Spring Ephemera
●出奔
多くのことが嫌になったわけではない。
ただ一つ自分のことだけが嫌になったのだ。戦いにおいて花雪は厳・範(老當益壮・f32809)の足枷になる。
自分の不甲斐なさというものに嫌気がさしたのだ。
だが、それで不貞腐れていられるほど彼女は不真面目でもなけったし、また上昇志向がないわけでではなかった。
「そうです。こんな自分を変えるために私は!」
思い立ったのならば、すぐさま行動する。
彼女の気質は見目とは裏腹に活発そのものであったことだろう。
力が足りていないのならば修行をすれば良いのである。
彼女を拾ってくれた範に報いるためには片時も時間を無駄にはしていられないのだ。
「修行……そう、修行です! こんな時は修行をしなければ!」
とはいえ、範に迷惑はかけれられない。
彼の手を煩わせることこそ彼女が厭うものであったからだ。
ならば、自ら一人で出奔するしか無い。
こうしてはいられなかった。思い立ったら行動しなければ居ても経ってもいられない。すぐさま自らの荷物をまとめる。
もっと彼女が経験を積んでいたのならば、ここで物音を立てないだとか、悟られないように行動するだとかしたところであたことだろう。
だが、そうはならなかったのである。
荷物をまとめて、いざ修行の旅へ! と意気込んだところに二頭のグリフォンが立ちふさがる。
白と黒のグリフォン。
翼持つ獣。
その名を花雪は知っている。
阳白と阴黒。
共に範と戦う力強き獣たちである。
「……どいてください。私は修行に……」
立ちふさがる彼等を押しのけようとした瞬間だった。
「自分たちも修行、いく!」
「ついてく!」
響き渡る声。
それは玲瓏なる声色であった。どこまでも透き通るような声。美しい声であったと云うべきだろうか。
それが花雪の耳に溶けるように届く。
花雪は目を見開く。
それまで二頭を押しのけようとしていた体が固まっていた。表情も固まっていた。
そんな彼女に二頭は首を傾げる。
どうしたのだろうか。いつもの雪花ならば強引に押しのけてでも、とするところである。
「花雪、どうしたの?」
阳白がもう一度声を投げかける。
ややあって、阳黒は気がつく。
「あっ」
「どうしたの?」
「たしか自分たち、花雪の前で」
瞬間、悲鳴が響き渡る。
ものすごい声量であった。こっそりと出奔しようとしていたことなど忘れたかのような叫び声。
「きゃああああ!? 喋ったああああ!?」
あー、と阳白は理解した。
どうして、花雪があんなに固まっていたのかを。
「自分たち人の言葉で喋ったことなかったんだよ、花雪の前では」
「忘れてた」
二頭は至極冷静であった。これまで『ピィ』とか『クエ』とかそんな感じでしか鳴いていなかったからだ。
花雪のパニックに陥った顔を二頭は、どうしたものかなって思った。
落ち着かせようにも言葉を紡げばまた混乱させてしまうかもしれない。
けれど、彼女はどうにも二頭の声二聞き覚えがあった。
毎夜寝る前に聞く歌声。
素敵な歌声であり、誰が歌っているのだろうと外に出れば途絶えてしまう歌声。何処からともなく聞こえてきた歌の声を彼女は覚えているのだ。
「えっ、もしかして! もしかして! もしかして!?」
あれは二頭の歌声だったのかと思い当たる節が在りすぎてもう無理マジしんどいとUDCアースの年頃の女学生が使うような言葉でもって彼女の感情がほとばしる。
思っていたのだ。
きれいな歌声であり、あんなふうに歌えることができたのならと。
「そう。自分たち!」
「聞いてたんだ!」
二頭も驚いていた。
いつもこっそり歌っていたから、誰も気がついていないだろうと。
だが、花雪は気がついていたのだ。
それも重度のファンの様相を呈している。憧れた歌声の主が目の前に居る。それもこんなに近くに! 本当にマジムリしんどい無理ってなるのもわからんでもないことである。
「ええええ!? ま、まって、まってください。理解が及びません。一体全体どういう。これは夢ですか? 夢じゃない? 現実?」
「現実」
「落ち着いて!」
そんな風に一人と二頭は大騒ぎである。
二頭は二頭でなんだかとても気恥ずかしい気持ちだった。花雪がこんなにもわちゃわちゃしているのを初めて見たからだ。
なんだかわからないけれど、悪くは思っていないことだけはわかる。
でも、と二頭は思った。
静かにしないと……。
「これ、なにをしておる」
範にバレてしまうという。
雪花と二頭の背後からおじいこと範が現われる。
声が大きかったから、ではない。彼の術を彼女たちが出し抜けるわけではないのだ。
「夜中に騒々しい。近所迷惑というものを考えるのだ」
「うぅ……」
こうして花雪の最初の出奔は自らの悲鳴で持って始まる前から終わってしまうのだが、思いがけぬ出会いが彼女の心に温かなものをもたらしたことは、怪我の功名と言うべきか――。
成功
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