鉛の向こうのチェッカーフラッグ
――隊長、アンタのゴールは何処だ?
今でもこれを空にかざすと思いだす。
かつてはゴーグルだったレンズの破片。
もう使われない
こいつの向こう側に「奴」は何を見ていたのだろう……。
●懲罰部隊
首の後ろにひり付くような感覚、遅れて痛みが走った。
声を上げようにも噛まされた布がそれを拒み、逃げんと立ち上がろうにも下士官たちが腕と肩を押さえつけ、それも敵わない。
「アンタが悪いんですぜ、少尉殿」
焼き鏝を持った男が自分可愛さに行為の責任をなすりつけ。
「D9、これからはそれがお前の名前だ」
目の前に立った政治将校が言葉を継いだ。
この日、ドーラ・ラングナーゼは自らの名を失った。
Kampfgruppe HNN。
かつてあった部隊章は破かれて、そこに無い。
非正規作戦を実行するために創設された退役兵と正規軍士官によって構成された名無しの特殊部隊。
だが困難な任務とそれに伴う損害から部隊はより効率的な編成を余儀なくされた。
膨れ上がりつつある年金支出を抑える為に精鋭たちは軍務違反の懲罰兵や刑法犯罪者にとって代わり。投入される戦地も損害が多く、犬死ともいえる地獄に変わり栄誉はもはや消え失せた。
Kampfgruppe HNN。
それは名を奪われた懲罰部隊。
同胞の肉を啜ると言われたハイエナの集まりと噂された地獄であった。
最初にドーラが見たのは天幕に吊り下がっているシカの死骸。
「自殺者か?」
政治将校が問い。
「首吊りに決まってるじゃないですか、偉大なる帝国将校閣下」
小指で耳をほじくっていたネズミの軍曹が皮肉たっぷりに答えた。
「そうか。ではD9、最初の任務だ。この役立たずの元士官を捨ててこい」
将校は意に介さずドーラに命令を下し、天幕から去る。
「で、いかがいたしますか? D9殿?」
ネズミが問いかける。
「埋める……埋葬するぞ」
「はい、ですが……本気でおっしゃっているので?」
名を失った少尉の言葉に目を丸くし、その上で軍曹は問いなおす。
「『捨て方は問われなかった』つまり、私の権限で仕事しろと言う事だ。貴官、名前は?」
「J3であります少尉殿。ちっぽけなアニマリズムなら笑い飛ばすところでした」
改めて敬礼するネズミの軍曹。
最初の試練は合格らしい、当然だ、ドーラにはやるべきことがある。
そのためならアニマリズムに真っ当な建前を着けて、兵や下士官を味方につける必要がある。
少なくとも士官であれ兵であれ、死者はそうされるべきであり、遺体をぞんざいに扱う事は自分の身も危ういし部下も着いてこない。
「C6……C6! 聞いてるか、シャベル持ってこい!?」
軍曹の怒鳴り声の後、何かがぶつかり大量の金属が倒れる音が響いた。
「やべ……じゃなかった。失礼しましたJ3殿」
出っ歯に眼鏡のオオカミが腰を低くして、スコップを拾いそして敬礼した。
「改めて、申告します。HNN第二中隊、第一小隊はこれよりD9殿の指揮下に入ります。小官は小隊軍曹を務めるJ3。そしてこいつが……」
ネズミがオオカミの脛を蹴る。
「騎兵班班長のC6伍長であります、隊長殿」
C6と呼ばれた眼鏡のオオカミが名乗るとドーラも答礼する。
だが内心で冷や汗は止まらない。
この地獄の環境ではない……伍長の眼鏡の奥に濁る何かを見たからだ。
――この男は戦争に向いている最も危険な兵士の一人だと。
●蛆虫戦線
戦場は控えめに言って地獄だった。
たった一つの高地。
高さを取れば周囲を見渡せ、いち早く砲撃を叩き込める。
土地を確保すれば優位となるが、今は敵の手に落ちた。
奪い取るにも遮蔽となる丘陵は無く、森林は早くに薪の如く燃えて消えさって。
砲を設置しようにも先に榴弾が降って来る。
戦車でとび込もうなら竜の牙と塹壕に足を取られ、棺桶に変わる。
歩兵……一番有効で、一番安く、一番損害の多い手段だ。
戦場は焼けた肉が転がり、腐った肉には蛆が湧く。
故に高地には別称が授けられた。
――
蛆虫戦線と
「控えめに言って地獄ですな」
小隊軍曹であるJ3が控えめに皮肉を述べる。
「だから我々があてがわれたんだろう。指導将校閣下は我ら戦闘団が英雄になることをお望みだ」
「つまり全滅してでも、突破しろってことですね」
D9――ドーラの言葉を正確に解釈したC6騎兵伍長が皮肉を言うとJ3が即座に平手を張った。
「貴官の言動に問題があった故に指導した」
「はい、ご指導いただき感謝申し上げます」
軍曹の行動を理解している伍長が敬礼を以って答えた。
少なくとも下士官連中は生き残る気は有るらしい。
政治将校……指導将校とも称される奴らに目を着けられるのを避けるための演技すら呼吸するように成し得るのだから。
なら、問題は無かった。
「C6、我々の任務は高地の確保だが、戦闘団隊長よりは『柔軟かつ弾力的な運用を以って』とだけ伝えられている」
ドーラが双眼鏡片手に口を開く。
「はい、了解しましたD9殿。作戦の意図が分かりかねます?」
流石に「行き当たりばったりですか」と言えなかったので兵隊言葉で問いかけるオオカミ。
「好きにして良いという事だ」
新たな小隊長の言葉にネズミの軍曹の顔が凍った。
自分の上司はあらゆる犠牲を費やしてでも部隊を生き残らせるつもりだ。
戦闘団の隊長は小物かつ自分が生き残る為に最低限の努力はするスズメだった。
部隊を損耗させて結果を出す。
本部指導将校の顔を伺い、望む戦果と損耗を出す。
今回の任務もそうだった。
戦闘団の物量で敵軍を損耗させ、後に続く正規軍が高地を奪取する。
だからこそ、適当な命令しか出さなかった。
中隊長達は諦観し、小隊長は何も分からず愚直に進み、兵と共に死ぬ。
……たった一人を除いては。
『こちらD9小隊長、西高地砲台を一つ確保致しました』
突然入った来た通信内容。戦闘団本部に緊張が走る。
「我々は南方面から進軍のはずでは?」
指導将校が戦闘団隊長に問いかけ、慌ててスズメは無線手からマイクをひったくる。
「D9、状況を説明せよ。何故西側砲台に居る?」
『中隊長戦死の時点で、柔軟かつ弾力的な運用というご命令に従い自らの判断で迂回、奇襲をかけた結果確保に至りました。隊長殿すぐに他の部隊に連絡を願いします』
つまりドーラは上官が死んだ時点で他の中隊と小隊を犠牲にして自分達だけ敵の弱いところに奇襲をかけたのだ。
普通なら命令違反の咎に問われるが、スズメの命令が言質になり、上官の死が指揮権の移譲の建前になる。
「隊長殿、後でお話がございます。部隊の再編制含めて」
戦闘団隊長の横で指導将校が囁き、スズメは頭を垂れる。
戦闘団の隊長も再編成されるのだから……。
「良いんですかD9殿?」
騎兵伍長が一発少ないピストルの弾倉を確認する。
「私は死ぬ気はないからな。それにしても綺麗にやったな」
「上官殺しは慣れてますから」
ドーラの労いにもう一人のオオカミは敬礼を返し、中隊長を仕留めた銃を仕舞う。
「D9小隊長、部隊損耗確認。死亡者10名、負傷者5名です」
ネズミの軍曹が固い顔で報告した。
小隊軍曹は全て見ていた、戦乱に隠れての上官暗殺と迂回行動、そして奇襲。
自分の立場としては犬死は避けたかった故に中隊長の「戦死」はありがたいことだし、おかげで生き延びた。
だが上司の思考は何か一線を越えていた。
それは兵にも伝播し、砲台の確保を可能にした。
「よろしい。では友軍が到着次第、上官の指示を受けて次の行動に移る」
ドーラの指示に上官が誰とは含まれない。
あらゆる穴を突いてでも生き残ろうとする何かだけは伝わった。
J3は知らなかった。
ドーラを動かすものの名を。
復讐と言う、いくらでも獣に落ちんとする感情の名を。
だが、そんな行動はやはり目立つものであった。
●伝令
任務を終えたドーラ達に待っていたのは部隊再編制の発令。
そして、とある基地への撤退命令書の移送――伝令であった。
「伝令ですか?」
「そうだ、あちらから無線の返答が無い。直ちに撤退命令を通達するのだ」
新しく着任したクマの部隊長は感情を込めずにドーラの問いに答えた。
「ああ、それとC6騎兵伍長を連れていけ。その方が
安全だ」
「……了解しました」
つまりは懲罰と言う事だろう。
どちらにしても生き残るだけだ。
今はそれだけがD9たる自分を動かすのだから。
森の中をサイドカーが疾走する。
ハンドルを握るのはC6、側車に乗るのはD9。
「地獄が終われば、また地獄か」
不機嫌そうにサイドカーに乗るドーラが毒づく。
「生きるも地獄、死ぬも地獄って奴ですか?」
もう一人のオオカミが軽口を叩く。
目元を覆っているのは官給品ではない別のゴーグルだった。
「……私物か?」
「昔はレーサーでしてね。まあリタイアばかりで完走は無しですが」
たわいもない会話が始まる。
「どうして軍に入った?」
「単純に戦争でレースが無くなったからですよ。なので軍に入って騎兵編入です」
「殺しが得意になったのはそれからか?」
「はい、どうやら自分は壊れてるようです。実際、虫の羽根をもぎ取るような感覚でした少尉殿」
ドーラがやはりなと息を吐いた。
高地攻略時にC6に命令をしたのはあの目が忘れられなかったからだ。
そして呼吸をするようにやり遂げて、鼻歌交じりに帰って来た。
上官殺しでHNN送りになったと知ったのは後からだった。
「さて隊長殿どうしますか?」
今度は伍長が問いかける。
「何をだ?」
「このまま突き進むかってことですよ?」
「私に逃げろと?」
「このままだと犬死……いや、狼死ですね」
「……」
脱走。
その選択肢は無かった。
いや、選べなかった。
「それだとやるべきことが出来なくなる。私は――」
答え終る前にサイドカーが加速し、遅れて銃弾の雨が降って来た。
「待ち伏せか!?」
「いや、哨戒です、突っ切ります!!」
ドーラの言葉に伍長が叫びアクセルを捻る。
側車が揺れる中、D9は突撃銃を構えて引鉄を引く。
弾倉一つ打ち尽くした末、二人は敵の攻撃を掻い潜ってさらに走った。
「隊長殿……敵の中に機関銃手と
対戦車兵が居ました」
「歩兵部隊による威力偵察か」
伍長の言葉にドーラの顔が歪む。
完全充足の歩兵部隊が哨戒しているということは――
「つまり基地は全滅してますね」
もう少しで目的地が見えるところでC6がターンを切り、ドーラは振り落とされる。
「何をする!?」
「隊長、生きてください。前の部隊のみんなもそれを望んでます」
草地がクッションになったのだろう、尻をしたたかに打ち付けられる程度に済んだオオカミの言葉にもう一人のオオカミが告げる。
「ならば、お前も……」
「逃げるには囮が必要です。それに自分……俺はまだやってないんですよ。完走ってやつを」
それは嘘と本音が入り混じったちっぽけなアニマリズムと言う何か。
伍長に反論しようとドーラが立ちあがらんとすれば、痛みがそれを許さない。
「隊長、アンタのゴールは何処だ?」
問いかけ、そして置かれる水と食料。
「俺は駄目です。兵隊稼業は苦手ですしレースがしたい。だからここがゴールです」
「よせ!? C6!!」
オオカミの叫び声虚しく、マフラーからの排気音だけが森に響いた。
サイドカーが一台走る。
既に占領された基地へと。
敵兵がそれに気づき銃を構え発砲する。
鉛が身体に穴を穿つ。
だがオオカミの手はスロットルから離れない。
銃弾と硝煙の中を突き抜けた時。
「……ゴール」
C6の手が離れ、手首に絡みつけていたワイヤーが側車につめ込んだ手榴弾を引っ張り、ピンを抜いた。
遠くより爆発音が響き渡る。
D9……いやドーラ・ラングナーゼがようやく立ち上がった時には見えるのは爆発が作る火柱のみ。
ふと炎に照らされて光るものが見えた。
さっきの攻撃か何かで割れていたのだろう。騎兵伍長のゴーグル、そのレンズの破片だった。
「……分かった、お前ら」
破片を拾い握りしめる。
握った拳から赤いものが流れ、大地に吸い込まれた。
「私は必ず生きる――そして、お前らの分も成し遂げる」
流れたものは何かは分からない。だが残ったものに何かが積み重なったのは確かだった。
「――復讐を」
それは古い語られざる物語。
成功
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