となる。
好奇心に虚栄心。そういったものが強く胸にある。
そういう平凡な男ではあった。
また、僅かに見える女の口元や、袖口から覗く白い肌に目を惹かれていた。なんと美しい色であるかと、降り積もり続ける雪のような肌に、僅かに目を細めた。
寒いかと男は尋ねた。
大丈夫ですと女は答えた。
が、血の色が引くほどに冷え切った手の色に男は同情し、また、とても色濃き思いを抱いた。
ああ、愚かしさとはこういうものであろう。
すんなりと道案内を引き受けて、男と女は当たり障りのない言葉を交わしながら路を征く。
花は好きかと問う男。
ええ、と答える女。
季節は何が。冬が。色は何が。この雪めいた白が。
そのような他愛のない、相手を知らないからこそ交わされる言葉の数々。互いの名や生い立ちも尋ねぬし、深き所に踏み入ることも、また自らの芯に関わることは言の葉に舞わすこともない。
ただ、しずしずと。
そして、しらじらと降り積もる雪のように、男と女の言葉が降り積もる。
何を語らっていたのか、実の所は男は定かに憶えてはいない。
ただ静かに囁くような、夜に染み渡るような女の声に聞き入っていた。もっと声を知りたいのだと言葉を重ねれば、時折くすくすと控え目に漏らす笑い声。
ああ、なんと美しいのだろうか。
もっと聞きたいと思いつつ、僅かに男の胸がざわついた。
何処かで、そう、つい最近何処かで聞いたような、秘やかなる囁きと笑みの――ああ、雪の崩れ落ちるような音色かと思い出す。
ならばこの夜に誘われて、出逢ったのであろう。目覚めたのも当然のこと。
月が美しいのも、雪が降るのも、この出逢いの為ならばと。
そう口走り、なんという青い夢想かと男が恥じて顔を赤く染めたが、やはり女はくすくすと物静かな笑みを零すのみ。
誘われるような囁きに、また男の目が、心が女に惹かれる。
なんと素晴らしき、雪の音であることか、と。
そうしてまた路を進んでいく。
時を忘れるひとときとはこの事であり、暫くというのがどれほどなのか男もついぞ分からぬ。というのも、夢中となっていたのだろう。
が、寒さがついに指をかじかませた。
女の雪めいた美しさの前で感じていた陶酔が、痛みによって覚まされる。
ああ、と。
此処は、何処なのだろうか。
「――!?」
周りを見れば歩いているのは路を外れ、雪が積もり草木が生い茂る獣道。このような道も場も男は知らぬし、案内などする筈もないと首を振るう。
いいや、自分はどのような道を歩いてきたのかと、はっと振り返れれど、今までの歩みを示す足跡は、すべて雪に隠されたまま。
可笑しい。
胸の奥で脈打つ、熱くて冷たい――恐怖。
こうまで道を外れて気付かぬ筈はない。むしろ、男にこのような草陰にと連れられて、女のほうが訝しまぬ筈がないのだ。
そもそも、なぜ自分はこうも怪しい女の案内など引き受けたのか。
恐怖から遅れて不安が過ぎり、耳元で聞こえるのは自らの鼓動。どく、どくと流れる己が血ばかりが熱く、しんと凍て付く夜は痛みを憶えるほどの静けさで男を包んでいる。
ああ。
そう、静けさ。
男はふと気付いた。女の声は美しいものだった。
が、その足音を聞いただろうか。さくり、さくりと雪を踏みしめた足音は、常に男のひとりぶんだったことを思い出して。
「ああ」
声もなく。呼吸さえ止まるのは、女の吐息を傍で感じたから。
何時からそうなっていたのか。気配も感じさせず、女は男に身を寄せている。するりと手に指を絡ませ、離さないと告げるように身を預けていた。触れる雪のように白い肌は、またとても冷たかった。
ぞわりと――恐怖と、情欲と。異なるふたつが、男の胸を満たした。
「夢見るように、そのまま、気付かなければよかったのに」
女はもう片方の腕もまた男に絡ませている。
それはさながら縁深き恋人のように、情念募りし伴侶のように。
――或いは、もう逃さぬと歌うかのように。
ただ恐ろしいほどの静謐さがあった。月が地を眺めて、雪が全てを覆い隠していく。誰もこの夜を知らぬし、そして、誰も此処からは逃れられぬ。
――ね。
と、囁く美しい女の声に、男はぞわりと身と肌を震わせた。
ああ、女は男を微笑みながら見上げている。
吐息も重なるほどに近くで。
もはや顔を隠す綿帽子も僅かに逸れて、女の貌が半分ほど、異様なほどに白い肌と共に晒されている。
美しいと息を呑んだ。
男は、美貌という意味を知る。
女の瞳は血のように赤かった。
微笑む口元から覗くのは、ヒトには有り得ぬ肉を喰らう獣の太く尖った牙。
美しいとは、他と異なるということ。
さながら狂い咲く桜が、妖艶なほどにヒトの心を惑わし、惹き付けるように。
ヒトならざる異の貌が、その美を晒している。
これよりもっとアカを零しましょうと。
雪の色をした美貌の上で、赤い双眸が妖しく瞬く。
いつの間にか、男の持つ明かりの火は消えていた。もしかすれば、女がふうと一息でかき消したのかもしれぬ。
何も見えぬ闇の中、何も聞こえぬ静けさの中。
けれども、ただヒトならざる女の白い姿のみが、その白き美貌のみが、白い影のようにくっきりと、はっきりと見えた。
――『獣の花嫁』。
あの噺は、真実だったのだ。
瞼を瞑ることさえ出来ない。
触れる吐息の冷たさに、男は微かに呻いた。逃げねばならぬと頭は警鐘を鳴らすが、身体は凍て付いたかのように動かず、震えて女のことを見ることしかできない。
いいや……本当に身体は冷たいのか。男の巡る血は熱いと、触れる女の雪膚の柔らかさに感じるばかり。
不可解であった。恐ろしくあった。何故このようなと思いつつ、どうして未だこの異貌の女を、『獣の花嫁』を美しいと思うのか。身を竦ませ、いっそ狂っているのならばと男は息を零す。
くすくすと、そんな男を愛でるように女の嗤い声が響いた。
「……このまま私に身を任せて下されば、楽であったものを」
女の繊手が綿帽子をはらりと外す。
髪もまた真白き色だった。雪の中へとその長い髪を流して、男の頬に触れる。
白く白く、だが純白とは言えぬ雪の色をした指先が、やはり雪のような冷たさで男に触れた。
ああ、と。
温もりを憶えるように、女から甘い声が聞こえた。
或いは、巡る血の、男の命というものを感じるような声。
そうして指先が男の頬を愛しそうに撫でる。
まるで寄り添うように。依存して縋り付くように。絡みついて、離さないと嘆くように。或いは、もう私のものと印を刻むように。
女の冷たい指先が、男の全てを奪うように、冷たさを伝えていく。
「それとも、心あるままに任せて下されますか?」
赤い眸で男を見つめて、伸ばした腕を引き寄せる。
口づけるようにと顔を寄せて、吐息の混じるほどの距離で、にぃと妖しくも美しく笑う女。唇より零れた獣の牙が求めのは、何なのか。
同時に真白き髪より見えるのは獣の耳。
ああ、ヒトではあるまい。こうも美しく、冷たく、甘く――ヒトの心を奪うものが、ヒトである筈はある筈がない。
「さあ」
ふと、男は気付いた。
雪が枝より零れ落ちる、あの囁きに似た音。
女の美しい声。死の音色に似た、この静けさ。
それに、もう恐ろしさを抱いていないということに。
赤い双眸に見つめられれば、まるで緋月に見初められ、狂気に落ちたかのように、奇妙な愛情が――この女に喰われてしまいたいという憧憬じみた思いを抱いてしまっていた。
ああ、女の腕はどうしてこうも柔らかいのか。縋り付き、絡みつき、そして抱き寄せられる女の身体は雪の花びらを思わせるほどに柔らかい。
そして、触れるものの吐息を凍て付かせるほどに冷たい。
男は思う。
己が身ではこの女の躯を暖める、命のぬくもりとなれはしないだろう。
離れたくないと嘆くならば逃れようとはすまい。もはやこの身は女のものなのだろうと、印された定めより逃れようともするまい。
全てはこの異なる美しさが為に。狂気さえ抱かせる、白と赤の美がために。
この美しさがひとときの雪や泡沫ではなく、永遠に続く為ならば――このヒトでしかない血肉にも、所詮は凡俗だった男の命にもまた意味があるだろう。
それとも本当に慕情を抱いてしまったのか。ならば、狂ったに違いない。
だが、此処はある意味での極楽浄土。
雪色と静けさが満ちる女の腕の中で、牙と、赤い眸の前に。
白と赤い彼岸花に満たされた異界の美しさと、憧憬と、そして欲を知った。この美の為に、捧げられるのだと男は分かった。
死を望むも、またヒトの濁した欲なのだから。
ヒトのみが抱く、罪なのだから。
ぞわりと、身が再度震えたが――それはざわめく血のものだった。死を拒む反応と、死を前に求める命の鬩ぎ合いであった。
「さあ」
獣の花嫁。
彼女が男を何処へ連れて行くのか。
足跡など雪が隠してしまう。眺めていた筈の月も、また雲へと埋もれてしまった。
だから何も解らない。
このあと、温もりと冷たさがどのように交わったのかも。
女の情念がどのようなものだったかも。
どうして花嫁が彷徨い、男を連れ去っていくのかも。
愛か。妄念か。それとも消え去らぬ慕情が狂ってしまったのか。
いいや、ヒトならぬ獣故に、愛する者を喰らうが花嫁の宿業なのか。
何も解らぬままに、男と女の間にぽとりと何かが落ちた。
それは降り積もった雪に落ちた赤い椿の花びら。
さながら命か純潔かを思わせる、赤い一滴。
何故かそれは雪に覆われることなく、残り続けた。
男はそれ以来、姿を消した。
男の消えた村落に暮らす人々は語る。
ああ、魅入られたに違いない……と。
帰ってくる筈もない男を、村の誰も待つ筈はない。
代わりに、子を持つ親たちはまたこの噺を重ねていくだけ。
何時から始まったのかも、所以や由来も知らぬ儘、或いはそれらを忘れてもなお、この噺は続いていく。
気付けばまた、ひとりと消え去った時に、連れ去られたあとに、語られる。
――雪が降り白い月の浮かぶ寒い夜に、外を歩いてはいけないよ。
――白い獣の花嫁の、紅い瞳に魅入られて、連れて行かれてしまうから。
●百物語~屋敷に居るアナタ~
ふっ、と。
冷たい吐息がかけられ、蝋燭に灯された火が掻き消えた。
噺の結びと共にと矮躯の少女は、ゆらゆらと動いていた火を、美しさへと惹かれるひとの愚かさを示すような灯火を消したのだ。
なんとも、不思議な話であった。妙な冷たさと熱を感じる怪談であった。
屋敷に集った他の少女たちも噺の終わりと共に、ひそひそと声を漏らす。
これは百物語。暑い夏の夜、友人同士で集まり始めた、真似事ばかりの百物語。
どれほどの真実と嘘が混じっているか、本人達も知らぬ戯れだった。
ただ矮躯の少女の噺は、他の少女たちを惹き付ける語りの妙を持っていた。彼女の話通り、美しいとは異なることなのだろう。
声もの通りであり、美しい声は、他と違う声。つまりは恐ろしさもまた、ひやりと掻き立てる。
それをもった不可思議な冬の夜の、月下での怪異なる『獣の花嫁』の出逢い――ああ、冷たくも美しい魔性めいた噺は、十分に過ぎるほど周囲の少女たちを惑わして惹き付けた。
物静かな声色であったが為に、誰一人として大きな声や反応は示さない。が、奇妙なものを、異貌を――つまりは夏の夜に降りしきる雪を見つめるような、神秘への視線を矮躯の少女へと寄せていた。
それらに満足したよように、矮躯の少女は礼を返して次の少女へと噺を促す。百と用意された蝋燭はまだ半分を過ぎた所であり、まだ全ては終わっていないのだ。
が、誰が気付いただろうか。
或いは、誰かは気付いても、あえてそれは口にしなかった。
囁くように雪の夜の噺を語った少女はあまりにも白く。
そして、僅かに開いた口元よりは、獣のように太く尖った八重歯が覗いていたことを……。
先の雪夜の噺は何なのか。
しばらくはその思いと惑いに埋もれていた少女たちも、十、二十と更に会談噺を続けていく裡に忘れていく。
百話を話し終えた時、そこに新たな怪異が起きるというものが百物語。故に、終わりという始まりを求めて、そわりと心がざわめくものの。
ふっ、とついに最後の、百本目の蝋燭が消されてしばらく。静けさが満ちるが、何の変異も怪異も起きることはなかった。
所詮は迷信かと落胆する者。或いは、安堵を抱いてそれぞれ小さな声で話しながらその場を立ち上がり、屋敷より帰り辿る帰路。
涼は確かに得られただろう。それでよいのだと少女らしい心で喜び、ではと次の遊びへと思いを移ろわせていく。
が、ふと浮かぶ疑問は白い影。
百物語にと参加した全員が内心で抱いていた想いは、終ぞ言葉に出されることはなかったのだ。
ああ、それを口にしてはいけないのだと、みな、心の底で解っていた。
少女たちは、あの雪夜の噺に出た男のように愚かではないのだから。
――はて。あの白い少女は、果たして誰の知り合いだったのだろう?
名も知らぬ少女。
そして、彼女はどんな貌だったかと思い出すことは上手くできず。
眸の色はと思い出そうとすれば、全ては蝋燭の火のようにぼんやりとしてしまう。
果たして、あの少女の眸の色は。名は。
そして、誰だったのかと思い出すことはなかった。
まるで百の怪談の中に、最初からひとつの怪異が混じっていたかのように。
ああ、あの矮躯の、白い少女は。
何時、屋敷より出たのだろうか?
誰も、あの白い少女が外へと出た所を見ていない。
が、誰か見たかなどと確かめることもなく、噺は噺として、夏の夜に冷たく残響する。
そうだ。『獣の花嫁』の名も、姿も、何処へと行き、消えたのかも。
誰も知らぬ。
成功
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