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ブライト・ブルー・リフレクション

#エンドブレイカー! #ノベル #猟兵達の夏休み2023

ディフ・クライン



ヴァルダ・イシルドゥア




 白昼の眩しさに細めた瞳を、見渡す限りの海と空が染めていた。一面の白い砂浜は照りつける太陽の光に灼けて、火傷しそうなほどの熱を帯びている。漣に耳を傾けてふと振り返った先、背にした荒野の向こう側に突き立つ巨大な戦斧は、戦神海峡アクスヘイムの象徴だ――そしてその外周よりそう遠くない辺境の浜辺に、ディフ・クラインは立っている。
(「……遅い、な」)
 来し方をちらり振り返り、いやいやと緩く首を振る。着替えてきますと言って別れた可愛い恋人はまだ戻らないが、女性の身支度にはそれなりの時間が掛かるものだ。そんなことは敢えて振り返らずとも分かっていように、我ながら余裕がないことだと思う。
(「もう一年になるのか」)
 月日が経つのは早いものだ。去年の今頃は恋人などと呼べるような関係ではなかったから、そういう意味では今年が二人にとって初めての夏になる。だからそれを特別なものにしたくて、『海へ行こう』と彼女を誘った。指折り数えて今日の日を待つ彼女の姿は眩しくて、微笑ましくて、何より嬉しかったけれど――この日を楽しみにしていたのは勿論、彼女だけではなくて。
「……変、ではなかったかな」
 誰にともなく呟いて、ディフは陽彩の輝石を飾った帽子を直した。海に行く、となれば必然的に水着をどうするかという話になるわけだが、胸に埋め込まれた自身のコアを晒すのにはどうも抵抗があった。光を吸い込む黒い上着の肌触りはさらりとして、見た目よりもずっと過ごしやすいのだが、見目にも暑苦しくはないだろうか? ……などと、要らぬ心配事が次から次へと湧いて出る。
(「いや、大丈夫……の、はずだ。……きっと」)
 彼女に『カッコいい』と思われたい、なんて子どもじみた理由で、馴染みの仕立て屋に恥を忍んで助言まで求めたのだ。ここは、店主の見立てを信じよう。帽子の端から落ちる蒼金のタッセルを手持無沙汰に弄りながら、深呼吸一つ、そわそわと浮き立つ心を静めていると。
「お、おまたせ、しました」
「あぁ、ヴァル、ダ……」
 潮騒に紛れてしまいそうなほどの、細く頼りない声がした。けれど聞き違えるわけもなく、ディフはその主を呼び、そしてはっと息を詰める。体温を持たないはずの胸の核が、大きく脈動したような気がした――見つめる視線の先には、水着に身を包んだヴァルダ・イシルドゥアの姿があった。
 真っ先に目を引いたのは、甘い金髪を飾ったレモンスライスの髪飾りだ。ソーダ水の泡に似せたスパンコールが煌くワンピースは目にも鮮やかなハニーレモンで、透かし織りのショールのライムのような緑色と相まって清涼な印象を与える。そして、日頃から折れそうなほどに繊細な娘だと思ってはいたけれども――まろやかな曲線を描く肩が、ひどく華奢で、そして白い。
「ええ、と……」
 そろりと視線を彷徨わせて、ヴァルダはわずかに俯いた。普段は敢えて素肌を晒すことの少ない二人だけに、いざこうして薄着で向かい合ってみると、急に相手が異性であることを意識してしまう。何かを抑え込むようにぎゅっと水着の胸を掻き、やっとのことで娘は言った。
「びっくり、しました。その…………すごく、格好良くて……」
「いや……オレも、ビックリした。その水着……」
「! へ、変、でしょうか……!?」
 ぴゃっと今にも泣き出しそうな顔をして、ヴァルダは長い耳を下げる。とんでもないと慌てて否定すると、ディフは続けた。
「違うよ、そうじゃなくて。……貴女が、あんまり可愛いから……」
「…………」
 ややあって、お互いにほとんど同じ言葉を返したのだと理解すれば、じわじわと顔が熱くなる。ごめん、と何故か謝って、青年は片手で端正な顔を覆った。禁欲的でお洒落や贅沢とは縁遠かった彼女が、どんな想いでこの水着を選んだのか――そう考えると、嬉しいような、こそばゆいような、まるで悪いことをしているかのような厄介な感覚に陥る。だから、髪に飾ったレモンを見て、『オレの好きなものを纏ってくれているんだよね』、なんて、普段の自分ならするりと出てくるはずの言葉も紡げない。もしこの胸が鼓動するのなら、きっと彼女にも聞こえてしまっていたことだろう。
 変ではない、と分かって安心したのだろうか。動揺収まらぬディフとは対照的に、ヴァルダはいくらか緊張が解けた様子でほっと短い息をついた。白い頬は薔薇色に染めたまま戻りそうにはないけれど、その口許はほのかな笑みを描いている。熱を冷ますように両頬に手を添えて、娘ははにかみ混じりに言った。
「頑張ってみて、よかった」
 なけなしの勇気で背伸びをして、ああでもない、こうでもないと悩みながら水着を選んだのも、すべては彼のその一言のためだったと言っても過言ではあるまい。彼が『可愛い』と言ってくれた――それだけで、幼子のように暦に印をつけてこの日を待ったことへの気恥ずかしさよりも、穏やかな歓喜が胸を満たしていくようだ。
「あ――ディフさんの、爪先」
「うん?」
 ふと視線を落とせば、青年の足の爪先に飾られた宵色が目に入り、ヴァルダは嬉しそうな声を上げた。ふふ、と軽やかに笑み零して小首を傾げれば、日の光を照り返す金色の髪がさらりと揺れる。
「わたしのいろ、みつけてくれたんですね」
「うん。ヴァルダが喜ぶかなって思って」
「はい。…………とっても、嬉しいです」
 はにかみ、そろりと裏返して見せた娘の指先には同じ色の爪紅が載せられている。普段まじないとして爪紅を施すことはあっても、身を飾る手段と考えたことはなかったのだが――互いを映した揃いの宵色を見れば、自然と胸の裡から温かい想いが込み上げてくる。
 恐々と伸ばす手で小指に触れれば、今度はディフが首を傾げる番だった。
「どうかした?」
「えと、その、……手を……」
 つなぎたくて、とはっきりと口にするには、まだ少しばかり勇気が足りない。口ごもった娘に瞳を細めて、ディフは応じた。
「勿論、いいよ」
 たとえ薄布一枚とて、二人の間を隔てるものは必要ない。黒い手袋を敢えて外して、青年は娘のしなやかな指先を掬い上げた。たまには腕を組んでもいいけどね――などと冗談めかして口にしたけれど、実際のところそれが冗談でもないということは、彼が一番よく理解っている。恋は駆け引きというけれど、遠慮がちに絡め返す指と指が触れ合えば、お互いの緊張が余すところなく伝わってくるようだ。
「はは、……ドキドキしすぎて死にそう」
「そんな。ディフさんが死んでしまったら、ヴァルダは泣いてしまいます」
 ツンと唇を尖らせそっぽを向いた娘の横顔は、冗談を返しているようでいて存外に昏い。ごめんね、とつないだ手を握り込んで、ディフは囁くように言った。
「大丈夫。貴女を置いていきやしないよ。ただ――それくらい、貴女が魅力的だってこと」
「…………!」
 揺れる宵色の髪が耳をくすぐるほどの距離で、告げる声音にぼっと顔が熱くなるのが分かった。もう、と語気を強めて、ヴァルダは先端まで真っ赤になった尖り耳を跳ね上げる。その様子が可笑しくて可愛くて、ディフは困ったように眉を下げ、笑った。
(「いいんだよ。貴女は、それで」)
 彼女にとって、我慢とは生きることの一部に過ぎなかった。人々に寄り添うことができなければ、真に救う者足り得ぬと自らに枷を嵌め、『我慢をしている』という自覚もないまま清貧を心掛けた――出逢った頃の彼女は、娯楽を惜しんで人々のために尽くしてばかりで、まるで遊び楽しむという行為に罪悪感を憶えてすらいるかのように思われた。そんな日々を不満に思ったことはないと、彼女はそう云うけれど。
(「でも――オレが、貴女自身の幸せに蓋をしてほしくなかったんだ」)
 だから今こうして、彼女が自分を抑え込むことなく思ったままを口にしてくれることが、純然と嬉しい。どうかしましたか、と訝る声にはなんでもないよと返して、ディフは娘の手を引いていく。絶え間なく耳を打つ波音は心地よく、白いレースのように折り重なる水に爪先を浸せば、足元の砂が攫われていく感触に囚われそうになる。
「ふふ、つめたい」
 焦がさんばかりに照りつける太陽の下にあっても、透き通った蒼い波は冷ややかに火照った身体を冷ましてくれる。それでもなお心がざわめき、落ち着かないのは、夏という季節の掛ける魔法なのか――下がらぬ熱に浮かされて、それこそ波に足元を掬われてしまいそうな心地がする。
 あ、とヴァルダが声を上げたのは、その時のことだった。
「ディフさん、見てください。ちいさいおさかながいますよ」
「魚?」
 腰を屈めて覗き見れば、少し色の深くなった水の中を色とりどりの魚達が泳ぎ回っているのが見えた。森の川辺や泉では目にすることのないその色彩に声を弾ませて、ヴァルダはディフの手を引き寄せる。宝石のような魚達の姿を共有したいと思ったのは、偽りのない本音なのだけれど――。
「……えい!」
「うわっ?」
 ――それはそれとして、湧き立った悪戯心を抑えることができなかった。腰を屈めた青年を不意打ちにぐいと引き寄せれば、視界が揺れ、均衡が崩れて――大きな水飛沫が上がる。受け止めたヴァルダの腕の中、前髪を滑り落ちていく滴を見送りながら、ディフは茫然と口を開いた。
「びっくりした……」
「ふふ、あはは! ゆだんしましたね!」
 つかまえた、と朗らかに声を上げ、ヴァルダはコロコロと楽しげに笑う。けれどもっと、もっと傍に行きたくて――背を抱く腕に力を込めれば、行き場を失くした水がちゃぷりと微かな音を立てる。ディフは目の前の笑顔につられるように口許を和らげると、濡れ髪を掻き上げ、娘の背中に腕を回した。
「ほら。……せっかくだから、おいで」
「えっ? あっ……!」
 よもややり返されるとは、どうやら思っていなかったらしい。ぎくりと跳ねた肩を緩やかに抱き寄せれば、腕の中に閉じ込めた細い身体が硬直する。ちょっと、と咎めるような声で、ヴァルダは青年の名を呼んだ。
「ディフさん……!」
「先に仕掛けたのはそっちだろう? ……それに、ここなら誰も見ていないから」
 くすぐるように敢えて吐息を交えて囁けば、分かりやすく跳ねる耳が愛らしい。勿論、彼女が本気で嫌だと思っているのなら無理強いはしないけれど、緩やかに弛緩していく身体は、そうではないと教えてくれるから。
 抱き締める腕に今少しの力を込めて、触れる肌は冷ややかな海の中でさえも温かく、愛おしい。
 真っ赤になった顔を俯けて、ヴァルダはまるで幼子が言い訳をするかのようにそろそろと口にした。
「……腕を組んだら、きもちが溢れてしまいそう、だったので……」
「いいんだよ。でも、オレの方が先に気持ちが溢れちゃった――ごめんね。だって今日の、貴女は」
 オレの好きなものをまとって。
 オレのためにって、お洒落をして。
 それだけでも過ぎるほど愛おしいのに、こんな悪戯をされて平然としていられるほどディフは人形にんげんができてはいない。白い額に張り付いた金の濡れ髪を分けてやれば、見つめ返す夕焼け色の瞳は吸い込まれそうなほどに美しかった。
「……ヴァルダ」
「ディフさん……」
 呼び合う名前は、砂糖菓子よりも甘く互いの鼓膜を震わせる。遮るもののない海は広く、世界はどこまでも続いているというのに――今は目の前のたった一人の他に、何も見えなかった。抱き締める腕のいつにない大胆さと力強さは、皮膚を隔てて隣り合う鼓動をいっそう急き立てるようだ。
 こつんと合わせた額で伝え合う熱は、自分でももうどうすることもできそうにない。
「……きっと夏のせい、ですね」
「ああ。……夏のせいだよ」
 だからいつもの二人、決してしないような冒険も――この太陽の下でなら。
 打ち寄せる一際大きな水の飛沫が、囁く声を掻き消した。波間に重なる二つの影が次第に一つに融けゆくのを、限りない蒼に遊ぶ魚達だけが知っている。

成功 🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​



最終結果:成功

完成日:2023年08月06日


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