紫煙群塔ラッドシティ・とある酒場にて。
「急に時間取ってもらって、悪いね」
クロノス大祭の残り物、ということで叩き売られていた葡萄のソーダを傾けて、エルシェ・ノンは言った。テーブルの向かいには、もう随分と付き合いも長くなった年下の情報屋仲間が二人並んで、手土産のオランジェットとガトーショコラを頬張っている。
口の周りにココアの粉をつけたまま、フレデリカは満面の笑顔で応じた。
「ぜんぜんれふ! こーんなおいひいちょこれーとをいただけるなら、大歓迎れふ!!」
「口に物を入れたまま喋るのは行儀が悪いでござるよ……しかし、これがすべてエルシェ殿のお手製とは、器用なものにござるなあ」
嗜める言葉の割には自らもきらきらと瞳を輝かせて、コゲンタはしっかり煮詰めて半透明になったオレンジピールを酒場の灯りに翳し、そしてぱくりと口に含む。美味、としみじみ口にして、少年は続けた。
「しかし、わざわざお越しいただいたところ申し訳ないでござる」
「うん? 何が?」
「ロズヴィータ殿へ御用だったのでござろう?」
昨夜飲み過ぎて潰れているのでござるよ、と、隣人のプライベートをさらりと暴露して、コゲンタはオランジェットを呑み下す。想像に易い悪友の日常に相変わらずだなあと苦笑して、エルシェは言った。
「いやいや、今日は二人に用があって来たんだよ」
「ふえ?」
栗鼠のように頬を膨らせたまま、フレデリカは惚けた声を上げた。何しろエルシェからすれば、そのためのオランジェットとガトーショコラだ。春色の瞳を微笑ましげに細めて、男は言った。
「この前は心配かけちゃったから、そのお詫びっていうのもあるんだけど。ちょっと頼みがあって――」
「お任せください! エルシェさんのお願いなら、わたしたち、なんでも聞いちゃいますよ! ね、コゲンタさん!」
「内容も聞かずに即答するのはいかがなものかと思うでござるが……しかし、できる限りのことはとは、拙者も」
して、どのような?
少年が首を傾けると、その足元で蒼白く光る犬が一緒になって首を傾げる。その可愛らしさに堪らなく頬を緩めながら、実は、とエルシェは切り出した。
◇
馴染みの酒場を出てすぐ裏手に、誰が置いていったのかも分からないガラクタまみれの広場がある。普段は子どもたちの遊び場になっているようだが、年の瀬も迫るこの寒さのせいだろうか、今日は先客の姿もない。その中心に立って紺色の頭巾を被り直し、コゲンタは小刀を握り締めた。
「本当にこのようなことで宜しいのでござるか?」
「勿論、そのために来たんだから。宜しく頼むよ、先生」
ぱちりと悪戯に片目を瞑って、エルシェは腰に差した一振りの剣を抜き放った。特に因縁があるわけでもない、ただどことなく心を惹かれて買い求めた長剣の柄には、青い薔薇の細かな装飾が施されている。
「お二人とも、がんばってくださーい!」
ドラム缶の上に忍犬を抱いて座り、フレデリカが声を張る。ガラクタの山の底で向かい合う二人の間には、静かな緊張感が横たわっていた。
(「
星霊のことを信じないわけじゃないけどさ」)
先の戦いでも身につまされた。自分はこれまで戦いの多くを彼らの力に頼ってきたが、今後、自らの手で剣を振るわねばならない時が来ないとは限らない。と、いうよりも――その手で摘み取らねばならないものがあることを、今のエルシェは知っている。この期に及んで剣を修めたいと思ったきっかけはもはや定かでないが、何気なく覗いた武器屋の店先でこの剣を手に取ったのも、まったく偶然というわけではないのだろう。
細身の剣を見つめる男の眼差しはその胸中のただならぬ想いを如実に表している。けれども敢えて言及はせずに、コゲンタは問うた。
「ところでエルシェ殿、剣のご経験は?」
「うーん、昔色々叩きこまれたから基本はそれなりに? でも、実戦では短剣しか使ったことがないんだよね」
「ふむ。拙者でどこまでお役に立てるかは分からぬでござるが……では、どこからでも」
参られよと静かに告げて、若い忍びは腰を低く身構える。まずは打ち込んでみろということと理解して、エルシェは剣を右手に持ち替えた。そして一つ深呼吸をして――踏み込む。
「はっ」
短く鋭い息を吐き、まずは体側を目掛けて斬りかかる。ギンと重たげな金属音が鳴り、剣の腹と小刀の腹が擦れ合って火花を生んだ。なるほど、と頷いて、コゲンタは呟く。
「剣のいろはは身についておられる、とお見受けする。なれば、拙者からも……!」
刀身を押し返していた抵抗が、ふつりと消えた。かと思うと、地面を這うように走り抜けたコゲンタが背後で反転する気配がする。
(「さすがに速い
……!」)
小柄な少年を相手に力で押し負けることはあるまいが、その速度に身体がついていかない。辛うじて上体を捻り掲げた剣で小刀の切っ先を受け止めて、エルシェは力の限りに押し返す。磁石の反発し合うように互いに後ろへ距離を取り合って、やっと息ができるような心地がした。
「ふう……手合わせって分かっててもドキドキするね。やっぱり、素振りするのとはわけが違うなあ」
「こればかりは場数でござろうな。拙者で宜しければ幾らでもお付き合いいたすでござるよ――では、今一度」
来る、と思った時にはもう、少年の姿は目の前にまで迫っていた。反射的に切り上げた剣先で小刀を弾けば、お見事、と率直な賞賛が返る。間を置かず飛来する手裏剣を一つ、二つと叩き返すと、子どもの頃に覚えた確かな感触が少しずつ蘇ってくるようだ。
「ずっと見てると目が回っちゃいそうです。ねえ、ちゃっぴぃさん!」
「わう?」
縦横無尽に広場を駆ける二人の姿を右へ左へ忙しなく追いかけて、フレデリカは膝上の忍犬に目を落とす。がんばれー、と呑気に呼び掛ける少女の声を背に聞きながら、エルシェは確かな手応えを感じていた。
(「剣を教えて貰ったんだ、なんて言ったら」)
彼は、一体どんな顔をするだろうか。
眼鏡の奥で驚く瞳が目に見えるような気がして、男は誰にともなく微笑した。この分ならいずれ連れ合いに並んで剣を振うことも、夢物語ではないかもしれない。
成功
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