2018/6/4 変わりゆく世界の前夜
死ななかった。
少女は人生に絶望し、絶対に助からない高さのビルから飛び降りたはずだった。
風を感じた。地面が近づく恐怖で意識が遠くなるのを感じた。身体はそのまま地面に叩きつけられ、人生で一度も感じた事のない酷い痛みで全く動けなかった。
見知らぬ人々がすぐに駆けつけてきた。「大丈夫か」「早く救急車を」と、こんな自分を気遣う声が聴こえる。意味がわからないまま、命ではなく意識だけを手放した。
死ななかった。
男は戦場の最前線にいた。国家間の利害や主義の対立のために銃を握らされ、無情な空爆により命を散らす大勢の中のひとりのはずだった。
昨日までそういう世界で生きてきた。ところが今日に限っては何をしても誰も死なない。銃も、爆薬も、ミサイルも、急にすべての暴力が無力と化した。敵も味方も沈黙し、やがてどちらからともなく武器を置いた。
死ななかった。
女は貧しい村に生まれ、金は無いが子供だけは多くいた。生まれては飢えや病気で消えゆく小さな命を彼らはどうすることも出来なかった。
わずかな食料はすべて我が子に与えてしまった。この子が生きていてくれさえすればいい、そう願って生を手放した。腹が減った。いつまでも減っていた。だが、女の瘦せ細った腕は我が子を抱き続けていた。
死ななかった。
少年は病に侵され、極めて成功率の低い手術に挑んだ。それしか生きる道がなかった。
母がなぜ泣いているのかさえ少年には理解ができなかったのだから、執刀医の困惑など尚更わかるはずもない。失敗した、という手応えがあった。必死の処置ももはや手遅れと思われた。けれど、神はどうやってか少年を生かした。感謝された執刀医はただ一言「奇跡です」とだけ告げた。
生きろと。
誰かが強く世界へ叫んでいるようだった。
2018年6月4日。
人類があらゆる死を克服し、暴力、災害、病気、飢餓その他の苦しみから解放された日だ。
この日、武蔵坂学園の灼滅者たちは何者でもなかった『ひとつのソウルボード』に対し、全人類をサイキックハーツにするという選択を突きつけた。
それは組織にとって何の利もない選択だった。それでも、灼滅者たちは再三の警告を拒否し、すべてを守るという選択肢を選び抜いたのだ。
世の中は事故、災害、病気などから奇跡の生還を果たした者たちの体験談で溢れ返り、それらは『生還事故』と呼ばれた。そして同年7月8日――サイキックハーツをめぐる全ての戦いは終結し、バベルの鎖に縛られていた灼滅者達は、人々に世界の真実を告げるために走りだす。
当時まだ己が灼滅者であることに無自覚だった七草・聖理も、或いはその光景を見聞きしたかもしれない。
まず、今までネット上に公開しても何故か全く広まらなかった『謎の怪物と戦う超能力者達』の動画や体験談が、次々に過去の投稿から発掘され始めた。それはメディアや各自のネットワークを活かし、ダークネスに支配されてきた歴史の全容を明らかにしようと動きだした灼滅者達の言葉へ強い説得力を持たせる。
「嘘だろ、ラブリンスターちゃんがダークネスだったなんて……あ! きゅ、急に動画が伸びてる!? 俺のらぶりんが……こんなに認知され……うぅ、複雑だ……」
「私この斬新コーポレーションって会社の就職セミナーに参加した事あるかも! 何か、すごく斬新だったから……途中で帰っちゃったけど。危なかったんだ……」
「宇都宮餃子怪人って栃木のご当地ゆるキャラじゃなかったのか!? よくヒーローショーやってたけど……あの人達が灼滅者だったの? え、いや意味わからん」
「【ヤバイ】最終学歴朱雀門の俺、終わる」
そのような――長い人類の歴史から見れば――些細な事件とのかかわりに驚く者達が多くいた。実体験を伴った過去の範囲ならまだ飲みこみやすかった。しかし、世界大戦や徳川幕府の設立まで実はダークネスの陰謀だったのだと言われると、正直実感はしにくかったと思われる。
けれど。
それを補って余りある『当事者』たちからの声があった。
六六六人衆に殺されそうになった所を救ってもらった。悪夢の中に現れて悩みから助けてくれた。悪魔を崇拝しそうになっていたが、彼らのおかげで正気に戻れた。大規模な戦闘があった時も、一般人を守りながら果敢に戦っていた。闇堕ちしそうになった自分を止めるため、必死で声をかけてくれた。
すべて、すべて灼滅者がやってきたことだ。
己の身を投げ打ち、彼らはいつでもすべてを守ろうとした。
そして、ついにそれを成した。彼ら自身が語らずとも、人々が彼らを英雄と称えた。
――ありがとう、灼滅者。
世界は感謝の言葉で満ちていた。支配から解き放たれ、自ら幸福へと歩み出した。
七草聖理という少女が学園に保護されるのはこれから約一年後の出来事だ。そして今、彼女も復活ダークネスに立ち向かう。偉大な先輩達の背を追い、その光は闇を射るだろう。
成功
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