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獣人世界大戦⑮〜死兵の叛徒
●確信犯の憂鬱
かすかな|痛み《痒み》。ほんのわずかな不快感。
否定された、なんだか傷つけられた気がした……そんな、曖昧模糊な思い込み。
そうしたことでさえのたうち回り喚き散らす者であっても、その痛みにだけは無限に耐えられる。
「それが、他者の痛みでしかないのであれば」
気が触れんばかりの激痛がそこにあろうと、澄ました顔で綺麗ごとを口にできるし、耐えられる。
なぜなら、自分はちっとも痛くないからだ。
癒えぬ傷口に無遠慮に指をつっこみ、乱雑に搔き回し、足蹴にして、繰り返し踏み躙ったとしても。
「彼は痛むが、私も、君たちも」
痛くない。少しも傷まない。
どれほど彼が彼女が泣き叫び悶え苦しもうとも、だからといってこの身体が苦しむことはないからだ。
それどころか、そのだれかの不幸はいっそ娯楽にさえなるだろう。自らが享受する安寧を再確認し、生物としての優越感に浸ることだってできる。新たな|生《地獄》を拒み、あの桜へと還ることも拒まれ、故に彷徨い続けるたましい。その無様で惨めな姿を嗤い、より苛烈な制裁を加えようとも咎める者などいない。いわゆる善人と呼ばれる者たちだとて、その不快で不浄な存在など出来れば見ていたくはないからだ。
「故に、これは意味のない問いだ」
彼らにとっての世界と私たちにとっての世界は、所詮は違うものでしかない。
戦争を知らぬ世の子らが、平和と云うモノを知らぬ者らの振る舞いを思いを理解できないように。
骸の海と呼ばれる果てを知らぬ者たちが、骸の海に堕ちた者が辿り着くこの結論を理解することはないのだろう。
――されど、而して。
私は尚も君たちに問おう。
「何故、欺瞞に満ちた世界を守る?」
欺瞞の仮面を被った者たちからは、やはり欺瞞に満ちた答えが返ってくるだけでしかないのだろう。
だれかに褒めてほしいから? 尻尾を振って、役に立つ番犬だと撫でてもらうためにそうするのか。
それとも、守りたいのではなく壊したいのか?
満ち足りぬ飢えと渇きを誤魔化す為、殺してもよい相手を、だれにもとがめられぬ“罪人”を探して。
守る為と叫びながら、その実は己の破壊衝動を|解放し《ぶちまけ》て留飲を下げている、殺戮者に過ぎないのか?
「答え給え」
虚飾と、不義に塗れた世界。
数多の屍を踏みにじり、踏み台にし続けることで我が世の春を謳歌する、|善なる《明るき》世界の住人たちよ。
果たして、貴様らは自らが“そう”なった時でさえ、その“綺麗ごと”を騙り続けることができるのか?
「……同志よ、世を憎む者共よ。集え。蜂起せよ」
貪欲な生に執着する、生命の亡者。
絢爛豪華に着飾ったその欺瞞の衣をはぎ取って。
奴らの怨嗟の声をしかと聞き届け、そして|証左《あかし》と為すが良かろう。
……或いは。
もしも、仮に君たちがそう望むのであれば。
敢えてその欺瞞にまみれた甘言に“騙されて”みるのも良いだろう。
たとえその先に――勇ましくも虚しき|空言《そらごと》の末に、|終焉《終わり》なく繰り返される際限なき悲劇の連鎖が待つのだとしても。
●|暗部《くらがり》の獣は斯く死にて
「『常に全ては覚悟の上』なのだと、そのひとは言いましたね」
不世出の天才。
稀代の悪魔召喚士。
邪な先覚者。
帝都転覆を企む大罪人。
幻朧帝直属軍令暗殺部隊――『黯党』首魁。
彼を指し示す為の言葉は、彼に嘗て授けられたのだろう勲章の数と同じくらい数多くあるけれど。
それらが言語という枠組みに囚われた単なる記号の羅列に過ぎず、決してその本質を捉えるに足るようなものではないことだけは、リア・アストロロジーは正しい意味で知っていた。
……そう、本当のところは何ひとつ知らない、そのひとりの人間について。
何を望み、何のために生きて、何のために死に、何のためにその残された時間を使おうというのか――想像することはできても、本当の意味で理解することなど不可能なのだ。
たとえリアが|精神感応《テレパシー》に特化して調整され造られた|超能力者《サイキッカー》であっても、彼女は自らの深層心理、生物として種としての潜在的欲求さえ満足に自覚制御できない、未熟な生物の幼体に過ぎないのだから。
「不世出の……天才。本田英和さん。彼が、そんな風にすごくすぐれた頭の良い人だっていうのなら」
時に空腹に負けて、疲労に負けて、眠気に負けて、心細さに負けて。脆い肉体は雨にも負けて、風にも負けて、冬の寒さにも負けて――その程度の才覚しか持ちえない自分と比較して。
「きっとわたしにはわからない多くのことを見て、知って、考えて、とっくのとうに答えを出して……そうして、何もかも分かった上で、あんな風に“意地悪”な質問をしているのかもしれませんね」
リアはどこか困ったような、何かを堪えているような表情で、頼りなく曖昧な笑みを浮かべて続ける。
「だとしたら、こんなことには意味はないのかもしれません。どこまでいっても、結局、わたしたちは少しも分かりあえない存在同士で。彼は本当は答えなんて求めていなくて。だから、言葉を交わすことなんて」
互いが互いを糾弾し、自らの大義をただ一方的に叫ぶ為の、やり尽くされた|確認作業《戦争の儀式》でしかなくて。
ただ、そこに横たわる隔絶をなぞるだけ。
それ以上の意味なんてないのかもしれない。
「……でも。それでも。いま、彼らはかつて自らの身に起きたことについて、わたしたちに語ろうとしています」
老兵の周囲に侍る、無数の影朧。
彼らが発する怨嗟と悲嘆の呻き。
その全ては既に起きてしまった過去で。とっくのとうに終わったことで。故に覆しようのない悲劇で。
その苦痛のこえは協奏曲の如く重なりあって、一つの呪いとなって、猟兵すらも取り込んでしまう。
そうして|呪い《悪夢》に苛まれる貴方たちを、盟約の妖獣はその鋭き爪で、牙で、無惨に引き裂こうというのだろう。
すでに死を、二度とは還らぬ消滅を約束された死兵――その男を守護する、強力な妖獣。
どこか恨みがましい目で、左の片眼で睨みつけてくる四尾の狐。
四尾は物事を見透かす千里眼を持つという、神にも等しい力を持つ『天狐』の証だろうか。
その狐は満足な答えを得るまで貴方を傷つけるというが、しかし黯に慣れたその瞳はどのような偽善も欺瞞もゆるさず、故に決して満足することなどないのかもしれない。……まるで、あらゆるものを否定する悪魔のように。
「実のところ、彼は……本田英和さんは、既にその命脈を断たれ、もうオブリビオンとして蘇ることもありません。だから、この戦い自体にも、もう意味なんてないのかもしれません。それでも……」
ある意味、良い機会ではあるのだろう。
自らの中にある、ある問いかけへの答えを探すために、あるいは確かめるために。
「――他ならぬ、あなた自身が」
何を求め、ゆえに争い。
何を愛し、ゆえに嘆き。
如何に生き、そして――、
「その場所に、その時間に、通り過ぎるその縁に。もしも何か意味を見つけられるというのなら……」
どうか、行ってください。
黯い場所へ。
奏でられる悲劇の曲の渦中へと。
――ほかのだれでもない、あなただけの|こえ《答え》を届けるために。
常闇ノ海月
「常闇ノ海月……もう、世界を憎むな」
「憎む? とんでもない、命を捧げます」
そんな感じで、|暗部《くらがり》にのぞむ、大戦の爪痕風味のシナリオです。
おそらく、シリアスなドMの方向けのニッチなアレです。
キャラがひどい目にあって脳が破壊されてもその苦痛も楽しめるような方は参加をご検討ください。
また、プレイング受付は断章公開をお待ち下さい。
●補足情報
当シナリオではフラグメントに登場する『悪魔「ブエル」』については取り扱いません。
すでに討伐された筈の『本田・英和』との戦いのシーンとして描写させていただきます。
よって、対応するユーベルコードは『本田・英和』由来のモノとなります。
●プレイングボーナス
悲劇の幻がもたらす「世界への憎しみ」に打ち勝つ。
●悲劇の幻(の一例)
大国同士の駆け引きや裏切り、戦争の火種を燃やし続けるための調整……などなど。
幻の中で貴方の戦友や恋人、伴侶、大事な人はそんな思惑のために大体みんな死んでしまいます。
本来は十分に助けられるはずだった命さえも、戦略や政治的判断などによってあっけなく切り捨てられ、或いは無謀で無策な作戦のために悲惨な最期を遂げてしまいました。
また、大変“運良く”唯一生き延びた貴方も、戦中に負った重傷や深刻なトラウマ等によって、生きがいだった趣味ももう二度とは楽しめない体となってしまいました。
孤独と無力感、悲惨なトラウマのフラッシュバックに苛まれ苦しむ貴方は、それでも大切な人たちとの思い出を大事に抱え生きていこうとしますが、世界は『狡兎死して走狗烹らる』を地でいく扱いを貴方に与えます。
英雄として称揚されるべき筈の献身はいつしか捻じ曲げられ、いまや貴方は世間に戦犯の凶状持ちとして非難される存在となりました。その力の特異性ゆえにどこへ行こうとも忌避され、凶悪な猛獣のような扱いをされる貴方に心安らぐ居場所はもうありません。
新たな世界の秩序を担う者たちは貴方を監視し執拗に付け狙い、時に獣じみた好色な目を向け、時に拷問まがいの嫌がらせを仕掛けては、貴方のトラウマを刺激してきます。
けれど、かつて戦場にあった戦友や仲間たち――助けてくれるような者は、もうどこにもいません。
●プレイングの採用について
今回は最低達成人数、4名様のみの執筆とさせていただきます。
では、よろしければ……これから毎日、世界を焼こうぜ!?(炎の破滅並感)
第1章 ボス戦
『悪魔「ブエル」』
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POW : 存在否定呪文
レベル秒間、毎秒1回づつ、着弾地点から半径1m以内の全てを消滅させる【魔力弾】を放つ。発動後は中止不能。
SPD : 生命否定空間
戦場全体に【生命否定空間】を発生させる。敵にはダメージを、味方には【戦場全体の敵から奪った生命力】による攻撃力と防御力の強化を与える。
WIZ : 損傷否定詠唱
自身が愛する【即時治癒魔法の詠唱】を止まる事なく使役もしくは使用し続けている限り、決して死ぬ事はない。
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種別『ボス戦』のルール
記載された敵が「1体」出現します。多くの場合、敵は、あなたが行動に使用したのと「同じ能力値」の戦闘方法で反撃してきます。
それらを踏まえつつ、300文字以内の「プレイング」を作成してください。料金は★0.5個で、プレイングが採用されなかったら全額返金されます。
プレイングが採用されたら、その結果は400文字程度のリプレイと「成功度」で表現されます。成功度は結果に応じて変化します。
大成功 | 🔵🔵🔵 |
成功 | 🔵🔵🔴 |
苦戦 | 🔵🔴🔴 |
失敗 | 🔴🔴🔴 |
大失敗 | [評価なし] |
👑の数だけ🔵をゲットしたら、次章に進めます。
ただし、先に👑の数だけ🔴をゲットしてしまったら、残念ながらシナリオはこの章で「強制終了」です。
※このボスの宿敵主は
「💠山田・二十五郎」です。ボスは殺してもシナリオ終了後に蘇る可能性がありますが、宿敵主がボス戦に参加したかつシナリオが成功すると、とどめを刺す事ができます。
※自分とお友達で、それぞれ「お互いに協力する」みたいな事をプレイングに書いておくと、全員まとめてひとつのリプレイにして貰える場合があります。
●無間の地獄
海を渡り、そびえたつ山々を越え、俺たちはどこまでも進んだ。
俺たちこそが新しい世界の秩序を築くのだと。
そうすれば、後は皆で平和に暮らせるのだと。
……そう、本気で信じていたさ。
俺たちの国ならそれができるんだってな。
快進撃の代償は伸びきって滞りがちな補給線だ。
ひもじい思いも随分したぜ。
そんな中でも、たまにはタバコ、酒……飲めねえヤツには菓子なんかが割り当てられた。
そんなモノが……戦場で荒んだ気持ちを落ち着ける為の特効薬で、貴重な楽しみだった。
『――ほうら、どうぞおあがりなさい。ステキなお唄を聴かせてくれた、お礼だよ』
折角のソレを現地のガキにあげてしまうようなお人好しが居た。自分だって腹を空かせてる癖に。
ポロロロン、と竪琴の音が鳴る。
現地民の民族楽器を鳴らして、通訳なんかもできやがる……いけ好かない優男のインテリ野郎だ。
最初はただの馬鹿だと思っていたよ。
俺はアイツが小汚えガキどもにくれてしまいやがったその菓子を後でこっそり取り上げようとして……それがアイツにバレて、怒鳴りあい、殴り合いの大喧嘩になった。
いやはや、ナヨナヨしただけの優男かと思っていたが、その時は本気で殺されるかと思って漏らしちまいそうになったぜ。……ん? それじゃぁ結局漏らしてはないのかって? ……聞くな、馬鹿ども。
『その土地には、その土地に住む人たち其々の思いってモノがあるのだよ。僕は、それを大事にしたいんだ』
その変わり者は、行く先々で色々な土地の童謡、民謡を集めて歌うのが趣味だと言っていた。
だからアイツの手帳は、いつも五線譜でいっぱいだった。
『もしもこのお役目が終わって、無事にお国に帰れたら、きっとさびしい思いをさせてしまったろう〇〇ちゃんに、その分だけ……それよりももっとたくさんの、楽しいお唄をきかせてあげたいんだ。あかるい気分にしてあげたいんだ』
そんなことを言って、どこか恥ずかしそうに、でも夢見るように幸せそうに笑う。
いいヤツだった。
生まれ育ちからして捻くれた俺なんかと違って、もっとまっとうに生きるべきヤツだったんだ。
そんなアイツのお陰で部隊は何度も危機を逃れられたし、避けられた戦いも少なくはなかった。
俺はそれまで知らなかったが、敵国の奴らにさえも『仁義』や『友情』ってモノがあったんだ。
……だがまぁ、そいつも結局最後にはゲリラの爆弾にやられて呆気なく死んじまったよ。
そう、本来あんな木っ端の村人連中が持ってるわけねぇ、やたらと高性能なヤツだった。
それでも、そんな簡単に殺せるような柔なヤツじゃぁなかったんだが……
『おや、わすれものだろうか。……きっと大事なものだったろう。ちょいと、これから届けてくるよ』
アレはクマか、犬のぬいぐるみだったっけか?
アイツの弱点、性格、よく調べられてやがった。
……そうさ。連中、ガキどもを使いやがった。アイツになついてた現地のガキどもを利用したんだ。
ははッ。まぁ、きっと上の連中からすりゃぁ存在そのものが邪魔だったんだろうなァ。
……でもよ、だったら……もう国に返してやりゃ、それで良かったんじゃぁねえか?
連れてきたのは、命じたのは誰だ?
アイツはずっと帰りたがっていた。
ロクデナシの俺たちと違って、アイツには帰る場所が……いつだって、帰りたい場所があったんだ。
だが、今思えばアイツは与えられたその“お役目”を立派に無事に果たせたのかもしれねえ。
アイツが死んでからすぐ、軍も、俺たちの部隊も……その国の連中と元気に|戦争《殺し合い》をおっぱじめたよ。
俺もいっぱい、それこそ山ほど殺してやった。
ただ憎むままに殺して、殺して、殺し続けて――いつの間にか終戦を迎えて。俺たちがようやく故郷に帰れたころには、安全な内地で安穏としてやがった将校どもは、俺たちになんて言ってやがったと思う?
「あの戦いは間違いだった」……だ!
……確かに、戦場は地獄だったさ。
だがここよりはマシだ。
戦場にはまだ仁義が、礼節があった。
助けあえる仲間がいた。
ここにはなにもない……。
俺はそいつらのところに行って、力の限りにぶん殴った。
さっさと死んじまって、仲間のいる場所に、アイツらのところに行きたかった……。
だがクソ共はそんな俺の願いさえ叶えてくれなかった。
帰りたかったアイツのことは殺しておいて、今度は、死にたい俺には勝手に死ねと抜かしやがった。
だったら意地でも生きてやろう。
せめてアイツができなかった分の、その百分の一でもいい。
アイツが大事に思っていた人たちが、笑って暮らしていけるように……ってな。
俺はそう思って……。
――……そう、思って……。
§
帝都が世界を統一する以前、かつてあったという世界大戦。
現在は禁止されている非人道的な影朧兵器の数々が投入されていたという、その時代の兵士だったのだろうか?
一見して強面の軍人風のその男は、けれどまだ理性も残っているようで、少なくともこれまではその語り口だって思っていたよりは友好的でさえあった。
だが――おぞましい気配を放つ影朧だった。
超弩級戦力とされる猟兵であってすら、思わず怖気が走ってしまうほどの濃い死の匂い。
もしも帝都桜學府の若き幼き學徒兵であれば、容易く|恐慌《パニック》に陥り我をなくしていただろう。そしてそれは正しく死を恐れる本能故だ。彼ら彼女らにとっては一も二も無く逃げだすことだけが、命を長らえる最良にして唯一の――例えそれが蜘蛛の糸よりもか細くとも、縋るしかない可能性だったろうから。
何故なら、猟兵たちには察することができた。
「……その日、不思議とアイツにまた会えるような気がしたんだ。アイツは酒もタバコもやらねえから、供え物の代わりに菓子を持ってな。それで、月だけが照らす夜の道をぶらりと歩いてた。警邏の連中にでもみつかりゃいい顔されねえのは分かっていたが、昼でもどうせ大して変わらねえしな」
この男は……膨大な死を集め、生命を穢し、故にどうしようもないほど魂の奥深くまで穢れきったこの影朧は。
「でさ……居たよ。ボロボロすぎて。それを無理に繕おうとして、思わず笑っちまうようなナリだったけど、すぐにアイツだと分かった。…………ようやく、ようやく、アイツは帰ってきたんだ。やっと……帰って来れたんだ……」
感情が昂ぶりボロボロと滴り落ちるその涙のいろさえ、黒く濁り果てていて。
もう、どうしようもないほど、それを見る者の恐怖を喚起する|モノ《化け物》で。
「だから……あぁ、俺は言ったんだ。やめろ、撃つなって。なのにアイツは……あぁ、あぁぁ……」
その声は地獄の最底辺に住むという悪魔が発する恐ろしい叫びのように、精神をかきむしるのだ。
「……違うんだよ。なぁ、ちがうんだ。アイツはただ、楽の音を奏でようとしていただけだ。でも……あぁ……頼むからやめてくれ……あのとき吹っ飛んじまって、そうしたくても、アイツにはもう腕が付いてねえだけなんだよぅ……」
そして、何よりも彼はすでに……。
「そうだ……アイツはうたおうとしていた! ただうたおうとしていたんだ! 異国の、祖国の、平和の唄だ! 平和を愛した一人の男の、ろくに会うこともかなわなかった娘を思う、父親の……ようやく、かえて、これたんだ……へいわの、うたになるはずだったんだ……なのに……」
その生において、深い傷を負い過ぎた。
「あいつはうたおうとした……でも、俺は知っていた……ぐるぐるに覆い隠したその包帯の下の顔には、もう顎も、鼻だってついてねえんだよぅ……ああ、ああぁぁ……アイツがどれだけうたおうとしても、出てくるのはもう、地獄の怨霊みたいなうめき声だけだった……」
悲劇の最中、繰り返し抉られることとなったその古傷はもう、永遠に癒えることはなくて。
「なぁ……逃げることも、戦うことだってアイツにはできた筈なんだ……俺なんかよりも、ずっとずっと“強い”兵士だった。だが、アイツは、最後に縋りついたおれに、ただ困ったような目をして……誰よりも傷ついて、ショックを受けていたのは、アイツの方だったろうになァ……」
どす黒く濁った血の泪を流しながら、もはや錆付き朽ち果てた軍刀を振り上げることしかできずに。
「……気がつくと、穢らわしい小鬼が不思議そうな顔で俺を見ていやがったよ。小さくとも、頭にねじくれた二本の角を持つ、その角から赤い炎を吐く、地獄の悪鬼どもだ……」
桜學府を、その悲しくも美しき幻朧桜の守り人たちを、誰よりも深く深く憎んでいて――。
「……それで、俺はようやく気付いた……俺は、今までずっとこの世界に騙されていた……此処はもう、とっくの昔から地獄だった……! ああ……そうだ、人の生き血を啜って集める、化け物の木が見えやがる……何度でも、何度でも。もっと苦しめ、永遠に苦しめと、死んでも自由になどさせないと、俺たちを呼んでいやがるんだ……。すべては、うそだった。みんなみんな、アイツらに騙され続けているんだ……」
その、今も昔も|影朧《同胞》を呼び続けているはかなき桜の|こえ《願い》を消し去るために。
「あの、こえを――」
いまも、むかしも。
男はその全てをただ殺し……殺すために、消し去るために、殺し続けているのだ。
フィーナ・シェフィールド
【悲劇の幻】
親しい友人、大好きな父と母、そして…誰よりも大切な人。
幻の中では皆、目の前で命を落とし。
わたしの歌では、それを止めることもできず…
「…なんのために歌うの…?」
美しい声は嗄れ声に、白き翼はうす汚れ。
スタアであった時に受けた声援は、今は罵倒の声に。
なぜ歌う?
あの頃のように澄み切った声は出せないかもしれない。
それでも。
それ故に歌わないという理由にはならない。
だって、歌うこと自体が好きなのだから。
なぜ戦場へ?
世界は悲劇に満ちているのかもしれない。
だから。
だからこそ、悲劇を一つでも無くすために。
立ち上がって影朧を祓うように【これが最後の涙だから】を歌います。
これ以上、誰も悲しまないように!
●愛別離苦
「――……~~ッ!!!!」
リノリウムの床に叩きつけられた鏡の、そのガラスが砕ける音が静かな夜を引き裂いた。
覗き込んだ|そこ《鏡面》には……化け物が居た。おぞましく、醜い化け物が居たのだ。渇き切った地獄の餓鬼みたいな、腐り落ちるに任せたゾンビのような、見るに堪えない醜い姿。
「ヒッ、ヒッ……ヒッ……ヒィィ」
足元が崩れ、どこまでも落ちていくような感覚。
悪夢への恐怖が、すべてを塗りつぶしてゆく。
たすけて。こわい。たすけて。
だれかたすけて――……。
呼ばう声は言葉にはならず、浅い呼吸を繰り返すことさえも酷く難しい。煮え湯でも飲まされたかのように腫れあがった口内や喉は、空気が触れるだけでもその度に激痛を走らせる。
「ヒッ、ヒッ、ギァッ……アッ……」
フィーナ・シェフィールド(天上の演奏家・f22932)には、自分の身に何がおきているのかわからなかった。わかっていたはずのことも、もうわからなくなった。
フィーナは良家の子女として生まれた。
大好きな母と父。二人ともやさしかった。親しい友人がいた。時には不満や喧嘩をすることだってあったけれど、尊敬できる人たちだった。
もしもわたしが人に優しくできたとすれば、それはきっとあの人たちにそうすることが正しいのだと教わったからだ。与えてくれたその優しさが、わたしの気持ちを優しくしてくれたからだ。
だから、フィーナは今もまたそれを求めた。
たすけてパパ。たすけてママ。
こわい。こわいの。こわくて、いたくて、くるしくて……なのに、どうしようもなくて……。
世界を歪め映す鏡を叩き割り。
目に映る“悪夢”を消し去ったフィーナは、その身をガタガタと震わせながら二人を探しはじめた。一刻も早く会いたかった。抱きしめて、口づけをして、それから落ち着くまで一緒にいてほしかった。
窓からの光、月と星だけが照らす暗い屋内。フィーナの知らない部屋、知らない廊下……でも、両親は世界中を旅する音楽家だ。おかしくない。別に……変じゃない。まだ“幼い”わたしがここをおぼえていなくても。
だから二人はきっと今にもわたしを探してくれていて。怖い夢を見たわたしがもう一度、安心して眠れるまで、ずっとそばにいてくれる。そうしたら、明日の朝にはわたしはまた元気になって……、
「――居たぞー! 化け物だ……ッ!!」
目を突き刺すような強い光が、闇の中を彷徨うフィーナの輪郭を照らした。
正義の|徽章《バッジ》をつけて、拳銃を持った人たち。集まってきた彼らは、どうしてかその無機質な黒い穴を――銃口をフィーナへと向けていた。
化け物? それはどこにいるの? その化け物が、わたしにこんなにも怖い夢を見せているの?
「撃て! 撃てーっ!!!」
暗闇に慣れた目を灼く強い光、殺気だった人たちの怒鳴り声。
恐怖と混乱で反射的に身を固くしたフィーナの耳に、乾いた破裂音が響いた。
――パン! パン……ッ!!
オレンジ色の炎が咲いて、指先に鋭い痛みが走る。
強すぎる光から目を庇おうとした小さな手。その指の先が吹き飛ばされていて、赤い血が溢れだす。
……いたい! やめて! いたい……いたいいたいいたいィィィィ……ッ!!!
「とっととくたばれ! この化けモンが……ッ」
――パン、パンッパパパンッ!!
ここにいては、きっと殺される……フィーナは、気絶しそうな痛みをこらえて必死で逃げ出した。
『ふふ……ねえ、どんな気持ち? これでお前はもう、二度と楽器を弾けなくなったのよ。ふふ……あはははは!』
脳髄を貫く鋭い痛みに喚起され、記憶の欠片は連鎖的に覚醒してはフィーナを更に苦しめてゆく。
悪夢が、なまぬくい血と共に瘡蓋を突き破って吹き出す。――“不幸な事故”でわたしの指がグチャグチャに壊れてしまった日。なぜあの子はわたしにあんな風に……笑っていたのだろうか?
あのひとたちは、どうして……。
『ええい、大人しくいう通りにせんかッ! こっちはお前を手に入れるのに高い金を払っとるんだぞ!! 泣こうが喚こうが、お前は、もう、ワシの|モノ《所有物》なのだ……ッ!!』
ゴッ、と鈍い音。くぐもった呻き声。
……お金? 何を言っているの? お金なんて知らない。そんなモノいらないし、欲しくもない。
『ひひ、ひひひッ……前々から、こうしてやりたいと思っておったのよ。国民的スタアも、こうなってはただの――』
聞くに堪えない罵倒と、悲鳴。泣き叫びゆるしを請うだれか。それを嗤う声。肉と肉のぶつかる音。
……ちがう。ちがう。アレはわたしじゃない。アレはわたしじゃない。わたしはそこにいない……。
『アンタのその目が、すました顔が、前々から気に入らなかったのよ。でも……あはははは!! 今のその姿なら、とってもお似合いよ!』
――絶叫。
フィーナは喉が破れんばかりに叫び、頭を抱えて転げまわっていた。
……あつい! あつい! あつい! ああああついあついあついあついあついあつい――!!!!!
自分の皮膚が、頭が、顔がジュウジュウと音を立てて焼け落ちていく。
どれだけ声の限りに叫んでも、硫酸が肉を焼くその音だけはわたしが気絶するまでずっと聞こえていて。
その日、美しく伸びた自慢の髪も、かつては笑顔にあふれていた顔も、もはや見る影もなく変わり果てたのだ。
生まれ持った才能の多寡、環境、不平等。
飲み込めなかった劣等感、故の憎しみ。
例えば一人の親となった人間への“仕返し”を、その保護を失った子にぶつけ留飲を下げるような人たちがいて。
孤独と恐怖、正義と銃声。
罵倒と暴力、苦痛と悲鳴。
嫉妬、肉欲、憎悪、悲痛な運命――。
そんなありふれたモノたちが奏でるありふれた|悲劇《協奏曲》に、フィーナは飲み込まれたのだ。
§
(どうして? どうしてわたし。わたしを……わたしだけ、を……)
焼けるように痛む顔面。血が噴き出し砕けた白い骨が覗く指先。
引きつれた皮膚のせいで、歌うどころか表情を作ることさえできない、醜い化け物の姿。
けれど、それらが与える苦痛のすべてを以てしても、なおこの苦痛に勝るものはないように思えた。
いくつかの面影が走馬灯のように浮かんでは、足早に去っていく。
かつて、たしかにこの世界にいた人たち。
フィーナが知り、フィーナのことを良く知っていてくれた人たち。
親しい友人、大好きな父と母、そして……誰よりも大切だった人。
皆、フィーナの目の前で命を落としてしまった。
(……あ、ああ、ああぁ……わたしの歌では、それを止めることもできず……)
だとすれば、これはきっとわたしへの“罰”なのかもしれない。あのやさしい人たちを守れなかったわたしは。その生命に、その選んだ死によって守られてしまったわたしは。あの時一緒に死ねなかったわたしは。だからこうして孤独に彷徨う悪夢を繰り返すのだ。何度でも、何度でも、何度でも――、
『――死ぬことは赦さぬ』
「ヒィッ……ヒッ……」
「化け物めっ! くたばれ、この化け物め!!」
「アゥッ……アア……アアァァァァァ…………」
潮の満ちていくような音が聞こえる。
尽き、満ちていくモノが奏でるおと。
わたしを通して世界へと流れ込んでいく、|うた《絶望の海》――
「……ねぇ」
そうして、フィーナはソレを見た。
自分を“殺す”者の姿が、そこにあった。
どこか……懐かしい気配。
月光のように柔らかなオーラを纏ったその少女は、フィーナと警官隊の間に立つと、両手を広げて。
「少しだけ、待ってください。ええと……そう、この子はきっと。混乱して……色々分からなくなっているんだと思います。それに、なんだか……なんだか、わからないけれど……」
その細い両足は緊張で微かに震えていたけれど。
振り返って、フィーナを――その醜い姿を目に映しても、彼女の表情が嫌悪に歪むことはなかった。
ただ、安心させるように微笑んで。
「あとは、私に任せてもらえませんか?」
そうして、彼女は彼女だけの音を奏で始めた。
優しく、穏やかなこえ。
フィーナを傷つけることなく、フィーナが落ち着きを取り戻すように、と。
ソレはいま、深い傷を負って地獄をさまよい苦しみ藻掻く、フィーナのために捧げられる祈りの声。
――そして、かつて同じように彷徨うどこかのだれかのために、|翼持つ少女《フィーナ・シェフィールド》によって歌われたうた。
(あ、ああ……あぁぁ……)
――トクン、トクン……。
半壊した心臓が、それでも鼓動を刻みはじめる。
……わたしだけのおとを、奏でようとしている。
なぜ歌う?
なんのために歌うの……?
あの頃のように澄み切った声はもう出せない。
浅い呼吸、途切れ途切れ。
苦痛に歪むうめき……それでも、重ねるこえ。
(ああ、いいなぁ……やっぱり、たのしいなぁ……)
世界中がそれをどれだけ罵ろうとも。
だれひとり聴くものが居なくなっても。
たとえ、その行為がどこかの誰かにとってはどんなに無意味なものに映ったのだとしても。
それは歌わないという理由にはならない。なるはずもない。
フィーナはただ、こうして歌うこと自体が好きなのだから。
「……ねぇ、いつかまた逢えたら……また……」
フィーナを覆っていた黒い霧が晴れていく。
この通り過ぎる|一瞬《時間》を共にした少女は、祝福するように微笑んでくれていた。
(……ありがとう。ずっと忘れない……ずっと、この先も……)
柔らかな桜色の気配がフィーナを包む。
母の胸に抱かれ眠る赤子のように安心しきって身をゆだねるその魂を、風はいずこかへと運んで行った。
そして――、
§
「……ふむ。君はどうやら善人なのだろうな。だから、君の地獄はまだ浅いのだろう」
ひどく生々しい悪夢から目覚めたフィーナへ、本田英和は無感情な声でそう言った。
「……浅い? あんなに、苦しかったのに?」
『可哀想に……。可哀想になぁ……だからこそ、お前さんのようなのは苦しみが長引いちまう……』
死者の怨念渦巻く戦場。
血の涙を流しながら、すでに朽ち果てた刃を尚も振り上げる軍人の影朧たちの姿が見えた。
悪夢を振り切った少女は震える足を叱咤して立ち上がり、両足で強く大地を踏みしめて立つ。
「確かに、世界は悲劇に満ちているのかもしれない。だから。だからこそ、悲劇を一つでも無くすために!」
「それが、君の理由か?」
「そうです。これ以上、誰も悲しまないように!」
そうして、フィーナが彼らへ向け願いを込めて歌い上げるは《|これが最後の涙だから《グッバイ・ティアーズ》》。
悲しみによって流される涙は最後にしたい。
そんな願いが込められた祈りを、
「私は君のその願いを否定はしない。だが、あえて言おう。涙も、悲劇も、永久に無くなりはしない。この世界が、生命という名の呪いが続く限りは……な」
本田は、いとも容易く切って捨てる。
「涙も、悲しみも。悲劇も絶望も無くなりはしない。またそうするべきでもない。ましてや、ただそれを見ていたくない者らの安堵のためになど……そんなことで安易に消し去られるべきモノではないのだよ、猟兵」
「それなら、どうして!!」
いずれ世界そのものを消し去ろうとも云う男の、そうする理由をフィーナは知らない。
けれど、彼の言葉にはどうしても拭い去れない矛盾があるように思えた。
「君と同じだ。私はただ欺瞞に満ちた世界を憎む。そして、ただ憎む故にそうするだけだ……」
「そんなこと……それでは、あなただって」
世を憎む影朧は未だ尽きることなく溢れている。
彼らの魂はもう、永遠に救われることはない。――何より、彼ら自身がそれを望んでいない故に。
「汝の業は無力なり。だが……今しばらく、夢を見るのも良いだろう。君が、そう望むのであれば」
ここを死に場所とした彼らの意思は、深い憎悪は、フィーナ一人が背負えるような軽いものではない。
だから、彼女が歌うことになど、意味はないのかもしれない。
「それでも、いつか――」
それでも。
この世界が“そう”だというのなら。
……そして、それ故に彼らが他の方法を知らず、もはや選ぶこともできないのだとしても。
だからこそフィーナは歌うのだ。
認めざるを得ない、拭い去れない欺瞞と理不尽な悲劇が数多はびこる世界の、今その中心で。
はぐれた子が再び母のもとに還れるような。
愛する人たちともう一度巡り合えるような。
――この心を震わす喜びと、また出会うために。
大成功
🔵🔵🔵
御園・桜花
梁の隙間の青空思い
「防げず見過ごしてしまった悲劇はありますけれど。本当の絶望も悲劇も感じた事がないのです」
共感力の低い強者
凶者で狂者の自覚はある
盛者必衰
生者必滅
「出来る事は致しましょう。出来ない事は出来る者がするでしょう。もしも誰にも出来なかったなら。其れは元々、誰にも出来ぬ事だったのです」
微笑
「骸の海に浮かぶ世界を守る為なら。どんな理も守りどんな理も踏み潰しましょう。そして御方が望むなら。其の世界すら踏み潰して見せましょう」
「御方がお会いする前に儚くなるならば。次の転生には御力添え出来るよう、何度も影朧と転生を重ね力をつけましょう。記憶等無くても、想いは残り巡るのです」
微笑
「御尊顔を拝した事はありません。御声すらも知りません。其れでも。箱庭を守る御方一人が絶望に沈んでいないか案ずるのです」
「塵芥と蔑まれようと一瞥もされなかろうと。どんな末路を何世経ようと会いに行きます。…何故と聞くほど揺らぎ辿り着けなかった貴方に鎮魂を」
高速・多重詠唱で桜鋼扇に浄化と炎属性付与
マッハ12で吶喊しぶん殴る
●求不得苦
鎖された世界。
枷に囚われた肉体と魂で。
「防げず見過ごしてしまった悲劇はありますけれど。本当の絶望も悲劇も感じた事がないのです」
「そうだろうとも」
かつて見上げていた梁の隙間の青空思い乍ら。
桜の娘が率直に告げた心の裡に、男はどこか憐れむような口調ですらあった。
「その一切は君にとっては意味を持たないのだろうから。そして……君は自分が何をしているかすら、理解していない。見過ごしたのでもなく、防げなかったのでもない。君はそれを自らの手で確かに為してきたのだよ、猟兵」
「……随分な言われようですね。共感力の低い強者だという自覚はありますが、」
「強者? 私の知る強者には当たらない。君はむしろ……」
「狂っていると言いたいのでしょう? 凶者で狂者の自覚は、ありますよ」
己についてそのように語る娘――幻朧桜より生まれし妖精種族である御園・桜花(桜の精のパーラーメイド・f23155)は、どうしてか本田の率いる影朧たちからは蛇蝎のように忌避されてしまったようで。
その為か、想定していたような悲劇の幻影は顕れず、今は本田英和の残骸が桜花と相対していた。
「君は少しも狂ってなどいないさ。自らの思い込みに囚われる、善と悪とが同居する普通の人間に過ぎない。しかしその刻印が、免罪符が欲しいのならばくれてやろう。――ヒトは天使でもなければ、獣でもない。しかし不幸なことにヒトは天使のように行動しようと欲しながら、獣のように行動する……凶者にして狂者である、と」
「そうだとしても……出来る事は致しましょう。出来ない事は出来る者がするでしょう。もしも誰にも出来なかったなら。其れは元々、誰にも出来ぬ事だったのです」
「目に見えぬモノどころか目の前に在るモノすら見ようとしない。そのような者たちばかりがのさばる無秩序な世界では、価値あるモノが育まれることはない。ゆえに世界は病を得、人々は呼吸の仕方さえ忘れてしまった。それを君はただ『仕方ない』と……そういうのかね?」
「盛者必衰。生者必滅、と。……そのように云うでしょう?」
自らが称する共感力の低い強者らしく微笑み、余裕を見せる桜花へ、男は無感動な声音のままに応える。
「なるほど。それは数少ない真実であり、|理《ことわり》だ。ゆえに汝の業は無力なり……」
「いいえ。骸の海に浮かぶ世界を守る為なら。どんな理も守りどんな理も踏み潰しましょう。そして御方が望むなら。其の世界すら踏み潰して見せましょう」
「……大いなる矛盾。矛盾した桜の精……あの忌々しき大樹から君のような者が生まれてくるのは、我々にとっては福音でさえあるが。これが世界の意思だというのなら、相変わらず残酷なことをする。……いや、だからこそか?」
少しばかり考え込む仕草を見せた男に、桜花は自らが迷うことなく戦うその理由を叩きつける。
「御方がお会いする前に儚くなるならば。次の転生には御力添え出来るよう、何度も影朧と転生を重ね力をつけましょう。記憶等無くても、想いは残り巡るのです」
「……輪廻を説きながら、君自らは前世のことすら覚えていないのだな。現世の、別離の苦しみの、その意味も分かっていないのだろう。だから、遊戯ではあるまいにそのような軽々とした結論に至る……」
来世を確信し、そこへ導くことを、幻朧桜による転生こそを至上として信奉する桜花。
一方でその幻朧桜を滅することこそを使命とする本田英和とは埋めようのない隔たりが感じられたが、桜の娘はその強き信念に基づいた、自らの進むべき道を示す言葉を構わずに吐き出し続ける。
「御尊顔を拝した事はありません。御声すらも知りません」
「ふむ。ならばその理由はなんとする? いと高き地位を持つ権力者だからか。徳に溢れる御方のその慈悲に縋りつきたいのか。それとも、所詮は虚しき自らを飾りたてるアクセサリーでしかないのか」
「いいえ。いずれでもない。確かに今生の私は御方について何一つ識りません。……其れでも。私の心は、何か……不安で騒ぐのです。箱庭を守る御方一人が絶望に沈んでいないかと、案ずるのです」
「………」
沈黙が、落ちる。
なんとなく疑わしい目を向けられている気がしないでもないが、これはシリアスな依頼であった。
如何に悪徳と堕落、罪への教唆を旨とする悪魔の願望と要求でさえ正確に見抜き、契約において偽り欺くことを許さぬ稀代の悪魔召喚士とて、桜花の全てを知るわけでは無い……と信じ、でもやっぱりちょっとだけ目を逸らし。
「……君のそれは執着というか、私が言うのもなんだが常識から言って見ず知らずの相手にそのような感じょ」
「塵芥と蔑まれようと一瞥もされなかろうと。どんな末路を何世経ようと会いに行きます」
やっと咲かせた花一輪。
「……何故と聞くほど揺らぎ辿り着けなかった貴方に鎮魂を!!」
あとは、なぐるだけだ。
§
「……私は君に、君の理由を問うた。それをただ揺らぎと決めつけ拒絶するならそれまでだが。その行いは君自身の決意を、君自身で貶め、君自身の言葉すら無意味なものに貶めている」
精霊覚醒・桜――渦巻く桜吹雪を纏い、纏わりつく空気の壁を強引に打ち抜き、その振動が伝播する速度のおよそ12倍もの速力を以て世界の敵へ吶喊せんとする桜花。
「それとも、君の答えはただ私を屈服させるために放たれた武器でしかなかったのか?」
しかし、千年を生きた狐の織りなす呪術がその身を阻み、幾重にも張り巡らされたしめ縄の結界で絡めとっていた。
「く……」
「哀れだな……君は、本当に、無意味だ。ならば、君にこそこの“鎮魂”とやらはふさわしいだろう」
――轟!!
空気の壁を打ち抜くようにして、桜色した何かが一瞬で迫り。
そして藻掻く桜花の首筋を、硬いナニカで強かに打ち据えた。体内で骨が砕ける不吉な音がして、口腔に血が溢れ、世界がぐるぐると回り――そして、途絶えた。
………。
……。
…
目を覚ます。
空は遠く、狭い。
幼子は牢獄に囚われていた。
「罪人が! お前は! 何の意味もない!!! 皿の一枚ほどの価値もない!!! そんなお前がなぜのうのうと生きているんだ!!!!!????」
そうして、大人たちは彼女を殴り、殴り、殴る。
しつけ、というものだろうか。
狐などから見れば実に不思議なことだが、人間という生物はかなり独特な方法でその幼体を飼育することがある。ああして、怒鳴りながら拳で殴りつけているのも、きっと本人のためを思ってしてあげていることなのだろう。
だが、おや……?
「ぁ……ぅ……」
「死ね! 死ね! 黙って死ね!!! お前にできる奉公は、もはやそれだけなのだから!!!!」
力加減を間違えたのか、幼体はとうとう死んでしまったようだ。彼女はどうやら罪人と呼ばれる類で、ならばこれも仕方なかったことなのだろう。その涙と血でぐちゃぐちゃに汚れた亡骸に、しかしまた別の大人がやってきて……なんと立派なことだろう!! 殴り始めた!!
まさに『立派なお手柄!死人を相手に』――後年まで語り継がれる、美しく芸術的な風景だ。
彼らは、それを以て死者への供養としているに違いない。狐には、まったく理解できないが。
………。
……。
…
目を覚ます。
空は遠く、狭い。
幼子は|牢獄《悲劇の幻影》に囚われていた。
「あ……ぅ、ぅぅ……」
「力ある者よ、まことにあなたがたは正しい事を語り、公平をもって人の子らをさばくのか」
今回は少しばかり長く生き延びる。
罪人を庇うものがそこに在ったからだ。
「理性の眠りは怪物を生み出す。口では未来を守ると言いながら、その実、君たちは自らが子を喰らうサトゥルヌスとなっておらぬか? 一片の疑問さえ抱かぬ正義は、はたして正義と呼べるのか?」
「無意味な問いだ! |我《力》こそが、正義だ!」
しかして、世界に問う意思と|迷い《倫理》は血祭りにあげられ、その血と肉は獣たちの糧となった。
「なるほど、こうすれば良かった! こうすれば良かった! おれたちは、いま、真理を得た!!」
「ほら、嬉しいだろう? お前のような罪人でもおれたちの役に立てた! 喜べ、歓喜せよ!!!」
飢えを満たした獣たちは、また同じようにして牢獄に囚われた幼子を殺し、喰らい、之を喜んだ。
――人間は本当にいいものかしら。
ほんとうにいいものだとしたら……、
人間の文豪が描いた作品の中では、畜生たる狐ですらそう迷うたモノだが、アレはきっと狐の弱さ愚かさを示唆していたのだろう。『偉い人間は、咄嗟にきっぱりと意志表示が出来て、決して負けず、しくじらぬものらしい』――やはり、此方が正解だったのだ。
要は、引き金を引けば飛び出す鉄砲玉だ。
崇める者に命じられれば同族にさえ毒を撒き、身勝手に殺すことさえ救済であり功徳と称する正覚者。
――大した智慧をお持ちだこと。
………。
……。
…
目を覚ます。
空は遠く、狭い。
幼子は|牢獄《悲劇の幻影》に囚われていた。
「お前は弱い」
「ひっ」
「弱いから、死ぬ! 理解できたな? さぁ、死ね!!! 死んで、功徳を積むがいい!!!」
「……ひぃぃ……」
旧き強き者は牢獄の隅でガタガタと震える幼子の髪を掴んでズルズルと引きずり出す。
鮮血の娯楽。
救済であり正当な暴力は何故か見えぬ場所、人々の平和と笑顔の裏側で、今日もまた繰り返される。
生まれながらの罪人は、罪を犯さぬようにと親切な強者たちによって無惨に虐げられ殺され続ける。
想いは残り、巡り、錯乱していく。
憂き世では呼吸の仕方さえ忘れた弱い人間が、強い人間に殺される前に、と自らの首を吊っていた。
これは……知っている。
たしか、『来世を信じてわんちゃんだいぶ』と呼ばれる、いわゆる生と死のガチャガチャ遊びだ。
希望にあふれた、勇気ある行為だ。
きっと彼は次の世界では、今度こそは踏みつけ踏み躙れる側に回れると、そう信じているのだろう。
……しかし、だれもかれもが路傍の石ころに過ぎないのに、彼ら自身がそのように振舞いながら、だれもかれもがみな自分だけは特別だと、いつかは報われるのだと根拠なく信じているのは何故だろう?
狐から見れば、人間には不可解な点が多すぎて……。
――ああ、すこし、つかれた……。
昏い空を、見上げる。
§
「…………はっ……はっ……はぁっ……」
繰り返し齎された死の実感は酷く生々しく、鈍く強靭であるはずの桜花の精神をも激しく消耗させていた。
時を経ず、成長を許されず、ゆえに無力なままの肉体を魂を一方的に蹂躙される恐怖。呼吸と思考は千々に乱れ、肉体は緊張で硬直し、細い腕で抱きしめた頼りない躰をガタガタと震わすばかり。
「グリモアの情報、猟兵の情報……私が自らの死と引き換えに欲したのはそういったモノだ。君たちは……」
そうしてようやく“悲劇の幻”から解放された娘を、本田英和は静かに見下ろしていた。
此処に在るのは既に命脈断たれた死人だ。
まさか、そんなモノを態々貶め殴るためだけに、矛盾を抱えたままこんな場所までやってきたのか?
放っておけば死ぬ者を態々構い、そんなことで苦しむなど……全くもって意味のない行為のはずだ。
また、彼女は本当にそんなことで影朧が静まり、傷は癒え、救われるとでも信じているのだろうか?
疑問は、この期に及んでも尽きることなく湧いてくる。
「――君たちは、まるで得るモノもなく苦しみに来たとしか思えないが……。ならば、私はせめて君たちに呪いをかけてあげよう」
「いりません、よ。そんな、もの……」
「そう。君は君が必要とするものには必要とされず、必要ないものにばかり執着され必要とされる……そんな呪いだ」
頭を振り、唇を引き結んで怨敵をにらみつける女に、しかし男は構わずその口から呪詛を吐き出す。
「君は、狂者でも凶者でもなく、まるで狂信者だ。縋るモノがなければ生きてもいけぬ、弱い女だよ」
「ちがう。ちがう。私は、ただあの御方が……」
「『多くの宗教家が互いに相反しているのをみる。だから、ひとつを除いて、他はみな虚偽である。どの宗教も、それ自身の権威に基づいて信じられることを欲し、不信仰者をおびやかす』……信念の否定はそれこそ意味のないことではあるが、」
明らかな誤謬は糺さねばなるまい、と。
欺瞞を憎む男は、世界に仇なす大罪人は、死を約束された確信犯は、容赦なく世界を糾弾しその大義を損なうべく、自らの大義を一方的に投げつける。
「死屍ニ鞭打テ。窮鳥ヲ圧殺セヨ。あの桜がそう君に命じたか? それとも、かの帝がそう仰せか? 君たちは生命を謳いながら、その実はそこからもっとも遠い場所にいる。やさし気な声で囁き、楽園のように招いておきながら、いざとなれば声高に罵り、鞭で打ち、未来を閉ざし、地獄へと突き落とす……」
その矛盾は私の嫌う処だ、と吐き捨て。
深く、嘆息した。
「だが……その責は君にはない。あの忌々しい桜こそが、君たちの振るう正義と善の根源なのだから」
憐れむような声は、怒りでもなく憎悪でもなく、どこか疲れ果てたような憂いだけを帯びて響いて。
桜色の鉄扇がその肩口を力無く叩いた。
「……あなたのいうことは、全部、ぜんぶ、出鱈目です」
「そうだろうとも」
「そう、世を僻んだ、亡霊の、独りよがりな、戯言です」
「………」
鈍色の、くすんだ空を見上げる。
どうしてかぼやけて、滲んだ空。
今ならばきっと手も届くはずなのに――何処までも続いていて、相変わらずはるか遠いままの空。
「だって、私は、しっています。空の、あの日みた空の、見上げていた、そらの……」
「大海を知らず、されど空の深さを知る……か。ならば其の一かけらの|幸福《希望》を、精々大事にしたまえ」
変わらず減らず口を叩く男を、殴り、殴りつける。
けれど、血達磨になったところで何も変わらない。
死も、如何なる罰も、これ以上彼を損なうことはない。
何故なら、彼はすでに滅びゆく定めにある死人であり、
「……私は、慰めだけはすでに得た。取るに足らない者を見出して下さった方、そして私を知る方の為に、この命を使うことが出来るのだから……私自身が、そのように決めたのだから。それに…………ふっ……」
思わず、口走ろうとした胸の内に自分自身で呆れ果て、その言葉の先だけは呑み込んで。
すでに“確実な死”を、この戦場以降は二度とは還らぬ|消滅《ほろび》を約束された死兵は、
「君は、世界を論じる前に先ずは己が救われるべきなのだろう。ならば、祈ろう。君のその願いの正体が明らかになったその時、そこに在るモノが獣の如き欲望ではないことを。誠があらんことを。導きとなる出会いであらんことを」
「こころにも、ないことを……っ!」
「これは本心だよ。その方が我らの目的には近づく……純粋な善意でさえ、|地獄《悲劇》を生むという証明になるのだから」
そうして、男は最後に、女を憐れむように告げた。
……歴史は何度でも繰り返す。それは滅びようとも、名を変え、形を変えて必ず再び現れる。
ゆえに我らは不滅なれば、いずれ力を欲するとき、同胞の下を訪ねてみるのも良いだろう、と。
――|黯党《あんぐらとう》ハ君ヲ待ツ。
――君念ヅル時我等現ハル、と。
大成功
🔵🔵🔵
黒城・魅夜
私は悪夢の滴
悪夢より生まれ堕ちしもの
ゆえに知っています
人の、いいえこの世の酷薄さも醜さも残虐さも
とくとこの身に味わっています
無限ともいえるほどにね
ですが
ですがそれでも
星は輝いていたのです
花は優しく揺れていたのです
人の笑顔は穏やかだったのです
たとえそれが一瞬の儚さであっても
刹那の後に星は砕け花は蹂躙され人は裏切るのだとしても
その一瞬は確かに「真実」だったのです
哀しきものよ、あなたは気づいていますか
世を欺瞞と断ずるためには
その対比となる「真実」がどこかにあらねばならぬことを
そう、僅か一瞬の真実あればこそ
私はこの魂から血を流すことを厭わない
救うためでも護るためでもない
けれど私が確かに見たきらめきを誰にも否定させはしません
溺れ惑いし影隴よ
そしてかつて本田英和の名で呼ばれし哀しき愚者よ
真なる悪夢の力を見るがいいでしょう
物理法則も時空も因果も食らい尽くすこの力をね
この力をもってあなたたちの鎮魂歌と為しましょう
私はこれからもあなたたちを覚えています
それをよすがとして
今は眠りなさい
●怨憎会苦
月が夜ごとに痩せてゆくように。
満ちてゆく潮が呑み込むように。
希望と絶望は一つも留まることなく、いずれもが過ぎ去ってはいずれもがまた訪れた。
――禍福は糾える縄の如しというが、その縄はいつか自らの首を括るために編まれているのだろう。つまりソレは呪いの具現だ。君たちは、その一生をかけて最後に自らを|救う《殺す》ための呪いを編んでいるに過ぎないのだ。
囁き、唆す悪魔の如き声。
女は頷き、導かれるままに次の『悪夢』へと向かい、その毒杯を毒と分かってまた飲み干す。
かつてまつろわぬものどもがあった。
異なる文化、奴隷の如き隷従を迫る傲慢な支配者共を由とせず、よって棲家を奪われた異民族。
時代に選ばれなかった敗者。
女は、その一族に生まれた。
「根切りじゃ。根切りにいたせ!」
勝者たる強者が声高に叫ぶ。
禍根を残してはいけない。
細腕、足弱の女子供とて。未だ目も明かぬ赤子とて。
生まれておらぬ胎児とて……いつか復讐を志す“かもしれない”。
「恐ろしや」
「なんと邪悪な……」
「斯様こと許すまじ」
「然り。是非もなし」
自明の理だ。
何故なら、
「我らには、生きる権利があるのだ」
「守らなければならぬのだ」
「尊き、かけがえのない命なのだ」
――男が茹でられていた。
煮えたぎる油の中で、全身を真っ赤に爛れさせていた。
全身の穴という穴から赤茶混じりの液体を噴出させ、これが人だったとは思えない異様な表情で絶命していた。
だが、歯を食いしばり自らの歯を全て噛み砕いても、最期まで苦悶の声を上げることはなかった。
約定があったのだ。
恨み言も、泣き言も一切申さぬ。
全て呑み込み見事果てたのならば――どうか助命をと、彼は願ったのだ。
「なんという執念。恐ろしや」
「見よ。この悪鬼の如き形相」
「矢張り、生かしては置けぬ」
だが、約束とは破られるものだ。弱者とは踏み躙られるために在るモノだ。
死人に口はなく、すでにどこからも尋ねる者はない。死人は生者を困らせない。死人は反逆しない。
よって、女もまた刑場へと送られた。
男の、夫の、その赤子を産んだ咎で。
牛馬に与えられた鞭が、五体に繋がれた縄を張り詰め、女の体を連れていく。脱臼、骨が外れ、手足が伸びていく。ナニカが千切れる音がぶちぶちと響く。獣のような絶叫をあげ、白目をむいて泡を吹き、永遠のような苦痛を味わう。
かくして、一族はそのことごとくが害獣のように追われ、縄を打たれ、駆除されていった。
温情を与えるという言葉を信じて縋れば、檻の中で抵抗もできずにただ嬲り殺されるだけだった。
………。
……。
…
また、毒杯を飲み干す。
女は戦で昂りタガが外れた獣の狂気を見た。
虐げられることに慣れた人びとは、その鬱憤をより下の者、より弱き者の血で癒やし溜飲を下げる。
猿に似た獣らは命乞いする女の首を絞め、汚れた鈍色を躊躇いなく振るう。何度も何度も、執拗に繰り返される力任せの加虐に、やがて人の体が柘榴のように潰れて割れた。
獣等はまた深手を負って苦しむ姿を見て之をよろこび、更に痛めつけ、嬲り、泣き叫ぶ女から奪い取った赤子を目の前で石に叩きつける。よって優越感を満たし、鮮血の娯楽に酔いしれる。
そして彼らは嗤っていた。
それはもう、愉しそうに。
陰惨な生死を繰り返すたびに心は擦り切れ、たましいと呼ばれるモノが摩耗していく。
止まない悪夢の中、人間は本当に望みが失われた時には心を閉ざし何も感じなくなるのだということを知る。
この地獄から逃れようとする亡者の嘆きは絶えることなく。
しかし、明日の亡者は彼らをより深い奈落へと突き落とす。
(……まぁ、人は一度汚れたモノ、自分より下と認めたモノにはかくも容赦なく振舞えるものですからね)
女はいつしか怨身となり鬼となっていた。
その醜きケダモノどもを同じ地獄へ引きずり込むべく、穢れた腕を伸ばす。
――怨、怨、怨。
浅ましく、汚らわしき怪異と彼らは言う。
けれど、その穢れを生んだのは彼ら自身に他ならぬ。手前で垂れ流した汚物に鼻をつまみ、眉をしかめ、近寄るなと穢れめとまた“ひり出した”汚物を投げつける。
その正体は無為に喰らい無為に糞を垂れ流す糞袋。
すでに片足を突っ込んだ肥溜めで踊る愚物を、いっそ完全にこちら側へと引きずり込んでやるのだ。
……けれど、幾度そうしたところで、何度でもそれを阻む|正義《悪夢》があった。
それは、まるで糞を下水で煮込んだような――
「……誰の性格が曲がっているというのです、失礼な」
§
未だ夢と現が定まらずどこか茫洋とする意識。
そこに立つその人影をぼんやりと見やる女へと、長身痩躯の男は、死人は、朗々と言の葉を紡いで聞かせた。
「正義と公平。それはかつては正しく意味を持って掲げられた言葉だったが、今ではそれは単に力であり勝者を意味する。人は正義に力を与え結びつけることにはとうに失敗したからだ。故に、正義とはただ力と勝者を指す記号へと成り下がった」
「……なるほど? そして呪いとは還るモノ。ですか」
悪夢の中、悪霊と化した女を殺すのはいつも決まって黒城・魅夜(悪夢の滴・f03522)だった。
|魅夜《怨身》は|魅夜《悪霊》に阻まれその本望を果たすことなく、殺され続ける羽目になったのだ。
「悪魔……ではないな。混じりものか」
繰り返し回帰する血腥い幻から目覚めた魅夜へ、本田英和はそう言って静かに一歩前に出る。
低く、そしてどこか苦し気に唸る四尾の獣を宥めるようにして間に立ち、無感情な声で問いかける。
「君は到底……義人や善人には見えないが、」
「私は悪夢の滴。悪夢より生まれ堕ちしもの」
呪いに――幻術に餐まれることも無く、四尾の妖獣へと悪夢を返した女はその理由を明かす。
「ゆえに知っています。人の……、いいえこの世の酷薄さも醜さも残虐さも。とくとこの身に味わっています。無限ともいえるほどにね」
「……ふむ」
「ですが、」
そうして、悪夢から醒めた女が物語るのは、およそ悪夢の化身としては似つかわしくない言葉。
「ですがそれでも星は輝いていたのです。花は優しく揺れていたのです。人の笑顔は穏やかだったのです」
「平和か……だがそれは次なる悍ましい宴の準備期間でしかない。やがて悪意に踏み躙られる悲劇の種を撒いて、だというのにそれを忘れて踊っているにすぎない」
「そうだとしても……」
女はかつてその目が映した景色を寿ぐように目を細め、どこか陶酔したように告げる。
「たとえそれが一瞬の儚さであっても。刹那の後に星は砕け花は蹂躙され人は裏切るのだとしても――その一瞬は確かに『真実』だったのです」
「随分と詩的な物言いだ。だが、なるほど……同時に実に悪夢らしい振る舞いだ」
しかし、人の身で数多の悪魔と渡り合う男は、まるでその心に何も感じないかのように冷淡な反応で。
女の瞳には微かに憐憫の色が浮かぶ。
「……哀しきものよ、あなたは気づいていますか。世を欺瞞と断ずるためには。その対比となる『真実』がどこかにあらねばならぬことを」
「真実、光、正義、善。それは君たちが己を飾るに好みそうな|言葉《アクセサリー》だ。私にとっては大した意味のない、価値を無くした虚飾塗れの記号だ。だが……、その一欠片の真実が君の答えか」
「ええ……そう、僅か一瞬の真実あればこそ、私はこの魂から血を流すことを厭わない」
「われわれの魂がたった一回だけでも、絃のごとく幸福のあまりふるえて響きをたてたなら、このただ一つの生起を引き起こすためには、全永遠が必要であった……、か」
稀代の悪魔召喚士はその出自からして人間とは大きく異なるだろう魅夜の言葉に対しても一定の理解を示し。
だが、と重ねて問いかけて、
「聖人君子でもあるまいに。それは君のような『悪夢』が欺瞞に塗れた世界を守る理由にはなるまいよ」
「ふふ、実のところ救うためでも護るためでもないのですよ。けれど私が確かに見たきらめきを誰にも否定させはしません。ただそれだけのこと」
魅夜の答えに、僅かに眉をしかめ吐き捨てた。
「世界に内包されている、己の縁(よすが)を守る為ならば、という訳か……世界の意思も随分と成りふり構わず、面倒なことをしてくれた……」
魅夜はそれが少しおかしくて、自らの来訪が想定していた者らの内のいずれの型でもなかったのだろうなと察しながら、律儀に反応してくる生真面目そうな青年将校の姿と今しばらく語らうことにしたのだった。
§
「かつて悪夢と呼ばれ厭われたモノの雫。芽生えた自我の新鮮さと物珍しさに目が眩み、与えられた甘い蜜のまやかしに酔う者よ。実におめでたいことだな。お前は無限の無限たるを知らず、よって悪夢の何たるかを忘れた、現無の幼子のようだ」
「……へぇ」
言霊、とでも云うべき類のモノだろうか。
魂へと干渉する鎖、心の柔らかい部分を麻縄で締めつけられるが如き感覚。
神々はおろか悪魔と比べても矮小なヒトの身に過ぎないその男は魅夜を定義づけ、彼が使役する悪魔たちと同じように縛ろうと試みているのだ。
「世界の寵愛をいただく、世界の奴隷よ。しかし今そうして浮かれていようと、お前は変わらず奴隷のままだ。主人はいずれ再びお前を鞭で打つだろう。同胞を得、しかしその実は化外に過ぎない異端の者よ。与えられたモノはまた奪われ……千年、或いは百年も経たぬうちにその満足も消え失せるだろう」
「ええ、ふふ……幸運は常に主を裏切る機会を狙うもの。その時、悪夢はより進化して、故に人々はより無残に苦悶する羽目になるのかもしれませんね」
「………」
だが、まるで暖簾に腕押し。
慣れたものでしかないのだ、その呪いと絆――かつて108もの鎖で縛られていた魅夜にとっては。
軽く吐息を零した将校に、今度は魅夜が問いかける。
「ですが、この世界の現在とて、百年千年前の残虐さや無法ぶりに比べれば随分マシになっているのでは?」
「……どうかな。正直なところ、私にはすでにそれは判断がつかないモノなのかもしれないと思うが」
「おや。歪んでいる自覚はおありで」
「自らの思考、その矛盾さえ疑うことができぬ者に、狡猾で強大な悪魔どもの使役は叶わぬだろうよ」
魅夜が悪夢を与えるまでもなく、悪夢の渦中にいるのであろう男は、どこか懐かしむように続ける。
「千年前、我々は刀や槍、弓……この身を血で濡らす武器を手に戦っていた。それから、銃、大砲……兵器の発展は目まぐるしく、その成長には際限が無い。人を部品として組み込んだ往きては戻れぬ特攻兵器――私もソレに加担したが。君がいま想像する最悪。其れでさえまだ|マシ《人道的》だったと思う日が来るだろう」
「ふふ、そしてそれを扱う者らの中身、精神は千年前から大して成長していない。いえ、むしろ劣化しているとさえいえる……それは確かに悪夢でしょうね」
「そうだ。いつだって誰かを何かを殺したい生きものが、その本能に気付きもせず、向き合うこともせずに、自らの|力《正義》ばかりを肥大化させていく。無知で残虐なチンパンジーもどきがその手に銃を持ち、そして彼は常に間違うことなく正義であり、しかも仕事熱心なのだ……それが、ヒトが行き着く世界の形だ」
「ええ、そうかもしれませんね」
「幾ばくか、その中にあって善や美を追い求める者がいたとしよう。だがその寛容さも、赦しも、永く保った例はない。なぜならそのなけなしの善意さえ傲慢で欲深い者たちに利用され、踏み躙られ、そのような者共が際限なく肥え太っていくのを許すばかりだったからだ」
「………」
「そして気づかせてくれる。正義と力を結びつけ、犠牲と献身に報いる。ただそれだけのことを他者に期待するのが、どれだけ愚かだったかを」
紛れもない悪であり、人の世の平和を乱す大罪人。
だというのに不義を憎むという矛盾を孕んだ亡霊へ、
「でも……」
魅夜の発した返答は至ってシンプルだった。
「|悪夢《世界》とは、そういうものでしょう?」
「…………そうだな」
「溺れ惑いし影隴よ。そしてかつて本田英和の名で呼ばれし哀しき愚者よ」
誰もが知り、しかし多くが目を瞑る事実。
かつて癒えぬ傷を負い、虐げをもって報いられた、いつかの生命へ。
真の姿を顕にした悪夢の雫が其れに贈るは、《|舞い狂え悪夢、崩壊せよ世の理《ワールドエンド・オブ・ナイトメア》》。
因果律の完全破壊を試み、無へと回帰させる――はじまる前へと還す権能。
「真なる悪夢の力を見るがいいでしょう。物理法則も時空も因果も食らい尽くすこの力をもって、あなたたちの鎮魂歌と為しましょう」
「真なる……か。誰も彼もが我こそは真なりというが、真なる悪夢が聞いて呆れる。随分と寛大で慈悲深いことだ。我らのような人間がそれを何より望まぬことを、わかってやっているのだろうが」
「――嫌がっていただけたのなら何より」
褒められたのか貶されたのかすら良くわからない物言いに、魅夜はただ艶然と微笑んで。
「だが、君たちの評価など心底どうでも良かったが……愚か者呼ばわりは少しばかり気に入った。たしかに、賢者であればこのような道は避けて通るはずだ」
「鉄面皮。あなたは、私から見れば潔癖にすぎたのですよ」
「これでも一応は元人間なのでね」
死を消滅を恐れるでもなく、すでに全てを受け入れている男との末期の会話は存外と穏やかなもので。
きっと普段の魅夜らしくはないのだろう、それでも彼女の中に確かにあったのだろう、別れの言葉を吐き出す。
「私はこれからもあなたたちを覚えています。それをよすがとして……今は眠りなさい」
「ろくに知りもせぬ相手の何を覚えるというのかね。君の中に残るのは精々が愚かな大罪人の名であり、無価値で無意味な記号くらいのモノさ。故に君の記憶など、読む者無き書に記された文字ほどの価値もない」
そうして、消滅する間際でさえ口の減らない、相変わらずの無愛想に呆れながら。
「ですがそれでも」
女の唇は言の葉を紡ぐ。
彼が人に巣くう心の闇の深淵を覗くのならば、深淵もまた彼を覗く。
ゆえに、悪夢は識ったのだ。
寄る辺なき魂。
無縁となり、もはや互いに引き裂き喰らい合うことを延々と繰り返すだけの、救い無き影朧たち。
かつてその無明を切り裂いた、一筋の穢れた光があったことを。
「……その一瞬は、確かに『真実』だったのですよ」
忘れ去られた古井戸の底の孤独を照らした其れは、空々しき救いや希望を謳う聖者などではなく、彼らに死地へ向かうことを命じた権力者共の|子孫《贖い》でもなく。
共に世界を呪おうなどと見え透いた嘘を宣い、心の傷と弱みにツケ込み之を利用せんと企む大悪党。
そうして“騙されてやった”恐ろしい|悪魔《同胞》共を数多引き連れ――よって、後には悪魔にその魂までも売り渡してしまうこととなる、長身痩躯の生真面目そうな青年将校だったことを。
救いと呼ぶにはあまりに遠く。
それでも共に立ち。
蹴落とし合う因果から共に脱する夢を見た。
当て所ない|地獄《悪夢》から抜け出そうと、その声に導かれて藻掻くように歩き続けた記憶。
「この私に悪夢を見せてくれたお礼です」
ならば……楽に逝かせては悪夢が廃る。
せめて心を震わす一言を、其の最期に贈らねば、と。
「いずれあなたの『帝』とやらも悪夢に沈めてあげましょう」
「………」
告げた未来に、すでに命のない死兵が一瞬、槍の穂先のように鋭く、悍ましいまでの殺気を放った。
それから、ニンマリと口許に弧を描く女の表情を見て。
最後には心底から呆れ果てたようなため息を一つ零す。
「……私は、君たちが憎いよ」
「ふふ、では……この地獄、憎悪に出会ったのはあなたの方でしたね」
そう勝ち誇ってみせる悪夢の雫の前で、悪夢を引き裂く鎖に縛られ、大罪人が膝をつく。
しかし、その影朧に与えられる眠りでさえ、頑なに拒む者がいて。
苦しみは徒に長引く。
――その苦痛の名を、彼らは世界と呼んだのだ。
大成功
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