星に呼ばれたような気がした。
雲一つなく冴え渡る星空のあわいに金色の双眸を投じる。零した溜息が白く融けるのを視界に捉えて初めて、フィユ・メルク(星河の魔術師・f30882)は今日がクリスマスであったことを思い出した。
部屋に籠っていると時間が曖昧になって、そうするうちに季節までも霞んでしまう。長らく歩んで来た道程で培った感覚は、彼女を取り巻く現実が空の如く移ろっても、容易に変わってはくれない。
考えるだに永い命だった――と思う。
孤独な日々だった。しかし狂うほどに厭うてもいなかった。外の世界を知ってなお、一人で魔術の研究に向き合う性質が変わらぬことからしても、フィユにとってそうまで辛いことではなかったといえよう。
だが――。
そうしているままでは、聖夜の何たるかを知ることもなかったように思う。
歳月は勿論、日付を記憶することに意味はなかった。そこに何らかの意味を見出す観念にも親しくなかった。だから彼女が今、星空を見上げてクリスマス・イヴの夜を思い出すのは、フィユの生きて来た年月のうちのほんの僅かな間に得た感性だ。
悪魔と呼ばれ、本当に悪魔と出会った。
あの日、フィユの真白の髪は夜の色に染まった。星空の移ろいを映すそれは今も彼女を夜に攫おうとする。
白金の眼差しには星の金色が宿った。代償として奪われた魔力は彼女の体を維持するほどにさえ残らずに、幼い少女の姿と成り果てた魔女は、それから外の世界を知った。
生きて来たうちで最も美しい日々だと思う。誰かと手を繋ぐ温もりを知り、言葉を交わす喜びを知った。些細な日付の変化に楽しみを見出すようになって、出掛ける日を指折り数えるような日も覚えた。
季節の移ろいに敏感になった。目に映るものに興味を惹かれるようになった。何か面白いものを、楽しいことを、新しい物事を見つけたときに、教えたい誰かの顔を思い浮かべるようになった。
――自分の刻限を、思うようになった。
フィユの魔力では星の悪魔と契約を結ぶことなど到底出来ないはずだった。彼女の持ちうる魔力を、身の丈が縮むほどにまで渡しても、天秤は未だ大きく傾いたままだ。
埋めるためのものが必要だった。契約は対等に成されねばならない。不足分を呪いとして引き受けた彼女の身には夜が巡った。いずれ幼くなった器から夜が溢れ出るときには、彼女の身は静かに星空へと融けていくのだろう。
理解してなお、フィユは星を愛した。夜のふもとにこうして立つことを止めるつもりもなかった。星を宿した己の髪が風に煽られるたび、その毛先が宵へと同化していくことを想いながら、その心に一片の憎悪も湧き立つことはなかった。
分かっている。
何れにせよ、彼女に残された時間は多くはない。
それを受け入れていた。受け入れているはずだった。この夜に今すぐにでも消えていくのだとしても、フィユは一つの文句も口にする気はなかった。今でもきっと、そうすることはないのだろうと確信している。
ただ。
翳したリングは、星々の光を受けて聖夜の夜に煌めいている。
月の名を冠した石が彼女の髪を引く。糸を手繰るように美しい思い出が脳裡を馳せ、そのたびにフィユの心には在らざるべき揺らぎがさざめいた。
捨てたくないものが増えすぎた。今の彼女の周囲には優しい人たちがいる。背を指差して怒鳴る声も、石を投げる者もない。当たり前のようにフィユの手を取って、遊びに誘って、美味しいものを一緒に食べて、美しい景色を共に目に焼き付ける――。
その生活の全てが、いずれ夜にほどけてしまうことを思うたびに、星の如き眸は揺らいだ。頑ななまでに決めたはずの覚悟が擦り減る。掛けられた願いに己の心が同調しそうになる。何れ存在の全てが人知れず消えてしまうとき、何も遺さず
きれいに終わりたいと思っていたはずの心が、その潔癖さを許せなくなる。
――なくしたくない。
たとえ自分が消え果ててしまうのだとしても、この思い出だけは地上に遺しておければどんなにか良いだろう。痛切な叫びを認識してしまえば、フィユ自身の抱いてしまった想いにまでも手が届きそうになる。
ここにいたい。
消えたくは――。
否。
唇を引き結んで指先を握り込んだ。自らが一度は受け入れた道だ。悪魔に対して何らの憎しみもない現状、それを反故にする気はなかった。今更どうにかなるとも思っていない。
既に契約は成立したのだ。いつか必ず負債を払わねばならない日が来ることは、どうあっても変わりはしない。
追い出すように溜息を吐いて、いつものように空を見上げる。瞬く星々にまたも友人たちの顔を思い浮かべるのは無意識だ。面影を振り払うことさえ難しい彼女たちが、この夜にどこにいるのかを思った。幸福に過ごせているだろうか。暖かいところにいるだろうか。優しい人々は、同じだけの優しさの中に在るだろうか――。
研究に戻る気にもなれず、フィユはただ夢想に身を任せることにした。平原に腰掛けて見上げれば愛しい夜空がよく見える。
嘗てであれば、斯様な感傷にここまで身を浸すようなことはなかったのかもしれない。だが今のフィユは、日付に意味を見出すことを知り、今日に込められた意義を知った。一度知ってしまったものを忘れることは容易ではない。
――今日は聖夜だから。
心を緩める理由には事欠かない。普段は諦念に深く覆われている本心が、とめどなく零す矛盾した願いの一片を拾い上げても、咎める者がここにはいないこともそうだ。
思い出を一つ積み重ねるたび、もう一つ欲しくなる。そうしているうちに山となったそれらは悟ったはずの命運に叫びを上げるのだ。
来年のクリスマスには、誰かを誘って遊びに行こうか。確かクリスマス・マーケットという催しがあると聞いたことがある。そうして思い出をまた一つ増やして、春の雪解けを待って、桜を見る。夏には夏祭りに行って、またりんご飴を食べたい。水着を着て海に行って、それから――。
それから。
フィユは――。
目を伏せて浅く息を吐いた。ひとときの幻を夢に見るのもここまでだ。ひときわ強い風が吹いて、燦然と輝く星空に靡いた髪は、どうあってもこの空から逃れられはしない。
飛んで来た小さな白い梟が傍らに留まった。星を映したような大きく丸い双眸に笑いかけ、フィユは立ち上がる。
幸いを重ねながら星々を見上げる。そのどれをも恨めない。地上にも無窮の空にも抱いた愛着と愛情が、彼女を引き合って揺らがせる。
だから。
「冷えるね。戻ろうか」
梟は跳び上がって肩に乗った。半身の重みに小さく笑った星の魔法使いが星空へ背を向ける。
地上の引力が星空に負けるまで。うずたかく積み上がる優しい日々が、いつか夜の果てに融けて消えるまで。
――今はまだここに在りたいと、聖夜の星に祈る。
成功
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