●花忘れの勇者
その勇者は、名をアシアハといった。
砂漠の集落に棲まう、浅黒い肌と長耳の部族。その長の次男であった彼は、部族の誰よりも腕が立ち、寡黙ながら情の深い人物であったという。
帝竜ヴァルギリオスの齎した災禍は、彼らが暮らす辺境にまで及んでいた。世界各地が帝竜討伐に乗り出したと風聞し、部族からも戦士を出すべきだとの機運が高まった。
誰かが征かねばならなかったし、その答えは決まりきっていた。選ばれたのはアシアハだった。
誰もがそう望み、アシアハもまたそれを拒んだという記録はない。すべては穏やかに、自然な流れで運んだのだろう。
勇者は旅立ち、そして死んだ。
アシアハには妻がいたという。伝承に名は残されていないが、『砂漠の花』と称されるうつくしい女だったとされる。
アシアハは、彼女を心底愛していた。
旅の途中で竜に滅ぼされた森都を訪れた彼は、その過程で“記憶を石に変える神秘”に触れた。
それは誓いか、決別か。あるいは、彼は周りが思っていたほど、強い人物ではなかったのかもしれない。
アシアハは妻の記憶を石に変えた。そして装飾品に仕立てたそれを、最期の瞬間まで肌身離さず身に着けたという。
最早それが誰の面影か思い出せなくとも。それが大切なものだとは、知っていたから。
●こいし溢し
「伝承を紐解くと、彼は沈みゆく群竜大陸から生き延びた数少ないひとりだったよう」
ただ。
「野盗に襲われ死んだと。帰路の半ば、伝承の森のほど近くだったそうです」
全篇を通じて曇りなき英雄譚など、空想の中にしか存在し得ないのかもしれない。
片手に本体たる鳥籠を、片手に黒曜に似た小石があしらわれた首飾りを。伏し目の古錆・キコ(ヤドリガミのグリモア猟兵・f01699)は、訥々と続く。
「結末がどうあれ、彼が伝説の勇者のひとりであることに変わりはないの。これが与える依頼はひとつ、彼の足跡を辿ってほしい。勇者の歩んだ旅路とは、すなわち勇者の意志をうつすもの――彼の伝承に触れることが、これらの新たな予知に繋がります」
猟兵たちの活躍により、群竜大陸の所在は『クラウドオベリスク』と呼ばれる無数の柱の力によって隠されていることが判明している。その破壊も急務ではあるが、未だ発見されていない柱への予知を叶えるために、引き続き勇者の伝説も追う必要があるとグリモア猟兵は説いた。
しゃらり。
指先で首飾りを転がしながら、ここからが本題だと鳥籠は囀る。
「あなたがたに赴いていただくのは、勇者アシアハが記憶を石に変えたという森。魔法の霧に包まれた木々を抜け、森の地下に隠された廃都を目指してください」
高度な魔法文明を擁していた件の都は、迫る竜への備えとして森を『忘却の霧の魔法』で覆った。霧は触れれば徐々に記憶が吸い取られるという危険な代物であり、目的や来た道、果ては己の素性すらも忘れ、力尽きるまで森を彷徨うことになるという。
それほど強力な防衛策を持ってなお、都は滅んだ。それというのも、陽が沈めばたちまちこの霧は薄まり、効果も大幅に弱化する――具体的には、“その時最も強く意識していた想いだけを忘れる”に留まる、という弱点を突かれたためだ。
「伝承をなぞるため、勇者に倣ってあなたたちにも真夜中に森に入り、記憶をひとつ失くしていただく必要があります。なかなか受け入れづらいかとは思われますが、霧の性質上、忘れる内容はコントロールが効きますし……廃都に辿りつけば、伝承のとおり記憶を石のかたちで取り戻す手段がありますので、その点はご安心ください」
目的地の地下都市には、魔石のコアを持つ蝙蝠の魔物が棲んでいる。記憶の溶けた霧を主食とする彼らのうち、とある方法で目印をつけた個体を倒せば、各々の記憶が封じられた石として手に入るのだ。その石を砕いたなら、失った記憶もたちまち蘇ることだろう。かの勇者は、そうはしなかったようだけれど。
概要は以上ですと締めくくったこどもは、手元の首飾りに視線を落とした。終始平坦を貫いていた眸の温度が、僅かに揺らいだ気配がする。
「……余談、ですが」
迷うような間の後に、つけ添えた。
「この首飾りは、近年見つかった勇者アシアハの遺品だということです。予知の助けに、これが話を聞いた、森の隣町の長から借りました」
きゅう、と。
無骨な銀鎖に揺れる、五つの点が刻まれた小石。そのちかりと瞬くを見て、こどもは眼をほそめた。
「彼の石が残っているということは。――忘れてまで愛していたひとを、彼は、ついに思い出せぬまま亡くなったのでしょうね」
それは哀しいことだろうか。
それは、幸せなことだろうか。
溢れんばかりのこいし憎しも、ひとつこいしに姿を変える。
あなたもきっと触れるだろう。森の神秘に、その意味に。
それが大切な記憶なら、その場で石を砕けばいい。
束の間といえど喪った記憶は、あざやかな輪郭を帯びてあなたの胸に刻まれる。
けれど、もし。
目を背けたいなら忘れてしまえ。
あなたは、きっと強くなくたっていいのだ――花忘れの勇者のように。
Nicha
↑ お願いごと、都度ご連絡事項等を更新しています。
まずご確認ください。
●章立て
○第一章 日常『美しく遠きミルキィ・ウェイ』
忘却の森に踏み込む前に、ひとつ準備が必要です。
満天の星空を見あげて、あなただけの星座を作ってください。
あなたが描いたかたちが、記憶とあなたとを繋ぐ目印になるでしょう。
○第二章 冒険『迷いの森』
薄く霧まいた夜の深森を、配布された『測星盤』を頼りに進みます。
道すがら、なんでも記憶や想いをひとつ、思い起こしてください。
地下都市の入り口が見つかるころには、ぽっかり忘れてしまうことでしょう。
○第三章 集団戦『エレメンタル・バット』
接近してきた蝙蝠数羽との戦闘です。一撃で倒せ、魔石を残して消滅します。
あなたの記憶が封じられた魔石には、あなたの星座と揃いの点が刻まれています。
石と変じた記憶をどうするかは、あなた次第です。
●ご注意
各章とも、冒頭に導入文が入った時点から受付け開始です。
それ以前にお送りいただいたものは見送らせていただきますのでご注意ください。
また、プレイングは、システム的に送信不能になるまでは受付けております。
ただし、遅筆のため採用率はひくめになります。どうかご容赦ください。
判定は雰囲気重視で。能力値や選択肢など、あまりお気になさらずに。
●余
こんにちは! お目にとめていただきありがとうございます、Nichaです。
ひとつだけ、心をモノにできるとしたら、あなたならどうしますか?
胸を苛む心傷でも、愛しい面影でも。はたまた、大嫌いなニンジンのことかも。
大好きだから、大嫌いだから、風化させたくないから、石にしますか。
思い出せない記憶に、あなたはどう向き合いますか――。
そんな物語、そんな舞台、あなたの想いを聞かせてください。すこしふしぎな世界ですから、状況や設定もどうぞご都合よろしいように解釈いただけたら幸いです。
たのしんでいただけますように! ご参加、お待ちしております。
第1章 日常
『美しく遠きミルキィ・ウェイ』
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POW : 大の字になって星空を見上げる
SPD : 星空を見上げて物思いに浸る
WIZ : のんびりと天の川を眺める
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●宙問ひ
刻は夜半。星は満天。伝承の森に臨む、小高い丘の頂。
眼前に広がる鬱蒼とした森は、あわい乳白に半身を浴している。
眺めたかぎりでは、都の存在を示すものは窺えない。翼を誇る飛竜とて、たとえ霧にまかれようとも森に分け入るしかなかっただろう。
人も竜をも閉ざす森は、しんと静かに――しずかに、揺らいでいる。
アシアハは、先人に尋ねて霧を石に変える術を知ったのか。あるいは、彼自身が編み出したのだろうか。
今となってはそのどちらとも知れないけれど、伝承の中に、彼はその手段を遺している。
森に踏み込む前に、為すべきことがまずひとつ。
曰く、記憶を預ける星座を描くこと。霧に記憶が溢れようとも、心に紐づいた星の印象が、おのずと魔石にあらわれるものだから。
古の空に、勇者は何を見たろうか。
あなたたちの空に、あなたは何を見たろうか。
猟兵たちのまなざしを抱いて、空想の夜は更けてゆく――。
岡森・椛
★
勇者の物語を聞いてから心が痛い
ずっと石を砕かなかったのは、きっと…
そんな物思いに耽っていると、精霊アウラが不安そうに私の顔を覗き込んでる事に気付く
心配させちゃった?
大丈夫だよ!
アウラをぎゅっと抱きしめて、夜空を見上げる
とっても綺麗
この満天の星空を見ていると、星と星を繋いで星座を描いた昔の人の気持ちが分かる
星の輝きの中に自然と数々の星座が見えてくるから
ね、アウラ
私は紅葉の星座を作ろうと思うの
私は紅葉から名前を分けてもらった
両親がくれた大事な名前
その事に想いを馳せて、描くのは赤ちゃんの掌みたいな小さな紅葉
大切のものを星座として描けて幸せな気持ち
アウラも笑顔でくるくる回ってる
アドリブアレンジ大歓迎
降る星のひかりは穏やかに、集った猟兵たちを照らし出している。淡く過る夜風が土を撫でる、さわと草がそよぐ――場面だけを切りとったなら、とても静かで平穏な時間。
そんな景色と裏腹に、岡森・椛(秋望・f08841)の面持ちは曇り模様だ。夜空を見あげることもなく、唇を噛んでじっと俯いている。
想いを馳せるのは、花忘れの勇者のこと。遍く物語を愛おしむ椛だからこそ、かの、勇者の心に空想を重ねればこそ。
(――胸が、)
痛い、痛いよ。苦しいよ。
(私にとってのアウラと同じくらい。アシアハさんは、奥さんのことが大好きだったんだよね)
それでも。それゆえに。最期の時まで彼が石を砕かなかったのは、きっと――。
胸元の握り拳に力が籠る。こらえるように細めた柘榴の眸、その視界の端から、不意に小柄な影が顔を覗かせた。あ、と椛の唇から息が漏れる。
「アウラ」
呼びかければ、風の精霊は椛の眼前まで浮かびあがった。ちいさな伴は気遣わしげな上目の遣いで少女を見て――くるり一回転、生みだした柔いそよ風で、そっと励ますように椛の頬を撫でた。
「ん……ごめんね、心配させちゃった? 私は大丈夫だよ!」
そんなけなげな心遣いに、少しだけ強張っていた椛の顔はたちまち綻んで。おいでと手招き、ぎゅっと抱きしめてあげたなら、アウラもうれしげににっこりを返すのだ。
やわらかな温度を擁いたまま、ふたりは揃って夜空を仰ぐ。
椛が生まれ育った世界のそれとは、また趣が異なって見える空景色だ。光に溢れた故郷の夜では、これだけの星々を数えることもなかなか叶わないものだろう。
とっても綺麗。思わずこぼれた呟きに、かいなのアウラも肯くようにふるえてみせた。その幾千のきらめきを眺めていると、自ずと様々なかたちが浮かんで見えるようで。
(そうやって、私の中の物語と一緒に、新しい星座が生まれていくの。……昔の人も、きっと同じ気持ちだったんだろうな)
十年、百年、千年の昔にも、大切なひとと寄り添い星を眺めた人々がいただろう。そんな歴史の最前に立ち、いまを生きる椛の双眸は、夜空にひとつきりの星座を映していた。
「ね、アウラ。私はね、私の星座を作ろうと思うの」
あなたと同じ空が見えるよう、ほっぺとほっぺをくっつけて。うんと背伸び、「これと、これとね」、指先で星のひとつひとつを繋いでいく。
それは、私の髪を彩ってくれる、この『紅』の葉のかたち。私が生まれた日、私に名前を分けてくれた、秋に訪うあざやかなお手紙。
十四年とちょっとの昔、椛は両親の溢れんばかりの愛情に包まれながらこの世に生まれたのだろう。生きたいよと産声をあげた、ぬくもりを探して腕を伸ばした――あの日の赤ちゃんのてのひらみたいに、ちっちゃな星座の名前は《紅葉座》。
「えへへ。大切なものを星座に出来て、嬉しいな」
こんなに頬が緩むのはきっと、アウラも見届けてくれたから。傍らの精霊に笑いかければ、アウラもはしゃいだようすで椛の周りを飛び回ってみせた。椛は足踏み、それを目で追いかけて、くすくすと笑いあう風の悪戯に、『彩』はなやかなワンピースの裾がふんわりと舞い踊る。
――くるり、とんとん、くるくるとん。星と紅葉と夜風のワルツ。
椛と揃いの夜空のひと葉は、そんな睦まじいふたりを優しく見守っていた。
成功
🔵🔵🔴
鵜飼・章
★
執着
忘れたい記憶があるという事は
ある種羨ましい事かもしれない
僕の眼にうつる世界は記憶の中で
何もかも灰色に褪せていって
捨て去られた過去の化石だけが
部屋の中へ堆積していく
それらが元々『なに』であったのか
僕はあまり覚えていられない
うつくしいものでも
忌むべきものでも
…はあ…
夜空が綺麗だから
『僕の部屋が汚い理由』を綺麗に話してみたけど
鴉達全然聞いてないや
この世界の空は地球の空とは違うね
星座も星の名も識らなければ
何を描くのも自由だ
けれどいつか僕が思い返す時
この星空もきっと灰色をしているんだろう
ほら、あの星とあの星を結んで
鴉座を作ってみたよ
…聞いてる?
何を忘れるかはね、もう決めてる
心配しないで
僕は僕だから
執着。
何かに強く心を惹かれ、忘れきれぬこと。
人の心を知りたくて、辞書を読み耽ったことがある。
外国語の構造に比べて、日本語は感性に拠るところがとても大きいらしい。だから海外では訳せない言葉が多いんだと、昔テレビでどこかの教授が、なぜか自分のことのように自慢げに話してたっけ。その時の僕はそうした自国の古式ゆかしい表現をことごとく理解できなかったけれど、執着という言葉の語義には、だいたいそんなことが書いてあったと思う。
どういう形であれ勇者にもきっと執着があり、だから外的な手段を借りてでも忘れることを選んだんだろう。その思考のプロセスを推察してみたものの、現代の人間のことすらわからない僕に、遠い昔の異国の人の心情なんてわかるわけがなかった。
「やっぱり僕は、愛を知らない怪物だから……」
儚げに呟いてみた僕の傍らで、鴉達が退屈そうに跳ねている。
忘れたいと思えることとは、逆説的にはそれを覚えていられるということだ。僕はひょっとしたら、それがすこし羨ましいのかもしれない。
僕は覚えていることが苦手だ。それは、暗記ができないということとはちょっと違う。どんな物事に対してどんな心証を抱いたとしても、それが記憶として僕の中に貯蔵されるなり、水が溢れていくようにその精彩がうしなわれていってしまう。やがて水が抜けきって、カラカラの灰色になった『モノ』が元々はどんな『もの』であったのか、僕には思い出すことができない。
そうした記憶の抜け殻が、僕の部屋には堆積している。今はまだ鮮やかなあのテラリウムも、既に若干褪せてきてる本多正信も、いつかは灰色に沈んでしまうんだろうか。後者はともかくテラリウムは惜しいな。でも忘れたくて忘れるわけじゃないし、だからこそ僕は人でなしなんだろう。
「だからね。僕の部屋が倉庫と言われるほど汚いのも、仕方がないことなんだ」
切なげに呟いてみた僕の傍らで、鴉達が暇そうに土をつついている。
時刻は零時を回っているけれど、日頃から人間らしい昼夜逆転生活を送っている僕に眠気はない。草に腰を下ろしていた僕は、そのまま寝転がって空を見あげた。一般的なヒトより見慣れているだろう地球の夜空と、この世界の夜空はまったく別物だ。
僕の部屋は散らかっていて、空の星々も散らかっていて――なのに僕の部屋は汚くて、星空を綺麗と思うのはなぜだろう。無秩序な星の並びに、僕の知る星座は見つけらない。それなら何を描こうか……図鑑を捲るには暗くて、異国の空を眺めながら考える。
僕の目に映る世界のすがたは、いつだって無色透明で平坦だ。それでも馴染みのある自室の景色より、窓から見た星空のほうが今みたいに鮮やかに感じられることがある。たぶんだけど、一種の無関心がそれを生んでいるのかもしれないな。なにせ、僕の埒外にある物事に対して、僕が意識を払う必要はない。だからこそ、僕が認知していなかったり、僕の興味の外にある世界は、いつだって目を向けたその瞬間が目新しく、うつくしく映る。そういう理屈だ。
「決めた」
あそこが翼で、あれが嘴。
この星空も、ここに描き出す星座も、こうして僕は関心を注いでしまった。だからいつか今日という日を思い返す時、記憶の中のこれらはきっと灰色をしているんだろう。でも興味を持つと忘れてしまうって、人間の構造としてはかなり致命的じゃないかな。できれば、推測が外れていることを願う。
「――ほら。あの星とあの星を結んで、《鴉座》を作ってみたよ」
そう鴉達に微笑んだ僕の傍らで、鴉達が……あれ、いない……。
みんなつれないな。溜息をついて起きあがった、眼下には霧の森が広がっている。
僕の記憶が石になったら、はたしてそれは何色をしているんだろう。試してみないと分からないけれど、何を忘れるかはもう決めていた。
「心配しないで」
聞いてくれる人、もとい鳥がいないので、僕は星の鴉に語りかける。――少なくとも、この言葉は僕自身に向けるものじゃなかったはずだ。
何が欠けようと。何を足されようと。
何になろうと僕は、鵜飼・章(シュレディンガーの鵺・f03255)なんだから。
成功
🔵🔵🔴
アオイ・フジミヤ
★記憶をなくす
持ちきれない、抱えきれない記憶を”こいし”へ変える
それは
悲しいことではないのかな?
(丘の緑に寝転がって)
猟兵になったばかりの頃
綺麗なものを探して旅をしては、こうして夜によく空を眺めていた
(よく道に迷ったのもあるけど……)
骸の海がどこにあるかわからなくて
もしかしたら空が繋がってるんじゃないかと願って
そこにいるはずの失った人に”綺麗な記憶”を渡すために
星が瞬く
空に輝く星は、心に瞬いて落ちる
私にとって、私の大切なものへ導いてくれる”灯”はひとつだけ
mahina(月)だ
月に似た、大切な人の力を借りよう
三日月の様な弧を描く、7つの星に決めた
アシアハさんが花を手放したのはなぜだろう
「この世界の月も、また違う顔をしているんだね」
丘の緑に寝転がって、アオイ・フジミヤ(青碧海の欠片・f04633)は眼を細めた。視界いっぱいの星空に浮かぶのは、すーちゃんと眺めた二色の月とも、夜行列車の窓の月とも、また違う輝きかたをする月だ。
思い返してみれば、同じ世界の月でも表情が異なっていたのかもしれない。初めてあの村を出た日、猟兵になった日……いろんな転機を経て、いろんな場所へと旅をしたもので。
(たまに……では済まないくらい、道に迷って、いきあたりばったりな時もあったけど)
そういうのだって、旅のかたちのひとつだろう。そんな一日のしめくくりには、こうしてよく空を眺めていたものだ。
そっと目を閉じたアオイの指先で、『海の欠片』がきらりとまたたいた。
骸の海を、ずっと探している。
この旅の中で触れたたくさんの綺麗なものを、いつか貴女に、全部届けられるように。
でも、それがどこにあるかわからなくて。もしかしたらこの空の繋がるところにあるんじゃないかって、そう考えるようになった。
大切な人はきっと骸の海で、きれいな星になって待っている――そう、教えてくれた人がいたから。
「……ねぇ、マリモくん。アシアハさんは、どうして花を手放したのかなぁ」
問われた、肩――の定位置のかわり、アオイの胸元で一緒に空を見ていたUDCは、こてんと首(?)を傾げた。こうして寄り添いながらも、自分たちとは異なる世界に生きているのだろう彼らには、人に対して馳せる想いもまた別物なのかもしれない。そっかと呟いて、アオイは自分の髪に触れた。『kili nahe』、桜の影が揺れる――星光に艶めく藍の髪には、ちいさな青色たちが可憐に灯る。
たとえば髪に咲くこの花、勿忘草。碧海に臨む花屋を営んでいるアオイは、当然その花言葉も、その由来も知っている。
故郷の世界の、海の向こうの、遠い昔の物語。とある騎士と貴婦人が、仲睦まじく川辺を歩いていた。ふと川岸に愛らしい青い花を見つけた騎士は、貴婦人のためにその花を摘んだ。しかし雪解けにぬかるんだ土に足を滑らせ、騎士は川に落ちてしまうのだ。鎧の重さに沈みつつ、凍える急流に抗いながら、騎士は愛しいひとに一輪を投げ届けた。その時、彼が最後に叫んだ言葉が――『私を忘れないで』。
月日に親しみ、想いを重ね、ついに結ばれた相手を忘れたいと思うことなどあるのだろうか。溢れる想いをこいしへ変える、それは悲しいことではないのだろうか。
(少なくとも、私なら忘れたくないと思う。私がアシアハさんであってもそう思うし……奥さんの側だとしても、忘れられたら寂しいな)
ひょっとしたら、それは我儘かもしれない。それでも、好きって、愛って、きっとそういうことなんだと思うから。
思い描くのは、月のような彼のこと。アオイ自身よりアオイのことを想ってくれるような、優しいやさしい、あの俤。
子供の頃から、ずっと何処かに行きたいと願っていた。そんな私に、ずっとここにいたいと思える居場所をくれた。
想いが叶わず、諦めるべき時があることを知っていた。そんな私に、それでも手を伸ばすことの意味を教えてくれた。
(大丈夫。不安はないよ)
いまここにいないあなたは、それでも私の心の中で、私を導いてくれるから。
(なんて、都合がよすぎるかなぁ。えへへ……でも、だってそうでしょう?)
寝転んだまま手を伸ばした。その手を、誰かが握ってくれたような気がして。
「私の“灯”。――あなたのひかりを、借りるね」
満天に星が瞬く。空に輝く星々は、ひとつかたちを成してこの胸に落ちる。
七つの星、描いたのは三日月のような弧。けれど名前をつけるとしたら、それは三日月座というよりも。
(《新月座》。控えめだけど、優しく私を照らしてくれる――)
海みたいにあたたかい、私のmahina。
成功
🔵🔵🔴
華折・黒羽
★
相棒の黒獅子、黒帝の腹に背を預け
星空を見上げる
色々な世界の星空を見たが
何処の星もその輝きは同じもの
依頼の内容を思い返し
ぽつり言葉が零れる
なあ黒帝…
この記憶を失ったら、俺はどうなるんだろうな
思い浮かぶのは今も探し続けるあの子の姿
襲われた村で共に過ごしていた、大切なあの子
失う記憶は選べると言っていた
けれどどうしたって一番に浮かぶのはこの記憶で
だとすれば
もしこの一番大事な記憶を忘れてしまったら…?
得体の知れない怖さから気を逸らす様に空へ指を伸ばす
描いたのは傍らで寄り添う相棒の、獅子の星座
──お前が、決めてくれ
霧を抜けた後の俺を見て
石を砕くか、そのままか
その言葉を聞きながら
黒獅子は只静かに寄り添う
夜は嫌いじゃない。
人の煩さが遠のくから。
歪なこの躯を、隠してくれるから。
「――なあ、黒帝」
寄り添って星空を望む、猫と獅子。星の輝きは何処も同じものだと、猫は思いながらに。
「この記憶を失ったら、俺はどうなるんだろうな」
『繚』。
そこに広がる心細い瞬きをフードの陰の青に映したまま、華折・黒羽(掬折・f10471)は凭れた黒獅子に問うた。片や星から目を離し、黒帝と呼ばれた獅子は黒羽の言葉に何も返さぬままに、ただ深い知性を宿したまなざしで主を見つめる。
黒羽も答えを求めてはいなかっただろう。むしろ、その問いは己に向けたものであったのかもしれない。
そしてその答えは、黒羽自身も知り得なかっただろう。
思い出す。
穏やかな景色。懐かしい人々。あたたかい、言葉たち。
確かに幸福だったあの日々で、一際まばゆく映ったあの子。
たとえばあの日。記憶の中、この視界は今よりずっと低くて。
尻餅をついて見あげていた、逆光であの子の顔はよく見えない。
悔し涙か。嬉し涙か。痛みか、疲れか。あるいはただ、土埃が目に入っただけか。
滲んだ視界で、やはりあの子の顔はよく見えない。
それでも、その眸がとてもやさしいのは分かった。
彼女の唇が動く。かたちづくる、ふたつの音。
く。
ろ。
差し伸べられるてのひら。
誘われるように、この獣の腕を伸ばして。
――指先同士が触れあう寸前。彼女の腕が、まっかに爆ぜる。
この件を予知したグリモア猟兵は、失う記憶は選べると言っていた。
けれど、記憶と言われて一番に思い浮かぶのは、どうしたってあの子のことで。
(……駄目だ、だめだ)
分かってるんだ。これを手放してはいけないと、どこかで叫ぶ自分がいる。
それでも……痛くて、苦しくて、助けてくれと叫んでる自分もいるんだ。
思い出すほど、大切な日々が踏み躙られる。
思い出すたび、彼女に新たな傷が刻まれる。
(もし)
――ああ、もしも。
(この一番大事な記憶を忘れてしまったら……?)
忘れて、しまえたら。
あの子は、もう傷つかないで済むだろうか。
俺は、もう傷つかないで済むだろうか――。
いつか四人で眺めたあの日とは違い、黒羽と並び立って星を見あげる人はない。思い返す、あの日の賑わいと今の静けさの対比が、微かに胸を締め付けるような心地がした。
それでも。
息が詰まる朝も、痛みに醒めた夜も、伸ばした手の先には黒帝がいてくれた。時に足となり、時に牙として、いつだって不格好なこの生き様を支えてくれる黒の王。
(だから、ほら……)
《獅子座》。
こうして空を指した猫の指の先。あの星々にだって、お前はいてくれる。
怖い。怖い。これが正しいことかわからないと。どうしたって震えてしまうこの手で、それでも託してみようと思えるのは、お前だからだ。
「黒帝。お前が決めてくれ」
霧を抜けた後の俺を見て。
石を砕くか、そのままか。
いつだってあの子の影を探してしまう、悔恨の焔に灼かれ続ける俺と。
得ることもなければ、喪うことも知らずに済んだろう、花忘れの俺と。
「どちらの在り方に、俺が在るべきだったのか――」
目を閉じる。
瞼の裏、村を呑む炎を背に、陽炎のようなあの子が笑う。
黒獅子は語らず、ただ静かに主の言葉を聴いていた。
成功
🔵🔵🔴
クロア・アフターグロウ
★
ぼんやりと星空を眺め、星座を探す
勇者の伝承だとか、帝竜の居場所だとか、そういったものには興味がなかった
ただ忘れたい記憶がある――それだけの話
残したい思い出よりも忘れ去ってしまいたい記憶の方が数多い
けれど何かひとつだけ、忘れ去る事ができるというなら
あの記憶を失えば、今よりもう少し前向きに
普通の子みたいになれるのかな、って
自分のグリモアに似た、鳥の形
私は自分のグリモアが嫌い
飛べないわたしを嘲るようで
見たくもない悪夢を運んでくるようで
だから私はその星座に
死を告げる鳥、アズライールと
そう名付けた
ふとしたきっかけで思い出してしまうのだろう
忘れたところで、この性根は変わらぬのだろう
そんな事を思いながら
ぼんやりと夜空を眺めている。
世界によってはゆっくり動いているという星々は、いくら目を凝らしたところで、そのそぶりもなくずっと同じ場所にいるように見える。満ちればわたしを狂わせる月も、ちょっぴり欠けた顔をして冷え冷えとわたしを見おろしたまま。
おおきなものと、ちいさな自分。その対比が身に染みて感じられた時、わたし、クロア・アフターグロウ(ネクローシス・f08673)はいつも思うのだ。
わたしが感じていられる時間はとてもちっぽけで、宇宙や世界の流れに比べたらびっくりするくらいつまらないことで。いつかわたしがぽつりと消えたとしても、世界は気にもとめることなく、わたしの痕跡を過去へ過去へと押し流していくんだろう。後に残るのは、空っぽの白いベッド。それきり。
次にそこに眠る人は、たぶんわたしよりちょっぴり幸福で。家族が来て、友達が来て、お土産の林檎を齧りながら窓の外を眺めて。そんなささやかな幸せで、わたしが見ていた景色すら塗り潰していくんだろうと。
わたしはきっと星になれない。なれるとしたらその隣。
だれにも目を向けられない、ぽっかりとあいた闇だ。
わたしは死ぬ。人狼病のために。
それは近くはないけど、遠くもない未来のこと。薄情な神様の手帳には、六年後くらいにわたしを殺す予定が書かれているんだろう。
死が怖くないと言ったら嘘になる。それでも生に縋りつくのかと問われれば、下手に拠り所を見つけてしまうことのほうが、よほど恐ろしいことのようにも感じられる。
平坦な毎日は退屈だ。それでも、余計なものを知ることなくいられたなら、わたしはきっと何を悔いることもなく消えていける。そう思うから。
だから、わたしが進んで依頼を受けることもあまりない。……体調もあるけど。
今回だってそう。勇者の伝承なんてどうでもよかった。帝竜がどうしようと興味はなかった。
ただ、わたしが求めるものが、たまたま仕事と重なっただけ。
わたしは、忘れたいものを忘れたくて、ここに来た。
翳した左手。ぽうと浮かびあがる、未来視のしるし。
散々な世界で生きてきた、飛べないわたしのてのひらに宿った鳥のグリモア。最初は夢みたいだと喜んだけど、それは決して青い鳥なんかじゃなかった。それが運ぶのは幸せじゃなくて、直視できないような惨い死の光景ばかり。
グリモア猟兵として、わたしはその人たちを救ってと猟兵の皆に言う。彼らは強いから、それなりの場合、死の運命から人々を救ってくれる。幾つもの涙を見た。救われたと、ありがとうと、猟兵の皆を天使みたいに拝んでる、涙の数々。
それなら、あなたを救ったわたしを救ってくれる天使様は、どこ?
自分しか見てない幸せが嫌い。わたしに優しくない世界が嫌い。
なによりわたしは――そんなわたしが、大嫌い。
皆に説明しようとするたびに、予知で見たものを思い出さないといけない。そうやって脳に刷り込まれていった悪夢の景色に、幾つもの夜をうなされることになる。あんまり怖くてシーツをかぶるけど、まばたきした一瞬にも真っ赤なものが見えるから、頑張ってずっと目を開いていようとして――そうしてるとだんだん涙が溢れてきて、もしこの予知を皆に伝えなかったらどうなるだろう、たまにそんなことを考えてしまう。
自分の不幸を他人にぶつけるわたしが嫌い。分かっていても、そう感じてしまうわたしが嫌い。
だって、だって、なんでわたしばっかり、こんなに苦しまないといけないの?
叶うならどこか別の世界で、ごく普通の女の子として、穏やかな一生を送りたかった。
何十回、何百回と知れず繰り返した問いに、答えはいつまでも見つからないまま。
そんな嫌な記憶は山ほどあって。
あの森で忘れることだって、いつかまた思い出すかもしれない。
そもそも忘れたところで、この性根がそう簡単に変わらないだろうということは、わたし自身が一番よく知っている。
――それでも。
試してみたいと思った。
ちょっと前ならありえなかっただろう。でも、昔より病室の外の世界を歩くようになって、今まで関わることのなかった人たちに出会って。
みんなと同じ世界を感じてみたいと、少しだけ、思ったから。
指さす。
描く星座は《アズライール》。死を告げる鳥のかたち。
これは、弱いわたしからの、意地悪な世界に対するせいいっぱいの皮肉だ。
預ける記憶は決まってる。
死告鳥がそれを持ち去ったなら、きっと今よりもう少し。
もう少しだけ前向きに、普通の子みたいになれるのかなって、思ったから。
成功
🔵🔵🔴
イトゥカ・レスカン
★
忘れてしまうのは、怖ろしくなかったのでしょうか
私には……大事なものを忘れることは、怖ろしいことに思えてなりません
アシアハはどの様な気持ちで忘れることを選んだのでしょうか
預ける記憶は夕暮れの色
一度全てを忘れた、今の私が好きなあの色
この髪の色が良く似ていると教えてもらった、ブルーモーメント
瞬く星をなぞって描く星座は一欠片の宝石を模して
忘れることは怖ろしいです。それが些細なものであったとしても
けれど……けれど、
一度忘れて、そうしてもう一度思い出せたなら
嘗て失くした遠い日々の記憶も、或いはいつか取り戻せるかもしれないと
前よりもそう思える様になれる気がするから
今一時だけ預けましょう、この記憶を
「――忘れてしまうということを、あなたは怖れなかったのでしょうか」
その問いに答えることはなく、夜空はただただ静かな星光を溢すばかり。遠い昔、勇者も見あげただろう空を仰ぎ、イトゥカ・レスカン(ブルーモーメント・f13024)は双眸の琥珀を瞬いた。月下、彼の艶やかな青い髪に交り、夕陽の彩は燃えたつように煌いている。
勇者はこの空に何かを描いて、この先に森に踏み入って……そして、もっとも大切なものの記憶をうしなった。そんな勇者の心の在処が、イトゥカには遠く感じられるのだ。
「自分自身の意思で、あなたは自らの記憶を手放したのですよね」
返る声があるはずもないことを知っている。それでもイトゥカは、嘗てここにいた勇者に語りかける。――あるいは、それはこの場にいる、別のだれかに向けたものだっただろうか。
大事なものを忘れること。それは、イトゥカにとってはひどく怖ろしいことに思える。ほかでもないイトゥカ自身、記憶のすべてを喪ったひとであるからこそ。
「大事なものとは、その人の核となるものではないのですか。それを忘れてしまってなお、あなたはなぜ、あなたのままでいられたのですか」
あるいは、勇者は変わってしまったのかもしれない。その変化をこそ望んでいたのかもしれない。この時代にあって、真実を知る術はもう残されていないけれど。そしてイトゥカ自身もまた変わってしまったのか、イトゥカにはわからないけれど。
他のすべては覚えているのに、大切な人だけを思い出せないこと。なにもかもを忘れ、大切なものがあったかすらも不確かなこと。ふたりのうしない方は果たして、どちらが苦しいのだろう。
(いえ――比較の話ではないのでしょうね。それぞれにきっと、それぞれの痛みがある)
ヒトより硬い青琥珀の躰、その胸をイトゥカはぎゅっと抑える。つめたい無機に、しかし確かに灯る宝石人の心が、きりきりと締め付けられるような思いがして。
それでもイトゥカは、勇者のおこないを否と断じることができなかった。彼をそうさせた意図までは分からないけれど、その痛みはすこしだけ理解できるように思われたのだ。その理由は、イトゥカのやさしさがひとつと、もうひとつ。
(私も、アシアハと同じ――この記憶の喪失は、自ら望んで招いたものとも知れないのですから)
思い返される、かの宇宙船での一幕。失くした記憶を知ることが幸せとは限らない、その恐怖に直面した、あの宙。
あの日踏みだした一歩の感覚を覚えている。
煩く早鐘を打つ鼓動の音も、まだ、憶えている。
「けれど……けれど、」
それでも。私は。
「知りたいと。願って、しまうのです」
たとえそれが、どんな過去であっても。
(あの星々に預けましょう――)
あのひとが教えてくれた私の色。私が好きな色。
(そんな大事なものがきっと、昔の私にもあったはずだから)
笑顔も。涙も。私を形づくったものが、きっと。
(だから。イトゥカとして。私は、)
瞬く星をなぞる。ひとつ、ひとつ、
(“私”を、)
繋いで、
「知りたい――」
――描く。
ひとかけらの、《こいし座》。
忘れることは怖ろしい。
それがどんな些細な記憶であったとしても、そこには誰かの想いがあったはずだ。
それがひとつひとつ喪われることに、まるで自分から自分が剥がれていくような恐怖を覚える。
それでも。喪失が、痛みを伴うものであったとしても。
一度喪った記憶をもう一度、思い出すことができたなら。
私はきっと昨日より、前を見て過去と向き合えるから。
だから、今一時だけ預けましょう。
陽と星月を渉る色。いとあざやかな――ブルーモーメント。
成功
🔵🔵🔴
ショコラッタ・ハロー
思い出を失うと知ってその森に足を踏み入れるヤツは
大馬鹿者か、信念の持ち主のどっちかなんだろう
さあ、おれたちはどっちかな
こちとら夜そのものがお友達の盗賊でね
星読みで方角を図るのはキコよりチビのころから仕込まれてんだ
おれ自身の星座ならば、ずっと昔からある
盗賊団の幼馴染と一緒に星空を眺めながら作った、ダガー座
七歳の祝に贈られたアンタルジークの形をなぞった星座だ
ガキンチョらしい発想だけど、あの時はずいぶんはしゃいでいたっけ
幼馴染の連中も、同じ星を見ながらどこかの荒野にいるのかな
あまり、忘れたくない記憶だ
それが犠牲になるかもしれないのにこの務めに挑むおれは、
もしかしたら大馬鹿者のほうなのかもしれねえ
世の中には、何かにつけて二種類の人間がいる。
金があるヤツと、金がないヤツ。
おれが盗むべきヤツと、おれが与えるべきヤツ。
泣くしかできないヤツと、それでも必死に足掻くヤツ。
(この森に踏み入れるような野郎も、きっとふたつにひとつだ)
強い信念の持ち主か、ただの大馬鹿者か。
そう考えた時、伝承の勇者はどちらの側だったのだろう。勇者とはおよそ対極の世界に生きるショコラッタ・ハロー(盗賊姫・f02208)は束の間空想に耽り――さほど経たないうちに、投げ出すように鼻を鳴らした。
「……わかんねえ。まあいいさ、肝心なのは誰がどうしたかじゃなくて、おれ自身がどうするかだ」
あれこれ考える暇があるなら、まず体を動かすことだ。行儀よく飾り立てられた伝説に思いを馳せるより、実際に自分の目で見て、肌で触れた現実のほうがよほど信頼できる。そう思えるのも十五年の人生で積み上げてきた、生粋の盗賊としての自負があればこそ。
ぬるい夜風が頬を撫でる。ナイフより人の手を握るほうが似合いに見えるてのひらで、ショコラッタは顔にかかった黄金の髪をぞんざいに掻き上げた。
(そんなおれにも、言えることがあるとすれば)
最期は賊に取り殺されたという勇者は、当人も賊の素養はからっきしだったのだろうということだ。
(ひとつきりと言わず、その蝙蝠とやらを狩って石を売り捌けば多少の金にもなっただろうに)
あのこどもが手にしていた首飾りの石は、それなりに見栄えのする代物に見えたから。そう本能的に勘定を巡らせる頭の隅で、冷えた思考もまた過る。
ブツの素性が何であろうと気にも留めない。宝石を欲しがるようなヤツらは、上っ面でしかものを見ていないのがほとんどだ。皮肉にもそれは上っ面ばかりのそいつらの生き方に似ていて、生業で相手取るのはそういう連中ばっかりで。そうした輩に限ってデカイ椅子に座っている――人の椅子、弱者の椅子だ。
指に絡んだ毛を解きながら、盗賊は目を伏せた。
星空は雲ひとつ纏わず、満に近い月も相俟って明るい夜。盗みをするには少々向かないけれど、今宵かぎりは盗まれる側。
夜は友達、とはショコラッタの言だ。闇がこの身を隠すのもそうだし、星読みの術は幼い頃から仕込まれている。それこそ、鳥籠のあいつより、もっと小さい時分から。
自然をいかに味方につけるかも盗賊の要件というわけで、夜空はよくよく馴染みがあるもので。
(懐かしいな。あれは七歳の時だっけか)
無意識に触れるのは対の短剣の片振り。“盗る”ための武器は誕生祝いに贈られたものだ。それがあんまり嬉しくて、盗賊団の幼馴染と並んで星空にそのかたちを描いた。
「だからわざわざ考えるまでもなく、おれの星座はずっとあそこで輝いてる」
象るのは『アンタルジーク』。空さす指先で青がひかる。星をなぞる手のはこびは、玻璃に触れるように柔い。
「――《ダガー座》、ってな」
くすりと溢した微笑に、返るものが聴こえた気がした。記憶の中、遠き日の笑い声が懐かしく耳朶を打つ。この空が繋ぐどこかで、いま、彼らも同じ空を見あげているのかもしれない。
(生きることは楽じゃねえ。それでもあの日々があるから、おれは今ここに立っていられる。歩んでいける)
形のないものに値はつかないが、記憶にかぎっては宝物と言いうると思うのだ。たとえそれ自体に一文の価値もなかろうと、盗賊としての肚は、技術は、あらゆる商売道具はそうした経験によって醸成されたものなのだから。
(……そんなてめえのお宝を手放すってのは、どんな気持ちがするものなんだろうな)
そうした記憶を忘れるということは、きっと盗賊としての自分の一部を手放すということで。
一度掴んだものを取り溢すようでは、盗賊として失格なのかもしれないけれど。
――それでもおれは、この務めに挑むと決めたんだ。
(大馬鹿者か、信念の持ち主か)
月下に金糸を煌めかせ。西洋人形の如く整ったかんばせに、ショコラッタは口元だけで凪いだ笑みを作る。
(勇気か無謀か。決意か浅慮か)
この伝承はいわば針だ。あの森を抜けた時、天秤が振れるのは一方だけ。
いまここにいる猟兵が、各々何を忘れようとしているかなど知る由もない。知る由もなければ土足で踏み入るべきでもないが、厭なものを忘れたいというのなら、それだってひとつの信念と呼びうるものだろう。たとえみっともなかろうが女々しかろうが、這ってでも前に進もうとする心意気は嫌いじゃない。
ならば。
忘れたくないと思う、そんな記憶を捧げようとしている自分は――。
「……おまえの目にはどっちに見えるんだろうな、勇者サマよ」
宛先不在の呟きは、風に捲かれて消えるだけ。
眼下の霧を映し、眇めた眸の灰がにぶく輝いた。
成功
🔵🔵🔴
リリヤ・ベル
★
【ユーゴさま(f10891)】と
勇者さまのふしぎな言い伝えは、他にも聞いたことがあるのです。
花忘れの勇者さまも、ふしぎで、……むずかしい。
もーっ、もーっ!
レディに失礼なことをおっしゃらないでくださいまし!
ユーゴさまには、でりかしーがたりないのです。
ぷくぷくと頬を膨らませて、先を歩きましょう。
謝られても、簡単には許して差し上げないのです。
そっぽを向いて、空を見上げ。
星を辿るように手を伸ばして。
しゃらりと手首で鳴った銀色とおなじ、まあるい星の輪がひとつ。
わたくしは、あの星々を。
くるりとまわって、もどれますよう。
……ユーゴさま、ユーゴさま。
ユーゴさまは、たいせつなものを、たいせつにできますか?
ユーゴ・アッシュフィールド
★
【リリヤ(f10892)】と
記憶の忘却と記憶を預ける星座か……
さて何を忘れるか、悩むな。
消したい記憶もたくさんあるにはあるが、それもすべて今日までの俺を形作ったものだしな。
そういえば先日、宿泊している街の酒場で店員の尻を触ったらビンタされたな。あれは忘れたい。
リリヤは何にするんだ
おねしょの記憶か?
はは、すまん。そう怒るな、悪かったよ。
よし、忘却する記憶はさておき
先に星座を決めようか。
あの星の集まりだが、この前に作ったゴンドラランプに似ているな。
俺はこれでいこう。アイリス座とでも名付けようか。
大切なものを大切にできるかどうかか?
そうだな、大切にするし次は失わず守り抜きたいと思ってるぞ。
世界にはたくさんの伝説があるものだ。
リリヤ・ベル(祝福の鐘・f10892)も、これまでの旅の中で幾つもの言い伝えに触れた。それらはきれいで、あたたかくて、せつなくて――ふしぎ。
(花忘れの勇者さまも、おなじ)
ふしぎで、……むずかしい。
遠い昔、勇者が何を想っていたのか。わからないけれど、その結末はしあわせとは言い難いような気がして、リリヤは淋しげに眉を下げた。
ただ少なくとも、きっとわからないと思うことすらできなかったのだろう。隣のおおきな背中――ユーゴ・アッシュフィールド(灰の腕・f10891)にこうして連れられ、世界を旅していなければ。
(記憶の忘却と記憶を預ける星座、か)
伴って歩みながらも、ふたりの意識が向くほうは正反対。少女が過去の物語に想いを馳せる一方で、男は眼前の現実を見つめていた。
(さて、何を忘れたものか。悩むな……)
消したい記憶も、忘れたい過去も山とある。それらは未だにちりちりと燻ってこの胸を苛むけれど、そうしたものの数々によって今日の自分が形作られているのだということも、理解している。
そうなると。忘れるにしても、もっと薬にも毒にもならないような――たとえば。
「そういえば先日、いつもの酒場で店員の尻を撫でたらビンタされたな……いい一発だったが、あれは忘れたい」
思い出すとなんだか痛みがぶり返してきたような気がして、しょっぱい顔で無精髭のまばらな頬を撫でる。思えばあそこで賭けをして負けたこともあったような。そろそろ他の店を探すべきかもしれないが、店員のお姉さんがかわいいだけに惜しい。
沈思のつもりが知らず口から溢れていたようで、じとり、傍らの娘が白い目を向けているのを感じた。しかし気づかないふり、ユーゴは素知らぬ顔で話を振る。大人とは卑怯なのだ。
「で、リリヤは何を忘れるんだ。やっぱりおねしょの……おっと」
言い終えないうちにリリヤが飛びついてきて、ユーゴはたたらを踏んだ。そんなユーゴをぽこぽこ叩く、見あげたリリヤの顔はまっかっか。
「だからしていません、していませんもの! 失礼なことをおっしゃらないでくださいまし!」
ほんとのほんとに今度こそ、ユーゴさまのおようふくだけ、お洗濯してさしあげませんからね!
きっと睨みつけて、まんまるほっぺのレディはずんずん先に歩んでいってしまった。ちいさな背中が更にちいさくなっていくさまを眺めて、ユーゴは頭を掻いて笑う。
(……やれやれ。あいつのお陰で飽きない旅路になったものだ、本当に)
祖国を去ってすぐ、ましてや祖国で剣を振るっていた頃は、こんな未来が待っているだなんて思いもしなかった。あの時に思い描いた幸福の形とはかけ離れているけれど、これはこれで悪くない。
心までをも涸らした炎。腐りかけた灰に兆した光は、ずいぶんと幼い狼娘の姿で現れた。
そっと目を細め、後を追うユーゴ。
一足先に丘の頂に辿り着いたリリヤは、仁王立ちでユーゴを待っていた。
「なあ、リリ――」
ぷい。
「しりません!」
ぷりぷり振れる狼しっぽ。
にべない物言いに苦笑しつつ、ユーゴは宥めるように頭を下げてご機嫌伺いのかまえ。
「すまんすまん。悪かったよ、この通りだ。ほら、膨れ面でレディが台無しだぞ」
「今日ばっかりは、簡単にはゆるしてさしあげないのですから。だいたい、ユーゴさまはいつもでりかしーがたりないのです!」
ご立腹なリリヤの脳裏に思い返される、ユーゴさまのあくぎゃくひどーの数々。たとえば木登りするわたくしをお猿さんのようだとか、いつか川を泳いで渡った時には溺れたカエルのようだとか言われた気がする。どれもこれも、いちにんまえのレディにはおよそ相応しくない喩えの数々。ひどい。
(ユーゴさまがすなおじゃないのは、よおくわかっていますけれど。たまには、かわいいお花にたとえてくださったって――)
紳士的なユーゴさま。空想を馳せればつい思い出してしまう、いつかの舞踏会のこと。慌てて俯く、かあっと耳まで染めた朱は幸い、狼の毛並みと夜闇のヴェールが隠してくれた。
片やリリヤの胸中も露知らず、賑やかな表情の移ろいを外目には素面に、内心面白いなあと眺めているユーゴ。そんな彼を横目に窺って溜息ひとつ、毒気を抜かれたのだろうか、つんつんと聳えていたリリヤの耳はいつもの角度に戻ってきている。
(もうっ……しかたのない、ひと)
だってわたくしはレディなのだもの。無神経な殿方をゆるしてさしあげるのもまた、つとめなのですから。
「それで、なんですか。ええと、うんと――コアラさま」
……やっぱり許しきれていなかったリリヤの精一杯の反攻は、彼女の性格のために絶妙に悪口になりきれていない。
「……うん? いや、とりあえず星座を決めようと思ってな」
忘れる内容はさておいて。理由もコアラもよく分からないが折角リリヤが落ち着いた様子なのだ、またうっかりつついて噴火しようものなら夜が明けてしまいかねない。
「ほら、あそこの星の集まりなんかどうだ。なんだか、あれに似てないか?」
指さしたほうを釣られて見やり、こてん、首を傾げるリリヤ。問いを投げたり、興味の矛先を変えてやればお子様なんてちょろいもの、先ほどまでのむくれ顔も見る影もない。そう――大人とは、卑怯なのだ。
「お前がくれたランプさ、俺はこれでいこう。名前は、《アイリス座》とでもしようか」
岩山の街に翠を咲かせた『アイリス』は、リリヤにとっても楽しい祭日の思い出。ぱあっと顔を輝かせれば「あいりすざ、あいりすざ」と反芻するように繰り返す、その尾はぶんぶんと振れている。
「すてきな、星座、ですねっ! わたくしは、ああ、わたくしはどうしましょう――」
星空を指さし捏ねてうんうんと。腕をぐるぐる回転させたのち、は、となにやら気づいたお顔。
ひとつのかたちを見定めたリリヤの眸にもう迷いはなく、つつと指先で星々を辿ってゆく。その腕でしゃらりと揺れるのは、しろがねの『カランコエ』。またねの絆、そのあかし。
「ユーゴさまっ。ほら、ご覧になってくださいまし。あそこから、あの星、最後にあそこをつないでぐうるりと。あれがわたくしの星座」
胸を張る、その名もずばり。
「《わっか座》です」
「そうか、……わっか、かぁ……」
立派なレディの道は遠くけわしく、まだまだ磨かないといけないところもたくさんあるようだけれど。
しみじみとするユーゴを置いて、リリヤは続くのだ。
「あの霧を抜け、なにを忘れても」
この先の旅路に、何が待っていようとも。
「きっと、きっと、わたくしたちのあるべきところに」
くるりとまわって、もどれますよう。――気恥ずかしくて言えないけれど、わたくしにとってのそこはきっと、あなたのとなり。
自身もくるりくるりと回りながらそう唄ったリリヤは、傾げた頭に上目遣い、ふわりとユーゴに綻んでみせた。そんな一番星の無邪気を目してしまえば、ユーゴにはもう揶揄いのひとつきり言えない。
「――いい星座だな、とても」
ようやく口から捻り出したのは、そんな面白味もない言葉。誤魔化すようにぽすんと頭を撫でてやれば、リリヤはえへへとはにかんで。どうしようもなく緩みそうになる口元を自覚しながら、ユーゴは目を閉じる。
大人は卑怯で。それでも、結局子供には敵わないのだ。
「……ユーゴさま。ユーゴさま」
く、と腕を引く感触。見おろした先、控えめにユーゴの腕をとり、リリヤはじっと忘却の森を見つめていた。
「なんだ」
応えれば、ふたつの翠がユーゴを見あげる。それは先ほどよりも幾分、静かな情を湛えた眸だ。
「ユーゴさまは、たいせつなものを、たいせつにできますか?」
漠とした問いは幼さゆえか、それとも思いがあってのものだろうか。
リリヤの心中までは推し量れないけれど、その答えは決まっていた。
「そうだな」
たいせつなもの。
黒く焼け焦げ、手の上から崩れ落ちた数々。血と灰に塗れたこの手に、それでも、なおも芽生えたもの。
この穏やかな日々も、……お前も。
「大切にするし、次は失わず守り抜きたいと――守り抜くと、思ってるぞ」
それを聞いたリリヤはうれしげに。ユーゴの眸の奥を見つめて、どこかすこしだけ哀しげに。
「……そう。そうですか」
呟き、ぎゅっとユーゴの腕を抱いて、もう一度空に目を移す。
ユーゴもまた、空を見る。
狼と騎士。親子ほど歳の離れた、男と少女。違う空の下で生きるはずだったふたりは、いま、こうして同じ星空を見あげている。
あの日、世界は優しくないことを知った。
だからこそ身に染みている、このひとときがどれほど幸運で、幸福なことか。
環と灯篭と。
ふたりの星座を繋ぐように、きらり、ひとつの星が流れた。
息を呑んだのはどちらだろう。手に力を籠めたのは、どちらだったろうか。
――星よ。
(叶うなら)
十年後も、二十年後の未来も、その先も。
この夜空を。
(二人で――)
成功
🔵🔵🔵🔵🔴🔴
第2章 冒険
『迷いの森』
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POW : 直感を信じて進む など
SPD : 法則性を導き出して進む など
WIZ : 森の秘術に直接干渉する など
👑11
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●恋しこぼし
グリモア猟兵が話を聞いたという町は、元を辿れば滅ぼされた森都の生き残りが興した村がルーツであったらしい。廃都に至るために必要な『測星盤』も、その昔町に暮らしていたとある魔法使いと、アシアハとが協力して作り上げたもののようだ。
『測星盤』は星図と幾つかの針を備えた魔力盤だ。この盤と星とを照らすことで望みのところ、今回は廃都の在処を知ることができる。想いを浮かべながら星を見る、すると自然と己の星座が目に入る――その繰り返しにより記憶と星座を結びつける、というのがアシアハの知恵だと伝承は語る。
そんなアシアハたちが自作したと伝わる原盤は今、街の博物館に収蔵されている。それを模して魔道具職人の手で拵えられた精緻な金細工は件の伝承と共に街の名物となっているようで、猟兵たちに提供された円盤もそうしたもののひとつ。観光資源らしく、配布された中には特に使途のない装飾が施されている盤も交じっているようだけれど、いずれも本来の機能はきちんと備えているのでその点は心配無用だ。
買おうと思えばそれなりに値の張る品だけれど、これらは町長から無償で譲られたもの。帝竜討伐の助けとなるならばと、彼は語っていたそうだけれど。
(実際のところは、腕利きの冒険者を通じて町の名を売りたいという思惑もあったようです)
グリモア猟兵は、そう淡々と語っていた。
各々の盤を手に、猟兵たちは森に入っていく。
獣の気配すら感じられない沈黙の森は、どこか色彩までも褪せたような――時の流れが停滞しているかのような感覚すらおぼえるようだ。一帯にかかる薄い霧は視界を遮るほどではないが、濃い闇も手伝ってずっと奥までは見通せない。……そうして目を凝らしたなら、ひょっとすると勘のいい、あるいは不幸なあなたは気づいてしまうかもしれない。茂みの陰、草葉に隠れて、なにか白いものが転がっていることに。
迷いの森で、あなたと世界をつなぎとめるものはひとつだけ。木の葉の合間、ところどころに顔を覗かせる星空だ。盤の示すほうへと進んだなら、自ずと廃都の入り口に辿りつけることだろう。
同時に。
傾いだ杯から、とろとろと水が溢れるように。
あなたが歩みを進めるほどに、忘却の霧はゆっくりとあなたの記憶を盗んでゆくことだろう。
けれど、どうか忘れないで。
あなたが喪ったなにかも。なにかを喪ったあなたも。
この夜が続くかぎり、あなただけの星座が見守ってくれていることを。
岡森・椛
手にした測星盤
興味深い伝承と美麗な金細工に感激
肩に乗ったアウラもじっと覗き込んでる
先程、紅葉座を作ったから
自然と想うのは優しい両親の事
父も母も仕事で忙しくて
それでも朝食を毎日一緒に食べるのが我が家の約束
私の一日は両親の笑顔と共に始まる
同級生には親と一緒だと全然楽しくないという子もいるけど
私はそんな事なくて
休みの日に出掛けるのも楽しい
お花見とか海とかスキーとか
何よりも秋の紅葉狩りが毎年の楽しみ
何故か涙が溢れそうになりながら盤の示す方に進み…
アウラが目的の入り口を指差す
うん、と駆け寄って
…ああどうしよう
私は大切で大好きな両親を忘却した
忘れた事すら忘れてしまって
心にはもう何もない
私の名前の意味さえも
「わあ……すごいね、アウラ」
測星盤を手に、うっとりと溜息をついた岡森・椛(秋望・f08841)。森を歩みながら掲げた、少女の華奢なてのひらにも納まるほどのちいさな宙は、葉の隙間から漏れる月の光を浴びてきらきらと黄金色に輝いている。
来年には高校生になる椛だけれど、輝かせた瞳の無邪気さは幼いころのそのままだ。自分のお小遣いで買ったわけじゃないけれど、繊細な細工を手にすると大人の仲間入りをしたみたいで――そっと胸元に抱きしめてみればとくとくと高鳴る音を感じて、なんだか気恥ずかしくて、贅沢すぎるようなうれしさにどうしようもなく頬が緩んでしまう。
ささやかな幸せのひとつひとつをそうして心いっぱいに喜べるのも、椛が世界に名前をもらったあの日から、ずっと純粋な心のまますくすく育ってきたからこそ。椛の大好きな両親が、椛が大好きな両親が、愛娘に溢れんばかりの愛情を注いできたからこそ。
それに、椛がこんなにも喜ぶのには、もうひとつ理由があった。手にした盤は燃えるような紅と澄んだ翡翠の石があしらわれた品で、その並びは椛とアウラにそっくりなのだ。当人もそう感じてか、椛の肩からしげしげと覗き込んでいるアウラもご満悦のふんいきで、晴れやかなそよ風をくるくると纏い椛の髪を踊らせている。そんなふたりの喜びようを見たならば、この測星盤を手掛けた職人も冥利に尽きることだろう。
そんなふわふわ心地も、これからのことを思えばだんだんと静まっていく。
「これがあれば……きっと、大丈夫だよね」
自分に言い聞かせるように呟いた。ゆったりと鎌首をもたげる、あたたかさとは反対の言葉で表されるような気持ちに――恐怖に、椛は覚えがある。
小さいころ、寝る前には童話を読んで、空想を馳せながら眠りに落ちるのが毎日の楽しみだった。そうするとたまに物語の続きを夢に見られて、その主人公になった椛はお気に入りの登場人物たちとふれあい、おしゃべりをして、心躍る冒険やお城の舞踏会に繰りだすのだ。
でもある時、物語に出てきたオバケがとっても恐ろしくて、電気をつけてたって眠れなくなってしまった。その日は両親のベッドに潜り込んで、忙しいふたりは疲れていただろうに、椛が寝つけるまで頭を撫でていてくれたけれど。
(でも、ここにはあの日のように、私を守ってくれる両親はいないんだ)
だから私は、ちゃんと自分の足で立たないといけないのに。
(私は、何を忘れちゃうのかな。ちゃんと、思い出せるかな……)
ひとたび意識するとみるみる立ち込めていった暗雲は、椛の顔まで曇らせる。
「……怖い、なあ」
思わず喉から溢れた本心に、肩のアウラは心配そうに。精霊はちょっと考えるそぶりを見せると、測星盤の前へふわふわ飛んで、その星図に鋭くも繊細な風の刃を幾筋か刻みつけた。目をぱちくりとさせる椛の前で、アウラはぷうっと削りかすを吹き飛ばせば、上目遣いで椛を窺いながら星図を示す。そこに目を移した椛は、思わず息を呑む。
(紅葉、座――)
夜空に浮かぶそれと同じ。星図の星と星を繋いで、椛の星座がそこに描かれていた。
言葉を失う椛の肩にふたたび納まって、アウラはぎゅっと少女の頬を抱きしめる。耳を過る風の音は、大丈夫だよ、心配ないよ、そう囁いているように聞こえて。
きゅっと目を細めた椛は、優しいアウラに頬を擦り寄せて、唇だけでありがとうを紡いだ。
ああ、私は。
私はたくさんの優しさに包まれて生きている。痛みすら大切な物語に変えてくれる、そんな人が私の周りにはいっぱいいる。
アウラもそうで、両親だってそう。大きくなった私はもうあのオバケは怖くないし、なによりあの童話は両親の優しさを教えてくれたから、今では大好きな物語のひとつになった。
見あげる、見おろす、夜空と手元、ふたつの紅葉。それは私が大好きな言の葉。私にその名前のいのちをくれた、いつだって私の大好きな両親でいてくれる、父と母。
親と一緒だと楽しくないという、そんな同級生が私には不思議。一緒に朝ごはんを囲みながら、私の一日は両親の、そして、私の笑顔と共に始まる。泣きたくなってしまうほど愛しい、幸せで穏やかな日々。
この夏もまた、一緒に海に行きたいな。やがて秋になれば皆で作ったお弁当を持って紅葉狩りに行くの、それが毎年一番の楽しみ。
(ああ……顔が、見たくなっちゃった。これが済んだら、早く家に帰ろう)
大好きな、■■が待つ家に。
「……あ、れ」
急に熱を帯び歪んだ視界。なぜだろう、鼻の奥がつーんとして、胸が鷲掴みにされたように痛い。痛い。
のろのろと歩みを進めていると、ふとアウラが動く気配がした。その表情は霞んでよく見えないけど、その指がさす先に、大きな穴が開いているのが見える。どうやら無事に目的地に辿りつけたようだ。
足が逸る。測星盤が揺れる。アウラが刻んでくれた紅葉はさっきより色褪せて見えたけれど、その理由も気にならないほどに、いまはただ。
(苦し、い――)
抱きしめてほしい。撫でてほしい。子供みたいに泣きじゃくりたい。
帰りたい。帰りたいよ。――会いたいよ。
(早く。早く、)
私は。……私、は。
「どこに、帰るんだっけ……」
頬を伝った涙の理由が、椛にはわからない。
成功
🔵🔵🔴
鵜飼・章
★
例えば僕が連続殺人犯だったとして
それすらどうでもいい事なんだ
殺した人数も顔や名前すら朧げで
時々不意に思い出すそれらは
記憶として構成された知識でしかない
そう『知識』
心であり記憶であり僕を僕たらしめる全て
それら全てを一瞬でも手放せたら
色褪せた世界はあざやかに甦るだろう
夜空を見上げ考えるのは愚者の見る夢だ
それでも実行せずにはいられない
僕の中には悔恨も愛情も
知識としてしか存在しないのだから
戦い方まで忘れて
僕もここで死んだら面白いな
そうしたら伝承の英雄さんといい酒が呑めそう
手は打っておく
全てを忘れたとしても
それさえ残せばいつか全て思い出す手ががり
僕が僕である限り
僕は鵜飼章
まだ覚えてる
僕は…
僕は…誰だ?
僕は鵜飼・章(シュレディンガーの鵺・f03255)。まだ覚えてる。
こう風変わりな森に入れば珍しい虫でも隠れていないかと学究的好奇心が湧くけれど、生憎この霧の中には僕ら猟兵以外に動物と呼びうるものは存在しないようだ。分類上はヒト科である僕と、伴ってきた鴉達。……さっきから鴉達と視線を交わすたび、「どちらさまですか?」というような目で僕を見ている気がするけど、たぶんきっと気のせいだろう。
忘却の霧、か。
忘れるまでもなく、僕はしばしば僕がわからなくなる。それは厳密には忘却と意味合いの異なる不明だけど、いずれにしても形而上の定義を欠いたまま生きているんだから仕方がない。だから僕は数歩この人生を歩むごとに、僕がどんなふうに足跡をつけていたか、顧みるようにしている。もしも全てを忘れた僕がその記録を読んだなら、彼は僕をどんな奴だと感じるんだろう。
仮説があるんだ。
僕がこんなにも非人間的なのは、星の瞬きひとつひとつに涙するような情緒溢れる人間だった僕が、どこかに心を置き忘れてしまったからじゃないかな。
だとしたら、随分昔に置き去りにしてきたのだろう。少なくとも小学三年のあの日、あの時には既に失くしてしまっていたのかもしれない。電車の網棚か、通学路の側溝か、どこにしても今から探して見つけるのは望み薄そうだ。これでネコババされていたとしたら、僕は一生人間になれない。
……あんまり都合の悪い想像はよそう。考えることを放棄するようじゃ人間として失格だけれど、不都合から目を背けるのもまた人間だ。
省察を続けよう。
人間を人間たらしめる要件のひとつは、ハードとソフトの両面に跨って人間的であるという同一性だろう。スーツを着て会社に勤める犬も僕らの目は犬と認識するし、四足歩行で原っぱを駆け回るヒトを人間とは呼びづらい。外面は人間であるという意味において、鵜飼章は後者にあたる。いくら僕でも、ボールを咥えながら全裸でお城の庭を走りまわったりするほどには、人間離れしていないつもりだけど。
人間として一般にやらないことはやらない、僕にそれをある程度可能とさせるのは常識という知識だ。結局僕は、生きるという根源的な人間らしさを実践する過程で得た知識を元に、人間を模倣しているに過ぎない。常人であれば人間性を育んでくれるのだろう経験すら、時間の経過と共に僕は平面的な知識として解釈してしまう。悔恨も、愛情も、ひょっとしたらこの手にかけた人も、僕にとっては辞書の上に存在するモノトーンの意味に過ぎない。
だからね、思ったんだ。
知識。
心であり、記憶であり、僕を僕たらしめる全て。
この全てを一瞬でも手放せたなら、僕は、本当にあざやかな世界を初めて知ることができるのかもしれない。
思い出すことが、できるのかもしれない。
――僕は鵜飼章。まだ覚えてる。
愚者の夢だという自覚はある。それでも、実行せずにいられない。
犬になりたいわけじゃない。たとえ僕の心が誰かの手に渡っていて、いまごろネオンテトラに啄まれながら水槽で飼われていたとしても、僕は僕の手でもう一度心を作り出せるかもしれない。
――僕は鵜飼章。まだ覚えてる。
戦い方まで忘れてしまったら、僕は蝙蝠に喰い殺されてしまうんだろうか。それも案外悪くないのかもしれないな。今際の際で僕は人間になれるかもしれないし、そこまでしてもなれないのなら、それはそれでそんな僕に相応しい結末だ。そうしたら、伝承の英雄さんと一献酌み交わしてみたいな。肉体すら人間でいられなくなってから人間を知ることに、どれだけの意味があるかはわからないけれど。
――僕は鵜飼章。まだ覚えてる。
「心配しないで」
語る相手は、今度は本物の鴉達だ。
手は打っておく。いつか全てを思い出す。僕が、僕である限り。
――僕は、……。
霧まいた森の中、男がふと足を止めた。そうして佇むこと暫し、ゆっくりと目を瞬いて周囲を見回すと、手にしていたものへと目を落とす。得体の知れない金盤。それを握る指の爪は、『夜の底』のように黒く塗られていた。うわと小さく漏らして顔を顰めた、よくわからない道具はひとまずポケットに突っ込んで。
再度辺りに目を配る。虫の声ひとつしない森は寒気がするほどに静かだ。あるのは闇、眩むほどに濃密な闇ばかり。真黒く染まった木々は男をつめたく見おろしていて、そんな無機の生む言いようのない威圧感と、己が置かれた状況の理解に身が竦む。
――不安だ。心細い。ここはどこで、なぜこんな場所にひとりでいるのだろう。
男は、“人間としてあたりまえ”の恐怖を感じていた。あたりまえでいて、どこか馴染みのない奇妙な感覚を。
ひと気のない森だ。見あげればあざやかな星空が広がっているから、今は遅い時間なのだろう。男にわかることはそれきり。ああ、あと、あのあたりの星々が鴉のように見える。それきり。
鴉。
闇の奥に、じっと男を見つめる無数の瞳があった。ぎょっとして肩を跳ねた男は、目を凝らしてその正体がまさに鴉であると知る。不気味さに背筋が粟立つけれど、当の鴉に害意はないようで、とことこと奥へ歩き出した。それはまるで、男を導くように。
「僕、を――僕を、連れていってくれる?」
早鐘を打つ心臓を宥めながら声を絞り出して、男は驚いたような顔をする。自分はこんな声をしていて、こんな喋り方をするのかと。
かあ。
と。振り返り、返事をするような鳴き声がやや呆れ模様に聞こえたのは気のせいだろうか。【動物と話す】ことなんて、できるわけもないのに。
鴉に導かれるままに夜の森を歩む。
これが夢であればいいのに。けれどこんな夢を見る自分は、どれほど愚か者なのだろう。
すべてを知らない男が、求める解はただひとつ。
僕は……誰だ?
成功
🔵🔵🔴
イトゥカ・レスカン
★
受け取った測星盤にあしらわれた月と太陽の意匠
星図の側面もあれば定番のデザインでしょうか
記憶と星を――星座を、結べば良いのでしたね
瞬く星を一つ、一つ指でなぞる
一欠片のこいしに閉じ込めた私の記憶
鮮やかな夕焼けの色
青々と暮れゆく、はたまた黄金滲む、或いは赤々と燃え立つ
失われてまだ浅いこの記憶の中でも何度となく心を打ったあの景色を
一歩、一歩進むごとに褪せていく
薄れて霧に解けて
一つ一つ、つい先刻まで思い出せていた色を見失っていく
ああ、朝と夜のあわいのあの空は、どんな色を――?
あった筈のそれが抜け落ちていく
ぽかりと空くその穴が、やはり私には怖い
それでも……それでも、今は進まなくては
どうか、星よ結んでいて
森に踏み入れば、星月の明かりは丘より幾分阻まれる。光輝に溢れた宇宙に暮らす同族であったなら慣れない暗さだったかもしれないが、イトゥカ・レスカン(ブルーモーメント・f13024)はここ、アックス&ウィザーズの出身だ。この世界の夜の気配には馴染みがある。
(街を歩くのとは、流石に勝手が違いますけれど)
それでも、日ごろ夜そのものを逍遥の友とするイトゥカだ。常の夜歩きよろしく、灯も持たずに夜道を行くのは慣れたもの。繊美なブルーアンバーの幾何は仄かな夜光を幾重にも増して足元にうつしだす、そのひかりがあればこそ、彼は夜の悪意を知らずに歩んでこられたのかもしれない。
そんなイトゥカの夜歩き癖も、もとを糺せば忘却を恐れるがゆえだ。
――ただひとつきり覚えていたあの音すら忘れたら、私は誰になるのだろう?
――胸にぽっかりと空いた虚の寂しさすら忘れたら、私は何になるのだろう?
(喪ってなお手にいれたものすら忘れたら、私は――)
伏した眸に映す測星盤は、表裏を備え月と太陽の意匠が施されたもの。他の猟兵が手にしたものより複雑な造形は幾分、正道的に天文学に則ったもののよう。その示すところを検めたのち、イトゥカは夜空に目を移す。
(私の記憶を、あなたの中に預けます)
愁えることがないように。心を籠めながら、静かに瞬くこいしの座を、そっと指でなぞって。
暗きの中でもあざやかにきらめく宝晶の人と、月光に翳す盤の金の輝き。ひとりとひとつで揃いの芸術品のようなクリスタリアンは、取り巻く闇の深さに対比して、幻想のようにうつくしい。
忘れるべきもの。忘れたくない、もの。
この目に焼きつくような夕焼けの色。束の間だけ空に引かれる、多彩の帳。
それは、青々と落ちゆきて。
それは、黄金に暮れなずみ。
それは、赤々と燃えたちぬ。
イトゥカの名を戴いたあの日から何度となく心を打ったあざやかなあの色、あの景色。
景色、が、ああ。一歩一歩を進むごとに、一つ一つ褪せていく。
蝕むような喪失の感覚に竦みそうになる足を、イトゥカは歯を食いしばって進む。
忘却とは、常ならば無意識のうちに運ぶものだ。こうして痛みに耐えることもなく、その覚悟すら必要とせずに、どこかの花が人知れずふわりと散るように、人は記憶を過去に流しながらまだ見ぬ明日へと歩んでいく。この夜に教えられた。そんな忘却のかたちは、きっとやさしかったのだろう。
(私がすべてを忘れた時も、この胸は痛んだのでしょうか)
大切なものをひとつ手放すだけでこんなにも苦しいのだ、記憶の悉くを失くす辛さは想像を絶する。それすらイトゥカには思い出せないけれど、ぽっかりと空いた穴がこうも息を詰まらせるのだから、その記憶はきっと自分にとってなんらかの意味があったはずだ。
だってそうだろう。この苦しさは、恐怖は、記憶が愛おしいものであることの証明だ。
だから、もしも。その時喪失が痛みを伴わなかったなら、いまのイトゥカの在り方がかつての自分が望んだものであったとしても、とても哀しいことのように思われた。
歩む。歩む。
何度目と知れぬ繰り返し、イトゥカは空から盤に目を落とす。針は、目的地までもうそう遠くないことを示していて。
(ああ――)
そして、イトゥカは気付くのだ。
遂に。あの印象を。その濃淡すら。
(朝と夜のあわいのあの空は、どんな色を――?)
すべて、溢れ落ちてしまったことに。
覚えている。すべてを忘れた私に穿たれた、空虚な洞。
覚えている。その洞を染めてくれた、あざやかな色彩があったことを。
――それは、どんな色だった?
思い出せない。思い出せない。途轍もない虚脱感に膝が笑ってしまいそうだ。
「それでも……それでも、今は進まなくては」
この忘却は必要なものだから。私を育んだ世界のために、そして、やがて私が思い出すために。
だから、どうか。その時までは。
(星よ。どうか結んでいて――)
祈るように手を合わせた仕草にあわせて、境界の彩がふわりと靡く。
誰より近くにある色が、イトゥカには見えない。
成功
🔵🔵🔴
クロア・アフターグロウ
★
静寂
昔に比べたら周囲に人も増え
寂しいと思う気持ちもだいぶ薄れていたような気がする
いけない
雑念を振り払い
忘れたい記憶を想起
死の運命を忘れ去れば
普通に生きられるんじゃないかって
死にたく、ないな
本当に?
長生きできたらどうなるの?
それで何かが変わったりする?
結局は目を逸らしているだけ
生きる意義を見い出せず
責任を病に押し付けているだけ
どうすれば変われるのかな
どうすれば、……みたいに
明るくて、かわいらしい人間になれるのかな
考えがまとまらない
どうしよう
わたしは何を忘れたらいいの?
もう旅路が終わってしまう
ああ
もう、いっそ
自分がこの霧に溶けてしまえばいいのに
うそだ
それでもわたしは
まだこの世から消えたくない
静寂。
夜の森は静かだ。まして、そこが曰く付きの場所となればなおさらに。耳が痛いほどの沈黙に、わたしはたまらず耳を伏せる。
こうしてみると、わたしが最近身を置いていた環境は、随分賑やかだったんだと感じさせられるようだ。
しばらく前のわたしなら、この静けさに思うことは何もなかっただろう。けれど、その頃よりわたしの周りには人が増えていて、最近はそのことをあたりまえのように思ってしまっていたらしい。
忘れかけていた感覚。すこし懐かしいけど、忘れたままでいたかった。
……寂しい、な。
(――、だめだ)
頭を振って余計な想いを振り払う。測星盤を見て、星空を見て、忘れるべきことだけ考えるんだ。
忘れるべきこと。
わたしにとってのそれは、わたしの運命。すべての人狼に待つ、死の運命だ。
忘れたからって、死なずに済むわけじゃない。そんなことは当然わかってるけど、でも何も知らずにいられたなら、わたしは普通の子みたいに生きられるんじゃないかって。
あたりまえに学校に通って、あたりまえに友達がいて、ひょっとしたら、あたりまえに誰かを好きになる。ちょっと狼みたいで、ちょっぴり体が弱いだけの――普通の女の子に、なれるんじゃないかって。
「……死にたく、ないな」
思わず口をついた呟き。それを聞きとがめた誰かの耳がぴくりと跳ねて、誰かがいじわるなことを言う。
「――本当に?」
あなたが長生きできたとして、それで変われるとでも思っているの?
都合のいいこと。あなたは結局目を逸らしているだけ。逃げているだけ。
“わたしが生きる意味を教えて”。
言い訳。自分で見つけられない責任を、病に押しつけているだけ。
あなたは、わたしは、結局わたしにしかなれないのに。
「……うるさい」
跳ねのけようとした声は、驚くほどに弱々しくて。
(ああ)
もう、いっそ。
昼の霧でも。ううん、いま、ここでもいいな。
自分が、この霧に溶けてしまえばいいのに。
(……)
うそつき。
うそつきが森を行く。
忘れなきゃいけないのに、考えてなきゃいけないのに、思考はぐるぐると渦巻いてまとまらない。
ふと盤を見て気づいた――もう、この旅路が終わってしまうことに。
俄かに湧きあがる焦燥。焦燥。頭の中がぐちゃぐちゃになる。早く、ちゃんと忘れないと。
どうしよう。どうしよう。
わからない。わからない。
わたしは何を忘れたらいいの?
わたしが何を忘れたなら、なれるの?
あの明るくて、かわいらしい、……みたいに。
――は、とクロア・アフターグロウ(ネクローシス・f08673)は息を呑む。
「わたしは、いま、なにを……」
誰のことを、考えた?
つめたい風が吹き抜ける。ざあと騒ぐ木々の葉擦れが、いやに煩い。うるさい。
(いけない――)
わたしは、なにか、とんでもないことをしてしまった気がする。
汗がじとりと背筋を伝う。緊張に息が荒くなる。慣れた感覚のはずなのに、今日はやけに苦しい。
(思い出せ、思い出せ)
わたしがここに来たのは、変わりたかったからで。
(思い出せ、思い出せ)
そのために、わたしの運命を忘れようと……忘れ、て、ない。
(思い出せ、思い出せ)
それなら、わたしが、変わろうとしたものは。
(思い出せ。思い出せ、……ない)
歩みが止まる。縋るように天を仰ぐ。変わらず輝く死告鳥は、無感情にクロアを睥睨している。
彼が何を呑みこんだかなんて、示すものはどこにもなくて。
それは、クロアが持っていた大切なもの。数少ない、そのひとつだったはずなのに。
……なにも、思い出せない。
「……っ」
クロアは弾けるように駆けだした。
(思い出さないと。石を、砕くんだ)
焦りは視野を狭む。せり出した木の根に足を取られ、クロアは勢いよく倒れ込んだ。
ましろいワンピースに泥が跳ねる。柔い肌が擦り剝けて血が滲む。蹲って、震える息を吐いて、それでもクロアは立ちあがる。
辿りつかなくては。
針の示す先へ。早く――。
……。
――本当に?
夢なんて、いっそ忘れたままでいたほうが。
そのほうがよほど、夢を見ていられるのではないの?
成功
🔵🔵🔴
アオイ・フジミヤ
★
最初に話したとき
あなたは闇夜の帳に光る“月”のようにそこに在った
測星盤は美しい金の月が星図の隅に密やかに在る
その月と向かい合うように夜の海を形作る瑠璃と藍玉
美しく昇る月が静かな海の水面に光を映す
故郷ではそれを「月と海の出会う夜」と呼んだ
初めて彼と話したのもそんな夜だった
あの時を切り抜いたような盤を見つめて進む
愛しを“こいし”に形変えた私の想い
失ってしまえばどうなるの?
アシアハさん、あなたもこんなに”怖かった“の?
それともひとり“強くあろうと”望んだの?
ひとり強くいるより愛することを選ぶよ
きっと何度でも何度でも愛するから
繰り返し寄せる波のように
だから今だけ深い霧へと預けましょう
愛しあなたの俤を
グラジオラス。
白桃黄にエトセトラ、多彩な顔を持つこの花は、それと同じくらい多彩な花言葉を持っている。
喩えば、勝利。
喩えば、用心。
喩えば、――。
華のある一輪を太陽になぞらえるとしたら、アオイ・フジミヤ(青碧海の欠片・f04633)が手にした測星盤は月を引き合いとするべきか。主張をしないながらも細緻な芸が凝らされた盤は飾らず上品な一枚で、喩うまでもなくほそく冴えた月は盤の輪郭に耀いている。彼の月が望むのは瑠璃と藍玉、夜の海を染める濃淡のいろ。それは誰かと誰かが目を通わす構図に似て――その合間にある星図、その星図にある星の座に記憶を預けることはきっと、彼と彼女を結ぶのにこのうえなくふさわしい。
夜の空、夜の海。儚く瞬く星々に、引いて寄せるみなも星。遥か高きにうつくしい月、この波の果てに游ぐ月。
盤のかたちに思い起こされるのは、数えきれないほど眺めたそんな景色。アオイの故郷ではそれを“月と海の出会う夜”と呼んでいた。星々が眠る曇天の夜も、潮をさわぐ雨日の夜も、陽暮れた海が見せる多彩な表情がアオイは好きだったけれど、晴れ渡った夜の海はひときわ贅沢に感じられたもので。
「初めてあなたと話したのも、そんな特別な夜だったね」
月のようなあなた。その日かぎりは、あなたと話せたから特別だったのかもしれないけれど。
ぽっと灯った心ごと、あの時を切り抜いたような盤を見つめて、アオイは歩む。マリモはといえばアオイの肩に収まって、うとうとと眠たげなご様子。
そんなふたりを、七つ星はおだやかに照らしている。
勇者の妻は、砂漠の花と称されるような人物だったという。
一口に花とは言ってもたくさんあるけれど、どんな花に似た女性だったのだろう。砂漠の花ではないけれど、グラジオラスが似合いだったかもしれない。小さな剣の名を冠する花は可憐ながら凛として咲き誇る。そんな佇まいは、勇者の愛し人にはきっと、とてもお似合いな姿だと思うから。
グラジオラスの花言葉。
喩えば、忘却。
(忘れたくないよ。忘れられたく、ないな)
繰り返し思う。
何より愛しい一輪が手から溢れ落ちていくさまを、勇者はどんな想いで見つめていたのだろう。
忘却は厭だ。……それでも。
(忘れることは悲しくて……きっと、怖かったんだ)
現にアオイは、いま、こんなにも恐ろしい。
だって他ならぬアオイ自身もまた、愛しをこいしに変えようとしているのだから。
(この想いを失ってしまえば、私はどうなってしまうんだろう)
夜に灯を見失った舟は、行く宛てもわからず波に呑まれるのを待つだけだ。海のやさしさを知るアオイは、時に牙を剥く海のつめたさも知っている。
――あなたもこんなに、怖かったの?
――それとも、強くあろうと望んだの?
星霜の嘗て、同じ霧を抜けたろう勇者の背中に問いかける。
答えはないと、知っていたけれど。
愛し俤。
私が溢すことを選んだもの。
思い浮かべたあなたの顔は、もう紗を透かしたように漠と。掬った砂が指の隙間から溢れていくように、私からあなたがうしなわれてゆく。測星盤を握る指が凍えるような想いがするのは、霧のためではないだろう。
底知れぬ海の黒は、ふたつの顔を持っている。いのちを抱く揺籠。いのちを喰らう深淵。忘却に直面して懐く情は、後者に対するものに近い。
(ごめんね、名前も朧なあなた。私はもうすぐ、あなたのすべてまで忘れてしまう。……ごめんね)
けれど。ここから先の路、私はきっと、アシアハさんとは異なる舵を切る。
(私は、ひとりだけ強くあることを望まない。あなたとふたり、歩んでいきたい)
忘却は喪失とは違う。あなたへの想いがどれだけ遠のいたって、やがては満ちる潮のように、ふたたびこの胸いっぱいに溢れることだろう。
(何度でも、何度だって愛するから)
怖くても、悲しくても、私はしゃんと前を向く。その先にいるのがあなただから、前を向いていられる。
(きっと、そう。繰り返し寄せる、あの波のように――)
そうして、アオイは最後のひと雫まで溢しきる。
思い出せない誓いの宛先。しかしアオイがそう想いを傾けたように、そのひともまた、心の深い深い奥底からアオイに寄せて歩むだろう。
耳を澄ませば、ほら。アオイを訪ねる靴の音が、かすかに聴こえてくるようだ。
グラジオラスの花言葉。
喩えば、逢瀬。
成功
🔵🔵🔴
ショコラッタ・ハロー
さて、一時とは言え失う覚悟は出来た
どうせ荒野で拾われた出自も判らない生まれなんだ
元より"何者でもない"おれにとっては、
もしかしたら盗賊の生まれなんて記憶がないほうが、よほど良いのかもな
短剣や盗みの技術は学んでいたけれど、本当の務めにつくにはまだ幼すぎた日々
同い年の連中と毎日ふざけて遊び回って、無邪気に過ごしていたっけ
短剣を贈られた日から、おれはただのこどもじゃ居られなくなった
賊から離れたいまも、猟兵としての務めがおれに短剣を振るわせる
おれは何を取り零す?
無邪気な幼年の日々か、盗賊としての日々か、猟兵としての日々か
構わないさ
気に入らないクソ共の命をぶん盗る、その決意だけはこの胸に残るんだろうから
忍ぶべき相手もいないこの森で、しかし自然と気配を潜めてしまうのは“なかみ”にまで染みついた盗賊の性か。
『カルカネアム』は器用に落ちた小枝を避けながら、ショコラッタ・ハロー(盗賊姫・f02208)は音もなく昏い森を往く。うっすらと立ちこめる霧は、この日この森においては盗賊に味方しない。
空にきらめく《ダガー座》、あの切っ先が示すところに目当てのものは待っている。勘と盤とを頼りに進む――黙しながらも、手元に輝く工芸にショコラッタは物思うところがある。
盗った金細工に映るたび。凪いだ水面を覗きこむたびに、突きつけられるのだ。
額に聳える濡れた艶の双角。盗賊団の一員でありながら、自分が根本的には彼らとべつものである証左。孤児の出の盗賊なんて珍しくもないけれど、それとはちょっと事情が異なる。まして自分は猟兵なのだ。『ヴェルティージュ』、白き矜持、白き呪詛に染めあげられたる、この身は。
(おれは、いったい何者なんだろうな)
揺籠は荒野の乾いた土だった。
親の顔は知らない。生まれた意味も知らない。砂嵐の唸りよりも大きいとは誰が言ったか、知っていたのはただ、泣き喚くことだけ。
(……なんて、判りきったことか。おれは“何者でもない”、ただの賊あがりの猟兵だ)
盗賊であることを嫌いはしない。
この生き様を悔いてはいない。
しかし。
とうに絶えてしまったもうひとつの途のさき。ショコラッタ・ハローじゃないおれ、本来なら違う人生を歩んでいただろう彼女にとって、おれの人生は満足のいくものなんだろうか。
まだ、何も知らなかったころ。盗賊の業こそ仕込まれていたけれど、それが齎すものをきちんと判っていなかったころ。「ころすよ」と言われれば「ころしてやる」と返してやる、そう唱えて自慢げに胸を反らせていた。その意味も知らずに。
本当の務めにつくには、心も体も幼すぎた日々だ。同い年の連中と無邪気に駆け回っていた、そこにいたのはどこにでもいるこどもたちの姿だったはずで。
七歳の誕生日。――短剣を贈られた日が、ただのこどもでいられた最後の時間になった。
どんな思いで臨んだにしろ、初めていのちを盗った日、この手はたぶん震えていたはずだ。今となってはその感覚も朧げで、はじめは点々と撥ねる程度だった血に、いつしかどっぷり両手を浸けている。そう気づくことを、おとなになると呼んでいた。
喩えるなら、闇と血と泥と一枚の金貨。盗賊暮らしは安穏とはほど遠い。館で籠に鳥を飼うようなそれとは、あまりにかけ離れた生涯だ。盗み入った家の娘の人生を、眩しく見つめていた気もちもどこかにはあったかもしれない。
そんな賊の暮らしから離れてなお、猟兵としての務めが短剣を振るわせる。人相手とはわけが違う、この手は昔以上に多彩な血に塗れていて。
「もしかしたら……おれには盗賊の生まれなんて記憶がないほうが、よほど良いのかもしれないな」
そうしたら、この装束も息を詰めずに着こなせるかもしれない。赤黒い染みを濯ぎ落とすたびに、おのれの歩んでいる道を思い知らされるから。
皮肉げに歪めた口の端。――もしもそれを見ていたならば、生意気なあのこどもは言っただろう。
それでも、あなたは『ダイヤ』を取り上げたのだろうと。
奪うだけじゃない。あなたの手は、与えることも知っていると。
この手から何を取り溢す?
無邪気な幼年の日々か、盗賊としての日々か、猟兵としての日々か。……その、すべてか。
どれがどれだけ欠けたとしても、自分はいまの自分ではいられないだろうけれど。
「おやすみ、ショコラッタ・ハロー」
瞑目。霧に溢した誰かの名前は、ほろりほろりと溶けてゆく。
「もうこんなに夜も遅いんだ。少しくらい、おれじゃねえおれの夢を見てたって、いいだろ――」
吉夢か凶夢か知れないけれど。そうしたところで、結局は。
あの決意だけは、ずっと胸に残り続けるんだろうから。
絹に似る金糸、鏡に似る灰晶。華奢で優美な容姿はまさしく、姫御前とした佇まい。
白藍のドレスを身にまとい、爪先から指のさきまで、あまくはなやかに彩られて。
――はたり、長い睫毛を瞬いた。
何者にもなれた少女が、そこにいる。
成功
🔵🔵🔴
華折・黒羽
★
霧の中
獣の五感で地下都市への道を辿る
絡みついてくるような霧は
どろりと闇を深め心をざわつかせ
傍らを進む黒帝の存在は見失わない様歩みは合わせ
徐々に抜け落ちていく記憶
あたたかな笑顔
無邪気な声
心を解す様な己自身の、“想い”
ひとつ記憶を無くす度に
心は何かの鎖を解かれたかの様に
身すら軽くなっていく
─たったいまから、あなたのなまえは、くろば!
─くろは泣き虫だね
─くろ、一緒に強くなろう
─くろ!逃げて!
─おねがい、生きて。くろ。
何もかも消えた時
己の中に残ったもの
恐怖
猜疑心
渇望
そして
化物の、本能
喉が渇く
牙が疼く
目の前が、真っ赤に染まる
いやだ
化け物になんかなりたくない
きっとその感情の理由すら
霧と共に消えるのだろう
星を見ることさえ忘れなければ、測星盤も保険程度の用しかない。この身に宿る本能は、向かうべき先に自ずと足を向かわせる。
霧に沈む森を往く華折・黒羽(掬折・f10471)、追従するのは先の星見から『黒帝の楔』によって招いている漆黒の獅子。立ちこめるほの昏い霧に互いの影を見失わぬようにと、ふたりは目を交わしながら進んでいく。視界を奪うほどではないものの、じとりとまとわりついてくるような忘却の魔法は言いようのない感覚で胸を騒がせる。
焼べるのはあの日々。赫々と燃えたつ傷を、傷たらしめる幸福の記憶。
溢す。
村にあふれたあたたかな笑顔。道を歩けば誰も彼もが向けてくれた。もうどこにもいない笑顔たちは、この怪物じみた容姿も厭わず注いでもらった、切ないまでの愛情だ。
溢す。
遠く耳に聴こえる、子供たちの声。悪意を知らない無邪気な笑い声。一際はっきりと鳴るのはあの子の声で、耳をすませば、控えめに不器用に笑う自分の声もする気がした。
溢す。
なんでもない、このうえない幸福の数々。数えあげればきりがない。そんな優しさに育まれて培った、心を解す様な己自身の、“想い”。あるいは、怪物に宿った心そのもの。
ひとつ記憶が溢れるたびに、ひとつ箍が外れる音がする。
雁字に搦める鎖を軋ませて、深くふかくに圧されてきた黒い衝動が血を焦がす。
いつしか檻から放たれた獣のように、ヒトらしさなんてかなぐり捨てて。四本の脚で駆ける、駆ける。
溢、す。
――たったいまから、あなたのなまえは、くろば!
――くろは泣き虫だね。
――くろ、一緒に強くなろう。
懐かしい声。いとおしい声。忘れたくないと詰まる息を必死に呑み下して、黒羽はなおも思い出す。
追憶キネマの場面が移る。炎に燃えおちる村、傷だらけのあの子が叫ぶ。
――くろ! 逃げて!
この手から溢れおちたものは、欠片を拾うことすら叶わない。虚しく空を掻く手が欠片に切られるくらいなら、その痛みに蹲るくらいなら、いっそそこに欠片があることすら知らずにいられたほうが、どれほど。
故に、溢すのだ。
振り切るように、まき散らすように。その是非は傍らの相棒が見定めてくれる。刹那月光が照らし出す、決意を帯びた目許はしかし、ひどく哀しげに見えた。
そんな黒羽に、残響の如く届いた言の葉。あの子が、最後に残した願い。
――おねがい、生きて。
――■■。
誰かが誰かを呼ぶ声がした。高い声音はきっと、子供の声だ。
恐怖。猜疑。渇望。
ただただ真っ赤な本能に身を委ね、名前すら失くしてしまった獣には、その音はもう意味を持たない。獣にただひとつ判ることは、“獲物”の声がしたということばかり。
獣は上体を沈めると、弾けるように聴こえたほうへと跳びかかる。低い茂みに振り下ろした爪は、しかし何者も捉えずに余った勢いのまま転がり込んだ。鋭く尖った枝が肌を幾重に裂く。獣は不快な痛みに顔を歪めた。
(どこに隠れた)
闇に爛々と青が輝く。言葉の紡ぎかたすら忘れた口で、獣は牙を剥いて唸る。
(……会いたい。会いたい、会いたい)
――どの口が言う。逃げ出したくせに。いくら強くなったって、いまさら。
(会って、……会って、どうする?)
決まりきったこと。化け物が人に会うては結果はひとつだ。喰いころす以外に、何をし得るというのか。
その化け物に名が与えられ、手を握られるなんて。どれだけ掛け値なしに幸運で、やさしい夢物語だったというのか。
「……ッッ!!」
本能に焦がれるこの身を、誰かが冷眼に見つめている。わだかまる悪感に獣は低く哮え、癇癪を起こしたように傍らの木を激しく打ち据えた。繰り返し、繰り返し、弾けた樹皮と掌に滲む血が飛び散ることも厭わない。
擁くべきいのちも絶えたこの森で、木はとうに“涸”れ果てていたのだろうか。まるでどこかの獣とそっくりな木は、ぱきぱきと乾いた音を立てて、無残に抉れた箇所からゆっくりと身を傾ぐ。
どう。
地響きと共に倒れる様を、獣は息も荒く睨んでいた。
傷を重ねれば、待っているのはこうして斃れる未来だけだ。生きるために生きる野性の本能がそのことを教えている。けれど、獣の胸に灯った心は今日まで、なおも自ら傷を重ねていくことを望んだ。その理由ももう、ぽかりとした空虚だけを残して抜け落ちていたけれど。
不合理だ。腹も膨れない苦悩に身をやつす、人間という獣。生物として破綻している、おちこぼれの獣。
いっそ心すら捨てて、ものも判らぬ化け物になれたらどんなに楽だろう。
なんて。
(いやだ)
消えかけた理性が叫ぶ。
それでも、……俺、は。
(化け物になんか、なりたくない――)
おと無き悲鳴は、その理由ごと霧に消えた。
成功
🔵🔵🔴
リリヤ・ベル
★
【ユーゴさま(f10891)】と
きららかな盤を手に、そうっと森の中へ。
夜も、森も、こわくはありません。
歩みが鈍るのは、忘れることがすこしだけこわいから。
たいせつなものを、たいせつにするのは、むずかしい。
花忘れの勇者さまは、たいせつなものを手放したのか、守ったのか。
それを知るすべはありません。けれど。
ユーゴさま。
……ユーゴさま、ユーゴさま。
おまじないのように名をうたう。
こぼすこころは、あなたへのこいしさ。
恋ではなくて、愛ではなくて、名前もかたちもわからないけれど。
こいしく想うこころを手放しても、わたくしはちゃんと立つことができるのだと。
――そう思っていても、頭に乗る手はやさしいのです。
ユーゴ・アッシュフィールド
★
【リリヤ(f10892)】と
なるほど、見事な金細工だ
伝承と合わせて売れば観光者は思わず買ってしまうだろうな
さて、何かを思い浮かべろと言われると
やはりあの日の……すべてを失った日の後悔と怒りが込み上げてくる
忌々しい記憶だが、それを失った時に俺はどうなっているんだろうな
つい考え込みながら歩いてしまったが、リリヤを見てやらねばならない
薄霧伝いに俺を呼ぶ声は、彼女の口から漏れたのか心から漏れたのかは分からないが、確かに聞こえた
手でも握ろうか迷ったが、頭を一撫でにとどめる
この子は強い、手を取って支えてやらなくてもきっと大丈夫だ
……段々と記憶に靄がかかってきたな
不思議な感覚だ、心がかるくなっていくようだ
ふたりはふたつの盤を擁いて、忘却の森に踏み入れる。
リリヤ・ベル(祝福の鐘・f10892)の選んだ測星盤は、齢八つの少女の片手にちょうど収まる程度の大だ。盤を操作する手つきに合わせ、輪郭部に並んだ羊たちがぐるぐると夜空を駆け廻る。子供への贈を意図してのものだろう可愛らしい遊び心は、事実レディの琴線に触れるものがあったのかもしれない。
対してユーゴ・アッシュフィールド(灰の腕・f10891)が手にした盤はリリヤの両手にやや余るほどに大きく、不要な装飾は省かれた原盤に忠実な造形だ。飾らぬだけに誤魔化しのきかない細工は精緻を極め、洗練された優美でもって月下にうつくしく煌いている。ゆるりと振れる針を眺めながら、ユーゴは感嘆の息を漏らした。
「こうも薄暗いと、普通は陽の下で見るより見劣ってしまいそうなものだが……なるほど、見事な金細工だ」
もともと夜間に使う道具として作られたためかは知れないが、夜の蒼い光を浴びて盤は独特の趣を纏って映る。
「伝承もお涙頂戴の悲恋物語ときた。そいつと合わせて売ってやれば、観光者は思わず買ってしまうだろうな」
「ユーゴさまはそういうところが、ろまんしちずむに欠けるのです」
やれやれといった風情の声が、ユーゴの七十センチ下方から届く。自分の盤を掲げてご機嫌そうなようすのリリヤだ。
「レディはロマンチックな物語が大好きなのですよ。そんなだから、枯れたユーゴさまにはいつまでもいいひとが見つからないのです」
ましてそんな物語の主人公になれたらどんなにすてきでしょう、そう夢見るのがレディなのですから。羊をくるくる飛ばしながら、リリヤは夢見るような瞳で続ける。
たぶんロマンチシズムと言いたかったんじゃないかと思うけど、つつかぬ狼に祟りなし。言っていて気分がよさそうだから、ユーゴはといえば敢えて指摘しないことにして。
「そんなものか。では、こういう場所はレディ的にはどうなんだ。王子様どころか……骸骨オバケの一匹や二匹でも出そうな雰囲気だが」
実際にいまリリヤが歩み過ぎた傍に何某かの骨が転がっていたことは、気付いていないようすの本人には黙っておくけれど。
「平気です。たまに頼りにならないコアラさまに加えて、今宵のわたくしには羊さんたちもついているのですから」
夜も、森も、こわくはありません。胸を反らして、リリヤはえへん。
「そうか、うん、頼りになるな。……気に入ったのか、それ」
なまいき盛りのレディに、ユーゴとて扱いは慣れたもの。
至っていつもどおりのふたりのかたち。そんなふたりは、これから互いが何を忘れるつもりでいるかを知らず、敢えて問うことさえもしなかった。近しくあれば、近しいほどに、引くべき線があることをふたりは知っている。
それは配慮であり、尊重であり、――きっと、言葉にしうることもここまで言葉にできずに来てしまった、ふたりの不器用だ。
何かを思い浮かべろと言われて、ユーゴの脳裏に蘇るものは決まっている。
(あの日。灰に溢れたあの日)
絶えずこの身を蝕む後悔。怒り。
国が、同胞が、自分たちが、なぜあんな仕打ちをうけなければならなかったのか。幾夜の悪夢に求めた答えは今だって見つからず、できたことはただただ、運命を、世界を呪うことばかり。届かない剣にどれほどの意味がある? 行き場すら悉く灰にして、尚も残り続けたやるせなさに任せ、何度もこの剣を折ってやろうと考えた。折るまでもなく、この心はきっととっくに折れていた。
(忘れた時に、俺はどうなっているんだろうな)
一日たりとも忘れ得ぬ、呪いじみた記憶を。
気付けば、リリヤとの距離が少し開いている。小走りで追い縋る。離れて見ればちいさな影は、近づいてなおも不安になるほどに華奢で。
――ユーゴさま、ユーゴさま。
微かに自分を呼ぶ声が聴こえたのは、夢か現か。きゅっと握りしめられた少女の手をとろうと、した、寸前で思いとどまり、ぽんと頭をひと撫でにとどめる。少女は、微かに身じろいだ。
(……大丈夫、この子は強い)
手を取って支えてやらなくても、きっとこの子は自分の足で立っていられる。
(なればこそ、俺もまた俺自身の在り方に、きちんと向き合わなければならないな)
忌々しくも、今日の自分をかたち作っているあの記憶。それが自分に与えた傷痕は厭というほど身に染みているが、その傷痕が自分にどんな意味を齎したのか、顧みて見定めるまたとない機会だ。
徐々に徐々にと靄がかる記憶に面して、ユーゴの心は至って閑かで。
(……不思議な感覚だ、心がかるくなっていくようだ)
瞼の裏に焼きついた悔恨が、苦悶が、怨嗟が、像も朧に溶けてゆく。リリヤと伴ってから幾分軽くなった足は、ついにその重さすら忘れて。
きっと。
きっとユーゴもまた、リリヤに支えられていたのだ。灰の野にすべてを見失ったあの日。リリヤがユーゴを呼ぶ声が、ユーゴに再び生きる意味を与えてくれた。
「……」
リリヤを撫でた掌を、ユーゴはじっと見つめる。灰に塗れていた腕は、もはやその影もなくなった。なくなって、しまった。
喪った記憶を失ってなお、ユーゴはリリヤを“たいせつなもの”だと言うだろう。
けれど。
喪失を忘れたユーゴにとって、リリヤはいままでと同じだけ“たいせつ”であれるのだろうか――?
彼にはこわくないなんて言ったけれど、ほんとを言えば、強がりだった。
夜も森も、ただそればかりなら耐えられる。そんなリリヤの歩みを鈍らせるのは、リリヤが恐れるのは、忘却だ。怖い夢なら喜んで忘れよう。それでもこんなに胸が騒ぐのは、自分が手放そうとしているものが“たいせつなもの”だから。
(ユーゴ、さま)
たいせつなものを、たいせつにするのは、むずかしい。
どれだけたいせつにしたくたって、子供の手ではどうにもならない時があることをリリヤは知っている。目に映るものに邪魔されて、届けたい言葉が届かないことを知っている。
時には、自ら手放さなければいけないことだってあるのだろう。たとえば、花忘れの勇者がそうしたように。
ただ、手放すために手放したのか。あるいは、守るために手放したのか。今となっては、それを知る術はないけれど。
(ユーゴさま)
こぼすこころは、あなたへのこいしさ。
それはきっと恋ではない。それはきっと愛でもない。名前もかたちもわからないけれど、とてもたいせつで、あたたかいきもち。
「ユーゴさま、ユーゴさま」
繰り返しうたう彼の名は、おまじないのように。手放すために溢すんじゃない、掴むために、溢すのだ。
となえる、彼の名がだんだんと乾いていく。こわい。おそろしい。それでもわたくしは掬いたい。
(このこころを手放しても、わたくしは、ちゃんと――)
――ふ、と。
“同行者”が頭を撫でた。
大きな戦いを経たとき、うんと叱られたとき、あるいは、唐突に。彼は、たまにこうして頭を撫でる。それがリリヤは嬉しかったはずで、その記憶だけはなお、残っていただけに。
(……)
動かない。
動かない心に、リリヤは眼を伏せる。自分は喜ばなくてはならない。そうしないと、彼を裏切るように思われて――それでも、どうしたって、何も感じられないのだ。
同行者にそうと気取られないように、目から溢れそうなものを気取られないように、リリヤはフードを深く被りなおす。鈍っていた歩みはいつの間にか足早になっていた。それは足の震えを隠したいから。
止まれば、そのまま崩れ落ちてしまいそうだから。
(ごめんなさい、ユーゴさま……)
わたくしはいけない子。わたくしは、わるいおおかみ。
わたくしはなんにも思えなくなってしまった、のに。
あなたの手は、こんなにもやさしい。
――幸せの意味を忘れた少女が言う。
「きっと、幸せをみつけましょう」
――幸せの重みを忘れた男が答える。
「ああ、そうだな」
決して長くはないけれど、決して短いわけじゃない。
旅の月日に積み重ねたはずのふたりの言葉は、他人事のように空虚だ。
成功
🔵🔵🔵🔵🔴🔴
第3章 集団戦
『エレメンタル・バット』
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POW : 魔力食い
戦闘中に食べた【仲間のコアや魔法石、魔力】の量と質に応じて【中心のコアが活性化し】、戦闘力が増加する。戦闘終了後解除される。
SPD : 魔力幻影
【コアを持たないが自身とそっくりな蝙蝠】が現れ、協力してくれる。それは、自身からレベルの二乗m半径の範囲を移動できる。
WIZ : 魔力音波
【コアにため込んだ魔力を使って両翼】から【強い魔力】を放ち、【魔力酔い】により対象の動きを一時的に封じる。
👑11
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●時忘れの都、花忘れの君
森の景色に溶けるように、蔦のカーテンの陰にぽかりと口を開いた石造りのゲート。竜による襲撃の名残りか、よくよく観察してみれば、表面には巨大な爪痕や焼け焦げた痕跡が残されている。
踏み込めば、緩い下りの勾配で直線状に通路が続いている。存外に広々とした造りは恐らく、嘗ては地上からの資材の搬入路に使われていたためだろう。その広さが、結果的には竜の侵入も許してしまったのだろうけれど。
廃都の内部は、ともすれば森の中より視界が利いた。人の手を離れてなお、壁に天井に、随所に置かれた魔法じかけの灯篭が明かりを燈しているためだ。廃都が誇ったという魔法文明を偲ばせる明かりは、通路の突き当りで一際に強い。
通路を抜けて、あなたは見るだろう。
地下とは思えぬほどの広漠な空間。世界から置き去られたように沈黙する、都市の亡骸。街灯に照らされて半壊した建物たちが無数に立ち並び、空間の対面はあまりに遠いのか、薄闇と埃に阻まれて果ては見通せない。
あなたが降り立ったのは、バルコニーのように都市を俯瞰して突き出した広い空間。搬入した物資の一次保管場であったのだろう、木箱の残骸が片隅に転がっている。そこから両サイドへ壁面に沿ってぐるりと通路が伸びており、その傍らには“地上”に繋がる昇降機と思しき設備が、二度と齎されることのない指示を待ち侘びて沈黙している。
まともに探索しようと思えば一朝一夕では済まないほどの規模と見えるが、あなたが乗り込むまでもなく、目的のものは向こうからやってきた。吸い寄せられるように、導かれるように――掬ってと、いうように。
あなたのもとへまっすぐと飛来する、幾つかの小さな影は蝙蝠に似た魔物だ。ただの蝙蝠と異なることは、その一匹一匹が躰に彩とりどりの魔石を有していること。その魔石こそグリモア猟兵の伝えていた、あなたの溢した記憶を封じた“こいし”に他ならない。
数羽の蝙蝠が牙を剥いてあなたに襲いかかる。あなたがなすべきことは、まずこれらを迎撃することだ。あなたがどんな選択をするにせよ、溢した記憶は蝙蝠の躯を借りて、きっとあなたへの回帰を願っている。
倒したならば、蝙蝠たちは魔石を残して霧散する。その魔石のうち、あなたが描いた星座と同じ星々が刻まれているものが、あなたの記憶の石だ。その場で砕いて思い出すも、この場は持ち帰るも、あなたの自由だ。
他の蝙蝠が残した魔石も同様に、必要ならばあなたの好きにするといい。仮になにかが刻まれていたとて、その記憶が還るさきは、もうどこにもないのだろうから。
溢れんばかりのこいし憎しも、ひとつこいしに姿を変える。
今宵、一度は溢したあなたのこいしに、あなたはどう向き合うだろう。
岡森・椛
★
都市の亡骸眺め
嘗ての沢山の人の沢山の物語に想いを馳せる
今はもう何も無い
私の心と似てる気がして
でも私は何を失ったの?
それすら判らないけれど
なのに涙は熱くて
どうして…
不安げなアウラが必死に危機を伝えてくれる
はっと顔上げ気付く
魔石!
取り戻さないと
ああでも蝙蝠さん
貴方達は運んでくれたのね
溢れた大事な記憶を
大切に軀で包んで
だから【常初花】で花を降らせる
私の好きな花々を贈りたくて
霧散後
アウラが測星盤の紅葉を指示す
同じ物を探し迷わず砕く
心が一気に満たされ全て思い出す
溢れる嬉し涙
アウラも笑顔で飛び付いてくる
他の魔石も手に取る
刻まれた美しい花を指でなぞると胸が締め付けられる
もう失われた物語でも
想いはずっと熱い
からっぽの街、からっぽの心。
街の景色と自分とに、傷のついた親しみが湧きあがるのはその空虚さのゆえだろう。お話の中のような世界に臨み、遠い日々に想いを馳せる岡森・椛(秋望・f08841)の表情はしかし、常より沈んでいる。
嘗てはこの街にたくさんの人が暮らし、たくさんの物語が営まれていたはずだ。その在処がすべて喪われてしまった街は、切ない余韻だけを残して沈黙している。あるべきものがぽかりと抜け落ちたうつろは、この胸にただただ、痛い。
(痛い、のに。何を失くしたのか、私には、それすら判らない)
頬を伝い、とめどなく溢れる涙は熱い。顔を灼く温度は失くしたものの重みだけを伝えて、果たしてそれが何であったかを教えてはくれない。それがまた、椛には苦しくて。
「どう、して……」
ぽろぽろと泣きながら俯いていた、椛の脇をふっと強い風が抜ける。顔をあげればアウラが必死に彼方を指してなにか訴えていた。
鈍く視線を巡らせて、椛が見とめたのは蝙蝠の群れ。ああ、魔物だと、霧がかった頭でぼんやり見つめていれば、彼らが擁くものを解して水を浴びたように思考が醒める。
「――魔石!」
蝙蝠たちの核となっている魔石。遠目にはよく見えないが、その表面にはなにかが刻まれているようで。
(取り戻さないと)
失くしたものは、きっとそこにあるから。
「アウラ、来て!」
手を伸べて呼べば、こなたへ舞い込む風の精。ぽんっと煙を立ててかたちを変える、『アウラ』の本質はエレメンタルロッドだ。手に納まった美麗な杖を構え、椛は毅然と蝙蝠に向き合う。
向き合って、椛は気づくのだ。迫る蝙蝠は、ふつうの魔物よりよほど敵意に欠いている。それはあたかも、異なる意志を帯びたなにかが、ただ蝙蝠の姿を被っているだけのように。
(ああ。そうか――)
すとんと、椛は腑に落ちた。
(貴方達は、運んでくれたのね)
私から溢れてしまった記憶を、大切に軀で包んで。
ならば、自分が与えるべきは敵に仇なす刃ではない、精いっぱいのありがとうの気もちだ。たとえ結果は同じであっても、それを成す想いが大切だと椛は思うから。
「ありがとう、蝙蝠さん。私が大好きな季節の色彩で、私は貴方達を受け止めるよ」
その理由が思い出せなくたって、大好きだというこの心に偽りはないから。
まっすぐ掲げた杖から溢れだす、【常初花】。撫子、桔梗、そして秋桜――秋を教える彩のとりどりが奔る。花弁は褪せた廃都を染めあげて渦巻き、その満開で蝙蝠たちを包みこんだ。
翼を喪った魔石たちを、花弁がふわりと包んで床に運ぶ。椛のこいしも、そしてほかのこいしたちをもいたずらに傷つけんとする、優しいアウラのはからいだ。魔石たちをそっと横たえれば、花弁はひとところに集まってぐるり、いつものアウラの姿を成した。
ありがとうとアウラを撫でて、緊張の面持ちの椛は並べられた魔石の前に歩を進める。床一面に積もる埃も厭わずに椛は膝をついた、その懐からよいしょと測星盤を運び出すアウラ。魔石の隣に並べ立てて、刻まれた星座を探す椛のお手伝いだ。示すのは、風の刃で描いた《紅葉座》。
(紅葉、私とお揃いの名前。忘れる前の私がこれを星座に選んだということは、私にとってかけがえのないものだったんだ)
手繰る、手繰る、記憶の糸。糸の繋ぐさき、その理由は、すぐそこに輝いている。
「……っ、あった!」
手に取ったのは、黄昏に似た彩の魔石。醒めるほど鮮烈な赤とまるみを帯びた橙、二色の織りなす色調のうえに刻まれたひとひらの紅葉は、深まりゆく秋の季節を教えて眩くきらめく。
躊躇はない。両手に包みこめば胸元にそれを運んで、椛はそっと力を籠めた。すると魔石は、砂糖菓子がほどけるように、ほろほろと椛の胸の中で崩れていく。
ほろほろと、心に恋しが満ちていく。
(ああ――)
そして椛は思い出す。
(私が大好きなものは、ずっと私と一緒にいてくれたんだ)
椛の名前に籠められたものはほかでもない、大好きなふたりの愛情だ。目を閉じれば浮かぶ、並んだ両親の優しい笑顔。慈愛に満ちた眸で椛を見つめ、ふたりは「おかえりなさい」と口を揃えた。
溢してしまったのは椛でも、本当ならおかえりなさいを言うべきは椛でも、記憶の中のふたりはいつだって椛の帰るべきところでいてくれる。
紅葉の花言葉のひとつ――それは、“大切な思い出”。
「ただ、いま……っ」
たまらなくなって、椛は蹲って嗚咽を漏らす。最初は抑えていた声はやがて堰を切ったように、椛が産まれたあの日のように、天を仰いでおおきな声で泣いた。涸れることなく流れる涙は、いま、きらめいて溢れるうれしさの情だ。
震える椛の体を、おだやかに目を細めたアウラがぎゅっと抱きしめていた。
それから少し後。アウラに背中を撫でられながら、思いっきり泣ききった椛の顔はさっぱりと晴れやかだ。
蝙蝠たちが残したほかの魔石を、両手で水を掬うように拾いあげる。魔法の灯を浴びてちかりとひかる、その面にはうつくしい花の座が刻まれていた。
誰かが忘れ去った花。誰より振り向いてほしいひとに、けれどもう二度と思い出されることはない、花だ。
「それでも……ずっと、ここで咲き続けていたんだね」
忘却は喪失ではない。記憶となって胸におちる日々は嘗て、たしかにかたちを伴って世界に存在していた足蹠だ。
勇者が忘れた砂漠の花は、凛と咲いて夫の帰還を待っていた。そんな伝説にはならなかったささやかな花々も、残された誰かの胸には大切に懐かれていた。もし椛が両親を思い出せなかったとしても、両親は変わらぬ愛情を椛に注ぎ続けただろう。そうしてきっと、椛は何度でも両親のことが大好きになる。
「私は、貴方達を正しいところに還してあげられないけど」
指でなぞる魔石の花は、椛が溢した涙と同じ温度。顔の見えない記憶たちに締めつけられる胸は椛のやさしさだ。
「せめて、貴方達という物語は、私達がずっと覚えているから」
肩のアウラも任せてとばかり、胸を張ってこくんと頷いて。
そんなふたりが覚えていてくれることは、失われた物語たちにとって叶うかぎりに幸福な結末だったことだろう。
こいしを掬い、涙の痕を拭って、椛は自分の足でしっかりと立ちあがった。
柔い波に揺蕩う母親のお腹の中とは大違い。見果てぬほど広い世界の大海原に生まれおちて、心細く愛情を探していたちいさな紅葉。あの日うんと伸ばしたまっかなてのひらは、いつしかその手に慈しむことを知る、大きく立派な手になって。
いま、この手をアウラと繋いで。椛はもう忘れない。
(帰ろう。大好きな両親が待つ家に)
胸にとくとく息衝く熱量。ただいまを言える人がいる、それはどれほどに愛おしい日常か。
そうして。
やさしさに溢れた日々に、この手で返せるかぎりのやさしさを返しながら、椛は明日を生きていく。明後日を、明々後日を、未だ知らぬこいしたちと出会いながら生きていくのだ。
こいしこころを胸に燈して、今日も明日も、その先も。
想いは、ずっと熱い。
成功
🔵🔵🔴
ユーゴ・アッシュフィールド
★
【リリヤ(f10892)】と
……朽ちた都市か
少し引っかかるが、違和感の正体は掴めない
飛来する奇妙な蝙蝠は剣で掃う
不思議と剣が軽い。いや、軽すぎる
俺の剣はもっと"重かった"と身体が覚えている
俺が描いた星々が刻まれた魔石
俺が俺である為に、砕く事に躊躇は無い
……なるほど、これが俺が溢した記憶か
灰となった国、あの時の怒りと絶望が鮮明に押し寄せてくる
きっと俺は今、酷い表情をしているだろう
リリヤには背を向け、なんてことはないと言っておこう
……思えば、もう苦しい思いはしたくないと、全て捨てて出た旅だったな
そして、気付けばまた大事なモノを横に置いてしまっている
だが、そうだな……
次は溢さず守り抜くと誓おう
リリヤ・ベル
★
【ユーゴさま(f10891)】と
しずかな世界。
飛来する蝙蝠を、招いたひかりで迎え撃って。
きらきらと溢れた石は、手の中に。
いつか。
いつかは、手を離さないと、いけないのです。
捨てることのできないひと。
わたくしがこころを遺していったら、きっと、それも抱えてしまう。
だからこれは、その日のための。
――でも、
風属の加護に願って、手の中のこいしを砕きましょう。
ユーゴさま、ユーゴさま。
わたくしはレディなのですよ。
ひとりでだって歩けます。
……でも、もうすこしだけ、こどもで居て差し上げますね。
お顔を見せていただけなくとも。
てをつないで、かえりましょう。
ほんとうに溢すのは、さいごの日に。
雁字搦めに、しないように。
「……朽ちた都市、か」
眼下に広がる光景を眺め、ユーゴ・アッシュフィールド(灰の腕・f10891)はぽつりと溢す。その記憶自体を忘却したのでなければ初めて訪れるはずの街の姿に、ユーゴはなにやら引っかかるものを感じた。言うなれば既視感だろうか、漠とした感覚は煙のように不確かで、掴もうとした手を抜けて朧に消える。
リリヤ・ベル(祝福の鐘・f10892)もまた、沈黙の街を見つめている。ユーゴとの旅路のなかで、リリヤはたくさんの世界のすがたに触れた。救い得た世界があった一方で、どうしても猟兵たちの手が届かない世界もある。この廃都のしずけさは、そうした結末のひとつのかたちだ。
「リリヤ。魔物だ、来たぞ」
物思いに耽るリリヤに降る同行者の声。はっと顔をあげれば、彼方から飛来する蝙蝠の群れ。リリヤのユーベルコードであれば宙空の彼らも撃ち抜けるが、足場の上で倒さなければ魔石が廃都の瓦礫に真っ逆さまだ。ぎりぎりまで引き付けて、リリヤは両手を掲げる。
「思ったよりたくさんいますね……ユーゴさまの出る幕なく倒し切れたらと思いましたが、むずかしそうです」
「はは、そいつは残念だ」
笑いながら、ユーゴは剣を抜き払う。並び立ってリリヤが指さすさき、天から降り注ぐ光は『ジャッジメント・クルセイド』だ。光の矢は飛び回る的を器用に貫き、ぽろぽろとその身を動かぬ魔石に変えていく。
しかし、やはりすべての蝙蝠を指すのには限界がある。裁きの光を逃れた蝙蝠たちが、リリヤとユーゴに肉薄した。
「ユーゴさまっ」
ほかの蝙蝠と違い、まっすぐリリヤを目指してきた一匹。寸でで光を撃ち、きらきら溢れた魔石を両手で受け止めながら、リリヤは後方に飛び退く。入れ替わり、リリヤを庇うように大きくルーンソードを薙ぐユーゴ。
返す刃で二匹を断つ。間を置かず追撃の技を繰り出しながら、ユーゴは奇妙な感覚をおぼえていた。
剣が、軽い。
(いや、これは――)
“軽すぎる”、騎士として積み重ねた月日がそう異常を訴えているのだ。軽すぎて、収まりが悪い――ともすれば、不快とすら言える軽さだ。
無論のこと、扱っている得物に変わりはない。『灰殻+』、幾つもの戦場を共に潜り抜けた相棒が、まさか自ずと減量を図ったわけもないだろう。こいつは素直だが、そんなに可愛げのある性格でないことも知っている。
(幾つもの、戦場……)
この廃墟を訪れた時に過った違和感がふたたび首を擡げる。思い返される戦場の記憶もまた、覚束ないほどに軽い。まるで、本来そこにあったはずのなにかが、すっぽりと抜け落ちたような。
眉を顰めながらも淀みなく蝙蝠を迎撃していたユーゴは、ふっと短く吐息して剣を構え直した。
「こうも雑念に囚われるようじゃ、俺もまだまだ青いらしい」
その違和も、ユーゴの障害にはなり得ないけれど。
上体を屈めて引き絞る。細く息を吐いて止める――刹那、碧の眼と銀が鋭く煌く。
『絶風』。
ただ、一刀。研ぎ澄まされた刃と剣風が、群がる蝙蝠の悉くを斬り裂いた。
偶然か必然か、リリヤが最後に射止めた蝙蝠の魔石は、まさに彼女自身のものだった。他方ユーゴはまとめて複数羽を下したために、地面に転がる魔石をひとつひとつ検めなければならなかった。手伝いを申し出るリリヤを、ユーゴは制する。
「俺はひとりで充分だ。俺が探している間に、お前はその魔石を好きにするといい」
俺は敢えてお前の様子を見ないし、思い出す、思い出さないも問わない。思い出す瞬間を見られては、ばつが悪いことだってあるだろう。
そう、言葉にはしないユーゴの気遣いを察して、リリヤはこくんと頷く。背を向けて魔石の元へ遠ざかるユーゴの背中を束の間見つめて、リリヤは手元の魔石に視線を落とした。
ふかい緑の魔石に円環、刻まれた《わっか座》。くるりとまわってもどるさきは、ほんの数歩の距離なのに、こんなにも遠く感じる。理由は判りきっている、忘却した彼への恋し――この小石の中身だ。
(たぶん、わたくしはこのこいしを、砕かないほうがよいのでしょう)
いつか。いつかは、ふたりの手は離れなければいけない。そしてそれは彼に離されるのではない、こちらから離すべきだ。
(だってあなたは、捨てることのできないひとだから。わたくしのことだって、きっとおんなじにするのでしょう)
こころを遺していったなら、きっと、それすら抱えてしまうのでしょう。そうしてあなたの足取りは、いっそうに重くなってしまう。
こいしかったでしょうあなた、わたくしはそれを望まない。だからこの魔石は、その日のための布石とするべきなのでしょう。
「……」
そっと、リリヤは指先で魔石を撫でる。そうして『シラユリ』の懐に差し入れる――ことはなきまま、眸はじっと床を見つめたままに。
風属の加護に願いをかけて、リリヤはこいしを砕いた。
(ユーゴさま、)
そして、思い出す。
欠片が散るほどに、こころに充ちていくひとつの気もち。表すべき言葉が見つからない、ふしぎであたたかい、あなたへの想い。
「ユーゴさま……わたくしは、レディなのですよ」
ひとりでだって歩けます。あなたをひとりにできます。わたくしは、ひとりきりになれます。
「……でも。もうすこしだけ、こどもで居て差し上げますね」
「そうかい」
ほんとの彼に向けたものじゃない。このこころに還った彼に向けたつもりの言葉に、頭上から返事が返った。同時、小石を砕いたてのひらをそっと、無骨な手が包む。
弾かれたように顔をあげた。いつの間にやら戻っていたらしい、目に映ったのはおだやかにほほ笑むユーゴの顔だ。
「ユーゴ、さま?」
「お前はこどもなんだろう。こんなところで迷子になられたら困るからな」
軽口を交え、ユーゴは眦に笑みを深めた。
そんな、いつもむすっと仏頂面の彼が時折見せる柔和も。ここまでの付き合いで察せられる、これが不器用な建前に隠した彼の優しさであろうこともまた、リリヤには胸が苦しいほどに――こいしくて。
(ああ、もう……)
とすんと、頭突きするようにユーゴの体に頭を預ける。
「……ユーゴさまの、ばか」
「えっ」
繊細なレディの心に気の抜けた返事。それきり、リリヤはぐりぐりユーゴに頭を押しつけて。
(こいしいひと)
あなたは、あなたは。
残酷な、ひとだ。
ユーゴの側も、自身の石を見つけていた。灰の魔石に刻まれる《アイリス座》はお前のくれたゴンドラランプだと、そう示すユーゴの手元を目しながらリリヤは控えめに。
「ユーゴさまは、こいしを砕かないのですか?」
「砕くぞ。俺が正しく俺である為には、どんな記憶であれ必要だろうからな」
ただ、とユーゴは続ける。
「折角だから、お前のくれた星座を見せてやりたかったってだけさ。……さて」
ユーゴは魔石に目を落とす。
(俺の重み、か)
傍らから気遣わしげに注ぐ目を感じる。ともすれば、リリヤには自分が忘れた記憶に心当たりがあるのかもしれない。それがどんな内容であれ、自分の性格では事細かに語ってまではいなかったろうと思うけれど。
なればこそ。この重みは、自分自身で受け止めなければならない。
(還ってこい――)
力を籠める。ぴき、と罅の走った魔石は、もうひとたび力を入れると細かい破片に砕け散った。
同時。
かっと、視界を赤が染める。地下都市の姿は掻き消え、踊り狂うのは真っ赤な灰だ。燃え盛る街並みの火を浴びてか、溢れた血に染まってか、渦巻く灰のいろが煩い。厭にうるさい。
そしてユーゴは気づく、真っ赤な視界は灰のためのみではない。目に入った誰かの血と――底の知れぬ昏い憤怒、そして絶望だ。
(……なるほど、これが俺が溢した記憶か)
手放すまでは、ずっと心の奥底に焼きついていた記憶だ。その光景は同じものなのに、すっかり忘れ果ててからこうして思い出してみれば、殴られたようにどす黒い感情が脳を染めあげる。
(俺は。俺、はッ――)
は、と。
波が引くように幻が醒める。血塗れの剣を握っていた手は、リリヤと繋いだままでいた手だ。知らず強張っていた手に、もうひとつ柔らかいものが添えられていた。見れば、ちいさな両手でユーゴの手を包みこみ、リリヤの澄みきった翡翠の晶がじっとユーゴを見あげている。
「……っ」
反射的に、ユーゴは顔を背ける。見られてしまっただろうか。思い出された記憶に、きっと酷い表情を浮かべているだろうこの面を。
ひかえめに、「ユーゴさま」と少女の声がのぼる。視界から外れたリリヤがいま、どんな表情をしているかは見えない。聡いこの子を誤魔化しおおせるとは思っておらずとも、ユーゴはこう答えるしかなかった。
「……油断していたようだ、蝙蝠に一発貰っていたらしい。なに、なんてことはないさ」
頑丈が取り柄だからなと、冗談扱かした笑い声が強張っていることは自分でもわかった。
「そう、そうですか。宿に戻ったら、ちゃんと消毒してくださいましね」
すこしだけ間を置いて、リリヤは至っていつも通りの調子でそう返す。それきり、それ以上の追求はなくて、ただユーゴの手を包む両手が、僅かばかり力を帯びて。
(やれやれ。自分から手を伸べておきながら、このざまか)
リリヤに気取られぬように、あわく息を溢すユーゴ。碌でもないと気も落ちる。まったく、これではどっちが――。
(……思えば、もう苦しい思いはしたくないと、全て捨てて出た旅だったな)
捨てるとは、うしろに置いてくることだ。決して消えるわけではないそれらは、記憶として脳にこびりついた幻影と共にいつまでも己を責め立てる。そうした意味では、僅か一時ばかりといえど忘却したことは、たとえ逃避であったとしても久方ぶりに安らいだ時間に違いはなかっただろう。
(そのくせ、気付けばまた大事なモノを横に置いてしまっていて)
失くしてしまえば、また傷つくことは目に見えている。……ましてや、それが決まりきった結末として、未来に横たわっているというのに。
だというのに――このちっぽけなてのひらの温度に、こうも、救いを見出してしまう自分がいて。
(次は。今度こそ、は)
抗い得ぬものがあることを知っている。それは、この子を拾った時には既に判っていたことだ。
(それでも……俺の手に能う限り、溢さず守り抜くと、そう誓おう)
誉れたかく軽妙な英雄の剣は、嘗て、愛した故国と人々のために捧げた。
継ぎ接ぎで灰塗れの重き剣を、いま、ただひとりの少女のために捧げる。
後始末も終え、あとは帰還を残すばかり。一足先に出口へ足を向けたユーゴが、リリヤに声を投げる。
「リリヤ。思ったより時間を喰ってしまった、陽が出る前に帰るぞ」
「はい。いまゆくのです、ユーゴさま」
最後に、リリヤは廃都を振り返る。沈黙に満ちた街のどこかで、溢れた記憶の蝙蝠たちはまだ、ひっそりと暮らしていることだろう。
もう、彼らの手を借りることはできないだろうけれど。
(……ほんとうに溢すのは、さいごの日に)
やがて必ず訪れる宿命。今日という日も懐かしく思い出されることだろう、さよならの日に。
(いつか、わたくしがあなたのもとを去ってなお。わたくしが、そのさきの未来を歩んでいくあなたの重しになっては、いけないのですから)
あなたをふたたび雁字搦めにしてしまう、あなたがふたたび被る灰となってはならない。願わくば、灰でなく炭に、あなたのひろい背中を押す力に――ぶきっちょなあなたは見せないけれど、あなたが胸に秘める熱量を、わたくしは知っているから。
「どうか、どうか。わたくしがあなたと歩んだ日々が、あなたの後悔になりませんよう。わたくしには見られない世界へあなたを導く、狼煙となりますように――」
囁き、そっと手を組んで、リリヤは目を閉じる。祈りが、きっと通じることを願って。
そうしてひとつ頷けば、ぱたぱたと小走りにユーゴの後を追う。もう一度彼の手を取って、相変わらずそっぽを向いている彼の手を握って、ふたりは並んで歩いてゆく。
繋いだ手はきっと、ずっと、あたたかい。
さよならの、さいごの日まで。
「ユーゴさま、ユーゴさま」
「どうした」
「きっと、幸せをみつけましょう。いつまでも幸せな、幸せを」
「ああ、そうだな。そいつを、もう手放してはやるものか」
成功
🔵🔵🔵🔵🔴🔴
華折・黒羽
★
赤に染まる世界の中
捉えたのは羽搏きの音
唸る声を引き連れ弾かれたように四肢で地を抉る
飛び掛かった先は獅子の魔石宿す蝙蝠
複数体を巻き込み爪の餌食と
転がり落ちた石は見向きもせず
化物と成りかかったソレは衝動のまま暴れ
廃都と己の傷を増やしながら
不意に聞こえた、地を震わす咆哮
振り上げた己の前足を受け止め
地に押さえ込んだのは
戴冠する“黒の王”──黒帝
銜えられていた魔石が鋭い牙で砕かれる
瞬間
流れ込む記憶の奔流
抑えられずに流れる涙
記憶の楔に再び捉えられた化物は次第に眠りにつく
姿が戻り
怠くも起き上がらせた身体は
力無く黒帝に預けられて
…会いたい、
──朔
涙と共に零れた恋しい人の名
やはり忘れる事など、出来ないのだと─
赤い、赤い。
視界が赤い。世界が赤い。荒く波立つ心のすべてが、赤い。
一面を染める赤。この色が、化け物にはどうにも不愉快だった。
理由は知れない。ただただ、己の内側の裏側の深く深いところ、この爪も届かないところがざわざわと騒ぐような。なにかを想起させるようでいて、正体は決して掴み得ないもどかしさが、とにかく鼻持ちならないのだ。
ひと方に苛立ちを募らせたまま、化け物は夜を駆ける。己が向かうべきところは本能が教えていた。己を満たすものは、きっとこの先にあると。
獣ですらなくなってしまった化け物に、もう子供の声は聞こえない。
いつしか辺りを取り巻く木々の姿は消え、淡い光に浮かぶ石造りの景色に変わっていた。
開けた空間に踏み入れれば、四足の化け物は上体を屈めて辺りを窺う。そうすれば程なくして捉えたのは羽搏きの音、ぴくりと震えた獣の耳が伝える、有翼の獲物の到来だ。
唸りと共に、弾かれたように化け物は駆けだした。大きく爪をを振りかぶった先には魔石を宿す蝙蝠、その一匹ずつを両足に捉え、着地の勢いのまま床面に叩きつけた。魔石を残して消滅する骸には見向きもせず、再度地を抉って化け物は跳ぶ。大きく横薙ぎの爪、剥いた牙、有する武器を容赦なく振るい、次々と魔物を仕留めていく。
それはもはや狩猟ではない、衝動に身を委ねた短絡な破壊だった。蝙蝠の影が失せてなお、そうと知ってか知らずか、それでも化け物は止まらない。爪を立て、躯を打ちつけ、手あたり次第に廃都の傷を増やしていく。己の傷を、増やしていく。
本当は。
分かっている。分かって、いたんだ。
己を御せぬから、化け物なのだ。
歪な造形だから、化け物なのだ。
化け物だから、化け物だから、ああ、きっと。
こんな有り様こそがお似合いで。
分不相応な愛を求めず。幸せを希わず。
瓦礫と骸の山の上で独り果てるのが、“正しかった”んだろう――。
ごう。
突如轟いた、衝撃すら伴って激しく鼓膜を打ち据える咆哮。振り上げた前足が失速する、それを受け止め、どうと化け物を地に押さえ込んだ大躯があった。逃れようとする化け物に一切の自由を許さず、冷然と情味とが同居する瞳で睥睨する――その像の牙には、蝙蝠が溢したひとつの魔石が銜えられていた。
その威容はまさしくして王、“黒の王”と奏すべき漆黒の賢帝。赤を鎮めるような露草の彩、『縹』を享け冠を戴く、黒帝だ。
化け物と同じ姿をした人間から託された願い、それを果たすべく黒獅子はここに至る化け物の在り方を見守ってきた。そしていま、帝が下す裁定はこうだ。
がちり。
立てられた牙に、魔石が罅割れる。一拍、黒帝は化け物を見つめて、そのまま勢いよく魔石を噛み砕いた。
「――、ッ!」
黒帝は否んだ、化け物の正道を。
なれば邪道か。それが“彼”にとって苦難の道であろうと、そこを歩むこそが、真に正しいことと黒帝は見做したのだ。
「っあ、あぁ……」
多彩を帯びて心の洞に流れ込む記憶の奔流、見失っていた温もりの在処。胸を焦がすほどの熱に耐えきれず、見開いた瑠璃色の眸から涙が流れる。
記憶の楔により再び眠りについた本能。そこにいるのはただひとりの少年、華折・黒羽(掬折・f10471)だ。もはや化け物の姿はないと知り、身を退かした黒獅子は黒羽の傍らに落ち着いた。
ぐったりと体を横たえたまま、黒羽の目は、耳は、蘇ったあの日々の輪郭を捉えていた。懐かしいものを懐かしいと思える、そこにどれほどの痛みが伴おうと、その想いの温度は息が詰まるほど心地よくて。自分には過ぎたものだと今なお感じてしまうのに、どうしようもなく愛おしいのだ。
――くろ。
自分をそう呼んでほほ笑む、あの子がこんなにも、恋しいのだ。
(……ああ、)
ああ。
会いたい。
「――朔」
ぽつり。傷だらけの頬を伝う涙と共に溢れたのは、あの子の名前。
黒羽は震える己の体を抱いた。否――ここにはいない、どこにもいないあの子を、記憶を、抱きしめた。
このかいなを、この身を刺すほどに愛おしいあなたよ。ほむらの茨の向こうで柔らかく笑う、あなたよ。
(俺が……俺が、“くろ”であるかぎり)
華折黒羽であるかぎり。
(俺はいつまでも、灼かれ続けるのだろう)
未だ褪せないあの日の記憶は、その切っ先の鋭さも損なわれず、いつまでもこの胸に深く突き刺さったままだ。
忘却は残酷で、そしてやさしい。過去へ過去へと流れる川面に辛苦を浮かべて、その遠のき朧になることをひとは傷の癒しとする。そのやさしさに頼らぬならば、ずっと痛みを受け続けるということで。
けれど、その血塗れた刃の面にあなたの顔が映るなら――それすらも、愛おしく思ってしまうのだ。
「……本当は分かってたんだ、黒帝」
付き合わせて悪かった、そう囁いて黒獅子を撫でる。とめどなく眦から溢れ落ちる熱い雫を相棒はそっと舐めとって、こちらの頬に寄せられた柔らかな鬣に、黒羽は顔をうずめた。
「どんなに苦しくたって、やっぱり、俺は――」
朔。
あなたを忘れることなど、できないのだと。
目を閉じる。
瞼の裏、村を呑む炎を背に、陽炎のようなあの子が笑う。
差し伸べられるてのひら。
誘われるように、この獣の腕を伸ばして。
そして。
指先同士が、触れあった。
――くろ、くろ。
だいじょうぶ。
あなたは、ちゃんと強いもの。
成功
🔵🔵🔴
アオイ・フジミヤ
本当はずっと愛することが怖かった
私の知っている“愛おしい”は
海の底へ沈んで息ができなくなるのと同じような重く苦しいものだった
決して自分のものにはならない誰かを想い続けていた過去のこと
もしも――を失ってしまったらきっともう息ができないだろう
…なんでこんなことを思い出してるんだろう
あれは何?
あの石は私のもの
怖い、けれど取り戻したいと心の空白が願う
UC
氷属性を纏わせた霧で包んで眠るように命を絶つ
月の星座が刻まれた瞳の色、空の色の石
この色が愛しい
取り戻した想いはどんな時も強く手を引いてくれるあなたの色
向き合う怖さを吹き飛ばしてくれる笑顔と言葉
大丈夫
今、私が抱える“愛おしい”はこんなにも暖かいから
本当はずっと、愛することが怖かった。
数多の物語に描かれる騎士とお姫様の恋。瑞々しくやさしい想いの軌跡は、アオイ・フジミヤ(青碧海の欠片・f04633)の知る“愛おしむ”こととは全くの別物だった。
本質的には、物語の彼らとアオイとが抱く感情は同じものであるはずだ。それでもアオイにとっての愛とは、気泡のように儚くも軽やかに舞いあがる透明ではない、錆に塗れて底知れぬ海溝に沈みゆく錨のようなものだった。
息も詰まるほどに重く、くるしい。――その息苦しさの名前が愛であると知っているからこそ、尚更に。
思い返されるのは、遠い故郷の過ぎ去った日々。決して自分のものにはならないと分かっていた、それでも長く離れられずにいたあなた。翡翠いろの目をした、ほろ苦い片恋の記憶だ。
もしも。また新しい恋をすることがあったなら、それが自分を変えてくれるかもしれないと。
いつかそう照れくさそうに夢を紡いでいた、伏せがちなアオイの眸にはしかし、踏み出すことへの恐れも少なからず滲んでいただろう。
アオイは、変われたのだろうか。アオイは、踏み出せたのだろうか。
その答えを、いまのアオイは知らない。
知らない、けれど。
(もしも――を失ってしまったら、きっともう息ができないだろう)
廃都に続く遺構を下りながら、その確信だけはアオイの胸に残されていた。
輪郭も朧な記憶に、宙ぶらりんの想い。自覚すれば、知れぬその情の由来にアオイは首を傾げる。
(私は……なんでこんなことを思い出してるんだろう)
焦燥。乾き。表すならそんな言葉が相応しいだろうか。胸にぽっかりと穴が空いてしまったような虚しさと共に、言いようのない落ち着かなさがアオイを苛む。早くこの先へ行かなければと、心を縛るような願いがアオイの歩を焦らせる。
「わ、っと!」
うっかり瓦礫に躓きかけて、アオイは辛うじて踏みとどまった。肩のマリモが宥めるようにぽすんぽすんと跳ねる。
「うん。気をつけるね、マリモくん」
指先で擽ってやった、気もちよさそうな隣人を目してふと思い当たった。ひょっとしたら無口な彼は、何かを知っているかもしれない……けれど。
(たぶん、だけど)
アオイは、ふたたび前を見据えて歩き出す。
私は。私自身の意志で向き合わなくちゃ、いけないんだ。
通路を抜けて、辿りついたのは廃都の街並みを一望する開けた空間。
嘗て興隆を誇っただろう文明は、もはや触れる人もなく埃の層に沈んでいる。廃墟という空間が持つ独特の切ないうつくしさに、アオイは暫し目を奪われていた。
(私が長く海以外の景色を知らなかったように、この街に住んでいた人たちは、この地下と森以外の景色を知らなかったんだろうな)
世界は、ひとりの足で廻るにはあまりに広い。多くの人は、生まれ育った故郷以外の世界を知らずに、その旅路に幕を引いてゆくものだろう。
だからこそ、アオイは自分が幸運だと思う。海を、山を、空を、街を、人を、故郷にいては一生知ることのなかっただろう、様々なものと出会えたから。
――と、巡り逢えたから。
「……っ、あれは」
ふと過った誰かの面影は、無数の影の襲来によって立ち消えた。
崩れた街並みを抜けて此方へ飛来する、その影たちの正体は蝙蝠だ。中枢に据えた魔石を朧な街明かりに煌かせ、直線にアオイを目指している。
目して、アオイは理解した。彼らの擁く魔石は、自分に還るべきものだと。
(なんで、だろう。分からないし、……怖い、けれど)
取り戻したいと、この心の洞が叫んでいる。
ならば、為すことはひとつ。蝙蝠の群れへと真っ直ぐに腕を伸ばす。広げた掌は、受けとる意志のかたちだ。
じっと相手を見据えて、アオイはそのままの姿勢を維持する。迫りくる蝙蝠――肉薄、あわやアオイに喰らいつかんという距離で、アオイはついに動いた。
「私の“海”――」
あなたの揺籠で、彼らを遊ばせて。
繰った指先に添うように、虹の霧が湧きたつ。細氷を纏う霧はふわりとアオイの眼前に広がって幕し、飛び入った蝙蝠たちを捕らえた。霧の檻は静かに零度を極め、微睡むような死に魔物を誘う。
ぽろり、こつり。躯を失った魔石たちが霧から溢れる。やがて霧も薄れ散る、眠った魔石の最後のひとつが、アオイのてのひらにおちた。
氷の属性にひんやりと冷えきった魔石は、まさしく氷のように、そして晴れた空のように澄み切った色彩だった。アオイはそっとめを細める。それはどうしようもなく愛しい色――大切な誰かの、瞳の色。
アオイはその表面に刻まれた《新月座》を知っている。そして、自分がなにをすべきかも知っていた。
胸元にこいしを擁く。アオイの手のぬくもりに、やわりと溶けるように魔石は崩れる。
同時に。
胸に湧きあがるのは、“あなた”の色。
どんな時も強く手を引いてくれる。この手を離さずにいてくれる。
竦む足を。向き合う怖さを吹き飛ばしてくれる、やさしい笑顔と言葉たち。
「――」
唇で呼んだのは、取り戻したあなたの名前。
こころにこいしが満ちていく。穏やかな波に揺られるような心地に、アオイはそっと目を閉じた。
(大丈夫)
いまの私はこんなにも暖かな“愛おしい”を知っている。
あなたが、教えてくれたから。
アオイはなみだ。
満月の砂浜をそっと撫でる、波だ。
その砂浜に黒い影が佇んでいて。
アオイが揺蕩う海を、見つめている。
彼に寄せて、引いて。寄せて、引いて。
伸べた指先、波の裾が、彼の靴に触れた。
そうして。
彼はアオイを見おろして、いつもの顔で笑うのだ。
『――おかえり』
あおいはなみだ。
抜けるような海の色彩から、やわらかい潮が一筋、溢れおちた。
「ただいま。……おかえり」
私のmahina、愛おしいひと。
成功
🔵🔵🔴
ショコラッタ・ハロー
滅び去った魔法都市か
探せば幾らでもお宝にありつけそうだが、そいつは後回しだ
最初は道化師の慧眼で数減らしに専念
魔力幻影を使われたら、即座にダガーの嵐を起こして効果を潰す
一匹ずつ倒すのではなく、できるだけ多くの敵を弱体化させていこう
粗方敵を弱らせたら、各個撃破を狙う
舞踏家の嬉戯で宙を蹴り、逃すことなく確実に始末してやる
魔力音波は距離を取ることで防げるようなら、間合いを取ることで被害を抑える
賊の記憶も猟兵の務めも覚えている
じゃあ、おれが忘れたものはなんだったんだろう
……まあいい
帰ったら廃都土産の宝を渡すついでに、余興でキコの前でこいしを砕いてみせよう
別に、一人で砕くのが怖いわけじゃあねえよ
きっとな
かつん、かつん。
刃仕込みのヒールを鳴らし、少女は遺構を下る、下る。しげしげと巡らされる灰の眼には遺跡も見慣れたものだろうか、値打ちものと共に探る罠の気配は、さしあたって皆無のようだ。
「滅び去った魔法都市、か」
ほどなく長い通路を抜け、眼下に広がったのは古の街並み。呟いたショコラッタ・ハロー(盗賊姫・f02208)の艶やかな髪が揺れる、その眩さは褪せた廃都の景色とはいっそ不似合いなほどで。
(話を聞く限り、人が好き好んで踏み入る場所とも思えねえ。探せば幾らでもお宝にありつけそうだが)
盗賊というよりは盗掘家らしい目算ながら、裏の世界に生きていれば似たような日陰稼業のいろはもそれとなく知れるものだ。街の構造やその背景を知れれば、とりわけお宝が眠っていそうな施設の在処にも見当がつく……とはいえ。
翻る『ヴェルテブラール』、懐から取りだしたのは対の白銀。姫御前が握るのは手鏡でも扇子でもない、怜悧に輝く短剣だ。
「お楽しみは後回し、まずは仕事を片付けてからだな」
ふんと鼻を鳴らして片手に一刀ずつを構える、その目が見据えた先には無数の蝙蝠の影があった。
(不安はない。恐れも、ない)
戦闘を目前にした、ほんの僅かな緊張と高揚。この心地はなにも変わらない、まったくいつもどおりだと、その自覚はある。
だからこそ、不思議だ。
「おれは、お前に何を託したんだっけな」
握りしめた『アンタルジーク』は、いらえに代わり手に馴染む。ふっと息を吐いて思考を切り替え、半生を共に過ごした相棒たちを振り抜いて、ショコラッタは地を蹴った。
(右から二、下の通路から四、あの建物の影にさっき三匹見えて――まだまだ飛んで来やがる、ずいぶんと多いな)
半ば崩れ雑然とした眼下の廃墟と違い、ショコラッタが居るバルコニーめいた空間は開けており遮蔽物もない。大物を振り回して戦うには向いているだろうが、多対一、ましてショコラッタの本領とも言える盗賊らしい戦い方にはやや不向きだ。ならばまずは数を減らして有利に持ち込むべきだと、駆けながら冷静に戦場を見極めるショコラッタの判断は早い。
短剣を握る両手を振るえば、瞬きのうちに同じ姿の短剣たちがすべての指に挟まれている。手品じみた芸当から疾走の勢いに乗せて投じる刃、複製、投擲、繰り返し――【道化師の慧眼】、降り注ぐ無数の刃は直線の軌道を半ばで変じ、そのひと振りずつが確実に蝙蝠たちに喰らいつく。ぽろぽろと降る魔石の雨の輝きを映して、ショコラッタの眸もたのしげにきらめいた。
「――、っと!」
一撃で下せる相手とはいえなにぶん数が多いのだ、刃を逃れた蝙蝠たちもただ翼を打つばかりではない。魔物は一斉に震えたかと思えば、ぽんと煙を立てて自身の複製を生み出した。近接した一羽を切り伏せながら、撃ち落とした分を補わんばかりの増殖にショコラッタは顔を顰める。
「蝙蝠相手に叫んじまうような良い育ちをしてなくてよかったぜ。おらっ、そっちがそのつもりならまとめて絡めとってやる!」
手を翳せば、念力の制御を失い廃墟へと落下しつつあった短剣たちがぴたりと制止する。反転、列をなした刃たちはごうと風を切って螺旋を描き、鋭利の嵐で複製もろとも蝙蝠たちを呑みこんだ。短剣の消失とともに渦が晴れればそこに蝙蝠の姿はなく、多数の物言わぬ魔石たちが零れるばかり。
見れば辛く嵐を逃れた一羽も余波に体勢を崩している、その隙をショコラッタは見逃さない。苦し紛れとばかり放たれた魔力の音波をひらり前転で躱し、とんと揃えて突いた足を発条に宙空に跳ぶ。かろやかなステップは【舞踏家の嬉戯】、虚空を蹴り最後の蝙蝠に肉薄する。
瞬間。
その一羽の懐く魔石、華やかな薄桃色に刻まれたものを目し、ショコラッタは双眸を細めた。
「――そいつはおれのものだ、返してもらうぞ」
十字を描く短剣の閃。翼を断たれ、ただの小石に変じたそれを掴み取る。跳躍と重力の拮抗――廃都の空ならざる空に静止する束の間、ふわりとまるく広がった少女と金糸は月のようで。
つうと、あおい指先が魔石の面を撫でた。
月のひかりにきらめいたのは、思い出ふかき《ダガー座》だ。
忘却の霧の性質上、陽が昇るまでには森を出ねばならない。
蝙蝠たちの魔石、加えて付近で目についた品物を幾つかばかり回収し終え、ショコラッタは溜息をついた。
「もうちょいと探索したかったんだが……腰を据えて漁ってやろうと思えば、一日じゃ済まなそうだしな」
肝心の廃都に繋がる昇降機も扱いが分からず、腹いせに蹴たぐってやったらぷすんと煙を吐いて黙り込んでしまった。担いだ麻袋が石と金物が擦れる硬い音を溢す、少々物足りない膨らみは今宵の戦利品だ。
「仕方ねえ、またの機会だ。あいつへの手土産も出来たし、ま、最低限の成果はあっただろう」
思い浮かべるのは、森の外で待っているグリモア猟兵だ。土産なんて考えてもいなかっただろうから、目をまんまるにするあいつの顔が目に浮かぶ。
「……おれのこいしも、あいつの前で砕くかな」
麻袋ではなく、ひとつだけ懐にしまっていたのは自分だけの魔石だ。なんとはなしに砕けぬままでいた、取りだしたそのひとかけらを眺める。
(賊の記憶も、猟兵の務めも覚えている。結局、おれが忘れたものが何だったかは、こいつを砕く瞬間まで思い出せなそうだ)
見つめたところでその中身が見えることもない。ただ魔石を染める白桃のいろは、言うなれば気品に満ちていて――とても自分の在り方とは似つかわしくないという印象だ。もっとも、魔石の外観と中身とに関わりがあるかまでは、あのこどもは語っていなかったけれど。
「……別に、一人で砕くのが怖いわけじゃあねえよ」
きっと、な。
拗ねたような物言いはあいつに、というよりも、自分自身への言い訳じみていたかもしれない。
唇を尖らせて、魔石と睨めっこをひとしきり。そうしてショコラッタは小さく笑うと、廃都に背を向けて歩き出した。
廃都の外、森の外へ。
重なる歩みに編まれゆく――やがてあける、明日へ。
成功
🔵🔵🔴
クロア・アフターグロウ
★
宙を舞う蝙蝠たちを無言で見つめ
手に持ったナイフで一息に狩る
星座のこいしを拾い上げ、思案
嘗ての勇者も石を砕かずに、敢えて記憶を捨て去ったという
わたしにとって、なにか忘れて困るような記憶などあったろうか
あんなに忘れては困ると思って焦っていた記憶でさえ、いざ忘れてしまえば何事もなかったかのように平然としている
最初からどうでも良かった事なのでは? とも
そう思うけど
……
そのまま忘れ去る勇気もない
溜息を漏らして、石を砕く
……っ!
脳にフラッシュバックする、最近の出来事
少しずつ出来始めた友人の話
楽しい、と思える他愛のないお喋り
ああ、ああ
自分でも気付きはしなかった
わたしはもう、こんなにも――
自分が他人に誇れることなんてそう多くないと、クロア・アフターグロウ(ネクローシス・f08673)はそう思う。
暗く息の詰まる日陰に暮らす自分と、あたりまえのように陽の下で笑いあう他の人たち。何がクロアと彼らとを隔てたのかは知れないけれど、考えるだけ無駄だということは知っている。だから、そもそも他人と張りあおうとすることは稀で――それでも強いてひとつ“武器”たり得るものを挙げるとすれば、それはきっと、疑うことだ。
この人生を歩んで、ずっと疑い続けてきた。人を、世界を、自分自身を。飛来する蝙蝠を見つめて、クロアはいまだって疑っている。このおこないに意味があるのかと、何度も何度も、疑っている。
渦巻く思考は、しかしクロアの手を鈍らせることはない。間合いの彼我に近接するまで蝙蝠たちを引き付けたクロアは徐に屈めた腰を捻り、ひらり舞うようにして二転三転、立て続けの閃を放った。至近に迫っていた蝙蝠の悉くがその翼を奪われ、絶命とともに霧散する。ころりころりと魔石が落ちるさまを、クロアは無言で見つめていた。
蹲みこみ、しばらくそのひとつひとつを確かめて、やがて見つけたのは底なしに黒いひとかけらの魔石。不吉の色はしかし、見つめていると不思議と落ち着くような心地がした。刻まれた《アズライール》は夜空の彼よりどこか冷え冷えと翼を広げ、拾いあげれば予想に反し、その面はほのかに温い。
伝承の勇者は、この石を砕かなかった。大切な記憶を捨て去り、自分とは違う自分になることを選んだというけれど。
「……」
いざ触れてみて自覚する。忘れてしまったと気づいた直後、あんなにも震えていた心の鼓動はもう澱に覆われたように鈍いのだ。蝙蝠たちを狩った瞬間、そしていつか亜人を討った時もそうだった、自分でも戸惑うほどの情緒のうつろ。無自覚に凪いだ内観の傍らにクロアは眇めた眼で魔石を見下す。死告鳥は笑わない、冷めたいのちを嗤うだけ。
ああ。
世界が、水槽の硝子越しに見たように遠い。――水槽に入っているのは、むしろ此方かもしれないけれど。
(……こんなにも、心が動かないなら)
結局わたしには大切な記憶なんてなかったんじゃないかって。
(忘れた記憶も、最初からどうでも良かった事なのかもしれない)
猜疑の声。本当にと、森で意地悪に問うたのと同じ声がクロアの中で囁く。わたしのこと、いかにもあり得そうな話だと、つまらなそうにせせら笑う。
ご尤もだと。そう思う、……けれど。
「……はぁ」
溜息を漏らしたのは、クロアと声のどちらだったろう。それでいてなおも、忘れ去ることを恐れる自分に呆れ果てたのは。
(――最初からわかってたけど。やっぱり、そう簡単に変われるものじゃないんだ)
勇者なんかと同じにはなれない。自分はただの、偏屈で意気地なしの獣だ。
変わりたいと、変われるかもという期待は確かにあった。それでも、それを覆い隠すほど骨に身に染みついた諦観が、恐怖が、その覚悟を鈍らせる。
伏した眸が見据えるのは、魔石を砕くという選択で。
「結局、いつも通りか」
いつも通り、これからも、わたしはこの意地悪な声と生きていく。疑うというわたしの武器で、自分自身を傷つけながら生きていく。
この武器をきちんと扱えないことには、きっといつまでも変われないのだろう。……そんな日が来るもんかと、さっそく疑っているこのままじゃ、わたしは死ぬまでこのままだ。
(いいんだ、もう)
どうせ。
どうせ。
(わたしは――)
項垂れて石を砕き割った手は、投げやりに弱々しい。
「……っ!」
――ぶわ、と。
一面を黒い羽根が吹き抜けたのは幻視だろうか。金に縁どられた黒鳥が此方へ翔け抜けたのは、錯覚だろうか。
目を見開く、気づけばクロアの周囲の景色は一変していた。
風を切って見おろすのは地上の街並み。あげかけた声は詰まり、唇の代わりに硬い嘴の感覚を知る。視界の端で力強く風を打つのは黒い翼。
(鳥の、視界――!)
そう理解した瞬間。黒鳥のクロアは下方の街へ大きく角度を変え、同時、視界がまたも転じる。
ひとたび切り替わって、威容の樹と探求者。
ふたたび切り替わって、たかい塔と長耳の竜。
みたび切り替われば、病室の閉塞を忘れさせる賑やかな面々。
代わるがわる映し出されたのは記憶にも新しい景色と、そこで誰かと語らう自分自身のすがただ。爽やかな風のように吹き抜けてゆく他愛もない日常のかたちに、しかしクロアは目が離せずにいた。
――アズライールは死を運ぶ。しかしそれはきっと死病の類とは違う、正しく全うされた果てに引かれるべき幕のかたちだ。
その随に功罪を量るというならば、それを陳べる術を持つのもまた彼だろう。そして彼が羽搏いたとき、運ぶべき死がもうすこし遠いものだと知ったなら、喩えば――。
は、と。
我に返れば、クロアは覚えのある廃都の景色の中、脱力して座り込んでいた。緩慢に見廻す、そこには広々とした街の広がりも、胸がぽっとする顔ぶれも、心地よく獣の耳に触れる声もなにひとつ、影も形もなくて。
ただ――あった。たからかに打つ、この胸の内に。
「あ、……」
震える手で胸を抑える。
自分では気づきもしなかった。誰よりも知るべきは自分自身だというのに、ずっとずっと、見過ごしていた。
「ぁあ、っ、……ああっ」
喉を衝いて溢れようとする激情の熱量を、感触を、御し方を、クロアは知らなかった。あたりまえに生きていればあたりまえに享けていただろう“それ”に、いま、生まれてはじめて触れた。
痞えつかえ、言葉にならない言葉を幾つか吐き出して、やがて不器用な嗚咽に変わる。
涙。
伝う頬が熱い。胸が、胸の、奥の奥がかあっと、熱い。灼けるような温度はまったく不慣れで、息が詰まるほどに――恋しい。
「ああ、」
ああ。
「わたし、はっ」
わたしは、もう。
この手には溢れてしまいそうなほどに。
ずっと探していたものの、かけらたちを。
こんなにも――。
廃都に少女の嗚咽が響く。
握りしめたてのひらの、その甲からぽうと浮かびあがったグリモアの一羽が、そっと身を寄せて主を見守っていた。
成功
🔵🔵🔴
鵜飼・章
★
此処はどこ
あれは…何
あの怪物が敵らしい事は
どうしてか解るのに僕は倒し方を知らない
震えて逃げるだけの僕を嘲笑うように
鴉達は怪物の群れを喰らって消えた
…鴉
拾い上げた石に刻まれた鳥の名
そうだ、ひとつだけ知ってる…
この石を砕けば記憶が戻る事
『普通』の僕は思う
きっとそれは思わず投げ出したいような
辛くて苦しいだけの人生の記録だ
僕はこのまま生きた方が、たぶん…
でも砕く
気になるから
幼稚な好奇心のままに砕いた石は
さらさらと指の隙間から零れ落ちて
色褪せた日々はその時確かに
今日の星空みたくきらきら光ってたんだ
思わず砕いた他人の石は僕に何もくれない
だよね
…はあ…
思ったよりすごく速かったな
僕は僕として生きるしかないか
鴉の水先案内は、そのまま僕を三途の川まで渡しはしないか。
そんな不吉な想像を巡らせつつも、ほかに縋るもののない男には先行く鴉の後を追う以外の選択肢はなくて。気づけば正体不明の遺跡にまで足を踏み入れていた、その頃には思考を捨て去るほうがよほど楽だと思い始めていたけれど。
それでも男は考えることを止めることはできなかった。なにひとつ掴めない状況に放り出され、その身は先の見通せない恐怖にいまもなお震えているというのに、脳だけはかくも明瞭に働いているのだ。なんの因果か、男にはいっそ呪いじみて思われる――常からよほど理屈を捏ねるような人物でもなければ、こんな状況で、こうも頭は回らないだろうに。
(此処はどこ)
私はだれ。幾度と知れず繰り返した問い。廃墟の長い通路を抜ければ、新たにもうひとつの疑問が芽生える。
「あれは……何?」
見通せぬほどの距離を広がる、地下に秘された半壊の街。その上空に忙しく舞い、待っていたとばかりこなたへ飛来する、蝙蝠に似た無数の怪物の姿。
やはり鴉なんかに着いてきたのは間違いだったのだろうか。目を見開いて立ち竦む、ただ言葉を失うばかりの男に構わず彼我の距離は徐々に縮まっていく。
「……あれは、敵、だ」
そうだとは解るのに、ではどうしたらが解らない。二、三歩を後退ったところで膝が笑い、男は尻餅をついた。がちがちと鳴る歯は耳にうるさくて、逸る動悸は耳にうるさくて――為す術もない絶望感に襲われながらも、震える身体が奏でる音は男にどこか新鮮に響いていて。
咄嗟にまさぐったポケットには使途不明の円盤とトランプ、別のポケットにはオカリナときた。あの深い森に分け入る装備としてはばかに気楽な取り揃えに、自分は自殺志願者かなにかだったのかとも思えてしまう。
(だ、め――!)
万事休す。迫る蝙蝠が牙を剥き、男は咄嗟に目を瞑る。その寸前、瞼の合間に振り向いて、男を導いた鴉が笑った気がした。
直後。
ごうと、激しい風が吹きつける。すこし遅れて響き渡るのは、があがあとけたたましい騒音だ。
身を竦ませながらも思わず薄目を開いて、そして男は見た。
翻弄されるばかりの男を嘲笑うように、怪物を激しく喰い荒らす無数の鴉の群れを。
悪魔じみた饗宴は、始まった時と同じように唐突に終わった。そうと気づくまで、放心していた男にはすこしばかりの時間を要したけれど。
先ほどの光景が嘘のような静寂。眼前には怪物も、鴉の姿もひとつとしてなく、ただ色とりどりの石が床に転がっていた。
よろよろと立ち上がり、男は石の元へと近づいていく。
その無数を見回して――ふと、鮮やかに赤いひとつに目が留まる。拾いあげて、薄らと被った土埃を拭った。
(……鴉。《鴉座》)
ふと蘇るのはあざやかな星空の広がり。石の表面に刻まれた鳥のかたちを、男は知っていた。知っていたのだ、その石を砕けば失った記憶が戻るということを。
そうか、と。どこか合点する心地がある他方で、男は躊躇する。
(僕、は。思い出すべきなのかな)
『普通』の男は思う。
(恐ろしい森、不気味な鴉、あり得ない怪物。こんな非日常に隠してまで、忘れようとした記憶だ)
きっとそれは思わず投げ出したいような、辛くて苦しいだけの人生の記録だ。
きっとそれは荒唐無稽な出来事にまみれた、安寧とはほど遠い日々のありかだ。
(『普通』であることを望むなら)
僕はこのまま生きた方が、たぶん……。
「……」
…………。
でも。
だって。
気になるじゃないか。知りたいと思ってしまう。
人間は知識の亡者だ。好奇心には抗えない。
そして僕は……人間なんだから。
「――、」
幼稚な欲求に身を任せることは、これまで何回も繰り返してきたことのように親しみがあって、心地よかった。
石を砕いて。
石は罅割れたところから自壊して、指の隙間から溢れ落ちていって。
「――っ!!」
そして僕は――鵜飼・章(シュレディンガーの鵺・f03255)は、確かに見たんだ。
脳裏に目眩く蘇るシグナルの幾何。心であり、記憶である、僕が知識と呼んでいたところのそれらはその瞬間、この目に果てしなくあざやかで。
長い永いながい、ほんの僅かなあいだ。知識という無機に鎖された現実に還るまで、僕はまるで万華鏡の中にゆっくり沈んでいくように、残酷なまでにうつくしい世界の奔流にただただ目を奪われてたんだ。
僕のことだ。いつの日か思い出す今日もまた、なんてことない灰色に沈んでいるんだろう。
それでも、僕は覚えていたいと思った。
色褪せた日々はその時本当に、あの星空みたくきらきら光ってたんだ――。
ぱりん。
さらさら。
以上。おわり。
「……だよね」
砕いた石は六個目だった。もう一度同じ光景を見られたらと思ったけど、他人の石は僕に何の印象もくれはしない。まあ、わかってはいた。わかってはいたけど、思わず溜息が出てしまう僕はいますごく人間らしい。
ふと視界の隅で動くものがあって、僕はそちらに目をやった。見れば“仕込み”とは別、こちらはこちらでずっと伴ってきていたらしい『鵜象無象』達が石をつついて遊んでいる。なるほど、確かに鴉が好きそうな光り物ではあるけど。
「遊んじゃだめだよ、それだって誰かの記憶だったんだから」
不謹慎な子達だ。手に残った誰かの石の屑を払いながら、僕は立ち上がる。そうすれば帰宅の時間と察したのだろう、鴉達が僕の元に集まって、そのうち一羽が羽搏いて肩にとまった。僕がいつもの僕と知ってだろうか、なんだか若干気安いというか……距離感が近い。
『普通』だったら、こんなふうに鴉に群がられてもびっくりするんだろうな。かといって、いまさらいきなり腕を振って騒ぎ出すのも『普通』ではないだろう。別に誰かに見られてるわけじゃないけど、だからこそ妥協しないのが僕の拘りだ。
と、いう気分なだけだけど、まあとにかく、やっぱり人間って難しい。
難しくて。そんなだから、僕は。
「僕として生きるしか、ないか」
……僕なりの決意表明として口に出してはみたものの、言葉に若干未練が漂ってしまうのは許してほしい。
だって、ほら。
過去に背を向けながら、過去に後ろ髪を引かれるのもまた、人間らしさというものだろう。
そうして僕達は廃都を後にする。
長いようでいて、振り返れば瞬く間に過ぎ去っていた蝶の夢。
記憶とは不定で曖昧だ。そんな体感と印象の不一致なんてありふれていて。
僕を構成する知識たちもまた、どこかでねじ曲がっているのかもしれないけれど。
この日だけは確かに、僕が僕でなくなった――僕にも、世界の色が思い出せた。
僕にはその知識がある。これは、そんな一夜のお話だ。
……あっ、この子石咥えてきてる。
「おいていきなさい」
かあ。
成功
🔵🔵🔴
イトゥカ・レスカン
★
今はもう誰も居ない、面影ばかりの廃墟
人が暮らした痕跡はどうしようもなく寂寥を孕んで見えて
誘われる様にひらり訪れた煌めき
ああ、そのこいしですね
刻んだ星座と同じそれを見つければ指先でなぞり
花よ、取り返して
分からないのは、抜け落ちているのは、やはり私には恐ろしいのです
花弁の群れに押し流し手元まで引き寄せたなら
そのこいしを砕くのに躊躇いはなく
瞬間、蘇る鮮やかな夕暮れ
赤々と燃ゆる地平、白んだ色から滲む青
そう。そうでしたね。ずっと傍にあったこの色と、同じ――
ほろと溢れた雫
悲しい、とは違う。安堵? それとも……
空白を埋める取り戻した記憶
もし、全てこんな風に取り戻せたのなら
私はどんな顔をするのでしょうか
抜け殻。
その街の姿を目し、イトゥカ・レスカン(ブルーモーメント・f13024)の胸中に浮かぶのはそんな言葉だ。
嘗ては賑わっていただろう通りに人の影はなく。
恋人たちが睦まじく語り合っただろう広場は無残に抉れ。
数々のとうとい平寧を擁いただろう家々は、そのあかしを瓦礫に埋める。
「人のない、都。あるべきものが欠けた姿とは、こんなにも――」
寂しい、と。紡ぐ葉を噤み、イトゥカは眦を絞る。見おろす街並み、手を預けた欄干に積もる埃の乾いた感触が、ひときわに哀愁を引き立てるようだ。
(まるで同じです、)
かたい指の腹で埃を擦る、ちりちりと囁いて落ちる芥はあわい灯を浴びてきらきらとひかる。伏せられたイトゥカの双眸は、その幕のさきの遠く遠くを見ていた。
(私と)
私が。
私である意味を失って。
なおもただ、漠として在り続ける姿。
遠き日の形骸ばかりが、傍の目につかぬところでしんしんと褪せてゆく。
そんな、抜け殻。
「――」
はたと、睫毛が羽搏いた。
馳せるの海から唐突に意識が引き揚げられる、塵の彼方にイトゥカが目したのはひらりこなたへ訪れる煌めき。多彩の石を核とする蝙蝠たちの群れだ。
グリモア猟兵はあの石のいずれかに記憶が封じられていると語った。そしてそれを証するのが、夜空に描いた星の座だとも。ならばとさした指で描く宝石のかたち、“私”を知りたいという願いを託した星の印象に、蝙蝠たちの像を照らしたなら。
「……ああ、そのこいしですね」
イトゥカの琥珀は、ひとつこいしに輝く《こいし座》を見出す。
鮮烈な朱にふかい青、対極をなすかのような色彩が交じりあう。見つめればさわと僅かに胸が騒ぐ心地がする、その理由を掴もうとするかのように、ゆるりと差し伸べた手。
「花よ」
――取り返して。
囁けばひとひら、ふたひらと、イトゥカの躰に刻まれた疵から花弁がこぼれる。喩うなら醇醸のウィスキー、滴って透きとおる金褐色の数多がふわりと舞って、やがて連なり彼方へすさぶ。随にちらりと交る紫紺のいろは、誰かに近しい青琥珀。
象るのはブルーエルフィン。咲み誇るのは、【青の散花】。
(分からないのは、抜け落ちているのは、やはり私には恐ろしいのです)
二彩の渦に呑まれる蝙蝠たちを見つめながら、イトゥカは細波むおのれの内奥を見つめていた。
(だから、私には諦めようもないのでしょう。今日も、明日も……いつか思い出せる時を、ずっと)
青蝶花の幕が引く。ただひとつを除く魔石たちが溢れ落ち、光の尾を引いて廃都に吸い込まれていく。そうしてふわりイトゥカの元へ運び、きらめく花弁の袱紗に呈される、そっと載せられたこいしの小ぶりは天使の分け前。
受けとり。
砕く。
イトゥカのまなざしに、迷いはなかった。
瞬間に。
蘇る、目の前に広がる、鮮やかな夕暮れ。
見果てぬほどにひろき大地の果て、今日というひを名残り赤々と燃ゆる地平。少し視線を上向けたなら陽の面影する柔い白皙に、穏やかな夜を告げてそっと下ろされる青の帳。
幻想めいた溶暗の調和。記憶に違わず、記憶の中にうつくしい――このうつろを染めあげる、いつかのブルーモーメント。
ああ。そうだ。
「そう。そう……でしたね」
指のさきに梳くのは、夕暮れ映すブルーアンバー。
「ずっと傍にあったこの色と、同じ――」
悲しいとは違う、安堵ともすこし似つかぬだろうか。ふるえる心は、ふるわせるものの名を見失う。
けれど。
ひと筋、頬を伝った雫。それは、紛れもなく夕陽のように澄みわたる熱情だ。
(もし……もし、全てこんな風に取り戻せたのなら)
イトゥカ・レスカンではない、もうひとつの名前をした私は。
(どんな顔を、するのでしょうか……)
その答えは、まだ知れない。
知れぬのだから、すこしだけ。
満ちた胸のいとおしさに、泣いていたっていいだろう。
――涙の筋が、乾いたころ。
ふと、イトゥカの目は柱の陰に横たわるなにかにとまった。
歩み寄って拾いあげる、華奢なイトゥカの片手にも収まるほどのそれは、綿が飛び出し糸の解れた人形だ。簡素な造りは母が子に拵えたものだろうか、見回したところでむろん、主の姿が見えるはずもなくて。
遠い日々を偲ぶような釦の目。無機の滲む情はイトゥカの心象が生みだしたものかもしれないけれど、言い得ぬ近しさを感じた宝石の指は、都を一望できるようにと彼を欄干の縁に立てかけた。手を離せばすこし傾ぐ、じっと街並みを見つめる格好になった人形が、いつか記憶にあるひとを見出せることをイトゥカは願う。
思う。
この石の躯にも、母と呼べるひとがあったのだろうか。
家族と呼べるひとが、想いを交わせるひとがあったのだろうか。
しのばれるもの。
イトゥカの嘗てを懐かしんでくれる、そんなひとがこの世のどこかにはいるのだろうか。
そうして。
過去に沈む街に別れを告げて、イトゥカは未来へ歩きだす。
(……いつかの日よ、どうか)
願わくば。記憶のすべてを取り戻した時にも、こんな。
私が愛する夕暮れのように、あたたかな心地でありますように。
あの夕暮れを愛せるままの、私であれますように――。
成功
🔵🔵🔴