朱殷の怪奇は怨嗟を呼ぶ
暗くて昏い夜の奥底で、影が嗤っている。
いいや、嗤い声どころか一切の音はない。
影が蠢くものの、それは一切の声を発していなかった。
嗤っているなんて、日常に暮らす人間が見て勝手に憶えるものなのだろう。
影の怪奇が抱く感情などなかった。
影の怪奇が誰かに向ける言葉などなかった。
夜闇の底も底、街の路地裏でどろどろと影が蠢き、形を変え続けていた。
どうしてこんな者と出会ってしまったのだろうか。
どうして、こんな場所へと迷い込んでしまったのだろうか。
何かの気配を感じて、この路地裏へと迷い込んだ若者はあまりに運がない。或いは、死と破滅の匂いに惹かれてしまったのだろうか。
「ひっ」
喉を引きつらせて悲鳴をあげたが、もう襲い。
影が飛びかかり、巨大な腕でその頭を強打する。
壊すのだ、貌を穢すのだと、何度も何度もその巨大な影の腕を振るい続ける。
「――――」
まるで漆黒の汚泥が這いずり回るかのように変化し続ける異形、影の姿。
ヒトのようだった容を棄てて、翼のような、鉤爪のような何かを得るそれ。
嗤うことも、嘆くこともないが、まるで亡霊のように呪詛を撒き散らすモノ。
名をエトランゼ。
影を操り、影に姿を変える六六六人衆のようなナニカ。
真実は全て闇の中。だってこの狂った殺人鬼と出会って、生き残れた者などいないのだから。
逃げようとしても感知不可能な棘荊を孕む闇が周囲を覆い尽くして、犠牲者を作るだけ。
事実、頭部が原型を失うほどに殴られた若者以外の者は逃げようとして、影の棘荊に喉を貫かれていた。
逃れられない。悲鳴も出ない。
ただ死が転がるだけ。
それを語るように、ぬらぬらと赤い液体が路地を濡らしていた。
血だ。血液だ。ひとの身体にこれほどの大量の液体が入っていたのかと驚く程の鮮血が、何処までも広がっていく。
そんな血の海を、影の化け物たるエトランゼが歩き回る。
ぐじゃりと、柔らかな肉を――ヒトの姿をした肉の塊を、その足が無惨に踏み潰した。
肉片と骨の欠片が周囲へと飛び散り、新たな血が吹き出る。
だが、それが何であったかをエトランゼが考えることはない。
ただ、ただ、何度も何度も戯れるように、遺体を踏みつけていくエトランゼ。
壊れた人形のように、あらぬ方向へと首と四肢がねじ曲がり、胴体も胸部も凹んでしまって元の形も解らなくなっていく。
まるで赤い果実を踏み潰すかのようだった。
――クフ、と。
飢えて乾いた獣の腹から零れるような息が零れる。
エトランゼが発したのか、それとも闇の圧力に耐えかねて空間そものが鳴いたのかは判別出来ない。
そうして、ぽたりと。
影の雫が、血へと墜ちる。
黒と影が混じり、赤黒い何かが周囲を覆っていく。
肉片に臓物。どろりと粘つく生物の中身を呑み込んでいく、赤黒い沼。
そこより咲くのは朱殷の蓮華だ。
不吉な色彩を、つやつやと咲かせる花びらはさながら瞳膜の色彩に似ている。
死の花だった。
が、まだ足りないと飢える花だった。
赤黒い沼からは痩せすぎの影手が伸びて、犠牲者たちの遺品を漁っていく。
ごそり、ごそりと、覚束ない動きで懐を漁り、ついに見つけたそれらを空へ、闇に覆われた空へと掲げる。
スマートフォンだった。
痩せた影の指がそれを掴み、ぬちゃちゃと音を立てて画面を叩く。
ぴっ、と電子音が鳴る。
仄かな光が影と闇の中で輝き、誰かへとメッセージを送ったことを告げていた。
――此処においでと。
――私は此処にいるよと。
エトランゼは犠牲者の名を騙り、犠牲者の遺品を使い、その絆を使って呼び込んでいく。
何も知らない犠牲者の友人達は騙されて、この場に誘い込まれるのだろう。
そうして、この血と影の沼に沈んでいくのだ。
まだ死が足りない。血が足りない。
不気味で無機質な光を灯すスマートフォンを掲げる影の手と、朱殷の蓮華が、血と肉片が残る場で、墓場めいた悍ましい静けさをもって、ひたりと咲いていた。
肉が足りない。
死が足りない。
臓腑を掻き分けてでも血を絞り上げるような、狂的な執念ばかりが、昏い闇の底で渦巻いていた。
そうして、影の手と朱殷の蓮華の養分となるように、肉と骨ばかりが影へと飲まれていく。
遺体の一切は残らず、鮮血ばかりが地面に残る。
その上でと。
ぴ、ぴ、ぴぴぴぴぴぴ――
と、無数の影の手と指が、数えきれないほどの犠牲者から奪ったスマートフォンから新しい贄を求めるようにとメッセージを送り続けている。
エトランゼは嗤うことも、何かを喋ることもない。
殺人への悦びも一切ないが、ただ続けている。
もしや、この影の手は犠牲者の怨嗟なのだろうか。
何故私だけが。お前も等しく壊されてしまえと。
そんな新しい被害者を求める、恐ろしき呪詛なのだろうか。
悍ましい怪奇の、恐ろしき惨劇の夜。
嗤うものさえいない闇の底で、ただ死者からの伝言が響いていた。
成功
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