深淵を覗く時、深淵もまた此方を覗いているのだと、さて、何処の思想家の言葉だったか。怪物を退治する為に、化け物を討伐する為に、過去の悉くを滅ぼす為に、その身に埒外を宿す事こそ木乃伊への第一歩とも考えられる。故に――だからこそ、男にとって――何もかもは今更だ。莫迦な事をしていると正気だった頃の己に叱られて終いそうだ。愚かな事の反芻だと真面だった頃の己に辟易とされて終いそうだ。だが、いったい如何して虚への冒涜を止める事が出来よう。嗚呼、つまりは、地獄や楽園よりも手遅れだと謂うワケだ。断頭台と手術台を違えた結果の獄中である。いや、個人的には、収容されるのも悪くはないか。絡み付くかのように、粘つくかのように、山羊のような臭さが真っ黒く憑いてきた。まさか、獣らしき存在が男の脳髄を正常に戻すとでも……？ 貰ってしまった数々の宿題に愉悦がこぼれる。或いは、涎があふれると描写した方が面白そうか。嘲笑からの哄笑、哄笑からの失笑、そうとも世の中とは無聊の肉塊に過ぎない。では……此処で男に新たな言の葉を、音とやらを与えてみたら如何か。神の目覚め？ 闇からの囁き？ 在り来たりなものだ。されど、在り来たりこそが男の臓腑を若返らせるのだと柔らかな『それら』は知っている。てしてし……てしてしてし……。おお……！ 視よ。男の顔が『やさしいおじいちゃん』に変わった。おそらく男と共に歩んできたメイドか何かも見た事のない、喜色にやられた顔！ 何者かと思えば、誰かと深淵を覗き込めば、其処には深淵よりも凄まじいふたつの毛の塊……！ 貴様か、貴様等か。貴様等ならば如何様な『時』でも大歓迎だ。私は……俺は貴様等との戯れこそを優先せねばならぬ。男を『こうまで』悦ばせたのは何だろうか。息子？ 孫？ いいや、そんなものは男にない。男の目の玉に映っているのは……猫。猫だ！ しかも『二匹』の猫だ！ 仕事も思考も中断しあらゆる『自己』を猫に集中せよ。
にゃあご……。猫――ナルニアとネーネリアはちろちろと毛繕いをしていた。こうも酷く暑い日が続くと、文字通り、液体のような猫になってしまう。液体になっても猫は猫なのだが、それでは、気分的に撫でられたい時に損ではないか。ぶにゃあ。何方か一匹がふと誰かさんの顔を思い出す。そうだ。あのおじいちゃんの家に行ってごはんをもらおう。おやつも食べたいし、ささみのゆで汁だって忘れてはならない。ぶみっ……。開けっ放しの窓からそっと部屋の中に侵入する。如何やらおじいちゃんはお仕事中な様子だ。まさか、夏休みだと謂うのに、水着の季節だと謂うのに、ずっと働いているのではないか。これだから人間はダメなんだ。これだから二足で歩く知的生命体はダメなんだ。猫みたいに、自由気儘に、生きる事が出来たならどれだけ楽しいか……。いや、それはよくない。何故なら、猫を愛でるものが居なくなってしまう。にゃ……。まあ、兎も角、おじいちゃんを労わなければいけない。そもそも、猫にはわからないが、人間とは老後、まったりと生きるものではなかったか。美味しいものを食べずに、飲まずに、苦い汁だけを愛用するなんて本当に狂っている！ てしてし……てしてしてし……。おじいちゃん強制お休み作戦開始である。手ぶらでやってきたからついでにカリカリやニャールもいただこう。そう、猫はねだるのではない。勝手にご飯やおやつの方からお皿に載ってくるのだ。ぐぅぐぅ、胃袋が笑う。
――満漢全席リターンズ、サイキックハーツ産らしい。
胃袋を満たしたところで作戦再開だ。おじいちゃんのベッドに一匹が潜り込む。ごろごろと鳴いて魅せたりしてのお誘いだ。だが、おじいちゃんは如何にも遠慮をしているらしい。まさか！ あの男が――冒涜王が――遠慮だなんて！ 只の頑固なおじいちゃんと化した彼は石の上にも三年とでも謂いたいのか。ならば、と、もう一匹が「にゃあご」と踵へこすりよる。前足でさっとベッドを示したのなら、ガラガラと、何かしらが崩壊する気配。貴様等が其処まで私を……俺を眠らせたいと宣うならば従う他なし！ 特徴的な笑い声も布団の中へと溶けていく。夏だから暑さに殺されないのか？ 冷暖房完備、快適さはキマイラフューチャーに並ぶだろうか。
おじいちゃんは何日ぶりかの熟睡を味わう事となった。猫二匹はとれたて新鮮なサイキックハーツの食材を味わう事となった。これで関係としてはWinWinとやらか。ゆっくりとおじいちゃんが――男は身体を起こそうとする。だが、如何だ。二匹は未だ夢の中で、何より自分の腹の上ではないか。猫を害してはならない。猫を起こしてはならない。天啓、神意――浄化するかの如くに――二度寝せよ。そして、二度寝から起きても尚、猫がいるのであれば――三度寝せよ。無を『する』事こそが贅沢なのだ。
このような既知であれば、もう一度、遭遇するのが愉しみだ。
成功
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