ふたり、増やしゆく色彩
夕陽色に染まりゆく海の景色。
砂浜に伸びゆく己の影を見ながら、キリジ・グッドウィン(f31149)は、白く柔い其処へと足跡を残し往く。
「メルメっち……もう終わってっかな」
ぽつり、そう零しながら、常よりも幾分ゆっくりとした足取りは、これから向かう先、会いに往く相手の都合を慮ってのこと。そんな気遣いを自分が向けていることも、どこか不思議な心地でありながら、自然とそう振舞う自分も、何故か悪くないように思えていた。一歩、一歩、砂を踏みしめ往く先に、橙色を帯びた世界に立つ人影を見つけ、足を止める。
視線の先には、淡い桃色の髪を揺らし、今日このビーチにて、菓子を売っていたらしい出店の片づけをしている、メルメッテ・アインクラング(f29929)の姿。最後の片づけを終えたのだろうか、出店のカウンターへと布を被せた彼女の向けた瞳が、キリジの視線と交わった。
「キリジ様、いらしていたのですね」
ぱちりとひとつ瞬いた後、いつものように穏やかな微笑み浮かべ告げる彼女へと、ひらり手を振り近寄るキリジの装いは、常と変わらぬ洋装で。海の景にあって尚、己の知る彼らしい、とメルメッテは目を細めた。最後に一度、店の状態を一瞥した後、彼の元へとゆっくりと歩み寄る。
「キリジ様、少し、歩きませんか? このあたり、海の景色が綺麗でしたので」
常と同じ笑みのまま問う彼女へと、頷き返すキリジの様に、喜び滲ませた笑みを深めてメルメッテは彼の少し先を歩き手招いた。
夕刻のビーチは人影もまばらで、刻々と朱を帯び往く景は、昼間の目の覚めるような青に満つ景色とはまた異なり、どこか心に染み入るような眩さを湛えている。静かに、けれども確かに耳に入る、漣と砂を往くふたりの足音。ふたりが常を過ごすクロムキャバリアに戻れば、きっと見ることのできない、この夏の景色。
夕陽を受けて鮮やかさを増したキリジの茶瞳は、隔てるものの無い水平線を見つめていて。記憶にまで焼け付くようなこの景を、裡に刻む。
――今度、描いてみるか。
記憶の中のみにとどまらず、彼女と共に歩み見たこの景を描き残してみようかと、夕に燃える海を見つめるキリジを、メルメッテもまた、見つめていた。
――夕陽、浜辺、海……そして、キリジ様。
彼と共に、この地で過ごす貴重な夏のひとときを。今日という日の『この景色』を、一瞬も逃さず記憶に残しておきたくて。メルメッテの瞳はキリジの姿を映し続けている。そんな彼が、ふと。赤に染まる海を見つめたまま、歩みを止めた。思案するように、一拍、二拍、静かな間を置いた後、キリジが徐に口を開いた。
「透明なものに色が入っていくことは、それはメルメっちにとって本当に良い事なのか?」
その一言を音に乗せる前、彼の脳裏に過っていたのは、彼女といつか交わした言の葉……そう、あの日のこと。
彼女は言った。この自分が、透明な私に色を教えてくれるのだ、と。それは、例えば、彼女が綺麗な水なのだとしたならば。自分が介入し続ける事は、それを濁らせる事になるのではないか。絵筆を浸した水が透明度を失っていくように、色を変えていく。それは、あゝそれは――
問いかけるキリジの言葉に、その視線に、メルメッテは真っ直ぐとした視線を向けていた。彼の伝えんとするものを、取りこぼすことの無いように。そうして、一つの解釈に至ったのは。『彼には、自分と交流を続けるうちに、何らかの悪影響を及ぼすのではないかとの懸念がある』という事だった。その解釈を、彼の紡いだ言葉を胸に抱き、メルメッテは海を見つめる。寄せては返す海を見つめながら、内なる想いを反芻する。
「……『キリジ様の考えるメル』と『実際のメル』がどう感じるかは、別ではございませんか?」
暫しの後、彼女のそう紡ぎゆく詞には、しかとした意思が宿っていた。感情を微笑みに秘した、主様の『メイド』としてでなく、ひとりの『メルメッテ』としての想いと言の葉。
――そう、私は、メルは、どう感じているのか。それを、キリジ様に伝えたい。
願う儘、望む儘、己に満ちる透明へ、心の奥底へと静かに潜り、探しゆく。そう、彼と共に見つめる目の前の、深き海の底へと潜るかのよに。求めて、探して、手を伸ばして……そうして、見つけ、触れられた答えは――
メルメッテが透明な心に潜る間、キリジもまた、彼女の答えを待ちながら、自身の心と向き合っていた。心。そう、今までの自分は、他者の内心なんて知るものかと生きてきた。自分自身のことでさえ、痛みにも感情にも鈍いのだ。けれど、目の前の彼女は……メルメッテは、手間を厭わず考えて、伝えてくる。心を、想いを。そんな彼女との時間は、そう……『悪くない』。
――いや、『心地良い』……?
まさか、と軽く首を振る。知らずと伸ばした手が己が胸に触れ、けれどもそこに答えは、言葉は、まだ見つからなかった。ただ、ただ……言葉にならない、けれどもどこかあたたかい何かが、そして、それに戸惑うように波打つ感覚が、この裡に宿って、いる……ように、感じただけ。探れど詞の返らぬ己の裡より先に、すぐ傍から声が届く。己の知る誰よりも真直ぐに、心を伝えようとする、彼女の聲が。
「……キリジ様がメルに下さった色、溶けているんだと思っていました」
そう、メルメッテ自身も、そう思っていた……つい、先ほどまで。けれども、そうではなかったことに、深く、深く、潜って気付いたのだ。彼の与えてくれた色は、確かにこの裡に、自分の心に刻まれている。けれど。
「けれども、そうではなく。きらきらした欠片となって、奥底に残っていると気付いたのです」
――光を透かして輝く、色の塊。
其れは宛ら、透明な水底にきらりと煌めく輝石の如く。その色は水に透かし、映し、彩り。『透明』を鮮やかにさせながら、それでいて、水の本質を変えることの無い、美しくて手を伸ばしたくなる、たからもの。透明の水が、だいじに、だいじに、その奥底で抱え、抱いていたくなるような。
「ですから、大丈夫です。この先もずっと」
ふわりと、柔らかに笑んで告げるメルメッテの言の葉は、その表情と同じくらいに柔らかく、けれども、揺らがぬ凛とした響きをもはらんでいた。それは、とても、とても、目の前の彼女らしくて。『メルメッテ』の、詞で。それが、何よりも、何よりも、キリジの裡へと響いた。
「なら、いい」
思わず息を呑んだその直後、キリジが紡ぎだしたのは、その一言。けれどもその一言がまた、メルメッテにも、しかと響いて届く。言葉短くも彼の今を伝えてくれる、それが自分にはとても嬉しく思えるから。
あゝだからこそ、願うのだ。伝えるのだ。
「メルの心、分からなくなったら聞いて下さい。メルにできる限り、いっぱい言葉にしてみます」
「それで、メルメっちが今後困らないならな」
何処までも真っすぐなメルメッテの言葉に、眼差しに、軽く頭を搔いたキリジの視線が僅か海へと逸らされる。心の奥底に灯る、あたたかさと擽った差の正体は、まだ掴めない。
己から逸れた視線を追いかけて、彼の頭搔く手を目に留めたメルメッテが、あ、と小さな声を零す。その声に再び視線が自分に戻れば、彼女はそうっとキリジへと手を差し伸べて。
「失礼致します、キリジ様。片手を出して頂けますか?」
穏やかに、そう願われて。ひとつ瞬いたキリジは、彼女の願う言葉のまま、生身である己の右手を差し出し、彼女の柔いてのひらに重ねゆく。合わさるふたつのてのひら。触れゆく其処から自身とは異なる彼女の体温を感じれば、また、どこか、心の奥が擽ったいように思えた。
「単純な身体の大きさだって異なるのですもの。違っていて悪いことなんてありません」
重なるふたりの手を見つめながら、メルメッテはそう紡ぐ。彼の手は自分よりもずっと大きくて、ともすれば、すっぽりと収まってしまいそうでもあって。そんな差異が、なんだか楽しくて。手を触れ合わせたまま、メルメッテの笑みが咲き零れる。
――ただの手だぞ、何が面白いんだか。
楽し気に笑むメルメッテの様に、いつもの調子で紡がれたキリジの言葉。けれども、その響きには、いつもよりもあたたかな温度が乗っている様に思えて。互いの手に向けられていたメルメッテの視線がキリジに向く。その瞬間。
――……あ。
ふ、と。彼の笑む顔が、メルメッテの水面めく青に映る。それは、今までの彼のどの表情よりも鮮明に、メルメッテの裡へと刻まれて。
とくん。
微かに、けれども確かに。胸の跳ねる音がした。思わず伸ばしたてのひらで胸に触れ、初めてのその感覚に、驚きと戸惑いを覚えながら、密かその理由探ってみるけれど……今の自分には、わからない。
――心臓が跳ねる、様な。今の感覚は何でしょう?
大きく跳ねたのは、いちど。けれども、今もまだ、いつもよりも早い心音が聞こえているような気がした。とくり、とくり、裡に響くその音を、漣に重ねて聞きながら、メルメッテはキリジを見つめる。先ほどの笑みはもう無くて、けれども、己に様々な色を……たからものを見せ、贈ってくれる、いつもの彼が、其処に居る。
「キリジ様」
「……ん?」
「いえ、あ、ほら。空のいろがまた、変わります」
――貴方様ともっと一緒に過ごせたら、この答えも見つかるのでしょうか。
そう、問いかけるよな言の葉は、裡に秘め。色混ざる空と海を、そしてそこに並び立つ彼を瞳に映す。心に、抱く。朱に染まる夕暮れも、宵とのはざまのこの空も、そうして先ほどの彼の笑みも。ふたり過ごしたこの夏の、何一つ、零すことの無いように。透明な水で包むたからものとして。
ざざん、ざざ。
漣の音がふたりを包む。沈みゆく陽が、ふたり並び往く様を、長い、長い影法師として砂浜に描く。この夏の日を、このときを、長く、長く、刻み付けるよに。
成功
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