Dendrobium Phalaenopsis
●咲く花の名
今は昔、というのならば、それは文字通りそうなのだろう。
『若桐』という厳・範(老當益壮・f32809)の伴侶は時折、思い出す。何を、と問われるのならば彼女ははにかみながらも応えるだろう。
あの日、あの時、自分の心持ちを。
それを奇跡のような物に例えるのならば、きっとそういうものであったのだろう。
「初恋は叶わないとは言うけれど、そんなことなんてないと思うんだよねー」
彼女は後年そういうことを言う。
己たちの元にやってきた宝貝人形『花雪』にそんなふうにして語るのだ。
興味深そうな顔をしてくれている彼女には、面白い話ではないかもしれない。時に身内の色恋沙汰というのは忌避する者だっている。
確かにその通りなのだろう。
けれど、全ての者がそうではないことを彼女は知っている。
人というのは分類されども、一括りにして良いものではない。如何なる生命もそうであるように、全てが同一などということはないのだ。
理性と本能。
そのせめぎ合う心の火花こそが、人の感情であるというのならば若桐は花雪に語って聞かせるのだ。
●悩みの種は
「あーうー」
若輩、と言われることには慣れている。
年若く、また同時に女性であるということで若桐は見くびられても仕方ないと思っていた。けれど、それなんだとばかりにはねのけてきたのが彼女の人生だ。
いつだって逆境があった。
逆風だってあった。
全てに順風満帆なことなど何一つ無いと知っていたし、人としての底を見てきた彼女にとって、それはもう底から這い上がるだけのことであったのだから、何も辛いことなどなかったのだ。
宝貝を作る。研究する。そうした事柄に手を伸ばしたのだって、一人で生きていくための力を手に入れるためだった。
いや、それは嘘だと思う。
きっと自分は認められたかったのだ。
他の誰でもない。己を拾ってくれたあの人に並びたいと思ったのだ。
けれど、多く問題が目の前に壁のように山積しているのもまた事実。
「障害というか、壁の高さと言うか。もっとずる賢く行けたらよかったんだけどなぁ……」
自分がこんなにも弱々しいものであるかというのを若桐は知らなかったのかも知れない。決して弱みを見せないことが強さだと思っていた。
けれど、それだけでは人は生きていけない。
何故なら今の己は恋い焦がれているからだ。
人と人とが愛し合うというのは、即ち、人の脆く弱い所をさらけ出すということだ。その部分が触れ合うからこそ心地よいのだと思う。
「釣り合いなんて考えてなんかいられないよね。だって、他に一杯綺麗な人はいるのだし。それに……あーでもでも!」
今の関係性が壊れるのも恐ろしい。
確かに彼女の想い人である彼は『高潔な瑞獣の仙人』である。
どう考えたって、と思う。他者に相談したのならばやめておけと言われるだろう。あまりにも、と言われることは目に見えている。
だから、どうしても踏み出せなかったのだ。
けれど、彼女はこんな自分もまた自分なのだと知る。
潔いことも、悶え悩むことも。
それもまた全てひっくるめて自分なのだ。こんな自分を見てもらいたくないという気持ちだって在る。
何せ、自分が宝貝研究と技術を手につけようと思ったのは、他ならぬそうした弱い部分を覆うためだ。矛盾している。
「当たって砕けろだ! これもそれも全部みんな僕だ! うん! その方が僕らしい! ずっとずっと僕らしい!!」
どんな結果になるのだとしても。いや、十中八九振られてしまうだろうけれど。
踏み出せず、うだうだもだもだして生きるよりはずっとマシだと彼女は思ったのだ。
「どうせなら心も砕けてしまえばいい――」
●芽吹きを見る
「――……よかろう」
その言葉に若桐は、あまりのことに前後を思い出せなくなっていた。
予想外の返事だったからだ。
きっと断られると思っていたし、相手にもされないだろうと思っていた。けれど、同時に訝しむ。
これは夢幻の類なのではないか。
はたまた幻術の類なのではないか。
今も自分は自らの寝床で幸せな夢を見ているだけに過ぎないのではないだろうか。ソンナ風に彼女は思うのだが、ほっぺたをつねっても、どんなことをしても夢だという各章はなかった。
眼の前の人もしっかりと自分の思う人だ。
間違いない。
「……どうした。何か、いや、これ以上言わせるのも野暮というものか。思いの丈は十分に伝わった。そう思われている、ということ事態喜ばしいことだ。言葉に多くすれば意味も意義も薄れようというものであろうが、しかし、胸の内より溢れるものは疑いようなく真実であろう」
彼の言葉を反芻する。
くわんくわんと音が鳴り響いているような気がする。心なしか顔が熱い。いや鼓動だって早鐘を打っている。
「もったいない」
「この言葉をそう思うのであれば、若桐、君が胸の内にしまっておいておくれ。滾々と湧き上がり続けるわしの言葉は、君が受け取って欲しい」
その言葉に若桐は感極まるようであった。
よかった、という安堵以上に。嬉しいという言葉以上に。その言葉が彼女の心の中を締めていたのだ。
どうしようもない感情。
その感情は赴くままに時を駆け抜けるだろう。
愛し、愛されるということの喜び。この世の春というものがあるのならば、きっとこのようなことを言うのだろう。
些細なことで喧嘩をすれば、些細なことで笑い合う。
喜怒哀楽という感情の全てが五感を通して幸せを叫んでいるようにさえ思えたことだろう。
「他の男の前で無防備は晒すな」
「それが一番嬉しいことばだったのかもしれないなー。僕が思う以上僕のことを思ってくれているんだってさー」
若桐はきっとそう語るだろう。
その未来を彼は知らないだろうけれど。それでも幸せだという感情は多く心の中に広がっていくものだ――。
●そして、花は咲くように
「それで……!」
「後は祝言を上げた時かなぁ。あの時のこともなんていうか、いっぱいいっぱいでさー、でね、聞いて聞いて」
「はい……!」
花雪の喉が鳴っている。あ、無意識なんだな、これは、と若桐は笑む。
ますます彼女は人間らしくなってきているように思える。
自分のこんな惚気話にだって彼女は嬉しそうにしてくれる。可愛いと思う。大事にしたいって思う。
範以外にもこんなに大切にしたいと思うことが出来て幸せだと思う感情がある。
「それでね、範ったらね?」
「……ほどほどにしないか」
語ろうとする若桐たちのそばに範が立っていた。
まさか聞かれていたのだとは知れず花雪はバツの悪そうな顔をしている。
「えー、いいところだったのに」
「そのような振る舞いも、無防備だというのだ」
わー、と花雪は顔を赤くしていた。
なるほど、こういうところ、と彼女は一人で鳴っ託しているようだったのを範はどのような理屈であるのかを知ることはできなかっただろう。
恐らくそれが乙女心というものだ。
男性であろうと女性であろうと、『それ』らは二人の大切な思い出なのであろう。それを、と彼は呑み込めなかったのだ。いや、飲み込んだつもりだろう。
けれど、それを自覚できていないだけだ。
「こういう所あるからね!」
だから、今でも僕は範に夢中なんだ、と若桐は出会った頃と変わらぬ笑顔で言う。
それを範は困ったような、それこそ参ったような顔をして天を仰ぐことしかできないのであった――。
成功
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