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暗晦に芽吹く(作者 瀬ノ尾
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 ――雨が、降っていた。

 あのおぞましい化け物たちから逃げ惑い、命からがらにたどり着いた一つの扉。
 それが、一体何なのかは分からない。ただ、「アリス」は漠然と知っていた。

 これを開けば、「アリス」は此の地獄より抜け出せる。
 これを開けば、「アリス」は此処ではないどこかに行ける。
 これを開けば、「アリス」は“わたしがいたところ”に帰る、ことが――。

「……わたしの、いたところ?」

 あと、少し。指の先を伸ばしさえすれば、「アリス」は扉に触れられる。
 何を躊躇う事があるだろう。此処にいれば殺される、あの化け物どもの餌になる。
 それが嫌で、「アリス」はここまで逃げて来たのだろう。
 化生を恐れて、帳を忌避して。あるやも分からぬ己の扉を必死に探して来たのだろう。

 なればこそ。「アリス」は一刻も早く、その扉を開くべきであった――はず、なのに。

「……ぁ、ぁぁ」

 ――雨が、降っていた。
 ノイズが走る。頭が痛む。チカチカと眩む瞼の裏に、いつかどこかの情景が映り込む。
 薄暗い部屋戸のスキマ風伸ばした掌揺れる視界灯の消えたランプだいすきな●●●●●「×め×なさ×」堅い床頬打つ雨伸ばされた腕ツキアカリ振翳された――つめたい、刃。

 知ってる。知っている。あの音も感触も冷たさも痛みもひかりも恐怖も、すべて。
 これは、紛れもない「アリス」の記憶だった。
 それは、だいすきなひとに裏切られた――「わたし」の記憶、だった。

「ぁぁあああぁああぁあぁあああああ!!!!」

 泣き伏せるように崩れ落ちる「アリス」の、その後ろで。
 鬼たるものの影が一つ、うそりと歪な笑みを浮かべていた。

●暗晦に芽吹く
「かの不思議な国に迷い込んだアリスは、いずれオウガへと変質する可能性を秘めているそうだね。最近では観測された事例も多いから、耳馴染みのある人も多いだろう」
 ぺらり。数多の報告書が挟まれたファイルを捲りながら、ハロルド・マクファーデン(捲る者・f15287)は猟兵たちへと語りかけていた。
 これより現地へ赴く彼等へ情報を伝えようとしてか、ハロルドの視線が紙面の上を滑っていく。
「だが、今回予知に捉えたアリスはまだ変質しきっていない少女だった。云わば種の状態だ……もっとも、このままでは芽吹くのも時間の問題だろうけどね」
 そう遠くない内に、「アリス」はオウガと化してしまうだろう。
 あなた方にはそれを阻止して欲しいのだ、とハロルドは言葉を続けていく。

「ただ、少女を助けるに当たって障害が幾つかあるようでね――順を追って述べよう」

 一。絶望しかけた「アリス」を“まるで護る様にして”寄り添うオウガの姿がある。
 二。オウガは「アリス」の絶望を深める為の「絶望の国」を作り上げ様としている。
 三。アリスの昏い感情を反映した「絶望の国」は、濃い狂気へと染まりつつある。

「このオウガというのがまた厄介でね、どうやら悪意の塊のような御仁らしい」
 曰く。凛々しい少女騎士のような姿をしたそのオウガは、絶望に暮れる「アリス」へ親身になって声を掛け、あたかも彼女の味方であるかのように振舞っているようだ。
 だが、その目的は救済とは真逆のもの。「アリス」の信頼を得た後に手酷く裏切り、より深い絶望へ落とす手段をこそ、そのオウガは好んでいるらしかった。

「現在、オウガはアリスを連れて扉から離れようとしている。アリスの方も、オウガに心を預けたわけではなさそうだが……元の世界には戻りたくないのだろうね。戸惑いこそすれ、大した抵抗もなく従っているみたいだ」
 もしも、彼女たちの前に邪魔者――猟兵たちが現れたなら。
 オウガはこれ幸いとこちらを悪者に仕立て上げ、「アリス」を護るという演出の材料とするだろう。「アリス」を確保した後の事を考えると、余計な手は打たせず早急に倒したいところである。

 そして、オウガが不思議の国を塗り替えて作ったとされる「絶望の国」。
 其処は「アリス」が取り戻した記憶に影響された世界になっているのだと言う。
 その詳細を告げようとするハロルドの眉間には、僅かに皺が寄っていた。
「……どうも、件のアリスは『信じていたものに裏切られた』記憶を甦らせてしまったみたいだね。おかげで、今の彼女は何かを信じる、信じ続けるという事に強い拒絶感を抱いている」
 そして、少女のその感情を源にした狂気が「絶望の国」全体に満ちている。
 その狂気は、「アリス」は元より――その場にいる猟兵たちにも、襲い掛かるだろう。

「その国に居れば居るほど、自分が信じている人やもの――己が重きを置いていればいるほどに、それらが『疑わしく』思えてしまう。強制的な猜疑心の芽生えだ」
 それは、大切な人に対してか。かけがえのないものに対してか。
 もしくは、自分自身にすら。その狂気は牙を剥いてくるやもしれない。
「外部からの精神汚染、とでも言うべきかな。影響の出方は人それぞれだろうが、放っておけば厄介なことになるだろう。アリスとの対話や、その後の戦闘にも差支えが出てしまう可能性もあるから、皆にはある程度の対策を考えておいてほしい」

 この狂気の源は「アリス」の感情だ。
 仮初めの疑心に惑わされず、無事に「アリス」の心を絶望より救うことが出来たなら。
 世界に満ちる狂気も薄れ、「アリス」を扉へ送り届ける事も楽になる筈だ。
 予知には例のオウガの他に、鋭い歯を持った植物のようなオウガたちが「アリス」の扉の前で群れている光景も見えていた。「アリス」を元の世界へ帰すためには、そちらとの戦闘も避けられないだろう。
「どうか、偽りの芽生えに惑わされないように。――アリスも、皆も、無事に帰れる事を祈っているよ」





第2章 冒険 『狂気に満ちた満月の下』

POW狂気にただひたすら耐える。
SPD狂気を紛らわせたり軽減するような方法を取る。
WIZ狂気に陥っても問題ないような対策をとっておく。
👑11 🔵🔵🔵🔵🔵🔵🔴🔴🔴

種別『冒険』のルール
「POW・SPD・WIZ」の能力値別に書かれた「この章でできる行動の例」を参考にしつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
 プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。

 大成功🔵🔵🔵
 成功🔵🔵🔴
 苦戦🔵🔴🔴
 失敗🔴🔴🔴
 大失敗[評価なし]

👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
 ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。

※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。


 騎士を騙る鬼は姿を消し、世界に束の間の静寂が訪れる。
 あるものは「アリス」の姿をみとめ、その無事を安堵するだろう。
 あるものは「アリス」に語り掛け、彼女の話を聞こうとするだろう。


 ――雨が、降っていたのだと。
 ぽつりぽつりと、雨音に紛れてしまいそうな小さな声で、「アリス」は語る。

 薄暗い部屋、戸のスキマ風。
 伸ばした掌、揺れる視界。
 灯の消えたランプ、だいすきな●●●●●。
 「×め×なさ×」
 堅い床、頬打つ雨。
 伸ばされた腕、ツキアカリ。
 振翳された――つめたい、刃。

 彼女が得た記憶のカケラは、儚くも曖昧で。
 それでいて、語る声はひどく哀しみに満ちている。


 帰りたくないと言葉を溢す少女に、けれど。
 このままにはしておけぬと。再び『扉』に戻るべきだとして、誰かが、声を掛けようとして――けれど。


 誰かが、気付く。
 此の異界より降りた時から、僅かに感じていた其れ。「アリス」の心を核として、鬼が世界へと放った月の狂気。

 誰かは、門開きの猟兵の言葉を思い出す。
 曰く。此の世界に満ちた狂気は、強制的な猜疑心の芽生えであると。
 自分が信じている人やもの――己が重きを置いていればいるほどに、それらを『疑わしく』思わされる精神汚染。

 人に、物に、さらには自分自身へと。自分自信へと。此の狂気は、際限なく牙を剥く。

 抱いた不安に自由を奪われ、どうしようもない不快感が吐気を催す。隣立つ者を嫌悪し、己自身に刃を向ける。
 汚染され不安定になった精神は、ともすれば幻すら見せるだろう。

 いつか抱いたやも知れぬ、疑心の種が。
 なみなみと注がれた狂気によって、月明かりの下に花開く。


 かの鬼が遺した、悪意に満ちた呪詛が。
 彼らへの内へと、蔓延り始めていた。
冴木・蜜
ふと耳に届く
水滴の音

振り返れば
かつて信じていた彼が微笑んでいて
その手で傾けられた
わたしのくすり

ああ、そうだ
そうして私の薬は
貴方の手で毒となって
数多の命を融かした

わたしの毒に狂わされた人達の
私を責める声が反響して
塞いだ耳に彼の声が
私には誰も救えないと囁く声がする

息が詰まる
目の前が、視界が歪んで
私は、何をしたかったんだろう
わたしは…

――そう
私は誰かを救いたい

裏切られたとしても
私のねがいは変わらない
変わるはずがない

この絶望を知っている
あの裏切りを
でも私は信じることを止めるつもりはない
何度裏切られても救い続けたい

諦めてはいけない
折れてはいけない
償いも何もかもが終わっていない

アリスを
彼女を助けなくては


 降り止まぬ雨の中、月の狂気に満ちる世界で。
 昏く重い空気が、湿り気を伴って冴木・蜜(天賦の薬・f15222)の身に伸し掛かる。
 じわじわと精神を蝕む絶望は、己と在り方は異なれども――まるで、毒の様でもあり。ほんの少しでも気を抜いたら最後、ぺシャリと心ごと押し潰されてしまいそうだった。
 グニャリと歪む視界の中、己が身が崩れてしまわぬ様にと、蜜は“手足”に神経を張り詰める。青白いガワの表面に、汗にも似た液体が滲み出ていた。

 精神に干渉し、行動を阻害する類のものが影響を及ぼしてくるであろうことは聞いていた。其れでも、絶望に沈まんとする「アリス」を救う事が出来るのならと。覚悟の上で、蜜は此の世界に足を踏み入れたのだ。
 そう、「アリス」を。此の狂気は、かの少女の昏い感情を核としているのだ。此の身に感じる重さは、精神を侵さんとする悲哀と諦めの感情は、未だ彼女が救われていないと言う証に他ならない。

 嗚呼、早く。「アリス」を。少女を。人を。
 探さなければ。救わなければ。掬わなければ――。


『わたしたちをとかした、そのてのひらで?』

「――ぁ」
 ドクンと。形だけの筈の、心の臓が跳ね上がる。
 声が、聞こえた。あどけない子どもの様でもあり、歳を重ねた女人の様でもあり。誰とも判別出来ぬ、不可思議で聞き覚えのない――けれど、どうしてか知っている気がしてならない、声が。
 サァと、身体の熱が急激に冷める様な感覚に襲われる。血の気が引く、と称するものにも似た其れは、彼にひどく心地の悪い寒気を齎した。
 眩む視界、消えゆく葉音。溶け崩れる身体に引き摺られる様にして、蜜の五感が鈍っていく。
 其れでも。何かを掴みたくて、いつか取り零してしまった誰かを救いたくて。己を責める様な言葉の、声の主を探そうと。昏く閑かな世界の中、崩れかけた腕を徐ろに伸ばし掛けた、そのとき。

 ――ぴちゃん、と。
 “雫”が落とされる音が、して。

「ぁ……あな、た」
 振り返る。仄暗い世界の中に、彼がいる。
 かつて信じていた男。同じものを目指していると思っていた、旧き友と呼べる筈であった彼。
 青白い顔をした彼の、仄暗い双眸と視線が交わる。硝子越しの灰は、在りし日のように、柔らかく細められていた。
 彼は、穏やかな微笑みを蜜へと向けながら。その手にした試験管を――“わたしであった”其れを、傾けて。

 ぴちゃん。
「ぁ」
 雫が落ちる。くすりが落ちる。くすりとなる筈であった、『毒』が落ちる。

 ぴちゃん。
「ぁ、ぁぁ」
 薬が、落ちる。人に落ちる。
 たくさんの人が、其の命が。何もかもを融かし尽くす毒の沼に、おちていく。

 『いたい』ああ『くるしい』そうだ『あつい』あの声は『いたい』この叫びは『やめて』あの人が『とけてしまう』わたしの『いたい』わたしのくすりを『いやだ』くすり、が『たすけて』いいや、『いたい』どく、が『しにたくない』わたしの、どくが。

 どうしてなんでいやだやめてくれ溶ける融けてしまう何もかも嗚呼痛い苦しい熱い辛いからだが命が融けて溢れてどうして何故こんな違うやめてお願いだ助けて何で。

 ――どうして、わたしたちをころしたの。

「――、」
 コキュ、と。息が詰まる、喉の奥が締まっていく。
 声が。幾重にも重なった声が流れ込む、悲痛な其れが雪崩れ込む。
 蜜が――蜜の毒が狂わせた人の、融かしてしまった数多の命の、声が。
 彼を責める言葉を吐いて、苦しいと訴える言葉を紡いで。蜜の内へと、注ぎ込まれていく。
 ガラガラと、足元が崩れ落ちてしまったかの様な感覚に襲われて。蜜は小刻みに震えながら、己の“手”と呼ぶべき部位だったもので、どうにか耳を塞ごうとして――けれど。

 『だからね』と。
 囁く、あの人の声が。

『――キミには誰も救えないんだ』

 こびりついて、はなれない。



 雨降る月夜、くらいくらい森の中。
 黒い、泥の様な水溜りが在った。
 あらゆるものに害を及ぼす“毒”の黒油だった。ほんの少し触れただけで命を摘み取る、死を体現するかの様な黒油だった。あの囀りを奪い、たくさんの生命を無為にころして。どうしようもなく死毒でしか無かった己に、けれど手を差し伸べる人がいた。共に人を救おうと語る声に、眩しいまでの希望を見出し。死毒は人を救う薬とならんとして、けれどその切なる望みすら“裏切られた”。
 力無く折り重なった死体の山。突きつけられた『結果』を前にして、死毒の視る世界は昏くなる。
 グニャグニャ歪んでいく視界と己の身体。どうしてと、取り止めのない疑問だけが巡っていく。
 嗚呼、こんなにたくさんの『死』を齎して。私は、何を為したかったのだろう。

 毒は――蜜と云う化け物は。一体、何をしたかったと云うのだろう。
 わたし、は……。

「――、は」

 溶けゆく思考の中で。ひとつ、『それ』だけが形を持っていた。
 何もかもを放棄してしまいそうな絶望の中。其れでも捨てれず、手放せない『ねがい』があった。
 あの日、あの人に裏切られてなお。ずっと蜜の中に在り続けた、希い。
 は、と。漏れ出た息は、微かな自嘲の響きを滲ませて。人を真似た様な口の端がゆるく上がり、歪な弧を描いていた。

 ――そう。そうだ。
 私は、矢張り、どうしても。
 誰かを救いたいと、そう願うことを、止められない。

 幾年の時が経とうと、何度裏切りを受けようと。其のねがいだけは変わらない、変わるはずがない。
 どれほどに、此の絶望に身を浸そうとも。あの裏切りを、己の齎した『死』を突き付けられようとも。
 彼は、愚直なまでに救い続けるのだろう。数多を融かした此の手でも、いつか誰かを救えるのだと信じて。必死に、其の手を伸ばすのだろう。

 嗚呼、諦めてはいけない。
 此の様なところで、折れてはならない。
 未だ。償いも何もかもが、終わっていない。

「――アリスを。彼女を、助けなくては」

 そして。
 かつて薬となり損ねた化け物は――人の隣人たらんとする、蜜という生き物は。
 ドロドロに融けてしまった黒油の中から、其の“手”を浮かせたのだった。
成功 🔵🔵🔴

ジュジュ・ブランロジエ
●*
メボンゴ=絡繰人形の名

私は輝く未来を信じてる
明日も明後日も、大好きなお友達がたくさんいて、居心地の良い場所がある
メボンゴと一緒に人を笑顔にできて、私も笑顔になる
そんな日々が続くって信じてる、信じてた、けど
本当に続くの?
いつか急に終わりがくるかも

不安になってメボンゴを抱きしめる
彼女は不変の友達
……違う。不変なものなんてない
私の腕が上がればメボンゴはもっと生き生きする
進歩する
終わりがきたならまた始めればいいんだ
私は輝く未来を創れるって信じてる
私だけじゃなく誰もが
もちろんアリス、貴女も
一人じゃ難しければ手伝うよ

ねえ、アリス
まずは自分を信じてみて
貴女は貴女が望んだ未来を創れる
信じることを恐れないで


 ――信じているものが、ある。
 数多の国を、世界を渡り歩く流れの奇術師。煌く翡翠の瞳を持ったジュジュ・ブランロジエ(白薔薇の人形遣い・f01079)には、昔も今も、真っ直ぐに信じているものがある。
 其れは、希望に輝く明日の朝日であり、笑顔溢れる明後日の夕餉であり。
 たくさんのお客さん、大好きなお友達に囲まれた居心地の良い場所で。愛しの相棒、白兎のメボンゴと一緒に、彼らを笑顔に出来る日々が続くのだと。彼らと共に、笑い合い生きていくのだと。
ジュジュは、心の底から信じている。
 疑いようもなく、真っ直ぐに。彼女は信じて――信じていた、のだけれど。

『――本当に?』
「っ!」

 ひそりと、囁く声が、して。
 其れは、ジュジュと同じ声をしていた。姿を伴わぬ悪意の声は、彼女の耳元で言紡ぐ。

『楽しくて幸せな日々、希望に満ちた輝く未来。本当に続くって思ってる?』
『どこにそんな保障があるの? 明日も、明後日も、明々後日も、いつ何が変わるかなんてわからない』
『定番の品目だって、些細なことでミスをしてしまう人もたくさんいる。楽しい時間も大好きな人たちも、いつか急に、手品みたいにあっさりすっかり消え去って。終わりが来る可能性だって、あるでしょう?』

「そん、な……」
 そんなことない、と。即座に返そうとして――けれど。
 口から溢れ出た声は、驚くほどに小さくて。徐々に消えゆく其れは、己の不安を表しているかの様だった。

 胸中に撒かれた不安の種は、瞬く間に芽吹いていく。
 サァと血の気が下がる様な心地がして、其の儘何もかもが失われてしまう気さえして。襲い来る不安に耐える様にして、ジュジュはぐっと口を引き結ぶ。
 湿気を多分に含んだ夜風が、彼女の肩を撫でて行く。長らく雨に晒された彼女の身は、ひどく冷えてしまっている様だった。

 煌めいていた筈の瞳が、僅かに翳る。
 冷えて固まり掛けた指先を、どうにか動かして。ジュジュは、傍らにいた相棒を抱き上げる。
 頼もしき旅の相棒、淑やかな白兎。ぎゅっと抱きしめれば、柔らかな触り心地のレースが頬に触れた。
「……終わらない。終わったりしないよね、メボンゴ」
 紡がれる声は細く、小さく。一人では拭い切れぬ不安を誤魔化す様にして、ジュジュは白兎に語り掛ける。ぎゅううと強まる腕の力を、兎の淑女はされるまま受け入れていた。

 メボンゴは、不変の友達だ。
 いつも変わらず、ジュジュの傍にいて。いつだって彼女を助けてくれる。
 どんな場所でも、どれだけ時間が経ったとしても。其れだけは変わらない。
 いつ終わってしまうやもしれぬ、未来の中で。メボンゴの持つ不変性は、ひどく頼もしく、心地良くて――。

 本当 に ? 何が あって も、 変 わ ら な い ?

「……違う」
 ぽつりと。落とされた声は、確かな想いを滲ませた否定の言葉。
 相棒を抱き締める力が、微かに弱まる。力の入り方が変わったせいだろうか、体勢の変わった白兎の頭がほんのりと上を、ジュジュの方を向いていた。

 違う、違うのだ。不変なんてものはない。ましてや此の友に、其れが当て嵌まる筈もない。
 例えば。ジュジュの腕が上がったならば、メボンゴはもっと生き生きとして動くだろう。
 ジュジュの経験した事柄を、気持ちを分け与える度に、相棒も共に進歩する。
 もちろん、全部が全部、上手く行くことばかりじゃない。今だって苦手な品目はあるし、ちょっと失敗してしまうことだってあるだろう――けれど。
 そんなの、彼女たちにとっては今更だ。たくさん失敗して、其のぶん目一杯に練習して。そうして、私たちの芸は日を追うごとに輝いて。
 たくさんの人を、一緒に笑顔にして来たじゃないか。

 変化は、ある。その度に、進歩だってある。
 もしも終わりが来たとしても大丈夫。また始めれば良いんだって、私達はちゃんと知っている。
 どんな運命が訪れたとしても――其の先に。輝く未来を創れるって、信じてる。
「……ね、メボンゴ」
 翡翠が、白兎の赤を見る。
 月の光を受けて、きらりと光る赤いまなこ。つるつるとした其処には、決意に満ちたジュジュの顔が映り込んでいる。

「私達の気持ち。ちゃんとアリスにも、届けに行こう」



 アリス、アリス。
 そう呼び掛ける声に釣られて、泣き伏せる少女は顔を上げた。

 唯一得た思い出を、口にして語った後から、ずっと。きゅうと胸の中心が締め付けられるような心地が少女の中に満ちていたから。
 月明かりに照らされた「アリス」の頬に、ぽろぽろと止めどなく、雫が流れ落ちていた。

「ねえ、アリス」
 泣き止まぬ少女と視線を合わせるようにして、ジュジュはしゃがみ込む。
 彼女の腕にいるメボンゴも、ひょこひょこと耳を動かして。泣いている少女を心配するように、まん丸のお目目を向けていた。

「アリス、まずは自分を信じてみて。貴女は、貴女が望んだ未来を創れるんだって」

 貴女がどんな過去を見たのかは分からないけれど。
 でも、このまま泣き伏せてしまっていては、「アリス」が笑顔になれる未来すら無くなってしまうから。

「私達は、皆を笑顔にしたいって。輝く未来を創りたくて、旅をしてるの」
 ぴょんっ、とジュジュの腕の中からメボンゴが飛び出して――もちろん、其れもジュジュによる手添えあってのものだ――愛らしい白兎が、「アリス」の方へと跳ねるように近づいた。
 メボンゴは、ぽろぽろと零れ落ちる少女の涙を拭うように手を振ってみせる。優しく触れた白のレースが、水に濡れてほんのりと色が変わっていた。
 「ねぇ、アリス」何度も呼びかけるようにしながら、ジュジュは言葉を続けて行く。

「そう思っているのはきっと、私だけじゃなくて。誰もが、自分の望む未来を創れるって信じてる」

 もちろんアリス、貴女だって。
 貴女が『未来』を少しでも望むなら、私達だって全力で其れを応援する。
 だって。私達はそのために、ここに来たんだから。

「一人じゃ難しければ手伝うよ。だから、アリス――」

 ふわりと。
 交わった視線の先。
 強い意志を灯した翡翠が、柔らかく細められていた。

「信じることを、恐れないで」
成功 🔵🔵🔴

キイス・クイーク
●*
なんやこれ。不思議やなあ。
おれ、今ならオウガも倒せる気がする。
これが猜疑心の芽生え言うやつやろか。
「おれは弱い」を疑うとこんな風になるんやなあ。
けらけら笑っていたけれど、芽生えた猜疑心は昔まで遡って。

あれ。
おれ、あの時も、オウガを倒せたような ?

ーー あかん。
力まかせに近くの木を叩く。
たわい無い音に無傷の木、じんじんする手。

いつもと同じひ弱な腕や。馬鹿やねえ。
昔も今もおれがひとりでオウガを倒せるはずがないのに。

アリス。
おれにはきみの苦しさがわからんのよ。ごめんなあ。
せやから、わかることだけ言わせてや。
帰らんと帰れんようになってしまうよ。
人にもアリスにも戻れんで、オウガになってしまうよう。


 ――其れは、不思議な心地だった。
 何をも信じられなくなってしまうという月の狂気、植え付けられた猜疑心の種。
 其れは力の無い白ねずみ、キイス・クイーク(窮鼠・f26994)にも齎されていた。
 キイスは、ぱちくりと瞳を瞬かせる。ふつふつと湧き上がる此の気持ちは、ねずみにとって初めての感情だったのだろう。赤い双眸に戸惑いの色を浮かべながら、キイスは徐に掌で口元を覆っていた。

「……なんや、これ」
 不思議やなあ、と。
 小さく呟いた白ねずみの、指の隙間から覗く口の端は――うっそりと、歪に吊り上がっていて。

 おかしい、可笑しいなあ。
 オウガも世界も、此の小さな身より大きくて強いもの、全てを恐れるような、か弱い生き物であった筈なのに。
 何よりもいっとう弱いと信じて疑わなかった白ねずみ、誰よりも己の弱さを知っていた白ねずみ。
 月の狂気でくるくる狂うて、小さなねずみは「弱いもの」から「強いもの」へ。心に深く根付いていた筈の価値観が、キイスの中でひっくり返っていく。

「――はは。おれ、こんな気持ち、初めてや」
 ああ、もしかしたら。今ならきっと、あの騎士も、他のオウガも。「アリス」を脅かす全部、倒せてしまえる気がするなあ。
 けらけら、けらり。ひどく愉快な気持ちに満たされて、ねずみの笑い声が月夜の下に響いていく。

 嗚呼、そうだ。ねずみのひと齧りでアレは死ぬ。柔いところを引っ掻いて、傷口に病の血を垂らしてやれば。ヒトもオウガも、パタパタと容易く死んでいく。
 あの騎士だって変わらない。あの竜だって変わらない。そう、あのオウガだって――。

 あの、ときの。
 どん詰まりに沈んだ、あの国で。斃れた、オウガが……ぽちゃんと、落ちて……?

「……、あ、れ」

 あの時、アレを倒したのはおれだっけ?
 いいや、違う。アレは倒れた、ねずみが何をするでもなく斃れていた。ねずみが“何も出来なかったから”斃れていた。

 ぽちゃんと水溜りに沈んだ長い耳、どんどん真っ赤に染まっていく。
 刻々とソレの身体から流れていく其の命を。同じく“沈んで”しまっていたねずみには、どうしたって止められない。

 嗚呼、可笑しいなあ。此の高揚感は本物で、オウガを倒せてしまえそうな気持ちだって、嘘もなく本当のように思えるけれど。
 だけど、なあ。もし本当に、おれが「強い」ものだったなら。

 どうして、あの時――『うさぎ』は、斃れてしまったの?



「――、あかん」
 バシンと。乾いた音が、森に響く。
 其れは、キイスが傍らの木を叩いた音だった。力任せに振るった拳は、けれど丈夫な幹に傷一つ付ける事は無く。たわい無い音を響かせた、其れだけで終わりだった。

 そう、それだけだ。
 いつもと同じ、ひ弱な腕。非力な此の身では、何を為せることもなく。
 じんじんと痛みを訴える手に、どこか険しい視線を送りながら。
 ハ、と。キイスはひとつ、乾いた嗤いを溢してみせる。
「馬鹿やねえ」
 昔も今も。己がひとりで、オウガを倒せるはずがないのに。
 嗚呼。本当に、馬鹿みたいだ。


 未だ靄がかったような思考にかぶりを振って、キイスは昏い森を歩き出す。
 ひくひくと鼻を鳴らして、覚えのある匂いを辿って。
 そうして――か弱い白ねずみは、再び「アリス」を見つけるだろう。

 シクシクと泣き伏せる彼女の側へ、キイスはそっと近寄って。
 ぶかぶか帽子を、ぎゅっと握りしめながら。白ねずみは声を掛ける。
「なあ、アリス」
 ――反応は、無い。
 其れも想定内だったのだろう。キイスはさして戸惑う様子もなく、そのままちょこんと「アリス」の横に座り込んだ。
 ぽろぽろと玉のような雫を流し続ける少女の顔を、ねずみはちらりと盗み見る。

 きっと。思い出した記憶とやらに、ひどく傷付けられてしまっているのだろう。
 「かあいそうに」とキイスは小さく呟いて。けれども。
 此の無力なねずみには、どん詰まりに沈みかけた「アリス」の心を助けることも……逃げるための「穴」を作ってあげることも出来なくて。
 ぎゅううと、帽子を握る手に力が篭る。何をも守れぬか弱いねずみ、決して『うさぎ』にはなれない、小さなねずみ。
 だけど。まだ此の少女が、本当の意味で“どん詰まり”になっていないと云うのなら――白ねずみは、キイスは。己の無力さを噛みしめながらも、そっと口を開くだろう。

「おれにはきみの苦しさが分からんのよ。ごめんなあ」
 ――せやから、わかることだけ言わせてや。

 なあ、「アリス」。帰りたくない言うて、帰れないと泣いてしもうて。
 けれど、このままでは本当に、なみだの湖に沈んでしまうよ。

 帰らんと、帰れんようになってしまうよ。
 きみはずっと「アリス」のまま、いいや、其れすら赦されずに。

「人にもアリスにも戻れんで、オウガになってしまうよう」

 ぴちゃん、と。
 空から落ちた雫が一つ。泥濘の中に落ちていった。
成功 🔵🔵🔴