鳥籠の中
ディフ・クライン 2019年5月26日
木漏れ日と、風の通り過ぎる音。
遠くの川の音。
運ばれてくる花の香り。
大きな鳥籠の扉は壊れている。よく見れば、籠も何処かひしゃげている。
他にはなんにもない。
彼はよく、そこに座っている。
1
ディフ・クライン 2022年9月4日
(あの日から10日。ほとんど使い果たした魔力を回復させるのに時間がかかっていた人形は、ようやく出歩けるようになった。
真の姿――世界樹から生まれた冬の末姫であるネージュと契約を交わした人形が、ネージュに預けていた氷雪の力を全て解放した姿――は、強力な魔法が使える反面制御が難しく消耗が激しい。限界ギリギリまで解き放った魔力は後に反動となって人形を襲い、暫しの間頻発するエラーを宥めながら回復に努めねばならなかった)
(未だ挙動にぎこちなさを残しながらも、人形は工房の窓を開けた。滑り込んできた夜気は夏の残り香を孕みつつも秋の冷ややかさを感じさせる。見上げれば月も星も、静かに夜空を明るくさせていた)
ディフ・クライン 2022年9月4日
(友に繋いでもらった宿縁。友に支えてもらいながら辿り着いた、兄)
(あの時、言葉を交わした。交わらないことは悲しかった。擦れ違うことは悲しかった。それでも、手を伸ばしたかった)
(遠い日の、あの襲撃の日を覚えている。母が兄によって殺された日だ。腹を赤に染めて、周囲を炎に包んで、人形を鳥籠から解放して息絶えた母の肩越しに見えた兄の顔を、人形は忘れたことがない)
(その表情に名前をつけられたのは、ここ数年でのことだ。あれは驚愕で、怒りで、悲しみで、苦しみで)
(あれは確かに、「絶望」だった)
(今ならばわかる。あの時きっと、人形と兄は同じ顔をしていた。等しく絶望に染まった顔で、互いの顔を見た。それが最後だった)
(身を翻して去っていった兄の背を、人形は見送ることしか出来なかった)
ディフ・クライン 2022年9月4日
(感情がない人形――だったはずなのに、それでもあの時、人形は確かに悲しかった。母が死んだことも、兄のあの顔も、去っていった背も、その全てが哀しかった。悲しいという言葉すら知らなかったのに)
――あの日、どうしてオレを壊さなかったんだい。火継。
(夜風が黒髪を揺らす。ベニトアイトの瞳は確かに憂いを知った色で、とりとめもなく夜空と深い森を映している)
(答えなど返ってくるはずもない。窓辺に腰掛け、人形は立てた片膝を支えに両腕を組み、そこに頭を乗せた。そうすると胸のコアが近くなって、その部品の存在を強く感じ取ることが出来る)
(それは、プロトタイプたる兄から連綿と受け継がれ、今は動かぬ「心の器」。人形には似合わぬパイロープガーネットの器だった)
ディフ・クライン 2022年9月4日
――返しそびれちゃったな。
(小さく苦笑いを浮かべて、人形はめを閉じた。人形にとっては動かぬ部品でも、これは確かに火継の心を一度は宿した大切な部品だったはずなのだ。無理矢理胸を裂いてでも取り出して返せばよかったかもしれないなんて、今更なことを思った。本当に今更だ。それとも、これを取り出して母の隣に埋めて、墓を作ろうか。そうしたら――)
そうしたら、せめて、喜ぶかな。
(やってみようか。そう思い、胸を掴む指にぐっと力を込めようとした、その時だった)
『――やめてよね。そういうの別に嬉しかないから』
ディフ・クライン 2022年9月5日
(それは聞こえるはずのない声だった。あの時確かにこの腕の中で抱き締めて、塵になるのを見送ったはずだった。遂におかしくなったのだろうかと思った。なのにその声は確かに、今手を添えているこの胸の奥、ある部品から、己が内にだけ響いたような気がしたのだ)
……火継?
『なに、その顔。お前って僕に会うといっつもそう。驚きと悲しい顔ばっか。ちょっとは喜ばしくないわけ?』
(――半信半疑の問いに、いらえがあった。半分呆れて、半分むくれているような。感情の籠った――兄の声)
『ああ、安心してよね。また災魔になったとかじゃないから。今の僕はただの燃え滓』
燃え滓、って……。
『僕はお前の中にある僕のパーツに残った、僕の残滓。そのうち消えて、海に還るよ』
(多少の間があった。少しだけ考えるような間だった)
『このまま消えてもいいんだけど。お前が最期あんなんだったし。色々言われたし。……まあ、多少会話してもいいかなと思ったワケ』
ディフ・クライン 2022年9月5日
(幻聴にしてはリアリティがあって、とても己が想像で作り上げたものではないように思えた。心の器が微かに熱を持つ)
本当に、火継なの?
『そうだってば』
消えるって、どのくらいで……?
『燃え滓だって言ったろ。まず1ヶ月は持たない。まあ2週間持ったら上々じゃない?』
(笑うような気配。それは確かに、そのパーツから放たれている)
『ていうかさ……』
ん?
『呼び捨てなわけ?』
……。
(今度こそ拗ねた声がした。あの時聞いた声と同じだ。これは本当に拗ねている。だから思わず、人形は吹き出してしまった)
『……なにさ』
いや……ふふ、本当に素直じゃないなって思って。
(目の前にいる訳でもないのに顔を背けながら、人形は肩を震わせている)
『ムカつく。やっぱ黙る』
だめ、話してよ。話そうよ。兄さん。時間が全然足りないよ。
(もう幻聴でも何でも構わないと思った。幻だとしても、人形の目には確かに、目の前でむくれる兄が見えたのだ)
ディフ・クライン 2022年9月5日
(人形は泣きながら笑っていた。こんな複雑な感情の名前を、人形は知らない)
(これが幻なのか本当なのかもわからないけれど)
(どこにも無かった家族と兄弟の時間。得られることのないそれを幻に見て縋っているのだとしても)
(今は、それでもいいやと思えた)
ディフ・クライン 2022年9月6日
(アルコールランプにかけられた小さな窯には湯が煮立ち、カチャカチャと硝子器具が音を立てる。レシピを指でなぞりながら、人形は棚にある薬草の瓶を取り出していく)
『なにしてんの』
「ちょっと作りたい魔法薬があってね」
『ふぅん。僕を復活させる薬とか?』
「そんなもの作れないよ。というか、そういうのが作れるならオレは既に此処に居ないし、この身体はとっくに彼の器になってると思うよ」
『なにそれ。面白くない』
「少なくともオレは出来ない方がいいんだ。母さんが出来なかったように。それに……」
『なに』
「兄さん、あんまり復活したいとも思ってないでしょ」
『……』
(沈黙。人形は刻まれた薬草と幾つかの材料を釜にいれて魔法をかける)
『お前さ』
「名前で呼んでくれると嬉しいんだけどなぁ」
『……後継機のクセに生意気』
「そうかな?」
『ホント生意気。誰に似たのさ』
「プロトタイプかもしれないねえ」
(工房に微か響く穏やかな笑い声、一人分)
ディフ・クライン 2022年9月10日
『ねえ。お前、なんで薬なんか作ってるの』
(細やかな計量と繊細な魔力操作。それを行いながらヒト用の傷薬を調合する人形に、「わけわかんない」と言わんばかりの疑問が飛ぶ)
「……オレがエラーで生まれた人格だってことは、言ったっけ?」
『エラー?』
「本来彼の為に作られた身体に、製作者が意図しないままに生まれてしまった自我。エラーと言わずになんていうんだい」
『……それで?』
「……エラーで、母さんの望んだものにはなれないオレでも、ヒトの役に立てることがあると思いたかった。独りになってから魔法学園に入学して、出来ることを探して、辿り着いたのが薬学だった。そんな理由だよ」
『……ふぅん』
「呆れた?」
『バカだなとは思った』
「容赦ないなあ」
『当たり前だろ。ここにあるのは人間や他の種族用の薬ばっかじゃん』
「人用だけじゃ足りないからね」
『じゃあなんでミレナリィドール用の薬はないワケ?』
ディフ・クライン 2022年9月10日
「……なかったっけ?」
『少なくとも僕には見えないケド』
(本当に意外そうに、人形は保存してある薬瓶をぐるりと見渡す)
「……ホントだ、ない。でもドール用以外にもまだちゃんと効くかどうか試せていない種族や、身体のことがよくわかっていない種族の皆の分は、まだ作れていないんだよねえ」
『そーいうことじゃないし』
(これみよがしに、盛大な溜息が内側が聴こえた)
『やっぱバカじゃん』
「そうだね、兄さんの言う通り明らかな勉強不足だ。もうちょっと勉強の手を広げてみないとダメだなぁ……」
『……』
『お前ってほんとさ……』
(今ここに身体があったら頭をはたいてやるのに。そう言われて、人形は心底不思議そうに首を傾げた)
ディフ・クライン 2022年9月12日
(早朝のアルダワ魔法学園を歩く、硬質な足音ひとつ)
『へえ。学園の中ってこうなってんの』
「流石に入ったことはないでしょう? 今日は学園内を案内するよ」
(学園内では声をあげることはなく、ただ胸の内だけで言の葉を発する。思考内であってもどうやら言葉は伝わるようで、会話には困らないがやはり不思議でもあった)
(けれども兄の真偽を人形は問わない。不思議さはあっても、幻であってもいい。ただこの時間さえ大切に出来たなら)
――数時間後。
『……ちょっと』
「うん?」
『案内するんじゃなかったわけ?』
「してるじゃないか、今日一日」
『お前の受ける講義のついでじゃん! ていうかまず一日に何個講義取ってるのさ!』
「今日は6つだよ。合間に魔法植物の世話をしたり、教授の手伝いをしたりはするけど、でも全部違う教室や場所だから」
『それを案内とか言わないし! あーもー僕飽きた。寝る。家ついたら起こして』
「え、ちょっと兄さん?」
ディフ・クライン 2022年9月12日
(その日。余程拗ねたのか、火継は本当にしばらく呼びかけても反応をしなかった)
(工房に戻ったと再三伝えてようやく返事があったが、相も変わらず不機嫌なまま。その埋め合わせとして、人形は次の日の講義は休んでしっかりと学園内を案内した)
(巨大な学園とその敷地にある様々なものは火継の興味を引いたが、案内しきる頃には疲れてしまい、やっぱり不貞腐れてその日はそれ以上反応を返すことはなかった)
(夜。人形はカレンダーを見る。声が聴こえてから、1週間が経った)
『――燃え滓だって言ったろ。まず一か月は持たない。まあ二週間持ったら上々じゃない?』
「……あまり疲弊させない方がいいかもしれないな」
(人形は小さく独り言ちた)
「まだ……もう少しだけ、どうか……」
ディフ・クライン 2022年9月13日
「兄さん」
『なに』
「明日、母さんのラボの方にいくつもりなんだけど……いい?」
『……へえ、まだ残ってたんだ? 何しに行くのさ』
「オレのメンテナンス。地下のラボの機材でやってるんだ」
『ここの工房じゃできないわけ?』
「動かせない機材もあるし、なんだか……離れ難くて」
『……』
「でも、兄さんがいやなら行かないよ。急ぎってほどでもないから」
『……』
(それからしばらく、火継は口を閉ざしていた。呼びかけても返事がなくて、今日はもう話せないだろうかと人形が息を吐いた頃)
『……行けば。ラボ』
「え?」
『僕も見たい。……見ておきたい』
(そう告げた火継の声は、いつになく静かで深かった)
ディフ・クライン 2022年9月15日
「兄さん、着いたよ。ここだ」
(一度瞑目し、人形は再び目を開ける。隣には兄の幻影。二人が見つめる先は、ただの開けた草原だった)
『……拍子抜け。何もないじゃん』
「家は全焼したよ。あの日からもう10年。何も残らないさ」
『……』
(ここには、クライン博士の家があった。人里から離れ、身を隠すように作った彼女のラボだ。だがその家は、もう10年も前に火継の手によって焼失した)
『……何もないな。特に感慨もない。ただの風景だ』
(そう告げる幻影は、それでもまっすぐにある一点を見つめていた)
(この景色を幻影は覚えている。そこにあったはずの家。最後に振り返って見た時、その家は自らが発した炎に包まれていた)
(人形は小さく頷いて歩みだす。焼け焦げた家も、炭になった柱も、そこにあったあらゆるものも、すべて自然へと還っていった。もうここには家があったことも、火事があったことも、そこで何があったかも、知る者はいない)
ディフ・クライン 2022年9月15日
「けれど、地下のラボには何重にも保護魔法が掛けられていた。燃えたのは地上の家部分だけだ。炎が全く影響がなかったわけじゃないけれど、それでもラボの半分は無事に残っている」
(人形は、家があったはずの場所、その中心に立って地に手を当てた)
(首元のベニトアイトが淡く光を発し始める。それに呼応するように人形の瞳も淡く光り、そこに刻まれた魔法陣が地に展開していく)
(魔法陣から扉が浮き上がってきた。古い木の扉だ。それは一見するとただの扉の残骸だったが、鍵を持つクラインの人形にとってはある場所へと通じる扉となる)
(魔法陣を発動したまま、人形はノブをつかみ、ゆっくりと回す。ガチャリと鍵の開く音がして、その扉はゆっくりと開いていった)
(扉の先はクライン博士の工房だった)
(配線と部屋を埋め尽くす蒸気機械。いくつもの魔道具。本や何かの材料。そんなものが溢れる部屋の中央には、割れたガラス瓶のようなケースがあった)
ディフ・クライン 2022年9月15日
(全ての配線はそのケースに繋がれている。上着を脱ぎ、服をはだけさせると、人形は迷いもせずにそのケースの中に入り座り込んだ)
(纏めてあったケーブルを掴み首の後ろへと接続する。ほかにも通すべき機材を通し、人形は慣れた手つきで機材を操作しはじめた)
『あの日のままなの、なんでさ』
「……変えたくなかった。何も」
『機材だって半分は使えないじゃん。新しいやつ入れればよかったろ』
「だって……そうしたら、なくなっちゃうだろ」
『なにが』
「母さんの痕跡も、兄さんの痕跡も」
『……は?』
(何言ってんだこいつ、と、幻影が人形を見た。人形はどこかばつが悪そうに視線を下げる)
「オレの手で整備することは出来るよ。でも、そうしたら母さんや兄さんの痕跡がなくなっちゃうじゃないか」
「……もう、ここしか残ってないのに」
(人形の声が小さく響く。稼働する魔道蒸気機械の音に紛れそうなほどに小さくて、俯いたままの人形を幻影は見下ろした)
ディフ・クライン 2022年9月15日
(いつまでそうしていただろうか。人形を見下ろす幻影は言葉を発せず、ただ人形を見ている)
(俯いたままの人形の耳に、チェックを完了する機械音が届いた。緩慢に目線をあげれば、多少の数値の乱れがある。指を伸ばして機材を操作すると、機材は人形の体を調節しはじめる)
(座り込んで顔を隠した人形は、時折調節の影響でびくりと震えていた。それがなんだか、幻影には泣いているようにも見えて)
『……はぁ』
(わざと聞こえるように溜息をつくと、幻影は人形の前からいなくなった。呆れてしまったんだろう)
(再び機材が調節完了の知らせを鳴らす。顔を上げぬままにケーブルを抜き取った人形は、しばらくそのままでいた。だがそうしていても何も始まらないし終わらない。観念したように顔を上げると、そこにはまだ、兄の幻影がいた)
ディフ・クライン 2022年9月15日
「……兄さん」
『世話の焼けるやつ。ほんとにこないだ僕の前に対峙したヤツと同じなのかねぇ』
「……」
『……いや、同じか。おんなじだったね。……ったく。あーもー仕方ないな』
(不思議そうに瞬く人形の前で、幻影は髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を搔いていた)
(手を伸ばそうとして、ひっこめて、舌打ちした後、幻影は高い位置にある棚を指さした)
「なに……?」
『いいから開けてみなよ。クラインの鍵の魔法を発動させるのを忘れないでよね』
「……? わかった」
(訳が分からなかったが、人形はひとまず言う通りにすることにした。クラインの鍵を使って魔法の鍵を開け、中にあるものを覗き込み――人形ははっとした)
「兄さん、これって……」
『……僕らの母さんってのは、複雑で意味わかんなくて強いのに弱い。そういう人間だったってことだろ』
「……ああ」
(棚の中にあった『それ』。そっと引き出して手にした人形は、今度こそ本当に、雫を零した)
ディフ・クライン 2022年9月15日
(『それ』は赤い宝石の欠片だった。一度砕かれたような歪な形の宝石は、パイロープガーネットと言った)
『残してたんだろ、わざとこんなとこに隠して』
『意味わかんないよね。自分で作って、要らないって壊して、それでもこんなもの残してさ』
「……これって、兄さんのコアだった宝石だろう?」
『そうだよ。ちゃんと大事な部分が砕かれてるでしょ。抵抗したから他の場所もいくつか傷ついてる』
『でも、まだ使える』
(幻影の手が、パイロープガーネットに触れる。もう熱を帯びはしない冷たい石だ。砕かれて、壊されて、それでも残った宝石は、人形の手のひらにすっぽりと収まる大きさで)
『……アクセにでもすれば』
(砕かれた己の心臓を使って)
(痕跡は、ここにあると。傍に置けばと、『兄』は言った)
ディフ・クライン 2022年9月17日
(工房から帰った夜。幻影はまた心の器へと戻り、言葉を発することはなかった。この日を境に、兄は声をかけても応えてくれない時が増えていった)
(兄は自らを『燃え滓』と言った。人形の目の前でほとんど燃え尽きる寸前の蝋燭と、兄の姿が重なる)
(覚悟は、しておかねばならない。兄ははじめから「一か月は持たない」と言っていたのだ。残る時間がどれほどか、人形には確かめる術がないし、聞いても兄は教えてはくれない)
(残された時間にすべきこと。果たしておくべきことを慎重に考えねばならない。二度とは戻らない時。二度とは起こらぬ奇跡。それを、無為にすることのないように)
ディフ・クライン 2022年9月17日
「……ねえ、兄さん」
(名月かかる空見上げ、窓辺に座って人形はもう一度兄を呼んだ)
『……なに』
「今、時間いい?」
『ああ、なんか用?』
(いらえがあった。それに安堵して、人形は笑みを浮かべる)
「話をしよう。兄さんのこと教えてよ」
『……そんなん聞きたいわけぇ?』
「そうだよ。オレたちは互いのことを何にも知らないんだから」
「……聞かせてよ、兄さん」
(貴方が何をしていたのか。何を思っていたのか。貴方の好きなこと。嫌いなこと)
(そんなことを聞かせてほしいと、人形は静かにねだった)
(また溜息して、幻影が人形の隣に腰掛ける。目線を人形と同じく、月に向けたまま)
『面白くなくたって知らないから。その代わり、お前のことも教えてよね』
「……喜んで」
ディフ・クライン 2022年9月19日
『え。じゃあなに、お前母さんたちに会ったわけ?』
「うん。カクリヨファンタズムという世界の、不思議な橋でね。母さんとも、彼とも話した」
『彼って』
「ディフ・クライン。母さんの息子」
『あいつも?』
「うん。でもその一度だけだよ」
『……もっと会いたいとか話したいとかはないわけ?』
「話すべきことは話したと思う。それに、生きろと言われたから」
『……なのにこないだのアレぇ?』
「……うん。矛盾だね」
『お前ってほんと莫迦。ちゃんと調節したんだろうねえ?』
「したよ。今は問題ないはず」
(兄弟の会話は、途中兄の中断を挟みながらも続いていた)
(ずいぶん色んなことを互いに話した。知らぬ時間を、いくつも。いくつも)
(火継は災魔になってから、長い時をあの街の跡で過ごしたのだと言う。衝動がどうにもならなくなって、活動し始めたのはごく最近のことだった)
(もっと早くに探して見つけるべきだったと言う弟に、兄は「莫迦」とだけ答えた)
ディフ・クライン 2022年9月19日
『猟兵ねえ。今思えば面白そうだね。知らない世界を飛び回るとかさあ。すっごい僕向き』
「楽しいよ。色々と悩ましいことも大変なこともあるけれど、楽しい。兄さんとも飛び回れたら良かった」
『災魔じゃそれも叶わないってね。あの学園も、まあ勉強とかは面倒にしても、面白そうだった』
「……ね、兄さんだったら、学園に入学したら、どんな授業を取った?」
『は?』
「ただの想像だよ。願い未満の、こうなったらいいなっていう」
『それに何の意味があるのさ』
「……夢に、見られるかもしれないから」
『お前、夢見るのが怖いから眠らなくなったとか言ってなかったっけ』
「うん。でも今は、夢でもいいから」
(会えたらいいと思うようになった、なんて)
(言葉には出来なかった言葉を、胸の内で兄が拾った)
ディフ・クライン 2022年9月19日
「……だめ?」
(伺うような人形の声音。最近、兄は弟のこの声音に甘い)
『……僕、早起きとか苦手だから』
「じゃあオレが起こすよ」
『お前より魔力吸収効率が悪いから、食事しないと』
「なら朝はカフェにでも寄ろう」
『座ってるばっかの勉強とか嫌い。でも、攻撃魔法とか魔法動物とかは気になる』
「兄さん、動物の世話できる?」
『死ぬほど手間。お前やってよ』
「だめ。魔法動物はきちんと世話をした相手と信頼関係を結ぶんだよ。オレが世話をしたらオレに懐くじゃないか」
『えー』
(くすくすと小さな笑い声が、内に二つ響く)
(案外、兄もこのもしもを楽しんでいるようだった。それが嬉しい)
ディフ・クライン 2022年9月19日
『……一個ぐらい、お前と同じ講義を取ってもいい』
「ほんと? じゃあミレナリィドール概論にしよう」
『は? なんで?』
「そうしたら、互いに調節したり、直したり出来るだろう。兄弟なんだし補いあわなくちゃね」
『……』
(はたと、兄の声色が変わった)
『兄弟だから補い合う、か……』
「兄さん?」
『……悪いけど、今日はもう終わり。お休み』
「兄さん、兄さん?」
(なにか気を悪くさせたろうか)
(そんな弟の心配に、兄はその日、応えてはくれなかった)
ディフ・クライン 2022年9月20日
『ディフ』
(その日、兄は唐突に人形を呼んだ)
(はっと顔をあげる。その顔には、嬉しさが浮かんでいた)
「なに、兄さん」
『……なんでそんな嬉しそうなのさ』
「だって、名前で呼んでくれたから」
『それだけで?』
「それに話せそうだから」
『……』
(ただそれだけで、人形はとても嬉しそうに笑った。随分幼い笑みで笑ったから、幻影は少しだけ言葉を詰まらせた)
「それで、どうしたの?」
『……話ときたいこと、あるから』
「なに?」
『お前の中にある、僕のパーツのこと』
(笑った人形の顔が強張った。幻影が、人形の前に立つ。もう随分と薄くなった幻影だ)
『お前も母さんもそれ、壊れてるって言ったけどさ。壊れてないから』
(そして、人形の胸を指さして、幻影は至極真面目にそう言ったのだ)
(『心の器』。そう呼ばれた、パイロープガーネットの器。火継のコアと同じ材料で作られて、一度は火継の心を宿したパーツだ)
ディフ・クライン 2022年9月20日
(けれどもそれ故に火継――クライン・プロトは解体され、1stから5thのディフに至るまでに受け継がれたものの、二度と心を宿しはしなかったものだ)
(心も感情も、これには二度と宿らなかった。エラーで生まれた人格のディフもまた然り。人格が宿りはすれども心はなく、感情は知らず、かの人の魂を宿すことも出来ず、息子のふりすら出来もせずに、ディフを悲しみの海に縛り付けたものだ)
『それは壊れたんじゃない。僕の心が宿ったから、お前たちには合わなかったんだよ』
「……なにを」
『他人の心をつけかえたって、別の心が同じものに宿るもんかよ。それはずっと僕だったんだ。だから僕以外の心も感情も宿らず、かといって心が体を支配することもなかった』
『そのパーツ自体はずっと正常だったんだよ。母さんもお前たちも気づけなかっただけで』
ディフ・クライン 2022年9月20日
「……なんで……」
「……なんで、今、そんな話を?」
(嬉しそうにしていた人形の笑顔はもうどこにもなかった。突然の告白。突然の事実。それを受け止め切れていない顔で、人形は幻影を見上げる)
『僕の心のことは、僕じゃないとわからない。母さんだって原因はわかんなかったろ』
「それは……」
『言うなら今しかないと思ったよ。お前が芽生えたっぽい心は、僕のパーツの中じゃない。もっと別のところにある』
「まって、待ってよ兄さん。じゃあ、どこ、に……」
『……あー』
『教えてやんない』
(べえっと舌を出して、幻影は意地悪く笑った)
(人形は困惑したまま幻影を見つめるだけで、何も言葉を紡げなくて)
『場所なんかが大事じゃないだろ。大事なのはさ』
(とん、と幻影は人形の胸をつついた。感触がなくたって、そう思えた)
『お前の心はお前の中でちゃんとあるってことだろ、ディフ』
ディフ・クライン 2022年9月20日
『それ以外に大事なことなんてないでしょ』
「……っ、あるだろ……!」
(どこか優しい幻影の声音を吹き飛ばすように声を荒げたのは、人形の方だった。がばっと上げた顔は――それでもなぜか泣きそうで)
「これが、このパーツに火継の心が宿ってたっていうなら、なんで今まで何も言わなかったんだ。なんで今までただのパーツとして収まってた。なんで、今
……!!」
『……』
「……なんで、もっと早くに、話せなかったんだよ、火継……」
(話したかった。対話したかった。せめてそうしたら、もっと早くに兄弟らしいことだって出来たんじゃないかと)
(あの日の絶望を分け合えたんじゃないのかと)
(互いに孤独だった日々を埋めあえたんじゃないかと)
(そんな「たられば」に、もう意味なんてないのに)
(きっと幻影に実体があったなら、その襟に掴みかかっていたのに)
(――そのどれもを、何一つ為せぬのが、今だ)
ディフ・クライン 2022年9月20日
『仕方ないじゃん。僕はこないだまで災魔だったんだ』
(そんな人形に、幻影は静かに語る。そこには制御しきれない怒りも悲しもない。ただの事実として語るだけの、静かな穏やかさがあるだけ)
『僕の心の根源はそっち。災魔だった僕が、お前に語り掛けられるもんかよ』
「……」
『忘れないでよ。僕は燃え滓だって言ったろ。本体が災魔じゃなくなったから、ほんの少し残っただけの残滓だ。今だから話せた。今しかなかった。そういうことなんだよ』
(幻影が少しずつ薄れていく。声が少しずつ聴きとりづらくなっていく。もうあと何日も持たない。はじめから提示されていたことだ)
『炎はいつか消える。わかってるだろ』
『その前に言えること、言っとかないとでしょ』
「……」
『壊れてるってずっと言われてんのやだったんだよ。あーすっきりした』
「……火継」
『ディフ。考えといてよ』
『夢はそのうち終わる。それまでもう少し、付き合ってやるから』
ディフ・クライン 2022年9月23日
『ディフ』
「うん……?」
『時間だ』
(幻影が、ゆらりと姿を表す。もうほとんど薄くなった姿だったが、終わりを告げた顔は存外に穏やかだった)
『考えておいた?』
「……うん」
(寂しそうな声音で、人形は頷く)
(考えておく。終わりを。覚悟を。見送り方を。ディフなりに)
(今日は浴衣と呼ばれる着物が仕立て上がる日だった。それから兄の心臓たる宝石を使った魔道具が、完成する日)
(まずは浴衣を羽織った。幾度か着たからもう慣れたものだ。羽織まで真っ黒な、黒い彼岸花の浴衣だった)
『まるで喪服じゃん』
「いつもの服もそうだよ。オレが黒を纏うのは、兄さんや母さんの為の喪服だから」
『着慣れて他の色が着られないだけでしょ』
「それもあるけどさ。今日は兄さんの為の喪服だよ」
『なにそれ。特別製かよ』
(小さく笑い合った。こんな他愛ない会話を、ずっと続けていたかった)
(けれどそれは叶わない。炎は消える。それははじめから決められた運命だ)
ディフ・クライン 2022年9月23日
(人形は今朝届いたばかりの箱を開けた。宝石を使った魔道具作りに長けた職人に依頼した特別なものだ)
(それは鬼灯の形をした、灯り。連なる鬼灯は宝石を薄く加工して作られている)
『綺麗じゃん。僕のコアの色にぴったり』
「うん、オレもそう思う」
『……で? これでどうすんの?』
「これを使って、兄さんを送るよ」
(そう言って、人形は鬼灯を手に取った。しゃらりと澄んだ音がして、幻影はそれも『悪くない』と思った)
「これは兄さんが迷わぬよう。真っ直ぐ母さんや兄さんたちのところへ行けるように導く導の光。オレの死霊術師の力を使って、見送ろうと思うんだ」
『ちゃんと出来んのぉ?』
「その為に、オレは死霊術師で居たんだと思うよ」
(本来ならば精霊術に特化した身体。それでも死霊術師で居続けたのは、『彼』の為でもあり、『家族』の為だったのだと今なら思う)
(人形は、他者の為にこそ生きた。そういうものだったのだ)
ディフ・クライン 2022年9月23日
『そ。……じゃあ、その前にさ。最期に一つだけ』
(その力を疑うことなく、軽い調子で受け入れた幻影は、落ち着いた笑みで人形のコアがある胸に指先で触れた)
『僕から最初で最後の贈り物をやるよ』
「え?」
(返事を聞く前に、幻影の手が炎を纏った)
(それは幻影の中心で燃える火を手に遷したもの。小さな小さな火が、幻影の手を伝って人形のコアへと流れ込んでいく)
「に、兄さん……」
『黙ってろって』
(熱くはなかった。むしろ炎は心地よい温かさで、ゆっくりと人形に染み込んでいく)
(なのにその温かさになぜだか人形を無性に泣きたい気持ちにさせて、それを懸命に堪えていた)
ディフ・クライン 2022年9月23日
(やがて炎が全て人形のコアに吸い込まれたのを確認して、幻影は満足そうに笑って手を離した)
(炎を遷し終えた幻影は、最期に残った小さな火で、かろうじて姿を残しているにすぎない)
「兄さん、この、火は……」
『贈り物って言ったろ。これしかやれないんだよ、僕は』
(少しだけむくれて、幻影はもう一度人形の胸を指さす)
『その炎は、僕が消えたって消えない。お前が少しだけ炎を操る力と、それから』
『ほんの少しだけ、体温をくれる』
「……え?」
『お前、あの雪精と契約してから体温がないんでしょ。体の熱を代償に取られてる。でも、これは奪われないようにしたから』
『人間のよりかは低いけどさ。でも、これでお前は冷たい人形じゃない』
(どうよ、みたいな顔で、幻影は人形を見上げた)
(なのに人形ときたら、泣きそうになるのを必死に堪えた顔をしているのだ)
ディフ・クライン 2022年9月23日
「なん、で、兄さん、兄さんの火を……」
『えー嬉しくないわけ? せっかくずっと準備してたってのに』
「そんなことない! ないけど、だって、オレは兄さんに何も出来てない……!」
(炎が宿った胸を両手で抑えながら、ディフは言い募る)
「何もしてやれてない。何もあげられてない、出来ることと言ったら送ってやるだけなのに……!」
『逆なんだよ、ディフ』
(幻影は静かに語る。もう激昂するような気力もない。燃え滓はもう少しで燃え尽きるのだ)
『僕らは末の弟に全部を背負わせるばかりで、何にもしてやれてない。でもお前はずっと母さんや僕らのことを考えてたじゃん』
『だから、せめて火を遺していく。僕の火を継いでくれよ、ディフ。今の僕にはそれしかしてやれないんだ』
(ぽん、と、人形の頭に手が置かれた。ほとんど感触などない。ほんのりとあった熱すら、もう、わからない程に)
ディフ・クライン 2022年9月23日
(胸の熱が、指先に宿り始めた淡い体温が、ほとんど感触がないのに乗せられたとわかる手が、切なくて。気づけば一筋、二筋、人形の宝石眼から雫が零れていた)
『それともやっぱ嬉しくない? えーどうしよ。もう僕何にも残ってないんだけど?』
(困ったなあと頭を掻く。やけに素直で、やけに落ち着いた幻影に、人形はふるふると首を横に振った)
「嬉しいよ、とても嬉しい。でもオレは、代わりに何を返してやればいい……何も返せないよ、兄さん」
『……あのさぁ』
(頭に置かれていた手が、ふいにディフの側頭部をはたいた)
(感触なんかない。風が動いたような感覚があるだけ)
『だったら泣くなよ。最期まで僕に泣き顔とか悲しい顔ばっか見せるわけ? で、それを海にいる兄弟とか母さんたちに話せって? 明らかに僕が文句言われるに決まってるんだけど?』
ディフ・クライン 2022年9月23日
「……でも、」
『でもじゃないでしょ。まったく最後までしょうがないな、お前』
(ぴしゃりと言った幻影は、ディフの視界に強引に入り込んだ。目の前に自分の顔を持っていき、二本の指を使って自分の口角をあげてみせる。
『笑いなよ。こうやってさ』
(いつも軽薄に笑っていた兄の顔。出来る? なんて挑発する顔。けれど決定的に違うのは、目が、優しいことで)
(人形は息を飲んだ)
(そんなことがなんになる、とは思わなかった。ただ、はじめて兄が望んだことがそれならば、せめてそれくらいしてやらねばどうすると、想った)
(だから人形は指で雫をぬぐうと、出来る限り、人形が出来る精一杯に綺麗な笑みで咲った)
「……これでいいかい、兄さん」
『ん、まあ上出来。礼なんてそれでいいよ。僕だけが見た顔ってことで自慢してこよーっと』
「なにそれ。自慢になるの……?」
『ならないかもねえ』
「曖昧だなぁ」
ディフ・クライン 2022年9月23日
(二人で笑いあった。まるで最後なんかじゃないように)
(けれども、火が揺れる。鬼灯の中に宿る火が、揺らいでいく)
『……時間だな。僕はもう燃え尽きる。案内頼むよ、ディフ』
「……うん、わかった」
(鬼灯を手に取る。死霊術師としての力を火に乗せれば、鬼灯は熱を上に、上にと映していく)
『なあ、ディフ』
「なんだい、兄さん」
『この20日間。僕は、ちゃんとお前の兄さんやれてた?』
(そう問うた火継の顔は、少しだけ不安そうだった。自信がなかったんだろう)
(そんなところは自分によく似ていると人形は思う。だから、兄がしたように自分もしよう)
(微笑んで、優しい声音で)
「うん。兄さんはちゃんと兄さんだった。オレは嬉しかったよ。ほんの少しの間でも、家族として、兄弟として過ごせたから」
『……そう、よかった。意地汚く燃え残ったかいはあったねえ。もう、一人になっても平気だね』
「大丈夫だよ。兄さんが遺してくれた火があるから」
ディフ・クライン 2022年9月23日
(淋しくたって、大丈夫)
(しゃらん。鬼灯を振れば音が揺れる。兄の姿が、だんだんと炎へと変じていく)
(その、最期の瞬間に)
『じゃあね、ディフ。……愛してるよ、僕の、弟』
(火継は笑った。今まで見たことがないほどに無邪気で優しい笑みだった)
(火が揺らめいて、薄れながら天へと昇る。海へと還っていく)
「……またね、兄さん。おやすみ。オレも、愛してるよ」
(その声が届いた瞬間、)
(火は、消えた)
(小さな火花を散らせて、ぱっと消えていった)
「……さよなら、兄さん」
(鬼灯を抱いたまま、人形は火が消えた空をずっと見つめ続けた)
(はらはらと雫を零しながら、ずっと見送っていた)
(胸に宿る火は、いつまでも人形の中で消えはしない)