Galanthus nivalis
●バース
もしも、生まれた日を自分自身が決めることができるのならば、きっと自身はその日を境に己に成ったのだと定めるだろう。
振り返れば、其処に有るのは轍。
己という存在を刻み込むのが人生であるというのならば、器物たる己が刻む軌跡は如何なる名を以て世界に示すべきであっただろうか。
追憶の、あの日を想う。
今日という日と同じように雪が舞い散る曇天を見上げていた。
あの日と今日という日を隔てるものがなんであるのかを、あの日の私は知らない。
けれど、今という日を生きる私は確かに知っている。
それがなんであるのかをはっきりと答えることができる。
「■■――」
呼ぶ声が聞こえる。
ああ、と息を吐き出すように声を漏らす。
もっとはっきりと声に出来たら良かったけれど、あの日を思い出して喉が締め付けられるよであったから。
●ギフト
厳・範(老當益壮・f32809)は世界を巡る。
それは自身が猟兵として覚醒したからではない。今は亡き親友との約束があったからこそであることを彼は片時も忘れることはなかった。
瑞獣であるから、と理由をつけることは簡単であったが、それを彼はしなかった。
そうすることで、どうしてか約束が異なるものに変わるような気がしてならなかったからだ。
人の言葉は時に人の心を縛る。
他者が縛ることもあれば、自身が自縄自縛に陥ることもある。
故に彼は、その約束を約束のままにしているのだ。
「それにしても面妖なことであるな。終焉を破壊する者たちの居た世界であるからか? 桃の花の季節のはずであるが、如何にしてか雪が舞い散っている」
範の瞳に映るのは桃の香弁のみずみずしさと凍えるような冷たい空気が運ぶ雪だった。
もはや春に差し掛かろうというのに珍しいこともあるものだと彼は己が居た封神武侠界を想う。
仙界であれば一年中桃の花が咲き誇るものであるが、此処はどうやらそうではないらしい。
だからこそ、珍しいこともあったのだと思ったのだ。
そんな彼に随伴するように雪積もる大地を踏みしめる二匹の獣の首がピクリと動く。
白い毛並みと金の瞳をもつ『阳白』と黒い毛並みと銀の瞳を持つ『阴黒』。
二匹はグリフォンと呼ばれる生物である。
まるで何かに反応しているようでもあったが、それは余人が感じたことであり、二匹の主である範にはすでに何に反応を示しているのかを判別しているようでもあった。
「そなたらが反応するということは……」
小さく鳴く二匹に範は即座に雪を蹴って走り出す。
彼の瞳がユーベルコードに輝き、その掌から胡蝶を呼び出す。
その小さな蝶はゆっくりと雪が降り注ぐ中、範を導くように宙を飛ぶ。
「か細き声……弱っている、とも取れるが……」
どうしたことかと範は胡蝶に導かれるままに走る。次第に音らしきものが聞き取れるようになってきていた。
だが、周囲を見回しても其処に広がっているのは雪原の如き銀化粧のみ。
いや、違う、と範が理解した時、胡蝶が雪原の一点に止まる。
「た……け……」
小さな声。
雪が降りしきるがゆえに声をかき消していたのだろう。
その声の下へと範は駆け寄り、雪を払う。
確かに少女の声だと思った。
払った先に見える顔は真白。
抱き上げた身体はあまりにも冷たかった。いや、冷たすぎる。まるで陶器に触れているかのような感覚さえ覚えるのだ。
開かれた瞳は瞬く一つしておらず、つるりとした瞳の輝きは雪原にありて吸い込まれるような美しさを持っていた。
何れにしても人の業による造形ではないと範は知る。
これは。
「――……!」
見開かれた瞳にあるのは知性。
されど、知性があるがゆえに目の前に広がる光景を理解しがたかったのだろう。
範は人の姿をしていれど、瑞獣たる証たる四脚。
そして、共するグリフォンは鷲と獅子をかけ合わせた怪物の如き姿。
雪に埋まっていた少女に取って、其れは奇異を通り越した超常であった。故に彼女の頭を占めるのは混乱ばかりだったことだろう。
暴れる身体が跳ねて、蹴り上がった脚が範の背中を打ち付ける。
振るった手は二匹のグリフォンの頬や嘴を叩く。
「ピッ!?」
「落ち着くのだ。何も貴殿を傷つけるものはない。無論、わしもだ」
けれど、少女は落ち着くどころか余計に身を捩るようにして身体を揺さぶる。どう考えても少女の力ではない。
いや、それどころか、人間の形をしているものの、関節の動きが明らかにおかしい。
どうなっているのだと範が見やれば、そこにあったのは球体関節であった。
「……貴殿は」
「いやっ!!」
振るう拳が範の頬を叩き、血が唇の端から溢れる。
痛みはどうってことはなかった。
目の前にある恐らく傷つけられてきたであろう少女のことを慮れば、己の頬に響いた痛みなど些細なことであった。
「落ち着くのだ。貴殿の気が立っているというのならば、存分に発散するがいい」
打ち付けられる手足。
そして響くグリフォンの鳴き声は、歌声にも似た旋律に変わる。
それは人の心を落ち着かせる穏やかな旋律。
徐々に暴れる手足の力が弱まってくるのを感じ、範は少女を膝の上に載せて一つ頷く。
「わた、し……なんて、ことを」
少女が手を伸ばすのは範の腫れた頬であった。
自身が付けた傷であると理解できる程度には落ち着いているのだろう。
彼女は変わらぬ顔色のままに瞼を何度も瞬かせ、しきりに頭を垂れるのだ。
「良い。気にするな。女人に礼無く触れたのだから」
「ありがと……ございます」
自身が疲弊していながらも傷つけた相手を気遣える心根があることを範は、それで見極めた。
心根というのは最も見え難いものである。
仙界で修行をした彼ですらそうなのだ。人の心の奥底を見ることは難しい。けれど、相対するものが己の心を開くのならば話は別だ。
眼の前の少女……球体関節人形の如き器物の開かれた心の扉から垣間見た心根は善良であると範は理解したのである。
「だがしかし、如何がしたか。故郷への標は」
頭を振る少女。
そこにあったのは頑なな意志であった。
戻りたくない。
故郷というものがあれど、戻りたくないという意志を感じれば、彼女がこれまで歩んできた道筋が如何なるものであるかが理解出来ようというものである。
筆舌に尽くしがたいことがあったのだろう。
「もどりたく……ありません。わたし、は……」
ボロ布のような身なりを恥じるように少女は俯く。その姿を見て、二匹のグリフォンが小さく鳴く。
わかっているとも、と範は一つ頷く。
連れ立って歩くのを厭う理由もない。
共する二匹もいるのだ。今更一人加わった所で、という思いもあった。
「ならば、共に往こう。ああ、最も大切なことを忘れておった。貴殿、名はなんと――?」
●デイズ
あの日、私には名前がなかった。
意味有る名前があったのかもしれないが、それきっと私自身が好まざる理由で付けられたものであったことだろう。
けれど、あの人は掲げた掌にひらひらと落ちてきた二つを手にとって私に微笑んでくれた。
「桃花雪の今日に会ったのだ。『花雪』、と名付けよう」
それが私の名前だ。
人は生まれて名前を持つ。
そうして己というものを自覚し、他者を知り、また一つ自身を取り巻く世界を知ることになる。
「大切な。大切な日」
今日という日と同じように雪が舞う。
それに遊ぶように桃の花が舞い散る。
掌にある二つを『花雪』は見つめる。これが私の名前。そして、私が二度目の生を受けた日。
「西洋ではバースデイ、というそうだな。生まれた日。生誕日。数多ある世界にあっても生命が産まれた日というのは、いつだって貴いものだ」
範が、己が主が見上げて言う。
彼は覚えていてくれているのだろう。
自身と出会った日のことを。自身が生まれた日のことを。
「そんな日であるが手合わせを所望というのは、些か生真面目が過ぎるのではないか」
「いいえ、私も共する者。なれば、鍛錬を積み、常傲ることなく心身を鍛えるのは当然のことかと。如何に特別な日、と言われましても。それは変わることはないかと」
「やれやれ……一体誰に似たことなのだろうか」
範は仕方ない、というように腰を上げる。
薄く笑っているのは愉快だからだろうか。そうであったらいい。
『花雪』は自身の道程を振り返る。
決して、人に告げることのできない日々があった。
どうしようもなく薄暗く、惨めな日々もあった。けれど、それらがあったからこそ今がある。なかったことにはできない。
例え、己の背後から過去が迫るのだとしても。
それでも見なかったことにはできない。
自分という存在が此処にある、ということを示すのならば己の先にある光が生み出す影法師は、より恐ろしく強大なものとなるだろう。
それらが襲ってきた時、自らの心で律することができたのならば。
「ほんとうの意味で貴方様に報いる事ができた時でありましょうから」
だから、と拳を合わせる。
自身の身体は熱を灯さぬ宝貝人形。
されど、あの日、あの時、あの花と雪とが舞い散る空の下で得た燈火は絶えることなく我が身に宿っている。
ならばこそ、彼女は桃色の髪を揺らし、その瞳をもって範を映し出す。
己が追わなければならない背にして、報いねばならぬ背。
故に、彼女は想う。
今日という日に。
バースデイズに明日を想う――。
成功
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