Dendrobium
●解の果て
宝貝人形の『花雪』は多くを知る。多くを見てきた。
一言に封神武侠界と言っても、括りだけ見るのならば仙界と人界に分かれる。
桃源郷という括りもあるだろう。
そうした多くの分化した文化が混在する世界である。
ならばこそ、今己が居る場所は多くを知るにはうってつけの場所であったことだろう。
特に若桐が構える店には特に。
宝貝の修理や調節を頼む仙人。
また宝貝を求める者。
はたまた宝貝そのものを買ってもらおうと訪れる者や材料を持ち込む者。
そこにあるのは理だった。
人も仙人も、それこそ瑞獣でろうと変わらぬことであった。
求める者と求められる者がいる。
果たして自分はどちらであろうかと花雪は想うのだ。求める者だろうか。それとも求められる者だろうか。
少なくとも己がお婆様と呼ぶ人、『若桐』は求められる者であるだろう。
先日も彼女に執心の仙人がいた。
「お婆様、あの……」
帳簿を付けていた花雪は少しわからない数字があったので、店先にいる若桐へと教えを乞おうと奥から出てこようとしていた。
「範様の軛を抜いて貰えないかしら」
その言葉の主を花雪は知らなかった。
一言でいうのならば華美。そう表現するのに値する女仙であった。
だが、言葉は美しいとは言い難かった。響く言葉の玲瓏たる声は麗しいと言えるけれど、その真芯にある感情の色がよくない。
そんな風に花雪は思う。
「どういうことだい。麗しき女仙ともあろう方が、そんな言葉を使うなんて。軛、と君は言ったね」
若桐が応対している。
その言葉の意味を花雪はわからなかった。思わず隠れてしまった。盗み聞きのようになってしまっていたらどうしようかと思ったが、どうにも女仙が喧嘩腰なのだ。
自分は若桐よりもよほど弱いと思える。
彼女のほうが強いとも思える。だから、余計なおせっかいかもしれないけれど、女仙が若桐に何かしようというのならば、身を挺するつもりだたt。
「言葉通りよ。軛、と表現したのは貴女。範様にとって、貴女はそういうものでしょう? 情でもって繋ぎ止めて、そばに留め続けている」
嫌だわ、と口元を覆う仕草をして見せる女仙。
嗤っているのだとわかる。
自らの美しさを知っているからこそ出る言葉だっただろう。
「それは範が共に居たいと思ってくれるからじゃあないかな。それじゃあ、理由にはならないかい?」
「ええ、高潔にして高貴。確かにそれを求める者は多いでしょう。それこそ誘蛾灯に群がる羽虫と同じような」
「僕のことを羽虫と?」
「ええ、その佇まい、所作。どれをとっても粗野。あの方という光に誘われただけでしかないという自覚は……ないようね? そうでなければ、その堂々たる佇まいは理解できるところではないもの」
花雪はあまりの言葉に思考がまとまらなかった。
どうして此処まで悪辣に若桐が言われなければならないのだ。
思わず駆け出そうとして、目の前で扉が閉じる。
何故、と思えば若桐がそっと手で締めたのだ。明らかに自分の姿を女仙に見せないつもりだ。
「……どうして」
「いいかい。一つだけ教えておこう。確かに……」
「貴女から教わる事は何一つないわ。いいかしら。貴人の手元にあってこそ玉は輝く。
教えるのは私。玉座に座る卑しき者を誰が王と讃えるかしら。玉座とは貴人たる者が座ってこそ王として讃えられるもの。おわかり?」
己のこそが範という玉を持つにふさわしいと言っているのだ。
それがどうにも許しがたいことだった。
戸を閉じた若桐には悪いが、花雪はもう我慢がならなかった。蹴破ってでも飛び出そうとした瞬間、若桐の声が響く。
「範は! アンタを飾る玉なんかじゃあない!!」
その一声に女仙は面食らったようだった。
それまでの理知的な声色は消え失せていた。明らかな怒り。それも自らに対する侮蔑に怒りを覚えたのではない。
範を玉に例えたことに怒りを覚えていた。
だが、同時に花雪は思った。
自らのことに怒れぬ者がどうして誰かのために怒ることができるだろうか。
そういう意味では若桐は二重の意味で怒りを覚えていた。
若桐は花雪も知らぬ範のことを知っているだろう。
多くのことを知っている。
花雪と同じ様に彼に拾われたからこそである。女仙の言う範の高潔さというものがあるのだとして、それは確かに存在するものであろう。褒め称えられるべきものであろう。
けれど、その奥にあるものを知っている。
玉とは癒えぬ傷ついた跡があることも知っている。
それを暴くことだ。女仙の言うことは。
だからこそ、怒り、一声でもって制したのだ。それは間違いであると。
「な、何を……」
「いいかい。範が範であることを変えることができるのはアンタじゃあない。僕でもない。それができるのは範だけだ。僕は、選ばれた。早いもの勝ちじゃあない。僕がいいと選んだ。それが!」
若桐の視線がまっすぐに女仙を射抜く。
その剣幕に。
その気迫に。
花雪は感嘆の声を漏らす。これが愛というのならば、何たる苛烈なことだろうかと思うのだ。
これほどの激情が源泉にあってこそ燃え上がると表現されるのだと彼女は知る。
●珍しいこと
「あーもーあーもー!」
若桐は珍しくたくさんお酒を飲んでいた。
花雪も範も、もうそろそろと窘めても聞かなかった。浴びるように、と言うのならば今の彼女のことをいうのだろう。
酒器を片付けようとしてもかじりつくようにして離れないのだ。酒気帯びた息を吐き出しながら若桐は昼間のことをどうしても反芻してしまって仕方ないのだろう。
「……これは」
きっと何かがあったに違いないと範は花雪に耳打ちする。
その言葉に花雪は昼間のことを報告すると範はなんとも言えない表情を浮かべる。
「人の情というのはわからぬものだな」
「そう、ですか?」
二人が顔を見合わせているのを若桐が見つけて、花雪を呼ぶ。
なんというか、いつもと立場が逆転しているように思える。そういう若桐の姿も花雪はどうしてか可愛いと思えてしまうのだ。
はいはい、と花雪が若桐に近づくと抱きつかれたり頬ずりされたりしてもうてんやわんやである。
その二人を見やり範は苦笑いするしかなかった。
「今日はもう遅い。泊まっていくと良い」
「えーじゃーもっと飲もう! ねー!」
「お婆様、飲み過ぎは体に毒です。薬と言い張ってもダメですよ。過ぎればお薬も毒でありましょう? そう教えてくださったではないですか」
「えー!」
「そういうことだ。大人しく言うことを聞いていた方がいい」
範は少し考える。
人も仙人も変わらぬことだ。
俗世を断ち切ったつもりであっても、どうしてか柵というものは生まれる。軛と人の感情を呼ぶ者もいる。
楔と呼ぶ者もいるだろう。
絆と呼ぶ者もいるだろう。
どれもが正しく、どれもが正しくない。
この理解を誰が正しいと肯定できるだろうか。
それが出来るのは己に湧き上がった感情だけであろう。ならば、範はニ頭のグリフォンを呼び立て、上質な紙の上に筆を走らせる。
さらさらと紡がれる言葉は、流麗にして精緻。
理路整然とした文が人の感情を否定するものであったとしても。それでも己の中にある感情こそが唯一、己が肯定できるものである。
だから、と一つ綴るのだ。
明確な拒絶を。
「これだけ?」
「もっと言ったら?」
「徒に人の心を傷つけるものではないよ」
それで十分だと範は夜空を見上げる――。
成功
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