《神話》楽園へと到る
ロキ・バロックヒート 2021年8月13日
「なぜ、この世に哀しみがあるのでしょう」
涙を流すばかりの婦人は、娘を失っていた
「なぜ、この世に苦しみがあるのだろう」
俯く壮年の老人は、妻を失っていた
「なぜ、この世に絶望しなければならないの」
震える長い髪の女は、夢を失っていた
ただ祈りを捧げていた痩躯の男は、心を失っていた
心に根ざすものを取り上げられた者たち
悲哀の淵より立ち上がれなかった者たち
絶たれた望みを忘れられなかった者たち
かれらは祈った
「神よ」
「憐れみ給え」
「救い給え」
「どうかこの声を聴いて」
「この苦しみに 哀しみに」
「すべてに 終わりを」
その日、ひとつの都が白く染まった
3
ロキ・バロックヒート 2021年8月13日
■ノ昔 天■■イ有リ
創■■再生ヲ司ル■也
悲嘆■■者共 神ニ背■
贄ヲ■テ反■セシ■
人之ヲ邪■■■ル
――――筆者不明「うしなわれた神話」
ロキ・バロックヒート 2021年8月13日
ここは暗くて冷たくて
幾年経てど嘆きの声だけ聴こえている
ああ 約束は守られなかったの
ねぇ
『私』のなかに混ぜられたかわいそうなこどもたち
『私』が救うべきだった子たち
ひとりずつ集めて
足りないところを『私』から
この子には手をあげましょう
どんなひとにも差し伸べられる手を
この子には足をあげましょう
ひとが救われる楽園を探し出す足を
この子には耳をあげましょう
ひとの言葉を『私』がよく聴ける耳を
この子には声をあげましょう
聴いただれもが救われる声を
この子には眼をあげましょう
ひとの行く末を見届ける眼を
さあ 共に世界を救いましょう
ロキ・バロックヒート 2021年8月18日
赤毛の娘が、川の畔をふらふらと歩く。
顔は砂や傷で汚れて、布に被ったような服も襤褸切れのよう。
すらりとした足もあちこちが擦り剥けていて、歩調は覚束ない。
腕はまるで付いてるだけのようにだらりと提げて、身体の動きに合わせて揺れていた。
「あ、」
そんな調子だから、泥濘に足を取られて簡単に転んだ。
手を地面につく素振りもなく、身体は地面に投げ出された。
すると、
その指が触れた花は、綻び始めた蕾が落ち、見る間に萎れて黒ずんで、塵となって消えてしまった。
地面に手をつけ身を起こせば、土が急激に干からびて罅割れ、崩れる。
はじめはただなにかに触れることができた手は、こうして滅びを齎すようになってしまった。
ロキ・バロックヒート 2021年8月18日
『私』が狂ってしまってから随分と経つ。
正確な年月はわからない。
初めのうちは誰かが数えていた気がする。
――誰か?あたしだったかもしれない。
いつか世界は救われるよって、皆を元気付けようとして。
なにも変わらない内に、春の香りも、夏の日差しも、秋の実りも、冬の静けさも、幾度となく巡った。
気付けば皆ばらばらになって、どこにも行けないでいる。
ロキ・バロックヒート 2021年8月18日
つい覗き込んだ川に映った顔は、とっても酷くて思わず笑ってしまった。
ちゃんと整えなければ暴れ放題になる癖っ毛が、重たく肩に掛かり、背中で絡んでいて。
少し前まではそばかすが纏めてくれていたのに。
すべてが“聴こえすぎて”いたあの子は、
――楽しいことも、聴こえればいいのにね。
それとだけ言って、誰のこえも届かないところへ、
深く、深く、沈んでいった。
ロキ・バロックヒート 2021年8月18日
くしゃりと髪の毛に触れる。
その手はただ等しく在った。
はらりはらりと赤毛だったものが千切れ、白く炭化して風に浚われる。
――ああ、いやだ。
そう零す唇は、泣きそうに歪んでいた。
「あたし、髪も結べないのね」
ロキ・バロックヒート 2021年8月18日
青い目が――を映していた。
ここまで随分と歩いてきた。
幾つかの川が枯れた。幾つかの山が絶えた。幾つかの空が失せた。
歩めば歩むほど路は死に至り、消えてゆく。
いつの間にか、そういう存在に成り果てていた。
唯々、世界の果てを目指していた。
どこかに、誰もがしあわせに暮らす楽園が在るのではないかと。
幾匹かの虫が、動物が、そして幾人もの人間が、
その理想に付き従い、その先に往けずに伏した。
けれど、誰も居なくなってもひたすらに歩き続けて――
「ああ、ここが――」
その先に何があったのか、『私』たちですらしらない。
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
みんな居なくなってしまったときみが泣く
降り頻る雨のように涙が溢れて零れ落ち
慟哭は喉が枯れんばかり
太陽と月が幾らか巡っても止みはしない
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
どうしてそんなに哀しいのか――わたしには、わからなかった
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
欠けを補ってもらったきょうだいたちは喜んでいたけれど
わたしはこえをもらっても一向に囀らぬまま
かれのように感情赴くまま考えるまま話し、声を上げることもない
ひとである時から、そんなわたしの分まで話そうとするかのように、かれは随分とお喋りだった
いつしか、かれのこえは、わたしのものだと思うようになっていた
だからきっと、今この瞬間、わたしは哀しいのだろう
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
おとが欠けていたのではない
わたしに欠けていたのはおそらく、心のこえだ
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
皆が躍起になっていた世界の救いなど、わたしにはどうでもよかった
このこえが齎すべきことも、興味がない
唯々、わたしが、かれが、正しい方へ往けば良い
永く共に在れば良いと
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
けれど――
うたってほしいとかれに請われれば、時々口を開いていた
そのこえは震わせた空気さえも綻びて
うたが響く間、滅ばぬものなど居なかった
等しく『私』のものであるきみでさえも
わたしたちは完全に死することはなく
ただ、ひとときを安らかに眠るだけ
ロキ・バロックヒート 2021年8月30日
うたが終わるとき
抱えたきみの身体さえも崩れ始め、光の粒子となって掻き消えて
わたしはまた、こえを失うのだ