リアプノフの安定
どこか遠くで蝉の声がする。
片付いていて、住んでいる人間の性格を反映しているみたいなシンプルな家具が多く並ぶ、冷房の効いた部屋。
「……」
「……」
ローテーブルの向こう側で、少女が教科書と並べた薄い帳面に絡繰り式の鉛筆で几帳面な横文字を書きつけていく。
己の鉛筆を動かすのを止め、すぐりは改めて室内に軽く視線を走らせた。やはり目に付くのは壁際のコルクボード。複数枚の写真がピンで留められていた。少しだけはにかむ少女──倖と、顔の似ている彼女より少し背の低い少女。そのふたりの肩に手を添える老夫婦と、更にその両脇は両親か。
家族写真、というやつだろう。それ以外には何気ない花の接写や色々な世界の風景写真。
そして、すぐりと共に撮ったいくつかのそれ。
「……もしかして、もう終わった?」
「、」不意の声に引き戻される。長めの前髪の隙間から覗く橙色の双眸と視線が合った。すぐりは軽く肩を竦めた。
「すみません、邪魔しました。大丈夫……と言うのもおかしいですが、全く終わってません」
紐綴じの帳面には、書き掛けの数式。
(そっちの学校にも、夏には課題が出るんだ)
(学舎が暑いので。……まあ、どこも暑いんですけど)
(……。……じゃあ、うちに来る?)
そうして初めて足を踏み入れた、銀誓館学園の寮の一室。彼女の居宅と言えばそうなのだけれど、友人の部屋に遊びに行く以上の感覚は特になく、互いに積み上がる課題を減らすべく勉強会を開いているさ中だ。
ふたり分の空のグラスを見て、倖が置いてあるペットボトルから麦茶を注いだ。向き合う互いの真ん中に置いた休憩用のお菓子を、食べてねと視線で促す。すぐりは礼を述べてなみなみと注がれたグラスを受け取る。
ほとんど白い帳面を軽く見遣り、倖は軽く首を傾げた。
「すぐりさんは、数学?」
「ええ。倖さんは……|英吉利《イギリス》語ですか」
「うん、……苦手だけどね」
だからこそ頑張ると、かちかちと彼女は絡繰り鉛筆を鳴らした。真面目なひとだなとすぐりはいつも通りの笑みを向ける。
「お疲れ様です。この世界の受験生は夏が本番と聞きましたし……応援してますよ」
「ありがとう。大学に行くのは楽しみなんだよ。……猟兵との両立、大変かもだけど」
彼女が大学への進学を目指しているということは以前にも聞いた。歴史について学びたいのだと。新しい知識を得ることの楽しさはすぐりにも理解できるから、倖の路の先に桜が咲くと良いと素直に思う。
「ぼくも将来は働きつつ猟兵、ということになるのでしょうか。……」
高等学校を出たあとは。現状は影朧救済機関『帝都桜學府』の元で働く予定ではある。ただ、學徒兵になるつもりはない。
──安心してください、かみさま。
「……すぐりさん?」
首を軽く傾げて、倖がすぐりの顔を覗き込む。すぐりは「……なんだか不思議ですね」にこりと微笑んだ。“あの子”のようには笑えないかもしれないけれど。でも。
すぐりとして倖と向き合うこの笑顔は少なくとも嘘ではないと、そう思う。
彼女と共にいると落ち着くし、だからこそ一緒に勉強しようなんて思えたのだ。不思議と集中できる気がするし、同い年ではあるけれど、尊敬する友人であることに間違いはないけれど、……なんだか目が離せない、妹分のようで。
「ところで、倖さんこそ終わりそうなんですか?」
「……。もうちょっとでキリのいいところまで、行けそうかな」
焦げ茶色の髪を耳に掛けて、むむと彼女は眉間に軽く皺を寄せた。その姿が微笑ましくて、思わず喉から笑い声が零れた。
「じゃあ、そこまで終わったら、少し気分転換に歩きませんか」
「うん、そうだね、歩こう」
寄っていたはずの眉間がぱっ、と開く。あ、でも。明るんだはずの表情が、また少しだけ困った。普段はむすっとした顔をしていることが多い彼女だが、傍に居ればよく判る。彼女の感情は、それなりに顔に出ると。
いや、眼に、だろうか。
「この辺、コンビニくらいしかないけど……」
そんなこと、なにひとつ気にすることはないのに。すぐりはくるりと指先で鉛筆を回した。
「コンビニ。行ったことないので楽しみです。知らない場所に行くのっていつもワクワクしますよね」
判る、と強く訴える橙色の瞳が輝くのに、すぐりの胸もあたたかくなる気がした。そうだ、と壁際のコルクボード、その傍に置かれた一眼レフを見る。
「色んなアイスクリンがあるんですよね。それを買って、……カメラも持って、少しだけ散歩しましょう」
「!」
「折角、夏ですから」
明確に喜色を浮かべた倖が改めて教科書に向き合うのに、すぐりも手許の教本へと視線を移した。
「……」
「……」
どこかで遠く、蝉の声。冷房の風と、黒鉛が紙に走る音だけが部屋の中に響く。
見下ろした数式は、さっきよりも簡単に解ける気がした。
成功
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