サーマ・ヴェーダは恋慕の波間に
●エルネイジェ王国・王家のプライベートビーチ
クロムキャバリア、アーレス大陸西部に位置する『エルネイジェ王国』は海に面している。
海洋を持って繋がる他国との緩衝地帯は今も昔も多くの兵たちが配備されている。とは言え、海には『エルネイジェ王国』の守り神とも言うべき機械神『リヴァイアサン』が睨みを利かしている。
幾度かの緊急出動要請を受け……いや、そうした要請が入るよりも早く『リヴァイアサン』が海洋生物を介して異常を感知し、海竜教会から出撃しては他国の介入を阻んでいた。
それもすべてメルヴィナ・エルネイジェ(海竜皇女・f40259)が機械神『リヴァイアサン』の巫女となったおかげである。
彼女が巫女になる前であったのならば、他国の介入は多かれ少なかれあったことだろう。
だが、『リヴァイアサン』の海洋におけるセンサーは恐らく、海中に没した針すら感知することができただろう。
そんな彼女の功績は語り尽くせぬものであった。
だというのにメルヴィナ第二皇女の評判は『エルネイジェ王国』にて芳しくない。
彼女は他国の貴族との婚姻に失敗している。
ゴシップ誌は面白おかしく嫉妬に狂った第二皇女であるなどと囃し立てている。はっきり言って、現在の『エルネイジェ王国』における王族の地位を確立できているのは、第一皇女と第一皇子の戦時における圧倒的な武力に寄るところが大きいだろう。
『エルネイジェ王国』の国民性を考えた時、それは王族に最も求められるものであった。
だからこそ、末妹たる皇女、飲んだくれ皇女、青き血の代わりにアルコールが巡っている皇女とも言われるメサイア・エルネイジェ(暴竜皇女・f34656)が一度は王族から放逐された上に数年にわたって機械神『ヴリトラ』を無断に国外に持ち出して放浪していても、戴冠式を経て再び王族として認められたのだ。
他の小国家であったのならば、認められるところではなかったはずだ。
しかしながら、そうした『エルネイジェ王国』の気風は頑強精強たるを旨とするもの。
「全てはパワー! 暴力でまるっと解決ですわ~! 解決バイオレンスですわ~!」
メサイアの言動に頭を抱えるのは長姉たる第一皇女である。
頭痛がして頭が痛いというやつである。
そんなメサイアは王家のプライベートビーチの砂浜にて用意されたパラソルの影の下、ビーチチェアに寝転がり、いつものやつ――ストゼロを喉に流し込んでいた。
弾ける強炭酸。
喉にバチバチバチっと音が響く。
喉越し強烈、キリッと辛口。
アルコールの味わいがメサイアの五臓六腑に染み渡っていく。
「海で飲むお酒はうんめぇですわ~!」
ぷっはー!
皇女にあるまじき飲みっぷりである。第二皇女であるメルヴィナ以上にゴシップ誌を賑わせている酒狂い皇女として有名なことが伺える。
だがしかし、そんなメサイアもまた皇女として一定の支持を受けているのは、やはりその圧倒的な『ヴリトラ』を駆る暴力の権化としての力であるからだろう。
彼女ははっきりと言って、頭がお世辞にも、その……なのだ。
如何にゴシップ誌が騒ぎ立てようと気に留めるところではない。むしろ、そうした風評被害をこそ蹴っ飛ばす単純さがあるからこそ、今もこうしてストゼロをぐびぐびとやっているのである。
だが、今回、メサイアの出番というのは此処らへんだけである!
残念なことに!
こんなに可愛いのに!
なんで? どうして?
疑問に思われた方々もいらっしゃることだろう。
今回はプライベートビーチ。
夏! 海! 太陽!
そんでもって水着である!!
ならメサイアもばっちりノーブルな雰囲気ただよい、普段の言動からは全く感じられないであろう清楚な水着姿のピンナップが王族広報誌に載ってもいいのではないだろうか! 否! 載せるべきである!
……いや、脱線したことは言うまでもない。
だがしかし、敢えて言わせてもらおう。
ノーブル水着、最高でした。ありがとうございます!! と。
「……いや、話が脱線した所じゃあないでしょう」
「遺憾なことだけれど同意せざるをえないわね」
「あら~これはこれは広報誌に出しゃばって厭味ったらしいゴールデンビキニをご披露されたエレイン・アイディール(黄金令嬢・f42458)卿じゃあありませんか~? 成金趣味もあそこまで行くと下品極まりないのではない?」
ヘレナ・ミラージュテイル(フォクシースカウト・f42184)は大仰な口ぶりで嫌味たっぷりに恭しい一礼をしてみせた。
エレインにはこういう煽りが一番効くと理解してのことだった。
彼女の束ねられた髪が尻尾と同じように揺れる。
ジャケットを羽織った彼女の水着姿はある意味ボーイッシュ。健康的とも言える色香があった。むしろ、普段はそういうのに興味なさげにしているのに、海だからとちょっと勇気を出して大胆になってみた幼馴染の気になるあの子! という雰囲気がとてもでているように思えた。
ヘレナとの存在しない記憶が頭の中に濁流のように流れ込むかもしれない。
それくらいにヘレナの水着姿は、ここが王家のプライベートビーチでなければ男子ウケするものであった。
とんでもない逸材が隠れていたもんである。
いやまあ、彼女は王家の影となり、暗躍暗闘する一族であるから、今回の水着も案外、手練手管の一環であるのかもしれない。恐ろしいことやで。
対するエレインはそんなヘレナの挑発に鼻で一笑に付すのだ。
狐が何か言っているわね、くらいの余裕である。
至高たる水着を見て成金趣味と謗ることは、ただの僻みでしかない。むしろ、嫉妬羨望を受けてこそ、己の黄金は輝くのだと言わんばかりにエレインは胸を張った。
正しく黄金律。
その肉体は女性としての魅力をぎゅっとやってがっとやってはーん! であった。
何を言っているのかわからないかもしれないが、最高ってことだけ伝わっていたら幸いである。
「駄狐が、狙いが透けて見えていてよ? どうせその水着姿も男ウケを狙ったものでしょう? 今回はどちらの貴族の子息をたぶらかすおつもりかしら? ああ、嫌だわ」
掌で見えない臭いを払うようにエレインはヘレナの言葉を切って返す。
ヘレナの水着を小細工というのならば、エレインの水着は王道であった。
小細工なし。
己の磨き上げられた肌を惜しげもなくさらし、時に下品とも言われるゴールデンビキニに気品すら宿して見せたのだ。
彼女の自身は一切揺らがない。
「え~?」
「あ~?」
二人の視線がバチバチバチっている。
火花を散らし、なんだか勝手に盛り上がっているところ申し訳ないが、今回はエルネイジェ御一行様の水着感想大会を敢行したいがそうも行かぬのである。
そう、此度の物語は夏の海にて起こった二人の一幕。
二人、というのは無論、ヘレナとエレインのことではない。二人は通常運転である。仲良く喧嘩しているだけである。
「仲良くはないでしょ。一方的に因縁付けられているってだけで~」
「その目、節穴なのかしら? 耳も舞茸になっていないといいことね?」
「ぷっ……はぁ~! おかわりお願いいたしましてよ~!」
三者三様。
様々な追求が背中に突き刺さるようであるが、招待されたグリモア猟兵ナイアルテ・ブーゾヴァ(神月円明・f25860)は、興味津々という表情と態度を隠すまでもなく、プライベートビーチにてメルヴィナとルウェイン・グレーデ(自称メルヴィナの騎士・f42374)のことの成り行きを見守ることにしたのだ――。
●女神
そう、端的にメルヴィナのことを表現するおならば、ルウェインは『女神』であると応えるだろう。
だがしかし、たった一言でメルヴィナのことを語ることができようはずもない。
今回、ルウェインは第一皇女の手回しによって王族であるメルヴィナの慰安旅行に護衛という名目で同行することを許された。
「いいですか、グレーデ卿。あなたに休めと言っても休まないことは承知しておりますが、肉体をいじめ抜くことと、鍛錬を重ね練磨することは違うのです」
ルウェインは一刻も早くメルヴィナに仕える騎士として相応しい実力を手にするために連日連夜、鍛錬に励んでいた。
はっきり言ってオーバーワークすぎる。
いや、それ自体は聖竜騎士団においては、むしろ褒められることである。
力こそ正義。正義こそ力。
力なき正義は偽善にも劣るものであり、正義なき力はただの暴力。
故に、力を追い求め自己鍛錬に励むルエウィンを下級貴族ながら第一皇女の取り立てによって聖竜騎士団の末席とはいえ列せられたことに不満を抱く騎士団員がいなかったというのは、嘘になるだろう。
だが、ルウェインはひたむきであった。
あまりにも実直であった。
少なくとも騎士団員たちからは、鍛錬を欠かさぬルウェインはそう見えたのだ。
実際には、メルヴィナに少しでも近づきたい、己の全てを捧げたいという一心で鍛錬に励んでいただけなのだが、そんな彼のひたむきさに当初不満を抱いていた騎士団員もほだされるようになっていた。
それはいい。
ルウェインが己の手で掴み取った信頼である。
しかし。
「ハッ! 心遣い恐悦至極。ですが、この身はメルヴィナ皇女殿下に捧げられるべきもの。万が一があってはなりませぬ。こればかりは!」
「いえ、そうではなくて」
第一皇女は思った。
違うそうじゃない、と。
ルウェインの鍛錬はいいことだ。だが、問題はそこではない。遠回しに忠告しようとしたのがそもそもの間違いであったのかもしれない。
問題は一つ。
ルウェインの鍛錬時における掛け声である。
『メルヴィナ殿下! メルヴィナ殿下! メルヴィナ殿下! メルヴィナ殿下! メルヴィナ殿下!』
これである。
掛け声と言っていいのかわからない。
ちょっと、いや、かなり気持ち悪い。騎士団員からの聞き取りでルウェインのことを認める発言と共に鍛錬時の掛け声だけはどうにかできないのかという苦言が呈されているのだ。
やっていることはただの鍛錬である。
そこにやましいところは何一つない。だから余計にたちが悪い。
変に指摘してもルウェインには伝わらないのだ。
「何か問題でも? 我が剣を捧げた御方を思って鍛錬することに何の過ちがございましょうか!」
これである。
言っていることは忠義の騎士。やっていることは常軌を逸した変態のそれである。
だがしかし、そんなルウェインのひたむきさを第一皇女は評価していたのだ。
そうでなければ、手回しをしてまでメルヴィナの慰安旅行に護衛として同行させることはなかったのだ。
でもまあ、気持ち悪いのに代わりはないのである。
そんなわけでルウェインは滂沱の涙を流していた。
なんでって、そりゃあ理由は簡単である。
護衛としてメルヴィナの慰安旅行に同行できる栄誉だけでなく、彼女の水着姿を拝謁賜る名誉を得たのだ。
ドキドキソワソワするよりも、その栄誉に身が貫かれ、常に電流が四肢に走ったような衝撃を受けているのだ。言いすぎじゃない?
「なんと美しい御姿! まるで水中を優雅に揺蕩う魚のよう! 自分は今、エルネイジェの海の至宝を目の当たりにしております!」
ざんっ! と砂浜に片膝を付いて最大の敬礼を持ってルウェインはメルヴィナをビーチに迎えていた。
更衣室のそばにてお守りするべかと悩んだが、それはエレインが同行していたこと、ヘレナもまた護衛として参じていたことを考慮して離れてビーチにて待機していたのだ。
待ちに待った女神の降臨。
いや、女神さえも霞む後光。差し込む太陽の全てがメルヴィナという至高の存在を輝かせるために降り注いでいるとしか思えなかった。
溢れる涙は悲しみではなく、感激の涙。
言葉にならない。いや、言葉にしているが、これだけでは足りない。
海の至宝?
天上天下メルヴィナ独尊であるが?
崇め奉るようなルウェインの態度にメルヴィナはわずかに青ざめる。
「気持ち悪いしうるさいのだわ……」
はっきり言葉にしていた。
だがしかし、ルウェインは怯むこともなかった。
相手が王族であっても彼には関係なかった。立場は理解している。ただ己は忠義に生きているだけなのだ。愛と言ってもいい。いや、愛だ。
そんな彼を前にしてメルヴィナも一つの決心を胸に抱いてやってきていた。
この慰安旅行に護衛としてルウェインが同行していることに当初は承知していなかった。そもそも慰安旅行自体必要としていなかったのだ。
だが、メサイアがごねた。
「バカンス! ストゼロ! バカンス! ストゼロ! ですわ~!」」
と。
加えて此度は長兄、長姉が同行できないこともあり、またメサイアの手綱を握る者がいなければならないと思えば、致し方ないと渋々慰安旅行に出かけてきたのだ。
それにお世話になったということでグリモア猟兵も招待している。
王族としてゲストはもてなさなければならない。メサイアにそれは期待できないし、エレインは王族である自分がいると前に出ることはない。
必然、自分が、となったのだ。
その前にルウェインが護衛につくとなれば、その一大決心を言葉にしなければ始まらないとさえ思ったのだ。
まあ、もてなすグリモア猟兵のナイアルテは、二人の先行きを少女漫画を見ているかのようなドギマギドキンコメモリアルしていたので、細かいことは気にしていなかったようである。
「ルウェイン卿。今日こそはっきり言うのだわ」
「ハッ! なんなりとお申し付けください! この身はメルヴィナ皇女殿下の御身のためにあります。椅子になれと言われれば喜んで! 傘になれとおっしゃられるのであれば、身を呈して雨粒一つ御身を濡らすことはございません!!」
炸裂するルウェイン節。
圧倒されるメルヴィナ。だが、ここで怯んではいられない。
決めたのだ。
今日こそ言うのだと。
言う。言う。言うのだわ。
「あなたが幾ら私を好いていても、私が応えることはないのだわ」
その気持が偽りであるとか真であるとかは関係ない。
そもそも、他者の気持ちに真と嘘を伺う事自体が不貞そのものであるとメルヴィナは思っていた。
許されざる大罪。
故に彼女は自らが徒に傷つくよりも、ルウェインが叶わぬ恋に傷つくことを恐れたのかもしれない。
だから、はっきりと言う。
傷を深くしないために。
「ハッ! メルヴィナ殿下に捧ぐ愛は即ち忠義! 忠義とは誓うもの! お応えいただくなど滅相もございません!」
「……何を言っているのだわ?」
「言葉通りの意味でございます! この身は一度メルヴィナ殿下に救われました。あの時、自分は確かに死んでいたのです。功を焦り、功こそ全て。己が家名を上げることこそが、己の務めであると。ですがあの日、自分は救われました。生命を救っていただいた恩義、そして不遜にも愛を! 抱いてしまったのです!」
ルウェインは崇め奉る女神に対して偽らざる思いを吐露する。
どんなに拒まれても構わない。
そもそもメルヴィナから何かをしてもらおうなどと一欠片も思っていないのだ。
無償の愛。
代価を求めぬ愛。
それはきっと永遠にも似た激情。
故にルウェインはメルヴィナの拒絶に対しても、怯むことはなかったのだ。
「ンアー! メルヴィナ殿下! ンアー!」
「ひっ、なんなのだわ!?」
「失礼いたしました! メルヴィナ殿下への忠義が溢れてしまいました!!」
上げる面は、キラキラと輝くようであった。
ルウェインはいつもそうだ。メルヴィナが近くにいるだけで、メルヴィナが拒絶の、それこそ傷つけるような言葉を投げかけても、嬉しそうな顔をする。
どうして。
どうしてそんなふうに思えるのだろうか。
想う者にそっけなくされること、袖にされること、放置されること、関心すら示ささぬ態度、その全てがメルヴィナの心を散々に痛めつけてきたというのに、ルウェインはまるで怯んでいない。
そこにメルヴィナとルウェインの違いがあったのかもしれない。
想うことは無敵なのである。
何せ、愛は争うことはない。
争う相手すら必要としない。ならば、敵などいない。真の愛の騎士に敵対者はおらず、その剣は捧げられるべきもの。
故に無敵なのだ。
「あなたはどうしていつもそんなに嬉しそうなのだわ……?」
「恐れながら! 自分の身はメルヴィナ皇女殿下のもの。心の内側、その四方隅々においても同様であることは当然。しかしながら、それを証明する手立てはございませぬ! ならばこそ、メルヴィナ殿下のお側にあることが至上の喜びであることを示すのは当然でございます!」
キラキラとした視線を向けてくる。
メルヴィナは圧倒されていた。あまりにもキラキラとしている。自分が陰陽の陰であるのならば、ルウェインは陽である。
眩しすぎる。
だが、同時に彼が犬に見えてきた。
人懐っこい大型犬。
ふりふりと尻尾を振っている姿は、喜びの感情に溢れているようにも思えたことだろう。無論、ルウェインに尻尾はない。だが、なんかこう、耳と尻尾が見えてならないのだ。
「……」
メルヴィナはそばにあったビーチボールを手に取った。
ビーチバレーをする用のボールだろう。視線を落とす。
ルウェインは膝をついたままである。何か言わなければ。言わなければ、ずっとこのままこの騎士は己の前に跪いたままであろう。
なら、と僅かないたずらごころが湧き上がり、ボールを放り投げる。
緩やかな放物線を描いて飛ぶボール。
それを視線で追って、何気なく言う。
「取ってくるのだわ」
「ハッ! メルヴィナ殿下からの直々の御拝命! 至極! 恐悦至極であります! ただちに! ただちに取ってまいります!」
いたずらごころ。
けれど、ルウェインは己の忠義に報いる時が来たとばかりに駆け出す。
淀みないスムーズなダッシュ。
ざぶざぶと波間をかきわけてボールを追うルウェイン。濡れることもいとわず、まるでそうすることが自然というように彼は海に飛び込んでボールを追うのだ。
「本当に犬みたいなのだ――」
●幕間
そんな二人のやり取りを見守っていたグリモア猟兵ナイアルテとエレイン、ヘレナは三者三様であった。
「じれったいわねぇ……ちょっとやらしい雰囲気にしてこよっか?」
「……~!! いいですね! とてもいいですね!!」
フンハーッ!
ナイアルテはこういうの大好きであった。
甘酸っぱい。いや、本当に甘酸っぱいか? 今のところ、ルウェイン卿がルウェイン卿しているところしかないが。
ヘレナはもどかしいと思ったのかも知れない。
海で水着で男女が二人なのだ。
ここらで昨今の週刊少年誌では見られることのなかったトラぶる展開が遭ってもいいのではないかとさえ思っていた。むしろ起これ。
「メルヴィナ殿下のそばに置いておくに相応しい男化、私には見極める義務があるのよ」
だが、相対するようにしてヘレナは冷静そのものだった。
確かにルウェインの忠義は認めるところである。
騎士団員たちの評判も上々。
されど、まだ見極めが済んでいないとエレインは思っていたのだ。何せ、騎士と皇女である。感情に任せていい問題ではないことは貴族である彼女からすれば当然の思考であった。
「流石はアイディール家の御令嬢」
ハン、とヘレナは嘆息して肩を竦める。
はーやれやれ。何も理解っちゃいないのだと言外に言わんとしているようであった。
「良いお年頃なのにベッドを一緒にしてくれそうなお相手が未だに見つからない人がおっしゃるとまるで重さが違うわねぇ?」
指差し確認。
浮いた話一つない、むしろ高飛車すぎて敬遠されている貴族令嬢をヘレナは指さして笑うのだ。
「やれやれ、男女の関係には段階というものがあることを知らないようね」
エレインは頭を振る。
まるでダメージがないようであった。
だが、その間に挟まったナイアルテは勝手にダメージを受けていた。
そっかー段階かーとか、良いお年頃なのに、という言葉がざっくりと無関係なはずのナイアルテの胸を抉っていた。どうして。
「誰とでも寝るようなケダモノにはわからぬ人の営みというやつでしょうね? 想像もつかないでしょうね?」
「強がり言っちゃって。寂しいでしょ? 今夜はあたしが添い寝してあげよっか?」
「バカを言わないでほしいわ。ただでさえ獣臭いというのに。臭いが移ってしまうわ」
「は~? 相手をえり好みできると~?」
「当然よ。お付き合いする相手はよく吟味しているんだもの。誰彼構わず手を出す穢らわしい尻軽キツネと違ってね」
「ごめんなさいね~? 御令嬢と違ってモテちゃうから選び放題で~。あ、もしかしてもしかして~? 避けられていることにすら気付けない? そんな人には一生わからない苦労かもしれないでしょうけど」
二人に挟まれたナイアルテは、またもダメージを受けていた。
流れ弾っていうか、なんていうか。
ニコリと笑むと取っ組み合いを始める……前にナイアルテがゴッドハンドであることを思い出したように収めたりなんやかんやあったことは、この幕間だけの秘密だ。
そして、またも空気を読まないメサイアの何に対しての祝杯かわからぬ何缶目かもわからぬ空き缶がビーチに転がるのだった。
「ぷひゅ~ッ! ストゼロ最高ですわ――!」
●爪痕は証
ルウェインは喜びに満ちていた。
己の胸に去来するのは喜び以上の感情であったが、それを言い表せる言葉を彼は持ち合わせていなかった。
ただ歓喜する。
メルヴィナが放ったビーチボールは思いの外、波寄せる海辺の遠くまで飛んでいった。
波をかき分けるのは苦ではない。
何せ、日々の鍛錬が己の体を支えている。
全てはメルヴィナ皇女殿下のために!
「メルヴィナ殿下が自分とお戯れになられている!」
ざぱっ、と波をかき分ける手が喜びにふるえる。
「今俺は、メルヴィナ殿下から賜った栄誉を独り占めしている! なんと罪深きことか! だが! 俺の体は喜びに震えているではないか! これは! 世界中から嫉妬の炎で焼かれたとしても甘んじて受け入れねばなるまい!」
ビーチボールを確保したルウェインは波に圧されるままに砂浜に戻っていく。
まるで玉体を抱くようにしてビーチボールを抱えて、メルヴィナを見やる。
改めて彼女の水着姿を拝謁できた喜びに体に電流が走る。
まるで天女。
いや、天女というのは不敬やもしれぬ。
だがしかし、羽衣を纏うようなデザイン、言う成れば星の海に舞うような美しさは唯一無二のように思えた。
美しい体、その白き肌を己が網膜に焼き付けてもいいものだろうか。
いやしかし、目を背ける事自体が罪であるように思えてならない。
はっきり言って浮足立っていた。
浜辺にいるメルヴィナへとビーチボールを届けようとした瞬間、思いがけず彼の背に大波が迫っていた。
ルウェインは当然気が付かない。
水着のメルヴィナがこんなに近くにいるなんて、と思っていたし、なんならこのまま死んでも悔いはない。グッバイ良い人生だった、と辞世の句を読む余裕すらあった。
「あっ……」
この場で大波に気がつけていたのはメルヴィナだけだった。
自然と、そうするのが当然というように、誰かを助けるのは当たり前のことだと言うように、メルヴィナの気質が顕になった瞬間だった。
伸ばした手はルウェインの手を取り、大波から助けるように動いていた。
「……――メルヴィナ姫殿下!?」
驚愕に見開かれる瞳。
真の感情がそこにはあった。自分しか見ていない。その瞳には己以外を写していない。
近づく顔と顔。
ルウェインが浜辺で足を取られ、迫る波に圧されるようにしてメルヴィナに覆いかぶさっる。
浜辺に押し倒されたメルヴィナの髪が散らばり、波にさらわれる。
互いにかばうようであったからこそ、密着していた。
はたから見れば抱き合う恋人そのものであったことだろう。
見開かれた瞳。
青い、青い瞳にあったのは驚愕の感情だった。
確かにルウェインのことは気持ち悪いと思っていた。いつも自分の名を叫んでいることも、耳目憚らず己の騎士であるということを叫ぶことも、全部、自分に向けられるべきものではないと思っていた。
けれど、今抱き合っている。
肌と肌が触れ合っている。
思った以上に硬い胸板。
同じ人間のぬくもりを感じるけれど、皮膚の質感が違うのだな、と何処か頭の端で考える余裕さえあった。
いや、まるで心とは裏腹なる場所で頭が勝手に考えているのだとさえ思えた。
嫌悪感を抱くことはなかった。
ルウェインが気持ち悪いのは言うまでもないけれど、嫌いではないのだ。彼のひたむきさが。
どんなに拒絶しても、気まぐれのように接してしまった僅かな時間を彼は宝物のようにかけている。
「申し訳ありません! まさか背後に波が迫っているとは知らず! しかし、メルヴィナ姫殿下をお守りすべくつい咄嗟に……!」
身を離す。いや、できない。
メルヴィナの腕が己の背中に回されている。
困惑が勝る。
「あなたは私のことを知らないからそうしていられるのだわ……」
背に回された腕、その掌に力がこもる。
「私はあなたが思っている以上に嫉妬深くて執念深い女なのだわ」
ギリ、と音がなったのはメルヴィナの心がきしんだ音か、それとも彼女の指が、爪がルウェインの背に突き立てられた音か。
「私は愛する人の興味が少しでも他の女に向かうだけでも許せないのだわ……そんな私だから元夫は嫌気が差して……」
メルヴィナは何を言っているのだろうと思った。
何をこんなことを語っているのだろうと。
語るべくもない醜聞。ゴシップ誌を飾った文面は遠からず当たっていたのだ。否定しようもないことばかりだったのだ。
「私は愛する人を絞め殺してしまうような女なのだわ! おかしいのだわ! 病気なのだわ! だからもう私につきまとうのはやめるのだわ!」
食い込んだ爪は真っ赤に染まっていた。
滲む血。
痛みもあるだろう。恐れもあるだろう。
嫉妬狂いの皇女の所以を知って、ルウェインは己に幻滅したかもしれないが、それでいいと思ったのだ。
これで彼が己から離れるのならば、お互い傷が浅くていい、と。
だが、ルウェインは痛みに顔を歪めることなく、一層キラキラとした笑顔を浮かべていた。
満面の笑み。
息が漏れる。
「つまりメルヴィナ殿下は海溝の谷底よりも深く、深海の水圧よりも重い愛をお持ちなのですね!」
「そういう意味じゃないのだわ!」
違う、これは断じて愛じゃない。
否定したい。
けれど、己の肌に感じるのは嫌悪ではなく、言葉にすれば決壊しそうな思い。
「メルヴィナ殿下がどのような御方であろうとも、自分はメルヴィナ姫殿下に忠義を捧げると誓ったのです。愛という名の忠義を! 故に! メルヴィナ姫殿下に絞め殺されるならば、それは本望!」
ヒュッ、と呼気が漏れる。
この状況で?
なんでそんなことを言えるのだろう。
ときめくより早く、気持ち悪っと思ってしまった。
「嘘なのだわ! そんな見触りのよいことをいって! あなたも本当の私を知ったら気が変わるのだわ!」
胸板を叩く。
だが、離れない。
「おっしゃられる通りに自分は本当のメルヴィナ殿下を存じていないのかも知れません。しかし! どのようなメルヴィナ殿下であろうとも、あの時自分を御救いくださったメルヴィナ殿下であられることに違いはありません!」
堰を切ったようにルウェインは己の心を吐露する。
真摯であり、ひたむき。良い意味でも、悪い意味でも。
倒れ込んでいたメルヴィナ毎、ルウェインは彼女を抱き上げて立ち上がる。
伝えなければならない。
どんな些細なことも。それだけが己にできることだと知っていたからだ。
「ですから、メルヴィナ殿下。お応えになられずとも、絞め殺されようとも、気を病んでおられようとも、どうかこの忠義を捧げることだけはお赦しいただきたいのです。不相応は承知の上。首をはねられようとも構いません。お嫌いになられても……自分は生命を懸けてメルヴィナ殿下をお慕い続ける所存です――!」
●心は波のように
どうしてそんなにまっすぐに見つめてくるのだろう。
まっすぐすぎるほどにまっすぐに。
何度も思ったことだ。
初めて嫁いだ先がルウェインだったのならばよかったのに、と。
そう想うたびに己の心にどす黒いものが流れ込んでくるのがわかった。彼が悪い。彼が悪いのだ。
こんなにも己がおかしくなってしまったのは、ルウェインが現れるのが遅かったからだ。
全部、全部!
「もうやめるのだわ……でないと私……あなたの思いを信じてしまうのだわ……!」
抱き上げたルウェインを抱きしめ、困惑したまま噛みつく。
首筋に歯を突き立てるように。
その痛みにルウェインは立ち尽くすしかなかった。
何も言えないのかもしれない。
こんな咬み癖もあって、嫉妬深く、どろどろとした黒い感情ばかりが渦巻く女になんて、今更に彼が呆れたかもしれない。
でも、どうしようもないのだ――。
●歓びと喜びと
メルヴィナを抱き上げたまま、じくじくと痛む背中。
そればかりか彼女が首に噛みついている。甘噛みとは言えない咬力ではあるけれど、ルウェインは喜びに見ていた。
そう!
メルヴィナ殿下が己の体に傷をお刻みになられたのだ!
きっとこれは祝福の印であるし、誉れである!
古来より背中の傷は騎士にとって恥であろう。だが、メルヴィナから受けた傷は全部誉れである。
加えて、殿下が首に噛みついている。
まさか!
そう、まさか己を生贄にお選びになられたと!?
何たる栄誉!!
歓喜に打ち震えるルウェイン。
それを遠巻きに見ていた三人娘+アル中は思った。
「流石に、あれはない――」
成功
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