夕焼けに被さるように、道の真ん中に人が立っていた。赤の浴衣を着た、広い背中だった。
片側は鬱蒼とした山、もう片側は田が延々と続く辺鄙な田舎道。散歩で通っても誰ともすれ違ったことはなかった。見どころのある道ではないから当然だ。もう少し歩けば神社の鳥居が見えてくるが、そこも朽ちて寂れている。
珍しいな、と思いながら前へ歩く。
道に立つ人は、接近するにつれ大きくなる。いや、見間違いか。首を振って否定しても、視界に据えた人影は少しずつ縦に伸びていく。足を動かす度、肌に感じる圧迫が増す。
気付けば、その人を見上げていた。血の気が引き、焦燥が足先から昇ってくる。
ふと、真隣を一瞥した。褪せた鳥居が聳え立ち、薄暗い境内を覗かせる。
数歩下がって鳥居と人を同じ視界に入れる。
その背丈は、鳥居を優に超えていた。
思わず声が出て尻餅をついた。短い悲鳴と砂利の音。その人が振り向くには十分な理由だった。
長い銀髪が揺れ、顔がこちらを向く。顔の半分は髪に隠れていたが、左目に灯った赤だけはやけにはっきりと捉えられた。男か女かは髪の長さもあって判然としない。男、なのだろう。
厭な笑みを、男は顔に貼り付けていた。愉快に笑うのではなくこちらを見下したような、不安を沸き立たせる笑み。
凝視していた口許が、突然動く。
「やぁ、ヒューマン。君も散歩かい?」
想像より穏やかな声ではあった。男は巨躯を曲げ、身を僅かに屈める。希少な何かを発見したかのように見返してくる。浴衣の袖に腕を入れ、好奇の眼差しを向けていた。
恐ろしいが、直ちに危険な存在ではないのかもしれない。
不思議と頭が状況を受け入れ始めたとき、水滴の落ちる音がした。
水音は男から生じていた。真っ赤な浴衣の袖口から、液体が滴る。弾けた雫は、赤黒い血の色をしていた。
思考が止まり、視線が上へ流れる。丁寧に染められた真っ赤な布には、よく見れば白地の部分があった。袖から腕を出し、まだ白の残る襟を男は引っ張る。手に付着した血液らしき液体が、白を穢して赤くする。
厭な笑みがまた深くなり、赤の灯る目が細くなった。
「いい色をしているだろう? 私もこの色が好きなんだ」
即座に身を起こし、逃げ出していた。ほとんど反射的に鳥居をくぐって神社に駆け込む。
何故そうしたかはわからない。ただ、走ったところであれからは逃れられない気がした。
神社の中には初めて入った。木々は覆うように茂り、夕日すらぼんやりとしか届かない。目の前には社殿しかなく、それもさして大きくない。人が何人か入れば満杯になってしまいそうな、ちっぽけな社だ。
だが、とにかくあれから逃げねば。石畳を駆けて社殿に近づくと、異様な装飾が施されているのがわかった。
格子状の扉は御札のような短冊で埋め尽くされている。物々しい崩し文字は到底読めたものではない。社殿の周辺に目を配れば、鉄で造られた小さな鳥居も並んでいた。ここが道だと示すように、薄っぺらい金属が列を成している。
何だここは? 何かがいたのか?
考えを巡らせるが、そんな余裕はない。扉を掴むと簡単に開き、中に滑り込めた。
何にしろ好都合だ。化け物ならば神社までは追ってこられないだろう。
格子の隙間から外が見えた。男が鳥居の前でたじろいでいる。そうだ。お前は入れないはずだ。どこかに行け。
罰なんて受けてたまるか。
暗い社殿に閉じ籠り、手を合わせて祈る。
嘲笑うように、男は身を屈めて鳥居をくぐり抜けた。頭を突っ込み、低い戸口でもくぐるように掴んで通る。
愕然とした。
「ああいう小さな入口を通るのは骨が折れるものでね。君もそうだろう?」
笑いを声色に潜ませ、男は社殿に近づく。
来るな。叫ぶ代わりに、拳に顔を擦り付けて祈った。息を殺して念を籠めた。
それでも男は易々と距離を詰める。下駄の鳴る音が近づいてくる。
「興味深い飾りだが、無意味だね」
呟きが届いた途端、扉に貼られた御札が独りでに燃え始める。焦げ果て、目の前を塵となって舞い散った。
歩く男に引き潰されるように、並べられた鉄の鳥居もぐにゃりと曲がり出す。表面は突如として錆に覆われ、耐えられなくなって砕けていた。
守護を散々に破壊して、男は社殿の前まで辿り着く。地面に膝をつき、人形の家でも相手するように内側を覗き込む。
赤い瞳と再び目が合う。震え上がり、何も考えられなくなる。
奥歯を噛み、祈ることしかできなくなっていた。
その様子を眺め、男はククッと笑い声を立てた。
「ヒューマン、君は勘違いをしているね。私は悪霊ではない。魔除けが効かないのはそのためさ。一心不乱に祈っても、何にも作用しないんだよ」
厭な笑みが、また向けられる。
「しかし、信心深いんだね。だったら悪事などしなければいいのに。当主を殺して家と財を奪ったのは君の一派なんだってね。だから、迎えに来たんだ。君が最後の一人」
指で格子の扉を開いて、男は顎を撫でた。
愉しんでいる。一挙手一投足をつぶさに観察して、どう転じるかうかがっている。
「さて、次はどうする?」
どうしようもないと、わかっているくせに。
祈りすら無駄。そう説明されてもなお、握り締めた手を掲げる。それしかできることはないと理解していたから。
息を吐き、男は笑うのをやめた。
「つまらないな」
手が伸び、暗闇に閉ざされる。
もう光は届かないと、自ずと悟っていた。
●
浴衣の胸元で血を拭き取り、スヴェル・ムスペルソンは神社を後にしようとしていた。
今日のような仕事の仕方も趣があっていいだろう。まさか悪霊に間違われるとは思わなかったが。
石畳を歩く最中、ふと社殿を振り返る。
悪い子は、連れて行かれる。
それが依頼人から聞いたこの地域の伝承だ。
「邪魔をしたかな。だが、代わりの仕事はしておいたよ」
誰かと話すように、スヴェルは発する。
そうしたものがいたとして、友人にはなれないだろう。自分はやはり悪霊ではない。
しかし、会話くらいはしてみたいものだ。
祈りを断ち切り、捻り潰す。そうした同好の士として。
悪趣味な想像を膨らませ、スヴェルは鳥居に向かって歩いていった。
成功
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