dusk till dawn
At the beginning of July,2024
Exsam Shinjuku,Tokyo
――PSYCHIC HEARTS
今宵、新進氣鋭のアーティストを集めたブッキングライブでファイナルスロットを務めるは、美聲の駒鳥。
この春に武蔵坂学園音楽科を卒業し、即メジャーデビューを果したシンガーソングライターの一ノ瀬・漣にとって、本ステージは來月に控えた全国ツアーの前夜祭と云った処。
関東圏でライブを重ねた彼が全国に羽搏く門出を祝わんと、会場に集まった觀客が一際の聲援と拍手で迎える中、スポットライトが闇を切り裂き、赫奕たる光の下に漣の優姿を暴く。
そうして此の夜一番の熱狂が会場を搖すった
瞬間。
目下の興奮を慾する者が――否、唯だ人々を快樂に陥れて遊びたいだけの享樂主義者が、彈指一つで“悪戯”をした。
「――なに、今の」
小さなスナップ音を拾ったのは、奇しくも漣だけ。
優れた聽覺が異音を捉えると同時に戒心を萌すが、そうでない者達は無自覺に震わされた鼓膜から甘美な刺激を一気に腦へと
伝達らせ、
嗟哉、
善哉と、彼に寄せる筈だった聲援を生々しい嬌聲に變えた。
「これは、如何云う……」
ステージからその異樣を見た漣は、然し何が起きたか判然らない。
だが気を拔いてはならぬと、本能が強く強く訴え掛ける。
何せ己にもその
波濤は迫り來る。
恍惚、
法悦――脊椎から腦髄へと駆け疾る快感が忘我の涯へと攫いゆく、この、奧底の
熱情を無理矢理にも昂らせる忌まわしい遣り口と、目前に見る凄惨な景色に、おのず結ばれた解が口を衝いた。
「……淫魔……!」
突然の事態に足が竦む一方、混濁する意識は必死に会場を探って。
柳眉をきつく顰め、肉感溢れる不協和音にそれでも耳を澄ました漣は、
照明の届かぬ
黯黮で吃々と零れる嗤笑を捉えると、反射的に身構える。兩の拇指球を踏み込める。
其を慥かな対峙と受け取った淫魔は、我が雪膚に縋る肉の奴隷を連れながら、闇と光の
間に艶姿を暴いた。
『懷しい名前で呼んで呉れるのねぇ? 御機嫌よう、灼滅者さん』
「……何、で……今は友好的なダークネスしか残ってない筈、なのに……」
『ふふ、ダークネス、ふふ。今はオブリビオンとして蘇っちゃったのぉ!』
音色にすら漾う馨氣は人の軀と魂を搖さぶり、万物万象を屈從させる。
淫魔が囀るほど周囲が暗く、昏く、陶然たる夜帷に覆われたなら、漣も眩々と
幻暈しよう。
何故、今になって……と花唇を掠める疑問も、
淫蕩がましい吐息に塗り潰されようとした、その時――。
非常口の扉が全開に、闇然たるライブハウスに光を差し込んだ。
「ハイ警察でーす!
動かず、
しゃがんで!!」
通路から零れるダウンライトに輪郭を切り出したるは、都嘴・梓。
対UDC組織『
Defin∃Ёarth』に所属する警察官。
世界中の警察組織と関係を持つ彼は、ここ最近に道が結ばれたサイキックハーツ世界での緊急事態発生の報を受け、急ぎ現場に駆け付けた訳だが、事前情報なくしても挙動は俊敏。
一瞬で闇に慣らした黑瞳を四方に巡らせた梓は、觀客の樣子に「催淫術か」と眼眦を眇めると、邪心への耐性を強めざま大きく聲を張った。
「シー、エリ! 猫妖術で防壁を形成したら、彼処の
一般人くん二人を保護!」
援護を頼まれたるは、艶やかな毛並の狛猫。雌雄で対を成すシザンサスとエリカ。
雪を被ったように白い猫又が颯爽とフロアを滑れば、尻尾の軌跡に構築される妖力光壁が甘い馨氣を遮斷し、理性を保たんとする觀客二人を護る。
(「……光……」)
而して、この時。
濕然とした闇に浸蝕されつつあった漣は、バッと開かれた扉から差し込む光が闇を押し上げる――梓の登場に希望の光を見たろう。それ故にか、これだけの混亂の中でも彼の佳聲はよく聽こえた。
「緊急要請に從って來てみたけど、なにこれ乱パ? 靑少年健全育成条例に基いて補導しますね!!」
『あらぁ? 飛び込み參加は歡迎するわよ?』
「……オイオイオイ……なんか
濁聲聽こえましたよ!?」
悦樂に浸る一般人を要救護者や參考人に分けていた彼が、鋭さを増したのはこの時。
黑橡と煌く瞳が
彩を増して花色と輝くや、足元で輪郭を暴いた影が漆黑の警察犬となって疾駆し、頽廢の渦中にある聲主を探り出す。
『濁聲なんて酷ぉい。でも
記憶えて呉れてて嬉しいわぁ』
人影や機材の影を素早く伝い、四方八方から音源に向かって爪牙を突き立てんとする黑犬を知っているのか――痛いのは勘弁とばかり淫魔が術力を高めれば、色慾に鎖がれた觀客がわらわらと群がり、肉の壁を以て攻撃を遮る。
蓋し梓も警官なら交通整理はお手の物。
「はぁいどいてくださいオラァ! オシゴトしてるんでぇ!!」
照明代わりに天井近くへ光を投げ込んだ麗人は、幽光を広げて華燭の紋章を浮かべると、そこに芳しき蜜の馨を放つ食灯植物を咲かせ、催淫状態にある人々の思考を溶かして無力化する。
而して木偶となった躯を、やや亂暴に搔き分けて進んだ梓は、人波の向こうに見えたステージで、己が奮鬪を唖然とした表情で見る靑年に目を留めた。
「もしかして、灼滅者? この激臭に
抗戰えるなんて……優秀すぎない?」
灼滅者は、自身の魂に眠るダークネスからサイキックを引き出して行使するという。
だが、彼にはサイキック以上の“何か”を感じる。
既に猟兵として覺醒した己と何處か
親しいものを感じたか、獸欲が昂っては己にも武者振り付く觀客に足止めされた梓は、その場で聲を張って云った。
「……――そこの、えぇと、ギターの子! キミ、歌って!!」
「う、歌
……!?」
「いい。なんでもいい、思ったまんまでいいから!!」
思う儘でいい。多分それが良い。
上等なスーツを
揉苦茶に、肩や腕にも齒を立てられた梓が藻搔くようにして言えば、彼の分の悪さを見た漣が焦りながらもギターを構える。だが肝心の
指趾が動かない。
(「どうしよう……オレも何かしなきゃ……ディーヴァズメロディ? エンジェリックボイス? 足止めか回復か……
躊ってる場合じゃないのに!」)
慥かに漣は灼滅者だ。
13歳の頃、交通事故に巻き込まれ、両親を失い――その事故現場でヴァンパイアへと闇堕ちした10歳の妹に『感染』させられ、ダンピールになった。闇堕ちを拒んだ事で、灼滅者へと覺醒した。
エクスブレインを介して武蔵坂学園に所属してからは、灼滅者として「癒やし」を得る場は専ら戰爭のみ。
普段は通學の傍ら音樂活動を続けていた漣は、戰鬪に於ける圧倒的な経験値不足を否めない。
「なんでも……思ったまんま……」
危急を目前に、直ぐ最適解が出せないのが
牾しい。
己が指を迷う最中にも、あの人は戰っているというのに。抗っているのに。
(「十年前のあの時、決めただろ……! もう誰も、何も、失わずに済むように……その爲に、鬪うんだって
……!」)
敵には攻撃を。
味方には癒やしを。
そんな力が今、欲しい――!
「♪――」
靜かに、大きく深呼吸して、肺腑の空気を入れ替える。
アンプ用フットスイッチを一度強く踏み、エレキギターの音量を更に上げた漣は、穩やかなイントロを奏でて後、透徹と澄む力強い唄を響かせた。
鼕々と溢れ出る
旋律が慥かな
拍動を打って五線譜を駆け走るのに、まるで時間の止まったような感覺を得る――ライブハウスいっぱいに響く歌聲に振り返った梓は、「噫、矢張り――」と佳唇に淡い三日月を描いた。
「やっぱりあの子は覺醒してる。音樂に詳しくない俺にも、“伝えたい”って必死が届く」
隣人への祈りが
「音」となり、生への覺悟が
「聲」になる。
一人じゃないと、離れないと、誓うように歌い上げられる音樂は、快樂に堕ちた觀客に觸れては根源たる慾暴を灼滅し、背德の悪魔に抗う心を奮起させる。梓に縋る獸の膂力を無力化していく。
「はは、流石にお上手というか……これ程とは」
広音域かつ豊かな聲量を以て広がる音色に、梓は慥かな雄渾を得よう。
痛みも苦しみも消し去らんと強く祈れば、カタチなき音の波紋は目に見える事象を結び、ライブハイスの……否、戰場の空気を一變させる。
「助けて」と泣き叫ぶだけはもう嫌だ。
オレだって、オレだから、できることがあるって。
今なら分かるから――。
「♪――」
熱はまだ失われはしないと、戰場を見据えて唄う。歌う。
僅かなミスも赦されぬなら、いつも以上に全力を注ぐだけと五指を躍らせた漣は、ピック捌きは精確精緻に、歌詞を伴わぬ間奏には早彈きを披露し、催淫術から解放された觀客を虜にする。魅了していく。
而して梓も快い旋律を反芻して脚を踏み出そう。
「伸びがあって、ちょっと後味に甘さがあって。耳當りが佳く、更には小気味良い」
其は
爾後に“Livin' On A Prayer”と名付けられるユーベルコード。
急遽駆けつけた事件現場、思いがけず最高の支援を得たと咲んだ梓は、この数分前、激辛料理で有名な店に向かう途中で入った通信を、今こそ許す。結構毒吐いたが、あれはチャラにしておこう。
舌の代わり耳を慰められた梓は、脱力して離れる觀客に艶笑ひとつ置いてスーツの襟を正すと、レッドカーペットの上を進む俳優めいた
歩履で淫魔の前に現れた。
「どうもコンバンハ、ク・ソ・ブ・ス」
『ご機嫌よう、イヌの
警官さん。失礼だけど、何處かでお見掛けしたかしらぁ?』
「生憎、その程度の器量じゃ記憶に残りませんとも」
『可哀相に、「誰に」「何を」狂わされたのかも忘却れちゃって』
出会い頭に
皮肉を交す程には
良好な関係を築いている
兩者。
少なからず因縁があるとは、天井に咲ける食灯植物が一斉に齒牙を剥いて襲い掛かる――その悍ましい光景で判然ろう。垂涎猛々しく群がる食指を躱した淫魔もまた、愛憎入り亂れる聲色で囁いた。
『ねぇ、この夜も……イイ聲、聽かせてくれるでしょぉ?』
畢竟、漣が抗えたのは全き素質。
常人なら瞳の色を見ただけで蠱惑され、肉慾の儘に屠る魔獸と化すフェロモンが放たれるが、煮えくる殺意を
防禦盾と構えた梓は、不拔――サラと濡烏の前髮を搖らすのみ。
否、諧謔を添えて返すが彼らしかろう。
我が
繊指を噛んだ一般人の方が色氣があったと含笑した梓は、頤をしゃくって云った。
「アハハ、なんですそんなお顏と術程度でワタシが傾くと? ナメてんです?」
『随分口賢しくなったわねぇ? そのお子ちゃま舌で誰か口説けたかしらぁ?』
――お子ちゃま舌。
其は梓が宿敵に味覺を狂わされた事を示していたのだが、それ故に「極端な味を好む」とは、至近距離に肉薄して暴かれる戰鬪の苛烈さにも表れていう。
「ンーーーーー生憎ワタシもっと“自分”を大事にできる子が好みでして」
『ッ、ッッ――ッ!!』
「安売りして二度と出てくんな、クソブス」
冷艶のバリトンが冱えた瞬間、淫魔の艶姿に齒牙が突き立てられる。
刺激は大きく、苦痛は強く、肉を裂いて
命を喰らう。
流石に人型の淫魔を嚙み砕く光景は精神衛生的に宜しくないと、今際の絶叫ごと食灯植物に丸呑みに――花の肥やしとさせた梓は、ここで
不圖、舞台上の漣に振り返る。
彼が無事である事は見て取れたものだから、
「えぇと、――Bravo! で合ってる?」
なんて。
演奏後の靜寂に
單身、スタンディングオベーションを送るのだった。
†
「……何、先刻の……」
白晝夢を見たかと思うほど、不思議な体験をした。
自分の想いがチカラになる――慥かな具象となって顕現れるのを見たと、硝子越しに緋の佳瞳を瞬かせた漣が、次いで視線を我が愛器に、肩より提がるギターに目を落とす。
梓が呼び掛けたのは、この時。
応援に駆け付けた灼滅者や、事後処理に來た警察関係者、その他医療チームや消防のメンバーに指示を出して回っていた梓が、どこか呆然とした表情で立ち尽くす漣に近付いて言った。
「ねぇねぇギターくん、キミもねぇ俺と一緒にけーさつに――」
「……。……もしかして、本當に、警察官なんですか?」
「コラコラなぁにその胡亂な眼差し! もぅ! めっ!」
彼が突入時に警察と云っていたのは憶えている。
だが外見はどう見てもヤ○ザが、そのスジの
者。
此処が歌舞伎町だからか、疑惑の目を向けられた梓は心外とばかり片眉を持ち上げて見せるが、ちょっと
戲言たくらいで漣は絆されない。その警戒心は或る意味での若さであろう。
「じゃあ、本物だって証明してくださいよ」
「ええー、しょーめーってぇ……もぅ失敬な。ほら、これどーぞ?」
然して梓は少々不服そうに、じっとり唾液で濡れた襟の合わせに手を滑らせる。
「えーっとぉ、新宿署でしょ、灼滅の新宿支部でしょ、あーとーはー……はい、これ」
己が幾つか持ち合わせる身分証のうち、猟兵として世界を跨ぐことを証明する警察手帳を手渡したなら、その儼しい黑革の中に、慥かに梓が映っていた。
「ほら、同じ顏」
「都嘴……梓、さん」
「まじまじ見るね」
彼の名前を音に捺擦り、一應は納得する。
用心深い漣の前、漸くスタートに立てたと胸を撫で下ろした梓は、今こそ猟兵を募る必要のある案件とばかり肘を乗り出して云った。
「……ねぇ、俺と來ない? いま覺醒した“猟兵”ってやつを教えたげるよ」
「りょう……へい……?」
「然う、ギターくんは“世界に選ばれた”」
オブリビオンと戰う爲に選ばれし者、猟兵。
灼滅者とは違う、更なる力が齎された事はもう実感したと、手に馴染むギターのネックに繊指を滑らせた漣は、覺醒めた意味を知りたいと――梓を見る。
「……オレ、ギターくんじゃないです。……一ノ瀬・漣、って言います」
「イチノセくんね。名前、教えてくれてありがと」
一縷の不安は残るものの、光を見せてくれたこの人の事は信じたい――。
そんな思いを知ってか知らずか、恭しく手を差し出した梓は、柔らかく緩めた麗眸を眼眦へ、通用口に流眄を寄越す。「現場を出よう」という合圖だ。
「先ずはグリモアベース行こっか」
案内するのは警察署ではなく、はじまりの場所。
初めて聽く世界に拍動ひとつ置いた漣は、まっすぐ踏み出るや梓の手を取るのだった――。
成功
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