――ねぇ、覚えてる?
また来たよ。
四つの季節を二度超えて――青の名を冠した、この何処までも透いた空へ。
✧ ✧ ✧
おやすみ、と優しい声を零して“小さい組”を寝かしつけたいばらは、窓越しに一際強く降り注いだ光と音へと反射的に視線を向けた。
「……まだまだ、嵐は止みそうにないね」
言いながら類は振り向いて、そうっと部屋の扉を閉めたいばらへと手を差し伸べる。
2年前に訪れたあの浮島へ、もう一度。
その願いを叶えた今回の旅行の初日は、鮮やかな快晴が出迎えてくれた。
中に数部屋もあるコテージのような乳白色のドーム型テント――“ハニカムテント”へ荷物を置き、家族を連れてまず訪れたのは夏の花満ちる広大な花畑だ。極彩色の花々と戯れて、小休止には花蜜を使ったスイーツを愉しんで。日が暮れ始めたら、お待ちかねの一夜限りの祭へと揃って繰り出す。
「花火さん、また逢えたね」
天使核の埋め込まれた花光筒を用いた光の花火が、夜空いっぱいに幾つもの大輪の花を咲かせ、ほろほろと毀れる星めく欠片たちが燦めきながら海辺へと還ってゆく。
お星さまが欲しいと望めば、ほんとうに掌の裡に在る。小瓶に入れても耀き続ける淡いひかりに、一層眸を煌めかせて見入るリリや灯環の横顔は言い表せぬほど愛らしくて、つい口許も緩んでしまう。
夜空がほんのり陰り始めたのは、そんな眩い祭がちょうど終わったころだった。
雲を仰いだ島の住人は、「こりゃあ、結構大きいのが来るな」と祭りの片付けもそこそこに手分けをして嵐へ備え始めた。屋外にある家財や花壇を避難させ、機動力のあるフローターや騎乗用の獣たちに乗った住人たちが手伝いに入り、慣れた様子で動いていた。
「皆、てきぱき対応していて……『明日には過ぎてるさ』なんて、頼もしかったね」
「ええ。嵐さんもまた、お空のひとつで……島のアリスたちにとって、暮らしの中の一部なのでしょうね」
外はまだ大粒の雨は窓を伝って涙のように流れ続け、茫々と空を覆う雷雲は気まぐれに悲鳴を上げているなか、ふたりは雲のように柔らかなベッドへと背を預け、いつか訪れるであろう微睡みがやってくるまでの時間をゆっくりと過ごす。
「……リティは、激しい嵐は怖い?」
「ううん、嵐さんの力の壮大さは侮ったりはしないけど、怖いとかは思わないかなぁ。それに、リティの寝付きの素早さは類がしってるでしょう?」
くすりと笑ってみせるいばらに、「成る程、確かに」と類もちいさく瞠目した。愛しいひとの彩を己が眸に映して、互いに肩を、頭を寄せる。
「僕は……野営のときは自然の恐ろしさ感じるけど、室内でなら外に行けない分、読書できるし……嫌いじゃないかな」
そう言った声は穏やかだけど。でも大きい音が続けば眠れないのではないかしら、室内を茨で囲ってしまえば何があっても安心ねと言えるかな――なんて思考を巡らせていれば、
「君の香りがあるから、僕はいつもばっちり安眠だし。リティもより落ち着いて眠れたら……――そうだ」
ふと類の裡に湧いたのは、可愛らしい悪戯心。
「君が飛ばされてしまわぬよう、確り捕まえておこうかなー」
愉しげに微笑みながら、小柄な身体を腕のなかへ包み込む。そのぬくもりに口許を綻ばせていばらが見上げれば、当の旦那様は再び窓を過ぎった雷光へと惹かれ始めていたものだから、娘はそっと左の頬へと口付けを贈る。
こうしてふたり仲良くするのも、旅行の醍醐味のひとつだもの。そう言わんばかりの緑の眸はどこか得意気で、敵わないな、と類もふわり相好を崩した。
更にお返ししたいなという気持ちも、いばらにはお見通し。
ならばと腕に包まれたまま、サイドテーブルにあったガイドブックを手に取り広げ、
(このときだけでも、類がリラックスできますよう)
そう願い乍ら、明日の旅程をふたりで|復習《さら》う。
「前来たときは夜の飛行だったから、真っ白な雲の海さんを見るのも楽しみ!」
「雲の海を駆けるのは、また全然違うだろうしねぇ」
「海に入らなくても、景色や浜辺遊び沢山しようねぇ」
「そうだね。折角の空だ、からっと晴れて欲しいのはあるな」
「……でも、雷さんを横から見る機会は中々ないのよ?」
こんなことを言ったら類の知識欲を擽ってしまうかも? とちらり見れば、「それも気にはなるけど……共に飛ぶんだ安全第一! で」と揺らぐ心を抑えた様子に、いばらももひとつ笑みを刻む。
窓を叩きつける雨音は一層激しく、ごうごうと唸るほどの風は止む気配もない。
それでも屹度、夜が明ければ、空はまた美しい彩で出迎えてくれるはず。
「ねぇ、リティ。願いを込めて、てるてる坊主さん作ってみるかい?」
今夜だからこその素敵な提案に、いばらの眸も一層燦めいて、
「ふふっ、それじゃあ家族分作りましょう。あなたに、私に、瓜江、灯環……リリ。クレアへは、お土産に可愛い貝殻さん見つけられたら良いな」
「家族分となると窓辺が賑やかになるが、いいね。そうしよう」
テントの裡にある、沢山の|六角形《ハニカム》型の窓。そのうちのひとつに連ねたてるてる坊主は、まるで家に集った家族のよう。
「これで、嵐さんなんて屹度どこ吹く風ね」
時折揺れるその姿に見守られながら、ふたり静かに言葉を弾ませ――嬉しそうに寝息を立て始めたいばらの髪を、類はそっと優しく撫でた。
✧ ✧ ✧
心地良いぬくもりに抱かれながら目覚めたいばらは、ぼんやりとした思考のまま幾度か無意識に瞬いた。
すぐ傍には、静かに呼吸を繰り返す類の寝顔。そんな“先に起きたほうの特権”に口許を綻ばせたのも束の間、気づけば確かに感じる穏やかな空気の|気配《けわい》に、弾けるように飛び起きる。
「――晴れてるわ!」
「……ん、ああ……おはよう、気合十分だね?」
「おはよう、リティの旦那さん。台風一家さんは別の場所へ行っちゃったみたいだから、身支度したら出発よ」
その弾む声を聞きながら、上半身を起こしてゆるり視線を窓へと移す。まだ薄暗く静謐さを孕む景色を背に、「お日様は待ってくれないのー」と身支度を始めるいばらがどうにも愛らしくて、
「了解。見逃す前に、身支度していこうか」
ふわりと綻んだ類も、頷きながら立ち上がった。
外へと出れば、眠りの大地から目覚めの空へと壮大な色彩のグラデーションが生まれ始めていた。
嵐の名残を残す草葉の露が、頬を撫でた風に乗って淡く大気へと消えてゆく。微かに鳥の声が響く先を見遣れば、じんわりと涯てに色が灯っていた。
――朝が目覚めてしまわぬうちに。
同じ衝動を胸に、ふたりは急ぎ幻獣の集う天蓋へと駆け出した。前日の約束通り、既に待機していた幻獣管理人と挨拶を交わし、足早に奥へと進む。
「飛竜さん……!」
2年振りに再会したワイバーンへと小走りで近寄ったいばらは、淡く世界を彩るひかりに耀く繊細な鱗へと優しく触れた。類も「久しぶりだね」とその巨軀をゆっくりと撫でる。
「またに乗せてもらえるの嬉しい。よろしくね」
「僕も嬉しいよ、飛龍君。今度は素敵な朝の空を見せてくれるかい」
ふたりに撫でられ低い音で喉を鳴らしていたワイバーンは、言葉の代わりに長い首を垂れて顔をすり寄せた。ふたりの姿を映した穏やかな双眸が、嬉しそうに窄まる。
この子に乗るのは二度目ならば、以前のようにおっかなびっくりはないけれど。これから出逢えるであろう彩を思えば、あのときと同じく気持ちはぐっと前のめりになってしまうから。縦列でその背に乗ったいばらは、すぐ後ろで包み込むように身体を支えてくれる類のぬくもりに安堵の笑みを浮かべると、握っていた手綱を介して飛龍へと合図を送る。
「今日は、美しい景を見に行きたいんだ」
「だから連れて行ってくれる? ――朝日の見られる、お勧めの場所へ」
ふたりの声に応えるように、低く柔らかな声を明け空へと響かせると、飛龍は両翼を広げてゆるり舞い上がった。恐さはなく、寧ろその不思議な浮遊感に笑みが毀れてしまうほど。
夏の熱を帯びた大地から離れ、忽ちひとときの空の遊覧が始まった。肌に触れる大気は程良く涼やかで、類もいばらも、ほんのりと残る雨の匂いごと胸一杯に吸い込んだ。裡から浄化されていくような心地に、頬も、心も、静かに緩む。
「この季節には涼しくて気持ち良いね」
「ああ、気持ちいいねえ。昨夜の窓の外の風の激しさを思い出すと、不思議な気分だ」
あんなにも荒れ狂っていた空は、今はまるで別人のように穏やかな表情を見せていた。
轟く雷鳴は消え、在るのは唯、風が絶え間なく呼吸するその音色だけ。眼下を流れる雲の群れは穏やかに揺蕩い、どこまでも薄藍に染まる天穹の遠く視線を凝らしたその先に、朝色の水彩を纏った筆でそっと触れたように淡く薄紅が灯り始める。
世界に落とした一滴の彩が、燦めきを帯びながら、ゆっくりと音無く空の水面に染みてゆく。
淡い紅と藍が出逢い、刻の移ろいとともに光も増した空。その涯てに、別の――優しい|甘橙《オレンジ》が浮かんだ。世界が熱を帯び、隠れていた万彩がひとつ、またひとつと目覚めて景色を象ってゆく。
「わぁ……るい、類、みた? みえた?」
「うん、見えるよ……すごい」
明け空を眺めながら、瞬くことすら忘れたいばらが零し、知らずと息を飲んでいた類がちいさく頷いた。
これが、と浮かんだ言葉の後が続かない。言葉では到底表しきれぬ美しさに、また息を止めてしまいそうになって、堪らず類は片割れを――唯一無二の番の名を呼べば、自然と視線が交わった。
空の彩を映して燦めく、淡い緑の眸。歓びの滲むその耀きは世界のなによりも美しくて、愛おしさが胸に込み上げる。
「……素敵な魔法だね」
そう言うのが精一杯だった。今このひとときを己の“夜明けの花”たるひとと過ごせるその幸せで、感情が緩んで溢れ出してしまいそう。
その想いが誰よりも一等わかるから、いばらも花綻ばせてそっと類へと身を寄せた。
世界が過ごしてきた時間に比べたら、今はほんとうに、ほんの僅かな時間だろう。けれど、娘は祈らずにはいられない。
(でも、でも、ねぇ、お空さん)
この景色は、この彩は、いとしい彼が好きな景色なの。
だから、どうかどうかもう少し、あなたの素敵な魔法を見せて頂戴ね――。
四つの季節を二度も超えることになるなんてまだ知らなかった、あの夏。
大切な仲間である娘への好意に彩が灯り始めているのは、とうに気づいていたけれど。伝えても良いものか惑いながら、伝える術を探っていた青年と。
同じ気持ちを抱きながら、触れそうで触れ合えぬ距離に切なさを募らせていた娘が居て。
――類も、リティを掴まえていてね?
あのとき恥ずかしさを秘めた声音で零した願いは、ほんとうに欲張りだと思っていたのに。
(此処は……今では、リティの特等席)
躍るように生まれる好奇心や、ちょっとずつでも芽吹く色々な成長を、穏やかに見守ってくれる太陽のようにあたたかいひと。
仲間であり、家族であり――来世をも傍にと誓った、唯一の愛を捧ぐ愛しい番へと破顔するいばらを、類はこころのままに抱きしめる。
あのぽつりと零れた“お願い”は、あのときも今も同じく、願ったりだ。
腕のなかに包んだときも、飛ぶときに支え触れたときも。そのぬくもりや表情、声――すべてに今も、胸は高鳴ってばかり。けれどあのころと違って、今はもうどこまで触れて良いかなんて窺う必要もない。
あれから今日までのこの年月に、たくさんの言葉を、想いを伝え合い、重ね合い、ともに恋から愛へと育んできた絆。感情のように移り変わる彩を抱く空のように、ふたりの想いも変わりながら一層広く、深く、どこまでも続いてゆくから。
「どんな嵐が来ようと、ひかりに溢れても……決して、リティを離したりしない」
いつだって笑顔と元気を与えてくれて、頼りになる愛おしい妻が、安心できる居場所でありたい。そうしてふたり、色々な世界の美しい景色を巡っていきたい。その願いごと、恋と、愛と、番としてのありったけの想いを注いで囁いた類へと、いばらも視線で想いを紡ぐ。
執着が凄いと、彼は自分のことをそう言うけれど。
(それはお互い様なのよ? リティの旦那さん)
あなたもしってるでしょう?
ふたりは惹いて、惹かれて、包みあって――これからも、ずっともっと恋をするの。
成功
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