Lagenaria siceraria
●錯誤
「ええええっ!?」
その驚愕の声は宝貝人形『花雪』のものだった。
ニ頭のグリフォンはビクッと体を震わせていたし、厳・範(老當益壮・f32809)は己の妻である若桐と顔を見合わせていた。
「やー! てっきりもう伝わっているとばかり思ってたし、説明されているとも思っていたんだけれど」
「わしはすでにお前が説明しているものとばかり思っていたのだ」
二人の様子に花雪はなんと言って良いかわからなかった。
開いた口が塞がらないとか、そんな具合であった。
そう、二人は夫婦であった。
だが、花雪が今まで認識に齟齬を抱いていた理由がわかる。範の見目は白髪に蓄えられた顎髭からお世辞にも若々しいとはいえない。
対する若桐は齢三十と言われても、ピンと来ないほどに若々しい。
どう考えても夫婦には思えなかったことだろう。
だから、花雪も混乱していたのだ。
「いやはやー」
「先に紹介しておくべきであったな。すまぬ」
「い、いえ、そんな……」
「まあまあ、言っていなかったことは仕方ないじゃない。今回のことでしっかりお互いのことがわかったということで!」
若桐が〆るように笑顔で言い放つ。
確かにこれ以上、この問題をつついても藪から蛇が出てくることもないだろう。
それにしたって、と若桐は微笑む。範も珍しく表情の片隅に笑みの形が残る。
笑っているのだと花雪は理解しただろう。
彼等が笑っている。
愉快そうに。
それがどうしようもなく彼女には心地よいものであるように思えた。きっと己の存在意義に戦う以外の何かがあるというのならば、きっと彼等の笑顔を見るために生まれてきたのだとさえ思えた――。
●その後に
それからというものの花雪は若桐の元で暮らす。
そのうちになんとなく彼女にも理解できてきた。そう、二人が夫婦なのにどうして離れて暮らしているのかを。
「お店とお家が一緒になっているから、なんですね」
花雪の言葉に若桐がうなずく。
彼女のライフワークとも言うべき宝貝の作成と研究。多くの仙界、人界の材料を取り扱う。そのためには工房たる家と、それを求める客を受け付ける店が必要となる。
そして、それらが離れていては何かと不便なのだ。
「それだけじゃあないけどね! ほら、範ってば、猟兵でしょ。ユーベルコードでいろんな生き物をとにかく呼び出すじゃあない?」
「ええ、胡蝶、ベンガルヤマネコ、スズメバチ、サメ、雀……」
あとそれからチベタン・マスティフに……と花雪が続けようとして若桐が手で制する。
いいから、もうわかっているから、と彼女は苦笑いをしている。
「ともかく、そういう生き物がたくさんいるとさ、人に慣れていない子もいるわけでしょう? 人とあまり近づかない方がいい子もいるわけ」
「そうですね。スズメバチに至っては、人のほうが恐れるでしょうから……」
「そういうこと。恐れることは別に悪いことじゃあないよ。正しく恐れるのならね。この生き物は危険だから近づかないようにって身構えることができる。けれど」
そう、けれど。
誤った恐れは恐慌を引き起こす。
人は過ちを起こす生き物だ。誰しもに過ちは起こり得る。
だから、と若桐は言う。
「距離が近しいからこそ起こる悲劇というものもあるんだよ」
「でも……離れて暮らすのは」
「そうなんだよねー!」
若桐は笑む。
どこまでも明るい笑顔だった。夫婦が事情があるにせよ離れて暮らしているということは、歓迎すべきことではないだろう。
だから、と花雪は言葉を紡ぐ。
「ま、長年夫婦やっているし!」
範ならば、『適度に離れていたほうが良いだろう』と言うだろう。
それがわかるからこそ花雪は、そういうものかと納得する。
「そうそう。それにこれからは僕のことはお婆様とお呼びよ!」
「えええ!? それこそ悪いです! 若桐さんは、まだどう見たってお若い……」
そんな人にお婆様なんて呼ぶ方が間違っているような気がする。
それに彼女自身も嫌ではないのか。
「えー、だって範のことはお爺様って呼んでいるんだろう? なら、お婆様じゃないとおかしいじゃない! ほら、僕らは夫婦なんだし。花雪、君とも家族なんだから」
何もおかしいことじゃない、と彼女が言うのを花雪はなんともいえない気持ちになる。
「ほらほら、はーりーはりー! 呼んでみてよ! それにね、これは悪いことばかりじゃあないんだよ! 悪い虫が逃げていくし!」
なんだそれは、と花雪は思った。
悪い虫?
「ね、ほーら、呼んで呼んで、お婆様ってよーんーでー!」
そんなふうにして乞う若桐は見た目以上に若々しく思えてしまう。
花雪は慌てながらもきっと、呼ばなければ終わらないだろうと理解する。自分が呼ぶまでずっと作業の手は止めてしまうだろうし、これでは仕事にならない。
折角メンテナンスと様子見のためにこうして若桐の元にいるのだから、何か手伝いたいと思っていたのだ。これでは逆に足を引っ張ってしまう。
役に立たないと思われたくない。
でも、ちょっと恥ずかしい。
なんて言って良いのかわからない。
だから花雪は遠慮するように若桐を見上げる。
おずおずと。
遠慮がちに。
花雪は唇を開く。
「お婆様……」
「――!」
その言葉に若桐は花雪の体をぎゅっと抱きしめる。
強い力だった。けれど、花雪は自分の体が壊れないことを知っている。壊れそうと思ったのはきっと自分の心の問題であろう。
壊れそうなほどに嬉しさが込み上げてくる。
言葉にできない。
けれど、それ以上に若桐の反応はわかりやすかった。
「あー!」
叫んでいた。
ええ、と花雪は思ったが、叫んでいた。
「あー! うちの孫娘本当にかわいいなぁ! かわいいなぁ! かーわーいーいー!!」
叫び倒していた。
ものすごい声量だった。耳がキンキンする。
それでも花雪は嬉しかったのだろう。自然と手が若桐の背中に回される。
得難きものが今自分の手のうちにあると知るからこそ、そっと。力を込めずに触れるように。
この気持ちは他の何ものにも代えがたい。
「お婆様……」
静かに、ただ静かに花雪は母を慕う思いを理解するのだった。
●撃沈
花雪はそれから宝貝を機能停止させる機械の影響やメンテナンスを受ける傍ら、若桐の店を手伝っていた。
最初は物珍しさが勝る丁稚のように来客の者たちは思っていた。
「今日も精が出ますな」
「やー、おかげさまでー! あ、花雪、お茶はだいじょぶ」
「はい」
お茶を、と来客に用意しようとして若桐に止められる。
「お茶くらい出してくださっても良いのでは? 若桐さんにお会いできる私の楽しみなのですから」
来客の人物は若桐の言葉に残念そうな顔をする。
「忙しいんでしょー! のんびり油売っている暇なんて無いでしょって気を使ったつもりなんだけどなー? ねー、花雪」
「ええ……ええと、はい、その……お婆様」
その言葉に来客が目を丸くする。
え、え、と来客は花雪のように二人の顔を見比べている。
確かに、と花雪は思った。
どう考えてもおかしい呼び名であることはわかっている。けれど、そう呼んだほうが若桐が喜ぶのだ。
そして、花雪は理解する。
悪い虫の意味を。
目の前の彼がそうなのだろう。いや、彼だけではないはずだ。
若桐の風体を見ればわかる。
だからこそ、花雪は自分の言葉が若桐の店に訪れる男性客の殆どの心を撃沈させたのだとちょっぴり戦慄するのだった――。
成功
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