江戸は神田の紺屋町。生業に由来する神田の町名の大半が有名無実なものと化した今日でも、ここではまだ紺屋が軒を並べていた。
高所に設けられた各店の干し場では無数の反物が寒空の天日に晒されてバタバタとはためている。負けじとばかりに干し場の柵を鳴らす|虎落笛《もがりぶえ》。その二つからなる耳障りな不協和音が冬の紺屋町の風物詩だ。
「けったくそ悪い町だぁな」
寒そうに両手を擦り合わせながら、一人の男が白い息とともに悪態をついた。
絵師の|菱川《ひしかわ》・|彌三八《やざはち》である。
その男っぷりはなかなかのもの。江戸っ子にしては上背があり、鯔背な佇まいと切れ長の目は役者のよう。
しかし、手拭いの頬被りだけはいただけない。見るからに不審者だ。
洒落者であるはずの彌三八がそんな格好をしているのは、不審者と見做されることよりも面が割れることを恐れているからだった。この界隈には顔見知りが多い。なにせ、彼が生まれ育った町なのだ。脛に傷持つ身とはいえ(今風に言うなら、『元ヤン』である)、お上に追われるほどの凶状があるわけでもないので、旧知の者に見つけられても困ることはない。だが、気恥ずかしい。ただただ、気恥ずかしい。
地元に帰ってきた元ヤンは、とある紺屋の屋敷の様子を四半刻ほど前から窺っていた。
その店はなかなか繁盛しているらしく、ひっきりなしに吹抜門を人が出入りしている。彌三八はぶるぶると震えながら、じりじりと焦れながら、機を待つばかり。
寒さと苛立ちが限界に達しかけた頃、客の流れが途切れ、一人の女が門の奥から姿を現した。彌三八に似た顔立ちをした三十がらみの女だ。両手に藍汁が染み着き、青く染まっている。
女は彌三八の姿を捉えたらしく(頬かむりしていても判ったようだ)、『こっちに来な』とばかりに顎をしゃくってみせた。
「手厚い歓迎だこって……」
皮肉をその場に残し、門の前まで小走りに進む彌三八であった。
女は会釈もせず、笑顔も見せず、彌三八を無言で母屋へと先導した。
裏口を入った先は、藍玉の匂いが微かに漂う甕場である。子供の頃の彌三八はこの匂いが大嫌いだった。あるいは大好きだったのかもしれない。今となってはよく判らない。
作業をしていた職人たちが一斉に彌三八を見た。ひそひそと言葉を交わす者たちもいれば、にやにやと笑う者もいる。
彼らに無視を決め込んで、彌三八は奥の間に入った。先に座った女の前にどっかと腰を下ろし、唇を引き結んで対峙する。
「で、なんのようだい?」
開口一番、女はそう尋ねた。お茶等でもてなすつもりはないらしい。
「用件は|文《ふみ》に書いたろうが。読んでねえのか?」
「読んだけども、『染めを手掛け|度候《たくそうろう》』なんて戯言しか書かかれてなかったね」
「戯言じゃねえや。俺ァ、本気だ。一着ばかり、ここで衣装を作らせてくれや」
「それって、なんのための衣装?」
「連れの生誕の祝い品だわな。こんな言い方をしても判らねえだろうが、『ばーすでーぷれぜんと』ってやつだ」
「そんなもん、わざわざ手ずから作らなくてもいいじゃないか。適当なのを見繕って買えば済む話だよ」
「そうもいかねえ。この品ばかりは俺の手で染め上げてえんだ」
「どうして?」
「|大事《でえじ》な相手に贈るからに決まってるだろうがい!」
勢いでそう答えて、彌三八はそっぽを向いた。柄にもなく照れている。
「……解せないねえ」
女は少しばかり身を乗り出して、値踏みするような目で彌三八の横顔をじっと見つめた。
「この江戸にゃあ、紺屋は馬に食わせるほどあるじゃないか。なんで、その中からうちを選んだのさ? 決まりの悪い思いをするのは百も二百も承知だろうに」
「そりゃあ、おめえ……」
真横を向いたまま、彌三八はぼそぼそと答えを返した。
「大事な相手に贈る代物となればよぉ……知ってる限りで一等上手い紺屋で……染めてえじゃねえか……」
「ふん!」
今度は女がそっぷを向いた。柄にもなく照れている。
「そういう殺し文句は|敵娼《あいかた》にでも取っときなってんだ。このバカ兄貴が!」
「『バカ』は余計だろがい」
「いや、『兄貴』のほうが余計だね。あんたなんざぁ、バカで充分だよぉー」
彌三八の妹――八重は正面に向き直った。
「で、意匠はどうすんだい?」
「これで頼まぁ」
彌三八もまた正面に向き直り、折り畳んだ紙を懐から取り出した。
半月後。
彌三八と八重は再び奥の間で対峙していた。
両者の間には着物が置かれている。染め抜かれた意匠は|立涌《たてわき》に菱。彌三八が自身の象徴と見做している文様だ。
『ばーすでーぷれぜんと』であるところのそれを彌三八は手に取り、丁寧に包んだ。見知った職人たちに冷やかされつつ作業に従事した艱難辛苦と隠忍自重(彌三八にとっては大袈裟な表現ではない)の日々を思い返しながら。
「上にドが三つはつく素人の手によるものだから、染めが甘くて雑だね。とても売り物になりゃしないよ。だけど、まあ――」
と、感慨一入の兄に八重が言った。
「――贈り物としては悪くないかもね」
「染めはさておき、仕立てのほうは『悪くない』なんてもんじゃねえな」
「そりゃあ、この界隈で一番のお針子さんが腕を振るったからね」
「ほう。小松の婆さん、まだ生きてやがったか」
「なに言ってんだい。確かに小松さんの腕は良いけども、二番目だろう」
「おい、まさか……」
「その『まさか』さ」
八重はにんまりと笑った。
「祖母ちゃんがやってくれたんだよ。可愛い元・総領孫のためにそれはもう一針一針丁寧に……」
「判った、判った」
彌三八は八重の話を強引に打ち切り、その場から逃げるように出口に向かった。
「祖母ちゃんが『大事にしな』だってさ! 着物じゃなくて、お相手のことだよ!」
「言われるまでもねえや! これを着せて、いずれ連れてきてやらあ!」
背中にぶつけられた妹の言葉にそう返して外に出る。
冬の風物詩の不協和音が耳朶を打った。春は遠い。まだまだ遠い。しかし、不思議と寒さは感じない。
「けったくそ悪い町だぁな」
どこかに楽しげにそう言い捨てて、彌三八は生家を後にした。
成功
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