あの夜と地続きのこの常夜に於いて
ダークセイヴァーで見上げる空は何時も夜空だ。常闇のこの世界での理に夜明けなどはない以上、至極必然の道理でもある。
今宵は半月を戴いて尚仄暗い闇に鎖されたこの夜を、依頼帰りのエグゼ・シナバーローズ
は足早に征く。何処までも果てのない夜はそのままあの夜へと続いている様に思われて、目を逸らしたくも思うのに――その果てを見据えぬ様に足元に落とした瞳が、地の上でとうに錆び付いて冴えを失くした鉄剣を視界に収む。
いつの、いかなる戦士の遺品だろうか。古き刃が告げるのは、その持ち主がいかな武勇も奮戦も甲斐なく討たれたという一事のみ。最期に見えた相手がヒトか吸血鬼かはいざ知らず、いかな希望も抵抗も易く踏み躙られることなどは、この世界では日常茶飯事だ――この世を包むは絶望の常闇なれば。
明けの訪れぬ夜は即ちいつもあの夜と地続きで、この地を訪れる度に、エグゼの脳裏によぎる一連の光景がある。
エグゼ本人は全力でそれを拒もうとしているのにも関わらず。
「エグゼ、頑張って!」
「違うよ、サンディが勝つんだよ!」
子どもたちの無邪気な野次と歓声を受けながら、エグゼは手にした剣を振るう。それが迎え撃たんとした黒き刃に弾き飛ばされて宙に舞う軌跡を目で追いながら、首筋に突き付けられた刃の冷たさに声を詰まらせ、身を竦ませた。
「まだ実戦が足りないね。次撃を読んでるのに身体がついて行けていないみたい」
涼しくも柔らかな声音で告げながら剣を納める稽古の相手――サンディ・ノックスの言い分に、エグゼは反論のしようもない。
「予備動作を視線で捉えてから対処している様に見えるけど、本当はとっくに予期してるんでしょう? だったらそこのタイムラグを削れれば、だいぶ見違えると思うんだけど――」
彼の指南はいつも的確で適切だ。当事者として体感としてそれを知るエグゼ以外の周りのものすらも、ついメモを取りたくなるほどに。
故に、こうしてエグゼがサンディに武芸の稽古を頼むにも至るのだ。
エグゼもサンディも、この世界では珍しく、物好きだなどと揶揄されることさえもある旅人だ。互い流れ着いたのが偶然に、町とも呼べる規模を誇ったこの集落であったのは何の因果か。所詮は寄せ集め所帯が徐々に規模を増したに過ぎぬくせ、それゆえにかさしたる排他性もなく、この集落は彼らを快く受け入れてくれた。そうしてこの地に束の間とは言え根を下ろし、その恩義に報うべくエグゼは武力を磨こうと試みて、その暫しの後でサンディがこの地を訪れた。時系列で言うならばそんな形になるのだろうか。
愚直なまでに真面目に鍛錬に取り組んで、平和を脅かす魔獣などには無鉄砲なまでに立ち向かうエグゼを町の人たちは重宝し、それ以上によく可愛がってくれていた。恩義を返すつもりで戦地に立つ度に、受ける愛情と恩義の度合いが増してゆく。
他方、人当たり柔らかく、誰にも好意的に迎えられるサンディもまた、町の人たちに至極好意的に迎え入れられ、上手くその共同体に溶け込んでいた。その生まれと生い立ちゆえに何処か他人には距離をおきがちなエグゼをしてさえ、深い親しみを覚えさせ、秘めていた筈の過去すらも、気付けば全て洗いざらい語らしめていたほどに。
人間として生まれつきながら、生まれ故郷での紆余曲折でオラトリオへと覚醒したこと。それでも、風の噂に聞いている「猟兵」と呼ばれるような生命の埒外へとは至れなかったこと。物心ついた頃から親はなく、溺愛と呼ぶに相応しいまでの愛と庇護とを注いでくれた姉とふたりで支え合いながら生きていたこと――嗚呼、嘘だ。そう思っていたのはエグゼひとりで、本当は姉にはただ庇護を与えられ、その姉は今や行方が知れず、探し続けている。そんな苦い事実まで、何もかも……全て。
どんな後ろ暗い過去を語れど、どんな苛烈な感情の発露を見せても決して咎めたり妨げたりすることもなく、ただ穏やかに頷きながら聴いてくれるサンディを前に、エグゼが何かの安堵を覚えたとて決して無理もないことだ。本来そうした役目を務める筈の両親をエグゼは持たず、代わりにか弱い女の身にて一身にそれを引き受けようとしてくれた姉が居れども、聡いエグゼのことだ。たとえ幼いみぎりのこととは言えど決して本当の意味で甘え切ってはならぬことなど心の何処かで理解して居た。それ故に、ただ耳を傾けてくれるのみならず、時折思い出したようにして己の身の上を零してくれさえたサンディの話を――故郷は貧しく、己の食い扶持を稼ぐ為に、せめて負担をかけぬ為にと思い至って故郷を去った、断片を繋ぎ合わせればそんな顛末に至る彼の話を――耳にして、互いに心の内を明かして解り合えただなどと、至極青臭くも錯覚をした。
後で思えば、全てはほんの上辺だけを、エグゼが受け止め切れぬほどに重たくなりすぎぬよう、巧妙に計算をして語られただけの「零れ話」だ。自分の開示に応えるようにサンディが己の身の上を語ってくれたと、互い心の内を明かし合ったと、一瞬でさえもそうと思ったことすら全てが愚かしい。結局のところ、エグゼがそう思えるようにサンディが最初から計算をして、全てはサンディの掌の上で紡がれていた予定調和に過ぎぬのだから。
それでも結局、あの赤髪の男はいつの時点から、どこまで計算していただろう?
袂を分かつことになったあの夜を経てさえも、エグゼには今も解らない。それが手厳しい稽古をつけてくれたあの日の後のことだから、益々もって解ろう筈もない。
「誰か早く来て!お姉ちゃんが、お姉ちゃんが死んじゃう!」
「行かせてくれ!家の中にまだ弟がいる……!」
常闇の空が赤く燃えた、あの夜をエグゼは忘れない。世話を焼いてくれた隣人の、温かく見守ってくれた人々の、狂乱と呼ぶに等しい叫びが炎の燃え盛る町へと満ちた。そうしてその声すらも、端から断末魔のそれへと塗り替えられてゆく。
吸血鬼たる領主の差し向けた配下の軍勢が町を蹂躙してゆく様を、エグゼもまた町の人々と同じく逃げ惑いながら、為す術もなく聴いて居ることしか出来ず居た。背後に聞いた隣の家の女性の悲鳴が遥か彼方であることに一抹の安堵すら覚え、次いでその事実に自己嫌悪が湧き上がり――嗚呼でも、だからだろうか? 罪には罰をと言わんばかりに、逃げたエグゼの行く手には領主の配下らが剣を構えていた。あれ程鍛錬を積んだと言うのに、眼前にしたその隙のなさに、己が腰に佩いた剣のことさえ忘れたエグゼに出来たことなど、――それはある種の本能だ。抵抗の意志など何もないことを、得物を持たぬことを示すかの様に震える空の両手を挙げた。
だがそれすらも悪意に満ちた敵の前には何の意味ひとつ持たぬのだ。
容赦なく全身を切り刻まれて、全身の骨が折れたかと言う程に打ち砕かれて、激痛の中で己の網膜が映す景色すら火花が散って、ぐらぐらと揺れて定まらず、――そんなさなかで唐突に、暴虐を働く敵が「消し飛んだ」。刹那に身体の痛みが消えたのも、起き上がることが能うどころかかつてない程に機敏に体勢を立て直した己が既に剣を抜いていることも、何が何やら、エグゼには思考が何も追いつかない。
何が起きた? 何故俺は生きて、動けている?
どうして敵が死んでいる?
そんなエグゼの困惑に答えを授けたのは、死角から響いた緩慢な拍手であった。
「ようこそ、こちらへ」
含みのある声に振り向けば、よく見知ったあの鮮やかな赤髪だ。だがこれが、人好きのする穏やかな笑みのみを浮かべていたあの青年と本当に同一人物であるのだろうか? 背筋の凍りつく程に冷ややかなその笑みは――否。悪辣、のその言葉を以てしか形容のしようのないその笑みは、エグゼの知るサンディのものであるとも思われぬ。
エグゼが剣を構える間すらない。黒い剣を抜いたサンディが、ただ、地を蹴って戦地を駆けた。後で聞くなら別の配下を殺されたことへの報復目当てであったなどと言う、故に過分に配されていた敵の配下らを、黒き刃は何の苦も無く撫で斬りにした。その間隙の様に町の住民の命すら塵の様に散らして行きながら。
何故? それ程の力があるならば、町の誰かの命が失われるより先に、この悲劇そのものを食い止められた筈なのに。
何故、黙ってそれを見過ごして、何故、剰え祝う様な言葉すら己に寄越して、何故――
「ヒトの魂も美味しいよね」
――嗚呼。「こちら」だのと言いながらこいつは心底、「あちら」側のニンゲンだ。直後、エグゼは限度を超えて募らせた憎悪を己がどう発露させたかも覚えない。無我夢中で振り回した剣は果たして怨敵に手傷のひとつでも刻めたか。だが、おそらくは無理だったろう。次の記憶は町を焦がした炎すら消えた後、痛む身体を無理矢理に起こしたところまで飛んで居る。
誰かが手を打つ音が耳朶を打ち、その音に「今」へと引き戻されながらも、あの夜の忌まわしい拍手と重ねてしまったエグゼは身構える。落としたままの視線の先には相も変わらず、錆び付いた古い剣が横たわっている。
誰も護れなかったあの夜から、エグゼが二度と持たぬと決めた得物だ。あいつと同じこんな得物を振り回しても、あいつにいつまでも敵わない。
故に、腰へと下げた銃へと無意識に手を触れながら、エグゼは遠い声を聴く。
「ほら、早くグリモアベースに帰るよ」
誰か、依頼を共に請け負った猟兵が呼びかける声。頷きのみを返しながら、エグゼは無理矢理視線を上げた。半月が朧に照らした夜は暗くも明るくもないままに、だが、決して明けもせぬのだろう。
――この世が平和を取り戻すまで。
そうして、その世にあいつは居ない。
物思いを振り払う様に踵を返しながら、エグゼはきっとこの先も言葉に出すことのない誓いを胸に秘めたまま、ただ、愛銃の銃把をそっと握った。
成功
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