水も花も、尽きぬは恋歌故に
手を握り、地の隙間である洞窟を進むふたり。
ぽたり、ぽたりと鍾乳洞の天井を伝い、水滴が旋律を刻む。
「大丈夫かな、ミルナ様」
問い掛けたのは八秦・頼典(平安探偵陰陽師ライデン・f42896)。
平安の世に生きる貴族にして陰陽師だ。
暗い洞穴を進む為に、光を放つ形代をランタンのように灯りとして、海の色を宿す少女の前を進んでいる。
「ええ、大丈夫です。頼典様!」
ミルナ・シャイン(トロピカルラグーン・f34969)が明るく応えた。
ひらりと空を泳ぐのは人魚姫の美しい尾。
碧瑠璃の双眸に光を湛え、微笑みながらミルナは続ける。
「助手として選んでいただけて光栄ですわ! お役に立てるよう頑張りますわね」
「ああ。頼むよ、ミルナ」
頼典もまた、穏やかに笑ってみせた。
ふと、平安結界の綻び気づいたのは頼典だった。
が、あの洞穴は確かと考え、折角なら丁度よい機会だとミルナを誘ってみたのた。
助手してミルナを伴い、洞窟探索デートに誘ったのも本心から。
頼典は産まれて初めての洋装である水着姿をしている。
一方でミルナは、アヤカシエンパイアにちなんだちらし布を巻くだけの水着に、天女の如き羽衣を纏う。
互いに、互いの産まれた世界の姿に身を包み、ふたりだけの場所へと進んでいく。
「さて、転ばないように気をつけないと」
洞穴の中は流れる水のせいか、とても涼しい。
だが一方で足を滑らせやすい。
ひとの手が加えられた痕跡もあるが、足場としては頼りないとしか言い様がなかった。
「でしたら、わたくしの手をどうか」
手を差し出すミルナ。
深海人であるミルナは僅かに浮遊している為、決して滑ることはないだろう。
「ああ。ミルナ様という助手の手を、しっかりと頼らせて貰うよ」
柔らかな声色で頼典が囁けば、そっと柔らかく手を重ねるふたり。
洞穴の涼やかさの中では、触れあう人肌がとても暖かく、心地よかった。
壊れかけた足場をひょいと渡ろうとすれば、濡れているせいで僅かに転びそうになる。
また洞穴の当然として光は頼典の持つ式神だけだ。
支えるミルナに、周囲を照らして先へと導く頼典。
先へ、先へ。ふたりで奥へ。
そう進んでいく頼典とミルナ。
そうしてついに、目的の場所に辿り着いたのだと、僅かな光が洞窟の奥から差し込んでいた。
「わ、見て下さい。頼典様!」
光の中へと辿り着いたミルナが歓声をあげる。
見れば色を帯びるだけではなく、自ら光を発する花々が洞窟の空間を埋め尽くしていた。
名も知らない、不思議な花たち。
神秘的な光と彩に彩られた、何処か物寂しい広場。
「ここが目的の場所だ」
頼典が告げる通り、此処は古くは納涼の歌会が開かれていた。
だが、日に日に増す妖との戦いで徐々に忘れられ、寂れていってしまった場所。
ここに咲く花は、かつてに歌われた思いの名残。
長らく放置されていたからか平安結界に綻びが生じている。
このままにしていれば、いずれは妖の巣となってこの名も知らぬ花々はが消えてしまうのだ。
頼典にそう説明されたミルナは少しだけ考えるように、花たちを見上げた。
「この花も、光も、色彩も。誰かの祈りが続いているということなのですね」
名も知らない人々が咲かせた、名も知らない|花《いのり》。
「ええ! 決して散らさせる訳にも、潰えさせる訳にもいきませんわ!」
こんなにも美しいものを続かせること。
それが平安結界というものだとミルナも心の底で感じていた。
同時にが頼典の守ろうとしているものを知れて、微かな喜びにミルナは眸を揺らした。
好きなひとの、大切なもの。
それを知れることは、ただ嬉しいことなのだから。
歌う必要もない、当然のこと。
●
花の中央で歌会のように向き合う頼典とミルナ。
周囲を眺め、心で感じて、何を歌うのかと思いを馳せる。
「どうぞ、ミルナ様」
レディーファーストと先を譲る頼典。
この手のものは、受け返すほうが難しい。
そういう事もあるが、頼典はミルナの心の裡を聞きたかったのだ。
「で、では」
僅かに視線が泳ぐミルナ。
平安貴族ではないミルナにいきなり歌をと云われても、流石に不安が過ぎる。
けれど、優しく見つめる頼典の視線に、何を口にしても大丈夫だと気づかされる。
此処はふたりだけ。
笑うものなんて、いはしない。
ならと視線を巡らせれば、洞穴の天井から降りる藤に似た花。
決して離れたという花言葉を持つ藤の花と、それを体現するように壁に絡みつく蔦たち。
ならと。
思い浮かぶ儘にと、ミルナの唇は歌を刻む。
まるで水滴が地へと零れるような、涼やかに澄んだ音色で。
『藤波の 思ひもとほり 若草の 思ひつきにし 君が目に 恋ひや 明かさむ 長きこの夜を……』
今は夜ではないけれど。
頼典の光がなければ、迷ってしまう鍾乳洞はとても似ている。
ならばと有名な恋の長歌を口ずさんでみせたミルナ。
ミルナは高校生の頃は古文が苦手だった。けれど、頼典と出会って、少しでも近付きたい一心で和歌や平安文学に親しむようになって、覚えた歌のひとつ。
――藤の蔦のように想いがまとわりつき、若草のように美しい貴方様への想いが離れない……。
歌に込められた想いには、時を超えて共感出来たから。
今も周囲で光を纏う花を、美しいと思った誰かと同じように。
歌って素敵な文化ですわよねと、ミルナは心の中で頷く。
確かに、この藤状の蔦が洞穴を支えるように張っている。
けれど、頼典はミルナの真意はそこに在るのではないと感じるからこそ。
するりと息を吐いて、ひとつを歌う。
「かくしてぞ 人は死ぬといふ 藤波の ただ一目のみ 見し人ゆゑに」
返した返歌は、藤を女性の美しさに譬えた歌。
艶やかな女性の姿に一目惚れして、もう焦がれて身を儚みそうだと、悶々と恋心に苦しむ男の心情を語るもの。
だが、瞬くミルナ。
恋心に苦しむのは男だけはなく、わたくしもなのだと。
それこそ、この関係はミルナの一目惚れから始まったのだから。
決してこの始まりを譲りたくなくて。
私が先、私の方がもっと好き。
そんな恋人の睦言のように、ミルナは歌を詠む。
『愛しと我が思ふこころ 早川の塞きに塞くともなほや崩えなむ』
なんて歌を詠めば、この洞穴を流れる川も急流になってしまうのだろうか。
そうだとしても、ミルナは自分の想いを頼典に受け止めて欲しい。
政務も、グリモア猟兵としての仕事もある頼典を独占してはいけない。
ミルナとて重々と承知しているが、今はふたりきり。
花と水だけが見ている世界なら、少しくらいなら甘えてもいいのでは。
こんなにも美しくて、優しくて。
愛しい祈りに包まれているのなら、ねぇ、少しだけ。
ミルナの潤んだ眸を向けられ、頼典も静かに頷き、歌で返す。
「涙川 たぎつ心の 早き瀬を しがらみかけて 堰く袖ぞなき」
ミルナの恋心にさかまく涙川の早瀬に柵をかけて、慕情の流れを堰き止める袖なんて。
ご覧の通り、ある筈もなない。
「……ここにはボクら以外、誰も居ない」
そっと静かに、言葉を浮かばせる頼典。
受けて、そっと立ち上がるミルナ。
ふたりを隔てるものは、そう、何一つないのだから。
「思い切って甘えたって……おっと」
夏夜の夢のように淡くて儚い、ひとときを。
愛おしい瞬間を求めるようにとミルナが頼典に抱きつき、その頬へと唇を寄せる。
優しい口づけは、切ない程に暖かいから。
「はは、まさに激流の如し飛び付きだ」
僅かに目を細めて頼典が囁くように歌う。
これはどの花にも、流れて過ぎゆく水にも渡さない。
ミルナだけに捧げる歌なのだと。
「……涙川 おなじ身よりは 流るれど 恋をば消たぬ ものにぞありける」
頬に触れた口づけの熱と想いに、頼典は改めてこの歌を贈るのだ。
『涙川身も浮くばかり流るれど 消えぬは人の思ひなりけり』
ミルナも時を置かず、自らの想いを託す歌を詠み上げていた。
息をするのが、何処か苦しい。
幸せだからこそ、鼓動に痛みが走る。
もっと深くと、恋慕の火が鮮やかな花のように咲き誇る。
「深海陣であるミルナ様と地上で暮らすボクは、本来は交わらない種族同士」
産まれた世界が違う。
生きる天地が違う。
けれど、今やそんな事は些細だと触れあい、抱きしめあう温もりだけが、唯一の真実。
ふたりを隔てる障害という川がどれだけ広く、流れが速かったとしても、どうしてふたりの恋の火を消せるだろうか。
「例え如何なる苦難があろうとも、如何なる障害があろうとも」
ミルナの青い海色の髪にそっと顔を寄せて。
頼典が耳元でひそやかに囁く、甘い声色。
「キミと出会って震えたボクの心で燃える恋という火は制御不能な涙川でさえ消えやしない」
「ええ。ええ。今だって清水の舞台から飛び降りるくらいの勇気を出したのですもの……」
ぴくりと震えるミルナの耳元で、くすりと笑う頼典。
ミルナが勇気を出したのなら、男である自分も想いを示さなければならないだろう。
ゆっくりと頼典の唇がミルナの頬に触れ、心の秘める恋の熱さを伝えた。
嘘偽りない、想いの触れあい。
ミルナもいよいよ真っ赤になって、体温さえ上がって白い肌に朱を帯びるほど。
でも、もう少しだけ幸せに浸っていたいから。
「少しだけ、このままで。頼典様の腕を、声を、私だけの為に……」
そんな我が儘を口にする海の人魚姫。
許すようにと優しく笑う平安の陰陽師。
「……身体も冷えて来ただろうし、暫くこのままで居ようか」
このことを知っているのは、頼典とミルナと、名も知らない花たちだけだから。
大丈夫だと、頼典の指がミルナの背を撫でる。
その熱を、愛しさを、確かめるように。
ああ、だから。
平安の世から、花は尽きることはないのだ。
恋を種として芽吹くものだから。
またひとつと、洞窟の中で新しい光と彩の花が咲いた。
成功
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