●歌うはレクイエム
切っ掛けは些細なことだったのかもしれない。
朱鷺透・小枝子(亡国の戦塵・f29924)は普段なら、そういうことをしない猟兵だった。ただ、予感めいたものがあったのかもしれない。
己の中にふと湧き上がったものに名をつけるのならば、そういうものであったのだ。
言葉にするのが難しい感情を小枝子は吐露することはない。
じっくりと己の中で抱える。
それを発露するのは激情に駆られるのとはまた別なことであったからだ。
彼女の手に今あったのは、矢絣模様の袴に振り袖。そして編み上げのブーツであった。
以前、小枝子が浴衣コンテストで身に纏ったものである。
本当になんとなしであったのだ。
引っ張り出したのは、秋の夜風が彼女の頬をくすぐったからかもしれないが、しかし、本当になんとなく、という彼女らしからぬ考えからであった。
「……おや? これは?」
しまっておいた振り袖のから、ひらりと一枚の紙切れが落ちる。
それを手にとって小枝子は、あ、と小さく声を上げた。
「こんなところにしまっていたのでありますな。もう一年になろうかと言う頃合い……これは、そういうめぐり合わせなのでありましょうか」
それは『サアビスチケット』なるものであった。
幻楼桜が一年中咲き乱れる世界、サクラミラージュ。
その帝都にあるカフェーのものであったことを小枝子は思い出す。同時に、脳裏に浮かぶのは、戦いの日々であった。
「あの戦闘から一年近く経ったのでありますな」
小枝子はとあるグリモア猟兵の予知によってグリモアベースから転移したことを思い出す。
『妄執の軍人』――そう呼ばれる影朧との戦い。
それは彼女の心に今も遺されたものである。
苛烈なる戦い。
そして、その先にあったはずの、願われた平和。紡がれたがゆえに続いていくものを小枝子は知ったのだ。
「あの主人は、『紫苑の君』はお元気でしょうか」
そう思うと小枝子は居ても立ってもいられない気持ちになってくる。
暖かなカフェー。
迎えてくれた女主人の穏やかかな微笑みを思い出す。
そして、アップルパイとミルクティーの味わい。悪霊である自分でもしっかりと思い出せる優しい味わい。
あれはきっと店主の境遇であるとか、気質というものが反映されたものであるように小枝子は思えたのだ。
「しかし、今更行ってもご迷惑ではないでしょうか。いや、そもそも自分のことを覚えていらっしゃるでしょうか。というか、また来ますと言って、もうすでに一年が過ぎている。これはあまりにもあんまりなのではないか。逆に失礼なのでは?」
小枝子はつらつらとそんな事を考えてしまう。
けれど、思い立ったが吉日という言葉がある。
行こう、と思ったのならば。
最早、行動に移さねば立ち行かない。他の何も手につかない。
不器用であると言われても仕方のないことである。だが、それでも小枝子は、あのカフェーの店主に会いたいと思ったのだ。
故に小枝子は立ち上がる。
大正ロマン溢れるハイカラさんの装いに身を包んで、甘味が大好きなグリモア猟兵を誘おうと急ぎ足でグリモアベースへと走るのだった――。
●グリモアベース
「……今なんと?」
褐色の頬が色めきだつようであった。
少なくとも小枝子はそう思ったし、実際にそうであった。
目の前のグリモア猟兵、ナイアルテは頬を高揚に任せたように赤らんでいた。
「え、いや、その、でりますな……サクラミラージュのカフェーに共に行きませんか。アップルパイとミルクティーが絶品なのであります。あ、いえ、よかったら、なのでありますが」
「行きますとも!」
食い気味であった。
此処まで食いつかれるとは小枝子も思っていなかった。
グリモア猟兵であるナイアルテは、普段はとても真面目な女性だった。いや、傍から見ていたらそうでもないのかもしれないが、当人は自分は真面目な部類であると思っている。
ただ、そう。
ちょっとばかり甘いものに対しての執着というか、興味というか、そういうのが強いのである。造られた存在であるからかもしれない。
人の手で生み出されたもの。
そこに愛着というものを持っていたのかもしれないし、それを味わうということに対しての感謝というものがあったのだ。
そして、小枝子が誘ってくれた。
その事実が彼女にとって喜ばしいことだったのだ。
「やっぱりなしで、というのはやめてくださいね、小枝子さん。私、アップルパイと聞いては黙っていられない質なのです」
「そ、そうでありますか……っ」
「ええ、そのアップルパイは如何様なスタイルでしょうか?」
「ス、スタイル……?」
「はい、アップルパイとは一般的に砂糖煮した林檎をパイで包んで焼き上げたものです。形も千差万別なのは言うまでもありません」
ナイアルテは高揚のままに語る。
よくもまあ、舌が回るものだと小枝子は思ったかもしれない。
「アップルパイにアイスクリームが添えられていたのなら、それはアップルパイ・ア・ラ・モード! ロール型もあれば、パイ生地でサンドしたもの! 生のりんごをそのまま焼いたものもありますよね! 色々なパターンが世界中にあるのです。モックアップルパイなんていうものもございますよ!」
「あ、あわ……あ、あの、ナイアルテ殿」
「はい!」
「自分、どうにも言葉で説明するのは難しいであります。兎にも角にも、味わっていただけたのなら、その絶品具合がわかるかと思うのでありますが……」
「なるほど、一理どころか百里ありますね。人伝の喧伝された噂ではなく、真実、目の前に提供されたものを味わってから評価せよ、と……」
「あの、そんな大げさなものでは」
「小枝子さん、私が間違っておりました! 知識というのは蓄えればよいというものではございませんよね! 私、目からウロコ! 青天の霹靂! 忸怩たる思いです! では! 参りまそう! 今すぐ! ナウ! ジャストナウで!!」
小枝子はナイアルテに背中を押されてグリモアベースを後にする。
なんだか小枝子よりナイアルテの方が余程楽しみにしているようである。なんだか、そういう彼女の姿に小枝子はこそばゆい気持ちになってしまう。
だが、ナイアルテの歩みが止まる。
「どうされました?」
「いえ、その喫茶店というのはサクラミラージュのカフェーなのですよね?」
「ええ、以前事件が起こった場所にほど近いのでありますが」
「……ならば、形から入りましょう」
形? と小枝子は首を傾げる。
ナイアルテは深く、深く頷いた。
ともすれば、左様、としたり顔であった。
そう、カフェーともなれば作法というものがある。いやないかもしれないが、まあ、ナイアルテの中にはあったのだ。
どんなレストランにもドレスコードというものが存在しているようにカフェーに赴くのならば、それ相応の格好というものがあるのである。
「ハイカラさんを見習いましょう! 確か小枝子さんは以前、浴衣祭でお召になられていたお着物がありましたよね!」
「はい、であります。此処に」
そう、小枝子が今日という日に思い立った理由が、その着物なのだ。
それをしげしげとナイアルテは眺めている。
「折角です。そちらをお召しになって行きましょう。無論! 私もハイカラさんコーデに見を包ませて頂きます!」
小枝子は、ナイアルテが着たいだけではないのかと訝しんだ。
いや、だってこういう機械でもない限り袴に振り袖、編み上げブーツと言ったおしゃれをする機会などナイアルテにはないのである。
彼女だって年頃の女の子である。
いやまあ、女の子というには、少し……という気持ちになるのも致し方ない。
だが、ナイアルテはギリ! まだギリ! 大学生に足を引っ掛けた年齢である。まだギリ行ける!
「は、はぁ……」
「では、少々お待ちを!」
ナイアルテは早速と自分の部屋へと駆け込んでいく。
いつもの様子とは違ってナイアルテの勢いは凄まじい。有無を言わせぬ迫力があったし、またそれほどのバイタリティというものが溢れていた。
「甘味とはそれほどまでに人を狂わせるものなのでありましょうか……」
小枝子はあの日味わった優しい甘さを思い出す。
確かに焦がれるような思いがあった。けれど、それは『妄執の軍人』という影朧を思えばこそであった。
彼の平和への願いは、残してきた子に対するものだった。
執着と言って良い。
その執着こそが彼を支えていたのだ。
生きたいという願い。
生き延びねばという祈り。
そして、同時に残してきた子が平和に暮らせますようにという思いに溢れていた。だが、影朧となった彼は狂気に囚われていた。
これより小枝子が向かおうとしているカフェーの店主は、そんな彼の遠い血筋の先だ。
守ろうとしたものを傷つけるという悲劇を小枝子は防いで見せたのだ。
その結果、少しだけ良い思いをしてもよいということなのだろう。
因果が巡るというのならば、小枝子の為した良い行いは、今日という日にめぐりまわってきたのかもしれない。
「おまたせしました!」
ナイアルテは気合十分であった。
小枝子とお揃いの振り袖に袴、編み上げブーツはいつものものであるが、しかし彼女は浮かれ気味であった。
「いざ、アップルパイ!」
から回っている気がする。
「さあ、ご一緒に!」
「えっ」
「いざ」
「あ、アップルパイ!」
「はい、イエス! では行きますよ!」
人選を間違ったかもしれない。小枝子は密かにそんなことを思ったが、しかし、グリモアベースから二人は一直線にサクラミラージュへと転移するのだった――。
●幻朧桜
薄紅色の花弁が舞い散る。
それはUDCアースや他の世界であれば、春を思わせる色合いであったことだろう。
桜の花弁は、儚く散るがゆえに人の心を捉えて離さない。
しかし、サクラミラージュのあちこちに植えられている幻朧桜は一年中咲き誇っている。どこもかしこも桜の花びらが舞い散る。
故に、この世界に生きる人々にとって幻朧桜が散る光景は、特別なものではなく日常そのものであった。
「いつ来ても幻朧桜は綺麗ですね」
「はい……あ、こちらですよ」
ナイアルテを伴って小枝子は帝都へと訪れていた。
あの日は冷たい空気が頬を切り裂くようであったが、今は秋風が肌に心地よい。
「少し、着るものを選ぶのに難儀をする季節ですけれど、良いものですね」
振り袖を振ってナイアルテはご機嫌である。
その様子を見て小枝子はよかった、と思う。彼女が此処まで乗り気であることもそうであるが、喜んでくれているのが何よりも嬉しいと思ってしまうのだ。
「よくお似合いです」
「小枝子さんの方こそ。私、小枝子さんがお召になっているのを見て、いいなぁ、いいなぁと常々思っていたのですよ」
連れ立って歩く。
二人は周囲の人からどのように映っただろう。
二人の女学生が甘味を求めて連れ立っているように見えただろうか。それとも仲良い友達のように見えただろうか。
どちらにせよ、二人の足取りは軽い。
「ふふ、ちょっとしたデート気分ですね」
「エスコオトさせて頂いているであります」
なんて二人は笑い合いながら、それこそブーツがスキップを踏むようにして石畳の道を歩く。
幻朧桜の花弁が風に舞う。
そして、小枝子は目的のカフェーの元へと辿り着く。
変わらない。
あの日の事件から装いは変わっていないようである。営業時間でなかったらどうしようかと思ったが杞憂であるようだった。
客の入りはどうだろうか。
あまりにも多すぎるようであったのならば、待つことになるだろうか。
そんなことを考えながら小枝子はカフェーの扉の取っ手を握る。背後にナイアルテがくっついているのは、なれぬカフェーへと足を踏み入れることに対して、少しばかり臆病になっているからだろう。
彼女の顔の緊張の色を見て、小枝子は己が先陣を切らねばならぬと誇らしい気持ちなってしまうのが、なんとも彼女らしいと言えばそうであった。
「ごめんください」
カラコロと扉の呼子が鳴る。
秋風の涼しさとは裏腹に空から降り注ぐ日差しは少しばかり暑さを残すものであった。
けれど、店内は風がよく通り抜けていくのだろう。
ちょうどよい涼しさに保たれているようだった。
「いらっしゃいませ。どうぞお好きな席へ」
微笑みながら出迎える店主の表情を見て小枝子は、ああ、と息を吐き出す。
変わらない。
よかった、と思う。
変わらないことへの安堵。
それは過去の化身であるオブリビオンとの戦いが目まぐるしく続く猟兵というものに覚醒した小枝子にとっては、得難い感覚であったのかもしれない。
『今』は変わっていく。
どうしようもなく変わっていくものである。時の流れが止められないのと同じように、変化というのは留めようのないものであるからだ。
それが善きにつけ悪きにつけ、というのは世の常であろう。
「おかわりないようで」
小枝子は、この店を訪れる前まで抱いていた不安が霧散するのを感じただろう。
懐かしさを覚えたからではない。
変わらぬ店主の微笑みを見たからだ。そして、彼女の髪に揺れる『紫苑の髪飾り』が変わらず揺れているのを見たからだ。
「あら、お久しぶり、と覚えていらっしゃる? 冬の頃にいらっしゃったわよね?」
「はい。その時はお世話になりました」
「寒さが酷い頃でしたから」
彼女の微笑みは穏やかそのものだった。
確かにカフェーは帝都にあっては流行の最先端である。時に、大仰で騒々しいものであることもあるだろう。
けれど、このカフェーはどこか落ちついた雰囲気があり、また同時に洗練されたような、成熟されたような空気が流れている。
静かなる時間を楽しめる者だけが集うことを許されたかのような空間だった。
「どうぞ、こちらにおかけになって。この席は風がよく通って気持ちがいいの」
「それでは甘えさせて頂いて」
「ふふ、そうかしこまらなくても。ああ、ご注文は如何します?」
「アップルパイとミルクティーをいただけますか」
「……あの日もそうでしたね。あれからカフェーはおめぐりになられて?」
店主の言葉に小枝子は、少し苦笑いするように笑みを浮かべる。
そうだった。
あの日、カフェーは数えるほどしか来たことがないのだと正直に告白していたのだった。
そして、彼女はそれを喜んでいたことも思い出す。
彼女の優しさは、彼女の気質と彼女の置かれた環境によるものであると小枝子も理解できる。
戦いに明け暮れ、破壊することだけが至上命題である自分とは対極にある存在。
しかし、小枝子はそれを厭うことはない。
寧ろ、そんな自分だからこそ、彼女のような平和の象徴めいた者を脅威から守ることができるという自負がある。
「いえ、やはり数えるほどしか……あの、ナイアルテ殿?」
「え、あっはい!」
先程からずっとナイアルテが静かなことに小枝子は気がつく。
あんなにアップルパイに対して講釈を垂れていた彼女が借りてきた猫のように静かなのだ。どうしたのだろうと小枝子は首を傾げる。
「そちらの御方は御学友の方?」
「いえ、こちらの方は……」
「そのとおりです! お友達です!」
えぇ……また食い気味である、と小枝子は思った。
ナイアルテのスイッチが何処にあるのかさっぱりわからなかった。けれど、友達と言われてまんざらではなかった。
「それは嬉しいわ。お友達とご一緒してくださるなんて。一年頑張ってきた甲斐があったというものだわ……というのは大げさかしら?」
店主はそんな二人の様子にも微笑んでいる。
穏やかな時間が流れているように小枝子は思った。
こんな時間が続けばいいと思う。本当にそう思う――。
●君を忘れない
目の前に運ばれてくるアップルパイから芳しい香りが漂っている。
パイ生地に織り込まれたバターの香りと、砂糖の甘さ、そして林檎の香りが小枝子とナイアルテの鼻腔をくすぐる。
そして、少ししてからミルクティーが運ばれてくるのだ。
カップに注がれた乳白色が照明に揺れている。
「どうぞ、おまちどおさま。ごゆっくり」
「ありがとうございます」
「では、頂きましょう、ナイアルテ殿」
「はい! 確かにこれは美味しそうです……生地がテラテラと美しいですね。やはり店内の照明というのも大切な要因の一つですよ。光の加減でデザートはさらに美しく、より美味しそうに見えるのですから!」
また急に語るじゃん、という勢いでナイアルテの瞳は爛々と輝いていた。
「語るなという方が無理でしょう!」
フォークを手にとって小枝子は、サクリ、と小刻みの良い音を立てるパイ生地を切って口に運ぶ。
香りと共に舌の上に甘さが広がる。
これだ、と思った。
あの日味わった甘さも、こんなふうであった。自然と頬が緩む。
美味しいですね、とナイアルテに告げようとして口を開くと、彼女もまた同じ思いであったのだろう。互いに同じ様な顔をしていた。
告げようとしていた言葉も同じであったし、それが互いに解るからこそ、笑みがさらに深いものとなってしまう。
「フフフ」
「デヘヘ」
「ナイアルテ殿、お顔が面白いことになっているであります」
「小枝子さんこそ。デヘヘ。これは、こうもなる味わいですよ」
絶品であると言ったアップルパイの味わいにナイアルテも満足している様子であることに小枝子は嬉しくなる。
ミルクティーを口に含めば、また別の甘さが口の中に広がっていく。
「お口にあってよかったわ」
店主の言葉に小枝子はうなずく。
「あの日の味が忘れられなかったであります。店主殿は、如何お過ごしでありましたか」
小枝子は気になっていた。
確かにグリモア猟兵であるナイアルテの予知と小枝子たち猟兵によって、影朧『妄執の軍人』の引き起こす凶行は未然に防がれた。
けれど、影朧は弱いとは言えオブリビオンである。
彼等の出現があれば、また何か事件が起こっている可能性がある。だからこそ、『妄執の軍人』が嘗て守ろうとして、そしてまたその思いが平和の礎になった結果の道行き、その先を歩く彼女の身に何かあっては、と思ったのだ。
「変わりないわ。お心遣いありがとうござます」
「何かおかしなことがあったりなどは」
「特にないわ。ふふ、お客様の入りも、というのは安心材料にはならないでしょうけれど」
「それは、その、おかしなことを聞きました」
小枝子はなんともこういうことが不慣れであった。
自然と会話の中から聞き出す、というのが苦手であったし、そうこうする寄り戦う方が多かったからだ。
不甲斐ないと思う。
けれど、店主は気にした様子ではなかった。
むしろ、一年ぶりに現れた客が再び訪れたことのほうが余程嬉しいのだろう。
「こうしてまたご縁が繋がったことのほうが嬉しいわ」
「こちらこそ、また来ます、という約束を果たせたことが嬉しいであります。ああ、でも、困ったことがあれば御力になりましょう」
それは小枝子にとって後先を考えない言葉であった。
確かに小枝子には力がある。
けれど、それは猟兵としての力である。
戦うための力でって、平穏の中を生きる店主の困りごとに対処できうるとは限らぬものである。
だが、その気持を彼女はくんだようだった。
「ありがたいことだわ。でも、ご安心なさって」
「それは、どういう……」
「来月に結婚することになりましたの。あ、いえ、このお店がなくなる、というわけではないのよ。結婚しても続けて良い、と仰ってくれる方が居て……」
「それは! おめでとうございますであります!」
めでたいことだと小枝子は目を見開く。
店主の様子は少し気恥ずかしげであった。小枝子の祝福の言葉にも、なんとも言い難い様子で銀のトレイを手にしてくるくると所在なげに弄ぶばかりであった。
「いやだわ。なんだかお祝いの言葉を引っ張り出したみたいで」
「そんなことはないであります。ね、ナイアルテ殿……」
そう言ってナイアルテを見やる小枝子。
だが、其処に居たのはアップルパイを頬張っている残念なグリモア猟兵の姿があった。話聞いてた? 聞いてないでありますよね。今、すっごい良いお知らせありましたですよ? と小枝子はナイアルテに少し冷めた視線を送る。
「ハッ……!? え、えっと、アップルパイとても美味しいです!」
違う。
そうじゃない。
けれど、店主は笑っている。
「そのお言葉が一番嬉しいの」
「そうかもしないでしょうが……ナイアルテ殿、店主殿はご結婚なされるそうですよ」
「えええっ!? そ、それは! おめでとうございます!」
結婚。
それは平和の象徴だ。そして、幸せの天頂でもあるといえるだろう。
けれど、天頂を越えても人生は続いていくのである。
このままさらに高みに向かうこともあれば、谷底へと歩んでいくこともある。
決して平坦な道ではないだろう。
いずれにしたって、時には嵐の中を歩まねばならないこともあるはずだ。今日のような秋晴れの、涼やかな季節ばかりではない。
「それでも、よかった、と自分は思うのであります」
稲妻走る夜も、日照りの痛烈なる昼も、どんな日であっても続いていくことを実感できる。
そんな人の営みを守るために嘗て戦った者がいる。
他の誰もが忘れても、小枝子は覚えている。
我が子を守らんとした者。
我が子に一目合いたいと願って没した者。
どんな形であれ、祈りが願いに昇華したのだ。平和でありますようにと。己でなくても、己に連なる誰かが、己の大切なものを次代に繋いでいってくれますよにと。
その願いは、小枝子の目の前にある。
微睡むような平和が在る。
きっとそれは誰もが求めて止まぬものであっただろう。そして、同時に誰しもの指の間からこぼれ落ちていったものでもある。
小枝子にとって、それを実感することは難しいことだった。
戦いばかりが己の存在意義であったからだ。
けれど、と今、小枝子は思う。
「こんな時間が流れている。確かに流れているのであります」
あの日、あの時、願われたものはこうして紡がれている。
揺れる『紫苑の髪飾り』は、きっと彼女の子へと受け継がれていくのだ。
『君を忘れない』と願い、願われた贈り物。
長い時が経とうとも、何代先までも。
繋がっている。
確かなものが此処にはある。
伽藍堂である悪霊たる己の心に入り込んだ温かい空気。
優しく入ってきたあの日があったからこそ、今自分は此処にいる。
優しさというものが、きっと世界をより良いものにしていくと信じきれるものではないけれど。それでもと、小枝子は思うのだ。
些細なことで世界が変わる、変わってしまうように。
些細な優しさが世界を好転してくこともあるはずなのだ。
「また来ます、であります」
「ええ、またお待ちしております」
微睡むような時間を得た小枝子は、なんてことない時間を終わりにする。
この店を出たのならば、また自分は戦わねばならない。
あの軍人がそうであったように。
「良いお店でしたね」
「ふふ、言ったでありましょう。絶品である、と」
「違いないですね。でも、小枝子さん」
ナイアルテは店を出た後、小枝子に言う。
彼女の顔がとても良い顔をしているのだと。それはきっと戦いばかりではない日々が彼女の中に入り込んできたからであろうと。
あの店の雰囲気。
あの店主に紡がれてきた優しさ。
そうしたものが、いつか彼女の力になる。それを信じて疑わぬ瞳が小枝子を見ていた。
「そうでありましょうか。そうであったのならば、良いのですが」
変わらぬものが己の中にある。
戦うこと。
それが優しさの結末を悲劇へと変えなかったことをこそ、小枝子は誇りに思う。
己の心に燃える熾火。
嘗て『妄執の軍人』が持ち、そして、小枝子の中にも確かに存在するもの。
「彼が違えなかったように。自分も戦いを続けようと思ったであります」
そう、小枝子は兵士である。
戦いに生きて、戦いに死ぬ。
けれど、もし。
もしも、一度は得た結末がとは異なる結末が彼女にも訪れるのだとしたら。
きっと、今日という日の平穏を胸に抱くはずだろう。
果たして、それが遠き日に訪れるのか。
それとも永久に訪れないのか。
いずれにしても、変わらぬものもある。
今日という日に思ったこと。
「あの平穏に為に」
戦うのであります、と小枝子は追憶の君を抱いて明日へと踏み出す――。
成功
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