彼れは快く晴れた秋の日のことでした。
前の日の夜、眠れなくて寝坊をしたわたしは、朝目が覺めて、甘く微かなにほひに氣づいたのです。
長い間臥せつていたせいか、身体はひどくきしみましたが、じつとしてはいられなくて、わたしはベツドを降り、上げ下げ窓を開けたのです。
花のにほひが濃くなりました。二階の窓まで届く大きな金木犀が、山吹色のかわいい花をたくさん、たくさんつけてゐました。
思はず窓から身を乗り出して、さうして、わたしはあなたと出逢つたのです。
此の家も、此の庭も、花の香りもあの頃のまゞ。
陽の光にあたれぬわたしは、今も変わらず此の部屋のなか。
あなたは今、どこでだうしてゐるのでせう。
わたしを、忘れてくれましたか。
幸せであつてくれましたか。
今、命のおはりを前にして、たゞ其ればかりが氣がかりです――。
●遺花
昨秋、とある華族の令嬢が細く長い生涯を閉じた。彼女は生まれつき病弱な体質でありながら、持ち前の前向きさで闘病を続け、実に七十余年を生き続けたが、胸の病を患ってからはあれよあれよと動けなくなり――最期は、お手伝いの娘一人に見取られた。
それからのことだ。
もう誰もいない屋敷の庭に咲く金木犀が、冬になっても春を越えても、夏を迎えてさえもなお、散らず咲き誇るようになったのは。
「初めまして。今日は皆さんにお願いしたいことがあって、此方へ伺いました」
そう言って、海棠・茜(春花筐・f18992)はぺこりと頭を下げた。花色の袖から覗く右手を上に向けると、そこにグリモアが浮かび上がる。
「実はこのところ、帝都市内で影朧のようなものが目撃されているのですが……」
「ようなもの?」
聞き返す誰かの声に応じて、少年は頷き、言葉を選びながら続ける。
「はい。ようなもの、というのは……それは、いわゆる影朧と呼ぶには少し、あやふやな存在で」
形のない、黒ずんだ靄のような影朧は特別に悪さをするわけではない。ただふよふよと漂って、人々に不気味がられているだけで、今のところ実害と呼べるものはないに等しい。尤も今はそうだというだけで、この先もそうである保証はなく、捨て置けば危険な存在であることには違いないのだが。
「どこに現れるというのも、はっきりはしないんです。劇場だったり、『ぱあらあ』だったり、神社だったり……強いて言えば、若い女性に好まれるような場所が多いでしょうか」
とはいえ、その限りでもないと加えて、茜は睫毛を伏せた。
「もしかしたらその影朧は、何かを探しているのかもしれませんね」
現状、影朧の正体は全くの不明だ。しかし彼ないし彼女を救うには、その素性や望みについて知らないことには始まらない。ですので、と遠慮がちに口にして、少年は言った。
「皆さんにはその影朧を見つけ出して、話を聞いてあげていただきたいのです」
そして叶うならどうか。その想いに寄り添い、救って欲しい。
祈るように続けて、少年は再び深々と頭を下げた。
遺された想いを知る者は、今はただその影朧のみである。
月夜野サクラ
お世話になっております、月夜野です。
切ない話を書きたいターンがきました。
●第一章:ボス戦
問題となる影朧は、帝都市内を彷徨い歩いています。その姿はあやふやで、彼/彼女が何者かさえも、邂逅直後は分かりません。
この影朧が何者で、どんな想いを抱えているのか、対話を通じ皆さんの言葉で聞き出してあげてください。
OP冒頭にある散らない金木犀のある屋敷については、噂で聞いて知っていても構いません。
●第二章:冒険
影朧に付き添って、その目的地まで同行します。
具体的には、章開始時に断章などでご案内します。
●第三章:日常
詳しくは章開始時に断章などでご案内しますが、花を見てしんみりまったりする雰囲気と大体ご想像いただいて大丈夫です。
茜に何か御用の際は、お声がけ頂ければ本章にのみ顔を出します。
●プレイングの受付期間について
新章の開始ごとにタグとマスターページにてご連絡いたしますので、お手数ですが都度ご確認下さい。
フライングや締切後に送付頂いたプレイングは、申し訳ありませんがお返しさせていただきます。
●諸注意
・一〜二章は複数のプレイングをまとめて採用する可能性があります。指定の同行者以外とのまとめて採用がNGの場合は、プレイング中に【個別】とお書き添え下さい。
・複数名でご参加の場合は、同行する方のIDやグループ名を明記ください。
・採用人数は少なめを想定しています。想定より多くのプレイングを頂いてしまった場合、内容に問題がない場合でもプレイングをお返しさせていただく場合がございます。
・シナリオの雰囲気にそぐわない行為、合意のない確定プレイングやその他の迷惑行為、未成年の飲酒喫煙など公序良俗に反する行動は描写いたしません。
なお、先にお詫びしておきますが歴史的仮名遣いは適当です。諸々ご了承頂けますと幸いです。
それでは、皆様のご参加を心よりお待ちしております!
第1章 ボス戦
『影竜』
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POW : 伏竜黒槍撃
【影竜の視線】が命中した対象に対し、高威力高命中の【対象の足元の影から伸びる黒い槍】を放つ。初撃を外すと次も当たらない。
SPD : 影竜分身
【もう1体の新たな影竜】が現れ、協力してくれる。それは、自身からレベルの二乗m半径の範囲を移動できる。
WIZ : 影界侵食
自身からレベルm半径内の無機物を【生命を侵食する影】に変換し、操作する。解除すると無機物は元に戻る。
👑11
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●誰かさんのひとりごと
ざわざわと、ひそひそと。たくさんの人が囁きあう声がする。
有名人でもいるのかしら?
もしそうだとしても、わたしには分からないわね。こうして街を歩くのだって、ほとんど初めてなのだもの。
メトロに乗って、浅草で降りて、階段を上がったら賑やかな声のする方へ。
これが仲見世? 色んなお店があるものね。食べ物はどれも美味しそう。簪も――ああそういえば、あの人がくれた簪も、この辺りで買ったと言っていたっけ。
? どうかしたの、あなた?
何をそんなに驚いているの?
慌てて走ると転びますよ――ほら、言わんこっちゃない。
「影朧だ! 影朧が出たぞ!」
…………いま、なんて?
ラファエラ・エヴァンジェリスタ
…影朧、か
もしもこの世界に生きて死ねば、私がそうだったやも知れぬ
嗚呼、野次馬どもの声が耳に障る
不機嫌さを隠しもせずに扇を打ち開き
UCに威圧を混じえて少し黙らせよう
あの影朧がおそろしいか?であれば下がれ、そして黙れ
…この影朧は不思議と怖くない
一応は野次馬を背に守る位置で影朧に向き合い
敵意を向けて来ぬ限りは対話に徹する
影朧よ…貴公、名を何と言う
何故此処に居るかは、思い出せる?
解らぬならば、貴公のことを教えておくれ
如何に生きて、死んだのか
因果なものよな、お互いに
命尽きて尚眠りに就かせてくれぬ未練は何であろうかね
買い物したさに浮世に留まる訳もあるまいし
貴公、誰に会いたかった?
誰が恋しくて此処に居る?
花色衣・香鈴
グリモア猟兵さんの話を聞いた時、胸が軋んだ
他人事だと思えなかった
だから
「こんにちは」
影朧の前に進み出て微笑む
大丈夫
わたしは戦巫女、きちんと心を静めれば魂の相手は出来る筈
纏う羽衣は握らず、市井の人々とその声を禍祓いの鈴の音で遠ざける(UC発動)
わたし達と目の前の影朧を囲う結界の様な使い方
一礼し、臆さず影朧に真っ直ぐ目を向けて
「花色衣・香鈴と申します。あなたのお名前は?」
返しを聞くが早いか不意の発作に咳き込む
…否、これは多分好機
「すみません。嗚呼、具合が良い内に見つけないと…金木犀のお屋敷…」
話題に反応してくれると良いのだけれど
「探しているのです、母が教えてくれた…この瞳の色に似ているという花を」
夜鳥・藍
そっと影朧に近づいて挨拶を。
こんにちは。お困りではありませんか?もし道に迷われているなら案内いたしますよ。
なるべく影朧の注意をこちらに向けるようにして、他の一般の方々に目が耳が行かないようにしましょう。
それにその方が落ち着いて避難もできるでしょうし。
影朧が正しく冷静にご自分がどういうものか捉えて下さればいいのですが、パニックになってはどちらにもよろしくないと思うのです。
元影朧だった私としてはこういう方々のお手伝いは微力ながらやっていきたい。
転生してもなお未練が残ってしまって苦しんだ私が言うのもなんですけどね。それでも幸いなことに協力もあってそれも解消されましたが。
夜刀神・鏡介
彷徨える影朧……か
俺個人としては救済に拘る訳じゃなし、問題が起きる懸念があるなら早めに倒す方が、と考えない訳ではない
……とはいえ、それは多分お互いにとって良くない結果になるだろうって気はするんだよな。一先ず、様子を伺うとするか
とりあえず混乱していそうな一般市民達には、威厳を持って堂々と「問題ない、対処しに来た」的な事を語って落ち着かせた上で離れてもらおうか
落ち着いた所で、件の影朧と対峙
観の型【天眼】を使って観察しながら対話を試みよう
自身が何者か分かるか、何をしようとしているのか……辺りは必須で、後は流れに応じて適宜
ふむ……幾つかの点は掴めたが、それらを結びつけるには、まだ少し情報が足りないか?
都槻・綾
仄かな木犀の香りを辿って帝都を往く
人々の惑う声に振り向くも
淀んだ気配はしなかったから
霞む影へ柔らに笑んで一礼
こんにちは
散歩日和ですねぇ
けれど
目的無しの逍遥には見えず、と
首を傾いで見せて
何かお探しでいらっしゃる?
お困りでしたら
ご案内…と思いましたが
私も都に明るくないの
眉尻を下げての素直な詫び
街の観光がてら
一緒に宝探しをしませんか
申し出に驚くかしら
茶目っ気を笑ってくださるかしら
あなたの好きなこと
懐かしい日々や思い出
色々なお話しを聞かせてくださったら幸い
宜しければ如何、と
淡く笑んで
恭しく差し出す掌
ふわり漂う清澄な馨遥
浄化の香り
あなたの纏う霞が
虚ろに沈まぬように
今暫く帝都を歩けるように
お手伝いさせてね
クーナ・セラフィン
ようなもの、というのは何とも分からないね。
分からないまま戦うのもよろしくはない。
会話できるようなら少しでも探って知りたい所だけど。
…影朧自身がそこを楽しみたいのか、はたまたそこにいる誰かを探しているのか。
劇場辺りを中心に探してみる。姿なければ屋根に上って周囲を確認。
影朧見つけたらまずは警戒心を解くように礼儀正しくご挨拶。
此方から名乗って影朧の名前を聞いてみて、探し物か尋ね人でもいるのかいと。
とりあえず落ち着いて話せる場所に行かないかと誘い、そこで事情を聴く。
もし何かしたいならできる範囲で付き合うよ。
カフェでのんびりと、とかは難しいかもだけども代わりに何か買ってきたりとか。
※アドリブ絡み等お任せ
●屋根の上のケットシー
桜舞う帝都の空を背に、連なる屋根の棟を白猫が往く。
銀座辺りは探し尽くした。日本橋から神田、上野と移るうちに、瀟洒な建物は次第に成りをひそめ、街並みは瓦葺の屋根へと姿を変えていく。
「ようなもの――というのは何とも、分からないね」
ぽつり、呟いてクーナ・セラフィン(雪華の騎士猫・f10280)は足を止めた。この話を持ち込んだ猟兵によれば、その影朧らしきものは何か悪さをするでもなく、帝都市内をふらついているというのだが。
(散策を楽しみたいのか――そこにいる誰かを探しているのか)
分からないまま戦うのも、よろしくはない。
不忍池を遠目に眺め、桜咲き誇る上野の山を往き過ぎて、或いはもしやと足を向けたのは、下町、浅草、浅草寺。そして商店街の庇の上を点々と跳ねるうち、猫はぴくりと耳をそばだてた。
「影朧だ! 影朧が出たぞ!」
誰かの叫ぶ声がした。影朧が出た、と確かに言った。それが彼女の探しているのと同じものかは定かでないが、市井に影朧あらばそれを捨ておくわけには行かない。
(会話ができるようなら、少しでも探れるとよいのだけど)
オリーブグリーンの羽根つき帽子をきちんと目深に被り直し、猫は走り出した。
●儚き影
浅草寺の仲見世通りに、影朧が出たそうだ――。
白昼堂々姿を現した影朧に浮足立つ人々の喧騒は、周辺を警戒する猟兵達の耳にすぐさま届いた。夜刀神・鏡介(道を探す者・f28122)もまた、そんな猟兵の一人である。
(彷徨える影朧……か)
軍靴の踵を鳴らして駆けながら、左手は自然、腰に佩いた刀の鯉口を切る。
大切なのは、今を生きる人々の命だ。件の影朧がそれを脅かす可能性がゼロではない以上、問題を未然に防ぐためには早めに討伐することも、或いは考慮に入れるべきだろう。少なくとも鏡介自身は、影朧の救済に特別拘っているわけではない。しかし――。
胸に靄の掛かったような思いで、青年は眉をひそめた。
(とはいえ、それじゃあお互いに良くない結果になる気はするんだよな)
まずは、行ってみるしかないか。腹を括って、逃げ出そうとする人々の流れに逆らい大提灯の下を潜る。そこに、一人の少女が飛び込んできた。
「あなたも猟兵さんですか?」
「ああ、そちらもか」
はい、と頷いた少女は、名を花色衣・香鈴(Calling・f28512)と云う。紅白の巫女服の肩口には、八重咲の花が咲いていた。それは一瞥して、造花装飾の類でないことが分かるほどには瑞々しい生気を帯びていたが、あまりじろじろと見るのは憚られて、鏡介は石畳の先へと視線を戻す。その隣に並んで走りながら、香鈴は物憂げに睫毛を伏せた。瞳の色は奇しくも、噂に聞いた華族屋敷に咲く花と同じ橙色だ。
駆ける脚を速めれば、道の両側に立ち並ぶ――ひしめく、と言った方が正しいのかもしれない――店舗が流れるように後方へと飛び去っていく。分かれ道の度に左右に視線を走らせ往くと、行く手の十字路に人だかりが見えた。
「――五月蠅い」
ぼそりと口にした言葉には、隠す気もない不機嫌が色濃く滲んでいた。ラファエラ・エヴァンジェリスタ(貴腐の薔薇・f32871)は黒いヴェールの下、整った貌をしかめる。影朧を真に畏れるものは、とうにこの場を逃げ出した――ここに残っているのは、害のなさそうな影朧を興味本位で覗き見ようとする野次馬ばかりだ。右の手首をしゅ、と一振り、漆黒の洋扇を打ち開くと、黒衣の寵姫は言った。
「あの影朧がおそろしくば、下がれ――さもなくば、黙れ。あれなるは野次馬の見世物ではない」
空気を伝わるぴりぴりとした威圧感は、野次馬達を委縮させるのには十分過ぎるほどだった。蜘蛛の仔を散らすように逃げていった彼らと入れ替わるように、他の猟兵達が現場へと駆けつける。心配そうに事の成り行きを見つめるしかない仲見世の店主達をとりなして、鏡介が言った。
「問題ない。ここは俺達が対処する」
念のため少し離れていてほしいと申し添え、鏡介は改めて、その場の中心にいるものを見た。
影のような、靄のような形は、確かに影朧と呼ぶにも少々頼りなく、総じて邪悪、憎悪といった淀みの気配は感じられない。ただ、もやもやとそこに在る、というだけだ。さてどうしたものかと思っていると、一歩前に進み出る者があった。
「こんにちは。散歩日和ですねぇ」
石畳を音もなく踏んで、都槻・綾(絲遊・f01786)は語り掛ける。丁寧に一礼して微笑みを向けると、思いがけず、返事があった。
「ええ、本当ね。少し暑いけど、とっても気持ちがいいわ」
小首を傾げるように黒ずんだ身体を傾けて、それは言った。声はまだ掠れていて聞き取りにくいが、それでもどうやら女性であるらしいことは分かる。そして思いのほか、彼女は機嫌がよさそうだった。
どうやら話が通じそうだと見て、猟兵達は視線を交わし合う。
「あなたたちは、どなた?」
品のよさそうな口ぶりで、影朧は問う。名乗るほどのものでもありませんが、と前置きして、夜鳥・藍(宙の瞳・f32891)が答えた。
「何か、お困りなのではないかと思いまして。もし道に迷われているなら案内いたしますよ」
「ううん、そうね、迷っているのとは違うのだけど……」
現れた猟兵達を相手に、どこまで打ち明けてよいものか。影朧は少し、迷っているように見えた。そしてきょろきょろと緩慢に首を振り、続ける。
「あの方達、どうなさったのかしら。さっきからずっと、こちらを見ているようだけど」
言われてちらりと、藍は背後を見やる。野次馬達のほとんどはラファエラの一喝で去って行ったが、それでも遠巻きに見ている者は少なくない。なるべく、こちらの話に集中してもらいたいところだが――そう考えていると、シャン、と鈴の音が鳴った。
「どうかお気になさらず。きっと、私たちのことが珍しいのです」
香鈴の操る禍祓いの鈴の音は、攻撃、ひいては人の害意や雑音を遠ざける。大丈夫――心を静めて向き合えばきっと、迷える御魂の相手もできるはず。静けさを増した仲見世通りの中心で、戦巫女は一つ深呼吸し、身に纏う羽衣を握る指をそっと解いた。
「わたし、花色衣・香鈴と申します。あなたのお名前は?」
「まあ、ご丁寧に。わたくし、六条・壱乃と申します。皆さんは、ご学友か何か?」
「ええ、まあ、そんなところで――ッ」
げほ、ごほ。
咳き込む香鈴の口許から、ひらりひらりと花が散る。あら、と長い首を傾げて、影は――『壱乃』と名乗った影は言った。
「あなた、大丈夫? お身体が悪いの?」
「すみません、大丈夫です」
苦しそうに身を屈めた少女を気遣うように、影朧は前傾した。そして何を視たものか――はっとしたように動きを止める。
「あなたの瞳、きれいな色ね。うちの庭にも、同じ色の花の木があったわ。金木犀なのだけど、秋になるととってもいい匂いでね」
ぽやぽやと語る口ぶりは、日溜まりに座った人の好い老婆のよう。敵意がないからか、あやふやで不穏な外見の割に恐ろしいとは感じない。半ば閉じた扇で口元を隠しながら、ラファエラは言った。
「何故此処に居るかは、思い出せる?」
「思い出せる?」
不思議なことを訊くのねと、ころころ笑って『壱乃』は言った。その声色は少しずつ、柔らかい女の声に変わりつつあった。
悪い人達じゃなさそうだから、と言いおいて、影は続ける。
「あのね、わたくし、人を探しているのです」
「……人を」
ほとんど真下から聞こえた言葉に影朧は少し驚いたように長い体を竦ませたが、すぐさま、『可愛い猫ちゃん』と声を弾ませた。少々不本意な気もするが、そこはぐっと飲み込んで、クーナは恭しく一礼する。
「壱乃と言ったね。ここは少し騒がしいから、どこか落ち着いて話せるところにいかないか?」
「え?」
不思議そうに声を上げて、けれど影朧は見知らぬ猟兵達の誘いを拒もうとはしなかった。おしゃべりは好きよと朗らかに笑う彼女を連れて、一同は境内の隅に向かって歩き出した。
●彼女の探し物
「はい、ご所望のものだよ」
「ありがとう、猫さん」
白猫の手から拳大の揚げ饅頭をひとつ、通り抜けてしまいそうな手で器用に受け取って、影朧は満足そうに口へ運んだ。尤もそれが手なのか口なのか、猟兵達には判別がつかないのだけれども、饅頭が少しずつ欠けていくところを見ると、どうやら食べることはできるらしい。
「ごめんなさいね、我侭を言って。こういうお菓子、食べてみたかったの」
「いや、どうということはないよ。カフェでのんびりと、というのは難しいだろうけども、これくらいね」
ぱちんと片目を瞑って、クーナは言った。そうね、と笑って饅頭の最後のひと口を放り込む寸前、影ははたと動きを止め、そしてぽつりと口にした。
「わたくし、やっぱりもう死んでいたのね」
桜の大樹が枝を伸ばす境内の片隅で、猟兵達は『壱乃』に真実を告げた。人々が彼女を見て驚いた様子だったのは、彼女が人の形をしていないから。それは、今は亡い誰かの想いが形となった、影朧に他ならないのだと。
『壱乃』は少し驚いていたが、どちらかといえば納得をしたようで、ああ、と深く頷いたのだった。
「道理で、と思いましたのよ。病気で部屋から出るのも難しかったのに、気がついたら自由に動けるようになっていて。眠ったり、醒めたり、ふわふわして、その度に色んなところに出てしまうのだもの」
幽霊と言われたらその通り、ともう一度頷いて、影は揚げ饅頭を口に入れた。その様子を窺って、藍はほっと胸を撫でおろす。
(パニックにならなければよいと思っていましたが……)
恐らくは、自分でも薄々変だとは気がついていたのだろう。かなり老成した人物であるのだろう、影朧は思った以上に落ち着いた様子で、自分の境遇を受け入れたようだった。
書き留めたメモをじっと見つめて、鏡介が尋ねる。
「六条・壱乃。実家は本郷で、屋敷の庭には大きな金木犀の木がある。……鬼籍に入ったのは、昨秋か?」
「ううん、その辺りのことは、あんまりはっきり分かりませんの。でも、あなた方がそうだと仰るのなら、多分そうなのでしょう」
「ふむ……」
身元は、少なくともはっきりした。彼女の名前は六条・壱乃。本郷あたりの華族の娘だが、既に故人である。名前を調べてみないことには断定できないが、状況から言って件の散らない金木犀の屋敷の令嬢である可能性が高い。となると、残すところは彼女がここに居る理由だ。
「買い物したさに浮世に留まる訳もあるまい」
黒い扇を口元に添えて、ラファエラが言った。
「貴公、誰に会いたかった?」
短い生を鳴き叫ぶ蝉達を、焦がすような夏の陽射し。黒ずくめの服を纏っていても、汗粒一つ流すことのない身体は、目の前の『彼女』とそう違うまい。命尽きてもなお、眠ることすらままならないほどの想いを遺すとするならば、それは――多分。
因果なものよな、と呟いて、娘は重ねた。
「誰が恋しくて此処に居る」
しばし、蝉の鳴き声だけが花の木陰を支配していた。やがて重々しい沈黙を破って、影は静かに口を開く。
「……わたくしの父は、軍人でした。見どころのある部下の方を家に招くことも多く、いつもどなたかお客人を迎えて、たいへん賑やかな家でございました」
生まれつき身体が弱く、屋敷にいてもほとんど部屋の外に出られなかった彼女は、ある秋の日、庭の金木犀の香りに惹かれて窓を開け、屋敷を訪れていた一人の青年将校と出会った。桜舞う空を見上げて、『壱乃』は懐かしそうに言った。
「お名前は、黒崎・鷲也さんと仰るのです。とてもハンサムな、海軍の少尉様で」
ほとんど一目惚れだったと、照れたような声色で影は言った。
「お父様には内緒のお付き合いでした。わたくしは自分の部屋から出られませんでしたから、鷲也さんはいつも金木犀の大きな木を登って、わたくしは窓から顔を出して」
お互いに初めての恋だった。他愛もない話をして笑い合うだけの時間だったけれども、それがどうしようもなく楽しくて、愛おしかった。
「だけど……あるとき、お父様に見つかってしまって」
それでも彼女の父は二人が隠れて会っていたことに激怒した。特に、屋敷への出入りを許されているのをいいことに、自分の留守中に娘と隠れて会うなどと――と、鷲也に対する怒りは烈火の如くで、結局引き離された二人はそれっきり。彼がそれからどうなったのか、どうしているのか、どんなに尋ねても父は教えてくれなかった。季節が廻り、庭の金木犀が咲くたびに、想いばかりが募ったけれど。
「だから、ね。わたくしは――」
言いかけて、影ははたと言葉を切った。紅く茫洋と光るその目の前に、白い手が差し伸べられる。途切れた言葉の先は、その場の誰もがもう識っていた。
「ご案内……と思いましたが、私も都に明るくないの」
申し訳なさそうに眉を下げて、綾は笑い、そして続けた。
「だから。観光がてら、一緒に宝探しをしませんか」
あなたが見失ってしまった人の、足跡を辿って。
「……あら。まあ。……まあ」
宜しいの、と尋ねる声を、拒むくらいなら彼らは此処にいない。宜しければ、とにこやかに、伸べた手と反対の手を胸に添えて、綾は言った。
「道中、あなたの好きなこと、懐かしい日々や思い出など。色々なお話しを聞かせてくださったら」
まあ、まあと驚いて、けれど嬉しそうに声を弾ませて、影は形のない手をそうっと身体の前に上げた。そして差し出された手を取った――瞬間。
「あ、」
ふわり、薫るのは浄化の香。それは彼女の身体に寄り集まった黒い影を、ゆっくりと取り祓っていく。淡い花色を帯びた光が彼女を包み、やがて桜の花弁にも似た粒子となって、夏の青空へと舞い上がる。
触れた掌は、白。そこから伸びる腕と身体を包むのは、矢絣の小袖に緑の袴。光が消えて後に残ったのは、長く明るい茶色の髪を緩い三つ編みに結った――少し色褪せた、一人の少女だった。
「……あら、あら?」
変ね、と両手を見つめて少女は言った。
「わたし、もうお婆さんなのよ」
この手は女の子みたいと、ころころと笑う声は鈴のように綻んで。綾は眩しげに目を細めると、娘の手を取った。
「あなたの纏う霞が虚ろに沈まぬよう、お手伝いさせてね」
邪気に引きずられることなく、今しばらくこの帝都を歩けるように。
ご一緒しますと微笑んで、香鈴は娘の反対側の手を取った。
「探しに行きましょう。あなたの、逢いたい人を」
散らない金木犀の咲く家で亡くなった、寂しい人。病魔に侵されながらも、懸命に命を咲かせた人。そんな彼女の生き様が、他人事とは思えなかったから。
ありがとうと微笑む『壱乃』の表情には屈託がない。歩き出した影の娘と仲間達の背を見つめて、ラファエラはほうと息をついた。
「影朧、か」
もしも彼女が生き、そして死んだのがこの世界であったならば、或いは彼女自身も、そうなっていたのかもしれない。想いを遺し、そして桜の精に救われて、やがて生まれ変わる影朧という存在に。
短い呟きに込められた想いを知ってか知らずか、藍もまた独り言のように言った。
「すべての影朧が、生まれ変われるとは限りませんけれどね」
でも、救われないとも限らない。
勿論、転生をすればそれで万事解決というわけではないけれど、たとえ未練が残ったとしても、新たな生は新たな可能性を与えてくれる。
その名と同じ色の瞳で見据える先、朗らかに微笑む『壱乃(かのじょ)』にも、そんな未来があればいい。そんな風に願いながら、藍は仲間達の背を追い、仲見世通りを駆け出した。
大成功
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第2章 冒険
『はかない影朧、町を歩く』
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POW : 何か事件があった場合は、壁になって影朧を守る
SPD : 先回りして町の人々に協力を要請するなど、移動が円滑に行えるように工夫する
WIZ : 影朧と楽しい会話をするなどして、影朧に生きる希望を持ち続けさせる
👑7
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●誰かさんのひとりごと? その弐
こんなことってあるのかしら。
身体は軽いし、苦しくないし、自分の足で好きに動き回れるの。
幽霊だっていいじゃない? だって幽霊になったから、優しい人達にも会えたのだもの。
え――鷲也さんのこと?
そうね……年は私より三つ上で、とってもハンサムだったのよ。え、それはもう聞いた?
後は……ううん……こんなことを言うのは自惚れかもしれないけれど、もしまだ生きていらっしゃるなら、会いに来てくださったのではないかと思うのね。
ああ、でもどこかでご結婚なさっていたら、それも難しいかしら……でも、お手紙くらいはくださったのじゃないかと思うのよ。
だから……。
……なんて、考えていても仕方がないものね。
せっかく、皆さんが力を貸して下さるとおっしゃるのだから、わたしが一番、頑張らなくてはね?
あ、でも、せっかくだから。
少しだけ、街の様子を見て歩いても、よいかしら?
==================
第一章へのご参加、誠にありがとうございました。
以下の通り、二章について補足させていただきます。
二章は「帝都市内の散策」兼「人探し」がメインとなります。
影朧、六条・壱乃(ろくじょう・いちの)さんの尋ね人、「黒崎・鷲也(くろさき・しゅうや)」という人物の足跡を探すのを手伝ってあげてください。
壱乃からの情報によれば、存命の可能性はあまり高くなさそうです。
彼がどこでどんな風に生きたのかを知ることができれば、壱乃の救済に一歩近づくことができるでしょう。
然るべき機関などに問い合わせれば、調査はそれほど難しくありません。
足跡を辿る傍ら、おしゃべりをしたり、街角の甘味処などにちょっとだけ寄り道をしたりすることも可能ですが、リプレイにまとめきれない場合には部分採用になる可能性もありますのでご容赦ください。
※本章でのリプレイは、「個別採用」または「まとめて採用」です(同じ場所に行ったり、同じ行動を取ったりする方が複数いらっしゃった場合、まとめて採用となる可能性があります)。
指定の同行者以外とのまとめて採用がNGの場合は、プレイング中に【個別】と記載ください。
それでは、ご参加を心よりお待ちしております!
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ラファエラ・エヴァンジェリスタ
仮に存命ではなかったとして…足跡を辿って満足するものなのかね
奥ゆかしいというか、欲がないというか
…ゆえに、それくらいは叶えてやらねばな
鷲也について、役所に問えば生死くらいは知れるだろうか
桜學府からの依頼による人探しだと正直に伝え、情報を求める
結果がどうあれその後で彼がいたという海軍に訪ねてみよう
鬼籍に入っていたとしても彼を知る人がいるやもしれぬ
どんな人であったか、恋人や配偶者は居たのか
あぁ、それから、彼が好んだものや場所など、何か壱乃が今からでも彼に想いを馳せられるものを聞き出せると良いのだが
さて、壱乃、どこに行きたい?
一通り情報を得られたら彼女に決めてもらおう
気の済むまで付き合うよ
夜鳥・藍
W
人探しについては學府の方に頼んだ方がスムーズかな。軍所属であれば所属している期間内の事はほぼ確実に情報が手に入りましょう。……例え戦死していたとしても。
問題は生きて退役していた場合ですが、一応退役したとはいえ元軍人なのですから、所在は把握してると思うのである程度は足取りを掴めるはずです。
もし他の猟兵の方に直接軍関係者がいればが直接依頼できると思いますが。
居なければ學府の方にその旨お願いして、情報が来るまで少し思い出のお聞かせいただけたら幸いです。
誰かを想っていたかつての私もこんな感じだったのかな。
……ううん、微かに垣間見た「記録」では想い合ってた様子はなかったからこんな笑顔してなかったかも。
夜刀神・鏡介
一目惚れした人物に対する未練……だけでもない気はするけど
とりあえず、今は情報を集めるしかなさそうだ
探し人は軍関係者……仮にも猟兵。直接軍関係者に問い合わせても回答は貰えそうではあるが
ツテがあるって意味で、昔通っていた軍学校に問い合わせを入れてみるか
まあ、時代や状況を考えれば学校に何か縁がある可能性は薄いかもしれないが……もしかしたらって事もあるしな
何か手がかりがあれば、その情報を共有しつつ次の調査へ
情報がないなら彼女の帝都散策に付き合ってみるか
帝都自体には特別詳しい訳ではないが、ある程度の説明はできる
何かしら問題が起きないよう、彼女や市民に注意は必要だが、ゆっくり探索するのも良いだろう
都槻・綾
鷲也さんの足跡探し
軍歴等々
役所や図書館で調査
華族六条家の証をお借りできたなら
問い合わせも容易かしら
彼が連絡を度々寄越していた場合
お父上が留めていた可能性もあり
覚えている郵便局員も居るかもしれない
看取ってくれたお手伝いさんは
何か御存知ないでしょうか
お屋敷の花も拝見してみたいな
風さえ清めるような澄んだ香りに惹かれて出会った戀だから
今も鮮やかに奇跡を咲かせているのだろか、と
壱乃さんから手紙を出すとしたら
どんな用紙で送りたいですか?
私ね
手紙屋なもので
つい気になってしまって
寄り道に
雑貨屋で便箋を眺めるのも楽しそう
ふたりの絆たる金木犀の
文香や透かし入りの薄葉紙は
いっそう素敵
柔らかく愛おしい、大切な戀の香り
クーナ・セラフィン
うーん流石に鷲也さん本人とは会わせられないか。
けどその人生を辿る事が壱乃さんの救いになるなら頑張るかな。
帝都桜學府か海軍か、力借りられそうな方に問い合わせて彼の記録を調査。
どんな所で仕事していたのか、部下でまだ存命の人はいるのか。
もしいるなら影朧を鎮める為と名目でその人に連絡取れないか頼んでみる。
お話しするのはハイカラなカフェーで?
壱乃さんも遠慮なく頼んでね(サアビスチケット)
調査する道中も壱乃さんと色々お喋りしてみよう。
華族の令嬢、病弱とは聞いたけどその人生で色々あっただろう。
それを聞くのはきっと楽しいし…私?
そうだにゃー。御伽噺のような竜退治の冒険譚とか興味ある?
※アドリブ絡み等お任せ
●糸
帝都・上野広小路。道の向かいに大きな百貨店を望む公衆電話ボックスに、一人の猟兵の姿があった。
「はい、その夜刀神です。……ええ、大変ご無沙汰しております」
マイクロフォンに向かって話しながら、夜刀神・鏡介(道を探す者・f28122)はちらりと、仕切り硝子の向こうに目を向けた。街路樹の木陰、街頭のベンチに座った影朧の娘は、数人の猟兵達に囲まれて楽しそうに笑っている。知らず、眉が下がるのには気づかぬまま、鏡介は電話機に向き直った。
「失礼しました。……はい、実は今日は、お願いしたいことがあって……ええ、今は猟兵をしておりますが、その関係でちょっと」
電話相手に相槌を打ちながら、ちらりと視線を移す。硝子張りの電話ボックスの中はひどく蒸して、鏡介は詰襟の首周りを緩めた。
(一目惚れした人物に対する未練……だけでもない気はするけど)
今はどんな情報でも、集められるだけ集めるしかない。猟兵の立場を利用すれば直接軍関係者に問い合わせても回答を貰えそうではあるが、まずは身近な伝手を辿るところからだ。
「皆さん、本当にありがとうございます。こんなによくしていただくの、生まれて初めてではないかしら?」
矢絣の袖を口元に当てて、影朧の少女――中身はどうやら亡くなった時の年齢のままのようだが、便宜上、少女と呼ぶことにする――はころころと笑った。
「でも、ごめんなさいね。何かお礼ができたらいいのだけど、わたくし、この通りなものだから」
「お礼なんて、そんな」
いいんですよと笑って、夜鳥・藍(宙の瞳・f32891)は顔を上げた。
「私達が勝手にやっていることですから」
「そうとも、キミが気にすることじゃない」
身の丈ほどもあるベンチの座面にぴょん、と軽やかに飛び乗って、クーナ・セラフィン(雪華の騎士猫・f10280)は騎士然と腰を折る。
「因みに、こちらは帝都桜學府に問い合わせてみたよ。何か分かれば連絡をくれることになっている」
「私も、役場と海軍に尋ねてみた。少し時間は掛かるだろうが、彼の者の生死くらいは知れるやもしれぬ」
黒い扇で風を送りながら、ラファエラ・エヴァンジェリスタ(貴腐の薔薇・f32871)も重ねた。使えるものはすべて使って、黒崎・鷲也なる人物の足跡を辿る――それが猟兵達の新たなミッションだ。例え鷲也が既に鬼籍に入っていたとしても、彼を知る人が一人でも見つかれば大きな手掛かりになるだろう。影朧を鎮めるためにと頼めば、関係各所の協力を取り付けるのはそれほど難しいことではない。
「どんなところでどんな仕事をしていたのか。部下でまだ存命の人はいるのか。……その辺が分かれば、やりやすいのだけどね」
ほう、と息を吐いたクーナの言葉には、祈るような響きがあった。壱乃はこくりと頷いて、そして続ける。
「分かっています。わたくしは、多くは望みません。あの方がどこでどうしておられるか――それが分からなくても」
歩けるはずのなかった街を歩き、知り合うはずのなかった人とこうして知り合い、話ができて。それだけで十分なくらいだわと、壱乃は言った。夏の陽射しのように輝く笑顔は嘘を言っているようにも見えず、ラファエラはふむと口元に手を添える。
(奥ゆかしいというか、欲がないというか)
仮に彼がもうこの世にはいなかったとして、足跡を辿ったところで満足できるものだろうか。未だ振り切れぬ過去を従え、再びの生を咲かせる彼女からすれば、壱乃の在り方は無欲というしかない。だからこそ――そんなささやかな願い一つくらいは、叶えてやらねばと想う。
「前向きに行きましょう。軍属であれば、所属している期間内のことはほぼ確実に情報が手に入るでしょうし――」
例え戦死していたとしても、という言葉は寸でのところで飲み込んで、藍は曖昧な笑みを浮かべた。仮に生きて退役しているとしても、元軍属ならば多少時間は掛かっても、何らかの情報は手に入れられるはずだ。
通りの向こうからやってくる人影を見つけて、クーナはベンチの背もたれに上り、手を振った。
「そっちはどうだい」
「一応、協力は取りつけた。学校に縁がある可能性は薄いかもしれないが……もしかしたらってこともあるしな」
大通りを行く人の流れを掻き分けて仲間の元へ歩み寄り、鏡介が言った。いずれにせよ、情報が出揃うまでまだ少し、時間が掛かるのは間違いなさそうだ。
ならばと開いた扇を閉じて、ラファエラが言った。
「さて壱乃、どこに行きたい?」
「え?」
「あちこち、歩き回っていただろう。行きたいところがあるのなら、気の済むまで付き合うよ」
真紅の唇をふ、と笑みの形にして、娘は告げる。見透かされたような気分になったのか、壱乃はみるみるうちに頬を染めた。
「さっきもお話したかもしれないけれど、わたくし、ほとんど自分の部屋から出たことがなかったのよ。だから、色んな場所へ行ってみたくて」
もしこの身体が健やかであったならば、恋をした人とそっと肩を並べながら、街を歩くこともあったのだろうか。そんな想像に胸を膨らませながらそぞろ歩く時間は、とても楽しく、幸せであったから。
「でも、今は鷲也さんのことを――」
「でしたら、こういうのは如何でしょう」
ふわり、白い袖を浮かせて、都槻・綾(絲遊・f01786)が壱乃の前へ進み出た。
「鷲也さんの足跡探しがてら、あなたの行きたいところを訪ねてみる……というのは?」
どのみちまだ少し、時間も掛かることですし。
悪戯気に片目を瞑って見せれば、花の綻ぶような笑顔が咲いた。
「こんなにしていただいて、本当にいいのかしら」
燐光を零すその足でしっかりと立ち上がり、壱乃は両の手を合わせる。やれやれと後ろ頭を掻いて、鏡介は言った。
「問題が起きない範囲でなら、ゆっくり探索するのも良いだろう」
尤も彼らが傍についているからには、滅多なことも起こるまい。猟兵達は壱乃に付き添う形で、中央通りを歩き出した。
●夏空に泳ぐ
「彼の連絡を、お父上が留めていた可能性はありませんかねえ」
花の帝都を連れ立って、猟兵達と影が行く。尋ねる綾にううんと小首を傾げて、壱乃は応じた。
「そうねえ。もし何か手紙でも届いていたら、そうだったかもしれないわね」
でも、と人差し指を口元に添えて、娘は続ける。
「お父様はもう随分前に亡くなったし、はなちゃんも何も言っていなかったと思うわ」
はなちゃん、というのは、どうやら彼女を看取ってくれた、お手伝いの娘のことらしい。死の前後の記憶は曖昧な壱乃だが、それ以外のことについてはとても饒舌に語ってくれる。
話題が興味を引いたと見て、綾は言った。
「壱乃さんから手紙を出すとしたら、どんな用紙で送りたいですか?」
「用紙?」
「私ね、手紙屋なもので」
つい気になってしまって、と微笑んで、綾は道の先を指差した。
「ほら、あそこ。ご覧になって」
大通りに店を構える文具屋は、この辺では一番の老舗らしい。何の気なしに暖簾をくぐってみると、入り口を入ってすぐの区画に多種多様の筆記具が並んでいた。勿論そこには、色も柄もさまざまの便箋が揃っている。
「どれもとっても素敵ね」
朝顔、向日葵、立ち葵。夏を彩る花を飾った便箋はどれも鮮やかで、見る者の目を楽しませてくれる。しかし八月も半ばを過ぎるとなると、重用されるのは秋に盛りを迎える草花だ。桔梗に萩、紅葉に、銀杏もよい。そして忘れてはならないのが――金木犀。
「この紙……いい匂いね?」
文香を焚き染めてあるのだろう。透かしの入った薄葉紙の見本は、どこまでも甘く柔らかな金木犀の香を纏っていた。娘の細い指先が迷うことなくその紙に触れるのを見て、綾は微笑ましげに目を細める。
「それはお二人の、戀の香りなのですね」
「まあ、詩的なことをおっしゃるのね」
でもそうね、と恥ずかしそうに頬に手を添えて、壱乃は言った。
「鷲也さんとお会いする時はいつも、金木犀の傍でしたから」
風さえ清めるような澄んだ香りに、惹かれて出会った小さな恋。人生のほとんどの時間を自室という籠の中で過ごした身体の弱い娘にとって、その短い恋の記憶はどれほど眩しく耀いていただろうか。
「……お屋敷の花も、拝見してみたいな」
「秋になれば、また咲きますよ。もう誰もいないかもしれないけれど、どうぞ、見にいらしてくださいな」
あなた方なら大歓迎と笑う壱乃は、恐らく、今この瞬間も咲き続けている金木犀の奇跡を知らない。この世に別れを告げる前に一目見ることができたなら、きっと喜んでくれるだろう。
「壱乃さん。よかったらもう少し、お話を聞かせていただけませんか」
嬉しそうに、楽しそうに。遥かな恋を語る影朧に釣られるように、藍は表情を綻ばせた。誰かを想ったかつての自分は、決していつも、彼女のような笑顔でいられたわけではないのだろう。けれど――焦がれた日々の一ページにはきっと、こんな笑顔があったはずだと信じたかった。
途中、気になる店を見つけては足を停め、店先の品物を覗き見て、そして再び歩き出す。そんなことをどれほど繰り返しただろう。一行が神田界隈へ足を踏み入れた頃、それは突然にやってきた。
「!」
ばささと羽音を伴って、小さな影が猟兵達の頭上を横切った。見上げれば一羽の鳩がくるくると宙を旋回し、鏡介の腕に舞い降りる。その脚には、小さく丸めた手紙が括られていた。
「これは――」
鳩の脚から外して開いた手紙を一読して、青年は同行の猟兵達を見やり、そして続けた。
「軍学校からの返信だ。……黒崎・鷲也の甥が見つかった」
「!」
猟兵達の間に、俄かに緊張が走る。来たか、という思いで、一同は鏡介の言葉の続きを待った。
「……一時間後に、銀座のカフェーに本人が来てくれるそうだ」
「ええっ!?」
思わず大声を出したのは、壱乃だった。皆の視線の中心で、影朧の娘ははっと両頬に手を添えて、瞬時に顔を赤らめる。
「ごめんなさい、すみません。ちょっと、わたくし、びっくりしてしまって――」
まさか、そんな素敵なことが起きるなんて。
なんと言葉を紡いだものか分からずにいる娘の肩を、ラファエラの手が無造作に叩いた。
「貴公の尋ね人が、どんな人物だったのか――彼が好んだものや、場所なども、分かるとよいな」
彼が生きた軌跡に、より深く触れることができるように。
ありがとうと思い切りよく頭を下げ、そして上げた壱乃の表情は、今日一番の笑顔だった。
●とあるカフェーにて
三十分後。
銀座の整った街並みの一角、西洋風の内装がハイカラなカフェーに彼らはいた。自分の身体ほどもある観音開きのメニューを開きながら、クーナは隣に座った壱乃に笑い掛ける。
「壱乃さんも遠慮なく頼んでね」
「よろしいの?」
おっかなびっくり聞き返す壱乃に、いいのいいのと猫は笑う。猟兵特権、という奴だ――このサアビスチケットがありさえすれば、この帝都で猟兵達が飲食に困ることはない。待ち合わせの時間には少し早いが、甘い物を食べながら雑談に興じていればそう退屈することもないだろう。
「猟兵さんって、すごいのね。他にはどんなお仕事をなさってるの?」
「うーん、それは本当に色々だにゃー。たとえば……竜退治の冒険とか、興味ある?」
御伽噺の一節のような響きに瞳を輝かせ、壱乃は興味津々の様子で猟兵達の物語に耳を傾ける。そして時計の針が十六時を示す頃――からんと小さな音を鳴らして、カフェーの扉はゆっくり開いた。
大成功
🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔵
第3章 日常
『春秋庭園譚』
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POW : 金木犀を楽しむ
SPD : 庭園を散策してまわる
WIZ : 桜を楽しむ
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●だれかさんのねがいごと
おしゃれなカフェーの扉を開けて、入ってこられた殿方のお顔にはっとしたわ。あの頃の鷲也さんよりだいぶお年を召されているけれど、瞳がよく似ているのだもの。甥御さんとおっしゃったけれども、どうしたって面影はあるものね。
猟兵の皆さんにご説明いただくのを待ってご挨拶したら、甥御さんはご丁寧に頭を下げてくださって、なんだか申し訳ない気分。
急にお呼び出ししてしまってごめんなさいね。ご迷惑でなかったかしら?
「いいえ、そんな。伯父はもう二十年も前に亡くなりましたが、伯父のことをご存知の方にお会いできて、嬉しいです」
――そう。二十年。……そうだったの。
どうして、とお尋ねすると、甥御さんは少し寂しそうに俯いた。
「流行病でした。それまで病気ひとつしたことのない人だったのに、人間というのは分からないものですね」
本当にね。病気をしてばかりのわたくしが、おばあさんになるまで生きながらえたのに……。
立ち入ったことをお聞きするようだけど、鷲也さん、ご結婚はなさっていたのかしら。お子さんは?
「伯父は生涯独身でした。いい縁談も何度かあったのに、すべて断ってしまって……どうして結婚しないのだろうと子どもながらに不思議に思ったものですが、今日あなたにお会いして、やっと理由が分かりました」
――この箱は?
「伯父の遺品の中にあったものです。どうぞ、開けてご覧ください」
…………これって、もしかして。
「結婚指輪だと思います。宛名の書かれたカードが添えてありました。壱乃さんとおっしゃるのは、あなたのことでしょう?」
ほらぴったり、と言われて見ると、左手の薬指に金の指輪がはまっていて。
……………。
……………。
「伯父は、心配性なところがありましたから。多分、あなたに迷惑が掛かると思って、贈るに贈れなかったのでしょうね」
あら、あら、いやだわ、どうしましょう。ねえ猟兵さん、わたくし、どうしたらいいのかしら?
鷲也さんは、わたくしを忘れてはくださらなかった。わたくしのせいで、ご結婚もなさらなかった。本当はもっと、お幸せになれたかもしれないのに。
ひどい女ね。鷲也さんの人生を奪ってしまったというのに、今、とっても嬉しくて、涙がとまらないの。
ねえ――猟兵さん。
最後にもう一つだけ、わたくしのわがままを聞いてくださる?
お別れの前にもう一度、あの花を見たいの。どこか、あの花の咲いているところはないかしら。
==================
第二章へのご参加、誠にありがとうございました。
以下の通り、三章について補足させていただきます。
三章では、壱乃の実家であり今は無人の六条邸の庭園で、金木犀と桜の花を楽しむことができます。
壱乃と話をしていただいても構いませんし、お誘い合わせの上どなたか大切な方と散策をされても構いません。ご自由にお過ごしいただけましたら幸いです。
※本章でのリプレイは、基本的に「個別採用」です。
それでは、ご参加を心よりお待ちしております!
==================
姫神・咲夜(サポート)
桜の精の死霊術士×悪魔召喚士、女性です。
普段の口調は「丁寧(私、あなた、~さん、です、ます、でしょう、ですか?)」、
片思いの人には「無口(わたし、あなた、呼び捨て、ね、わ、~よ、~の?)」です。
ユーベルコードは指定した物をどれでも使用し、
多少の怪我は厭わず積極的に行動します。
他の猟兵に迷惑をかける行為はしません。
また、例え依頼の成功のためでも、
公序良俗に反する行動はしません。
清楚で女流階級風の口調で、お淑やかな性格です。
基本的に平和的な解決を望みますが
戦わざるを得ない時は果敢に戦いに向かう勇敢さを持っています。
あとはおまかせです。よろしくおねがいします!
吹く風に、花弁が混じる。
ここは帝都・本郷、六条邸――今は訪ねる者も、迎える者もない、穏やかに朽ちていくばかりの夢の跡。その庭の少しだけ普通でないことは、咲き誇る幻朧桜に混じって聳える金木犀の大樹が、真夏に咲くはずのない小さな金花をつけていることである。
淡紅と金。舞い散る二色の花吹雪に手を伸べて、姫神・咲夜(静桜・f24808)は花色の瞳をそっと細めた。地に届くような長い髪はほんのりと桜を帯び、揺れる振袖は夏の夕べに在りながら、足元から髪の飾りに至るまでが爛漫の春である。
今から六十年もの昔、この屋敷で出会い恋をした二人がいた。結局、その恋が実を結ぶことはなかったけれど、花は少しも色褪せることなく今もこの庭に咲き誇っている。
「そろそろ、ですね」
此処はサクラミラージュ――桜の精の癒しを受けて、儚い影朧は生まれ変わる。
美しき桜花精は救うべき魂の訪れを待ちながら、花散る庭を独り、踊るように逍遥するのだった。
成功
🔵🔵🔴
夜刀神・鏡介
流石に探し人の当人と再会する事は叶わなかったが、関係者が見つかっただけでも良かったか
色々と話をして、どうやら殆どの未練も晴れたようだし、これが最後……
まあ、折角だし壱乃さんと少し話をしようかな
何となく話には聞いていたけれど、金木犀と桜の取り合わせも中々見事なものじゃないか
俺はまだ若造だし、誰かを心から好きだと思ったこともない
だから、鷲也氏がどう思っていたかは想像する事も難しいし、根拠はないが……多分幸せだったんじゃないかな
色々としがらみもあっただろうに、それでも一つの思いを貫き通せるっていうのはさ
それじゃあ、こういう言い方が正しいかは分からないけれど……どうか、お幸せに
「ごめんなさいね、変なことを言ってしまって。こんな時期に、金木犀が咲いている所なんてないわよね」
没後、影朧となって街を彷徨い歩いていた壱乃は、屋敷の金木犀が今も咲いていることを知らないらしい。きょろきょろと不思議そうに辺りを見回しながら歩く娘を背にして、夜刀神・鏡介(道を探す者・f28122)は前を向く。
(関係者が見つかっただけでも良かったか)
大方の予想通り、黒崎・鷲也本人は既に他界していたが、近しい血縁者を見つけられたことは僥倖であった。想い人によく似た男の口から語られる生前の鷲也の様子と彼の遺した結婚指輪は、壱乃の心を大いに慰めたことだろう。
だからこそ――別れの時は、近い。
「あら? この辺り、もしかして……」
「気がついたか」
ふ、と笑みを零して鏡介は言った。足を止めた壱乃の視線の先、緩やかに続く坂の上には、白壁の洋館がその姿を覗かせている。しかし見覚えのあるその切妻屋根よりも、彼女の意識を揺さぶったのは他でもない。
「わたくしの……あ」
鼻先を擽った忘れ得ぬ芳香。甘く強く薫り立つ、秋花の匂い。小走りに坂を駆け上がって辿り着いた門の前で、壱乃は大きな瞳を見開いた。
――咲いている。
満開の幻朧桜に囲まれて、人が登れるほど太く大きく枝を広げた金木犀の大樹が一本、無数の金花を咲かせている。
「話には聞いて知ってはいたけれど、金木犀と桜の取り合わせもなかなか見事なものじゃないか」
瞳を潤ませる壱乃の肩を叩いて、鏡介は言った。無理もない――何しろ彼女の眼前には今、愛しい人と出会ったあの日と同じ光景が広がっているのだから。
「……俺はまだ若造だし、誰かを心から好きだと思ったこともない」
立ち尽くす壱乃の背後で、呟くように鏡介は言った。
「だから、鷲也氏がどう思っていたかは想像するのも難しいし、根拠は何もない。けど――彼は多分、幸せだったんじゃないかな」
人間関係のしがらみを考えれば、持ち込まれた縁談を一つ断るのだってそれなりの労力を要したはずだ。それでも、彼はもう還ることのない恋を貫いた。それこそが、彼にとっての幸せだったからだ。
門の取っ手に手を掛けて、壱乃は青年を振り返った。
「ありがとう、優しい猟兵さん」
にっこりと山なりに閉じた目の端から、一粒の涙が零れ落ちた。そしてそれきり振り返らずに、娘は金花の庭へ駆けていく。軍帽の鍔を深く引き下げて、鏡介は笑った。
「どうか、お幸せに」
大成功
🔵🔵🔵
クーナ・セラフィン
…現実は上手くいかないものだね。
でも二人ともの気持ちも共感できてしまうから、あまり気休めの言葉もかけられない。
だからちょっとばかり最期の時を、共に。
今は無人の六条邸へ。
去年壱乃さんが亡くなられたなら結構放置されてるのかも。
まあそれはないと思うけど、もしそうなら大急ぎで庭園の手入れとか掃除とかさせて貰うね。
…もしかしたらまだお手伝いの娘さんが手入れしてるのかな?
それからゆっくり壱乃さんと金木犀を楽しもう。
あの窓にまで届きそうな金木犀、くらっとするような香りを楽しみつつ壱乃さんを見上げ。
…きっと、そう想ってしまうのは悪い事じゃないと思う。
だから気に病まないで、と慎重に慰める。
※アドリブ等お任せ
「思ったより綺麗なものだね」
もっと荒れ果てているかと思ったけれど、と呟いて、クーナ・セラフィン(雪華の騎士猫・f10280)は風に飛びそうな帽子を押さえる。昨秋来、訪れる者もなかったのだろう庭は草も木も伸び放題に伸びてはいたが、荒れているというよりは生き生きとしている印象を抱かせた。手入れが必要ならひと働きするつもりでいたが、時を忘れたかのようにただそこに在る庭は、多分、このままでいいのだろう。
(現実は、そう上手くいかないものだ)
誰かの意思で引き裂かれ、けれど抗いきれなかったのも二人。
同じ空の下で想い合いながら、再びを望めなかったのも二人。
現実がすべて御伽噺のようには運ばない以上、この結末は起こるべくして起こったのだろうけれど――互いに相手さえ幸せであってくれればよいと願ったその想いには、共感できてしまうから。
金花を纏う大樹の袂で立ち尽くす壱乃の側へ歩み寄り、白猫は袴の膝あたりを尻尾で撫でた。
「猫さん」
「これがその、金木犀の木だね」
問えば、壱乃はすいと目元を拭い、見上げるクーナの視線を追った。ええ、と頭上で頷く気配に白猫は笑い、青い瞳を巡らせる。太い幹から分かれた枝は緩やかに傾斜して、洋館の二階の窓に触れそうなほどに伸びている。
「ということは……壱乃さんの部屋は、あの辺りかな?」
「ええ、ええ、そうよ。鷲也さんはよく、あの枝のところまで登っていらして……わたくしは窓から……」
淡く甘やかな恋の景色が、六十年の時を隔てて色鮮やかに蘇っていく。懐かしいわと呟く娘の瞳から、滑る涙は夕陽の中できらりと光り、そして消えた。
「ひどい女だと、キミはさっき言ったけど」
白い尻尾をゆらゆらと揺らして、猫は寂しげな笑みを浮かべた。
「確かに想い、想われていた。それを知って、嬉しく思わない人間はいないよ」
気に病まないでというのは難しいかもしれないけれど、鷲也がもう一目逢うことも叶わぬ女に半生を捧げたのが事実なら、逆もまた然り。結局、似た者同士の二人だった、ということだ――ならば素直に喜んでも、きっと罰は当たらない。
「猫さん、とっても優しいのね」
「勿論。これでも騎士だからね?」
風の運んだ花の匂いは猫の鼻には強過ぎて、ちょっぴり気取って見せたその腰がかくんと抜けた。眩暈のするような芳香はどこまでも甘く、遥かな恋を香らせる。
大成功
🔵🔵🔵
夜鳥・藍
SPD
一人で庭を散策します。
壱乃さんが羨ましい。
お互い想い合って、添い遂げられなかったとしても心は共にあった。
想いを伝えても、何も一言もこたえて貰えなかった過去の私とは大違い。
だからこそいつかまたお二人が巡り合うならばもっと幸せになって欲しい。
そう願ってしまうし……どうしたって羨ましさも来るわね。
思わず苦笑してしまうけれど、でもこうして純粋に想い合ってた方々を見ると行く先が幸せであるようにと願ってしまう。
そっと服越しにネックレスを抑える。思い出した事が一つ。
これは人を想う事を愛する事を忘れないようにって、自分が水晶に託した願いだった。たとえ自分がどんな目にあっても。ちゃんと心に根差してたのね。
金木犀の袂に立つ娘の背中を、夜鳥・藍(宙の瞳・f32891)は独り離れて見つめていた。淡い光を纏う影朧の笑顔は寂しげで、けれどとても晴れやかで――同時にちくりと、胸を刺す。
(壱乃さんが羨ましい)
彼女の恋は、終ぞ実を結ぶことはなかったけれど。それでも想い想われて、二つの心はいつも共にあった。ただ、存命中にはそれが見えにくかっただけだ。
(想いを伝えても、こたえて貰えなかった過去の私とは大違い)
少しだけ、僻むような気持ちになっている自分に気づき、藍は苦い笑みを浮かべた。浅ましい想いを振り払うようにゆるゆると首を振れば、長い銀髪が甘い風に泳いで金と淡紅の花を帯びる。
(でも……だからこそ)
手を触れること能わずとも、ただ傍にあればいい。
再び逢うことは叶わずとも、ただ笑顔であってくれればいい。
どこまでも利他的で穢れのない想いを寄せ合った二人が、いつかまた輪廻の果てに巡り合うならば、その時はもっと幸せになって欲しい。羨ましさが募るほどに、そう願わずにはいられない。
咲き誇る花の影、庭石にそっと背中を預けて、藍はブラウスの下に隠れた首飾りに手を触れた。
(ああ――思い出した)
ペンダントヘッドの銀水晶は、いつかの自分が今の自分に託した願い。壱乃と同じ、かつて影朧として彷徨った彼女にとっての最初の贈り物だ。布越しにそれを握り締めて、娘は藍色の瞳を細める。
(私の中に、ちゃんと根ざしてたのね)
たとえどんな目に遭ったとしても、愛することを忘れないで。
耳を澄ませばいつかどこかで泣いていた自分の、囁く声が聞こえてくるかのようだ。
大成功
🔵🔵🔵
ラファエラ・エヴァンジェリスタ
…喜んでいたな、彼女
あと少し何かが違えば生前に叶ったやもしれぬ恋であったと今更証明されて…悔いも恨みもないというのは、
…解らぬな
解らぬが、彼女が幸せらしいのは見て解る
…見送りは他の者に任せよう
さて、誘う者とて私には貴公くらいしかおらぬ
我が騎士よ
喚んでおきつつ足並み揃えることもなく、金木犀の香につられる儘に漫ろ歩く
これを彼女の恋の香りと誰かが言った
幸せな恋であったようだよ
語りながら癖で開きかけた洋扇は、匂いが混じることを嫌って閉じ直す
東屋を見つけて腰を下ろす
傍らに立たせた儘の騎士の向こうに季節外れの花を茫と眺め
…嗚呼、そうか
彼女の恋は叶っていたのだと思い至る
…なればこの花の香に肖りたいものよ、な
「……喜んでいたな、彼女」
揺れる金花の梢を遠目に望みながら、ラファエラ・エヴァンジェリスタ(貴腐の薔薇・f32871)は言った。漫ろ歩く庭は人の手が入らなくなって久しいのか、木々の枝は伸びに伸び、名もない草花が足元を覆い尽していたけれど、その分瑞々しい生命の気配に溢れていた。金と薄紅の入り混じる花吹雪は色を失くした死姫の黒衣にさえも、生きた色彩を点々と飾っていく。
「あと少し何かが違えば生前に叶ったやもしれぬ恋であったと、今更証明されて。……悔いも恨みもないというのは、解らぬな」
二人が互いにもう一歩、否、半歩踏み出してさえいれば、きっと何かが変わっていた。あの時もし、ああしていれば――そんなやり場のない後悔に駆られてもおかしくはないはずなのに、金花を見上げる壱乃の姿には一分の曇りも見えはしない。
「我が騎士よ」
足を止め振り返れば、物言わぬ白銀の騎士もまたその場にぴたりと動きを止めた。決して必要以上に距離を詰めようとはしない騎士の御魂は、少しばかり退屈で、だからこそ好ましいのだとラファエラは想う。
「これを彼女の恋の香りと、誰かが言った。……それは、幸せな恋であったようだよ」
手癖で開きかけた洋扇を閉じる小さな音は、底抜けに甘い風の中で妙に寂しげに響いた。辺り一面を満たす濃密な金花の匂いも悪くはないが、香を焚き染めた扇に移ってはいけない。
歩調を合わせるわけでもなく、といって置き去りにするのでもなく。つかず離れずの距離を保ちながら、主従は花の庭を往く。そうして庭の片隅に据えられたガーデンチェアに辿り着くと、ラファエラは誰に断るでもなく腰を下ろした。視線を流せば傍らに控えたままの騎士の向こう側に、金色の花がさわさわと揺れている。
「……嗚呼、そうか」
黒いヴェールの下、隠れた瞳に花を映して、独り言のように寵姫は言った。
(彼女の恋は、とうに叶っていたのだな)
失くしたわけでもなく、潰えたわけでもない。七十余年の人生の中でたった一度の金色の恋は、いつだって彼女と共に在った。彼女は今日、それを確かめただけに過ぎないのだ。
「ならば今は、この花の香に肖りたいものよ……な」
見送りには、もっと相応しい者がいるだろう。ふ、と唇を綻ばせて、ラファエラは花香る風に身を委ねた。
大成功
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花色衣・香鈴
壱乃さんと話したくて結局お屋敷まで来た
「これが金木犀…」
どこか郷愁を呼ぶ香りは確かに知るもの
「壱乃さん、先刻は失礼いたしました」
心配させてしまったから
「…不治の病なのです」
右腕―今は槿ーの花を見せて、病を説明して
「わたしの瞳のこと…母と同じ様に仰るので驚きました」
短命となった娘の死を見せまいと家を出た
「実物は見た事がなくて。香るなら近くにあった筈なのにこの身に咲いたこともない」
だから見たかった
「貴女とのご縁で出会えました。有難うございます」
金木犀が愛されている事実は両親の愛を想起させる
それが嬉しい
「わたしも壱乃さんのように生きられるでしょうか…」
人柄に生き様を感じたから
憧れはつい口をついて出た
「これが……金木犀」
甘く華やかな花の匂い。花そのものは初めて目にするはずなのに、その香りは何故か、この胸に郷愁を呼び起こす。
夏の盛りにもかかわらず咲き誇る満開の金木犀を前にして、花色衣・香鈴(Calling・f28512)は半ば呆然と立ち尽くしていた。もう少し話が聞きたくて彼女の後を追ってきたのに、夕暮れに聳える金花の美しさに気圧されて、身動きが取れなくなってしまう。
あら、と朗らかな声がして傍らを振り返ると、壱乃が少し驚いたような顔で此方を見つめていた。
「あなた、大丈夫? 身体の具合はもういいの?」
「壱乃さん、先刻は失礼いたしました」
気遣わしげに覗き込む娘に、苦笑いを浮かべて香鈴は頭を下げる。そっと押さえた巫女装束の肩口に、咲き誇る槿の薄紅が夕映えの中にあっても鮮やかであった。
「心配させてしまって、すみません。……不治の病なのです」
皮膚を割って咲く花と、突然零れる花の咳。常識で測ることのできない奇病を抱えた者達を、怪奇人間と人は呼ぶ。もう決して長くはない身だということは自分が一番分かっていたから、香鈴は自ら家を出た。愛する母に、娘の死を見せつけたくはなかったのだ。
口を開きかけて少し躊躇い、けれどやはりと意を決して、香鈴は言った。
「身体から花が咲くなんて、気味が悪いと思いますか?」
すると壱乃は一瞬きょとんとして、いいえと柔らかに微笑んだ。
「そんなことないわ。だって、とっても綺麗だもの」
でも、痛くはないの――と尋ねる声には曖昧に笑んで、香鈴は空を仰いだ。
「わたしの瞳のこと、母と同じように仰るので、驚きました。お恥ずかしい話ですけど、今日まで本物の金木犀を見たことがなくて……」
だからずっと、この目で見てみたかった。いつか、どこかで香ったはずなのに、この身に咲いたこともない金の花。長い枝に揺れるその花は正に、鏡の中で見慣れた瞳と同じ色をしている。
「貴女とのご縁で出会えました」
ありがとうございますと頭を下げると、壱乃もまた、どういたしましてと頭を下げる。畏まった空気がなんだか可笑しくて、思わず二人で笑ってしまった。小さな安堵の息をつき、香鈴は再び金花の梢に目を移す。この花を愛し、この花に生かされた人がいるという事実がまた、不思議と嬉しくて胸が弾んだ。
「わたしも壱乃さんのように生きられるでしょうか」
「まあ、わたくしのようにだなんて」
くすりと笑って、影朧の娘は言った。
「あなたはまだ若いし、それにこんなに可愛いのだもの。わたくしよりももっとずっと、幸せにならなくてはだめよ?」
病は治るかもしれないし、治らないかもしれない。
けれど明日のことなんて、まだ誰にも分からないのだから。
大成功
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都槻・綾
壱乃さんと花を眺められたら嬉しい
金木犀は今なお満開に鮮やか
樹を見上げる彼女の横顔も
繊指に燈る指輪も
花あかりを受けて
甘やかに香るよう
思い出の輝きという花言葉のままに
褪せぬ想いの証は
何と優しい薫りを齎すものか
香炉の身に
いと深く馴染むようで
其れでいて
知らぬ感情が少しばかり擽ったい
私は
戀も愛も覚えたことのない身で
其れらが如何な心か、誠には知らない
未だ物語をなぞるみたいに
頁を捲る心地で居るけれど
いつか壱乃さんや鷲也さんのように
耀くことが出来るかしら
街中で贖った飴は
金桂花入りの愛らしさ
心弾む甘いおやつがあれば
旅の往復路もいっそう楽しいでしょう?
悪戯っぽく笑って
壱乃さんへと贈り物
おふたりの転生を、そっと祈る
冬を越え、春を越え、夏も盛りを過ぎたというのに、ただのひとひらも色褪せることなくその金花は咲き誇る。
風に揺れる梢を仰ぐ娘の横顔には、もう一抹の寂しさもない。その薬指に光る金環は夕陽を受けて、花と同じに染まって見えた。そっとその傍らへ歩み寄って、都槻・綾(絲遊・f01786)は語り掛ける。
「金木犀の花言葉の一つに、『思い出の輝き』というのがあるそうです」
「……思い出の輝き」
素敵ね、と口にして、壱乃は胸の前に手を組むと薬指の指輪に触れた。時を経ても褪せることのない想いの証に、これ以上相応しい花があるだろうか?
ただそこにいるだけで胸に満ちる優しい薫りは、旧い香炉の内側に深く馴染むようでありながら、彼のまだ知らない感情を想わせる。
「私は、戀も愛も覚えたことのない身で――其れらが如何な心か、誠には知らない」
綾にとって、現世は未だ他人事だ。昨日までの出来事も、明日からの未来も、すべては欠けた香炉が夢に見る物語の一頁に過ぎない。けれど――。
「いつか壱乃さんや鷲也さんのように、耀くことが出来るかしら」
「まあ、お上手ね。わたくし、そんなに耀いている? だったらとっても、嬉しいけれど――でも、あなただってとっても可愛いわよ?」
実年齢はともかく、若者の姿をした綾は壱乃にすれば孫のような歳に見えるのだろう。慣れぬ褒め言葉に思わず肩を竦めながら、綾は和服の袂から平たい丸缶を取り出した。なあに、と首を傾げる娘を前に蓋を開ければ、そこには金花の花弁を閉じ込めた可愛らしい飴が詰まっている。
「甘いおやつがあれば、旅路もいっそう楽しいでしょう?」
悪戯っぽく片目を瞑って差し出すと、壱乃は胸の前で両手を合わせ、嬉しいと笑った。一つ摘まんで口に入れれば、緩やかにほどけていく飴はいつかの恋の記憶に似て、甘く優しく香り立つ。
「お二人が、来世でもう一度出逢えますように」
小さな缶を握らせて、お気をつけてと手を離せば、娘は三つ編みの頭を傾けてにっこりと笑った。
「ありがとう、猟兵さん達。お会いできて、本当によかった」
ありがとう――さようなら。
影朧の娘は無数の光の粒となって、夕焼け空に溶けていく。風と共に吹き散る金花はもう狂い咲くことはないだろうが、年に一度、秋には今この時と同じように、見事な花をつけるだろう。それはこの花が結んだ小さな恋の記憶を、愛おしく手繰り寄せるように。
大成功
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