徒花なる幻、共に歩めど振り返らず
桜の儚さを風が告げた。
舞う花びらは春の色を囁き、穏やかな日差しが肌を撫でる。
どれも季節の美しさを歌っていた。
移ろい変わる、徒花が心に染みる。
何もかもは過ぎ去るもの。けれど、それこそが愛おしい時間なのだと。
けれど。
ああ、けれど、男には伴う筈の優しい幻を見る事を叶わない。
馨しき紫煙を立ち上らせ、ひとりだけの足音を響かせるは鷲生・嵯泉(烈志・f05845)。
視る事のできるものが視れば、鷲生の傍で穏やかに歩む女がいることが解っただろう。
麗らかな日差しに手を伸ばし、穏やかに微笑む女の姿は幸せにも見える。
鷲生の傍を歩きながら、隻眼故に見えない方に寄り添うように歩くのは、守りたいからではなかった。
見えなくとも、感じてくれるという信頼からだった。
――貴方は。
桜の花めいた色に染まった唇が囁く。
――私の姿を見えずとも捉え、心の奥にと写し続けてくれる。
女はお淑やかさの奥に、決して揺れることのない芯の強さを伺わせる微笑みを浮かべた。
――それが私にとってどれほどの幸せで、どれほどに嬉しいか。……もはや伝えられずとも。
そこまで言の葉を浮かべて、少しだけ悲しげに女は瞼を閉じた。
ああ、そうなのだ。
どうしても鷲生には女を見ること、触れることはもう叶わないのだ。
彼女の命は散った、花のように。
此処にあるのは女の魂だけ。
故にもう重なることのない温もりが、ほんの僅かな距離で存在している。
さわりと鳴る風と共に、からんと男の下駄が鳴った。
くすりと女が柔らかく微笑む吐息が零れた。
それらが重なることは、もう永遠にないのだ。
「……桜か」
青い空を見上げ、桜花の薄紅に隻眼を細める鷲生が呟く。
――ええ、貴方の好きな花ですよね。
「騒々しい奴の好きな花だったか。……いや、私も好きである事を、否定など出来ないか」
――そうやって硬い考えをする貴方は、とても心配です。
生きるものと、死するもの。
伴うような距離は近いのに、鷲生には女の声ひとつ通じることはない。
言葉がほんのひとかけらだけでも通じたならば、これは幸いなる夢となるだろう。
だが叶わぬこと。もうふたりが手を握り合うなど、現実では有り得ぬ幻である。
だとしても女からすれば……それでも、鷲生の傍にいる事は出来るのだ。
女はあまりにも優しく、穏やかに微笑み続けていた。
いっそ、何も見えない筈の鷲生の表情が淋しげであったかもしれない。
鷲生の歩む足が揺れることは一切ない。
だが、見ることは出来ずとも僅かに、そうほんの微かにだけ、自らに向けられる柔らかな情念を感じるのだ。
「…………」
自分を一途に想い続けてくれている。
そんな優しさに胸の奥まで触れられて、時折、息が出来なくなる。
ただの幻覚だろうか。
いいや、彼女ならば今も傍に居続けてくれているかもしれない。
嘗ては。
いまだ全てが灰となり、その熱が鷲生の裡で燻っていた頃にも感じるものであった。
何も出来ず、約束も守れなかったもの。
護るべき総べてを灰燼の下にと喪い、ただ躯ばかりが生きていたあの頃。
痛みを憶えた。苦しみを求めた。
一時期の鷲生は吸う煙草の数は終わりを求めるように増え、深く飲む酒は毒となるほどだった。
消え去らぬ愛しい記憶は苦痛と悔恨に塗れ、灼熱となった心の裡を灼やいた。
鷲生の自らへの憎悪で臓腑が焼かれる。いいや、生き残ってしまった命を恥じて悔い、血を滲ませて病に至ろうとする。
だが、そうなる度に優しく背を撫でられた気がしたのだ。
彼女の優しい手で、指先で、何度も何度も、鷲生の心と感情が夜を越えられるようにと慰撫されていた。
彼女は生きていた頃、薬師であった。
命を助けることを大事としており、ならば、このように毒を飲んで身を朽ちさせる鷲生は決して見ていられなかっただろう。
それは昔の話。
今の鷲生は確かに生きて、未来へと歩いている。
あのように身と心の毒を呑むのは辞め、未来と歩み続けている。
終わりではなく、人生という路を踏みしめている鷲生。
もう背を撫でられる必要などなく、彼の竜の背に触れるのが鷲生なのだ。
それでも、苦しみにあった昔から――彼女は傍にいてくれたのだ。
「私は、生きていていいのだな」
鷲生が囁けば、さわりと風が答える。
――私は、貴方の幸せに鼓動を預けています。
花びらが舞い散り、降り注ぐ中で、女はただ微笑む。
――ならばこそ、貴方の鼓動が幸せで脈打てば、私の嬉しさとなるでしょう。
ゆるりと首を振るう女。
伝わらぬと知りながら、百も千もと言葉を浮かべる。
鷲生に生きて欲しい。
ただその祈りを捧げて、炎の渦に呑まれてなお燃え尽きぬ慕情を捧げる。
生きて欲しい。
幸せになって欲しい。
数多の花が散り、季節が移ろい、ふたりで生きた時間が遙かな過去へと過ぎ去ったとしても。
色褪せることとなったとしても、愛していた気持ちは変わらないのだから。
「……などと、当然のことを聞いてしまったな」
――いいえ。言葉にして貰ってこそ、心に届くのですから。
それだけが、もはやふたりに通じることなのだから。
はらはらと。
さらさらと。
無数の花びらが風に攫われ、桜の色を世界に舞わす。
優しい色だった。
どれほどに白に近くとも、人の情念のように色づいている。
だが鮮やかなる紅となることはない。
明確なるものはなく、それこそ夢めいた儚い色ばかりが、鷲生と女の魂を取り込んでいた。
全てが夢であるのなら声も届こう。姿も見られよう。
手を取り、眸を見つめ、伝えたいことを十全に伝えられよう。
泣き叫ぶように心の底より。
愛を求めるように、震える声で。
でも――そんなものはありはしない夢で幻。
からんと、鷲生の下駄が鳴る。
前へと進むと定めた鷲生は煙草を咥えながら、ひとつひとつと歩んでいく。
振り返り、立ち返り、止まることはない。
それを女は誇らしく、嬉しそうに、これでこそ愛しいひとと慕情を秘めた眸で見つめ続けるのだ。
花は散る。
所詮は徒花、永く世に残るものではない。
潔く散ることも美しさなれば、まだと名残に留まれば澱むことから逃れられぬ。
なら散らせ続けよう。
まるで想い人の為に涙のように尽きることはないと世に示そう。
愛で、憂いで、優しさで。
悔恨で、痛苦で、悲しさで。
色は変われど、形は変われど、桜ではなくとも世に花は咲いて、また散り、次へと繋がる。
――私が桜ならば、貴方は次の花へと辿り着くべきです。
優しく、穏やかに語る言葉。
耳に届きはせずとも、鷲生は淋しそうに頷いた。
「私が幸せになること、君ならば認めてくれるだろう。許してくれるだろう。……いいや、こんな事を云うのは、なんと狡い男だろうか」
――ええ、狡い。でも、少しだけ嬉しいのは、私に聞こえないからと、ようやく優しくて弱い本音を告げてくれる所でしょうか。
女はこくりと小首を傾げた。
鷲生は微かに頬を緩めた。
「だが、生きると同時に決めたのだ。そして、生きるならば幸せを求めない路をこそ、君は認めはしないだろう」
――ひとは幸せに向かって生きるのです。どうして、醒めた夢が美しいからと、消え去った夢の残滓を見つめ続けるのでしょうか?
からん、からん、とひとりだけの下駄が鳴る。
夢幻のごとく鷲生の傍にと女の姿が寄り添う。
眼帯で見えぬ側に。
それで善いのだと、傍なる場所で。
鷲生もそれを存じているのか、それともこの距離がふたりの距離だった
自らの弱くて柔らかな場所にと愛しいものを迎え入れるのが鷲生だった。
はらはらと、時が流れるのを桜が奏でる。
この路地もいずれは終わる。そうなれば、女の魂もまた消えるだろう。
「君の名を呼ばないことだけは許して欲しい」
もう君は過去だから。
抱きかかえて胸の奥に在るものだけれどと。
名は呼ぶ事はないのだと、胸の奥だけで愛しい女の名を浮かべて、ゆらりと揺らめかせる。
痛みに似た優しさと。
切なさに似た温もりが、鷲生の胸にじわりと広がった。
「桜は、春の涙だろうか」
――……貴方が詩を吟ずるとは。
ころころと楽しそうに笑う女と、頷いて続ける鷲生。
もしも、視ることが出来るならば幸せの色に見えるその光景。
「春が泣くならば、それは自らの為ではなく、過ぎ去った冬を悲しんでだろうか」
――いえいえ。過ぎ去った冬が、愛しくて、また忘れないようにですよ。
本当に鷲生には女の声は聞こえないのだろうか。
姿を視ることは、出来ていないのだろうか。
出来ないのだろうか。
「悲しんで泣く。そう思うのは、また逢いたいという祈りからだと私は思う」
――……つまりは、貴方は。
「すまない。君の為に、春のように、桜のように、花のようにと過ぎ去った君に泣いてはやれない。涙とて、供に今に生きる者の為にだ」
――……ええ、ええ。それでこそ、私の信じた、私の生きて欲しいと願った貴方です。
誇らしげに女は微笑んだ。
自らの為に涙の一筋流さないという男の、けれどその奥深くにある情の強さを感じ取っていた。
鷲生の胸の奥では他の影響でもはや変わらぬ想いがあるというだけ。その事実を吐露したというだけ。
――そして、こんな事は私が影と幻のようなものだから、聞けるのでしょうね。
「……そうだな。こんな事を、君が消えたらどんな風に笑うかと想うと、君のいた頃に話してみてもよかったのかもしれない」
ふと、柔らかく鷲生も笑った。
――けれど、貴方は親しいひとにこんな柔らかな情を見せれば照れるのでしょうね。なら、私の特権です。
貴方の、鷲生という男の背と歩みを見続けられるのも。
その幸せを見届け続けるのも、また女に許されたもの。
傍にあり、腕に触れ、吐息を感じて指を絡める。温もりを感じて肌を寄り添い、風の冷たさを知る。
そんな当たり前の一切、奪われた代わりに。
からん、と再び鷲生の下駄が鳴った。
この桜並木の続く路ももうすぐ終わる。
そうすれば、この近くにあるような感覚もまた消えてしまうのだろうと鷲生も直感で感じたのだ。
それでもなお、おやと微笑んで優しい気配で包む女。
声も吐息もない。
けれど、舞う桜の花びらをそっと触れて掴むようにと伸ばす女の腕。
今というひとひらの幸せを、決して離さないように。
そうして、進み続ける鷲の背と肩にと指を伸ばして、てのひらに落ちた花びらをそっと付けた。
――お土産の桜です。
言葉だけではなく、女は鷲生の頬をそっと撫でた。
それは肌にすら届かず、擦り抜ける指先だったけれど。
「……ふ」
漂う優しい薫風を感じて鷲生は微笑んだ。
頬にと触れる気配。
ああ、なんと――懐かしいことか。
昔は灼熱を帯びたように痛かったのに。
苦しくて、悲しくて、自らへの憎悪を走らせるものだったのに。
どうして今は、微かに触れたその感触に、懐かしいと穏やかさを憶えるのだろう。
同時にこれは懐かしいのだと。
どれほどに切に願っても、もう手の届かない過去なのだと。
微かな痛みと、柔らかさと、優しさの織り交ざる情念を鷲生は抱いた。
もしかすれば――今の鷲生が振り返れば、そこに優しく微笑む女の幻を見たかもしれない。
鷲生は過去を振り返らぬと定めたからこそ、魂のみという女を視れぬ呪縛を抱いているのかもしれない。
だとしても。
そうだとしても。
鷲生は桜の花びらの積もった地面に、変わらぬ一歩を刻む。
募った花を退け、確かに今を生きていると跡を印すように。
振り返ることも、止まることもなく、鷲生の命と人世の旋律でそれは続く。
――何処までも、何処までも生きて、進んでくださいね。
女は足を止め、鷲生を見送るように背に視線を寄せた。
――私の生きて欲しいという願いが、呪いだとしても、それを越える貴方を信じています。
強い風が過ぎ去った。
振り返れば降り積もる桜の花びらの裡にそこにはひとりぶんの足跡だけがある。
進み続ける鷲生には知ることのできないこと。
ただ、もしも。
もしも誰かが積もった桜花に浮かぶその足跡を見たのなら。
誰かと共に歩むような、緩やかな歩みだと思っただろう。
そう。
鷲生は独りではなく、誰かと共に未来を生きて歩むのだから。
君の名を口にすることはなくとも、生きるという約束を果たす。
優しい微笑みが、遠のく懐かしさに鷲生の送る誠実なる想いだった。
成功
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