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そこは、切り立った崖の先端だった。
まるで2時間ドラマのクライマックスにでも出てきそうな見事な崖だ。
とはいえそこには、追い詰められた犯人の姿も、事件を追う刑事の姿もない。
あるのは探偵……いや、年若い騎士が一人立っているのみである。
黒き瞳に映るのは、彼方まで広がる青と白の世界。
山吹・慧(人間の玄武拳士・f35371)はその双眸を穏やかに細めると、躊躇なく大地を蹴って崖下へと身を躍らせた。
強風が黒い髪を、黒いマフラーを激しく靡かせる。
崖下には何もない。
打ち寄せる荒波も、凪いだ水面もありはしなかった。
あるのは空であり、ブルーアルカディアの雄大なる雲海であった。
広げた腕に大気を掴めば、腹の底から湧き上がる高揚感。
日の光を浴びた髪は次第に赤みを帯び、瞳も琥珀色へと染まってゆく。
纏う衣もまた真白へと転じ、その背には淡く光を帯びた……一対の翼が現れていた。
まるで天使のような、純白の羽で大空を抱く。
真の姿を晒したその身は、自由落下という物理法則をも捻じ曲げて、力強く舞い上がった。
その先に広がるのは、どこまでも続く冒険の空!!
「……フフフ、成程これは悪くない」
慧の口元に、誰に向けるでもなく笑みが零れた。
偶には羽でも伸ばして来いと、そう言ったのは騎士団の誰であったか。
半ば強引に取らされた休暇であったのだけれども、思っていた以上に楽しんでいる自分がいる。
文字通りに伸ばした羽の先に感じるのは、ブルーアルカディアという一つの『世界』であった。
雲を縫い、風に乗り、羽ばたき一つで天高く翔け昇る。
時に疾風の如く駆け抜けて、時に木の葉の様にゆらゆらと舞う。
縛るものなど何もない、ただ心の赴くままに、自由気ままな空の旅へ。
慧は猟兵だ。これまでも多くの戦場を渡り、幾つもの空を駆けてきた。
しかし他のどの空よりも、この世界の空を心地よく感じている。
真の姿を晒せば猶の事、己の中の何かが解き放たれる、そんな気がした。
このままどこまでも、どこまでも飛んでゆけそうで。
……フフ、フフフフフ、フフフフフフフ!
――ゴンッ!!
「痛いっ!」
何かにぶつかった。強い衝撃に呻き声が出る。
痛む頭を押さえながらも振り向けば、小さな浮島がそこにあった。
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「……やれやれ、夢中になり過ぎるのも考えものか」
猟兵の体はそれなりに頑丈である、大岩にちょっとやそっとぶつけたところで、大した怪我にもなりはしない。
それでも痛いものはやっぱり痛いのだ。ちょっとだけ涙目になりながら、空の小島へと腰を下ろす。
誰もいない、草木に覆われた小さな島。
そこから見下ろす空の景色は、降り注ぐ日の光を浴びて輝いていた。
綺麗だと思う。美しいと思う。
そしてどこか懐かしくも感じるのだ。
この世界を知ってから、まだ2年も経っていないというのに。
慧はこの世界の住人ではない。生まれも育ちもシルバーレインだ。
銀の雨降る大地に生まれ、銀誓館学園の能力者として戦いに身を投じてきた。
今もまた大切な人の力となるべく、欧州人狼騎士団に所属している。
この世界へ来たのは猟兵として覚醒してから、世界を渡る力を得てから後の事であった。
そうだ、それまではこんな空の世界があるなんて、全く思いもしていなかったのに。
頬を撫でる柔らかな風に、そっと目を閉じる。
瞼の裏に感じるのは、温かな日の光。
渡り鳥だろうか、遠くに鳥の鳴く声がした。
深く息を吸い込めば、かすかに甘い香りがする。
改めて足元に目を向ければ、小さな花が凛と咲いていた。
焼け落ちた木の枝、崩れた岩肌、戦いの痕跡もまたそこかしこに見える。
アルカディア争奪戦では、ここも戦場になっていたのだろうか。
あの時は慧もまた仲間と共に戦った。勝利を収め、カタストロフを防いだのは猟兵側だ。
しかしまだ、この世界のオブリビオン・フォーミュラを倒したという訳ではない。
眼下に広がる雲海の下には、今も屍人帝国があり、多くのオブリビオン達が命あるものへの襲撃の機会を狙っている。
それは慧にとっても、決して見過ごせるものではなかった。
自分のあるべき世界はここではないけれど、それでも。
「……この空の為に戦おう」
両の翼を空へと広げる。
胸に刻んだ決意と共に、慧は再び大空へと飛び立った。
成功
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