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蓮池の水面がそうであるように。日々に大きな波は必要ない、と思うのだ。
不幸せは勿論、幸せもまたささやかなものでいい。鳳仙寺・夜昂は足るを知っていた。両腕に抱えるはスーパーの特売を梯子して得た戦利品たち。さて、今晩の献立はどうしようか――ひっそり胸を弾ませつつ家路を辿る。
「鶏肉のトマト煮もいいか。冷蔵庫の整理にもなるし」
街灯に赤々と照るトマトが視界に入ると自然、呟きが零れた。大通りを少し外れた夜道は静かなもので、誰の耳に届くこともあるまい。
無意識に気は緩み、家々からほのかに漂う匂いに、だが焼き魚も捨てがたい……などと、思案を巡らせて。
暢気に過ごしていた。
ぬうと、暗がりから背に伸ばされる腕に気付きもせずに。
「椿・夜昂だな」
「っ?」
身構える間もなく路地へ引き摺り込まれ、同時に布で押さえ塞がれる鼻口。零れ落ちるトマトが妙にスローに見えて、吸った息は酷く刺激の強い薬品臭がする。まずい。袋を取り落とした夜昂の左手に炎が集い、握る拳を叩き込まんと滲む視界を見開く。
けれど、猟兵としての直感が告げていた。今まさに己が首筋へ刃を突き立てようとしている、それは。
「ァ、ぐッ
……!?」
――ただの、人間だ。
(「なん、でだよ!」)
オブリビオンならまだしも、人間に襲撃される心当たりは皆無だった。動揺はコードの制御にも反映され、ふつと掻き消える炎が煙となる。鉛じみて手足は重く、割れんばかりに痛む頭。意識に靄がかって。
いつかのように、おちる、と思ったそのとき。
ヒュッ、――と。ひとつ風の音が立ち、ふたつ宙を舞った。
「……あ?」
夜昂に合口を突きつけていた男の片肘から先と、煌めく銀の糸。
我が身に起きたことが理解出来ず瞠目する襲撃者の喉へ軽やかに巻き付いた鋼糸が、ぴんと張られた。
「がァ?!」
「シィ。どうぞお静かに」
――かつん。
靴音を鳴らして夜闇から生まれ出でた一人が、口を開く。色彩の無い声音。覚えのあるそれへ、ハ、と夜昂が向けた視線の先に、八上・玖寂が立っていた。
「玖、寂……さん?」
同じマンションに住む男で、猟兵で。何故、だからってどうして今、此処に。
襲撃者を振りほどいた先の壁に背を預け、どうにか現状を整理すべく頭に手をやる夜昂。膝に力が入り辛く滑り落ちる身体の、その僅か頭上に飛来し、突き立つ投げナイフが土壁を砕き割ったのは直後のこと。――仰ぎ見た通りの奥に立つのは、またもやただの人間だ。
顔まで覆った全身黒ずくめ。絵に描いた暗殺者、のような。
「お客様の多いことで」
溜息とともに一瞥をくれた玖寂が男へ滑らかに手を伸べる。
命を奪うには、たったその一動でいい。放たれた銀の光。次の瞬間には、喉に深々と投げナイフの刺さった二人目の襲撃者がもんどり打ちながら倒れ込む。新手の登場、そして退場は瞬く間の出来事だった。叫べぬそれに代わるように、ひ、と短く息を飲んでしまった夜昂と目が合えば、玖寂は安心させる風にも穏やかに微笑んだ。
「少し待っていてくださいね、夜昂くん」
「ぎ、ィ」
その手が手繰る凶器は真反対に鋭く厳しい。ぎちぎちと鋼糸が食い込む首元を掻き毟る一人目に視線を戻して、玖寂は平静に続けた。
「初めに首を落としてもよかったのですが。如何でしょう、雇い主についてお喋りしてみる気はありますか?」
あくまで選択権を相手に委ねるかの物言いをして『荒事師』は薄く笑いかけた。けれども男とて理解している。その実、生殺与奪権すら全て玖寂の掌の上なのだと。
く、と引かれる銀糸を滲む血と汗とが混ざり、伝った。吐いたところで。殺らねば、殺られる。
「ッッぁああ!」
「然様で――残念です」
懐から破れかぶれに引き抜く拳銃が火を噴くより早く、男の残りの腕と首から血がしぶく。
反射的に顔を背けた夜昂のそばへも雨のように点々と赤が降る。どっ、と重量のあるものの頽れる音。視界の端、潰れたトマトが妙に鮮やかに目に焼き付いて、ぎゅっと強く目を瞑る。膝を抱えた。
「わけ、わかんねぇよ……」
込み上がる吐き気に耐えるため。呼吸を、続けるため。
夜昂くん。人の死体を見たことは?
大丈夫です。そのままゆっくりと息を吐いて、吸って、十を数える。過去になってしまえば、それまでなのですから。
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(「ふむ。所属を示す所持品は……まあ、ありませんか」)
存在を嗅ぎ付けた分家のアホどもから、夜昂の身を守ること。それが雇い主――夜昂の実父、天槻・敬悟が玖寂へ新たに寄越した依頼だった。
大地主、天槻家。その跡継ぎ足り得る落とし胤。込み入った事情に興味はないながら、尾行していれば現実に彼の命を狙う連中が現れたのだ。複数人での犯行、騒ぎを立てぬ手口、更には通りの人払いも済まされていた。そこらのゴロツキとは違う、あちらもまたプロの雇われの身だったのだろう。いずれ使い捨てに相違ないが。
奪うことが常の己が守ることを求められるとは、奇妙な話だ。慣れきった『清掃』を手早く終え、白手袋を取り替えていた玖寂の背で、ぽつ、と声が落ちた。
「こいつら、俺を殺しに来たんすか」
肩越しに振り返った玖寂とは視線を絡めず、うめくように低く夜昂が呟く。
ふっと息を吐いた玖寂は、依然汚れひとつない三つ揃えのスーツの襟を正し、緩やかに歩み寄る。「さて、通りすがりの僕には分かりかねますが」中身をぶちまけられた買い物袋を拾い上げると、転がる品々を汚れを払いながら回収して、いまだ立ち上がれないでいる夜昂の傍らに置いた。
「少しは落ち着きましたか。まったく大変な目に遭われましたね。お怪我は?」
「……おかげさまで」
玖寂が早くに手を打ってくれたことで、首も薄く線が刻まれた程度で済んだ。嗅がされた薬品による痺れは残るが、それもいずれ抜けるだろう。――自分は。傷に触れつつ地面のシミから目を離せずいる夜昂を見下ろし、次に、玖寂は賑わう大通りから漏れ入る灯りへ目を遣った。
暗がりで誰が生きようと死のうと、誰も足を止めず行き過ぎる。影に生きる者がひとりふたり、消えたところで。
「後処理のことでしたら心配には及びません。人間は、案外人間に無関心ですから」
「…………知ってます」
嫌というほどに。
長く深く息を吐いた夜昂は壁に後頭部を預け空を仰ぐ。月は変わらず天高くにあって、自分が底の底まで堕ちた心地になる。死を間近にした瞬間、覚えた恐怖。ひとの殺意を直に浴びたのは、初めてだった。――命を狙われている? こんな、泥濘に沈み続けてきたような奴の命を?
解けた緊張の所為か。それとも、自嘲か。小さく笑いが零れて、もう止まらなかった。
くつくつと肩を震わせ丸まる背を咎めることもせず、玖寂はただ傍らで待っていた。懐中時計が刻む静寂に耳を傾けながら。
「すんません、……ありがとうございました。ダっサいとこ見せた詫び、したいんすけど」
「詫び?」
どれほどの時が経ったろう。
やがて自ずから立ち上がった夜昂が、困ったように眉を下げては後ろ頭を掻いた。ご近所さんではあるが大した交流もない、相手への礼を考えあぐねている様子。盗聴器越しに知ってはいるが存外律儀な男だ。察した玖寂は眼鏡のブリッジを押し上げ、では、と柔和とも呼べる笑みを返した。
「夕食に同席させていただいても? 食材も傷付いてしまったようですし、調理と消費のお手伝いも出来ればと――なんて」
「あー……っすね。ほんと、食い物粗末にするなんて最低だ……じゃなくて、そんなことでいいんですか?」
袋を覗き、いっそ自身が怪我を負わされた事実より深刻に呟く姿を横目に、打算を覗かせぬ微笑みで「ええ」と頷いた玖寂。丁度目に入ったのが買い物袋というだけで、欲しい物など浮かばず、好きも嫌いもこれといってない。けれど今後は観察対象から護衛対象になる相手だ。良好な関係を構築しておくことは悪いことでもない、と。
それじゃあ、と要求を受け入れ歩き始めた夜昂ではあったが、言い辛そうに僅かに視線を泳がせる。
「……メインは肉以外でってことで。あと、軽く寄り道もしたいっす」
「奇遇ですね、僕も同じ気分ですよ」
すぐには食事を受け付けそうにない己に、飄々と応じてみせる玖寂のどこからどこまでが真実で、偽りか。全てを信じ切れるほど純でもない心を自覚していても、恩人との帰路は夜昂にとって幾分も気が落ち着いた。
――昔の名を呼ばれた?
――誰が。何の目的で。
――この命と引き換えに救われる者がいる、のか。
前触れなく、赤く落とされた滴は水面を大きく揺らしてしまった。明日を憂う心もまた、生きていてこそと知りながら。暗中を歩む。
成功
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