霜降の音祭りに、白雪は舞う
それは、澄み渡る秋風に鳴る音の祭り。
霜降を迎え、紅葉の赤が染まりゆく中で続いていた。
大きな神社の、広い境内を場として奏でられるのは和楽器たちだ。
ゆったりとした旋律で紡がれる音色は美しく、何処か胸に染み渡る響きがあった。
何処か思いを、情感を揺らす音だった。
赤く色づく季節の静かな美しさに琴が語るのか。
それとも、弦が漏らす音色にと秋の空気がざわめくのか。
或いはその両方だろうか。どちらか片方に決めつけるには、なんとも風雅さを覚える。
流れる雰囲気自体が典雅さを匂わせる。
確かにこれは祭りは祭り。
けれど、神というヒトならざるモノへの奏上という形だった。
「これは……」
月白・雪音(|月輪氷華《月影の獣》・f29413)は、それにどう反応すればよかったのだろうか。
迷い込んだひとりとして、どうすればいいのかと佇む。
常人より敏く、鋭い聴覚が美しい音の欠片を拾ったのが始まりだった。
何の音か。いいや演奏かと迷い込んでみれば、神社の境内で和楽器を奏でられている。
奏者は変わり、楽曲も変わる。
名も知らない旋律は、けれど、一途なまでの願いに溢れていた。
何故、彼ら彼女らは奏でるのだろう。
ただ分かるのはひとつだけ。
「美しい音色です」
そう囁いて、雪音の赤い眸が静かに瞬いた。
ひとつの曲の終わりにと、ゆっくりと囁く。
「どれほどの修練を重ねたのか。それを口にするのが恥ずかしくなるほど。それを語ることより、耳を傾け続けることが大事なのだと」
雪音の視線は境内に作られた舞台の上へと向けられたまま。
表情が微かに動くこともない。
目も、口も、頬も。情動を表す術を知らない、真白き雪のような冷たい姿。
だが感じる心はあるのだと、ふるりと身を震わせ、白虎の耳と尾を揺らす。
「ああ、なんと……素晴らしき音と心に満ちた、ひとときでしょうか」
幸福に出会えたのだと、雪音はゆっくりと瞼を閉じた。
喧噪に満ちた祭りもまたよいものだろう。
が、磨き上げた芸を披露し、神へと捧げる場はあまりにも神秘的だった。
誰も彼もが、楽器より鳴り上がる音ばかりへと意識を向けていた。
出店などないのも確かに素晴らしい。
いいや、神社を遠回りすれば簡単な出店はあったかもしれない。
飲食はお控え下さいとある看板。それが無くとも、ただ音を聞き入るものは食事という無粋なものを此処に持ち込みはしないだろう。
ただ音を愛する場だった。
「おや、見知らぬ方ですね。そこの白い方」
老婆の声が雪音にかけられる。
何か礼を失してしまったのかと雪音が振り返る。
にこにこと穏やかに笑う着物姿の老婆がいた。
親切そうに、嬉しそうにと語りかけてくる。
「この祭りは初めてでしょうか?」
「ええ。迷い込んだようなものでして。何かしら、守るべき作法があり、それを破っていたのでしたら、知らぬとはいえ申し訳がありません……」
「いえ、いえ」
静かに頭を下げる雪音に、老婆はゆっくりと言葉を続ける。
「迷い込んだ、ですか。なら、私が少しこの祭りを語っても宜しいでしょうか。過去の話など煩いものだと、そのように思われないことを祈るばかりですが……」
首を振って、そんなことはないと伝える雪音。
ならとゆっくりと老婆は語る。
「この神社は芸能、特に音楽に関する神を祀るものです。ですから、秋となればこの祭りがあります。この地域の周囲にいる音に関わるもの、或いは、遠くからでも音を捧げようと、毎年来てくださるのですよ」
「音を、音楽を愛される神なのですね」
「ええ、ええ。とても愛の深い神と謂われております。今でも、その噺が残るほどに」
優しい箏の音色が流れる。
まるで水に流れる花びら。
ひらひら、ゆらやらと揺蕩う姿が脳裏に浮かぶほど。
鮮やかさではなく、何時もの弦が鳴らす音色の重なる繊細さが思い浮かばせるのは、さながら夢のよう。
聞き入る雪音の表情は変わらないままであっても。
「神は語られるもの、物語としてあるものだと存じております」
「…………」
深紅の瞳の浮かぶ情の色が変わることもない。
雪のように白く透き通る肌が、音色に撫でられ染まることもない。
それでも。
「ならば、その物語が愛の深きものであればこそ、彼ら彼女らの芸は、あのようにまるで愛を伝えるかのように儚くも深く、淡くも鋭きものとなるのでしょう」
雪音は音楽という芸に詳しい訳ではない。
が、一芸を修め続けて極めた身。それが違うものでも、宿るものは分かるのだ。
「指遣いのなんたる繊細なことか。まるで愛しいひとの傷口に触れるように、ひとつひとつの弦を弾かれる――故に何処までも、まるで慈しむ雨音のように心を打ちます。打ち続けます」
「…………」
「その吐息のひとつひとつ、まるで思いを積み重ねるよう。募る想いは限りないと、ただ一息より感じるその切なさは、これほど遠いのに鮮明に浮かびます」
ああ、彼ら彼女らは。
「音を愛されている。愛の音を奏でられている。ならば、それを向ける神もまた、愛深きものなのでしょう」
雪音が歌うように口にすれば、さらりと風が吹いた。
柔らかくも透明な秋風は、奏でられる音に僅かに震えた。その裡に、微かな心をいれて、通り過ぎていく。
その途中で優しく、優しく、愛の囁きのように雪音の頬を撫でるのだ。
何も浮かぶことのできない、雪の美貌より滲む思いもまた汲んだかのように。
「……素晴らしき出逢いと、忘れられぬ音たちだと思います」
出来ることならば、友人達にも伝えたい。届けたい。
だが録音しても何も伝わらないだろう。この場に集った思いが、肌で感じるのだ。耳朶に届くのは音という波だけではなく、それを伝える空気とて。
何かひとつでも欠ければ、感じるこの気持ちとして満ちることはない。
雪音の武芸は、いずれ果てるものなれど。
果てることを望まれるものなれど。
「この音の芸は、果てることなく、何処までも続いて欲しい。そのように、感じております」
しずしずと囁く雪音。
音のひとつを零さぬようにと、右に左にと動く白い虎の耳。
「息のひとつ、指先の淡い力加減。ああ、どれもこれも、想いの募るものばかり。想いが募った故に、流れれる音」
さながら草葉に雪が積もった先からこそ、さらさらと零れる音がするように。
雪音の白い貌には微笑みは浮かばない。
声色はなんとも冷たく、静けさに満ちているもの。
けれど、取り巻く風はさながら微笑みのように柔らかだった。
「この出逢いを紡いで頂いた神の物語に感謝を。この出逢いを飾って頂いた皆様の思いに、何処までもの感動を。……そして、この音色たちの道行きに幸あらんと、せめてもの祈りを捧げたく」
情緒の表し方が分からないからこそ、心よりの丁寧さで言葉を紡ぐ雪音。
「まあ」
老婆の顔も綻んだ。
「お若いのに、そこまで感じて頂けるなんて、素敵だわ。いえ、嬉しいのかしら」
「…………」
雪音の少女のような幼い顔立ちに、小さな身体。
歳を間違われても仕方ないものだろう。そして、そこに不満を懐くものではない。老婆からみれば、多少の誤差。
品の良さそうな老婆からすれば、真実を知ってもこの言葉は変わらないだろうから。
「素敵な心の、真っ白で可愛らしいお嬢さん」
にこにこと微笑む老婆に、雪音はせめてもの礼と頭を下げる。
音が止む。楽曲どころか、奏でる楽器が変わる。
今度は龍笛だった。
甲高い音色は、夕暮れの空に高く響く風のよう。
寂しさと、それでいて誇り高さ。ああ、想いは喪われぬ、色褪せぬと、やはり音色が告げている。
数多のひとが、この楽器と曲に触れるのだろう。
その度に、この音の連なりを感情より紡いだひとの、その想いを鮮やかに蘇らせるのだ。
それこそ語り継ぐように、奏で続ける。
或いは、それをこの神社の神は愛したのか。
世界は儚く移ろうものなれど。
ヒトもまた、なんとも脆くて儚いものなれど。
数多と連なり、響かせ続ければ、無窮の空のように広がるものなのだから。
心が絶えぬ限り、世に在った音と心は途絶えない。
「――いえ」
雪音の胸の奥で微かに何かが動いた。
言葉にはしない。けれど、心の底だけでゆっくりと囁く。
――この武は、力なき民にあるならば。いずれは途絶えるこそこそ、幸いなるもの。
冷たき雪が、春に溶けて清水と流れるように。
いずれは喪われるものと、秘やかに思い、願う。
延々に続いて欲しいと願われる芸と、途絶えることの祈られる芸。
ああ、どちらもヒトの心より産まれた、ヒトの強さなれば、貴賤などある筈もない。
自らを恥じることなどないのだと、雪音は途絶えることなき音の思いに、耳を傾けた。
だが、慌てた声がそれを妨げる。
「婆や」
こっそりとしているが、動揺が隠せない青年の声だった。
あのにこにこと微笑んでいた老婆の元に駆け寄り、ひそりと漏らす。
「次の演奏者が少し遅れると」
「まあ、それは大変」
聞いた老婆の柔らかな顔が固まる。
「楽器の出し入れも考えると、少し途絶えてしまいますね。なんとも、こればかりはヒトのこと。いえ、演奏者は大丈夫なのですか?」
「ほんの少し到着が遅れるのことで、無事ではあるそうですが……順番などを入れ替える時間が欲しい所です」
どうも老婆はこの祭りを仕切るひとりらしい。
本当に困った顔をしているのは、それだけ神に奉納するこの祭りと音楽を好いているからだろう。
少しでも途切れさせたくはない。
それは音もであり、芸でもあり、祈りや願いでもあるのだからだろう。
戦乱の世においては時に、格式高い神社とて荒れることもあったのだから。
ならと雪音が音もなく歩み寄った。
大きな理由もない。ダメであればそれで構わない。
音楽を愛した神には、それでは届かず、むしろ怒りを買うかもしれずとも。
――愛を物語として残す神ならば、この途切れさせぬという老婆の愛も、また信じてくださる。
かもしれないと、雪音は老婆に歩み寄った。
「失礼を。……聞こえましたので、もしもよろしければ」
これも縁。
或いは、偶然という名の必然か。
神の悪戯かもしれないと、雪音は微かに不安に思うこともなく、ただ澄み切った声で告げる。
「奉納するのは、雅楽の調べのみなのでしょうか?」
告げた雪音の白い姿に、老婆は微かに瞬いた。
そして、雪音の申し出にと嬉しそうに頬を綻ばせた。
「これは不運ではなく、もしや、神さまのお告げなのかもしれませんね」
それが欲しい。これを求めたい。
変わらないものなんて、世にはないから。
●
秋風の裡に、白き雪花が舞う。
そのように見間違われも仕方なきこと。
冷たく、冷たく、いと白き色彩が舞台にて揺れる。
さらさらと。
はらはらと。
数多の時を経ても消え去れぬ純白の情念が。
清らかにして果敢なる想いが、ヒトの肉体を経てゆらりと脈打つ。
それはさながら、雪が風にて淡く揺れるように。
ただ一息、ただ一息と、何処までも想いを込めて。
雪音は舞台の上で、自らの武を芸として舞う。
「――――」
見るものが見れば、それは戦の為に磨かれた武芸と知れよう。
が、泡雪のようにゆっくりと動く姿は、さながら平安より現れた美しき白拍子。
鼓に笛にと、即興で流される音を拾い。
そして音を風にと舞ってみせる姿は、いと美しき雪花の舞い。
今の雪音の姿は、そうとしてか見られない。
元はただ敵手を屠る為の技と芸であっても。
敵のない中にて在る武芸の心は全て民が平穏の為。
ならば、それは奉納の雅楽と何が違おう。
慈雨を乞う舞踊と、何が異なろう。
確かに武の本質はそこにはなくとも、透き通るような想いはあった。
ただ、ただ美しい。
溜息を零すほどに、雪音の武舞は美しい。
触れれば死する武なれど、今はただ、繋ぐ為にあるのだから。
「…………」
零れる吐息もまた繊細。
ひとつ、ひとつ。
吸い、吐き、零して掬う。
そこに何かの想いが見て取れるからこそ、見るものは感嘆して眼を吸い寄せられるだ。
その先にあるのは情緒の色のなき白い美貌。
されど、それは清澄なる月の様に似ている。
ゆらりと身を翻して、舞台を廻る。
右に左に、前へ後ろに。
東西南北、地に天に満ちる全てに捧げるように、一挙一動を何処までもしなやかに、そして丁寧に。
顕す為なのだから指先が流れるひとつとて意味がある。
雪音は顔色に心を表せない。その術を知らない。
だからこそと、伝わり響けと、些細な摺り足のひとつに、指遣いの柔らかさに、身を躍らせる旋律に、全てを懸ける。
一途な雪音の心だからこそ、見るものへと切に届く。
音を愛したヒトに、そして神に。
この日に出逢えたもの全てに。
感謝を捧げ、祈りを奉じ、そしてひとつ想う。
これは、いずれ雪が溶けるように消える姿なれど。
この武芸が消え去ったあとこそ、真実の幸いなる世なれど。
報われることはなく、報われることを求めてはいないけれども。
いまひとときは、ひとときだけは。
愛を音にして語る、平穏なる時の中で形にさせて欲しいのだ。
雪音の白い美貌と、深緋の双眸に浮かぶ情念の色はなくとも――。
――誰かと伴にあるという音を求めて、幽玄なる白雪の姿が舞う。
特別な誰かと絡ませ、分かち合う愛ではなく。
見知らぬ誰かの幸せを、この世の美しさが続くを祈る、慈悲という愛。
ああ、そうだ。
この神社に座す神も、またそんな愛を音楽に向けたのだろうから。
誰かの続ける想いに、音楽の一途さに、愛を懐いたのだろうから。
違うかもしれない。
そうかもしれない。
けれど、神たる存在も、続く世の為に想いを向けていて欲しいのだと。
雪音は紅い眸を瞬かせた。
違いないと、神が告げるように。
舞台の傍で白と赤の曼珠沙華が風に揺れる。
冷たくも優しい秋の暮れを知らせる風が、夕焼けの色合いを届け始めていた。
音楽という芸の祭り。
それは、ヒトの心の営みそのもの。
守ろうとした白き武を拒む筈はなく、むしろ、それを慈しむ真白き心ならば。
例え微笑みのひとつなくとも、祝福を届けるだろう。
祝いの音として、ヒトの手が重なり、鳴る。
雪音の舞う姿にと、拍手が連なった。
決して。
決して。
あなたは異なるものではないと、幸せに満ちてよいのだと神が囁くように。
秋の音の祭りは、こう在った。
冬の音と、雪の色をした少女を迷わせ、呼び込み、舞わせて。
忘れられぬ色彩として、記憶に刻ませる。
誰かの為に、音は鳴る。
それは吐息で、鼓動で、そして冷たき死の指先でも――。
誰かの幸せの為に、その指先はある。
愛とはそういうものなのだから。
成功
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