Kochia Scoparia
●酒を飲むということ
宝貝人形『花雪』は思う。
自らの年齢というものは重ねられていくものではない。人形であるのだから当然だ。見目が変わるのはユーベルコードによって己の外側を取り繕うだけだからだ。
そうであったかもしれないという可能性はあれど、しかし、そのように未来成る、ということではない。
だから、というわけではないけれど厳・範(老當益壮・f32809)の妻である『若桐』が酒盃を煽るのを見て、もしも自分がお酒を飲むことのできる年齢というものに外殻たる見た目も、内在する精神もふさわしいものになるのならば、共にお酒を頂くこともできるのだろうかと思うのだ。
「僕が範の妻なーのー!」
その言葉は普段の若桐からは到底聞けるものではなかった。
酒というのはこんなにも人の本質というものをさらけ出すものであるのだろうか。水と変わらないように思える。
これが人間のみならず仙人にも効果があるというのだから花雪には驚きであった。
もしかしたら、範もこのようになるのだろうかと思う。
視線に気がついた範は若桐が執拗にくっついて来ようとするのを留める。
別に嫌がっているわけではない。
ただ、花雪がいる。
こういうものは人目をはばかるものである。誰彼構わず見せていいというものではない。節度、というものが大切なのだと示すようであった。
「わかっておる。お前がわしの唯一人であることは」
「でーしょー! なのにさーあー!」
ああ、と花雪は思う。
あれだけ昼間は雄々しくも女仙に対して言葉を放っていたのだが、やはり彼女も思うところはあったのだろう。
どうしてこんなに彼女が飲むお酒のペースが速いのか。
わかってしまった。
「お爺様、きっとお婆様は不安なのですね。そういう感情を得てしまったのですね」
「……そうさな。事情があるとはいえ、時に離れている時間が積み重なっていく、というのもまた事実であろう。それは夫婦という間柄に於いて歪み、取り返しの付かないものへと変わっていくものであろう」
今回の一件は、と範も反省するところがあったと頷く。
過ちを犯すことが悪なのではない。
過ちをそのままにしておくことが悪に成り代わるのだ。故に範は一つ頷く。
「若桐よ。どうかそのくらいにしておかぬか」
「いーやー! 本当に本当に昔っからわからないことばかりだったんだから!」
「何がです?」
「あ、これ。花雪。徒に聞くではない」
その言葉に花雪は首を傾げる。
知りたいと思ったのだ。若桐がどうしてこんなに不安に思っているのかを。その原因を取り除くためには、他ならぬ若桐の心の内を知らなければならない。
彼女の精神性というのは範が思う以上に成長している。
それを裏付けるように花雪はさりげなく若桐の手にしていた酒盃を取り上げていた。
感心する。
「お婆様。何が分からないのですか。わからないことなど何処にありましょう」
「んー……だってさー。拾われた頃は本当に範ってば何を考えているのかわからなかったんだもの。それでもだよ? 修行先でもさー、やっぱり気になるんだよーどうしているんだろう。どこにいるんだろうってさー」
若桐は卓につっぷしながら赤い顔を頬ずりする。
誰がどう見ても『へべれけ』という状態であったことだろう。
「お爺様のことですか?」
「そうだよー気になったら止まらないじゃん。人を思うってことは止められないんだよ。止めようって思っても、制御ができないんだ。それが苦しくて苦しくて、でもそれがどうしようもなく好ましく思ってしまう。それが人を好きになるっていうことでしょー?」
「私にはわかりません。でも、それはとても良いことのように思えます」
若桐は花雪の鼻の頭を指でくりくりと押す。
花雪は目をしばたかせる。一体何をしているのだろうと不思議に思いながらも、取り上げた酒盃をこっそり範に卓の下から手渡す。
なるほど、こうして若桐の意識から酒を遠ざけようと言うのか。
だが、範にとって、それは誤った判断であろう。
「だからさーもうーさー! 当たって砕けろって思いだったわーけー! でもでもさ! 家と言って受入れられると嬉しいっていう以上に戸惑いも大きいの! わかる? 心がさびっくりしちゃうとひっくりかえっちゃうの!」
「はぁ……でも、嬉しいのですよね?」
「だからー心は一つじゃないんだよー。裏と表があるように、層になっているわけ。一つの層では大喜び、もう一つの層では不安と現実じゃないんじゃないかっていう恐れもあるわけ! だからー」
そのまま若桐の目が潤んでいく。
あ、と範は思っただろう。これは寝るタイミングであった。
花雪にはまだとても早い、それこそ聞かせてはならないような話題が飛び出す前に眠ってくれるとありがたいと思った。
「毛づくろいもさーいっぱい勉強したわけー。誰かのために何かをしたいって思うことは大切なことでしょーだっからー、範のーおひげーもー髪もー……」
こう! と若桐がおぼつかない手付きで空を切る。
ますます正体が危うくなってきていた。
というか、と花雪は思った。
「……話が、あっちこっちに飛んでいますね……?」
「酔っぱらいというのはそういうものだ。善く見ておくと良い。此処まで行くと若桐は……」
範の言葉通り、若桐はそれ以上言葉を紡ぐことはなかった。
突如電池が切れたように体が揺れると、ぴたりと動かなくなって、そのまま卓に突っ伏すように倒れ込む。
慌てて花雪が抱き起こすが、すでにその瞼は重く閉じられていた。
「……眠っておられます」
「だろな。どれ、わしが運んでおこう。花雪は片付けはもうよい。今日は休むといい」
「いえ、最後までちゃんとします。これも修行ですから。それに……」
「……?」
「お爺様とお婆様の馴れ初め、ちゃんと聞きたいですから。明日にでもまたちゃんとお尋ねしたいと思います」
「それはやめておいてやるといい」
本当に、と範疇は念押ししてなんとも云えない表情で笑むのだった――。
●そして
「ねえ……範……」
「なんだ。どうかしたのか」
「そりゃあ、どうかしているよ。そんなことより昨日の夜、僕、何か変なことは……」
していない、と若桐の言葉に範は言葉を返す。
彼女の不安は尤もであろう。
昨夜しこたま呑んだのはいいが、何か喋ったようで何を喋ったのかを思い出せていないのだから。
きっと今の彼女はよからぬことを口走ってしまったのではないかと不安に思っているのだろう。
「しとらんよ」
「よかったー……本当に。花雪に変な話していたらどうしようかと思ったよ。いやほんとうによかったー!」
「……わしとの馴れ初めは訥々と語っておった」
「してるじゃん! 変な話はしてるじゃん!!」
「おかしなことはしておらんではないか。それに、わしばかりがむず痒い思いをするのもまたどうかと思うのでな」
ならば、一蓮托生であると範は笑む。
「なんでそんなこというのさー! そういうのは誤魔化してくれたり、なかったことにしてくれたりするってもんじゃないのー!? もー!!」
「何故だ。わしらは夫婦なのだろう?」
ならば、恥も誇りも全て一緒だろうと範は言う。
その言葉に若桐は何もいえなくなってしまう。
頬が熱いと思う。
口を開けども声は出ぬ。
その光景を花雪はこっそり盗み見て、笑むのだ。あれもまた一つの人と人の繋がりと在り方なのだろう。
「きっとそうなのです――」
成功
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