Creepy Crawly I
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人間が人間らしく、言うなれば、そう、「先生」とは、人にしかできないものだという自負と誇りを、私は持っていた。
人は、どこまでいっても人が育てるしかない。……言葉で、態度で、時には背中で、時には体当たりで――人によってさまざまな教員像はあれど、人が人と向き合い続ける職だと、私は思う。
「……申し訳、ありません」
「うるさい! うるさいうるさい、うるさい! 謝っても……謝っても帰ってこないんだようちの子は! このッ」
「よさないか! ……先生、よろしくお願いします」
「はい、現在……」
唇の端を噛む。
嗜める父親の目線は、しかし、感情の読み取れないものであった。この親御さんは、名門女学園と言われるこの「早雲女子学院」に、わざわざ海外から移住して愛娘を転入させた、立派なご両親だ。こうべを垂れ平謝りする私を、憤怒する理由が、彼らにはある。
「現在、今も……警察と連携し、娘さんの捜索にあたっています」
「……もういい。娘を返してください」
「先生、お願いしますね?」
彼らの娘、パルナートさんが行方不明になってからもう二日になる。
小学二年生、僅か八歳の少女が、この学園の中で忽然と――姿を消したのだ。
私は、何だ。
対して私は何だ。
人でなしという言葉でも、足りない。将来を有望視された天才留学生を、己が不注意で……しかも――行方不明だなんて。ほとほと呆れ果てる、言葉が見つからない。
茫然自失。
私は、自分を見失って、そんな有り様で人と向き合っていたのか。私は。
……愚かだ。
……愚にもつかない、恥知らず。
『センセ。わたし、いけない子ですのよ。お家に帰りたくありません。だってお家には、学校と違って誰もいませんのよ。父さまも母さまも……ねえ、お願い。わたしぃ、帰りたくありませんの』
前に交わした会話を思い出す。
いつだったか、そういう彼女を、宥めて煽てて、誘導して、そうやって、それでも子供を家に送り届けることが、仕事……「先生」としての使命だと思っていた。子供と侮っていたのかもしれない。改めて思い直せば、むしろ、学校を第二の居場所にできたのだと誇らしく思っていた節さえある。
その結果の、失踪。
若い。聡明。可憐な。
親からの期待。周囲からの視線。
目が回る。要素だけがふわふわと浮かんで、出鱈目に結びついては、霧散するばかり。
「先生?」
「……でも……いえ……私……」
「先生。新井先生?」
「いえ……だって……まずは下校路を……」
「新井先生!!」
「ひゃ?!」
はは、あの「新井先生」も可愛い声出すんですね。
時折軽薄ながら穏やかなムードメーカーの男性教師が、肩を叩いたおかげでふと我に帰った。
……疲れている。
親御さんの直談判は午前中で、今は放課後か。私は自分がどう見られているのかにも無頓着になっていたらしい。それが自己嫌悪を加速させるのだが、男性教師に会釈して逃げるようにその場を立ち去るのがやっとだった。どう考えてもこの学校の中が最も逃げ場がないのに、教壇を逃げ場のようにして縋りついている。
疲弊した頭に彼の言葉だけが染み渡っていく。滲んで、広がって、己の外枠と世界との境界線を曖昧にしていくのだ。もう何日寝ていなかったか。最後にご飯を食べたのはいつだったか。……あの子が行方不明になったのが、二日前、だったはず。たった、いや、もう二日? なぜ時計を真正面から見られない? どうして自分の体がこんなにも重い? 私を嫌う「私」は誰? 私を否定する「誰か」が、纏りついて、憑いている。違う。可憐。私。私が、私が駄目だから。聡明。私、帰りたくない。ここが居場所。どこに向かってどこへ。怒られる。越境。私。どこ。若い。見境。あの子、彼女、見ている。見返す。誰の視線が、見抜く、私、私私を、私私私、私私私私見私私私。私私私私私私私私。
「……あ。見つけた」
ん、と、袖口をギュッと掴まれて、足が止まった。
ふわり――と。
浮く。
ぐらり、と、体が傾く。
「あなたは……うちの……転校生の」
「……危ない」
「ひゃ?! きゃああっ?!」
階段から踏み外しかけた自分を、なんとか止めてくれた構図。
……白無垢。
実際には制服を着用しているのだけれど、その清廉さは一目にて、邪念挟まない、透き通る純白を想起させた。見ようによっては――生気を感じられないとか、生きた心地がしないとか、屍のようとか……理解のない心象を催すほどの端正な美。新井の専攻は美術ではなかったが、人並みの審美眼を備えている自負はある。今ならかのミケランジェロが、彫刻を「芸術の奇跡」と評した意味がわかる。奇跡としか表現のしようが、ない。言葉は陳腐。所詮己が知る言葉でしか名状できないのであれば、精巧な西洋人形を思わせる究極の美の前に、あらゆる言葉は霧散し得る。
転落していく己が体さえ見失って――教師は、その少女を見、そして……縋った。
触れてなお驚く。信じられない! という表情を、浮かべてしまう。
ほんの指先で支えるような体勢にも関わらず、体幹が妙にがっちりとして全く危なげがない。重さというより、存在感にブレがない感覚。存在が違う。在り方が違う。異種。ゾウ? 車? それとも山か? 驚嘆だ。何か、途轍もない、比較対象の「スケールの違い」を、噛み締める。魂魄に重さがあるのだとしたら自分と彼女は窒素と水銀ほどの差があるに相違なかった。希薄、気魄が桁違いだ。
これでも名門である早雲の教師となるべく努力を重ねてきた。そんな人並みの努力が薄っぺらく感じられてしまうほどの、密度。噛み締めた歯が砕けてしまいそうになる。握りしめた手は、もはや話しようもないほどガッチリと心を掴まれて。
――何より、そんなプレッシャーを目の前の華奢な女の子に感じる違和感。
転倒せずに済んだのに、感謝しなければならないはずなのに。
一教師として、直感する。
交錯する視線。
ぼんやりとして見えて実は隙のない目つき。複雑な情念混じり合う血走る紅玉の瞳。爛々と、燃える赤み。
この眼差しをする子らの深層心理を知っているからだ。
親の虐待を受けて育った、子供。
愛を受けられずに育った、子供。
まるで、そう、古くは山姥、異国風に表せば「悪しき魔女」の手で、それこそ人を取って貪り食う……現実離れした悪意に晒された。踏み込んで言えば、凄絶な、無辜の命を虐殺するに等しい悪意に見舞われた――。
「ありがとう」
「……ん」
……いけない。
早雲の教師として、大人として、振る舞わねば。
向き合わねば。
心中で、ぱしっ! と頬を叩き、向き直る。
「少し立ちくらみしたみたい。立ちくらみ、わからないか。ちょっと気分が悪くて。……えっと、先生を探してたのかな? もしかして、宿題でわからないところがあった?」
「……」
「悩みがあったら先生に話してごらん。ね?」
……近い。
「……ん……知りたいこと」
溶ける目線が、混じり合う。すれ違う。
直視しないでほしい。真剣に向き合っていると、心の中を剥き出しにされるようだ。見つめられた一瞬が、何秒にも何時間にも感じられる。ふと、自分が教師を志したありし日を思い出した。……違う。この子が見つめ体感している時間が、実際の時の流れと異なるのだ。五億年ボタン、なんて創作話があったけれど、感覚的にはそれが一番近い気がする。自分が一言考える内に、所作も言葉も数倍が彼女の中で練られている。あえて口にはしていない、よう、だが。
ぺたぺた頬を触り、解けかけた指を絡ませ合い、ぼそぼそと、引き寄せた耳元で囁く。
「……質問があるのは、先生の方」
感触。耳腔が、吐息を感じ――震えて。
「……むずむず」
「あ……う、ぅ」
「……いい、ね」
少女の真名は、ルメリー・マレフィカールム(黄泉歩き・f23530)。
後に、新井教員が、その生涯忘れることのできなくなる名前だが、今は、単に、印象にも残らぬ物静かな教え子。
ルメリーは心中で舌を出す。生徒としてではないが、疑問がないわけはないのだ。今生、黄泉を歩む己が生まれ落ちたその時から発する、根源の質問がルメリーにはある。答えはずっと内側に秘められて、封じられた奥底から引き上げる手段がない。ごく普通の情緒であったのなら、己を失うことの恐ろしさを共有し、慰めたい気持ちでいっぱいだったろう。そうと「勘違い」させない凄みを滲ませつつ、体を密着させる。
密度が高まれば殺気にもなる、気迫で周囲を包み込めば、自然、段鼻に膝をつき、耳や顔面をなされるがまま、弄られる。
切り揃えられたシルバーブロンドが、すぐ目の前にある。フランキンセンスに似た、落ち着く香りが漂う。――彼女を見ているだけで、そばに居るだけで、少しずつ胸の動悸がおさまってくる。卓越した美がもたらすヒーリング効果でもあるのだろうか? 新井教員は、脱俗な浮遊感に身を預けていた。
「……背負いすぎると、これ以上は、戻れない」
「無理しすぎてなんかないよ? ……でも、みんなにそう思われてるのなら、先生失格ね」
ぺたぺた、と、感触を確かめるようにして。
後頭部を抱えるように、抱きすくめてくる。首の裏まで手が回っている。
温もりはないけれど、指先が冷たいほど心は温かいものとはよく言ったものだ。ああ……なんて、優しい子なんだろう、無表情だが豊かな感性を持っている素晴らしい子だと、新井教員は痛感する。教師の仕事は案外教えることでも、ましてや考えを押し付けることでもないのかもしれない。向き合ってすべきことは「気づかせる」こと。
例えば、無意識にシグナルを発していたとしたら。ルメリーに足りなかったピースを、示す手がかりを用意してたとしたら。
さりげない指摘を自然とできるのなら見上げたことだ、と数多のベテラン教師は褒め称えただろう。はたまたこれが都合のいい物語だったとしたら、大人として、今までに見聞のない不可思議な力に覚醒し、事態解決に奔走したに違いない。しかし、現実は非情だ。言葉や仕草で、成り行き任せに解決するだなんて展開は起こり得ないし、都合のいい劇的な幻想は起こらない。これは|空想体験《ファンタジー》ではなく、あくまで|現実体験 《ドキュメンタリー》。
「……」
――ぞくっ!
「…………」
奇跡は起きない。
あくまで一つの意見ではあるが、大抵の場合悪意ある者は、慎ましく好意と善意を振り撒く市民よりよほど周到であったし、そんな彼女たちが積んだ徳など容易く凌駕する罠を張り巡らせている。
気づかれようと勘づかれようと一度狙いを定めた獲物を取り逃がさない。それが狩人。
抱きしめられた体がずるりっと溶け落ちる。
霧のようにばらばらに解けて、ないはずの階段の段差の隙間に染み込む。自分の体が固体を保てなくなってしまったかのよう。同時に意識が急速にシャットダウンする。もう、数秒たりとも目を開けていられない。
最後に見たのは、複雑な表情。
赤い瞳が瞬き、白いまつ毛が揺れて、訴えかける。様々な感情が混じり合うが、一番は使命感のような、強い、強い強い慈しみの心。「もう悲しませない」と、希う彼女は子供だが、子供扱いするべきではない。気持ちの大きさは年齢や経験に比例しない。危機に陥った時は、気持ちの大きい方が強いのだ。だから泣く子供には勝てない。
泣いては、いなかった、けれど。
私の生徒の――心の叫び。
「本当、生徒の気持ち一つ察せられない、なんて……先生……失格、ね……ぁっ」
先生どころか。
人間として。
●
ごめんなさい。
申し訳ありません。
私が間違っていた。諂え。私の自尊心など虫ケラも同然。
「なに、これ……指。当たって……?」
誤って、謝って。
過ちを、顧みては、頭を下げている。
そんな私が、目覚めて、真っ先に手にあたる、握る感触に気づくのは自明の理であった。
「ナイフ……?」
刃渡二百ミリ程度、包丁というには無骨、猟師か何かが持つような代物だろうか。ミリタリーには詳しくないが、それとも軍用のナイフなのか。
薄暗闇の中ではっきり視認できず、無意識に触れた指先の薄皮をカッティングエッジが裂く。
「いづッ……!」
ナイフのハンドルに滴る血。指先に集まった極細の神経が、これは夢じゃないと必死に訴えかけるかのようだ。
「暗い……学園にこんな場所が……? そう、そうよ。戻らないと……け、携帯は……圏外!? 落ち着いて……けどライト代わりにはなるわよね」
不安の裏返しで、虚空に向かって饒舌になってしまう。
誰かいませんか? と語りかけることはしない。
なぜならこの空間は湿って、饐えて、人間の呼気が充満したような生々しさが漂っているから。ところどころ床にできている水たまりは鈍く携帯電話の光を反射しているが、どう見ても水漏れや雨垂れではない。鉄臭さ。粘つき。濁り具合。つんとした異臭。血や体液を混ぜこぜにした、不穏な汁。
この空間に落ちた際にヒールは折れてしまっていたが、それでも裸足になるような勇気は湧いてこない。
片手にナイフを、もう片手に携帯の人工的な光を携えて、半屈みになりながら進んでいく。
朧の光で不気味にてらてらと光る空間。真っ直ぐ奥へと続いている。振り返っても見上げても、突破口らしきものは見当たらない。這ってでも、前に、進まなければ。
「う……ッ」
体を低くすればするほど鼻腔を刺す臭いが突き抜ける。
鼻も口も呼吸がやけにしづらくて、肩を押し潰すような重苦しさを感じる。周囲の空気が唸っている。幻聴ではなく、実際に何かくぐもった声が反響して聞こえているらしい。
――オオオオオ……ッ!
壁が、床が、天井が、風の音にも似た唸り声で震える。驚いた拍子に携帯を取り落として、何処かへ蹴ってしまった。否応なしに、動悸が早くなる。
何かいる。何がいる?
蹴られた携帯が地面を滑って、倒れ伏す何かを、淡い光が偶然にも照らし出した。
「せん……せ……」
「パルナートさん?! どうしてこんな、いえ……! 無事でよかったっ」
理由なんてどうでもいい。家に帰らなかったことを叱るのも後。今は、行方がわからなくなっていた彼女が目の前に現れただけで、その事実だけでよかった。
「せんせ……っ」
「よかった。本当に、さ、帰りましょう! ね!?」
「せん……せ、き、きいて……わたくし……どう……?」
「先生の背中におぶさって。立てない、よね。ごめんね。よいしょ。どう? 先生は元気だから、ほら? ね!?」
「あぁあのぉ……っ、わたくし……い、まわたくしぃ|どうなって《・・・・・》……っ?!」
さて、新井先生に問題です。
暗がりでもはっきりとわかるほどの人並外れた人影の形、専門家でなくとも見て取れる異貌の発露、この質問に答える意義はあるのでしょうか。
先生として正しい問と、答えを用意できていなければ教師どころか、人間失格の奇問。受け入れ難い結果を提示してなお、あからさまにその心をへし折らないための慈しみと、慮りを求められている。
「いいから。さ、いこ!」
答えは――黙秘。
落第級の誤答。
震えて泣き叫びたいのはこちらの方だと、叱りつける……のではなく、弱気になる己を叱責する。
「しっかり掴まってね?」
私は先生だ。
反面教師でもいい、嘘つきでもいい。
無責任なりの責を果たす。
「ん、うん、大丈夫だから!」
それは……触手だった。暗めの緑っぽい色をした、子供の腕ぐらいの太さを持つヌルヌルした気色悪い束が、壁にべったり巻き付いている。
パルナートさんの豹変した姿に対する答えではない。いつの間にか周囲の壁や天井を覆い尽くすモノに対する言及である。ナナフシやヒドロ虫を思わせる、それも犬猫大の巨大な体躯を持つ虫たちの闊歩。壁にめり込む肢体。これは……一体?
「大丈夫、大丈夫よ……」
気づかなければよかった、と表情に出てしまっただろうか。
見ている。こちらを見ている。ずっと見ていた。その複眼で、一挙手一投足を余すことなく捉えている。
異常なまでに成長を果たした巨大怪蟲。暗がりにて全身を視認することこそままならないが、蠢いてしっかりと視界に映ったそれを無視するのは不可能だ。蔓延り、張り付き、そして獲物に牙を突き立てることを待ち望んでいる。
――オオォオ……!
音の。
声の。発生源は、めり込んでいた肢体だった。
白桃のように綺麗な尻が壁から生えている。
背負った少女を気遣いつつ、後退り、壁を通過しようと、腰ほどの高さにある何かを間近から見下ろす。幻灯をまともに受けて、その人間の尻にしか見えない物体は不自然に白く輝いていた。それほどに綺麗で艶やかな肌の煌めきをしていて、形も桃と見紛うほど整っている。そこに群がる蟲というさらに奇天烈な情景に目を瞑れば、肉付きも良く、美しい造形を損なわない程度の絶妙さでむっちりとしているものだから、思わず気にかけてしまう。
つまり、壁の向こうから響くくぐもった声の正体は。
どうしても想像の翼を広げてしまう。声を押し殺しているせいか、よくよく耳を傾ければ鼻息が荒い。
……吐き気のする光景だ。
――おおっ、お、おおぉ?!
「あぁあ?! むりですぅ!」
「ふ……んッ?! パルナートさん!?」
「ぐすっ、ひぐ……いやッ、あし、足は……もういやあ!?」
「ぉ……落ち着いて。驚いちゃうから。ね? 先生がいるから、落ち着こ」
「わたくし……わたくしぃ、運良くここから吐き出されて、でも、む。……む、りで、も、もう……足だけでなく、こしも……わ、わた」
「あなたは……大丈夫よ! 絶対に、大丈夫ですから」
とはいえ気色悪さは如何ともし難いので、早々に踵を返して来た道を戻ろうとする。
目の毒だ。
だが、直前で思い留まり、壁際に目を遣った。何か脱出の手がかりが見つかれば、そんな淡い期待ゆえにである。
……空間同士を隔てる壁には亀裂など一切ない、肉塊と怪蟲の苛烈な食物連鎖の現場そのもので、やはり向こう側があったとして脱出に繋がる痕跡も見当たらない。加えて回り込むことも困難そうである。
絶望が過り心が挫けそうになるたびに、ナイフを握り込み、背中に背負った命の温もりを感じた。そうすることで、なけなしの気力を振り絞るのだ。落ち着いた調子の「あの子」の、昏くも力強い眼差しが今も己をつぶさに見ている……気がするから。
「つまり……ここは、繁殖場。餌場……この異常に成長した虫たちに……餌を……?」
少し歩みを進めれば、今度は群がる蟲の塊に頭部と、下半身がめり込んだような、奇怪なオブジェがあった。オブジェとしか形容しようがないのに、しかし確かな息遣いがあり、まだ辛うじて命があることがわかる。
それがたまらなく恐ろしい。
頭部の下の膨らみのちょうど真ん中――かたく痼り、尖った薄桃色の桜桃に、暗闇に妖しく光る針金状の蟲の頭がそっと触れていた。紐状の体をヒクつかせ、顔全体で先端を突く。
――ずっぷっ……!
「ンぎゃあああ?!」
「きゃああッ?!」
「ひあぁッ?!」
剥き出しの上半身がビクビクンと揺れ、顔に群がっていた蟲が驚いたように散っていく。オブジェ……否、被害者の喉から迸る甲高い絶叫。
黒い蟲が桜桃の先端に頭を突っ込み、細い体をビチビチと揺らしていた。紐状の体が身悶えるたび、少しずつ、少しずつだが先端が奥へと穿孔する。悍ましすぎる光景に目を疑う。蟲が柔らかい、まだ生きている肉体に埋まっていく様子が、はっきりと確認できる。これは本当に現実なのか。
顔が覗いた。その顔は、一週間前から無断欠勤をしている新井の同僚教師そのものだった。
――ずりゅ、ズグん……!
「ひぎっ、ぐっ……ふっグっ……! いぎゃあぁあ?!」
口腔から生き血を吐き出すような同僚の女教師の絶叫が空間を劈く。濁った瞳は片目は裏返り、もう片方も視力を失い、目の前の新井を捉えることも叶わない。
同僚の血まみれの皮膚の下で不気味に蠢く無数の蟲たち。細かな糸状の生物がグネグネ絶えず蠕動して、時折内側から肉を喰まれるせいで不規則に唸り、喘ぐ。太い血管を食い破らないように共生、生命力を循環させて、いたずらに寿命を引き延ばしながら、苗床として堕ちていく。もうぐちゃぐちゃ。
あのお気に入りだと教えてくれた香水の匂いもしない。
校内でも随一の、噂されるマドンナだった、お洒落な美人教員は……そして!ほんの数日前まで、教員室で生徒の未来を共に語り合った彼女の面影は、もう欠片もなかった。
「た……たず、げ……」
「ひィッ。た、助けな……いや、でも、どうやって……ど、どうしたら……?」
手にあるナイフで蟲を追い払うことは難しいだろう。何よりこの暗がりの中、埋没した細触手蟲を摘出するなんて、天地がひっくり返っても不可能だ。
困り果てて彷徨う視線が、落ちている学生証のようなものを偶然目にした。
目を凝らさなければ内容はわからないが、四枚ある。一枚はパルナートのもの、もう三枚は……。
「違う……一枚は教職員証ね。あと二枚は……さっきの壁にめり込んだ……?」
微かな記憶を頼りに、脳裏のページを捲る。
数ヶ月前から不登校の女生徒。
一ヶ月ほど前に突如退学した女生徒。
一週間前から欠勤している同僚の教員。
この数日帰っていないパルナート。
そして、自分。
「もし……もう一人いるなら……せめてその子の安否だけでも……」
これだって現実逃避の一環だ。どうしたって想起する、自分も獲物の一つに過ぎないという事実を、少しでも力を合わせて生き延びようという希望にすり替えている。絶望的な現実からの脱出、これを現実逃避と言うのはあまりにも悲観的すぎるが。
神様。もし本当にいるのなら、どうか助けてください。せめて背負っているこの子だけでも両親の元へ帰してあげてください。
いないのならば、この足が折れて動かなくなっても、背負って連れ帰る。あわよくば、もう一人を探し出して――!
「……ぁ……ひっ、あぁ……!」
それから小一時間の経過後。
新井はこの世を呪いたくなるような光景を目の当たりにする。相変わらず出口のない空間。
空中に縫い付けられ、半ば廃人になるまで責め抜かれた、最後の犠牲者。両腕は頭の上に、片足は胸の辺りに吊り上げられ、片足立ちの心許ない姿勢で全開にまろび出た、剥き出しの秘すべき箇所を男の腕ほどはあろうか極太の触手に抉られている。捲れ上がって見えている赤い、鈍光の肉は、内臓だろうか。それでも生きている。生かされている。臨死の快楽を絶え間なく与え続けられ、快楽の媚肉オブジェとして完成させられていた。意識さえもはっきりしているようだ。正気のまま、眠ることも狂うこともできず、ただただ感覚するだけの……。
全身を見て、細部を見て、これはダメだと悟る。助け出すことがではない。これを己の最期の光景と結びつけることが強要される。ダメだ。これは私たちだ。足掻いて逃げて、その結果この前衛芸術に成り果てる。パルナートさんは背中に縋って顔を上げることしかできない。彼女の視線は自分の背中しか目に入っていない。視線が、怖い。
自分の悲鳴で、わずかに考える意識を取り戻す。叫んでいた。びくりと震えて、一瞬動きの止まった背に負う子の啜り泣きが聞こえる。
壁の肉。
内を喰まれる者。
立位の肉オブジェ。
怪物と融合した少女。
あとは、己だけ、だ。この……極限状態で、今にも正気の消え失せそうなこの環境下で、新井はナイフ一本で立ち向かわなければならない。あるいは、逃げ切るにしてもどこかに身を隠すにしても、頼りになるのは己だけ。
何度も自問自答し、その度に己を否定する喪意の申告に頭を掻き毟りたくなる。何度もした。何度も選択した。もう何度も。この難度は。
「ああ、ぁ……どうすればいいの、誰から、いや誰も……し、しっかり、しないと」
「せ、センセ……」
「大丈夫……大丈夫よ。きっと、なんとかする、なんと、だから……待って、待ってお願い」
学校の地下と思しき黒洞に、経緯も過程も分からず怪生物に犯され、一体化したり媾い捕食されている最中の、行方不明になっていた女性や少女たち。
逃げ場はなく、連絡手段もなく、刻一刻と憔悴していく心を奮い立たせる手段も尽きた。暗い空間に蜜音と嬌声と、粘つく蟲や触手の忍び寄る騒めきと、咽せるほどの濃厚な青臭さ。肉食動物の胃の中の方がまだマシな環境であったと言える。
誰の栄養なのか、誰の娯楽なのか、誰の嗜好なのか。
……いずれにしても、何より、自分たちが食い散らかされる番だという目に見える障害に阻喪してしまう。
「ぐすっ……ひぐっ」
「う……ああっ。もういや……いやぁあ……ッ」
絶望の二人の前に、『黒幕』の影が忍び寄る――!
成功
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