【偽シナ企画】第一章リプレイ
カミル・アイゼンシュミット 2019年6月8日
しゅ、と虻須・志郎(第四の蜘蛛・f00103)の指先が宙をすべる。淡い蛍光色のような燐光のような、極細の光で作られた文字列。それらが志郎の指の動きに従い踊るように動き、あざやかに消去され、あるいは新しく空中にウィンドウがいくつも開いていく光景を、雷陣・通(ライトニングキッド・f03680)はやや手持ち無沙汰な顔で眺めていた。
「カルトの儀式かー……あんまり難しい事はよくわかんねーし頭使うの苦手だし」
「難しいかどうかはさておき、ろくでもない儀式な事には違いねェ」
スラング満載の落書きまみれなコンクリ塀。そこに腰掛けぶらぶらとスニーカーの足を遊ばせている通に、納・正純(インサイト・f01867)は小さく笑った。きまぐれで安定しない、ビル街独特の風がその暗色のコートを翻して通り過ぎる。
彼等の頭上には都心を貫いてのびる高速道路。人通りの多い界隈から少し離れているうえこの先は湾岸エリアのため、盗み聞きの心配はない。ごうごうとひっきりなしに響くトラックのエンジンや乗用車のタイヤ音が聞こえている以外には、邪魔者が入りそうな気配もなかった。
そろそろ梅雨の気配が近付いているはずだが、一日じゅう日陰になるせいで高架下は空気もひやりとしている。工事中止中、と錆だらけのフェンスがおざなりに人の出入りを禁じてはいるものの、橋脚にはカラースプレーの落書きがずらりと並んでいた。投棄され赤錆色のドラム缶、一体いつからそこにいるのか随分年代物の洗濯機も転がっている。ひどくまばらに雑草が生えた砂利の地面へ、正純は軽く何度か踵を落とした。
「これまで儀式の度に信者が複数回殺されているにも関わらず、悲鳴が聞かれたり異臭騒ぎにもなっていない――なら、地下が妥当な線だろうさ。割にやり口が杜撰なくせに噂の広がりようが鈍い」
「うむッ! それに加え自殺志願者募集サイトへの書き込み、使途不明の建築物、あるいは地下工事に関する情報なども狙い目と見たぞッ!」
ふしゅう、と蒸気の音が聞こえてきそうな熱気と勢いで四軒屋・綴(大騒動蒸煙活劇・f08164)が胸を反らす。ひっきりなしに高架から騒音がしているので、声が大きいのは正直、天之涯・夕凪(動かない振子・f06065)にとってもありがたい。
「ともあれ、人を害するに躊躇ないオブリビオンであれば、こちらも手加減不要という事」
そのほうがやりやすくて都合が良い、とでも続くような口元だけの夕凪の微笑みを横目に眺め、志郎は赤く光る文字列を掌で押しあげる。
「――とりあえずネット上の都市伝説に不審死、果ては陰謀論エトセトラ、今上がっていたワードをまとめて調べて共通項を炙りだしてみた」
リアルタイムで下から上へずらずら流れていくそれは、あっという間に地面近くから高架の天井近くまで伸び上がった。
「うええ……こんなにあんのかよ……」
「まあ、精査する前のデータだからな。怪しいカルト教団や生死にまつわる教義、正体不明の教祖といった今回の件に一枚噛んでいそうな要素で抽出して」
嫌そうに舌を出す通へ宥めるように含め、志郎は赤の文字列を指先ではじく。ピン、と金属音に似た電子音がどこからともなく聞こえ、十メートルはあっただろう高さが急速に縮まった。さらに、ゆるやかに明滅をくりかえすウィンドウが開き、都内のいくつかの地域の地図が表示される。
「ついでに警察や消防といった関係機関をハッキング、まだ表に出てない未解決事件や通報のたぐいをぶちこむと――」
少し前から表示させてあった緑色のウィンドウの端を指先で引っかけ、赤い文字列にスワイプ。都内地図以外が一度全部閉じて、青色のものが新たに立ち上がった。
「こうなる」
――見るからにどこぞの会員制サイトと思しき、なにもかも黒一色の画面。中央に短くパスワード入力のためのテキストボックスが空欄で表示されていた。
そこへ志郎が無造作に掌を当てると、ゆうらり宙に波紋が広がってページが変移する。どこかで聞いたような気がする低いピアノ曲をバックに、男のような女のような、不規則に印象が行きつ戻りつする声が流れ出した。
『……これはブラックな職場で、あるいは自分自身にはどうにもできない苦しみで、生きることに疲れ果てたあなたに送る福音です。
家族からの理解ない言葉に悩む必要などありません。私はあなたのすべてを受け入れ、すべてへの答えをあなたに示します。
苦しい、でも生きたい。それを叶えましょう。生も死も超越した境地へ一緒に行きましょう。
一人ではまだ先に歩み出せない。そんなあなたの手を引きましょう。苦しい生も、恐ろしい死も、恐れるべきものはなにもないのです。
ぜひ、共に手をとりあい再び歩き出すお手伝いをさせていただけませんか――』
メッセージの開始数秒ほどで正純が金色の眼を細め、夕凪が口元へ指先を当てる。
どこからどうみても怪しさしかない内容だが、それこそ心を病んだ人間にとってはこれが福音に聞こえる、なんて事も起こりうるのだろうか。手前勝手な主張を自信満々に福音だなんて言い出す輩が信用に足るわけない、とこの場に集った面々は思っている。正純にしては珍しくなんとも嫌そうな顔をした。
「なあ、この演説全部拝聴しなきゃならないのか」
「スキップが見当たらないのでセオリーとしては、まあ、そうでしょうね。恐らく。なかなか叙情的な文脈じゃありませんか」
「叙情的ってのはハイネとかの事を言うんじゃないのか、こっちの世界じゃ」
「そんな叙情詩の大家と比較してしまっては可哀相ですよ、せめて小学生の読書感想文くらいに」
なかなか夕凪の所見は辛辣らしい。
「……なんかよくわかんねーけど俺馬鹿にされてね? 気のせい?」
「相手が成人していると仮定するならむしろ褒められていると考えるべきでは」
通へ喉のやや奥で笑う笑い方をして、夕凪は滔々と語りをかさねる真っ黒い画面を眺めやった。あれこれ感想を述べている彼等を余所に、志郎はさらに別情報の絞り込みを急ぐ。
『……こうして私からのメッセージを聞くだけでは、信じられないと感じる方も多いでしょう。
もし直接話をしたいと思われたのであれば、私はあなたを歓迎します。
まずはメールマガジンから。そしてそこから少しずつ、あなたのお話もお聞かせ下さい。
いつでも貴方からのご連絡、お待ちしております』
そんな言葉でメッセージが締めくくられ、ピアノの残響が遠くなり、ようやく画面は黒一色から淡いグレーへ転調する。ぽつりと画面中央に、教団エンブレムと思しき抽象的な図案のアイコン。
そしてメールマガジン登録、バックナンバー、公式SNSアカウントへのリンク等々が良く言えばシンプル、悪く言えばやっつけ仕事感満載で表示された。バックナンバーはサイト入口を通った者なら誰でも読める仕様のようなので、ここからメルマガ登録までして情報を仕入れる必要はない。
「公式SNSとはこれまた妙にユーザーフレンドリー、しかも昨今流行りの鍵アカッ! 承認必須で情報漏れの心配もない、実に信頼と安定の安心安全設計ッ!」
「そこ褒めるべきとこ?」
この状況においておそらく通のツッコミは正しいが、さりとて綴の指摘がズレているわけでもない。恐らくそこに『儀式』関連の情報があるのだろう、と志郎と夕凪は推測する。
ざっくりメルマガの内容を確認するかぎり、多少わかるようなさっぱりわからないような、どうにもこうにも曖昧で胡散臭さ満点の文章が並ぶばかり。やはり心を病めばこれが大層ありがたい文章に読めてしまうのだろうか。それともなにかこれと近い周波数の電波を受信すれば解読できるのか……さすがの正純でもこれを解読しようという気分にはならない。知識欲や好奇心が疼くよりも前に、果てしなくろくでもないものかただの徒労しか待っていない、という嫌な直感しかなかった。
「……っとまあ、こんな感じだな。SNSは専用プログラムと言うか、正直しち面倒臭いやつだ。ただのお上品なコードじゃねえ」
それまで額に上げていた電脳ゴーグルを目元へおろし、ヴァンプ・シュワルグを咥えた志郎は忙しく宙空に展開する仮想コンソールを操作しはじめる。ここにきてようやく仕事モードを匂わせた志郎に、通は片眉を上げた。
「お上品? プログラムに上品とか下品とかあるのかよ」
「スパゲッティのお仲間カペリーニ、とかそういう意味じゃねえ。要するに狗(いぬ)だ。まるで躾もなっていない」
ただの自己修復や改変を繰り返すAIに留まらず、クラッキングやら無差別攻撃を仕掛けてくる。志郎の口調に不穏な気配を感じ、夕凪は眉をひそめた。
「もしかして、プログラム自体――いえ運用のほう、ですか」
「まあ、そうだろうな。この世界なら十中八九邪神が一枚噛んでいるだろうよ。ただ、さすがに仮想世界のプログラム自体がオブリビオンって事はない。どこかでセキュリティを監視しているか、それとも今直接コードを叩いているか」
顔の上半分を覆うゴーグルの下、志郎が何を見ているのかは誰にもわからない。しかしここから先が彼の仕事であるということは、誰の目にも明らかだった。
「今日の儀式関連と思われる行方不明者、かつ最後の目撃情報が集まっているのがその地図だ。先に参加者と接触できないか試してみてくれ、その間にもうすこしこのSNSを探る」
腰から下がっているバッグの一つをさぐり、志郎は掌におさまるサイズのインカムを一人一人に投げてよこす。これで連絡を取り合え、ということのようだ。
高架下に志郎を残し、夕凪と通は北池袋、正純と綴は新宿駅東側の二手に分かれる。時刻も午後の半ばを過ぎ、そろそろ学校帰りの学生などで街が賑わいはじめる時間だった。
「さて、私は勘が鋭いとは言えませんし……それらしい人を直接当たってみるほうが早いでしょうか」
「それじゃー俺は明らかにビビってそうな奴に声かけてみるかな」
怪しげな儀式かつ人目を憚る内容なら、開始時間は夜か、それに近い時間帯に違いない。うっかり奥へ踏み込みすぎるとなかなかにどぎつい文言や配色の看板が掛かる界隈でもあるので、夕凪は駅に近いエリアを通に任せ、自らはまだ人通りの少ない道路を目指す。
一般的な意味でのそれとは違っていそうな、出勤途中と思しき若い女性が二人ほどうつむき加減に道を急いでいる。
「……少し確認を。いいですか」
『なんだ』
耳元のインカムから、低い騒音と一緒に志郎の声が返ってきた。雑居ビルの角に身を隠し、途切れ途切れに通りすがる人影を注視しながら続ける。
「家族と連絡が途絶えている風俗店勤務の女性。いましたよね。大学受験に失敗してスピリチュアル系に相当傾倒してたとか言う、髪が背中くらいまでで、甘ロリ系の服装が多くて、やや小柄で」
『ああ、いるな。一人暮らしだが連絡がつかないのが』
日なたの通りへ視線を向けたまま、さらに夕凪は続ける。眼鏡ごしの瞳がせわしなく周囲を見回しているワンピースの背中をとらえた。
「勤めているのが果物っぽい名前のお店で」
『そうだな』
「わかりました。ありがとうございます」
大型トラックらしきエンジン音に紛れるようにやや笑う気配があり、通話が切れる。
通話が切れるのとほぼ同時に夕凪は脚を踏み出し、速すぎない靴音を響かせつつ、パニエでたっぷり膨れたフレアスカートが振り返るのを期待した。威圧しないように、しかし明らかに『用事がある』と理解できるように、視線は揺らさない。
「失礼、そこの白いワンピースの方」
フランス人形めいた巻き髪が、弾かれたように振り返る。化粧で隠してはいるが目元の隈は濃く、なにかに怯えたような目が夕凪を見上げてきた。
「突然呼び止めてしまい申し訳ありません。住谷・亮子さんですね。私はこういう者でして」
文筆業のほうで使っている名刺を渡して、夕凪はにこりと笑みを強めた。
「実は友人から、大変興味深い話を聞いたんです。昨今あまり論題に上がらないテーマではありますが、生と死について、貴女がとても示唆に富む見解を述べていたと」
彼女が勤務先である店で、よく客とその手の話題で盛り上がる、あるいは口論になる、相談相手めいた事をしている、というのは警察の捜査情報からかいつまんだものだ。家族との連絡を絶ち、自宅アパートは引き払っていないものの友人宅を転々としているらしき現在の状況は、端から見ても何かあった所でおかしくない状況といえる。
「……そんな。そんなに、すごいことじゃないです」
「謙遜なさる所も、謙虚で実に好ましい。友人も大変褒めておりましたよ」
当然嘘八百だ。そもそも籠絡し情報を引き出すつもりでいるので。
「不躾ながら、貴女がそれほどの知見を得たのは一体何処なのでしょう。それともどこかの有名大学で学んだか、懇意にしている教授でも? 是非私もそのお考えを一度なりとも拝聴できればと思いまして」
大学受験失敗というトラウマにあえて触れる言い方を選び、夕凪は一瞬唇を噛んだ亮子の反応を待つ。午後の色を帯びてきた陽光を避けるように、路地の暗がりへと年齢に似合わぬ幼い顔立ちが向けられた。
「大学とかじゃ、ないんです。ちょっとした集まりと言うか、同好会と言うか、自己啓発サークルと言うか……そんな感じの」
ちらちらとこちらの顔色を伺う表情が、返答に窮したと言うよりは夕凪の関心を失いたくないという気配をにじませている。その手の業界で生きていることを考慮するなら、妙に可愛らしいと言うか初心と言うか。しかし当の夕凪としては今後とも末永い付き合いを続けたい相手ではないので、あと一押し、とごく冷静に判断しやや身を乗り出すにとどめる。
「ではそこをご紹介いただく事はできませんか。もちろん――貴女が述べる見解も魅力的ですし、共に拝聴する機会があるなら嬉しいのですが」
「そういうお話でしたら、ご紹介――いえ、いえ、やっぱりだめです。実は今日は、それの関係で大事なイベントがあって」
「イベント?」
さすがに一度でビンゴを引き当てるとは思っていなかったので、夕凪は声に力を篭める。人より勘がはたらく自信はないが、追うべき獲物を逃さない点においてはそれなりの自負がある。
「もしかして、生と死の、――儀式ですか」
白いワンピースの肩が震え、怯えた目が夕凪を凝視してきた。相手の出方を探るような物言いだったことを踏まえて夕凪は素早く言葉を重ねる。
「申し訳ありません、騙すような真似をして。まさか自分以外にこんな所で、と思っていたんです。貴女が仰っていた考えがとても、よく似ていたものですから。しかしやはりすぐには信じられなくて」
「もしかして、あなたもあのサイト知っているんですか? メルマガとかも?」
「はい。やはり貴女は今日、『行かれる』んですね。なんて羨ましい――」
文字通りに羨望のまなざしで言ってのけた夕凪に、亮子はさらに目を瞠った。改めて見やるとずいぶん顔色が悪い。
「羨ましいって……儀式に参加したかったんですか?」
「ええ、それはもう。できることなら貴女と是非代わっていただきたいくらいです、お願いできませんか。一度だけでいい、近くであの御方の声を聞いて、教えを乞いたい」
駄目押しとばかりに亮子の手を取って力説すると、冷たく強張っていた指から一瞬力が抜けるのがわかった。安堵したのか頬に血色までのぼらせて。
「わかりました、そこまで仰るのなら――」
そんな夕凪の一部始終を、インカム越しに聞いていた者がいる。正純と綴だ。
昼間なのに妙に人の気配がなく空気のよどんだ路地奥、まるでそれを気にする素振りもなく正純が手を叩く。
「いやあ、お見事。まさかの一発ビンゴとは恐れ入ったぜ」
『……ある程度的を絞ったそのうえで、運が味方してくれたのでしょう。そちらは如何です』
夕凪により儀式へ参加予定だった者から儀式の概要は聞き出せたので、志郎が至急その裏付けを取っている所だった。インカムから聞こえる夕凪の声に、綴はうむりと唸る。
「参加予定の信者に接触とまでは行かなかったなッ!! が、儀式に使われた可能性が高い廃ビルを特定したところだぞッ!」
新宿駅東側と言えば、場所によっては北池袋とは違う意味で近寄りがたい空気を醸し出すところも少なくない。むしろ凶悪事件の発生率を考えるなら何をか況んや、という地域だ。
『過去使用された廃ビル、か。何か儀式の手掛かりが残っていればいいが』
「いかにもッ! 多少手荒な方法になってしまったが許してくれそこの関係者君ッ!」
『……「関係者君」?』
志郎の声のトーンが一段低くなったのも無理はない、まるでその場に情報を吐かせた信者がいるかのようであったので。
『もしかして聞き出した奴が今そこにいる、のか』
「残念ながらな。当然後始末はした、問題ない」
心配するなと短く言いおいて、正純はアスファルトの上のコートを拾いあげる。我ながらなかなか物騒な物言いだったとは思うが、件の関係者は正純の足元で完全にのびており、接触時の記憶も消去済みだ。後顧の憂いはない。
「うむッ! 得るべき情報はスマホ含めすべてハッキングにより入手済み、関係者君には申し訳ないがこれも猟兵としての責務、世界の平和のためだ恨まないでくれたまえッ!」
『なんか余計不穏な台詞に聞こえてきたの俺だけ!? そっちほんとに大丈夫!!?』
恐らく通の懸念は夕凪と志郎にも共通していただろう。
「不穏とは人聞きの悪いッ! 穏便にお帰り願うのは絶望的状況ゆえに、防具改造で変形したうえで念動力と衝撃波で可及的速やかに無力化したまでッ!! ちなみに作戦立案者は納さんだぞッ!」
「おいそこサラッと俺に責任押しつけるな。置いてくぞ」
「あー待て待て待ていやちょっと待て待ってくださいこのまま置いていくんじゃあないッ!」
コートの袖へ腕を通し、チンピラの太鼓腹の上でカタカタ騒いでいるマスク状態の綴を、正純は拾い上げてやった。
――某歓楽街の裏手、そこを見慣れぬ顔の二人組が聞き込みよろしく歩き回っていればどうしたって目立つ。街を牛耳るチンピラやその上役あたりには特に。むしろ十分織り込み済みだったので、内心期待たっぷりに絡まれるのを待っていたのは秘密だ。
「このあたりの物件で、最近使われた広めの地下室を探してるンだが――もしかしたら音漏れしにくい構造かも知れない。ちょっとしたライブハウスとか、倉庫利用とかに向きそうな。……ああそうだな、多少使用後の清掃や換気が面倒だった、とかでもいい」
そしてアンダーグラウンドの人間はよく鼻が利く。そうでなければ長生きはできない。薄汚れた雑居ビル、申し訳程度の狭い不動産管理事務所には視界がかすむほど紫煙が充満している。中に招じ入れられると面倒な事になる気しかしなかったので、入口まで出てきてもらった。
「兄ちゃん、人に質問をする時はよく考えてからものを言いな。最近使われた地下室、なんて雲を掴むような話をされても困るんだよ」
「そうかい、じゃはっきり言おうか。使途不明、どう考えても人が死んでいる量の血、これなら多少心当たりがあるだろう」
視線ひとつ揺らさず言い放った正純に何か思うところでもあったのか、チンピラが乱雑に煙草を足元へ放り踏みつける。
「ある、らしいな。面倒を起こすつもりはない、場所さえ聞かせてもらえりゃいい」
「……どこまで知ってる?」
開けっぱなしのドアに手をつきやや片脚に体重をかける姿勢で、正純はうすく笑った。
「さあ? 『どこまで』なんて雲を掴むような話をされても」
「今更とぼけても無駄だ。お前、何を探りにきた? サツじゃなさそうだが」
まともに相手をする気はないし、馬鹿正直にこのチンピラから情報を引き出すつもりもない。いっそ嘘八百を並べ立ててくれてもかまわないのだ、金属のドアにかけた正純の掌から、綴が生体電流を介して事務所のデータベースに侵入しレンタル契約内容を探っているはず。
なにぶん綴のやる事なので、時間稼ぎはそう苦にならなかった。ああ見えて歴戦の猟兵かつ電脳魔術師、そんな綴が叩き出すクロック数が蒸気機関車なみではここまで生き残れていない。
ちりり、とドアへ押し当てたままの掌へごく弱い電気信号が来る。綴の仕事が完了したことを知り、正純はあっさり両手を肩の高さへ挙げた。
「警察で済めばむしろ楽だっただろうさ。話す気がないならそれでいい、邪魔したな」
「待ちな」
言うだけ言って事務所前を離れようとすると、じゃきんと金属音がして呼び止められる。後頭部のやや後方に何かがある感覚。まあ仕方ない、と正純は短く息を吐いた。
「そこまで言っておいて無事に帰れると思ったのか? 少し付き合ってもらおう」
正純の懐におさまっているマスク状態の綴がなにやらさかんに訴えている気がしたが、こうなってしまっては仕方がない。事前の取り決め通り綴に働いてもらうだけだ。
このチンピラも件の信者ではなかろうが、『儀式』に関係した地下室を知っている人物には違いない。綴もハッキングが空振りどころか収穫の気配をさせており、ひとまず成果報告をするべきだろう。
「ところが無事に帰る気満々なんだよなァ、これが」
はーっともう一度溜息を吐いて、正純は素早く背後のチンピラを振り返った。視界を掠めるオートマチックの鉄色を、脱ぎ去った濃色のコートで払うように覆い隠す。突如ぶわりと広がった暗幕に当然チンピラは引き金を引く――否、引こうとした。
その瞬間、順序や因果が逆行するような錯覚を彼は味わったに違いない。引き金を引くたったそれだけの動作が、なぜ『投擲用ナイフに銃を弾き飛ばされたうえ衝撃波によって薙ぎ倒される』という現象に遅れをとらなければならないのか。
カッ、と小気味よい音をたてて小豆色のグリップがついたナイフが雑居ビルの外壁に突き立つ。どう考えても避けえぬ至近距離から綴による衝撃波と念動力を浴びたせいで、軽々と宙を飛んだチンピラがアスファルトの上に倒れ込んだ。回転しながら足元へ滑ってきた拳銃を正純は踏みつけて止め、セーフティを入れ直しておく。
「突然背後から撃とうとするとはまったく社員教育のなっていない管理会社だなッ! 厳重な抗議に値するッ!」
「そもそも会社自体まともじゃないだろ、この場合」
投擲用ナイフに変形していた綴がいつものマスク状態に戻り、アスファルトの上で完全にのびているチンピラの太鼓腹へ丁度良く着地した。そのまま胸ポケットの中のスマホを吟味しはじめる綴を横目に、正純は自分の情報端末を開く。
そこにはさきほどのハッキングの成果が表示されてあった。つくづく綴はああ見えて非常に仕事が早い。ここからほど近い場所にある雑居ビルの地番と、おそらくレンタル直後と思われる現場写真。
コンクリート打ちっぱなしの、殺風景な地下室の床に広がる臙脂色の海。横倒しのパイプ椅子。悪趣味な拘束具が天井からつり下がり、赤い飛沫はそこにもおびただしく飛んでいた。食肉処理場、という単語が閃き嫌な気分になる。
「……どこからどうみてもここでバラしましたって奴だな」
「うん? 何か言ったかな納さんッ! こちらはデータの吸い出し完了だッ! いつでも転送開始できるぞッ!」
「頼む」
――そんな所に聞こえたきた、夕凪の手並みであったのだ。
綴を回収して目的の雑居ビルに向かう道すがら、正純は転送されてきたデータを軽くチェックする。ほとんどが静止画ファイルと契約書の写しらしきもの、メールのやりとりばかりだ。
そしてその中に一本だけあった動画ファイル、それを再生させた正純の目が瞠られた。
それにしてもカルトだとか生きるとか死ぬとか、通にはいまいち話が複雑でよくわからない。難しいことはないと事あるごと志郎や夕凪は笑うが、そもそもなぜカルトとやらに縋らなければならないのか、死ぬことを考えて毎日を生きる感覚なんてどんなものなのか、あらゆるものが通の想像の域を超えており理解しがたい、というのが偽らざるところだった。
車止めに腰掛けてぶらぶら脚を遊ばせながら、道行く人々の顔をじっくり観察する。
池袋は、基本的に『楽しい』街だ。水族館にレジャー施設に、シティホテルにサブカルチャー、戦後の再開発を経て古い街並みは押しやられた感があるものの、あまり辛気くさい顔は見当たらない。
太陽が高い時間帯から、どこか怯えたように周囲を伺う顔はあまり似合いではないのだ。
「まあ物騒でもなんでもいいんだけどさ、SNSのほうに今日の儀式の場所は出てそうだし」
ぷらぷら揺れる自分の爪先を睨みながらの通の呟きを追いかけるように、やや音量調節が甘い感のある綴の声がインカムから聞こえた。
『ぬッ!? これは……これは重要情報の気配ッ!』
「えっ何? 何かあった?」
『件の関係者君の端末から得たデータの中に、実際の儀式の動画が残っていたぞッ! 角度からしてこれは監視カメラッ! 大変にえげつない内容なので一度そちらに送るぞ虻須さんッ!!』
えげつない内容ってなんだ、と思うものの綴が重要情報と言いつつ全員でシェアしようとしないという事はそういう事なのだろう。……もしかして文字通り、『真っ最中』のものが含まれているのかもしれない。
流石にあまり見たいという意欲をそそるものではないので、通は志郎の見解を待つことにする。流行りの店のものなのか、きゃらきゃらと笑いあいながらタピオカドリンク片手に通り過ぎる女子高生の一団。アレなんかちょっと卵っぽいよな、主に両生類とかの。しかも蛙レベルのじゃない、ちょっと大きめの、淵のヌシとか言われそうなやつ。口に出したら絶対顰蹙買うから言わないけど。言わないけど。
「俺んとこにも誰かひっかからない、……か?」
何気なく見回した池袋駅北口界隈、人波に紛れるようにひとりの男が目に付いた。見るからにあまり高価なものは入っていなさそうなくたびれたガーメントバッグを神経質そうに抱え、やや擦り切れの目立つ靴でふらふらよろよろ、道の端を歩いている。
隈が目立つ土気色の顔に剃り残しの多い顎、サイズの合わないスーツはぶかぶかで、本来の体型から急激に痩せたのがうかがい知れた。
飛び降りるようにして車止めから降り、通はガーメントバッグを抱えた男を尾行してみることにする。一般人も多少ただならぬ気配を感じるのかもしれない、時折つまづきつつふらつきつつ駅からは反対の方角へ逃げるように歩く男の周囲は、奇妙な空間ができている。
「なんかこう、具合悪そうだよなァあれ……」
スーツの男は通にまだ気付いていない。
見失わない程度の距離を保ちつつしばらく尾行を続けると、男は急に細い路地に入った。すぐに走って追いかけ、通は物陰から様子を伺う。
男は果たして、路地の先にいた。周りの視線を気にしながら、あまり管理の行き届いていない建物の窓へ手を伸ばしている。一見する限りマンション兼ビルのような、ビル兼マンションのような。汚れたアルミの面格子の隅に、コンビニの小さな袋がくくりつけられてある。
うまく手が動かないのか、格子に結ばれた持ち手を解こうと男が四苦八苦している間に通は距離を詰める。
「あっ」
小さな叫び声を上げて男がコンビニ袋を取り落とした。中に入っていた黒い封筒がひらり、風に乗って狭い道路の反対側まで飛んでいく。
縁石近くに落ちた封筒の表面、そこに通は先ほど高架下で見た教団エンブレムが金色で箔押しされてあるのを見た。
決してこれは偶然、というわけではないだろう。そのくらい通にだってわかる。過去この周辺で姿を消した信者達と、さきほど夕凪が接触した儀式参加予定の信者と、教団エンブレムを持つ封筒をあきらかにまともではない手段で受け取ろうとしている怪しい男。
「大丈夫か?」
いかにも今通りがかったという体を装い、黒い封筒を男より先に拾い上げてから通は無邪気に問いかけた。足元が怪しい男より、先に封筒を拾うのは別に難しくもなんともない。
「おっちゃん顔色悪いぜ。これ拾おうとしてたんだよな? ほら」
「い、いや、別に、身体は、その。ありがとう」
ありがとう、と言いつつも視線が泳いでいる。差し出した封筒を受け取ろうとしないので通は眉をひそめた。……さて、どう儀式の話をさせたものか。頭が回るほうではない自覚はあるので、正直こういう話は苦手だ。
「何かあったのか?」
「べつに、何でもない。何でもないんだよ……」
何でもないなら何故受け取らない。一瞬全力でそうツッこみたくなる衝動を通はぎりぎりで呑み込んだ。回らないなりに考える。要するにこの怪しさ満載の封筒を、男に返さなくていいように話を持っていけばいいのだ。……どうしたらいい?
「もしかしてこれ、誰かに渡しに行かなきゃなんないとか?」
宛名がないことから、ポストという単語はやめた。男の視線が数瞬宙を彷徨い、それから、何か急に得心したように何度も首を振る。
「ああ……ああ、そうだ、そうしよう、それがいい! そうだ、そうなんだよ僕、それを渡して欲しいんだ!」
急に肩を掴まれて通は息を飲む。
「私の代わりに! 頼まれてくれないだろうか! それを、その封筒を、持ってあの方に会ってくれないかな!! 頼む、どうかこの通り!」
落ちくぼんだ目が常軌を逸した輝きをしているのに気付き、喉が鳴った。よくわからないまま通が首肯すると、スーツの男は震える手で上着の内懐からしわくちゃのメモを取り出す。
「じ、住所は、ここだ。頼んだよ。頼んだからね!」
「え? ええと豊島区池袋……、ってオイちょっとおっさん!!」
男は通へ一方的にメモを押しつけると、脱兎の如く走り出してしまった。躓き、ふらつきながらも一目散に逃げていく――そう、男は『逃げ出して』しまった。何かに怯え、恐怖して。
脅す必要もなく信者と接触し、これまた重要情報らしきメモと封筒を入手できたのは少々拍子抜けする結果だが、これはこれで上々の結果だろう。とりあえず面格子に結わえられたままのコンビニ袋を外して封筒とメモを入れ、通は耳元のインカムに指先を当てた。
1
カミル・アイゼンシュミット 2019年6月8日
第二章導入とプレイング受付期間は8日夜にご案内の予定です。今しばらくお待ちください。