綺麗に流れてゆくものも、いつかは澱み沈んでしまうことがある。
そのことを逆戟・イサナ(渡し守・f28964)が認識したのはいつだったろう。
幽世の水辺で流れてゆくものを見守る日々にも、それは滲んでいたような気もする。
人々に忘れられた妖怪たちをはじめとして、さまざまなものが流れ着く狭間の世界たる幽世は、一種の墓場と呼んでも支障ないだろう。イサナにとって、その世界の居心地はよく身に馴染むほど良いものだった。
それが何故かということを、イサナはさほど考えたことがなかった。己が妖怪であるということ以外をすっかり忘れていたせいでもあるが、まあ妖怪であればこんなものだろうと極めて楽観的に捉えていたのだ。
それが変わったのは、とある未練を喰らってからだった。
己がどういう成り立ちの妖怪であるか、イサナはその輪郭をやっと捉えることができた。
なんともなしの心地好さだけで水辺にいた理由にも、その先の大きな流れを追う空想を幾度もした理由にも合点がいった。
「……
オレは海を知ってる」
イサナはつぶやいて、さらさらと流れゆく水を掬い上げた。その水の原点を――大海を泳ぐ感覚をイサナは知っている。
限りなく広い海。夜に浮かび上がるいさり火。美しくも恐ろしい、底知れぬ生命の原点。そこに、イザナは鯨として生きていた。
かつて流れ落ちる星があった。
地を抉り、海を割り、すべての命を波立て混ぜ返して均したそれは、多くの命を海に地に流し埋めた。
そしてイサナも、沈んでいく骨のひとつに過ぎなかったはずだ。
けれど数多の命共々降り積もった骨は、あらゆる未練と共に降り積もり――海の底から泳ぎ出でる、骨鯨を作り上げた。
他者の未練で成立した化鯨――それは正しく妖怪であり、悪霊であっただろう。
広い海の底をただ泳ぎ、淀むばかりの未練を身に積み重ねた骨鯨は、あるとき、沈んでくる人間を見つけた。
どうやらその人間は自ら命を絶ったらしい。
沈む体は星と違って、そのうちにまた浮かび上がってしまう。自ら水底を選んだ以上、それは不本意なのだろうと、鯨はその人間を――その未練を喰ってやることにした。
人間は紫の髪と黒い目をした男だった。
その男は自分の生き方を酷く後悔しているようで、けれどその望みは、あまりに綺麗に澄んでいる。
『生まれ変われるなら、三人で仲の良いままな人生がよかった』
祈るように、夢見るように切望するその未練に惹かれるようにして、鯨はその男の姿を取った。
そうして骨鯨はイサナになったのだ。
イサナがさらさらと流れる水面を覗き込むと、見慣れた男の姿がある。
果たしてこの男が海に身を投げたのは、こんなところに流れ着きたかったからだろうか。
あるいはイサナを通してこの男も、永きを泳ぐサカナの夢を見ているのだろうか。
「……いい夢か?」
水面に問うて、答えが返るはずもない。
ちらりと笑って、イサナは水辺から立ち上がった。
己の本来の姿はわかった。けれどこの姿だった人間への祈りを込めて、この姿はこのままにしよう。そう決めた。
澱み沈んだ海の底から、骨の鯨が泳ぎ出たように。
サカナの見た夢の果てで、幸いな人生があるように。
幽世の空にひとつ流れた星がどこへゆくのか、それはまだ知れない。
成功
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