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硝子の泉

#クロムキャバリア #ノベル #硝子の泉

メルメッテ・アインクラング



キリジ・グッドウィン




 昼下がりの陽光は、灰色の雲の塊に遮られていた。広大で平坦なクロムキャバリアの荒野に大きな影が落ち、乾燥した旋風が砂埃を巻き上げる。
 そんな生命感の薄い大地であるが故に、屹立する城とも塔ともつかない人工建造物の輪郭は一際際立って見えた。
 冷たく透き通った壁面で構成されているとなれば尚更であろう。生半に砕かれぬ超硬度強化硝子で覆われたその拠点型施設は内部に至るまでが透明だった。
 硝子の玄関口を潜れば長い通路が待ち受けている。取り込んだ外部の光が万華鏡のように屈折する通路を進み、硝子の扉を開けば途端に空間が解放される。聖堂を思わせる高い天井からは硝子片と見紛う光が降り、何人でも招き入れても余りある面積の室内には、空間の広さに見合った大きなダイニングキッチンが備え付けられている。カウンター席と一人用のソファとテーブルが複数用意されている有様は、噴出する水が音を奏でる泉と相まって豪勢かつ荘厳なバーのようでもあった。
 施設の主が休憩所と呼ぶそこでメルメッテ・アインクラング(Erstelltes Herz・f29929)が重い溜息を吐いたのはこれで何度目だろうか。キッチンカウンターの前に立つメルメッテは倦んだ面持ちでグラスを磨き続けている。幾ら磨いても曇りが取れない――違う、曇っているのはこのグラスが反射する自分の心だ。
 硝子の泉から湧き出る透き通った水の音が遠くに感じる。何もかも透明なこの場所で、灰色に曇っているのは自分と空模様だけ。理由は自覚している。
 彼に自分の素性と主様の関係を明かしたあの日から、ずっと喉奥に重い石がつかえているようだ。意図した訳ではないけれど、偽ろうとしていた訳ではないけれど、相手の事を知りながら自分の素性を黙っていた事を、彼はきっと善くは思っていない。だってあの日から彼は私の前に現れていないのだから。
『諦めろ』
 相手の方が私から離れていく場合、主様はそうするようにと仰っていた。
「ですが……」
 頑なに閉ざしていた筈の唇から小声が滲む。ですが、離れたくないと感じても、手を伸ばす事は許されないのでしょうか? 胸の中で膨らんだ問いに答えてくれる相手はいない。そして伸ばした手が彼に触れる事も――。聞き馴染みのある振動音がした。
「キリジ……様……?」
 見開いた瞳が向いた先は通路に繋がる扉。意識は通路を抜けて玄関口の外へと飛んだ。

 何故オレは来てしまった?
 硝子の城を前にして、機体から降りたキリジ・グッドウィン(what it is like・f31149)は半ば立ち尽くしていた。いや、何故来てしまったという発想が浮かんだ? 別に問題はあるまい。いやしかし何故足が向いた? 彼女と会ってなんとする? 誤解を……解く必要などない。疎遠になればそれでおしまい。後は他人同士に戻るだけだ。
「それでいいんだがな……」
 無意識に自分に言い聞かせていた。そして無意識にペトルーシュカ型義体は足を進めていた。絡まる思考とは裏腹に、身体は染み付いた習慣に動かされるかの如く扉に手を掛ける。
「入っていいか?」
 どうしてオレは恐る恐るに聞いているんだ? 返事は無い。口をきつく締めて拠点内に一歩を踏み込む。
「……どうやら主様ってからの入店拒否はねぇらしいな」
 レーザーネットでサイコロステーキにでもされるんじゃないかと考えていたが、どうやら冗談で済んだらしい。相変わらず家主からの反応は無いが、通路の奥の部屋から人の気配を感じる。よく知る人間が纏っている気配が。ひとりでに閉じた扉を背に、キリジは硬い面持ちで進み出す。これで休憩室の扉を開けて主様とやらがいらっしゃったらどうしよう。我ながらふざけた発想に失笑さえする気にもならなかった。

 キリジが訪れた休憩室は、平時となんら変わらなかったし、メルメッテが迎えた客人の様子は平時とさほど変わらなかった。或いはそう見せているのかも知れないが。だからこそメルメッテはいつも通りにキリジをもてなした。
「あー、適当に頼む」
 カウンター席に座るキリジは、何も慮られる必要など無いと言わんばかりの雑な口振りだった。
「かしこまりました」
 久々に聴いた彼の声音にメルメッテの表情が淡く綻ぶ。無色透明なグラスに鮮やかな赤のシロップを垂らす。次に凍てつく寸前まで冷やされた炭酸水を注ぐと、きめ細かな白い泡が弾けて沸き立った。そこをマドラーで攪拌すると、二層に分たれた透明な液体と赤い液体が混ざり合い、甘味と酸味の香りを纏う透き通った赤の炭酸水に変じた。
 楽しげだがいじらしいまでに作業に集中するメルメッテの面持ちを、キリジは気取られないよう横目で覗き見ていた。
「……先日は、大変申し訳ありませんでした」
 だからこそ、ラズベリーソーダで満たされたグラスを差し出されるのと同時に飛んできた謝罪に僅かにだが肩を跳ねさせたのだ。
「申し訳ありませんって……」
 いや、陳腐な身に覚えのない振りなど止めよう。喉元まで出かけた言葉を飲み込み、眼を伏せて口を開く。
「はい。『主様』の件でございます」
 メルメッテが意を汲んで先んじた。人のコミニュケーションとは形良く繋がらないものだと、キリジは内心で自らに皮肉を掛ける。
「そりゃノーリアクションでいろって方が無理筋だがな」
 背けられたキリジの横顔にあの日のキリジの表情が重なる。胸の奥底に抓るような痛みが宿った。
「他人同士なんて話さねぇ事の方が多いし、その方が良いし、別にメルメっちがどんな環境に身を置こうが俺には関係ない」
 驚きは条件反射でしかないと言ったつもりが嫌味に伝わったか? 俯くメルメッテを見たキリジは捲し立て気味に言葉を連ねる。なんだか益々表情が沈んでいる気がする。人の感情に鈍くともこの程度は分かる。これはよろしくない。
「あー、だからな、その……アンタさえ良ければ、今まで通りで構わない」
 メルメッテが俯いたまま双眸を見開いた。キリジは自分なりに言葉を選んだつもりだったが裏目に出たようにしか思えなかった。更によろしくない。歯に衣を着せれば着せるほど行き詰まっている。駄目だ、直球を投げるしかない。
「だから、メルメっちが、謝る必要は無い。いいな?」
 念入りに文節を区切って言い聞かせる。眼はメルメッテの瞳を正中に見据えていた。例え相手に眼を合わせる気が無くとも。
「では……では!」
 いつも通りでいい。謝る必要など無い。それがとどめとなった。メルメッテは俯けていた面持ちをやっと上げる。
「つまり、キリジ様との日々を諦めなくて良いのですね!」
 カウンター越しに身を乗り出して尋ねると「お、おう」と確かな頷きが返された。
「ありがとうございます、キリジ様。ほっとしました」
「そいつは何よりだな……」
 メルメッテは自身の胸に手を当てがい、瞑目して深く呼吸する。傍らでキリジが決まりが悪そうに視線を逸らしていたのだが、それに気付く事はなかった。
「キリジ様は透明な私に、色を教えて下さいます。色が落ち、透明に広がる時間……メルにとって、とても大切なのです」
 あなたと視る世界はこんなにも鮮やかなのだと。開いた双眸にはキリジの瞳があり、瞳の中には微笑を綻ばせる自分自身が映り込んでいた。
「色、なぁ……」
 半ば呆気に取られていたキリジもまたメルメッテの瞳に映る自身の姿を見ていた。教えられるほどのものかな。鉄と神経回路の塊に。自嘲が浮かぶも、メルメッテの淡い笑みがそれを安堵の感情に変えた。
「なんでだろうな?」
「え……?」
 弛んだ気が零してしまった呟きに、メルメッテの表情が途端に不安の雲に陰る。キリジは咄嗟に「いやメルメっちじゃなくてな」と取り繕う。
 一方のメルメッテはキリジが言わんとしていた先が気になって仕方が無かった。そのつもりがなくとも疑問の表情が強烈な問いとして伝わってしまう。
「オレが今日どうしてここまで来たのか、分からなくてな」
「再び此処に来て下さった動機……という意味でしょうか?」
 キリジは眉宇を上げてそんな所だと含ませた視線を送る。
「全然わからん。なんでだろうな」
 元より自分自身が好きに生きて好きに死ぬ性分だ。メルメッテの境遇に干渉するつもりも無い。ここに踏み込む前に自答した通り、誤解を解く必要もなかった。だがそれでも此処に来たのはメルメッテの曇った顔は見たくないから――。
「いや、理屈並べて説明するもんじゃねぇな」
 キリジは神経回路に悪寒が走ったかのように思えた。うっかりとんでもない事を口走りそうになったような……とんでもない事ってなんだ? そのとんでもない事が言葉にならないよう押し留めているのは――恐れなのか?
「そうですか、キリジ様が分からないのでしたら、メルにはもっと分からないのでしょう」
 メルメッテは面持ちを伏せる。だが曇りは差していない。未知は未知のままで、胸の中にしまっておくように、穏やかな微笑みで双眸を閉じた。
「けれども、壊さないようにそっと持ち上げ、温めて、ゆっくりと運んでいけるのなら、”それ”が何か分かる日は訪れる……そんな気がするのです」
 時間を掛けて。二人の間に降りた沈黙を泉が奏でる水音が満たしてゆく。
 気不味い。何が悪い訳では無いが気不味い。これ以上メルメッテの朗らかな表情を見ていてはいけない気がする。キリジは間を繕うべくグラスに手を伸ばし、口を付けた。
「あっ、炭酸が……新しくお作りしてお持ちしますか?」
 咄嗟にメルメッテが尋ねるも、キリジはグラスを置いた後だった。
「……甘い」
 口に含んだ液体は、甘味と酸味を味覚機能の上に拡げて喉へと滑り落ちる。炭酸の刺激は随分と小さくなっていた。
「”甘く”感じられますか?……よかった」
 メルメッテは双眸を細めて微笑を綻ばせると、キリジは決まりが悪そうに額に手を当てた。硝子の泉の湛える水はどこまでも透き通っている。

成功 🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​



最終結果:成功

完成日:2023年05月23日


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