Viola mandshurica
●朝焼け
赤い光が上り、オレンジ色を広げ、そして黄変していく。
そうして移ろっていく青色は、きっと幸せの色をしていたことだろう。少なくともそう思う。
幸せというものを考えた時、きっとそんなものなのだろうと言う思考を、何処かでした覚えがあったように思える。
色がそうであるのならば、匂いはどうであろうか。
きっとお日様の香りだと思う。
きっとそうだ。
そうであったのならばいいと思うし、自分を今包み込んでくれているのは、そうした香りであるということを『若桐』は自覚する。
息を吸って。
吐いて。
吸って。
肺を広げる空気は幸せというものに満ちていて。そうなれば、胸が締め付けられるような、むず痒いような、自分ではとても制御できない気持ちが暴れだすような。
そんな詩的なことを何処か微睡みながら彼女は考える。
「……――む」
だから、というわけではないけれど。
きっとその時は油断していたように思える。目の前にあるのは夫の顔。
厳・範(老當益壮・f32809)の顔があった。
細い眉根。厳つく刻まれた皺は歳月を感じさせるし、彼が培って、また堆積してきた時間というものを理解するには十分だっただろう。とは言え、その理解が正しいかどうかなんて若桐には重要ではなかった。
この皺の一つに自分もいるのだ。
自分という存在が、この人の中に有る、という幸せを噛み締めようとして、彼女は寝ぼけていた目を見開く。
「……!?」
はれ!? と彼女は慌てる。いや、慌てるのだが、ついじっと見てしまうのものまた無理な駆らぬことであった。
というか、これはどういう状況なのだろうか。
目覚めたら目の前に範がいる。
彼も眠っているし、自分も先程までは眠っていたのだ。
うんわかっている。状況は理解できている。
自分の寝所であることは間違いない。ああ、なんだか記憶が戻ってきたような気がする。
昨日、というか、えっと一昨日? え、どっちだったっけ?
徹夜をいつものようにしてしまって眠気に負けそうになりながら、少しは自分を労いたいと思ってお酒を呑んだのだ。
えー、どうだったっけ?
範いた? いなかったっけ?
いや、居た。居たよ。なんか小言を言われたような気がする。
僕が悪い、というのは自覚している。
だって、あれほど口酸っぱく徹夜はするな、と言われていたのに、宝貝の研究やら素材の解明やら、色々なことをしていたら、ついつい夜を徹してしまうのだ。
でも、今回はちゃんと結果を遺している。
「……だから、ちょっとは許してもらえると嬉しいな。絶対にお説教されちゃうんだけれど」
お説教するにしたって、もう少し優しくしてくれたって良いのだと思う。
いやまあ、そういうところの融通が効かないところもまたかわいいところであるとは思うのだけれど、これは結局自分の感触でしかない。
範自身は否定するだろうし、認めないだろう。
「どうしようこれって。どうしたらいいのかな?」
起こしたほうがいいのだろうか。
いや、でも昨日一緒に呑んだ、ということは彼もまた疲れているかもしれない。となれば、やっぱり起こさないほうが良いのか。
でもさー、この体勢のまま彼が起きるのを待つっていうのは、なんていうか心臓がもたないような気がする。
今だって結構胸が鳴っている。
この鼓動が伝わっていて欲しいような、ほしくないような。
伝わっていたら、きっと目覚めさせてしまうし、でも伝わっていないとどれだけ自分が彼のことを好ましく思っているのかを伝えられない。
ああ、でもでもどうしてこんなことになっているのだろう。
せめてお互い起きているときに味わいたかっったと言うべきか。
もうなんでこんな風に僕だけがやきもきしていないといけないのだろうか! ずるい! そんな風に若桐は思っていた。
言葉にはしないけれど、
一人で範の腕の中でもだもだしていた。
抜け出してもいいじゃないか、という思いもある。起こしてもいいじゃないかという考えだってある。
けれど。
「……もう少しだけ」
この幸せの香りの中にいたいと思ってしまう。
●目覚め
目の前に彼女の顔がある。
寝息を立てている。昨夜は酷くがんばっていたようであるから、お酒を呑んでいるのを咎めこそしなかった。
けれど、やはりよくはない。
体というのは睡眠を求める。
そうすることで体を一旦中庸たる状態に戻すからだ。
今の彼女はゆっくりと寝息を立てている。
一度は起きたようであるが、また再び眠りに落ちていた。
「まったく……どうしてこうも」
手がかかる、とは言わない。
手を焼く、とも言わない。
けれど、ふっ、と範は息を吐きだして笑む。あの慌てぶりを知っているのは自分だけだ、というのは少しばかり気分がいい。
彼女が起きた時、自分も実は起きていた、とは決して言わないでいられたのなら、あの姿はきっと自分だけのものであると知るから――。
成功
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