Anemone Coronaria
●招かれざる客
その日は少し周囲の空気が違っているように思えた。
少なくとも宝貝人形である『花雪』にはそう感じることができた。日課の修行を重ね、自らの成長を振り返る。
残身の後、己の背後に気配を感じ花雪は振り返る。
その時、己が気配を感じたのではなく、悟らされたのだと理解する。
「やあ」
其処に居たのは年若い青年のような仙人であった。
「修行に精が出るようだね。関心なことだ。成長、という意味では君は見込めぬ躯体であろうが、しかし、君は今成長を感じているね」
その仙人のことを花雪は知らなかった。
若桐の店で時折働いているから、人には慣れたと思っていたのだが、青年のぐいぐい来る態度にたじたじであった。
「あ、あの……?」
戸惑いのほうが大きい。
自分の事は自分がよくわかっている。
「自分の事は自分がよくわかっている、と思っているだろう。わかるよ」
頬が熱くなる思いであった。
心の内側を読まれているようでもあった。その様子に青年は笑って見せる。
「わかるよ。誰もが通ってきた道だ。誰もが仙人として修行するのならば、必ず通る道だ。己の心の形を知ろうとすればするほどにわからなくなる。己の心の形は己のものだからよくわかると錯覚してしまうんだ」
彼の言葉は花雪には難しいと感じるものだった。
全ての言葉が図星と呼べるものであった。
彼の言う通りであったことだろう。
人は自らの心さえも正しく把握できていない。正しく知っているという者がいたのならば、それは欺瞞でしかない。
「よく、わかりません」
「いいんだ。だが、それもまた心の成長を示すものだ。未熟であることを恥じるのは当然かも知れないが、それは伸びしろがあるということだ。君はゆっくりと成長していけばいい。成長するということを知っているのだから」
その言葉を紡いだ青年の顔がにわかに固くなる。
それまでにこやかだった彼の表情とは思えないものだった。花雪が振り返ると其処に居たのは、厳・範(老當益壮・f32809)であった。
「我が孫娘に御高説痛み入る。されど、それはこの子が自ずと知ることであって、他者から教わるものではない。見くびってもらっては困るな。この子は示されずとも、己で知ることのできる賢い子だ」
範の言葉に花雪は戸惑うばかりだった。
静かな言葉であったが、青年の仙人との間にはただならぬ空気が流れているようであった。
拱手でもって青年は一礼し、言葉をかわさず立ち去ろうとする。
その耳元に届くように彼は花雪に言ったのだ。
「若いお父さんの方がよくないか」
「それって、どういうことです……?」
花雪が振り返った時、既に其処には青年の仙人の姿はなかった。桃の花びらだけが散っていた――。
●憤慨
またある日。
若桐の店を訪れた花雪は珍しく怒ったような声色の声が外まで響いていることに驚いた。
「あーっ! もう!! しつこい男は嫌われるって言葉知らないのかな!」
間違いない。
若桐の声だ。彼女がどうしてか怒っているようだった。そして、彼女が憤慨したように睨みつけているのは、客であろう若い青年の仙人だった。
その時初めて花雪は気がつく。
自身が範の元で修行をしていた時に話しかけてきた仙人の青年だった。
そして、若桐の元で手伝いをしていた時に見かけたことのある青年でもあったのだ。
「僕は範一筋だっていうのに!」
「ですが、私の方が貴女を幸せにすることができる。あの方はたしかに高潔でありましょう。ですが、魚が清廉であるばかりの水で生きられぬように、貴女という女性もまたそうでありましょう」
「範の良さを一番知っているのは、僕だし!!」
まるで悪口になっていないとばかりに若桐が憤慨しきりであった。
その様子に花雪は驚いてしまった。
あの青年の仙人は若桐のいうところの悪い虫というものであったのだと理解する。なんだかとてもドキドキする光景であったように思える。
若桐はきっと青年の仙人に求愛されているのだろうと、流石の花雪も理解する。
あれ、でも若桐は範の妻である。
ならば、それは道ならぬ恋ではないのだろうか。誰かと契りを交わした女性に焦がれるというのは正道ではないように思える。
そして、それは己の心の在り方を誰しもが人は知れぬということを説いた彼の言葉を如実に表すものであった。
「それが人の心……」
自らでは制御できないもの。制御できていると思っているのならば、それは過ちである。
散り散りになるほどの激しい衝撃が花雪の心を揺さぶることだろう。
これが、そうなのだと理解したのだ。
自らにも宿っている。
たしかに心がある。
今まさに目の前で広げられている若桐と青年の仙人。自分から見るとふたりとも立派な仙人であるように思える。
けれど、時にこのような激情を秘めているのだと知る。
それが心なのだ。形なきものに形を見ようとする行い。まるで水鏡だと花雪は思っただろう――。
●またある日
あれから数日経った。
あの青年の仙人はどうしているだろうか。今も若桐のことを思っているのだろうか。
そう思えば、なんとも切ないものである。
焦がれる者は誰かの者。
そして、正道より外れた行いであると知りながらも、止めようのない恋慕。
だが、その思索は打ち切られる。
範の元に彼がやってきていたからだ。
「お手合わせ頂きたい。いえ、違いますな。これは」
「……よかろう。だが、一つ約定を」
範が青年の仙人と相対している。その瞳に宿るのは如何なる色かを花雪は知らなかっただろう。
静かな声色だった。
怒るでもなく、憤るでもない。ただ静かな声色だった。
余裕がある、というわけでもなく。冷静であるというわけでもなく。
「なんでしょう」
「負けたのならば……若桐と花雪に付き纏うのはやめてもらおうか。君もわしと同じく道行く者」
「良いでしょう。私が勝ったのならば!」
踏み込む。
激突する宝貝の輝き。
それは、ともすれば瑞獣にのみまばゆいばかりの力を放出する宝貝であった。けれど、それを範はなんなく躱す。
実力が違いすぎる。
「いいや、違うとも。君の心は今乱れている。だからであろう」
「私の巧夫が足りぬと……!?」
「いいや、力十全にして精強である。しかし、強いばかりの力にどれほどの意味があろうか」
範が目にも止まらぬ速度で青年を大地に組み伏せる。
一瞬であった。
「では、なんと」
「強き力には優しさが必要であろう。いつかの誰かの言葉であるのかを問うことに意味はない。君もいずれ知るであろう。故に」
「……」
組み伏せられた青年と範が拱手でもって互いに礼を尽くす。
その光景を花雪は不思議なものを見る思いであっただろう。二人の間にあったのは如何なる事柄であったのか。
けれど、自分が理解できずとも二人の間にはたしかに理解があった。
交わした約定は正しく護られる。
それ以来、彼の姿を見ることはなかった。それを敗れた、と取ることを花雪はできなかった。
「あれは喪ったというより……得たのでしょう、か」
わからない。
その理解の正しさを誰も肯定はしてくれないだろうし、できないだろう。
もしも、それを肯定することができる者がいるのだとすれば、それは。
「きっと私なのでしょう。私が感じた事は私にしか肯定できない。故に私は」
此処にあるのだと花雪は、散る恋の花が風に舞う空を見上げるのだった――。
成功
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