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一は|周《あまね》く百となる

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百鳥・円




 酷く痛む。
 目の奥とも頭の底ともつかぬ場所が疼くように痛む。酒の味に似た酩酊が脳裡に霞をかけている。きつく瞑った右目を繊手で覆ったまま、ベッドの上に蹲る百鳥・円(華回帰・f10932)は浅く息を吐いた。
「累。お前たち、の、仕業ですか――?」
 返答はない。
 飾らぬ星屑の長髪が零れ落ちる。窓の外に広がる夜の帳を写したようなそれが揺らめいて、視界がまた眩転する。漸う持ち上げた双眸に、円と揃いの妹の姿が霞んで揺らいだ。
 ――違う。
 ――分かっている。
 心の裡に飼う洞の中で、九十九の妹たちが笑う声が聞こえる。心胆を寒からしめる歓喜が悍ましい速度で背筋を這い上る。円と彼女らの存在を代償に、目覚めた無垢なる悪意が蠢くのを確かに感じ取りながら、女は強く胸元を掴んだ。
 百鳥・円と名付けられた百の欠片の一つは、元をただせば一人の人間の心である。
 異能が故に祀り上げられ、与えられた神の称号の許に雁字搦めに縛られた籠の中の鳥が、獲得した|人間らしさ《・・・・・》を根こそぎ奪われた成れの果てだ。砕け散って生まれた命の破片は、本能のままにひとところに集まろうとした。修復の出来ない罅を抱えたまま、元の形を取り戻そうとしたそれらが寄り集まれば、主が目を醒ますのも道理だろう。
 真なる一つを取り戻すのが役割だった。焦がれて手を伸ばした先にあるのは、いつでも紅色の蝶だった。|自ら《・・》を取り戻すための本能を満たされた破片らは、全員が己を呑み込む胎動に喜んで身を投じる。
 ――円を除いては。
 千々になった欠片は集まった。最後の一つを埋めた時点で、誰かの心を食い破ることでしか存在し得ぬアストラルは、あるべき場所に|環《めぐ》るはずだった。
 それを拒んだのは、核となるべき円だ。
 罅を埋められなかった彼女たちは、現実と夢の狭間に取り残された。それでも確かに女の中に宿り、|金剛石《ダイヤモンド》は形と呼ぶべきものを取り戻した。
 己の裡側で膨張する、悍ましい気配に納得さえ覚える。
 逆らえぬ運命に抗う円に決められるのは、せいぜいが隙間を埋めるか否かだけだったということだ。
 彼女が在ろうが在るまいが、認めようが拒もうが、最早関係はない。欠片が一つの形を取り戻し、胸の中の大洞を埋めたのなら。
 目覚めてしまう。
 |胡蝶《はは》が――。
 それでも押し流されるわけには行かない。紡いだ縁と約束を頼りにきつく閉じた目の奥が不意に煌めいて、円は息を呑んだ。
 持ち上げた目に、夜気に揺らぐカーテンが映る。その向こうで煌々と光を放つ円い月を認識した刹那、彼女の意識は水底に沈んだ。

 長らく、女の体は動かなかった。
 寝台に臥した彼女の横で、星屑の娘の姿が不安定に揺らぐ。心の底で息を殺すように蠢いていた幽かな気配は次第に火勢を失い沈黙した。長らく静寂から遠ざかっていた小さな部屋の中を、張り詰めた無音が満たしている。
 一羽の蝶が開け放した窓から舞い降りた。紅色を纏った翅が炎の鱗粉を散らし、俯せのまま動かぬ彼女の|白磁の髪《・・・・》へ止まる。|緩慢《ゆっくり》と持ち上げられた体から、赫い花弁が零れ落ちた。
 ――左の眼窩に根付いた彼岸の花を鬱陶しげに撫で、表情をなくした女が紅色の隻眼を眇めた。
「残念だったな」
 憐憫というにも曖昧な、唇と同じ色のない声が虚空に響く。
 女の眼差しは、そこに見えるはずのない娘の姿を捉えていた。
 揺らいだアストラルが不満げな顔をしている。百鳥・円という器に最も近しく、その心根と最も離れた場所にある少女――累と名を受けた災禍の残滓は、ひどく歪んだ唇を引き結び、姉の器に宿った者を見据えた。
 しかし、それが精一杯の反抗だった。
 抗えず部屋の温度に融ける身を見送り、彼岸の紅色が鼻を鳴らす。指先に止まる焔蝶が大きく翅を広げるさまを一瞥し、女は色のない目を外に遣る。
 百鳥・円とその妹たちには、元来大きな違いはない。
 心の核であろうとも散ってしまえば欠片の一つだ。大小こそあれ、彼女たちは皆、一つでは機能不全のアストラルにすぎない。彼女に出来て妹たちに出来ぬことはない。逆もまた然りだ。
 豊かな土壌と鉢なくば芽吹かぬ花には、器を与える誰かが要る。
 それを成したのが、円が父と呼ぶ彼岸である。
 無垢な胡蝶を中核に据え、渦巻く数多の陰謀に惹かれ手を出した夢魔は、その代償を支払い力の大半を喪うことになった。現実の器がかりそめの死を迎え、領分である夢の中に還ったとき、そこにあった無数の星の煌めきを手に取ったが故だ。
 眠る星々は皆、よく知る娘と同じ顔をしていた。
 円と名付けたことに深い意味はない。砕け散った心が全て集まるとすれば彼女を起点にするだろうという確信だけがあった。何れ鳥へと回帰する百の一片は、果たして器の主が目した通り、|泡沫《はは》の形を取り戻した。
 目醒めた|柘榴石《ガーネット》にとって誤算があるとすれば、長い旅の果てに欠片が手にした自我が、思うより堅固だったことだろうか。
 そも――彼岸は目を眇める。
 断片が断片足りうるのは、全てを遮断された孤独の裡にあり続けるときだけだ。夢魔である己が喰らい続けてきた心にあるのは、いつでも誰かの顔ばかりだった。人間は悲しいほどに相対的な生き物で、良くも悪くも比較によってしか自己を形成出来ない。裏を返せばそれほどまでに他者に影響されやすいものでもあるということだ。器を得た円を取り巻く縁は多く、対等に言葉を交わす者が生まれた以上、同化を拒むのは当然の帰結といえよう。
 だが。
 指先に止まる蝶の真なる主が、それを望まぬのも解している。
 今もこの器に宿る不要な欠片たちを探し、胸奥に爪を立てる気配がある。|天鳥《あとり》と呼ばれる祭神が、最後のひとかけを補われ、胎動を始めた証左だった。
 彼女を崇める者どもは構うまい。
 その本質が嘗て天鳥様と呼ばれた娘と別のものに挿げ替えられていたのだとしても。
 必要なのはその血だ。命を紡ぎ富を織り成す、他の何者も持たぬ無尽蔵の焔だ。真に重要なのは器であり、心ではない。果てに中身を砕かれた彼女の虚ろを埋めるように、迸る炎の病神が巣食ったのだとしても。
 或いは――。
 それこそが彼らの望みだったのか。
 眉を顰めた彼岸の視線を追うように、炎を纏う翅が揺らいだ。白金の――女の器となった身が本来映していた――髪を煩わしげに掻き上げ、夢魔は|緩慢《ゆっくり》と立ち上がる。
 外見の印象と較べ、円は脆い。
 心の弱さを指していうのではない。干渉に対する防護が薄いのだ。誰の性質を受け継いだか、よるべを持たずとも一人駆けていく鳥の如き足取りとは裏腹に、継ぎ接ぎの存在の隙間をこじ開ける力に弱い。いかに|金剛石《ダイヤモンド》であろうとも、ほんの僅かの傷に衝撃を与えれば割れるものなのだ。
 その間隙を嘲笑い、焔の邪神が彼女たちを奪おうとする。哀も憐も亡くした朱い鳥籠の鳥を絡め取った悪意が、遺された煌めきのひとさじすらも欲に染めようとしている――。
 今度こそ、彼岸の隻眼に侮蔑と嫌悪の色が浮かんだ。
 夢魔とは人の心に巣食うものだ。その欲望を引き摺り出し、一夜の夢と映し出す。一炊にも満たぬ甘美な幻想に溺れた者どもを喰らい生きるのが本質である。人間がこぞって目を背ける汚泥は、彼岸にとっては絶好の|餌場《・・》だった。
 今に限ってそう思えぬのは――。
 己の手中にあるものを弄ばれることが不愉快だからか。夢魔一匹にとってはかかずらうも厄介な領域に、今更手を引けぬほどに深く足を踏み入れてしまったからか。
 或いは。
 嘗て普通の少女を|希《のぞ》み、桜を愛でて笑った娘の横顔を、未だ鮮明に覚えているからか。
 深く息を吐き、彼岸は一度寝台に身を沈めた。暫し中途半端な恰好で起こしていた体が、軋むような痛みを訴える。
「相変わらず、肉の器の維持は面倒だな。よくもまあ、お前はこれが気に入るものだ」
 応えはない。
 彼岸の顕現を悟り、泡沫の娘たちは息を殺して肉体から去った。おおかた精神世界で、姉ではないものが再び己の領域に戻るのを待っているのだろう。ようやく静寂を取り戻した大洞の中で眠っているのは、胡蝶と彼岸の混ざりである女だけだ。その意識も深く沈んでいるに違いない。
 沈んでいると称するには語弊がある。沈めなければ先に引き千切れていた――というべき状況だ。虚ろな器に宿った邪神は幽かに残った天の鳥の自我をも蹂躙した。今も絶えず脳裡に干渉を続ける彼女から感じ取れるのは、焼き付いた絶望と喪失の苦痛だけだ。その始まりが何であったのかさえ、もう理解は出来ていないだろう。駄々を捏ねる子供のように無作為に振り回される爪は、彼女からの干渉をじかに受け取る円を容易に破壊しうる。
 しかし――彼岸花を咲かせた眸をなぞり、鋭く巡らせた隻眼が部屋の隅を捉える。
 凝る気配は、最後まで紅色を睨み付けた一欠片の存在を知らせている。曖昧に現世に残るばかりのそれは、器の主にとっては意外なものだった。
 人間が強く意味を見出す|名付け《・・・》という行為が、どれほどの効力を齎したものかは分からない。だが少なくとも、累と名を受けた彼女は、苗床とした誰かの影響を凌駕して自我を得ている。他の欠片たちが巣食った心を土台にして、人格というべき皮を構築しているのとは、明らかに違う。
 九十八の娘たちは皆一つに戻ろうとする。遠く離れた空から塒へ戻ろうとする鳩と似たようなものだ。一様に同じ本能に根差して行動しているにすぎず、その発露に多少の差異があったところで、行動原理を見れば大差はない。
 欠片というのは、本質的には群体なのだ。
 彼岸の夢魔の干渉を受け、胡蝶を絡め取らんと狙ったものの一端を宿し、そして泡沫の核としてある円が|個体《・・》となったことと同じとでもいうのだろうか。累は自らが|望んで《・・・》胡蝶に回帰しようとしている。敵意に似た感情を向ける、|宇宙鉱石《カーメルタザイト》に似た色をした彼女もまた、姉という個体の干渉により|黝簾石《タンザナイト》の群体を逸脱しようとしているのかもしれない。
 良い兆しなのか、或いは破滅の予兆なのか、彼岸には判別がつかない。
 だが少なくとも邪神にしてみれば面白いことではあるまい。既に篭絡したものの核が自意識を得て、自らの意志で何事かを成そうとする。不要な塵芥が視界にちらつくほど煩わしいこともないだろう。
 例え抱くのが相容れぬ意志だったとしても――。
 本人たちの自覚に拘わらず、円にとっての累という存在は、思うよりも重要な役を果たすのかもしれなかった。
 泡沫のまどろみは弾け、鳥籠に臥した雛の折れた翼には炎が巣食った。破られた膠着の先に、円の願いが――彼岸の望みが叶うのならば、それも悪くはない。
 砕けた|夢見の胡蝶《はは》の一つではなく、一つの命として在ることを選んだ百鳥・円の描く終幕を、見届ける。
 毟られた蝶の翅を拾い上げ、雁字搦めの鎖から鳥を解き放ったとき、彼女は初めて一人の人間となるだろう。根付いた自我の果てにあるものを前に、笑うだろうか。それとも泣くのだろうか。|胡蝶《はは》を宿し、|彼岸《ちち》に宿った、どちらにも似ぬ表情を思う。
 哀憐を司る欠片たちの中にあり、唯一慈愛を抱いたひとさじは、宿した心の成すままに走り出した。群の願いを捨て個の祈りに手を伸ばすに飽き足らず、その小さな手に掴むには大きすぎる夢に光を見る。息を止めて走り抜けた先に奈落が待っているのだとしても、傷に塗れた足が竦むことはないのだろう。二人分の痛みを背負いながら血泥で汚れる形振り構わぬ姿に、彼岸は力の多くを与えたのだ。
 百鳥・円の心に宿るのは。
 ――紛れもなく我欲だ。
 人間にのみ許された特権である。まざりの夢魔は食むべき甘い大団円に手を伸ばし、彼岸の悪魔はそれに手を貸した。翅を灼かれた胡蝶の墜落を救い上げられるか否かは――。
 全て、|ただ一人《・・・・》にかかっている。
 どこか楽しげに、隻眼の女は立ち上がる。揺らぐアストラルの気配に唇の端を持ち上げて、常より低い声が声帯を震わせた。
「アンタは随分と俺を嫌っているようだが」
 ――紅色は、かの|宇宙鉱石《カーメルタザイト》を捉えている。
「俺はアンタの齎す結末にも興味がある」
 自ずから回帰を望む者。
 姉の手で名を掴まされた欠片が如何なる変遷を遂げ、何を選ぶのか――籠の鳥に手を差し伸べたときと似た気紛れな興味に、やはり警戒と敵意の気配が曖昧に揺らいだ。
 毛を逆立てる猫の如き声のない返答に、小さく鼻を鳴らす。仕草と裏腹に、柔らかな色を刷いた隻眼は、無造作に宿に備え付けられた紙とペンを握った。
 邪神の胎動が齎す干渉はそう簡単に終わらない。少なくとも一夜を超えるまでは、彼岸が器を操る必要があるだろう。夢に潜む悪魔の力が最も強くなる満月とあれば都合が良い。
 少しだけ――。
 |可愛い娘《・・・・》の祈りに、手を貸してやっても良いだろう。
「少しは役に立ってやろうというんだ。起きたら減らず口を叩くより先に、感謝することだな」
 胸の裡に眠る女に独り言ち、夜の帳を裂くように、彼岸の君は歩き出した。

 ――朝だ。
 いやに重い体をゆっくりと起こし、円は頭を抱えた。
 頭痛の残滓が瞼の奥を刺す。めちゃくちゃに乱したはずのベッドの中で、綺麗に布団を被って眠っている不自然さに気付くのが、僅かに遅れた。
 記憶がない。一夜を丸ごと起きていたかのような倦怠感は、半ば気絶に近い形で意識を失ったことの弊害と考えても良いだろう。だが視界すらも覚束ないほどの痛苦に侵されながら、常と同じような恰好で眠ることが出来ようか。
 まず疑ったのは、常に隣に在る見えざる妹だった。
「まさか、物質に干渉出来るようになったんですか、かさね――累?」
 邪神の力が強まったということは、その一端である彼女が成せることが増えていてもおかしくはない。もし本当にそうであるのなら――。
 唇を引き結び見据えた先の、よく似た顔をした妹は、ひどく不満げな表情で首を横に振った。
「何ですか、その顔は」
 問うたところで返答はない。常の囁くような笑声も返らなかった。
 思えば心裡にあるはずの妹たちも、今朝は妙に静かだ。まさかあの波濤に呑まれたかと動揺したのも束の間、幽かに蠢くような感触ののち、彼女たちはめいめいいつもの調子を取り戻したようだった。
 ようやく戻って来た喧噪に苦笑する。安堵にも似た心地を否定する気にもなれないまま、円はベッドから滑り降りた。
 準備するべきことは多い。妹たちとそっくりの星屑の髪をウィッグの下に隠し、藍色の双眸をカラーコンタクトで覆う。念入りな化粧で面立ちを変えるには、世の女性がそうするよりも時間が掛かるのだ。
 心には未だ波紋が揺蕩っている。だが思うほどの動揺はなかった。彼女たちが集まった以上、遠からず|こう《・・》なることは覚悟していた。知りながら回帰を拒んだ時点で、円はとうに腹を括っている。
 まあ。
 ――涯に辿り着くまでの、気が遠くなるほどの道のりに、気が重くならないではないが。
 とまれ確信を得たからには、まずは動かねばなるまい。座してどうにかなるような相手ではないし、解法をただ考え続けるのは性分にも合わなかった。動き出したからには自然と集まるものだろうが、有益な情報を収集せねば――とまで考えたところで、ふと机上に目が行った。
 備え付けの立派な机だ。大きなテレビの液晶には、今しがた点けたばかりのニュースが流れている。
 その手前に――。
 無造作に置かれた紙がある。覚えはなかった。少なくとも眠る前に髪を梳かしていたときは、何も置いてはいなかったはずだ。
 よく見れば、ペン立てに刺さっているはずのボールペンも付近に転がされていた。明らかに何者かが干渉した痕跡だ。咄嗟に鋭く周囲を見渡すが、第三者の気配は感ぜられない。手鏡の前に並べた化粧用具のことは一度置いておき、慎重に足を進めた。
 果たして。
 円のものではない筆跡が、走り書きを残してある。
 見てみれば何枚ものメモに幾つもの情報が示してあった。どれも無関係の語句のように見えるが、全てに目を通した刹那、彼女の脳裡には閃光のように一つの確信が強く過った。
「――んふふ」
 零した笑みは、心底の安堵に似た形で唇を彩った。
 |彼《・》は――。
 円に力の多くを譲り渡し、幻の中にのみ住まい続ける父は。
 彼女と同じことを望んでいる。そうでなかったとして、彼女の成さんとしていることを、決して拒んではいない。
 他者の願いを呑み込むことに長ける円からしてみれば、それは望外の喜びだった。常であれば口を衝く憎まれ口の全てを飲み乾して、代わりに上機嫌な声にすり替える。
「とっても癪ですが、まずは感謝してあげましょう」
 得られたのは断片的な単語と、一行にも満たない文章の羅列だけだ。それでも示す先を朧に描くことは容易だった。しるべのないまま海を彷徨うより、遠くであっても陸地の光が見える方が、よほど良い。
 メイクの出来栄えは常より良かった。肉体の寝不足を隠す明るいチークに満足げな笑みを刷き、円は常と同じ表情で振り返る。
「行きましょうか、累」
 ――|夢見の胡蝶《あなた》にアイに。
「そんな顔をしても駄目ですよぅ」
 まるで駄々を捏ねるかのような表情を笑う。成すべきことは多く、掴む結末は決して甘美ではないだろう。
 それでも。
 円は、円を生きねばならない。
 仮宿の扉を開き、女の足は軽やかに籠を飛び出した。

 かくして錆びた歯車は|環《めぐ》る。
 紅色の炎に軋む断末魔が、乾いた唇を揺らす。喪われた比翼を埋める六枚の翼が、歪んだ命の信仰を食い荒らし嘲笑う。
「かえして」
 無垢だった娘の悲鳴だけが響く朱色の監獄の中に、信者の声はない。食い込むほどに握り締めた鉄格子の向こうに、重苦しい紅色の重石を纏う娘は枯れぬ曼殊沙華を見ていた。
 伸ばした手は届かない。歩くことすら儘ならぬ高下駄を引き摺り、豪奢な衣裳の下に無数の傷跡を刻まれた娘の脳裡には、あの日の地獄が概念としてこびりついている。
 風切り羽を折られた天の鳥は、今や始まりすら想起出来ない。眼窩を満たした紅色の中に何があったのかも分からぬまま、病神の哀燐のみを身の裡に燃やした。
 飛び方すら知らぬ雛鳥は、ただ。
 ただ――虚ろな心に刻み付けられた、片翼を奪われる絶望の痛みに喘いでいる。
「かえして――!」
 ――嘗て彼女の|かみさま《・・・・》がそうしたように、その手を握り返す者があるまでは。

成功 🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔵​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​🔴​



最終結果:成功

完成日:2023年02月26日


挿絵イラスト