扉を前にして息を吐いた。
おやすみなさいの挨拶はとうに済ませている。夜分遅くの訪問は、既に眠っている彼女を起こすかもしれない――はやる気持ちに従い、一室のドアをノックする直前で、花房・英(サイボーグのグールドライバー・f18794)は一度動きを止めた。
「英?」
その手が動くより早く、太宰・寿(パステルペインター・f18704)の眠たげな声が聞こえる。
英の予想通り眠っていたのか、それとも今にも眠るところだったのかは分からない。逡巡するように視線を落とした青年の内心を感じ取ったか、内側の柔らかな声は扉を開くよう促した。
ゆっくりと開いたドアの先で、寿は不思議そうに首を傾いでいる。
きょとんと目を丸くしている無防備な表情は、英が今しがた脳裡に思い浮かべたのと寸分違わぬ色をしていた。あまりにも予想通りの反応に思わず笑みが零れた。
思わず。
そういうことが、思えば随分と増えたような気がする。そういうときに唇が強ばることも少なくなった。以前であれば自棄に似た感情で振り払ったそれが、今は悪くないと思えるのは、目の前でつられて笑う寿が、心底嬉しそうな顔をするからだ。
「どうしたの?」
「何も。ただ顔が見たくなっただけ」
言いながら歩を進めた
女性の部屋の気配に、不意に青年は決まり悪く足踏みした。思えばいつも顔を合わせるのはリビングやダイニングである。互いの部屋を行き来したことはほとんどない。途端に落ち着かなくなる内心を隠しながら、みるみるうちに色を変える女の表情を見た。
心配なのだろう。
そんな風に照れ臭いことは滅多に言わない。まして離れて暮らす恋人同士ならいざ知らず、明日の朝になれば再び顔を合わせるのだ。
「とにかく、おいで」
そういうとき、寿の言葉は年長者めく。クッションに座った英をちらりと見遣った彼女は、そのまま暫し、沈黙した彼の無表情を盗み見ていた。
英は表情豊かになった。ぶっきらぼうながら素直な言葉を伝えてくれる。心を吐露出来ないときには、その口下手を行動が補ってくれる。ならば融解した心が、今この瞬間に寿に示しているのは――。
ゆっくりと近付く。嘗て簡単に抱きしめられたはずの体は大きくなって、腕に閉じ込めることすら困難になった。それでも腕を背に回すことが出来るなら、いつもそうしたように優しく叩いてやることは出来る。
おやすみなさいを告げたとき、彼の異変に気付くことは出来なかった。英の心に不安が付け入る理由は、寿にさえ分からないときもあるのだ。
無口で無表情でぶっきらぼうな彼は、その不器用さの下にひどく繊細な心を抱えていると知っていても――。
幼い彼が味わってきた地獄は、詳細を知らぬ寿にすらそう理解出来るほど、悍ましいものだったから。
深く打ちのめされた心は簡単に傷口を開いてしまう。一度植え付けられた悲しみを忘れることは出来ないのだ。鮮烈な痛みから守るように、彼女の柔らかな手は優しく英を抱き締め続けた。
本当は。
嫌なことを思い出したのかと問えるならば、その方が良かったのかもしれない。だが既にひどく抉られてしまったのだろう心に自らナイフを突き立てるようなことはさせたくない。それでももし、喉を塞ぐ鉛のような苦しみを抱えているなら、せめて傍に温もりのあることを伝えていたかった。
柔らかな掌が、まるで子供にそうするように一定のリズムで背を叩くのに身を委ねて、英は曖昧な笑みを零した。
下手な言い訳に聞こえただろう。
下手な言い訳を提げて寝室を訪れた恋人であり相棒であり家族のようなものでもある彼を、彼女はいたく心配しているのだろう。己の知らないところで何かを抱えていやしないか。古傷がもたらす痛みに呑み込まれていやしないか。
そういうものが苛む日がないとは言わない。だが彼の心は、愛しい温度に包まれて、とうに前を向いている。明確に言葉にすることが難しい変遷を伝えきれていないから、こうして寿が心配してくれるのは、英も知っていた。
知っていて付け入るような行動に罪悪感を覚えないわけではない。それでも、そうして真っすぐに向けられる気遣いによって生まれる安堵と喜びが、彼の心にひとひらの幸福を齎すのも事実だ。
あてら中毒のようだ。この幸いをくれる小さな体を、手放すことなど出来ない。
だから。
「あのさ、寿」
優しく抱き締め返しながら、青年は柔らかな声を耳元に零す。
「両親の墓、場所知ってるんだ」
一見すればほとんど脈絡のない言葉だった。腕の中で身を僅かに強張らせたのは恐らく驚愕と戸惑いのせいだろう。それを裏付けるように息を呑み、ほんの一瞬でも言葉に詰まる寿の表情を脳裡に描きながら、英は慎重に唇を開いた。
このまま黙っていても、彼女はきっと言葉を引き取ってくれる。彼の求める通りの優しい声で、優しい言葉をくれるのだろう。今までにもそうやって、自分の不器用な口下手を救ってくれる温度に甘えたことが多くある。
だが今は。
ミモザの色を纏う眼差しがこちらを見詰めて首を傾げる前に、英が誘いを口にしたい。一人では行く意味も見出せない薄情者かもしれない
息子も、愛しい人と手を繋いで墓前に手を合わせるのは悪くないと思えるのだ。
「だから、一緒に行ってくれる?」
「いいの?」
思わずといった風に身じろぎをする寿を解放すれば、呆気にとられたような表情が視界を埋めた。期待と不安の揺らめく双眸さえも愛おしい。青年は思わず目を細めて頷いた。
「寿と一緒がいい」
告げられた寿の薄い色をした眸が、いたく嬉しそうに弧を描いた。
迷いなく首を縦に振る。頬に差した赤みが、心拍の高鳴りを如実に映しとっていた。
「うん。私も行きたい」
墓前で報告したいことが沢山ある。
彼らが見られなかった成長を、彼女はずっと見守って来た。容易には癒えぬ傷を負いながらも大きくなった英の姿を見せたい。出来ることなら思い出も語って聞かせたい。
それから。
寿が、これからもずっと隣にいることも。
――少し頼りないかもしれないが。
確たる首肯を返した女に唇を緩めた青年は、先よりも早くなった鼓動を知られぬように、一度乾いた唇を舐めた。
「それと――なんだけど」
本題はこちらだ。感慨すらもさして抱けない、単なる遠い事実としてしか受け止められない実の両親のことよりも、英にはもっと伝えたいことがある。小さく息を吸ってから、吐き出す。
「寿の両親にも、会いたい」
――もっと突っかかるかと思っていた。
英が身構えるよりずっと自然に零れた一世一代の決心は、それでも掠れを孕んだ。
まだ迂遠なその言葉さえ、どうにも格好がつかない己に呆れるような気がしたのも一瞬だ。
零れ落ちんばかりに瞠目した寿の双眸が、漸う頷くのを見た。
「――うん」
どうしてなのか。
問いたい思いが不安じみた戒めに絡まって縺れて、寿がそれ以上の言葉を発することはなかった。ただ開閉する唇をじっと見詰めたまま、英は彼女の声なき問いに応じるように、一度咳払いをする。
「俺さ」
「うん」
「寿のそばにいること、寿の家族にも認めてほしい」
「うん」
「これから先もずっと寿と一緒にいたい」
「うん――」
大きな眸が徐々に歪んでいくのがありありと見える。すっかり涙声になってしまった彼女の目を彩る、今にも零れ落ちんばかりの水滴に映る英は、穏やかな顔をしていた。
「姉と弟じゃない
家族を、寿と一緒に知りたいんだ」
――それがすぐの話じゃないとしても。
堰を切ったように、女の双眸が涙を零した。何度も頷きながらしゃくりあげる背を再び抱き締めて、今度は英が優しく背中を叩く。いつもそうしてくれる、彼が唯一知る身近な温もりを真似るような仕草は、しかし動揺や不安を孕んではいなかった。
彼女の涙を見たいわけではない。
けれどそれが幸福の果てに零れ落ちる暖かなものであるなら、話は別だ。
「驚かせてごめん」
――そんなことない。
嬉しい。幸せ。そうだといいって思ってた。言いたいことが濁流のように押し寄せて、寿の喉が詰まった。代わりに広い胸板に頭を擦り付けるように首を横に振る。
彼のことを信用していなかったわけではない。ただ彼より少し世をよく知っている己の期待ばかりが先走って、ひたむきで純粋な心を縛る余計な鎖になるのが嫌だった。けれど。
彼が同じように思ってくれるなら、そんなに幸せなことはない。
これからもずっと幸福を分かち合いたい。二人で寄り添っている限り、彼の心に再び痛みの帳がかかることがないようにしたい。
英に幸せだと思っていてほしい。
これからも、ずっと。
すっかり泣き声に変わってしまった寿の体を抱き締めたまま、英は目を伏せた。己の不器用と口下手は自覚しているが、だからこそ、本当はもっと上手い言葉を用意するべきだったようにも思う。そうすれば泣かせることもなかったのかもしれないが――。
今は、その涙すらも愛おしい。
盛夏の日差しが陰り、北風が運ぶ温度が凍てつく冬に傾く。秋は喪失の季節だった。
それも今日で終わるだろう。腕の中の温度が背を抱き締め返してくれる限り、英が木枯らしに独り晒されることは二度とない。
これから幾度となく迎える秋には、きっとこの日を思い出す。冷たい真実だけを記した書類を
抽斗の奥に仕舞って、代わりに暖かな掌を繋いで笑いあうのだ。
穏やかで優しい、ミモザの香りのように。
成功
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