水神祭都アクエリオ――下層。
都市の隅々までを網目状に結んで船を運び、荷を渡し、人々の暮らしを支える運河の水は、やがてこの放棄領域へと流れ着く。上層では鮮やかな空の移ろいを描き出す
星霊術の力も弱まり、茫洋と白むばかりの天井からは幾条もの水が滔々と落ち続けている。長いブーツの足下を薄く浸した水は、一歩踏み出すたびにぱしゃりと儚い音を立てた。
(――来る)
時の止まったような静寂を、包み込む空気が俄かに変わった。腰に帯びた剣の柄へ手を掛けて、クロービス・ノイシュタットは息を詰める。長らく
こういう仕事などをしていると、よくないものの気配にはどうしたって敏感になるものだ。足下の水がさあと引いていくのを見て取って、男は氷剣を引き抜いた。
ふ、と短く息を吐き、振り向きざまに薙ぎ払えば、いつの間にか背後に伸び上がっていた水の塊が四散する。キラキラと光を乱反射して落ちたそれは、しかしすぐさま形を取り直し、灰色がかった白い世界に立ち上がってくる。
(……イマージュかぁ)
まあ、ここではそう珍しいものでもない。
彼れは具現化した妄執だ。人が人に手向ける歪んだ願いや想い、あるいはそうでないものも、都市を流れる水の行き着く先にはさまざまなものが集積する。そういった意味では、彼らの生じる条件にこれ以上適した場所もないだろう。
飛び散った水滴が一つにまとまり獣の形を取り始めるのを確かめて、クロービスは剣の持ち手を握り直した。呼吸を整え繰り出す鋭利なひと突きは、幻想の核を捉えて着実に打ち砕く。しかし形のない魔物たちは次々に顕現し、気づけば揺らめく水に四方を囲まれていた。
(迷い人じゃひとたまりもないな)
実に
らしい仕事だ、と思う。誰かから報酬を得るわけでもなく勝手にやっていることだから仕事というのは違うかもしれないが、戦う力のない者に害が及ばぬよう、人知れず危険を排除するなんて、エンドブレイカーたちが誰に感謝されることもなく暗躍していた昔を思い出すようだ。
だが――本当のところは彼が今日、この場所に足を向けたことに、そんな立派な理由も大義もなくて。
無言で奥歯を噛み締めて、白い手袋の軋むほどに右手の剣に力を込める。誰かのため、だなんて言うつもりは毛頭ない――言うなれば、これはただのストレス発散だ。やり場のない無力感をぶつけるのに、放棄領域の怪魔ほどに適当な相手はいないのだ。
(こんなことしたって、なんにも晴れやしないのにね)
水の飛沫が鋭利な刃となって、どちらかといえば色の白い頬を裂く。だが身体の痛みなど感じないくらいに、何かが胸の底で澱んでいた。焦燥に似て、けれどそれだけではない、無力感に近しいもどかしさ――それを拭える術はただひとつしかないことを、重々承知しているはずなのに。
(……
己れの剣は)
強くあることを求めたのか。護りたいと想ったのか。在りし日に剣を取った己が想いが、放棄領域の淡い色彩に霞んでいく。誰のせいでもない――いかに魔法を修め、剣を極めても、それが必要にならないステージがある。それだけのことなのだ。
(きっともう、必要ない)
だから、彼はただそこに『在る』ことを選び取る。
いつかどこかへと赴く人を、『行っておいで』と送り出すこと。
そしてすべてが終わった時、『おかえり』と笑って迎えること。
それがこのままならぬ物語の中で、彼に与えられた果たすべき
役割なのだから。
逆巻く水を斬り開き、男は遥かな天井を仰いだ。滝の如くに注ぐ水の来し方を辿ればその先には、上層階の小さく遥かな青空が覗いている。
成功
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