湖面は星空を映し、心を浮かべる
穏やかな湖面は、黄昏の色に包まれていた。
広がる光は儚げな赤橙。
優しげで、切なげで、けれど暖かい。
そう感じるのは、ふたりきりだからだろうか。
こんなにも美しいと心が震えるのは、愛しいひとが傍にいるからなのか。
心の奥に染み渡る夕焼けの湖に、キリカ・リクサール(人間の戦場傭兵・f03333)は感動の溜息を零した。
「すごいな……まるで、湖全部が宝石のようだ」
斜陽に照らされた水面は艶やかに輝いていた。
柔らかな風に揺らされながら、きらきらと終わりゆく光を湛えている。
キリカは向日葵をあしらった明るい橙の水着姿。今年のコンテスト用にと新しく仕立てた姿だ。
瑞々しく美しい乙女の肢体を惜しげもなく見せて示し、柔らかな曲線が夕焼けの中で眩く見える。
ああ、でもと。
私よりもなおと。
キリカは湖畔の傍を歩きながら、しっかりと言葉を響かせる。
「そして、それに彩られる姿は何時もよりも美しいよ。魅夜」
ヴァイオリンのように硬くも高く澄み渡る声色に、呼ばれた漆黒の令嬢は微笑んでみせる。
ああ、美しき情を絡めてくれる貴女の為にと。
黒城・魅夜(悪夢の滴・f03522)はふわりと踊るように身を翻す。
「ええ。今日は特別ですから」
魅夜が纏うのは、夕焼けよりもなお鮮やかな赤い水着だ。
本来の色彩である黒と重ねられたそれは、蝶のような神秘なほどに優雅な姿。
気品を伺わせるスタイルの良さと、しなやかな肢体の艶やかな美しさがより際立っている。
そんな姿をキリカに見せるようにと、魅夜はくるりとまた回る。
「せっかく新しく作った水着です」
蝶の翅のようなパレオは魅夜の動きに伴って、ふわり、くるりと瞬くようにと靡いていく。
「その最も贅沢な使い方は……」
嫋やかなる微笑みを浮かべ、誘うように黒い眸を揺らす魅夜。
ああ、確かに今の魅夜は心と魂を奪う美しい蝶だった。
「ふふ、たった一人のためにだけ着ることです。あなたのためだけにね、キリカさん」
これほどに美麗な姿を、ただひとりの為に。
心の底から、キリカただひとりの為にと。
他のひとの美辞麗句なんていらない。キリカに見惚れて欲しい、美しいと囁いて欲しい。
真っ直ぐな想いは魅夜の姿を、より麗しく飾り立てるばかり。
「そして、この一時だけでもあなたの目を奪いたい。心を攫う蝶でありたい」
詠うような魅夜の軽やかな声に、キリカも緩やかに微笑んだ。
「なんて幸せなことだろうね。魅夜の今を、私だけが見られるなんて。ああ、きっと抱擁よりも魅夜を独占しているということなのだろう」
そういいながら、キリカはそっと魅夜の傍へと、その身を労るようにと寄り添う。
肩と肩が触れあうような距離で、ふたりの視線が絡み合う。
「辛くはないかい? 魅夜」
夕暮れとはいえ、世界を包むのは太陽の光。
ダンピールである魅夜には少し辛いかもしれないと、キリカはそっと魅夜の肩を抱く。
魅夜の肌はやはり白かった。
陽の光を知らないかのような、透き通るような白い肌。
優しく、優しくとキリカの指先が、魅夜の柔肌を撫でる。
「大丈夫ですよ」
応える魅夜の声は穏やかだった。
「真昼なら多少は辛いものですが、このくらいの時刻なら湖面に輝く夕日を見つめるのもいいものです」
そういって、湖に浮かぶ斜陽の姿を見つめる魅夜。
「キリカさん。あなたと、ふたりきりなら。隣に大切なあなたがいるのなら……ふふふ」
幸せですねと。
そう告げる魅夜とキリカは、同じ歩幅とリズムで歩き続ける。
互いの吐息のぬくもりを感じながら。
「言葉はいりません。ただ、この壮大な光景を二人で分かち合いましょう」
「フフッ、そうだね。今は言葉はいらないか」
太陽が落ちていく。
斜陽の色彩が、何処か切なくも優しく湖を照らす。
地平の彼方へと消え去る、その僅かなる間に優しい赤の色彩が世界を包んだ。
ああ、まるで慕情の色だと胸に抱いたのは、魅夜かキリカか。あるいは、ふたりともか。
ただ言葉はなく、夕焼けが過ぎ去るひとときを。
音もなく、何かが終わるその瞬間を、繊細に情感を震わす終の美を眺めるていた。
「…………」
「…………」
何かをいう必要なんてふたりにはなかった。
気づけば互いの手を握り、指を絡めて、身を寄り添い合うだけ。
そうして夜の帳が降りて、静かにと闇が満ちていく。
ひとつが終わっても、まだ世界は続くというように。
優しく静かな夜闇がキリカと魅夜を抱き、少しだけ涼やかな風がふたりを撫でる。
世界の色彩が赤から黒へと転じていく。
そうして、夜空に浮かぶのは数多の星々たち。
煌めく姿はさながら宝石のようで、夜の麗しさを詠うかのようなその姿。
「まるで魅夜の美しさを湛えるかのようだね」
キリカが囁けば、くすくすと魅夜が笑う。
嬉しくて。幸せで。楽しくて。
けれど、ああ、これだけでは足りないのだと湖の近くを歩み続ける魅夜とキリカ。
近くに泊めてあった小舟に気づけば、そのままふたりで乗って湖の裡へと漕ぎ出していく。
満天の星空と、それを映す物静かな湖面。
見上げても、見下ろしても、何処も見ても目を細めるほどに美しい星彩が溢れている。
「すごいな……こんな風景は、なかなか見れるものではないね」
けれど、もっとも美しいのは、星屑に彩られた互いだった。
目を離せない。天も地も綺麗なのに、視線を外せない。
まるでキリカにとっては魅夜が、魅夜にとってはキリカが、世界の中心であるかのよう。
ただ水面にて揺蕩い、星灯りに包まれる。
そんな静かで穏やかな、ふたりきりのナイトクールズ。
「天と湖面にさんざめく星々が瞬いて」
そう口ずさむ魅夜のしなやかな指先が、夜空の色を湛える水面に触れる。
映り込んだ星の光と戯れるように指を動かせば、決して掴めない筈の夜天の宝石にも触れられるかのよう。
「光の中に漂っているかのようですね」
ならと囁くように。
キリカの腕が伸びて、魅夜を抱き寄せる。
小舟がまるで木の葉のように水面で揺れた。
魅夜を腕の中で抱きしめるキリカは、静かに囁いた。
「……星の光と、夜の闇に漂っても、私はきっと魅夜の傍へと近寄るのだろう。抱き寄せるのだろう。……そうせずにはいられないと、心が震えている」
このまま小舟から、夜空のような湖水の中に落ちてしまいたい気もした。
けれど、今はこのまま。
肌を触れあわせて、吐息を混じり合わせて。
美しい静寂に浸りたかった。
言葉にならない想いに包まれたかった。
夏の夜空の色と星光は、キリカと魅夜を祝福してるかのようだった。
「…………」
ただと。
キリカは腕の中の魅夜の貌を覗き込む。
楽しんでくれているだろうか。
そう思って視線を巡らせば、穏やかな笑みを浮かべる魅夜に、キリカは心の底から柔らかな一息を零す。
そうしてもうしばらくと、ふたりで夜空をそのまま切り取ったかのような水面を眺めていた。
そうしてしばらくの時をふたりで過ごしていく。
どれほどの時間だろうか。とても長いようにも、もう少しと願うほどに短かった気もする。
そろそろ陸に戻ろうかとキリカが思ったのは、少しだけ夜風が肌寒いと感じたから。愛しいひとが冷たいと震えて欲しくないから。
だからと魅夜に声をかけようとした瞬間、ひとつの光が空から流れ落ちた。
「あら……」
音のない夜空を、一筋の美しい光が走り抜けていく。
「ふふ、流れ星ですよ、キリカさん」
いいや、それはひとつ、ふたつではかった。
ふたつ、みっつと流れる星は数を増やしていく。
まるで堰を切ったかのように。
或いは、感極まった心が零す涙のように。
数え切れないほどの流星群が、音もなく降り続けていく。
きらきらと、きらきらと。
瞬いて輝く流れ星の姿に心を奪われるように、夜空を見つめるふたり。
「願い事を懸けますか? 私は……」
これほどの流星があるのなら、ひとつぐらいは願いを叶えてくれる優しい光とてある筈。
そんな風に思える、神秘的なほどに美しい、光と静寂の夜空に魅夜は楽しげな笑みを響かせた。
「ふふ、私は願いません。私にとっては、願いも祈りも自分の手で掴むもの」
そういいながら、魅夜はキリカの手を大切そうに握り絞めて。
絡め合う指のぬくもりを、柔らかさを、もっと感じたいのだとゆるゆると星の流れるリズムに合わせて手を揺らす。
「お星さまの力には頼りません」
「それでこそ魅夜だね。そういう姿こそが美しい」
キリカもまた魅夜にされるがまま。
全てを包み込むようにと、星映す湖面のように穏やかな表情を浮かべている。
だからと。
夜空のような静けさと、小さな光を魅夜はその貌に湛えて告げるのだ。
「けれどあの星は誓いの証にはなるでしょう」
星の光は儚いものだけれど。
それでも簡単に潰えるものではないのだから。
星の命ほどの長さと、熱情を持って、魅夜はこの言葉を響かせる。
「そう、キリカさん、あなたを必ず幸せにするという誓いのね」
まるで花嫁が永遠の愛を、希望を、そして祈りを告げるような魅夜の声と姿。
夜闇に溶けてしまいそうな漆黒と、透けるような白皙の美貌。
いいや、そんな表面だけの美しさではない。
キリカが抱きしめたいと思うのは、魅夜がその心の底に抱える美しさ。情念であり、誇りであり、悪夢より希望の未来へと進む為の光。
ああ、そうだ。
夜闇で消えることなく、瞬き続けるこの星たちのような光こそ、魅夜の美しさなのだから。
「星に”誓い"を……か。フフッ、それじゃあ私もあの星に誓おう。同じくらい、魅夜の事を幸せにして見せる……とね」
キリカもまた星に誓い、星に詠う。
世界でもっとも美しい星である魅夜の為に。
幸せという光をあなたに届け続けよう。
愛しい、愛しいと囁いて触れながら。
あなたの肌を撫で、あなたの眸を覗き込み、あなたの吐息を吸って、耳元で愛を囁き合う。
そこに果てなど、きっとないのだと信じている。
無条件に、理由も根拠も無く、ただキリカと魅夜だからと。
「星の命より長く続く愛と幸せを。彗星が抱く光よりも心を照らす優しさを。恒星よりも深い熱情を。……魅夜のために」
そんな詩のようなロマンチックな言葉を、事実として魅夜に贈るキリカ。
「でしたら――夜よりも優しく触れあい、静かに抱きしめ合う日々を。夢よりなお甘く、魂で結ばれることを。……キリカさんと」
そう囁くふたり。
もしかすれば。
互いが夜闇の裡で見つけた綺羅星なのかもしれない。
どんな世界と、どんな不条理の中でも、戻るべき日常と愛を示す北極星であるのかもしれない。
どれほどに迷っても、必ずふたりは巡り逢う。
傍へ、懐へと。
それこそ、流星が辿り着くべき場所を見つけたように。
まるで夢のような噺だけれど、キリカと魅夜にとっては真実だった。
掛け替えのない絆で、大切な事実。
この愛おしい思いを、幸せとして相手に届けるのだと触れあう。
頬を擦り合わせ、額を寄せて。
水着で覆われていない柔らかな肌を重ね合わせて、甘美なまでの互いの感触に心の底から溢れていく。愛という言葉だけで足りない何かに、ゆっくりと溺れていく。
上も下も、周囲の全てが星屑に満ちる湖の真ん中で。
愛しているでは足りないのだと瞼を閉じる。
傍にいるだけで満ちる幸せに、声を漏らした。
夜闇は優しく包むもの。
だからふたりのそれからを、誰もみてはいない。
夜空だって、みていないフリをした。
――だって、この誓いと幸せはふたりだけのものだから。
静謐な光を零し続ける星空は、ただただ仄かに照らす。
神秘的な夏の優しいひとときを。
まるで夢のように流れるふたりの時間を。
成功
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