彼女がこの街にやってきて、もうどれくらい経っただろう。萌庭・優樹は紙袋いっぱいの資材を抱え、煉瓦の道を歩いていた。お洒落なカフェやブティックに彩られた通りは田舎育ちの彼女には眩し過ぎて、最初はどぎまぎしたものだが、このところはもう随分と慣れた。足の不自由な店主に代わって道具屋の仕入れに奔走するのは、今ではすっかり彼女の仕事になっている。
「――あ」
背中に届く長い三つ編みを弾ませて、優樹ははたと足を止めた。何気なく通り過ぎかけたショーウィンドウの硝子には、そばかすに長い耳をしたエルフの少女がくっきりと映り込んでいる。そしてその向こうには、一着のワンピースが飾られていた。
「……可愛い服だ」
硝子にぺたりと片手を触れ、呟くように優樹は言った。白を基調に薄緑のフリルを飾ったそれはいかにも淑やかげで可愛らしい――けれどその一方で、自分では選ばない服だなとも思った。御伽噺の姫君のように蝶よ花よと大事にされるより、誰かにとっての『王子様』になりたい。それが優樹だ。だから服装も自然と活動的なものを選ぶようになり、こういう服を手に取る機会は殆どなかった。
なかった、のだけれど。
(「……こういう服、好きかなあ」)
真っ先に脳裏に浮かんだのは勤め先の店主であり、家主であり、彼女を拾ってくれた恩人でもある男の横顔だった。他愛もない彼女のお喋りを、柔らかな笑顔で頷きながら聞いてくれる――故郷の森の緑にも似た、優しい瞳の男。
率直に言って、優樹は彼のことが好きだった。さらに正確に言えばそれは単なる好感ではなく、恋と呼ぶべき感情であるのだが、これが初恋の彼女には向き合い方すらよく分からない。ただ、日頃の感謝を口にするのは容易い傍ら、恋心を打ち明ければ今の関係が壊れてしまうような気がして恐かった。だから未だに胸に秘めたままでいるのだが、洋服などを見ているとどうしたって彼のことを考えてしまう。
「よろしければ、試着してご覧になりますか?」
「へっ?」
突然の声掛けに驚いて、優樹は背筋を震わせた。振り返って見ればブティックの扉がいつの間にか開き、店主らしい身なりのいい老婦人がにこやかにこちらを見つめている。緊張にあたふたと口籠りながら、娘は姿勢を正した。
「あ――でも、おれ、あんまりお金持ってないし」
こういう服は似合いそうにないですし、と、娘は恥ずかしそうに長い耳を下げる。すると老婦人は、ころころと上品に笑って言った。
「あなたくらいの歳の女の子に、似合わない服なんてありませんよ」
どうぞと促されておっかなびっくり足を踏み入れたブティックには、彼女の洋服箪笥にはないような服がそれは沢山並んでいた。そのうちの一着にそっと手を触れてみて、優樹は思案する。
(「お客さん以外の人と話してるとこ、あんまり見ないけど」)
そういえばいつも緑の前掛けをしているけれど、緑色が好きなのだろうか? いや、そうとも限らない。でも、白に緑のあのワンピースなら彼の彩とお揃いだ。でも彼女の鮮やかなオレンジ色の瞳に、彼の緑が似合うかどうか――けれどもし、いつか二人きりでデートする日が来るとしたら、どうするか?
「あの……すみません」
ここにある服、試してみてもいいですか。
勇気を出して尋ねると、喜んでと店主は応じた。
チョコレート色に鮮やかな橙を差したオランジェットのアンサンブルも、ベージュ基調の大人びたニットも、少し幼げなジャンパースカートも。どんな服を着たってあの人なら、『よく似合うよ』と笑ってくれるのだろう。
そんなことは、分かっている。けれどそれでも悩まずにはいられないからこそ、人はその想いを恋と呼ぶのだろう。
成功
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